迷い

5月も終わりに近いというのに、涼しい日が続きます。朝夕はとくに涼しく、時に毛布が欲しいと思うほど。でも、天気が良い日には、リビングに暖かい日差しがおりてきて、その中にねそべるテンちゃんも、とても気持ちよさそう。ここへ来てすぐのころは、まだどこか知らないところ、というかんじで落ち着かない様子でしたが、最近はすっかりこの家に馴染んで、リラックスしているようです。

さて、昨日、書こうと思っていたことが、息切れしてしまい途中でやめてしまったので、あらためて続けたいと思います。

このところ、何か深刻な問題ごとがあると、今自分に起こっていることは、どういう意味があるのだろう、と考える癖がついてしまっています。また、あまり気にするほどでもないことでも、これは何か意味があるのかな、とついつい思ったりします。

たとえばどこかへ外出する用事ができたとします。けれども、どうしてもその日はそこへ行くのが気が進まない、ということがありませんか? そうした時、無理してそこへ行くよりも、きっと気が進まないのは何か理由があるからだ、とまず考えてしまうのです。そういう時に限って、その日は行った先で大きな渋滞に巻き込まれたり、電車で人身事故があって、帰りが遅れたり、ということがあります。

このように、何か気が進まない、というあまり論理的でない理由で迷ったことの理由が、あとでわかったりするということが、みなさんにも時々あるのではないでしょうか。

迷ったら、即行動! という人も多いかもしれませんが、私は自身は、外出に限らず、何か買い物をするときでも、どうも気が進まない、迷ってしまう、というときは、なるべくその行為をいったんやめてもう一度自分の心に聞いてみる、ということをよくやります。

それでも、どうしても行かなくてはいけない、という大事な用事のときには、やはり外出しますが、そのときは、その迷ったということ自体を覚えておくようにしています。そして、その結果として起こったことが良しにつけ、悪しきにつけ、あとで反芻してみるのです。そうすると、出かける前に迷ったその意味がわかったりします。

このような小さなことだけでなく、もっと大きいこと、人生を送る上での重要な事項について決断を下すときなどにはなおさら、本当にそれが正しいことなのか、と判断に迷い、なかなか決断を下せない、ということは誰しもによくあることです。

たとえば、今回の伊豆への移住の前、長野県や山梨のあちこちで、血眼になって移住先探しをしていましたが、最終的に長野のある物件をみつけ、契約直前までいきました。しかし、契約書にサインする直前になって、タエさんが、頭痛がする、と言い出しました。わたし自身も、何かはっきりした理由はないのですが、ひっかかるものがあり、そうしたところ、たまたまですが、二人で広島へ帰郷する機会がありました。広島にあるタエさんの実家の売却の件で、買主さんが会いたい、と言ってこられたのです。

広島には、かねてより親交のある霊能者のSさんがいらっしゃいます。そこでタエさんが、急なことで申し訳ないが、相談に乗ってもらえる時間があるか、と連絡をとったところ、たまたま、1時間ほどならば時間が取れるというお返事が返ってきました。Sさんはこうした相談ごとや、テレビの仕事なども持っていらっしゃるなど、多忙な方なので、我々の思いつきで連絡を取って、お会いできるとは正直思っていませんでした。それが、すんなりと面会できた、というのも、あとで考えると、「お導き」だったのかな、と思います。

そして、お会いしたSさんのこの件に関しての回答は、二人をはっとさせるようなものでした。

その長野の物件を探す前までには、相当な数の不動産を見て、探していた二人。移住先さがしにもそろそろうんざりしていたところに現れたその物件は、金額的にも立地的にも妥当なように思えました。が、私自身、少し気に入らない点もあるけれど、ここいらで妥協しよう、という気になっており、あとで聞いた話では、タエさんも、ムシャ君も疲れているようだし、気になる点もあるけれど、そろそろ折り合いをつけようと思っていた、ということでした。

そして、Sさん曰く、その物件を決めるにあたって、何か自分たちを納得させようさせよう納得させようとしていませんか? 家と土地はとてもいいものなのだけれども、今のお二人の「気」とはあっていない。そのまま住み続けると、家の気に二人の気が飲み込まれてしまうだろう、とおっしゃいます。

さらに、その家に住むと、一家離散の可能性もある。もし本当に住むのなら、近所の神社などにもお参りし、十分なお供えをしたほうが良い、とも言われました。

そして、その物件をあきらめ、再び家さがしの旅に出・・・というくだりは、過去のブログにも書きましたね。詳しいことは、そちらをご覧ください・・・

結果として、長野の物件に住むことをやめてしまったので、Sさんのご指摘が正しかったかどうかは、わかりません。しかし、やめようと思ったのは、自分を納得させようとしている、というSさんのご指摘が、ずばりこの問題の核心をついていたためであり、その時ふたりとももう一度、心から、そこに住みたい、と思う家を探そうと思ったのも、そのご指摘が正しいと思ったためです。

自分の心のありのままの行動をとった、ということで、納得もでき、その後、現在のこの家のような良い物件にも見つかり、やはり、あの決断は正しかった、と今は思います。しかし、あのとき、タエさんの頭が痛くなったり、たまたま広島へ行く機会ができ、Sさんのスケジュールが空いていたいりと、何か、誰かにしくまれたような、そんな気がするのです。

人には、みんな守護霊さんがついていて、そういう方がその人に対して、常にメッセージを送ってくれているといいます。今にして思えば、もしかしたら、このときの出来事も守護霊さんがそうなるように仕向けてくれたのかも。家を買う、という人生の中でも最大級の「事件」であるだけに、守護霊さんも、ここでこそその能力発揮、ということで、最大限のサポートをしてくれた、そういうふうにも思えるのです。

Sさんによると、私自身にも守護霊さんがいて、一番よく見えるのが、江戸時代ころの庄屋様のような人だそうです。ほかにもきりりとしたお顔だちの老齢のご婦人も見えるそうで、このほか亡くなった父親も私についてくれていて、いろんな手助けをしてくれているとのこと。タエさんにも亡くなったお母さんのほか、女性の守護霊さんなどがついていてくれている・・・我々の守護霊さんのことについては、また長くなりそうなので、またの機会に書きましょう。

さて、自分自身は、こうしたい、こうありたい、と思っているのに、何かひっかかる、気になるというときには、もしかしたら、守護霊さんが何かささやいているからかもしれません。

守護霊などは信じない、という人でも、私がふだんやっているように、何か行動を起こすときに迷ったら、その迷ったこと自体を覚えておき、結果として生じた出来事とその迷いとの因果関係を洞察してみることは、自分自身を知る上でもよいことではないでしょうか。

実はその迷いこそが、守護霊さんからの大事なメッセージだったりするのですが・・・

 沼津 牛臥海岸にて