マスカレード

2015-1090964最近、朝のジョギングの際に、ウォークマンに昔懐かしいカーペンターズの曲を入れて聴いています。

中でも、「マスカレード」というのが好きで、そのさわりだけ紹介すると、以下のような歌詞です。

Are we really happy
With this lonely game we play?
Looking for the right words to say

Searching but not finding
Understanding anywhere
We’re lost in this masquerade

“こんな寂しいゲームを続けていて、私たちは本当に幸せなの?
うまく伝えられるよう言葉を探してはいるけれど、見つけられずにいるわ。
ともかく、いま分かっているのは、二人がこの仮面舞踏会から抜け出せずにいるということ……“

この曲を作ったのは、レオン・ラッセル(Leon Russell)、というアメリカのシンガーソングライターで、ローリング・ストーンズら多くのアーティストのプロデュース作品のレコーディングに参加しています。カーペンターズには、他にも“A Song For You”という曲を提供しており、こちらも70年代にヒットしました。

実際の曲が聞きたい方は、You Tube にアクセスしてみてください。

原題は、“This Masquerade”となっています。Masque……というのは、いうまでもなくマスク(仮面)のことで、仮面舞踏会はヴェネツィアが発祥といわれます。

参加者が仮面などを身に着けて行われる舞踏会などのイベントです。元々中世後期のヨーロッパ宮廷において行われていた仮面舞踏会は、余興として寓話的で凝った衣裳をまとった人々が壮麗な行列を行う「仮装舞踏会」だったようです。

こうした仮装による舞踏会はブルゴーニュ公国の宮廷では特別の機会に行われるぜいたくな催しでした。のちに婚礼を祝う行進などでも行われるようになり、そのうち宮廷生活における派手な催しとして発展するころには、仮面をかぶって人々が踊る仮面舞踏会になりました。

ところが、そうした仮装舞踏会のなかで、一つの惨劇が起こります。百年戦争期のフランス国王シャルル6世の時代に起こった「燃ゆる人の舞踏会(Le Bal des ardents)」という事件で、これは、フランス王妃イザボー・ド・バヴィエールが侍女の一人の婚礼を祝して1393年1月28日に大規模な仮装舞踏会を開催したときに起こりました。

シャルル6世と5人の貴族は亜麻と松脂で体を覆い、毛むくじゃらの森の野蛮人に扮して互いを鎖で繋いで、野蛮人の踊り(Bal des sauvages)をしようとしました。このとき、たいまつに近づきすぎて衣裳が燃え上がり、シャルル6世は助かったものの4人が焼死するという事態になりました。

これより少し前、シャルル6世はすでにイングランド軍に対する敗戦で大きなショックを受けていましたが、この事件のあと、急速に精神を病むようになったといいます。

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これからおよそ400年ほどのち、エドガー・アラン・ポーは、この話をネタに「跳び蛙」という短編小説を書きました。以下のようなはなしです。

ある国に、ジョークが好きの国王がいました。ジョークが好きな人の多くは、たいがいがデブですが、王もそうであり、その取り巻きの七人の大臣もデブで、ジョークが大好きでした。このため、王宮には多くの道化がおり、その一人が「跳び蛙」と呼ばれる小人でした。

足に障害があるために歩くのは困難でしたが、手が異常に発達しており、木登りが得意でした。が、なにかと失敗が多く、いつも国王に叱られていました。跳び蛙は戦争で捕虜として囚われ、トリペッタというやはり小人の女性と共にこの国に連れてこられました。相棒のトリペッタは国王のお気に入りであり、何かと跳び蛙の失敗をかばってくれました。

あるとき、酒に酔った国王が跳び蛙に酒を強要する、という事件がありました。実は跳び蛙は一杯も飲めませんでしたが、国王は酒を飲むよう彼に命じ、その上何かジョークを言うよう迫りました。しかし、酒に酔って度を失った跳び蛙の口からとうとう王を喜ばせるようなジョークは出ることはありませんでした。

激怒した国王は、とりなそうとするトリペッタを殴打し、ワインを頭から被せ、跳び蛙ととともに部屋の外に叩き出しました。これを見た取り巻きの大臣たちは彼等をかばうどころか、それを見て一流のジョークとばかりに大笑いをしました。こうして、この一件はとりあえずこの場で収まりました。

しかし、このことはのちに恐ろしい惨劇を招くことになります。

時が経ち、やがて、マスカレード(仮面舞踏会)の夜がやってきました。このとき、真っ先に国王の仮装を提案したのは、跳び蛙でした。かならずウケます、と言いながら国王と七人の大臣に提案したその内容は、なんと、彼等にオランウータンの仮装をさせることでした。

