台風の余波なのか、すっきりとしない天気が続きます。
が、週末でもあり、秋色が濃くなってきた伊豆へは今日も多くの人々が訪れていることでしょう。
窓の外に目をやると、大通りに連なった桜並木の葉もかなり色づいてきました。この地よりも更に高所にある天城山などではもっと紅葉が進んでいるに違いありません。
天城山ではないのですが、一昨日ひさびさに葛城山へ登ってきました。伊豆の国市にある、標高452mの山です。およそ1千万〜200万年前の海底火山の噴出物と、そこから削られた土砂が近くの浅い海底にたまってできた地層がフィリピン海プレートと本州側のプレートの衝突によって隆起してできました。
この山にはその北側の山麓に、ミカン園があるのですが、ここの駐車場から始まるハイキングコースの終点付近、八合目あたりに、ヒガンバナの群落がある、との情報をタエさんが聞きこんできたのが、行こうと思ったきっかけです。
地元の小坂地区の有志たちが、8年ほど前から植え続けて数を増やしてきたといいます。ミカン園から、せっせせっせと高度を稼ぐことだいたい50分ほど。なるほど八合目あたりからの斜面には、これでもか、とのヒガンバナ畑?が広がり、なかなか良い目の保養になりました。
地元の伊豆日々新聞には、「10万株」と書いてありました。が、これは少々誇張がすぎるのでは? どうなのでしょう。ただ、我々が見ていない場所にも植えられているのかも。いずれにせよ、かなりの量であり、一見には値すると思います。もしこれから伊豆へ来られる予定がある方は、視野に入れてみてはいかがでしょう。
「小坂みかん共同農園」がハイキングコースの起点となっており、比較的広い駐車場もあります。ただ、我々が行ったときは、駐車場は無料でしたが、10月からはミカン狩りが始まるようなので、何等かの規制があるかもしれません。もっとも、10月になってしまってからはヒガンバナも終わってしまっているでしょうが。
この葛城山には、山頂までロープウェイも通っています。この小坂地区から少し西へ離れた、伊豆の国市役所近くにその起点があり、「伊豆の国パノラマパーク」の名称で親しまれています。なので、お年寄りや体が不自由な方、また登山が苦手、という人はこれを利用すれば、楽々山頂まで行くことができます。
山頂の展望所からは富士山や伊豆・箱根の山々をはじめとした360度の展望が広がっており、素晴らしい、のひとことにつきます。ツツジの名所としても知られ、山頂付近には約35,000本のつつじが植栽されています。野鳥の宝庫でもあり、動植物の観察ができるように自然観察路も整備されています。
ところで、葛城山といえば、その昔は葛城嶺とも呼ばれた名峰、奈良の葛城山が有名ですが、なぜ伊豆に葛城山があるのでしょうか。その由来を調べたところ、この葛城山山頂付近には、古くから葛城神社、という社が祀られており、この神社の名を取ったようです。
この葛城神社の本社は、大和国(現奈良県)の葛城下郡にあった、「倭文座天羽雷命神社」と古文書にあるそうで、要は大和から分社してできた神社のようです。いつぐらいからある神社なのかはよくわかりませんが、同神社近くに鎮座している百体地蔵が鎌倉時代の作とされていることから、すくなくともこれ以前の遷宮だと思われます。
遷座された雷命神社がなぜ葛城神社と呼ばれるようになったかですが、これは同じ大和の国にある「金剛山」から来ているのだと思われます。奈良県御所市と大阪府南河内郡千早赤阪村との境目にあり、修験道の開祖役小角(えんのおず、役行者(えんのぎょうじゃ)とも)が修行した山として知られている著名な山です。
その北側には、やはり「大和葛城山」と呼ばれる山があり、歴史的には、現在金剛山と呼ばれている山も含めてこれら一連の山塊を「金剛山」と呼んでいました。その第一峰は高天山と称する標高1,125mの嶺で、御所市にある「葛木神社」の本殿の裏にあたります。
そして、おそらくはこの葛木神社の名称とこの大和葛城嶺の名をもらい、伊豆に分社した神社も同名にし、かつ山名も大和のものと同じ葛城と称するようになったのでしょう。
一方で、伊豆の葛城山は、地元では古来、寝釈迦山とも呼ばれていたようで、これは横臥した涅槃仏に似ていることから ついた名前のようです。なるほど今これを書いている真正面にある葛城山は少々横長で仏様のように見えなくもありません。
この葛城山のある、伊豆の国市の伊豆長岡町は、源頼朝が伊豆に配流された時のゆかりの地でもあります。このため、 源氏再興に係わる史跡や伝説も沢山残っています。 この葛城山にも頼朝が鷹狩りをしたといういい伝えがあり、 山頂には若き日の源頼朝が鷹狩をしたときとされる像があります。
