たかいところ

2015-2387

昨日の朝、ジョギングをしていると、どこからか、キンモクセイの香りがしました。

この季節初めてのことです。どこからだろう、と走りながら探してみましたが、居場所はわからずじまい。しかし、今年もまた涼やかな季節がすぐそこまで来ていることは確実であり、なにやらうれしくなってしまいました。

一年で一番いつの季節が好きかと聞かれれば、紛うことなく、秋と答えます。夏が一番きらいで、何もかもピンと張りつめた感じのある冬が次に好き、とはっきりしています。

春もいいのですが、これから秋が来て、冬を迎えるという時期というのは私にとっては一年間で一番心を豊かにしてくれる時期です。

が、食べ物がおいしくなる時期なので、デブにならないよう気をつけるようにしなければなりません。

とはいえ、私はどちらかといえば夏に太って、冬になると痩せるタイプのようです。理由はよくわかりませんが、冬のほうが体内脂肪がよく燃えるからなのかな~と勝手に思っています。確かにクソ寒いときに、一日外でウォーキングをして帰ると、体重が1~2キロも減っていることがあります。

ウソだろう、といわれるかもしれませんが本当です。かつて、真冬に北海道の道東で魚の調査をしていたとき、零下10数度の中で一日現場にいたところ、やたらに腹が減るのに気がつきました。寒さ対策のために脂肪を燃やしているため、その不足分を補うようにと、体が調整しようとするためでしょう。

ちなみにこの調査は数日間続きましたが、後日東京へ帰ってから体重を計ったところ、2キロほど痩せていました。寒いからと、ラーメンだの海鮮丼だの、かなりたらふく食べ続けたにもかかわらず、です。

南極とかの極寒の地で働いている人は、毎日6000kcalは食べないといけないそうです。スゴイ量ですが、これほどカロリーとらないと死んでしまうといいます。食用油でさえ甘く感じるのだそうで、こうした場所に住めば、かなりのダイエットになりそうです。

無論、日本にはこれほど寒いところはさほど多くありません。最北の地である稚内における年間平均気温は6.6℃、最低気温の記録のある旭川でも6.7℃。こうした北海道の地を除けば、一番寒いのは、富士山の山頂のようで、ここの年間平均気温はナント、氷点下6.4度です。

山頂(3370m)と麓の河口湖(860m)では冬季には平均で17.6℃もの差があります。平地でこれと同じくらいの寒さの土地を探すと、シベリアの北極圏付近の地域が相当するようです。

できればダイエットも兼ねて住んでみたいところですが、さすがに世界遺産でもある富士山の山頂に家を建てることはできそうもありません。が、日本以外なら、気温はともかく、同じ標高、ということなら土地を買って住めそうな場所はありそうです。

どこがあるかな~と調べてみましたが、無論のこと、日本にはあるわけはありません。やはり高所に町がある、というのは南米になるようで、世界で一番高い場所にある町は、ペルーのラ・リンコナダだそうです。

アンデス山脈に古くからある金鉱山にキャンプとして誕生し、40年上に渡って成長した大きな都市。5万人を超える人々が5100mの高地に住んでおり「世界で一番高い都市」の標識が存在しています。

金鉱山がほぼ全ての経済を支えているこの街ですが、インフラストが整っておらず、水道やガスの配管はなく、鉱山からの水銀汚染に悩まされています。にもかかわらず、人口は過去10年で約230%上昇しています。ラ・リンコナダに住む人々のほとんどは鉱山の労働者であり、仕事を求めてこの高所へやってくるのです。

このほか、同じ南米のボリビアには、エル・アルトという町があり標高は4150m。ボリビアで最も大きく、そして最も急成長している都市の一つです。人口は110万人を超え、実質的首都担っている都市ラ・パスの衛星都市として機能しています。

標高差が700mあるすり鉢状の地形をしたラ・パスの底辺部には高所得者や住んでおり、すり鉢の縁の部分には低所得者が住んでいます。そして、そのすり鉢の縁部分に広がるエル・アルトは、ボリビア各地からやって来た貧しい貧困層の人々が移住してきたことにより人口が拡大しました。