この時代、動物園などはなく、オランウータンなどを見たことがある人はいようはずもなく、なるほどこれなら人々にウケそうでした。こうして、国王と大臣たちは、それぞれがタールを全身に塗りつけ、さらにその上にオランウータンの毛を模した麻糸を貼り付けました……

しかし、趣向は、それだけではありませんでした。なぜか、跳び蛙は、さらに国王たちを鎖でつなぎ、7人の大臣と王の合わせて8人を十字のかたちになるよう縛りつけ、自由に身動きが取れないようにしました。

こうして、オランウータンのいでたちをした国王たちが、鎖につながれて舞踏会の会場に入ってきました。が、それぞれが鎖で結ばれているため、うまく歩けず、場内に足を踏み入れたとたん足がもつれて、将棋倒しに倒れました。客たちは唖然としましたが、倒れたのが、王や大臣であることに気付くと、腹をかかえて大笑いしました。

ジョーク好きの国王や大臣たちは、期せずして起こったこの笑いに気をよくし、跳び蛙の提案したジョークは大成功だ、と思いました。そんな中、するすると天井から吊るされた大シャンデリアが彼等が座り込んだ床近くまで降りてきました。

すると、跳び蛙が、持ち前の運動神経を使ってシャンデリアに飛びつくと、その下に取り付けられていたフックを8人を繋いだ鎖の中心にひっかけたではありませんか。

跳び蛙はシャンデリアを飛び下り、暗闇に消えていきましたが、しばらくすると、そのシャンデリアは、今度は、8人の男たちもろとも天上に向かってあがり始めました。徐々に体が持ち上げられ、ついには足元が床から離れると、それまで笑っていた国王たちも、さすがにこれは異常な事態であると、気づきます。

そこへ、再び跳び蛙が現れ、がんじがらめになっていた8人が纏っていた麻糸にいきなり火をつけました。すぐに燃え上がった麻糸は、それを取り付けるために塗ってあったタールにまで延焼を始めます。

国王や大臣は大声でわめき散らし、悪態をつきますが、火は燃え広がるばかりで、やがて大きな火炎の中に彼等の声はかき消されていきました。この恐ろしい光景をみた来客たちは恐怖に打ち震えました。

こうして、国王の飛び蛙とトリペッタに対する非礼な行為と、それを黙視した七人の大臣たちに対する報復は終わりました。炎が燃え尽き、そこにある真っ黒な王たちの姿が見えてきたころ、客たちが我に返ると、そこにはもう跳び蛙とトリペッタの姿はありませんでした。その後、ふたりを見かけたものは誰もいませんでした……

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とまあ、なんとも恐ろしい話なのですが、アランポーはこうしたグリム童話張りのむごたらしい話を他にも結構いろいろ書いています。

この話のモデルとなった事件、「燃ゆる人の舞踏会」が評判?になったためかどうかはわかりませんが、その後仮面舞踏会はヨーロッパ各国で流行るようになり、とくに15世紀のルネサンス期のイタリアでは、参加者が仮装して出席する公的な祭典が催されるようになりました。イタリア語では仮面舞踏会は、マスケラータmascherataと呼ばれました。

一般的に上流階級の成員のために行われる凝った舞踏会で、特にヴェネツィアでは、仮面をかぶって行われる「ヴェネツィアのカーニバル」の伝統と結びついたため人気を博しました。そして、17世紀から18世紀には、このヴェネツィア式仮面舞踏会はヨーロッパ大陸全土の宮廷で行われるようになりました。

スイスの伯爵だったヨハン・ヤーコプ・ハイデガーは1710年にヴェネツィア式の仮面舞踏会をロンドンのヘイマーケット・オペラハウスで開催しましたが、これによりハイデガーは「スイスの伯爵」の名で有名人となりました。

こうして18世紀のイギリスで流行した仮面舞踏家は、その後北アメリカの植民地にまで飛び火し、ここでも大流行し、全世界的なブームとなりました。

一方で仮面舞踏会やこれを紹介したハイデガーに対して、道徳や倫理を麻痺させるという厳しい非難が各界から浴びせられ反対運動も起こりました。と同時に、あまりに人気を博しすぎたため、仮面舞踏会は風紀を乱す元凶であるとみなされるようになりました。

これはなぜかというと、このころの仮面舞踏会は招待客同士のゲームとして開催されることもありました。仮面をした客たちは正体が誰か分からないような服装をし、互いの正体を当てあうゲームを行いました。このゲームの影響で、人物の正体を混乱させるためによりユーモラスに工夫された仮面が登場するようになりました。