また、鎌倉よりのちの戦国時代の葛城山付近は、しばしば戦場になったようです。伊豆国、駿河国の国境線にあたるため、山麓では北条氏(北条早雲を始祖とする後北条氏)と武田氏が幾たびか戦いました。北条氏は小田原にあった本拠の小田原本城を守るため、ここ葛城山に狼煙台を設け、武田勢の進撃をいち早く発見するのに役立てたと伝えられます。
この葛城山、という山は、上述の大和葛城山(奈良と大阪の境に位置する)のほかにも、和泉葛城山(大阪と和歌山の境)などがあり、それ以外にも各地に同じ呼称の山、あるいは葛城の地名を冠した場所があるようです。
おそらくはそのほとんどが、役小角の弟子たちが、修験道を広めるために各地を回ったときにつけて回った名前でしょう。役小角は、とくに畿内を中心として昔から絶大な人気があり、その彼が修験道を極めたという葛城の地名も、霊験あらかたな名前として珍重されてきたに違いありません。
また、「葛城」という名は、古墳時代からの豪族の名前でもあり、この一族は金剛山の北方に位置する「大和葛城地方(現在の奈良県葛城市付近)」に本拠を置いていました。古代より有力な豪族であり、その支配地域を「高天原(たかあまはら)」であるとする説は有名です。すなわち日本を作ったとされる、天津神が住んでいた場所が、ここです。
天皇家との婚姻も多い事からその説を有力とする学者は多いようです。また天皇家ゆかりの名前であることから、明治時代になってからは、いくつかの軍艦の名としても採用されました。1885年(明治18年)に進水した、その名も「葛城」と呼ばれる帆船がその初代であり、主に測量艦として活躍しました。
同型艦が2隻作られ、その大和、武蔵の2艦も測量艦として、日本沿岸の水路測量に長年貢献しました。
この初代の「葛城」は、日露戦争においても使用され、おもに長崎港の警備に従事しました。艦歴は長く、25年に渡り海軍で使用されましたが、1913年(大正元年)に除籍され、同年中に売却されたとされます。売却後の運命はよくわかりませんが、その後民間の貨物運輸などに使われ、その一生を全うしたのではないかと推測されます。
その後、この「葛城」の名を継承したのは、太平洋戦争末期に就航した、空母の「葛城」です。第二次世界大戦末期に量産された「雲龍型」航空母艦の3番艦で、帝国海軍が建造した航空母艦の中では最後に完成した中型空母です。が、太平洋戦争では出撃の機会は最後までなく、戦争終結後の復員輸送で活躍しました。
同型艦は、ほかに2隻作られ、そのうち「雲竜型」のネームシップ、「雲龍」は駆逐艦3隻に護衛されて有人ロケット特攻兵器「桜花」および空挺部隊をフィリピンへ輸送中、1944年12月19日に米潜水艦の雷撃により撃沈されました。また、同型艦「天城」も1945年7月28日に空襲を受け、呉港外で大破横転し、運用ができなくなり、廃船となりました。
「葛城」は竣工と共に雲龍、天城と同じ、第一航空戦隊に編入されていましたが、このころには日本の戦闘機製造能力は極端に低下しており、搭載航空隊のないまま、特殊警備艦として使用され、出撃の機会を得ないで終戦を迎えたのでした。姉妹艦が不幸な運命を辿ったのに比べれば、幸運な艦であった、という見方もできます。
ただ、葛城も全くの無傷だったわけではなく、1945年3月19日の呉軍港空襲において、空母「バンカー・ヒル」攻撃隊10機の反跳爆撃を受け爆弾1発が右舷艦首へ命中、破片で戦死1名・負傷者3名を出すなどの被害を受けました。
また、7月24日の空襲では「葛城」左舷前部に爆弾1発が命中、高角砲員を中心に戦死13名・負傷5名を出し、7月28日の空襲でも飛行甲板前部エレベーター後方に爆弾2発が命中、1発が至近弾となり、戦死13、負傷12名を出しました。
しかし、被弾したものの致命傷にならず、機関部などの船体下部や艦橋などには大きな損傷はなく、航行可能な状態で8月15日の終戦を迎えました。葛城が空襲を受けた呉沖の三ツ子島の周囲では同型艦「天城」以外にも航空戦艦「伊勢」、重巡洋艦「青葉」が沈没し、対岸の能美島に係留されていた空母「龍鳳」なども大破しました。
これらの艦に比べれば葛城はほとんど無傷のままで終戦を迎えることができ、このほか同じく損傷の少なかった、空母「鳳翔」とともに復員船として用いられることとなります。
終戦後の10月20日に除籍され、連合国軍による武装解除の後、「特別輸送艦」の呼称が与えられました。復員兵士を乗せるために、格納庫への仕切りなどの設置による居住区への改装、それにともなう飛行甲板への通風孔の設置(格納庫には窓がないため)等の改装が行われ、塗装も変更されて、側面に日の丸と「KATSURAGI」の文字が入れられました。