また、同じくボリビアのポトシは、標高4090m。1545年に鉱山の町として設立され、すぐに人口24万に超えるアメリカ大陸有数の都市へ成長を遂げています。スペイン統治時代には、ここにあるセロ・リコ銀山で4万5000トンの銀を産出し、数百メートルの山が低くなるほどだったと言われています。

同じく南米のペルーのリアカという町も標高3825mあります。毛織物や羊毛取引の中心地として発達した町です。市内はインカ・マンコ・カパック国際空港や世界有数の高所を走るペルー南部鉄道が発着する駅がある交通拠点となっており、ペルーの首都リマや県都プーノ、および隣県の県都であるクスコや隣国ボリビアと結ばれています。

シルスターニ遺跡(インカ時代の遺跡)やララヤ峠(標高4335mにある絶景の地)といった観光地も近く、街は風の強い高原地帯に位置しているため、アメリカのシカゴと同様に、「風の街(The Windy City)」の愛称があります。プーノ県の経済の中心で、域内での投資が集中し、貧困の緩和や収入の増加が見られるそうです。

2015-2366

これ以外の高所にある町というのは、あとは中国になります。チベットにあるシガツェ(日喀則)の標高は3840m。人口約10万人のこの町は、チベット高原で2番目に大きな都市であり、中国最高の都市でもあります。これは後述のチベットの中心地、ラサよりも西に200kmほど離れた町です。

ダライ・ラマ2世の出身地でありチベット仏教第二の指導者「パンチェン・ラマ」が住まう「タシルンポ寺」があり、チベット仏教の中心的な役割を持つ町のひとつです。

このほか同じチベットには、標高は富士山よりもわずかに低く3700mですが、ラサ(拉薩)という町があります。ここもまた、高原の町です。ヒマラヤ山脈に囲まれたチベット高原のほぼ中央部の小さな盆地に位置し、「吐蕃(とばん)王国」の時代に設立した古都です。

この吐蕃という王国は、現在のチベットの前身です。7世紀前半に君臨した第33代ソンツェン・ガンポにという王様によって統一され、上のシガツェ(日喀則)が都として定められました。643年には文成公主という唐の皇女がチベットの王(ツェンポという)の妃として迎えられました。この「公主」というのは、中国の王室の女性に対する称号です。

要は政略結婚です。吐蕃は唐に対し公主を迎えたいと申し出ましたが、吐蕃の東側にあり、唐に取入っていた吐谷渾(つよくごん)という国の妨害にあって実現しませんでした。そこで、ツンツェン・ガンポ王は638年に吐谷渾へ兵を送って攻撃し、その上で唐に降嫁を迫りました。これにより唐が妥協し、文成公主を吐蕃の王女として送ることになりました。

現在チベットは、中華人民共和国の「民族自治行政体」、つまり「チベット自治区」として一応自治は認められているものの、中国に併合されている形となっていますが、中国との慣れ合いはこの吐蕃の時代から始まった、ということになります。

9世紀の吐蕃の崩壊以後、チベットの政治的中心は、サキャパ政権のサキャ、パクモドゥパ政権のツェタン、リンプンパ政権・デシー・ツァンパ政権のシカ・サムドゥプツェなど、時期ごとの覇者たちの所在地を転々としました。が、宗教的中心地としての地位は不動でした。

1642年には、この地にダライ・ラマ政権が誕生します。このダライ・ラマ政権の発足により、ラサは再びチベット全域の政治的、経済的、文化的中枢の地位を獲得しただけでなく、チベット人、モンゴル人、満州人などから構成されるチベット仏教文化圏の中心ともなりました。

当初歴代ダライ・ラマの居館があったデプン寺というお寺のある、ガンデンポタンにその中枢が置かれ、行政府の呼称はこれにちなんで「ガンテンポタン」とされました。政権の拠点としてポタラ宮殿の建設が1645年より開始され、1660年に完成しましたが、ポタラ宮殿への移転後も、行政府の「ガンデンポタン」という呼称は継承されました。

なお、このポタラ宮殿は、1994年、周辺の遺跡と合わせてラサのポタラ宮の歴史的遺跡群として、ユネスコ世界遺産(文化遺産)として登録されています。

しかし、1960年、チベットは中国政府により併合され、古都ラサと郊外、ウー地方北部諸県を領域とする一帯は、すべて中国の呼称である、「ラサ市(拉薩市)になりました。中華人民共和国の「西蔵自治区」の中央部に位置し、同自治区を構成する「地級市」のひとつであるため、ラサ市の正式名称は、「地級市拉薩市」になります。