仮面をつけ、お互い身分素性がわからないまま交流するわけですから、当然舞踏会の中には卑しい身分の者が紛れ込んでいてもわからないわけです。当然、こうした身分の低い者と上流階級の者の間に恋愛沙汰が起こることもあり、ときには不倫や駆け落ちなどの事態にまで発展するようなこともりました。

また仮面舞踏会はしばしば悲劇の舞台にもなりました。スウェーデン国王グスタフ3世は1792年、仮面舞踏会の最中に彼の統治に不満を抱く貴族ヤコブ・ヨハン・アンカーストレムによってピストルで暗殺されています。この事件はのちに数々のオペラの題材になりました。

このため、ハンガリー王のマリア・テレジア(オーストリア系ハプスブルク家の男系の最後の君主)などのように禁止令を出す権力者も出るようになりました。この当時ロンドンでは、人気者だったハイデガーを風刺する版画なども出版さえるようになり、物書きたちも仮面舞踏会の存在に反対するようになりました。

小説「トム・ジョーンズ」で有名な18世紀イギリスの劇作家、ヘンリー・フィールディングなども、イギリス国内に反道徳性や「海外からの悪影響」を広めるものとして仮面舞踏会を批判しています。

彼らは権力者に対し仮面舞踏会反対の説得を行いました。がしかし、これを禁止するための手段の強制力は散漫なものにとどまりました。以後、17~18世紀ほどの隆盛は極めなくなりましたが、仮面舞踏会は今日も世界中で行われています。

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しかし、現在の仮面舞踏会は、パーティーの雰囲気作りが強調され、社交ダンスの部分はあまり強調されなくなっています。より砕けたハロウィンのような仮装パーティーに姿を変えつつあり、かつてのあやしい雰囲気の仮面舞踏会は少なくなりました。

現在にも残る伝統的な仮面舞踏会としては、ウィーン大学の同窓生らによる舞踏会「ルドルフィーナ」などがあるようです。出席するためには厳格なしきたりがあるそうで、女性は長い着用イブニングドレスを着用し、男性は燕尾服もしくはタキシードに黒ネクタイ、そして男女ともマスクで目を覆い隠します。

1899年にウィーン王宮が開かれたことを記念したカーニバルの日に行われるそうで、1907年に第一次世界大戦によって一時中断されたとき以外は、伝統を守って毎年必ず開催されてきたといいます。

こうした伝統行事以外で実際に今も仮面舞踏会が行われているかどうかは、上流階級の人々の話なので、卑賤な出の私にはよくわかりません。が、仮面舞踏会そのものは非常に絵になる催しであるため、昔から文学や音楽の題材となってきました。

音楽では上のレオン・ラッセルの曲をカーペンターズがカバーしたもの以外にも、多数の曲が存在します。また、数々の歌劇やオペラへも流用されています。このほか、日本では「マスカレード」のタイトルで、安全地帯の楽曲として存在し、ほかにもSHOW-YA、VOW WOW、庄野真代なども同名の曲を作って発表しています。

文学のほうでは、18世紀イギリスの上流階級を舞台にした多くのロマンス小説では、仮面舞踏会が舞台となったり、話を進める上での道具になったりします。日本でも横溝正史の金田一シリーズの一作に仮面舞踏会というのがあり、また赤川次郎のミステリ連作集(1992年)のタイトルにもあります。

上述のエドガー・アラン・ポーは、上の飛び蛙以外にも「赤死病の仮面」という仮面舞踏会を題材にした短編を書いています。こちらも少し紹介しておくと、これは以下のようなはなしです。

あるとき、ヨーロッパの小国で「赤死病」という疫病が猛威を振るっていました。激痛と眩暈を伴い、毛穴から大量に出血して死に至りますが、感染してから30 分以内に死んでしまうという恐ろしい疫病でした。

この国の王、プロスペロ公は、この病気が蔓延して領内の人口が半減すると、宮廷の騎士や貴婦人の中から健康で快活な人を千人ばかり選び、彼等を引き連れて城砦風に造られた僧院に引き籠もってしまいました。高く堅牢な壁が周囲を取り巻いており、壁にある幾つかの鉄の門も内側から厳重に塞がれ、出入りは完全に遮断されていました。

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籠城して半年ほどが経ったころ、プロスペロ公は、憂さ晴らしに仮面舞踏会を催すことにしました。会場は、7つの部屋が続いている場所でしたが、王には怪奇趣味があり、これらの部屋や不規則に配置され、互いに見通しがきかない、というものでした。

