八島

せわしなく年の瀬が過ぎて行きます。

例年になく落ち着かない気分なのは、このあと予定している旅行のせいでもあります。

姪の結婚式のため広島方面に行くのですが、正直のところあまり気乗りがしません。これを姪が読んでいたら憤慨するかもしれませんが、親族としては一応のお役目を果たさねばという義務感が先行しています。

無論、かわいい姪っ子のため、という気持ちもあるのですが、それにしても、なんでこんな時期に…というのが本音ではあります。あちらもいろいろ忙しいようで、結婚式場の予約が入りやすいためこの時期になったのでしょうが、それにしてもクリスマス前とは…

そうでなくても旅行というものにはお金がかかるばかりではなく、時間と労力がかかります。ましてや多くの人との交流があるイベントでは気苦労という別の意味のプレッシャーがかかり、人前へ出ることが苦手な私にとってはできれることならば避けたいところです。

まあしかし、これも何かのお知らせかもしれません。人の流れが一番多くなる年末のこの時期に旅行をすることになったのは、あるいはこの時期ではなくてはならない何かの理由があるのでしょう。今となっては諦めてその時がくるのを粛々と待つ、というまな板の上のコイのような心境です。

ところで、ブログのネタにしようと、その結婚式についていろいろ調べていたところ、日本で一番最初の結婚式というのは、日本神話における伊邪那岐命(イザナギ)と伊邪那美命(イザナミ)の結婚式だといわれているようです。

「古事記」、「日本書紀」には、「オノゴロ島」なる島に天の御柱を建て、イザナギが「私と貴方と、この天之御柱を廻って結婚しましょう。貴方は右から廻り、私は左から廻り逢いましょう」という約束をし、出会ったところで「なんとまあ、かわいい娘だろう」「ほんとにまあ、いとしい方ですこと」と呼び合って結ばれたという描写があるとか。

少女マンガじゃあるまいし、なんともミーハーなエピソードですが、古代神話の世界というのはえてしてこんな漫画チックなもので、庶民の日常の素朴なエピソードを切り取ったものが多いようです。

結婚自体も男女が結ばれるという、しごく素朴な生活の営みに立脚したものです。その目的は、終生にわたる共同での生活を両者に約束させるための行事、すなわち「婚姻」を成立させることであり、その結果として子孫を確実に作ることができる下地ができるわけです。




このイザナギとイザナミの婚姻が行われたというオノゴロ島(又はオノコロ島)とは、「国生み神話」でも知られ、神々がつくり出した最初の島とされます。「古事記」では淤能碁呂島、「日本書紀」では磤馭慮島、とそれぞれ表記します。自凝島とも表記され、これは「自(おの)ずから凝り固まってできた島」の意味です。

オノゴロ島は、実在の島だという説と、いや神話の架空の島にすぎない、という説のふたつがあります。

実在するという伝承が残る地域は近畿地方が中心です。平安前期の古代諸氏族の系譜書である「新撰姓氏録」では、オノゴロ島は紀淡海峡(友ヶ島水道)に浮かぶ無人島群、友ヶ島の島々(和歌山県和歌山市加太に属する)との一説があります。

同じく平安前期に書かれた「新撰亀相記」と鎌倉後期成立の「釈日本紀」では、オノゴロ島の説明に「沼島」を当てており、明治時代に発行した地名事典である「大日本地名辞書」でも、「オノゴロ島を沼島と為すは至当の説なるべし」として、この沼島説を有力に見なしています。

沼島は「ぬしま」と読みます。淡路島の南4.6kmの紀伊水道北西部に浮かび、所属は兵庫県側の南あわじ市になります。

面積2.71km2、周囲9.53kmのこじんまりとした島で、淡路島の南海上4.6km先に位置しており、瀬戸内海国立公園の一部にもなっています。2017年4月末現在の人口は473人。江戸時代末期に漁業や海運業で最も栄え、1955年(昭和30年)頃までは人口2,500人ほどを擁していましたが、その後は人口流出が著しくなっています。

上空からみると勾玉(まがたま)の形をしており、北西側の真ん中に漁業中心の集落と沼島漁港があり、対岸の南あわじ市灘土生の土生(はぶ)港、 洲本市の洲本港との間を定期船で結ばれています。島内には信号機が存在せず、一部の工事用作業車や軽自動車を除き、島民は主に徒歩や自転車で移動するそうです。