その後は中国の統治下で、リンコルの西縁をはさんでマルポリ・チャクポリの周辺に新市街が開発され、ここに数多くの中国人が入植するようになります。

当然、旧来のチベット人たちとの軋轢が生じ、これはその後「チベット問題」として発展します。チベットに対する中華人民共和国の支配・統治にともなって生じる各種の問題であり、特にチベット人による独立運動への弾圧、弾圧にともなう中国軍によるチベット人の大量虐殺や人権侵害が大きな争点となっています。

宗教を徹底的に抑圧されただけでなく、鬼畜のようなやり方で多くの同胞を殺害されたチベット族の中国に対する憎悪は今も根強く残っており、テロ事件も時々起っています。ラサを中心とするチベット自治区では、現在でもダライ・ラマ14世の写真を所持してはいけないなど宗教活動が制限されているそうです。

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ラサの市域はチベットの古都ラサとその郊外からなる「城関区」と、その周辺の7ゾン(県)で構成されています。自治区人民政府は、この城関区内に設置されています。総面積3万平方キロ、市区面積523平方キロ。人口37.3万人、非農業人口14万人を抱える大都市です。チベット族が87%を占めます。

上述のとおり、ラサは古くからチベットの政治的、文化的中枢であり、チベット仏教文化圏の中枢都市です。チベット語「ラ(lha)」は神、または仏、あるいは王を意味し、「サ(sa)」は土地を意味します。すなわち「神の地」であり、一年を通じ晴天が多い事から「太陽のラサ」とも呼ばれます。

このラサを中心とする、チベットの国土は東西に細長く、しばしばその形はチベット人の人々からは「うつぶせた羅刹女(らせつじょ)」とされてきました。チベットが開化し、仏教が定着するためにはこの羅刹女をまず調伏される必要があったとされ、ラサが建設された地域一帯には湖が多く、ここは「羅刹女の心臓」と呼ばれていました。

伝説によれば、古代チベットでは、この羅刹女によってその国土が牛耳られていましたが、これをソンツェン・ガンポ王が退治し、吐蕃王国が始まった、というわけです。

羅刹女と聞いて、何かで読んだな~という人も多いでしょう。これはご存知、「孫悟空」の中に出てくる鬼女のことです。羅刹とは鬼神の総称であり、羅刹鬼(らせつき)・速疾鬼(そくしつき)・可畏(かい)とも訳されます。

また日本に伝来した仏教には、「羅刹天」という神がおり、これはこの羅刹女が起源とされます。仏教においては、破壊と滅亡を司る神であり、また、地獄の獄卒(地獄卒)のことを指すときもあります。

四天王の一である多聞天(毘沙門天)に夜叉と共に仕えており、仏教普及後は、夜叉と同様に毘沙門天の眷属として仏法守護の役目を担わされるようになります。仏法を守る「十二天」の一人として西南を守護し、手にした剣で煩悩を断つといわれます。

絵柄としては、図像は鎧を身につけ左手を剣印の印契を結び、右手に刀を持つ姿で描かれ、全身黒色で、髪の毛だけが赤い鬼とされます。中国(チベット)では、羅刹女とよく対比されて描かれることも多く、羅刹の女は美しいとされるのに対し、羅刹の男は醜い姿をしています。

日本に伝わった以降も、よく絵にされることが多く、10世紀の延暦寺の僧、源信が著した「往生要集」に描かれている羅刹もまた、亡者を責める地獄の怪物として描かれています。

ただ、鬼女である羅刹女のほうは、日本には定着しませんでした。日本に仏教とともに入ってきた羅刹は羅刹天、つまり男性の羅刹となり、十二天のひとりとして崇められるようになります。

が、インドには伝わり、ヒンドゥー教に登場する鬼神、「ラークシャサ」はこの羅刹女が変化したものであり、バラモン・ヒンズー教では人を惑わし食らう魔物として描かれることが多いようです。

