今日は、昨日に引き続き、北条氏について書いていこうと思います。
史料として残っている北条家の家系図では、その始祖は、平直方(たいらのなおかた)と呼ばれる武家貴族になっています(969年~1053年)。平安時代中期に活躍した人で、本拠は鎌倉を本拠とする坂東平氏です。同じ坂東武士である、平忠常が東国で乱を起こしたとき(平忠常の乱、1028年)朝廷から、追討使を命じられるほどの剛の者であったとされます。
平直方の子孫のひとりである、時方が朝廷から伊豆介を拝命し、伊豆国北条郷(現静岡県伊豆の国市)に在庁官人として赴任。その後ここに土着し、北条氏を名乗り始めたといいます。
この北条郷というのは、現在北条館の跡が残っている韮山にある守山という丘の近くだと思われますが、全く同じ場所なのか、別のところかどうかはよくわかっていないようです。
北条の「条」とは、郡・郷よりさらに小さい規模の領域を示す単位であり、東国の有力武士集団で「郡」以上の規模を持った土俗集団の名前として残っているのは、三浦、千葉、小山、秩父などがあり、どれも同じ名前を関東各地に残しているところをみると、積極的に領土拡大を図っていたと考えられます。しかし、北条という名前はこの伊豆以外にはみられないことから、領土を拡大できるような余裕のある強大な武士集団だったとは考えにくそうです。
このころに、伊豆の東側で勢力を誇っていた伊東氏は、頼朝が挙兵したときに、北条氏の十倍以上の兵力を持っていたといいますから、伊豆におけるその他の武士集団と比べても北条氏のその規模は中級クラスであったのでしょう。
とはいえ、代々、都で一定の官位を有していて、伊豆国の在庁官人に任ぜられ、「伊豆介」を務めており、通称では「北条介」と呼ばれていたようです。他の介級の家柄と並んで関東の八介ともいわれたといいますから、武力はないものの、それなりの権威は持っていたと考えてよさそうです。ちなみに、介は、国の行政官として中央から任じられた国司(こくし、くにのつかさ)であり、四等官である守(かみ)、介(すけ)、掾(じょう)、目(さかん)等のうちのひとつです。
「守」は、通常皇族クラスの家人が任じられ、中央政府で力を持っている親王がなりますが、この当時、都は源氏や平氏などの武士が勢力を伸ばしており、平清盛の例にもみられるように、かなり高い官位を得るようになっています。しかし、北条のような地方武士でしかも中規模の武士集団が、「介」より上の官位が得られるほど、武士はまだ台頭していない時代です。
北条時政が歴史に登場してくるのは、源頼朝が蛭ヶ小島に配流されたころからですが、このころの、国司、伊豆守は、「源仲綱」という人物で、そのお父さんは、源頼政。頼政は、平家と源氏の内紛ともいわれる、保元の乱、平治の乱では、勝者の側に属し、戦後は平氏政権下で源氏の長老として中央政界に留まりました。平清盛から信頼され、晩年には武士としては破格の従三位に昇ったといいますから、その子の仲綱も平家を助けた源氏、ということで伊豆守を賜ったのでしょう。
平治の乱の後に、乱の首謀者、源義朝の三男であった源頼朝は、伊豆の国、蛭ヶ小島へ配流となりましたが、この時期に同じ源氏の仲綱が伊豆守になったというのは、何等かの政治的配慮だったのかもしれません。
伊豆という国が成立したのは、律令法によって駿河・伊豆・遠江の三国が成立した701年からのこと。その国を治める国司は、国衙(こくが・国司が地方政治を遂行する政務機関の役所群の総称。このうち、国司が儀式や政治を行う施設を国庁(政庁)という)において政務に当たり、祭祀・行政・司法・軍事のすべてを司り、管内では絶大な権限を持っていました。伊豆の国の国衙は、今の三島大社の近くにあったのではないか、という説が強いようですが、はっきりそれとわかる遺跡はまだみつかっていないようです。
国司の任期は当初は6年(のちに4年)だったそうで、この当時の伊豆は、罪人が送られる遠流の対象地でした。伊豆国には、伊豆諸島が含まれており、隠岐・佐渡と並んでこの当時辺境の島国であると考えられていました。伊豆半島はその入り口とされ、罪人が逃げ出さないように監視するための重要な場所です。
そんな場所に、その当時もっとも問題視されていた源氏の政治犯(頼朝のこと)が流され、その国司に同じ源氏の一族を登用したというのはどういう意味を持つのでしょうか。おそらく、平家および中央政府は、そのころ平治の乱に敗れて旗色の悪かった源氏に対し、自らの一族を監視させ、もし裏切ったなら、源氏全体に責任を負わせるぞ、というけん制の意味合いを込めたのではないか、と推察します。
閑話休題です。どうも、すぐに脇に流れてしまう傾向があります。
ともかく、時政時代にもうすでに官位を貰っていた北条家は、武力は小さかったものの、都との強いつながりを持っていた豪族であったに違いありません。時政以前の系譜は謎に包まれているようですが、その後、頼朝との結びつきにより鎌倉幕府の中枢に座ったのちには、朝廷と頼朝を結びつける重要な役割をしていることなども考えると、時政以前の世代から朝廷の中に誰か有力なつてを持っていたのかもしれません。歴史家の中にも、幕府内での世渡りの良さに鑑みるに、京都と極めて密接な関係にあったのではないかと考える人も多いようです。
歴史書には、時政のお父さんである、時方が朝廷から初めて伊豆介を拝命したという記述がみられるようですので、この時方が、朝廷の中に有力なつてを持っていたと考えられるのですが、残念ながら、それが誰なのかを示す資料は何も残っていないようです。
その子、北条時政ですら、歴史に登場するのは40歳を越えてからのこと。そのときはまだ「時政」とは自称しておらず、ただ「北条四郎」と名乗っていたそうです。介はもとより、何の官位も持っていなかったらしいことから、北条家の中でもあまり認められた存在ではなかったのかもしれません。
その実際のところはどうなのか、続きはまた明日以降にしたいと思います