ヘダ ~旧戸田村(沼津市)

ここ10日ほど、空気の済んだ日が続いており、そのせいか、夜になると放射冷却現象で急激に冷え、昨夜は23度まで温度が下がりました。温度の低いせいか、夜になると秋の虫が一斉に鳴き始めます。コオロギもあちこちでみかけるようになり、ここ修善寺の夜だけはもう、秋といってもいいくらいです。

この上天気の中、最近どこへも出かけていないので、そろそろ遠出がしたくなりました。とくに西海岸は、以前、恋人岬に出かけて以来、行っていません。その帰りに戸田峠からみた駿河湾は夕日に染まってきれいでした。その戸田にもいくつか観光スポットがあるようなので、訪れてみたいところです。

そのひとつ、「戸田造船郷土資料博物館」には、幕末に、ロシア人と戸田の船大工の協力によって建造された「ヘダ号」という、日本で初めて造られた本格的な洋式帆船に関する史料があるということです。船好きな私としては、ぜひ訪れてみたい場所です。

本日は、この「ヘダ号」が造られることになった経緯と、これが造られたことによる幕末から明治にかけての日本への影響についてみていきたいと思います。

日露和親条約

プチャーチンという人物をご存知でしょうか。1803年にロシアで生まれ、1822年に海軍士官学校を卒業し、ロシアの海軍士官として多くの武功を立てました。1842年に全権大使として来日し、徳川幕府と交渉して日露和親条約を結んだ立役者として知られています。晩年は、政治家に転身し、教育大臣なども務め、1883年(明治16年)に80才で亡くなりました。

1842年、イギリスがアヘン戦争の結果、清との間に南京条約を結んだ事を受け、ロシアも極東地域において影響力を強化する必要性が生じてきました。そのころ既に海軍少将に出世していたプチャーチンは、ニコライ1世に、自国海軍による使節を極東に派遣することを献言。そして、1843年に清及び日本との交渉担当を命じられました。

ところが、その後トルコ方面への進出が優先され、プチャーチンの極東派遣はなかなか実現しませんでした。しかし、1852年、海軍中将に栄進するころには、トルコ戦線が落ち着いてきたため、ようやくプチャーチンは、日本との条約締結のために遣日全権使節に任じられます。

1852年にペテルブルクを出発。イギリスに渡り、必要艦船を整えた上で、同年暮れにポーツマスを出港。喜望峰を周り、旗艦パルラダ号以下4隻の艦隊を率いて、1853年8月22日(嘉永6年7月18日)、ペリーに遅れること1ヵ月半後に長崎に来航しました。

この時の訪日では、長崎で幕府全権の「川路聖謨」、「筒井政憲」らと計6回に渡り会談しましたが、交渉はまとまらず、将来日本が他国と通商条約を締結した場合にはロシアにも同一の条件の待遇を与える事などのみの合意を得て、いったん日本を離れます。

1854年2月、一定の成果を得たプチャーチンはマニラへ向かい、船の修理や補給を行いましたが、旗艦パルラダ号は木造の老朽艦であったため、9月にロシア沿海州のインペラトール湾において、本国から回航して来たディアナ号に乗り換えました。

旗艦以外の3隻の船は、イギリス艦隊との戦闘に備えるため沿海州に残る事となり、プチャーチンはディアナ号単艦で再び日本に向かい、同年10月(嘉永7年)に今度は、函館に入港しますが、同地での交渉を拒否されたため、12月3日に伊豆の下田に入港しました。

報告を受けた幕府では再び川路聖謨、筒井政憲らを下田へ派遣、プチャーチンとの交渉を行わせることにします。

ところが、交渉開始直後の1854年(安政元年)11月8日、安政東海地震が発生し、下田一帯も大きな被害を受け、ディアナ号も津波により大破し、乗組員にも死傷者が出たため、交渉は中断せざるを得なくなりました。