一方、その後中国で製作された西遊記においては、羅刹女はその登場人物として名を知られるようになりました。オリジナルの西遊記では、「鉄扇公主(てっせんこうしゅ)」と呼ばれ、宝貝である扇「芭蕉扇」をもったキャラクターです。

日本でもこの物語は広く紹介され、このため現在の日本で「羅刹女」の名を知る人が多いのはこのためです。が、もともと「羅刹女」は「女の羅刹天」のことであり、中国ではこうは呼ばれません。普通は「鉄扇仙」の名で呼ばれます。

一方、チベットでは羅刹女といえば、上述のとおり、その国の発祥の元にもなった伝説の登場人物でもあり、のちに中国で語られるようになった西遊記の鉄扇仙とは区別しているようです。

2015-2405

西遊記によれば、鉄扇公主は大きな鉄扇で雨を降らしていたといいます。火焔山より西南に千四五百里もの先にある翠雲山の芭蕉洞に住み、火焔山の燃え盛る炎を消すことが出来る秘宝・芭蕉扇を持つ地仙・羅刹女は鉄扇公主とも呼ばれています。

羅刹女は牛魔王の妻とされます。牛魔王が愛人の玉面公主(正体は玉のような顔をしたタヌキ)を作って芭蕉洞へ帰って来ないため不機嫌を募らせていたところに、孫悟空が芭蕉洞を訪ね、火焔山の炎を消すために芭蕉扇を借りたいと頼み込みました。

この芭蕉扇は、ひとたび仰げば風を呼び、ふたたび仰げば雲を呼び、みっつ仰げば雨が降ります。さらに立て続けに49回仰ぐと、どんな火でも消し止める霊水が雨として降り注ぐというスグレものでした。

ところが鉄扇公主にとって孫悟空は息子である紅孩児の仇でした。これより少し前、三蔵一行を見つけた紅孩児は、木に自らを吊るし彼らに助けを呼び、自分は賊に一家を襲われここに置き去りにされたと泣きながら訴えました。

しかし、一目で妖怪だと見抜いた孫悟空は無視して通り過ぎようと三蔵法師に言いましたが、哀れに思った三蔵は一緒に連れて行くよう命じます。悟空は隙を見て妖怪を殺そうとします。が、先手を取った紅孩児は三蔵をさらい飛び去ってしまいました。

悟空は猪八戒とともに紅孩児の住まう火雲洞に向かいますが、その彼等の前に紅孩児は、五行(木・火・土・金・水の)をなぞらえた5台の火車を率いて現れ、火攻めで二人を追い払ってしまいます。

火なら水に弱いだろうと、悟空は竜王たちに頼み天から水を降らせますが、まったく効果は無く、そればかりか火から逃げて水に飛び込んだところ仮死状態となってしまいます。

これをみた八戒は、得意の「按摩禅法」を悟空にほどこし、これで息を吹き返した悟空は、今度は牛魔王に化けて堂々と乗り込みに行きます。が、ここで行われた禅問答では、頭の悪い悟空は紅孩児の生年月日を答えることができず、再び逃げ帰るはめになります。

そこで、今度は観世音菩薩に力を借りに行くと、わざと負けて自分のところにおびき寄せるように言われます。こうして、再び紅孩児に戦いを挑んだ悟空は、菩薩に言われたとおり、負けたふりをして逃げ帰ります。

紅孩児は、逃げる悟空を追って補陀落山(ふだらくやま、観音菩薩の住処)まで来ますが、観音様の住処にまで入り込んで、得意になった紅孩児は、目の前にある蓮台に戯れに座りました。すると、突如として蓮台は刀で作られた台に変わり、その刃は紅孩児の両腿に食い込みました。

これはあらかじめ観音が36の天罡刀(てんごうとう)を使って作った罠でした。まったく身動きできなくなった妖怪は頭、両手、両足に金箍をはめられ取り押さえられ、ついには改心し仏門に入りました。

紅孩児を退治した悟空は、その後、芭蕉扇を貸してもらおうと鉄扇公主の館までやってきたわけですが、上のような事情から、息子の紅孩児の仇を見た鉄扇公主は、烈火の如く怒り狂い、二振りの青峰の宝剣をもって襲い掛かりました。