部屋の窓は縦長で幅の狭いゴシック風。ステンドグラスが嵌めてあり、窓ガラスの色は、各部屋の装飾の基調色に合わせて、東の部屋から順に、青、紫、緑、オレンジ、白、スミレ色となっていました。ただ、西端にある一番奥の7 番目の部屋だけは黒ビロードのタペストリー、黒いカーペットと黒づくしでした。

窓ガラスの色も他の部屋とは異なり、緋色、つまり濃い血の色でした。各部屋の内部には、おびただしい金色に輝く装飾品があちこち飾られていました。が、ランプや燭台の類は一つもなく、各部屋に沿ってめぐる回廊の壁に開けられた窓には篝火が焚かれており、その灯りがステンドグラス越しに室内を照らしていて、妖しげな雰囲気を醸し出していました。

舞踏会集まった人々の仮装も、公の趣向に合わせてグロテスなもので、きらびやかではあるもののけばけばしいもの、美しいけれども奇異な形をしているもの、といった具合であり、中にはいかにも嫌悪感を覚えるような不気味なものもありました。

こうして仮面舞踏会が始まりましたが、黒の間にあった黒檀の大きな柱時計が真夜中の十二時を告げ始めた時、人々は初めて見慣れない人物が紛れ込んでいることに気がつきます。背が高く、痩せこけて全身真っ赤ないでたちのこの人物はワルツを踊る人びとの間を、まるでゆっくりと幽霊のような足取りで歩き回っていました。

その不気味な姿を見たプロスペロ公は激怒し、捕らえて仮面をはぎ取れと周りの者に命じますが、恐怖のあまり誰もその赤づくめの人物に近づこうとしません。そうした周囲の様子をみてとったその人物は、今度はその歩調を威厳に満ちたものに代え、青の間から紫の間、緑の間、オレンジの間、白の間、菫色の間へと進んで行きます。

怒ったプロスペロ公はこれを走って追いかけ、黒の間まで行って人物追いつき、肩をつかんで振り向かせます。対峙する二人。短剣がキラリときらめいたと思った瞬間、黒いカーペットの上になだれ落ちるように、倒れ込んだのはプロスペロ公でした。

人々が黒の間になだれ込んだときには、王は既に息絶えており、彼等は仮装の人物につかみかかって仮面と扮装を引きはがしました。ところが、その仮面の下には何一つなく、空っぽの黒い闇があるだけでした。

今や、「赤死病」が侵入してきたことは誰の目にも明らかでした。宴に集まった人びとは一人また一人と血濡れながら床にくずれ落ち、絶望に駆られながらそのまま息絶えていきました。

やがて黒檀の時計も動きを止め、篝火の焔も消えました。あとは暗黒と荒廃と「赤死病」が、この国のあらゆるものの上に無限に覆うばかりとなりました……

この「赤死病の仮面」は1842年に「グレアムズ・レディース・アンド・ジェントルマンズマガジン」とう雑誌に掲載されました。初出時のタイトルは「The Mask of the Red Death」であり、「ある幻想」という副題が付けられていました。

その後1845年の「ブロードウェイ・ジャーナ」7月号に改訂版が掲載されており、このときにタイトルの「Mask」が「Masque」に変更され、「仮面舞踏会」が強調される形となりました。

この話の一般的な解釈としては、7つの部屋はそれぞれ人の心が持つ様々な性質であり、「死」を表象する七つ目の部屋を受け入れるまでの段階を表しているといわれます。また、時計と血は死が不可避であることを示し、作品全体としては死から逃れようとする試みの空しさを表している、と専門家さん言っているようです。

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黒澤明監督は、この作品をベースに、1977年ソ連で撮影するための映画シナリオ「黒き死の仮面」執筆しています。ただ、舞台は中世ロシアで、黒死病(ペスト)に変えられており、また結局撮影は実現しませんでした。このシナリオは「黒き死の仮面」というタイトルで岩波書店から出版されているそうです。

架空の病である「赤死病」(The Red Death)は、黒死病(The Black Death)から取ったのではないか、といわれているようです。が、ポーはこの話の着想を1832年のコレラ流行の際に実際にフランスで開かれた舞踏会から得た、と言っています。1831年にはポーの故郷のボルティモアでもコレラの流行がありました。

このエドガー・アラン・ポーは、1809年マサチューセッツ州ボストンに生まれ、生後すぐに両親を失って商人アラン家に引き取られ、幼少期の一時期をロンドンで過ごしました。その後一家は、帰国してボルティモアに居を構え、彼はヴァージニア大学に進みます。

