前世の記憶

東京を離れて2か月半が過ぎました。不思議なほど、昔住んでいた町のことは思い出しませんが、意識して町並みを思い出そうとすると、長年住んだ町の映像が次々と脳裏に浮かんできます。同様に、さらにその前に住んでいた町のことや、訪れた海外の風景、子供のころに小学校や中学校に通った道、などなど思い出そうとすれば、そこにはやはり懐かしい風景があり、いくらでも思い出すことができます。

なのになぜ、人は現在生きている世界の前に住んでいたはずの世界、そう、前世のことを簡単に思い出すことができないのでしょうか。そもそも前世などない、と考えるならば、当然のこと、思い出すこともないのでしょう。しかし、スピリチュアル的な観点からみれば、前世はある、とされています。何度も何度も生まれ変わり、その都度、何等かの経験を積み、学び、そして足りないものをもう一度補うために生まれ変わってくる・・・そう信じています。

では、なぜ過去生についての記憶がないのか・・・・・それに対する答えのひとつは、それは、現世においていろいろなことを学ぶ上において、過去生の記憶が邪魔になるから、というものです。たとえば、前世で人を殺したことがある人が、そのことを現世で覚えていたら、現世ではそのことに対する罪悪感から、まともな人生を送れないでしょう。逆に前世では大金持、すべて順風満帆の幸せな人生を送った人はなぜ生まれてくる必要があるのか。それは、前世では学びえなかった人生の苦しみを新しい人生で学ぶ必要があるから。生まれ変わった新しい人生では、前世が豊かであればあったほど、現世での貧しい生活がみじめになるから・・・

現世に生まれてくるときには、そうした、よきにつけ、悪しきにつけ、前世の記憶が現世を生き、学ぶ上で邪魔になるため、それらの記憶はすべて消されて生まれてくるのだ・・・そう聞かされています。

自分では、こうした議論は至極妥当なものと考えていて、最近ではとくに輪廻転生の議論などいまさら、というふうに思っています。時にテレビなどで前世のあるなしの議論を偉い先生方がやっているのをみても、あーあ、またやってるよ、と思うほど。また、心霊現象を扱う番組も夏場などにはよく放送されます。これについても、死後の世界があり、そこから再び生まれ変わってくるならば、世にいう、幽霊もいてあたりまえじゃないか、と思います。以前は、こうした番組を興味半分のみで見ていましたが、現在でも興味をもってそういう番組をみていても、以前とはまた違う観点からこうした番組を見ている自分に気がつきます。

たとえば、いかにも恐ろしげな形相の幽霊の写真などが、バラエティ番組などで放映されると、その番組に居合わせたタレントさんから、一斉にキャーッという悲鳴があがります。確かに手や足、顔などの一部しか写っていなかったり、いかにも苦悶の表情の幽霊さんが写った写真などは、非常にめずらしいものには違いありません。そうした未知のものに対する畏怖のようなものは誰しもが持っていて、そうした気持ちが怖い、と感じさせるから悲鳴を上げるのでしょう。

でも考えてみれば、この世に生きているひとだって、おそろしい形相で何かに取り組んでいる瞬間があるはずだし、重い病気で苦しんでいるひとが苦悶の表情をみせるのもあたりまえです。死後の世界では、多くの場合、そうした苦しみや苦悶はなくなるといいますが、そのなくなる過程の浄化されていない過程の幽霊さんは、現世に限りなく近いところにいて、時に我々の近くで死ぬ前のそうした姿を見せる・・・と聞いたことがあります。

霊にも上級な霊と下級な霊がいるそうで、まだ学びの足りない霊はより上級の霊になるために、あちらの世界でもいろいろ学び、そして必要ならば、現世にまた生まれかわってくるといいます。亡くなったあとにまだ浄化されていなくて、上のほうに登っていけない霊は、ときに「幽霊」さんとして、現世の私たちの前にあらわれ、ときとして何等かのメッセージを送っている場合もあるらしい。

現生においても、崇高な精神を持った人と、下劣な考えしかもてない人、それぞれいるではありませんか。自分の考えに自信が持てない人は、自分以外の人に頼りがちなもの、あちらの世界でも同じ、とすれば、現世で何等かの理由でもがき苦しんだ人が、あの世からこちらの世界にメッセージを送って、何か手助けを求めている。そう考えると、心霊写真のイメージも少し変わってくるように思います。

もっとも、そのメッセージを悪いようにとらえて、すわ、悪霊が自分にとりついている、と考えるのは早計です。無論、悪い念を持った霊もいて、現世にいる人に禍(わざわい)をもたらそうとしている場合もないとはいえないようですが、テレビで放映されているような心霊写真のすべてがそうかというと、そうではないように思います。

要は、幽霊は怖い、というふうに思う固定観念を捨て、どういう霊なんだろう、と冷静に観察できるようになれば、しめたものです。もし、自分が写った写真に何か霊のようなものが写っていたら、単にこわがるだけでなく、最近自分自身に何か変化はないか、もしかしたら、その変化に対しての霊界からの何等かのメッセージではないか、と考えてみるとよいのでは。

幽霊論議になりそうなので、この辺でやめますが、話をもとにもどすと、このように霊の世界、すなわち死後の世界はある、という観点に立つならば、人生で起こることもこれまでとは違った観点からみることができるようになると思います。

前世の記憶は生まれてくるとき、完全に消されているとはいいつつ、何かの拍子に思い出す、ということもあるようです。これまでまったくやったこともないことが、いきなりできてしまったり、あれ、俺、なんでこんなことを知っているんだろう、というような出来事は、すべて前世で学んだことがあるからだ、といいます。

過去世において学んだことを教訓に、今世ではさらに何を学ぶべきなのか、と考えたとき、今まさに自分の身の周りに起こっていることの意味がわかったりすることもあるかもしれません。

以前、このブログでも少し書いた、ワイス博士という方は、「前世療法」という著書で、そうした過去生を思い出すことで、その人が現生でかかえていた悩みや問題点が解決した、という症例をたくさん書かれています。前世がなにで、どういうことが課題だったかを知るということは、大きな意味があるようです。

今日のところは、この辺でやめますが、私自身の前世と今世の意味についても、また今度あらためて書いてみたいと思います。

みなさんも、自分の過去世に思いを馳せ、今の人生の意味をいろいろ考えてみてはいかがでしょうか。