改装により、輸送可能人員は約3,000名から5,000名余となりました。が、被弾のために、膨れ上がった飛行甲板はそのままの状態でした。しかし、特別輸送艦として最大の大きさを持っており、復員輸送は旧海軍省が担当し、1945年(昭和20年)12月から開始されました。
中型の空母ではありましたが、復員船としてはかなりの大型といえ、かつ高速の艦であったために、遠方の南方方面を担当し、南大東島やラバウル、オーストラリア、仏印などを航海しました。約1年の間に8航海、計49,390名の復員者を輸送し、その中には歌手の藤山一郎もいました。
戦争中はほとんど外洋へ出ることもなく瀬戸内海で待機する、という戦艦としては憂き目をみました。が、それが幸いし、戦争終了後に復員輸送艦として大活躍するという、皮肉な艦歴を持つこととなったわけですが、復員任務が終了されるとその短い生涯を終えました。
1946年(昭和21年)11月20日、「葛城」は特別輸送艦の指定を解かれ、12月22日から日立造船桜島工場で解体開始、翌年11月30日にまでには完全に解体されました。
戦前、葛城が建造された以降も、同型艦として、「笠置」、「阿蘇」、「生駒」などの航空母艦が建造されていました。が、いずれも戦況が悪化するなか建造が中止され、戦後すぐに解体されています。中には「阿蘇」のように完成度60%で1944年11月に建造中止され、弾頭の性能実験のために標的として使用された艦もありました。
そういう意味では、初代の帆船であった葛城とともに、非常に運の強い船であった、といえます。また、古来、縁起の良い呼称であるとされる「葛城」の名を冠しただけのことはあった、ともいえるのではないでしょうか。
ちなみに、「葛城」が解体されたこの桜島工場というのは、鹿児島の桜島ではなく、大阪市の此花区(このはなく)にあった工場で、1997年(平成9年)に閉鎖された後、現在はユニバーサル・スタジオ・ジャパンの敷地として使用されています。
日立造船は、1881年(明治14年)に、イギリス人実業家・E.H.ハンターにより、「大阪鐵工所」として創業した会社で、のちの1900年(明治33年)4月にこの桜島工場を拠点として本格操業を開始しました。
1908年(明治41年)には、スタンダード石油向けの 日本初のタンカー「虎丸」を建造するなど、過去においては数々の名船を産み出し、1930年(昭和5年)には、日本郵船向けに氷川丸型貨客船「平安丸」も建造しています。1965年(昭和40年)に竣工した青函連絡船 「羊蹄丸」が建造されたのもこの工場です。
この日立造船で解体された「葛城」と同名の艦は、日本海軍が海上自衛隊となった現在に至るまでありません。また、「葛城」以降、現在に至るまで、日本が建造し、就役させた航空母艦もありません。
ただ、「航空機を運用することを目的とした護衛艦」としては、「ヘリコプター搭載護衛艦」が建造されています。戦後、はじめてヘリコプターを搭載した護衛艦は、1973年就航の「はるな」です。2年後には、同型艦の「ひゅうが」も就役しました。
ヘリコプターという航空機を搭載してはいるものの、敵に攻撃を加える航空母艦ではないため、「護衛艦」と称しているわけですが、航空機の搭載によって、その行動範囲と用途が飛躍的に広がる、という点では、航空母艦と同程度の能力を持っているといえます。
が、このころのヘリコプター搭載艦のヘリコプター搭載数は、わずか3機にすぎず、また、艦形も従来型の護衛艦のように中央部に高楼構造物を持っていました。昔ながらの戦艦のような形状をしており、ヘリコプターは後部甲板から離発着する形式でした。
その後、「ひゅうが型」は退役しましたが、後継艦として昭和50年、51年建造された、しらね型(「しらね」と「くらま」)も搭載数3機であり、同じような形をしています。が、2009年(平成21年)、2011年(平成23年)に就航した、「ひゅうが型」の「ひゅうが」と「いせ」からは、海上自衛隊初の「全通甲板型護衛艦」となりました。
甲板のほぼ8割以上が飛行甲板であり、「しらね型」までは、ヘリコプターはまるで付け足しのような感じでしたが、ようやく本格的な航空母艦の様相を呈してきました。艦載機も最大11機と大幅に増え、場合によっては、ハリアーのようなSTOVL型戦闘機(垂直離発着機)が着艦することも可能であることから、「軽空母」ではないかと言われました。
が、防衛省は「ひゅうが型」における固定翼機運用については公式に発表しておらず、また、攻撃力を有する空母を事実上有しているではないか、とする内外からの指摘に対しては、空母とはまったく本質を異にする艦であるとして、お茶を濁しました。