しかし、放蕩から退学を余儀なくされ、その後陸軍入隊、士官学校を経て作家として活動を始めました。以後、ニューヨークやリッチモンドなど、さまざまな地で様々な雑誌で編集者として勤めながら、ゴシック風の恐怖小説「アッシャー家の崩壊」「黒猫」などを執筆しました。

また、初の推理小説と言われる「モルグ街の殺人」、暗号小説の草分け「黄金虫」など多数の短編作品を発表、また1845年の詩「大鴉」でも評判を取りました。

1833年、ジャーナリズムの活発な郷里のボルティモアを生涯の生活の場としようと心に定め、ここで当時13歳だった従妹ヴァージニア・クレムと結婚しました。が、その後はあまりヒット作に恵まれず、1847年に貧苦の中で結核によって彼女を失いました。

しかし、1849年、ポーはかつての仕事の場であったリッチモンドで、青年時代の恋人で未亡人となっていたエルマイラ・ロイスターと再会し、再三の求婚の後に彼女と婚約しました。新居もリッチモンドになる予定でした。ところが、その年の10月7日、結婚を控えたポーは謎めいた死を遂げてしまいます。

その死に先立つ9月。結婚式を控えたポーは自分の選集の出版準備を始めており、そのために知り合いの編集者の協力を得ようと、久しぶりに700キロ離れたニューヨークに行くことにしました。そして27日にリッチモンドを出、48時間の船旅のあとに、ニューヨークまでの中間地点、郷里のボルティモアに着くと、ポーはなぜかそこに数日滞在しました。

ちょうどメリーランド州議会選挙のまっただ中であり、10月3日が投票日に当たっていました。このため、ポーはライアン区第4投票所にあたる「グース・サージャンツ酒場」に向かいました。

ところが、なぜかこの酒場でポーはかなりの酒を飲み、泥酔状態に陥りました。店の者が介抱してくれてもよさそうなものですが、行きつけの店でなかったため、よそ者と思われて放置されたのでしょう。そこにたまたま旧知の文学者が現れ、発見されたポーはただちにワシントン・カレッジ病院に担ぎ込まれました。

しかし、4日間の危篤状態が続いたのち、1849年10月7日早朝5時に帰らぬ人となりました。その間ポーは理路整然とした会話ができる状態でなく、なぜそのような場所で、そのような状態に陥っていたのかは誰にもわからないままとなりました。

その上奇妙なことに、ポーは発見されたとき他人の服を着せられており、また死の前夜には「レイノルズ」という名を繰り返し呼んでいたといいます。しかし、それが誰を指しているのかも分かりませんでした。一説にはポーの最後の言葉は「主よ、私の哀れな魂を救いたまえ」(”Lord help my poor soul”)であったといいます。

その後ポーは郷里であるメリーランド州ボルティモアの墓地に埋葬されました。新聞各紙はポーの死を「脳溢血」や「脳炎」のためと報道しましたが、これは当時、アルコールなどのような外聞の悪い死因を婉曲に伝えるためにしばしば用いられた言葉でもありました。

このときの死亡証明書を含め、ポーの診断書は現在ではすべて紛失してしまっており、実際の死因は特定されていません。

このため、ポーの死の真相は謎のままですが、彼の死後20年ほど経ったころに、ポーはクーピング(cooping)の被害にあったのではないか、とう仮説が立てられました。これは、 選挙の立候補者に雇われたならず者が、旅行者や乞食などに無理矢理酒を飲ませるなどした上で投票所に連れて行き、場合によっては数度投票させることです。

当時は、投票にあたっては、有権者の身元確認がしっかりと行なわれていなかったこともあり、こうしたクーピングがまかり通っていたようです。そして、ポーもこれの犠牲になったのだとする説が現在でも広く信じられています。

が、それ以外にも、アルコール中毒による振戦譫妄、心臓病、てんかん、梅毒、髄膜炎、コレラ、狂犬病などが死因として推測されているようですが、いかんせん真実は闇の中です。

ちなみに、「赤死病の仮面」の日本語訳は、創元推理文庫により1974年「ポオ全集III」の中に収められているようです(松村達雄訳)。また、2009年に出された新潮文庫にも「ポー短編集 1 ゴシック編」というのがあり、この中に「赤き死の仮面」のタイトルで納められているそうです(巽孝之訳)

新刊本があるかどうかはわかりませんが、ブックオフあたりに行ったら見つけられるかもしれません。その他のポーの作品も魅力的です。明日からの連休中、どこへも行かない、という方、探してみてはいかがでしょうか。

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