楽寿園 ~三島市


きのう、三島にちょっとした用事があったため、そのついでにと、タエさんと二人で三島駅のすぐ南側にある、「楽寿園」にはじめて行ってきました。

この楽寿園、すぐ近くには三島大社もあり、江戸時代までは、愛染院といわれたお寺や(現在は廃寺)、浅間神社、広瀬神社、といった古い神社のある社寺域だったそうですが、1890年(明治23年)に皇族の「小松宮家」の「彰仁親王」の住居が造営され、その庭とともに広大な邸宅となりました。

彰仁親王ってどのくらいエライひとだったのかな?と調べてみたところ、「伏見宮」の「邦家親王」という皇族の第八子だそうで、この邦家親王のさらにお父さんの「貞敬親王」という人が、江戸時代に皇位継承候補として名が挙がったことがあるそうです。

なので、「伏見宮家」とは、その中からは天皇が出てもおかしくないお家柄で、この「彰仁親王」も幕末の1858年(安政5年)に、仁孝天皇の猶子(後見人的な養子)となり、京都の「仁和寺」の門跡にも就任したことから、1867年(慶応3年)から、「仁和寺宮」「嘉彰(よしあきら)親王」と名乗るようになりました。

明治維新後は、軍事総裁などに任じられ、戊辰戦争では、奥羽征討総督として官軍の指揮を執ったほか、明治7年に勃発した佐賀の乱においては征討総督として、また、同10年の西南戦争にも旅団長として出征し乱の鎮定に当たるなど、皇族ながらも軍人としての前半生を送っています。

1881年(明治14年)には、こうした軍人としての功労が顕彰され、家格を「世襲親王家」に改められ、その翌年の明治15年に、宮号を仁和寺の寺域の旧名小松郷に因んで「小松宮」その名も「彰仁」に改称しました。

この人物は、ヨーロッパの君主国の例にならって、皇族が率先して軍務につくことを奨励し、自らも率先垂範したそうで、1890年(明治23年)には、自ら陸軍大将に昇進し、近衛師団長、参謀総長を歴任、日清戦争では征清大総督に任じられ旅順にまで出征。そして、1898年(明治31年)に元帥府に列せられ「元帥」の称号を賜っています。

「皇室外交家」として国際親善にも力を入れていたようで、明治19年にはイギリス、フランス、ドイツ、ロシア等ヨーロッパ各国を歴訪。また、1902年(明治35年)には、イギリス国王エドワード7世の戴冠式に明治天皇の名代として臨席しています。

このほか、社会事業では、日本赤十字社、大日本水産会、大日本山林会、大日本武徳会、高野山興隆会などの各種団体の総裁を務めたそうで、現在の皇族の方々が行っているような「公務」のことごとくを任じ、このため「公務の原型を作った人」として歴史に名を刻まれるようになりました。

しかし、この小松宮彰仁親王も1911年(明治44年)に没(享年57才)。このため親王の別邸として整備されたこの邸宅は、1910年(明治43年)に行われた日韓併合から、王公族として日本の皇族に準じる待遇を受けるようになった、韓国の王世子(皇位継承第一順位の皇太子)である「李垠(りぎん)」という人のものとなりました。

李垠は、李氏朝鮮(朝鮮国)が大韓帝国と改称した年に生まれ、大韓帝国第二代皇帝の「純宗」が即位のときに大韓帝国皇太子となりました。

幼少期に当時日韓併合による韓国および朝鮮半島一帯の統治を検討していた日本政府の招きで訪日し、学習院、陸軍中央幼年学校で学び、その後も陸軍士官学校で教育を受けており、こうした経歴は清朝におけるラストエンペラーこと、愛新覚羅溥儀とどこか似ています。

持ち主がこの李垠に変わったことで、この別邸も「昌徳宮」と呼ばれるようになりましたが、1927年(昭和2年)に、伊豆出身の資産家の緒明圭造(おあけけいぞう)という人へ売却。

この緒明圭造という人物がどういう人物だったのかよくわかりませんが、伊豆の戸田に同じ緒明性で「緒明菊三郎」という人がおり、おそらくはその人の子孫だと思われます。

この緒明菊三郎という人は、このブログでもたびたび取り上げてきた「ヘダ号」の造船に関わった父の嘉吉について洋式造船の技術を学び、その後各江戸に出て隅田川で一銭蒸気船を始めて財を成し、東京の第4台場で「緒明造船所」を造り、日清戦争、日露戦争の頃には日本の造船王、海運王にまで成った人です。