しかし、その排水量は歴代自衛艦としては、建造当時、最大の13,950トンもあり、イタリアやスペイン、あるいはタイ王国海軍の保有する軽空母と同等か上回っており、誰が見ても空母といえるものでした。
さらに、今年3月に就航したばかりの、「いずも型」の「いずも」に至っては、最大搭載機数14機にまで拡大されました。基準排水量も19,500トンと、前型の「ひゅうが型」を大きく上回っており、旧日本海軍が運用していた「葛城」ほかの正規空母、「飛龍型」の基準排水量、17,300トン、を上回りました。
全長も、飛龍型が227mだったのに対して、248mと上回り、大戦初中期のアメリカ海軍主力空母であった、ヨークタウン級航空母艦(基準排水量:19,800トン、全長:247m)とほぼ匹敵することになります。
現在、同規模の艦にはイタリア海軍の軽空母「カヴール」、スペイン海軍の強襲揚陸艦兼軽空母「フアン・カルロス1世」があり、ジェーン海軍年鑑など日本国外のメディアにおいては事実上、ヘリ空母(helicopter carrier)と呼称されています。
さらに2年後の2017年(平成29年)3月には、同じ「いずも型」の「かが」の就航が予定されています。「いずも」の名は、令制国の出雲国に由来し、旧海軍の出雲型装甲巡洋艦「出雲」に続き日本の艦艇としては2代目であり、また、「かが」は、旧海軍の航空母艦「加賀」に続く2代目です。
これで日本において現役で就航中のヘリコプター搭載艦は、「いずも」に加え、「しらね(白峰三山(白根山)にちなむ)」、「くらま(旧海軍の巡洋戦艦「鞍馬」、雲龍型航空母艦「鞍馬」に続き3代目)」、「ひゅうが(伊勢型戦艦に続いて2代目)」、「いせ(航空戦艦伊勢に次いで2代目)」の5隻にもなりました。
しかも、「しらね」以外は、すべて旧帝国海軍の戦闘艦名を復活させたものであり、戦前の海軍の復活を目論んでいるのではないか、といわれても防衛省は開き直ることはできないのではないでしょうか。
ちなみに、「しらね」だけがなぜ旧帝国海軍の艦船名にならなかったか、については、当時の防衛庁長官だった金丸信氏が自分の選挙区にあった白根山からつけさせたというのは有名な話です。当初予定では旧金剛型戦艦の名前を貰い、「こんごう」になる予定だったといわれています。
なので、そう遠くない未来に、旧帝国海軍最後の航空母艦、「葛城」の名をとった、「かつらぎ」が登場するのではないか、と私は信じています。
気になるこの最新型の「いずも」の戦闘能力ですが、前型である「ひゅうが型」は単艦でもかなり高い戦闘能力を持っていましたが、「いずも型」では艦そのものの戦闘能力は低く抑えられており、ヘリコプターの運用に重点を置いた艦だそうです。
多機能レーダーやソナーは簡略化されており、武装も最低限の自衛火器を除いては搭載せず、対潜用の魚雷すらないといいます。これは前型の「ひゅうが型」の時点ですでに艦本体が洋上を機動して対潜その他戦闘に従事するには限界の大きさを超えたいたため、といわれています。
ひゅうが型ですら、排水量などでは既に第二次世界大戦期の重巡洋艦クラスに相当しており、これ以上の大きさとなる「いずも型」ではもう機動性は無視し、むしろ、艦隊中核のプラットフォーム、つまり、海上航空隊の司令塔としての機能に徹する運用が想定されているそうです。
すなわち単艦では運用せず、護衛艦(例えばイージス艦)を伴った艦隊として運用することを前提としており、つまりは護衛艦としての機能を捨て、昔の航空母艦と同じように、航空機の離発着に特化した役割のみを持たせることに立ち返った、ということがいえます。
戦後70年目にして、日本はついに戦前と同様に航空母艦を持った、といわれてもこれはもう仕方のないことでしょう。
先だっての安保法案の通過にともない、今後は、専守防衛の名のもとに、実際に固定翼機の離発着が可能な航空母艦の建造が始まるのかもしれず、もしかしたら、既に就航している最新型の「いずも」には、ヘリコプター以外の固定翼機が格納できる装置が秘密裡に搭載されているかもしれません。
また、いずれ「いずも型」の後継艦として建造されるであろう、その1番艦には再び、太平洋戦争時の最後の航空母艦、「かつらぎ」の名が与えられるのかもしれません。
役行者は今から約1,300年前、16歳の時から、葛城山のある金剛山で修行し、全国各地の霊山へ駆け巡ったと伝えられます。これから生まれるであろう、この「かつらぎ」もまた、多くの自衛艦がこれに乗船し、世界各国を回って修行をする場になっていくに違いありません。
が、くれぐれも戦争に巻き込まれないよう、願いたいところです。