1994年(平成6)に、1億年前の「地球のしわ」とされる「鞘型褶曲(さやがたしゅうきょく)」と言う、非常に珍しい岩石が発見された島として知られ、島の海岸線には奇岩や岩礁が多く見られます。

とくに、東南海岸には、矛先のような形をした高さ約30mの屹立する巨岩「上立神岩(かみたてがみいわ)」がそびえ立ち、神話の世界を思わせる象徴的な存在となっています。この上立神岩は、「天の御柱」とも言われ、イザナギノミコトとイザナミノミコトの2神が降り立ったと伝わっています。

沼島内の小高い山の上にある「おのころ神社」には、このイザナギノミコトとイザナミノミコトの2神を祀られており、地元では山全体が「おのころさん」と呼ばれ大切にされてきた神体山です。



その二人の神様の国創りの話はこんな風に始まります。

伊邪那岐(イザナギ)・伊邪那美(イザナミ)の二柱の神は、別天津神(ことあまつがみ)たちに漂っていた大地を完成させるよう命じられます。そのため、別天津神たちは天沼矛(あめのぬぼこ)を二神に与えました。そこで二人は、天浮橋(あめのうきはし)に立ち、天沼矛で渾沌とした大地をかき混ぜ始めます。

このとき、矛から滴り落ちたものが積もり、最初に淤能碁呂島(おのごろじま)ができました。二神は淤能碁呂島に降り、結婚しますが、そこで行われたのが上でも書いた漫画チックな婚姻です。

イザナギは左回りに、イザナミは右回りに天の御柱を巡り、出会った所でイザナミが「あなにやし、えをとこを」とイザナギを褒め、イザナギが「あなにやし、え娘子(をとめ)を」とイザナミを褒め、ここで二神は性交を行います。

しかし、女性であるイザナミの方から男性のイザナギを誘ったために、ちゃんとした子供が生まれませんでした。二神は、最初に産まれたこの子、水蛭子(ひるこ)を葦舟に乗せて流しました。そして別天津神のもとに赴き、なぜちゃんとした子供が生まれないのかを聞きました。

すると、占いによって、女から誘うのがよくなかったとされたため、といわれました。このため、二神は淤能碁呂島に戻り、今度は男性の伊邪那岐から誘って再び性交します。こうして次に生まれたのがアハシマ(淡路島)でした。ここからこの二神は、大八島、すなわち日本列島を構成する島々を生み出していきました。

産んだ島を順に記すと、淡路島、四国(伊予国、讃岐国、阿波国、土佐国)、隠岐島、九州(筑紫国、豊国、肥国、熊曽国)、壱岐島、対馬、佐渡島、大倭豊秋津島(本州)の順になります。

以上の八島を総称して大八島国(おおやしまのくに)といいますが、大八洲国、略で大八洲とも呼ばれます。日本神話においては八は聖数とされ、また漠然と数が大きいことを示すことにも用いられました。よって本来の意味は、「多くの島からなる国」です。

ちなみに、この中には北海道が含まれていません。イザナギ・イザナミの国産み神話が記された「古事記」や「日本書紀」が編纂された当時、北海道は、まだ日本の版図に組入れられていませんでした。

このため、北海道は大八洲に含まれず、天皇家に伝わった神話に北海道の国産みの話もありません。ただ、北海道の先住民であるアイヌの間には、これとは別に各部族に様々な国産み神話が伝わっており、天から降った神が、混沌の海から陸地を創ったという、イザナギ・イザナミの国産み神話に似た話もあります。

現在、八島 という呼称はほとんど死語になっています。が、明治時代にはまだ何かとよく使われていたようで、日本海軍が初めての近代的戦艦を持ったとき、その1隻に「八島」の名が冠せられました。

2艦建造された富士型戦艦の2番艦で、このころはまだ日本はこれほどの戦艦を建造する自前の技術がなく、イギリス・ニューキャッスルにあるアームストロング社に依頼して建造しました。

1896年(明治29年)2月進水。翌1897年(明治30年)に竣工、同年11月に横須賀到着、日本海軍はし、1万トン以上の戦艦を一等戦艦と定義し、この八島を含む該当4隻(富士、八島、朝日、敷島)を一等戦艦に類別しました。

