昨日、梅雨の合間の晴れ間を利用して、韮山に散在する北条氏ゆかりの史跡を探訪してきました。そのひとつ、願成就院(がんじょうじゅいん)は、北条政子の父親で鎌倉幕府初代執権であった北条時政が、娘婿の源頼朝の奥州平泉討伐の戦勝祈願のため建立したそうです。しかし、奥州征伐の戦勝祈願のためというよりは、北条氏の氏寺として創建されたらしく、願成就院のすぐ裏手の「守山」という、北条氏の館跡のある丘のすぐ麓にあります。
韮山駅から徒歩10分ほどのこのお寺、さすがに古さを感じさせますが、1189年に建てられたあと、1493年の伊勢新九郎(後北条の北条早雲)の「伊豆討ち入り」のときにほぼ全焼したそうです。しかし江戸時代に北条の末裔、北条氏貞が再建したそうで、現在の本堂や境内のつくりは、ほぼ創建当時のものとか。
この日は、日中の最高気温が30度を超える、暑い日でした。近くのスーパーにクルマを止め、守山を目標に新興住宅街の中を汗だくだくになって5分ほど歩きましたが、見えてきたお寺のある場所は、守山のすぐ麓のわりと静かな場所。北条氏の古刹と言われなければわからないほど地味なつくりです。はっきりいってそれほどメジャーな観光地ではないはずですが、今、NHKで放映されている大河ドラマ、「平清盛」によって、「平安時代ブーム」にあるせいか、三連休の中日だということもあって、観光客の姿もちらほら。
門を入ってすぐ左手。わりと目立つところに、北条氏の開祖ともいわれる時政のお墓が据えられていました。さすがに立派なお墓で、高さ2mほどの塔があり、これを中心にして周囲に灯篭らしいものが建てられ、立てた石で周囲が囲われ、きれいに掃除してあります。北条氏の他の人のお墓もあったのかもしれませんが、とくに案内板もなかったところをみると、北条早雲による動乱以後、時政本人以外の親族の埋葬は行われなかったのかもしれません。
本堂の左手奥、境内のかなり奥まったところには、先日のブログ、「狩野城」でも紹介した足利将軍家の一族、足利茶々丸のお墓もありました。北条氏の氏寺になぜ、足利家の人のお墓があるのか、そのいきさつはよくわかりませんが、お墓が置かれた場所も一等地とはいえないような、奥まったひっそりとしたところであるのをみると、そこにお墓があること自体、あまり歓迎されていないようなかんじ。それもそのはず、改めて人物像をみてみると、あまり感心できるような一生を送ったとはいえません。
ここで、「狩野城」で書いたことをもう一度おさらいしておきましょう。
時は、応仁・文明の大乱で京の街が焼き尽くされ、戦乱が地方に飛び火してゆく時代です。伊豆国も平和ではいられず、やがては戦乱の世に入ろうとしており、次々と血なまぐさい事件が起こりはじめる、室町時代も末期のころのこと。
そのころ、鎌倉にあって室町幕府の関東統治長官であった「関東公方」を代々司る足利家は、その執事ともいえる「関東管領」を司る上杉氏とは、鎌倉府やその他の関東の所領の治め方をめぐって激しい対立を引き起こしていました。この双方の確執はやがて武力による動乱に発展していき、それに連動して伊豆の武士と駿河の今川家、北条早雲連合の勢力が四つ巴の争いを展開する複雑な情勢が生まれていました。そして、その情勢を一層複雑にし、やがては関東一円に広がる戦国時代に発展させる火付け役になったのが、本日の主役の足利茶々丸です。
足利茶々丸(ちゃちゃまる)は、8代将軍、足利義政の異母兄である、「足利政知」の子どもで、11代将軍・足利義澄の兄にあたる人です。生誕はいつかよくわかっていません。没年についても、1491年説や1493年説などいろいろあり、後述するように、最近の調査によれば1498年に没したというのが定説のようです。いずれにせよ、かなり若くして亡くなっており、おそらくは10代の後半か、20代のかなり早い時期に没したと思われます。