李垠による昌徳宮の売却の理由はよくわかりませんが、李家はこの広大な敷地と別邸を維持していくだけの十分な資金援助を日本政府から得ていなかったのではないかと思われるフシがあります。

このため生活費に窮し、昌徳宮まで売ろうと思いましたがなかなか売れないので、とうとう切り売りしようとしたところ、緒明圭造がこの話を聞き、東海の名園が無くなるのは勿体無いということで、昭和2年当時、三島町の年間予算が30万円の時代に当時の金額、百万円を出し、これを買い入れたということです。

この李垠という人は、これに先立つ1920年(大正9年)に、日本の皇族の梨本宮家の第一女子、方子(まさこ)という人と結婚しています。その婚礼の直前に婚儀の際に朝鮮の独立運動家によって暗殺されそうになっており(李王世子暗殺未遂事件)、こうしたきな臭いご時世において、昌徳宮のようなオープンな場所は適当ではないと判断したのが別の理由だったかもしれません。

ちなみに、この夫婦には結婚の翌年に「晋」という名前の男子が誕生しており、1922年(大正11年)、夫妻は、この子を連れて朝鮮を訪問。李王朝の儀式等に臨みましたが、帰国直前にこの晋は急逝しています。

晋の死は急性消化不良と診断されていますがその一方で、日本軍部による毒殺説が流布されています。日本人の血が流れる子が李王朝側で利用されるのを恐れたとか、いろいろ説はあるようですが、詳細は歴史の謎の奥のままです。

方子妃はその後も、自分に課せられた日本と朝鮮の架け橋としての責務を強く自覚し、祖国を離れて日本で暮らす夫の李垠を支えましたが、そのまま第二次世界大戦に突入。やがて日本の敗戦による朝鮮領有権喪失と日本国憲法施行に伴い、李垠・方子夫妻は王公族の身分と日本国籍を喪失して一在日韓国人となりました。

その後、邸宅・資産などを売却しながら、細々と生活を送っていましたが、戦後の大韓民国の初代大統領「李承晩」は、二人が戦時中から日本軍属の肩入れをしてきたことをとりあげて韓国への帰国を拒否。このため祖国に帰ることもままならず、そんな中、李垠は1960年(昭和35年)に脳梗塞で倒れます。

李承晩退陣後の1963年(昭和38年)、朴正煕大統領の計らいで夫妻はようやく帰国を果たすことができ、二人の生活費は韓国政府から支出されるようになり、ようやく夫婦に安堵の生活がもたらされるようになりました。しかし、その生活も長く続かず、李垠は1970年(昭和45年)に死去(享年73)。

その後、韓国に帰化した方子夫人は李垠の遺志を引き継ぎ、当時の韓国ではまだ進んでいなかった障害児教育(主に知的障害児・肢体不自由児)に取り組むようになりました。

趣味でもあった七宝焼の特技を生かし「ソウル七宝研究所」を設立して、自作の七宝焼の他にも書や絵画を販売したり、李氏朝鮮の宮中衣装を持って世界中を飛び回り王朝衣装ショーを開催する等して資金を集め、知的障害児施設や知的障害養護学校を設立。

戦後は元日本人皇族である方子夫人に対して、韓国の人々からは厳しい目が注がれていたようですが、やがて、こうした方子夫人の貢献が韓国国内でも好意的に受け止められるようになり、1981年(昭和56年)には韓国政府が「牡丹勲章」を授与。韓国人「李方子」としてようやくそしてその功績が認められました。

その後方子夫人は、終戦後の混乱期に韓国に残留したり、終戦の混乱の中にあってさまざまの事情を抱えた日本人妻たちの集まりとして、「在韓日本人婦人会」を設立し、これを「芙蓉会」と命名してその初代名誉会長を勤めました

また、韓国の知的障害を持つ子供のための福祉活動や病気治療のために度々来日し、その際、昭和天皇や香淳皇后を始めとする皇族にも面談して日韓両国の友好を訴えたりしていますが、その際、かつての皇室内の親族とも会う機会を持ったといいます。

1989年(平成元年)4月30日逝去、享年87。葬儀は旧令に従い、韓国皇太子妃の準国葬として執り行われ、日本からは三笠宮崇仁親王夫妻が参列し、後に韓国国民勲章槿賞(勲一等)を追贈されたそうです。