こうして、孫悟空と鉄扇公主の一騎打ちはその日の夕方まで繰り広げられましたが、悟空よりも齢をとった鉄扇公主にはやがて疲労の色が濃くなり、形勢不利と見た彼女は、ついに伝家の宝刀、芭蕉扇を使って悟空をあおぎ吹き飛ばしてしまいます。

悟空が一晩かかって吹き飛ばされた先は、かつて黄風大王の件で世話になった霊吉菩薩の住む小須弥山でした。黄風大王というのは、元は霊山で得度した茶色毛の貂鼠(テン)でしたが、転じて黄砂を引き起こす魔王となりました。

これ以前、三蔵法師一行が以前この黄風大王の住処を通りがかったとき、法師が大王にさらわれるという事件があり、このとき助けてくれたのが霊吉菩薩でした。

霊吉菩薩が、釈迦如来から授かった飛龍寳杖(ほうじょう)という杖を投げつけると、八爪を持つ金龍があらわれて、黄風大王を捕らえました。こうして菩薩は正体のテンの姿を現した黄風大王をかつて暮らしていた霊山へと連れていってくれたのでした。

2015-2417

小須弥山にまで吹き飛ばされた悟空は、こうして再び霊吉菩薩に再会することとなりましたが、これぞ巡りあわせと、このとき再び助けを請います。悟空から事情を聞いた霊吉菩薩は、今度はやはり釈迦如来から授かった、風鎮めの秘薬「定風丹」を彼に与えます。

再び芭蕉洞に取って返した悟空は昨日と同じように鉄扇公主を呼び出し、両者は再び一騎打ちを始めました。

やがてひるんだ彼女は芭蕉扇で悟空をあおぎますが、定風丹のおかげで、少しも飛ばされる気配がありません。せせら笑う悟空を気味悪がった公主は芭蕉洞に逃げ帰り、堅く扉を閉めてしまいました。疲れて喉に渇きを覚えた彼女は、侍女に命じて茶を持ってこさせます。

ところが、孫悟空が1匹の虫に化けてお茶に飛び込み、そうとは知らずにお茶を飲んだ鉄扇公主の胃の中で暴れ回ったため鉄扇公主は腹痛に苦しみ、遂にたまりかねて孫悟空に芭蕉扇を渡すと約束します。ところが、実はこの芭蕉扇は偽物でした。

さっそく悟空はそれを持って火焔山に向かいますが、偽物であったため逆に火の勢いは強まり、全身に炎を浴び両股の毛まで焦げてしまいます。ほうほうの態で引き返してきた彼の前に火焔山の土地神が現れ、鉄扇公主の夫の牛魔王に芭蕉扇の攻略法を教えてもらうよう頼んではどうか、と勧めました。

しかし悟空が牛魔王を訪ねたとき、それを出迎えた愛人の玉面公主のタヌキ面を見た孫悟空は、タヌキのくせに俺の接待をするのか、と横柄な物言いをします。この無礼な態度に玉面公主は怒って牛魔王に告げ口をしたため、牛魔王も「俺の妾に無礼を働くとは」と怒り出してしまいます。

この後、彼らの間で芭蕉扇をめぐって化けくらべや騙しあいなど、延々と戦いや駆け引きが繰り広げられますが、やがて哪吒太子(なたたいし、天帝の部下の子供)たち天将の加勢もあって牛魔王が捕らえられました。夫が捕えられた鉄扇公主もついには観念し、悟空に本物の芭蕉扇を渡し、自らも正しい道に入るべく修行を積むために地上を去りました。

その後西遊記の後に記された「後西遊記」では、羅刹女は翠雲山で仙人として描かれており、また羅刹鬼国では羅刹仙として羅刹行宮に祀られるようになりました。そして、この羅刹鬼国こそがチベットということになります。

西遊記の中でもこのエピソードは人気が高く、中国では1941年にこのエピソードを基にしたアニメーション映画「西遊記 鉄扇公主の巻」が製作されているほか、1966年には香港で映画「鉄扇公主」が作られています。しかし、その鉄扇公主の国こそが、自分たちが蹂躙しているチベットのことだと、どれだけ現在の中国人が知っているでしょうか。

もうすぐ連休です。羅刹仙となった羅刹女が、その鉄扇で、秋の日に雨を降らさないことを祈るばかりです。

2015-2489