「茶々丸」は幼名で、正式な元服をする前に死去したため、成人としての実名である諱(いみな)は伝わっていません。普通は元服の儀式を持って名門、足利氏の一族のひとりとしてその名を天下に知らしめるべきところを、その元服を祝ってくれるはずの親に厭まれ、若くして非業の死を遂げたためです。
ことの発端は、1483年に起こった享徳の乱といわれる争いです。室町幕府の8代将軍、足利義政の時に起こったこの内乱は、鎌倉の政府出先機関の鎌倉公方、足利成氏がその補佐役である関東管領の上杉憲忠らを攻め殺した事に端を発し、両家だけでなく、幕府はもとより、伊豆や駿河の武士も巻き込んだ争いへと拡大していきます。
足利尊氏が関東を統治するために設置した鎌倉府は、尊氏の次男である足利基氏の子孫が世襲した鎌倉公方を筆頭に、上杉氏が代々務めた関東管領が補佐する体制でしたが、その政治手法をめぐって、次第に鎌倉公方は京都の幕府と対立しはじめるだけでなく、鎌倉公方と関東管領が対立するという内紛状態になっていました。そして起こるべくして起こったのが享徳の乱でした。
1455年、足利成氏は、憲忠を屋敷に招くとこれを謀殺。成氏の側近も、上杉邸を襲撃して憲忠の一番の部下、長尾実景などを殺害します。これに対して、上杉家の家宰(かさい・家長に代わって家政を取りしきる職責)であった長尾景仲は、上杉家の一族を率いて足利勢に対する反抗攻勢に出ます。この両者の戦いに、関東一円の武士たちがそれぞれの味方として参画して、関東地方は3年もの間、ほぼ全域が戦乱状態になります。
この戦い、そもそも京都の幕府と鎌倉公方である足方成氏とのいさかいに端を発しており、幕府は成氏をなんとか鎌倉から追い出したいと、関東管領の上杉氏に肩入れするとともに、駿河の今川氏も焚き付けて、何度も鎌倉を攻めます。
これに抗しきれず、成氏はいったん、古河城(現茨城県古河市)まで逃れ、この結果、関東地方は当時江戸湾に向かって流れていた利根川を境界に東側を古河公方(足利成氏)陣営が、西側を関東管領(上杉氏)陣営が支配する事となり、関東地方は事実上東西に分断されるようになります。その後も小競り合いを続けますが、このような両者がにらみ合い、こう着するような期間はその後も30年近くにわたって続くことになります。
この間、将軍足利義政は成氏に代る鎌倉公方として異母兄の「政知」を送りこむのですがが、成氏方の力が強く、政知は、鎌倉に入ることもできず、伊豆韮山の北条氏宅を本拠にするようになります。その後、同じ韮山で北条氏の居宅に近い堀越(ほりごえ)という場所に御所を作り、その後、堀越公方と呼ばれるようになります。
その後、1476年になって、上杉方では有力家臣の長尾景春が関東管領家の執事になれなかった不満のため挙兵するなどの内輪もめが発生しており、不穏な空気が流れていました。このとき、関東管領になっていた上杉顕定は、公方陣営との対立に加え、こうした内憂の発生に危機感をいだくようになり、1478年、長年の確執を捨て、足利成氏と和睦を成立させます。
これによって、宙に浮いた形になったのが、伊豆に長逗留していた足利政知。足利成氏と上杉方が和睦してしまったため、新鎌倉公方として、鎌倉に入ることもできず、京都に帰ることもできずで、結局、そのまま伊豆にとどまることになります。そして、結局は伊豆一国のみを支配する代官としてその一生を終えることになるのです。
この足利政知が側室に産ませた子が茶々丸です。この茶々丸、その後、とんでもない事件を起こし、伊豆を騒乱におとしめる人物になっていくのですが、今日のところは時間これまでにしたいと思います。続きはまた明日。