このような激動の時代を生きた「韓国人夫妻」のもと住居であった昌徳宮は、1952年(昭和27年)に三島市によって購入され、同年7月から「楽寿園」に名前を変え、市立公園として一般公開されるようになります。

1954年(昭和29年)には小浜池(こはまがいけ)と周囲の自然林・植生を含む庭園が国の天然記念物および名勝に指定され、さらに内部の整備が進められ、現代に至るまで三島市民の憩いの場であるとともに、観光名所としても名をあげ、市外からも多くの人が訪れるようになりました。

楽寿園は、そもそも富士山が約1万4000年前に噴火した際に流出した三島溶岩の上に造られ、もとから富士山の雪解け水が豊富な場所に造られました。この三島溶岩流の跡は園内各地に露頭していて、あちこちに「縄状溶岩の跡」とかいろんな溶岩の地質学的な名称やその説明看板が出ています。

小浜池は、敷地内の一番南側にあり、ここからは富士山からの湧水がこんこんと湧き出ています。この池を起点として、蓮沼川と源兵衛川という川がその南側に広がる三島市街域を流下っていますが、池の水位は季節によって変化し、降水量の多い夏期に増加、冬季に減少します。

この小浜池は、かつては三島湧水群を代表する水量を誇ったといいますが、昭和37年頃から湧水の枯渇が続いており、私たちが行ったときにも、池の一番中央部分にはほとんど水が貯まっていませんでした。工業用水の汲み揚げとの関係が指摘されています。しかし、雨量の多いときなどには結構貯まることもあるそうで、今年も9月頃にはかなり上のほうまで水位が上がったということです。

小浜池そのものはあらかた干上がってしまっていますが、一定量の湧水はまだまだ湧きだし続けていて、園内にはあちこちに浅い沼ができあがっていて、その周囲には緑陰ができ、水鳥や昆虫たちが集まるオアシスになっています。沼からあふれた水は南側へ溢れ出し、これが源兵衛川や蓮沼川といった市内を流れる清流の源泉となっています。

小浜池には、これを借景にして、旧昌徳宮だったころの京都風の高床式数寄屋造りの建物がしつらえられていますが、我々は時間の関係もあって、内部には立ち入りませんでした。かつてはそこから満々と水をたたえた小浜池が見えたでしょうが、今は溶岩流の名残の岩ばかりの池底になっていたためでもあります。

庭園と共に小さな遊園地と動物園が併設されていて、小さな子供さんをつれたご家族が大勢ではありませんでしたが、ちらほらといらっしゃっていました。

かつてはゾウやキリンなどの大型動物も飼育されていたこともあったそうですが、今はこうした大きなものはおらず、一番大きなもので、アルパカやラマ、ロバぐらいでしょうか。ほかに猿やミーアキャットといった小動物もたくさん飼育されています。

しかし一番の人気者は、レッサーパンダでしょう。一匹だけのようですが、愛くるしい顔で愛想を振りまき、こそこそと足早に歩き回る姿は、まさに歩くぬいぐるみです。このほかにもウサギやハムスターなどの小動物とのふれあいコーナーなどもあり、小さな子供さん連れで訪れ、ひととの憩いを得るにはなかなか良い場所だと思います。

我々はこのあと、この小浜池から流れ出す源兵衛川沿いの散策や、古くから三島を代表する商店街であった三島広小路などを散策しましたが、今日はもう紙面の関係からこれくらいにして、その詳細はまた別の機会に記したいと思います。

源兵衛川はかつてはドブ川とまで言われた川だったそうですが、町ぐるみの再生によって清流を取り戻し、いまや柿田川湧水群とともに三島市の「顔」とまで言われるようになった名勝地です。きれいな写真も撮れましたのでまたアップしましょう。

そうそう、そういえば楽寿園や源兵衛川では、カワセミも見かけました。しっかりとその姿を見せてはくれませんでしたが、青く光り輝く羽根をはばたかせながら、水辺を飛んで緑の藪の中に消えていった様子はやはり森の妖精といった風情でした。

青い鳥をみたら幸せになるといいます。そんな昨日の今日ですから、きっといいことがあるに違いありません。今日これから起こるラッキーを期待しつつ、今日の項はこれくらいにしたいと思います。