津波の混乱の中、プチャーチン一行は、波にさらわれた日本人数名を救助し、船医が看護をするなどの善行を行いました。このことなどが、幕府関係者らにも好印象を与えたこともあり、中断されていた外交交渉が再開。5回の会談の結果1855年2月7日(安政元年12月21日)、遂に日露和親条約が締結されるに至ります。

ヘダ号の建造

しかし、和親条約は無事締結される直前、プチャーチンたちは来日の際に乗ってきたディアナ号を失ってしまいます。

ディアナ号は、11月に起こった地震津波で破損してしまっていましたが、プチャーチンは艦の修理を幕府に要請。交渉の結果、幕府の同意を得、伊豆の戸田村がその修理地と決定していました。

そして、ディアナ号は応急修理をすると戸田港へ向かいましたが、その途中、宮島村(現富士市)付近で、今度は強い風波により浸水してしまい、航行不能となります。周囲の村人の救助もあり、乗務員は全員無事でしたが、ディアナ号は和船数十艘により曳航を試みるも沈没してしまうのです。

プチャーチンは、帰国のために洋式船を新造することを即座に決意します。そして、幕府にこれを要請したところ、幕府側から、日本側が資材や作業員などを提供、支援の代償として完成した船は帰国後には日本側へ譲渡するという契約内容が示され、1855年(安政元年)1月には、造船の許可を与える旨の正式な文書が送られてきました。

これを受け、プチャーチンたちは、早速、戸田村で建造準備に着手します。彼らにとって、幸運だったのは、同じディアナ後に乗船していたロシア人乗員の中に、「アレクサンドル・モジャイスキー」がいたことです。

アレクサンドル・フョードロヴィチ・モジャイスキーは、1825年生まれで、プチャーチンよりも20才以上も年下でしたが、この当時のロシアでは新進気鋭の才能あふれる技術者でした。

優れた技術者であるだけでなく、いろんな発明をしており、後年、蒸気エンジンを搭載した飛行機を製作し、ロシア発の飛行実験を試みたほどの人物です。戸田村造船郷土史料博物館には日本最古の銀板写真であるモジャイスキーの肖像写真が残っており、これと並んで、彼がディアナ号の船内で製作した模型飛行機の写真が展示されているそうです。

祖国に帰るための新造船は、このモジャイスキーの設計の下で行われることになり、戸田には宮大工の上田寅吉を初め、数多くの船大工が集められました。

幕府は、この船の建造にあたって、韮山代官の江川英龍(江川太郎左衛門)と勘定奉行の川路聖謨を日本側の責任者に任命しています。この船の建造に参加した日本人は官民合同で300人、ロシア人は500人もいたということで、合計800人に上る日露合同のこの巨大プロジェクトは、無論、日本の造船史上に残る画期的な出来事でした。

日本人とロシア人の言葉の壁や、西洋式の帆船であるための資材の調達や専門技術者の不在など、数々の問題はありましたが、現場の士気は高く、日露双方の技術者が一丸になって取り組んだことで、着工からわずか3ヶ月後の、1855年4月26日に船は完成しました。

2本のマストを備えた小さなスクーナー船で、プチャーチンは、村民への感謝をこめてこれを「ヘダ号」と名付けます。その後は、艤装も速やかに行われ、5月2日には戸田から初航海に出たることに成功。建造費用は、労賃を除いて3~4000両かかったといい、現在の貨幣価値に換算すると4~5億円に相当するでしょうか。

スクーナー(schooner)とは、2本以上のマストに張られた縦型の帆を取り付けることを特徴とする帆船で、最初にオランダで16世紀から17世紀にかけて用いられ、アメリカ独立戦争の時期に北米で更に発展しました。

その後も、アメリカ合衆国で多用され、また北ヨーロッパでも人気を得たため、ロシア海軍も多数のスクーナー船を保有していました。中でも2本マストのスクーナーが一般的で、少数の船員で帆の操作が行えるのが大きな特徴で、また、進行方向から強い風が吹くような、逆風時の状態でも船を前進させることができ、海流の強い海域での航行が要求される場面の多い、沿岸航行の商船や漁船などに広く使われました。

