昨日は暑かったですね。山の上の我が家ですら、日中の最高気温は30度を超えました。さすがに山を下ってどこかへ行く気にもなれず、日がな先日行った韮山の歴史探訪の写真などを整理していました。
それにしてもこの上天気。九州地方では大雨が降っているというのに何なのでしょう。夕方までには空の雲がすっかり取り払われ、富士山の上には笠雲がかかっています。夜空を見上げると、澄み切った空気の中、満天の星も見えました。
気象庁の発表はまだないようですが、おそらく…… 梅雨は明けたのでしょう。
さて、昨日の続きです。
昨日は、足利政知が、鎌倉公方になるべく、京都から鎌倉に向かう途中、伊豆に足止めを食ったところまでを書きました。鎌倉府で争っていた公方の足利成氏と管領の上杉方が和睦してしまったため、新公方として、鎌倉に入ることもできず、結局、そのまま伊豆にとどまることになったのです。
政知は、結局は伊豆一国のみを支配する代官としてその一生を終えることになるのですが、側室との間に茶々丸という一子を設けます。そして、正室として円の満院という人を妻にし、潤童子(じゅんどうじ)と清晃という二人の子をもうけます。
政知は、当初、茶々丸を嫡男にしようとしていました。ところが、足利家の執事の上杉政憲という人は、政知を諌め、茶々丸の廃嫡をするよう強く求めましたが聞き入れられず、自害させられたといいます。当主から嫡男にすると指定されていたのにもかかわらず、その一家の執事からも愛想をつかされたわけです。このことからも、茶々丸という人がどんな性格だったのかわかるような気がします。
この茶々丸、大きくなるにつれて、粗暴な行為が目につくようになったといいます。どの程度の悪童だったのかは、よくわかりませんが、あまりにも素行不良、ということで政知の命により土牢に軟禁されています。自分の子を牢に入れるほどですから、もしかしたら家来の誰かをあやめたり、けがをさせたりするような、とんでもないことをやったに違いありません。
長じてからもどんどん粗暴になっていく茶々丸をみて、ついに政知は、茶々丸に跡を継がすのをあきらめ、異母弟の、潤童子を跡継ぎにしようとします。一説には、潤童子のお母さんの円満院が政知に讒言したためであるともいいますが、円満院にすれば、継子よりも実子のほうがかわいかったのでしょう。いずれにせよ、お父さんにもお母さんにも嫌われてしまった茶々丸。どのくらい閉じ込められていたのか記録には残っていないようですが、その後も悶々と牢屋の中でその青春期を過ごします。
ところが、政知はその後継者をはっきりと指名しないまま、1491年に病を得て、死んでしまいます。足利家という名門に生まれ、公方にしてやると幕府から言われて鎌倉まで来たものの、とうとう鎌倉に入ることもできず、その昔は流罪地であった伊豆という辺境地で死に瀕したとき、どんな思いだったでしょうか。
政知が死んだあと、継母の円満院は、より一層茶々丸を虐待したといいます。粗暴な性格だったからということで、しょうがないといえば、しょうがないのですが、どんなひどいいじめをしていたものやら。おそらく食事や衣服も満足に与えず、たまに牢の外に出してやるといったこともせず、といった具合だったのでしょう。ついに、茶々丸はそのいじめに耐えかね、ある夜、牢番を殺して脱獄します。
そして、その足で、その頃、堀越公方に就任することに決まっていた弟の、潤童子と円満院が住む館へ行き、二人を惨殺するという暴挙に出るのです。
ここのところ、すごいと思うのは、牢番に続いて継母とはいえ、お母さんと血のつながった弟を殺している点です。どんな殺害のしかたをしたのかわかりませんが、血なまぐさい殺人鬼の臭いがします。
とはいえ、茶々丸の側からみれば、自分を牢屋に入れて苦しめた父が死に、ようやくチャンスが巡ってきたと思ったところへ、今度は継母から虐待され、一生を牢屋で過ごすのかと、絶望的な気持ちになっていたことでしょう。いじめられた仕返しができるだけでなく、うまくいけば公方になることができる。そのためには、たとえ血がつながっているとはいえ、弟でさえその憎き母親と一緒に殺してしまえばいい、そう思ったに違いありません。
こうして、茶々丸は思い通りに事を運び、周囲も名門足利家の血をひく茶々丸を冠に頂くことをあえて拒まなかったためか、すんなりと堀越公方に就任します。それまでの人生をリセットし、伊豆の主としての新しい人生をスタートさせたのです。ところが、こういう悪いヤツには、結局は悪い運しかめぐってこないもの。因果応報というヤツです。
そのころ、新興勢力である茶々丸をリーダーとしてその下に付いた部下たちの中には、茶々丸を祭り上げ、古い勢力である代々の家老や重臣を追い落とすことで、御所内の主導権を握ろうとする勢力がありました。そして茶々丸の耳に、彼らの悪口をあることないこと入れ始めるのです。
これを信じた茶々丸。若くして公方になったのですから、もともと判断能力はなく、周囲の大人たちの讒言を聞いてもそれが真実でないと看破できなかったのでしょう。その提案をすんなりと受け入れ、さっそく筆頭家老で韮山城主だった、秋山新蔵人などの重臣を次々と誅するなど、古い勢力の粛清をはじめます。