1899年(明治32年)12月25日には、沼津御用邸滞在中の明治天皇皇太子(のち大正天皇)が、「八島」に乗艦しており、誉ある艦として海軍内でも一目置かれる存在でした。

竣工後7年目に日露戦争が勃発し、旅順口攻撃や旅順港閉塞作戦に参加しましたが、これが最初で最後の参戦でした。

旅順港閉鎖隊は、初瀬、八島、敷島、笠置、龍田で構成され、第一戦隊司令官梨羽時起中将(初瀬座乗)の指揮下に入りました。そして1904年(明治37年)5月15日、旅順港沖合を航行中、老鉄山沖でロシア海軍(敷設艦アムール)の敷設した機雷に触雷。

触雷は午前11時頃10分頃で、最初に触雷した「初瀬」の救援のため停止してボートを降ろしている最中でした。爆発は右舷後部ボイラー室で起こり、その1分後に水中発射管室で爆発、艦内に浸水し右に大きく傾斜。 このとき日本艦隊は触雷原因が機雷か潜水艦によるものか判断できずに大混乱に陥ったといいます。

「八島」では応急処置の後、自力航行により擱座を試みますが、刻々傾斜が増したため投錨。午後5時40分、曳航も断念されるに至ります。 坂本一大佐(八島艦長)は夜間になってからの退避で混乱する事を懸念し、総員退去を決定。午後6時30分、軍艦旗を降下し総員退艦。「八島」は夜8時半過ぎに転覆沈没しました。

同日に戦艦「初瀬」も沈没しており、日本海軍は当時保有していた主力戦艦6隻(富士、八島、敷島、朝日、初瀬、三笠)のうちの2隻を一挙に失うこととなり、また同日未明に巡洋艦「吉野」が沈没(味方艦春日との衝突による)、初瀬生存者・八島生存者を収容していた「龍田」も座礁、ということで、5月15日は日本海軍厄災の日となりました。

日本海軍は国民の動揺を恐れ、戦死者が無く、ロシア側にもこの事実が知られていなかった事から、日本海海戦の大戦果が確認できるまでこの八島沈没の事実を秘匿しました。

1905年(明治38年)6月1日、日本海軍は6隻(八島、暁、大島、速鳥、愛宕、高砂)の喪失を公表。 同年6月15日、八島は軍艦籍および艦艇類別等級表(軍艦及び水雷艇類別等級表)より除籍されました。



こうした災難にあったためか、その後日本海軍の艦艇に八島の名前を冠したものが登場することはなくなっています。しかし、姉妹艦として建造された「富士」は運用術練習艦、
定繋練習艦として使われ続け、1934年(昭和9年)に海軍航海学校が創設されると、航海学校保管艦として艦上に居住区施設や講堂を増設、浮き校舎となりました。

1939年(昭和14年)、海軍航海学校が海軍砲術学校の傍に移転すると、富士も繋留地を変更。その後、終戦直前の横須賀空襲により炎上し着底、戦後に解体されています。

以後、八島の名のつく艦艇は現在に至るまで登場していません。

「八島」のひとつとして最初に作られたという淡路島にあるおのころ神社(兵庫県南あわじ市(旧三原町))には、高さ約21.7の朱色の大鳥居がシンボルがあり、この鳥居は平安神宮及び厳島神社と並び「日本三大鳥居」の一つに数えられています。

2006年に辺見えみりが自身のブログの中で、木村祐一との交際が始まる以前に当社を参拝し、縁結びのお守りを購入していたことを明かしました。これが影響し、それまで1日に2、3人程度であった参拝客が10倍以上増加したといいます。ご存知のとおり、辺見えみりは、父は俳優で歌手の西郷輝彦、母は歌手の辺見マリです。

しかし、その後二人は離婚。えみりさんは2011年、以前より交際していた男性と再婚。2013年には第1子授かり、その後も第2子を授かっています。

一方の木村さんのほうも2012年に、女優の西方凌さんと自身4度目の入籍。昨年末に凌さんが第1子女児を出産しています。

それぞれの再婚によってまた日本人の子孫が増えたということで、経過はともかくめでたしめでたしかと。八島の名も忘れ去られつつありますが、NIPPONという名のもとにその後繁栄してきたこの国は、3年後には2度目の夏季オリンピックを開催します。

さて、わが姪夫婦の今後にはいかなる人生が待ち受けているでしょうか。