プチャーチンら48人を乗せた「ヘダ」は、1855年(安政2年)5月に戸田を出港し、ロシア領カムチャッカ半島のペトロパブロフスクへ向かいました。その後、さらに航海を続け6月下旬に、ロシア極東部のハバロフスク地方のニコラエフスクへ到着。ここでプチャーチンらは下船し、シベリアを通って陸路で、無事にペテルブルグへの帰還を果たしています。

日本への返還

ロシアへ無事プチャーチンらを送り届けたヘダ号ですが、ニコラエフスクで再整備の後、コルベット艦の「オリバーツ」とともに、1856年11月に再度日本を訪れ、約束通り幕府に返還されました。

しかし、時は幕末、明治維新に向かう怒涛の時代変化のときであり、その後、ヘダ号も幕府と官軍の戦いに巻き込まれます。そして、1869年(明治2年)に起こった戊辰戦争の函館戦争の局面では、榎本武揚率いる旧幕府軍艦隊の中にヘダ号があった「らしい」といいます。しかし、このとき既に新政府海軍と旧幕府海軍の戦いの主力は、蒸気船であり、旧式で小型帆船であるヘダ号が最新鋭艦同士の戦いに参加しているはずはありません。

このときの記録は詳しく残っておらず、その最後の詳細はわかっていないということですが、おそらくは、函館にたどり着く前の宮古沖海戦の際に巻き込まれて沈没したか、函館にたどり着いていたとしても、官軍の手にわたる前に旧幕府兵士たちの手で自沈させてしまったに違いありません。

しかし、戸田で造られたこの日本初のスクーナー船の建造に携わった船大工たちは、その後、習得した技術を生かして日本各地での洋式船建造に活躍していきます。

その後、ヘダ号をモデルにした「君沢形」と呼ばれるスクーナー船が幕府によって建造され、この船は日本の内航海運へのスクーナー導入のきっかけともなり、明治から大正にかけて日本の内航海運で大いに活躍することになります。さらに、和船の船体にスクーナー帆装を取り入れた和洋折衷の合いの子船は、ほんもののスクーナー以上に普及し、機帆船登場前の内航海運の主力を担うことになっていくのです。

これらのことについては、長くなりそうなので、明日以降に回したいと思います。

ちなみに、ヘダ号の建造の地元伊豆での責任者であった、韮山代官の江川英龍は、老中となった阿部正弘に評価され、正弘の命で江戸湾にお台場を築いたほか、伊豆の韮山に反射炉を作り、銃砲製作も行うなどの多才な人物でした。

ヘダ号の建造をはじめ、我が国の造船技術の向上にも力を注いだ人物でしたが、プチャーチンたちが、ヘダ号で日本を去る2ヶ月前に、惜しくも55歳でなくなっています。この江川英龍については、またの機会にじっくりこのブログでもとりあげてみたいと思います。

また、ヘダ号建造の幕府側責任者であった、勘定奉行の川路聖謨は、幕末きっての名官吏といわれ、有能なだけでなく、誠実で情愛深く、ユーモアに富む人物だったといいます。

ヘタ号の建造を成功に導いたあとも、数々の業績をあげていますが、引退後は中風によって半身不随になり、1868年(慶応4年)、割腹の上、ピストルで喉を撃ち抜いて自決しています。ピストルを用いたのは、半身不随のために刀ではうまく死ねないと判断したためとか。

忌日の3月15日は新政府軍による江戸総攻撃の予定日であったそうで、病躯が戦の足手まといになることを恐れて自決したとも、滅びゆく幕府に殉じたとも言われています。享年68歳。勝海舟と西郷隆盛の会談により、江戸城の無血開城が決定したことも知らずに逝ったご本人は、死後、自分の人生をどう振り返ったでしょうか。

本日の項はこれで終わりです。また、ご来訪いただければ幸いです。