本人はこれで伊豆は自分のものになる、と思ったでしょうが、やはりこういう悪政は続かないもの。それまで家を盛り立てていた忠臣をことごとく殺してしまった結果、堀越御所の運営はすぐに立ち行かなくなります。そして旧臣たちの支持を失い、茶々丸の配下の新興勢力との間で争いが起き、伊豆国内はあちこちで内紛がおこるようになります。
ちょうどそのころのこと。時の関東管領で、事実上の最高実力者、「細川政元」が突然、10代将軍義材(後に義稙)を追放してしまいます。世にいう、明応の政変です(1493年)。
関東管領として、こうした伊豆の情勢を把握していた細川政元は、政知のもうひとりの息子、そう、あの茶々丸に殺された潤童子の下の弟、清晃を室町将軍に擁立しようと画策します。清晃は、「せいこう」と読むのでしょうか、その昔政知が、茶々丸を嫡男として指名したときに出家して、京都の天龍寺香厳院というお寺を継いでいました。
茶々丸により母と兄が惨殺されたのを聞いて、苦々しく思っていた清晃ですから、時の実力者、細川政元の提案を喜んで受け入れ、還俗して将軍の座に就き、足利義遐(よしとお)を名乗る(後に義澄・よしずみ)ようになります。こうして、権力の座についた、義遐に母と兄を殺した茶々丸を討つチャンスが巡ってくるのです。
そして、その敵討ちを、そのころ、今川家の有力武将になっていた、北条早雲へ命じる、という形をとります。伊豆の国への進出を狙っていた早雲にとっては、願ってもないチャンス。公に伊豆へ侵攻するとための、大義名分を得たわけで、早速この命を受けます。このころ、北条早雲は駿府の今川氏の配下にある有能な武将であり、今川家の内紛を自ら治めて興国寺城主(現沼津市)となっていました。
そして、伊豆韮山の堀越御所の主である、茶々丸への攻撃を開始します。1493年の秋、興国寺城を拠点として北条早雲が、伊豆に攻め入ると、伊豆各地の武士たちはむしろこれを歓迎します。そのころはもう伊豆の国の諸将は、茶々丸のことを、新将軍・義澄の母(円満院)を殺した反逆者であると見なしており、茶々丸に組みするよりも新将軍方に付いたほうが得、と思ったのでしょう。茶々丸の配下の中でも、歴代の忠臣を殺してきた茶々丸に人望はなく、そうした配下を引き連れて臨んだ北条早雲との戦いでは、敗戦に次ぎ敗戦を重ねます。
そして、韮山の守山に築いてあった城に籠城するものの、北条勢に攻めたてられ、城はあえなく陥落。その炎の仲、とうとう自刃して果てた、と言われています。前述したとおり、実際に、願成就院のお堂の背後に茶々丸の墓とされる石塔があるので、本当にここで落命した、というのが長い間の通説でした。
しかし、実際には、守山で死んだとされる1493年(1491年という説もある)よりもあとの、1495年に北条早雲によって伊豆国から追放され、鎌倉の上杉氏や甲斐の武田氏を頼って伊豆奪回を狙っていたらしい、ということが近年の研究で明らかとなりつつあるのだそうです。
結局のところ、それから5年もあとの、1498年に、北条早雲の追っ手につかまり、自害した、という説が最近発掘された新資料によって有力だと考えられているようで、その場所は甲斐国だったとも、伊豆の下田にあった深根城とも言われています。
さらに、「妙法寺記」という古文書では、堀越御所が陥落したという1493年から2年後の1495年に茶々丸が「島」へ落ち延び、やがて武蔵国に姿を見せ、さらに1496年には富士山へ参拝のため登山したと書いてあるとか。
「島」は伊豆大島なのか、また富士山に参拝したというのですが、それほど自由の身だったのかよくわかりません。それにしても、各地にこうした伝承を残していることから、守山での攻防戦ではからくも生き延び、他国で虎視眈々と挽回を狙っていた、というのはほんとうのような気がします。
死んだと思っていたのが実は生きながらえて別の国で死んだ、という話は、頼朝に攻め滅ぼされて死んだ源義経が実は大陸に渡って生き続けていた、という伝説をほうふつさせます。しかし、茶々丸の場合、生きていたこと自体が喜ばしいというかんじではなく、なにやらゾンビが復活した、というようなどうしても悪いイメージがわいてきてしまいます。
いずれにせよ、1498年までには茶々丸は亡くなっているようです。しかし、他国で死んだかもしれない茶々丸の墓が、なぜ伊豆にあるのか、しかも北条氏の氏寺の願成就院にあるのかはなぞです。
その墓のある願成就院は、北条早雲が伊豆へ乱入してきたときに全焼しているということです。しかし、本堂などは焼け落ちてしまったものの、墓所などは残っていたと考えられことから、かつて堀越御所で茶々丸に仕えた部下の誰かが、他国で死んだ茶々丸のお骨だけ持って帰り、それを御所近くのこのお寺の隅にひっそりと埋葬したのかもしれません。
戦乱の世が生んだ夜叉のような人物でしたが、彼がいたからこそ北条早雲によって関東統一がなされたのであり、北条早雲がいなければ関東はその後も長い間騒乱の渦に巻き込まれ続けていただろうことを思うと、けっしてその生が無駄だったとばかりもいえません。
いつの世のどんな人にも意味のない人生はない。今日も改めてそう思ってしまいました。