1912年に、北大西洋上で氷山に接触して沈没したタイタニック号の遭難者の中には、多数の有名人がいました。
その中には、タイタニックの設計者であるトーマス・アンドリューズをはじめとして、アメリカの実業家や、小説家、著名な図書収集家や土木技術者なども含まれていましたが、もうひとり、ウィリアム・トーマス・ステッド(William Thomas Stead)という人がいました。
イギリスのジャーナリストであり、スピリチュアリズムの開拓者ともいわれ、タイタニックの沈没を予言していたともいわれる人物です。
1849年にイングランド最北の地、ノーザンブリアというところで英国教会の牧師であった父の元に生まれ、学校には行かず、この父から教育を受けて、14歳でニューキャッスルの会計事務所で働き始めました。
もともと文才があったようです。21歳のときに地元の新聞に寄稿し、認められて編集者になり、ここで10年以上勤めたあと、34歳のときにロンドンに出て「ペルメル・ガゼット」という新聞社の編集者となりました。
その後、救世軍に助けを求めた少女を取材したのをきっかけに、同紙に「現代のバビロンにおける少女の生贄」を掲載して白人少女奴隷売買に反対するキャンペーンを張るなどの活動を始めましたが、この運動では34万人の署名を集めました。また、政府を動かして女性の性交同意年齢を13歳から16歳に引き上げることに成功しました。
救世軍(The Salvation Army)というのは、現在も世界126の国と地域で伝道事業、社会福祉事業、教育事業、医療事業を推進するプロテスタント系の教派団体で、日本でも日本福音同盟に加盟して活動を行っています。
アメリカの著名な経済専門誌「フォーブス」の1997年8月11日号ではピーター・ドラッカーから「全米で最も効率の高い組織」として評価され、1991年と2004年にはノーベル平和賞候補に挙げられており、現在イギリス国内においては政府に次ぐ規模の社会福祉団体であり、全世界でも有数な社会福祉団体です。
42歳のとき、この救世軍の創立者ウィリアム・ブースによる、英国の貧困層3百万人の救済構想「最暗黒の英国及びその出路」が執筆されたときにもこの出版に協力しており、現在の救世軍の礎を築いた人物のひとりといっても過言ではないでしょう。
実はこのトーマス・ステッドは、霊媒師としても知られており、自動書記能力を持っているとされていました。ウィリアム・ブースの著作の出版に尽力していたころの4年間ほどには、自らの自動書記を通じて、死去した友人ジュリア・エイムスという人物からの通信を受け取ったとして、それを編集したもの出版しています。
これは「Letters from Julia」(ジュリアからの便り)というタイトルの本で、これはイギリスのみならず世界的にみてもスピリチュアリズムの本としてはもっとも売れたもののひとつです。
1909年、故ジュリアからの要望と称して、霊界通信のための事務局「ジュリア顕幽連絡局」を設立し、肉親と死別した人々のため無償で通信を試みるなどの新たな取り組みも開始し始めていましたが、その三年後の1912年、ステッドはタイタニック号沈没で死去。享年63歳でした。
この「自動筆記」ですが、「自動記述」ともいわれ、原語の英語表記ではオートマティスム(Automatism、Automatic writing)といいます。もともとは心理学用語であり、科学的にも研究されています。
あたかも、何か別の存在に憑依されて肉体を支配されているかのように、自分の意識とは無関係に動作を行ってしまう現象などを指します。
たとえば霊媒や、予言者・チャネラーなどと呼ばれる人々は、「死者の霊が下りてきた」「神や霊に命令されている・体を乗っ取られている」「高次元の存在や宇宙人とチャネリングと行う」などの「理由」により、無意識的にペンを動かしたり語り始めたりする行動です。
その多くは霊などがこの世界に接触を図る方法として説明されており、日本ではかつて「神がかり」「お筆先」とも呼ばれていました。
以前、我が家に泊まりにいらっしゃったことのある広島の御神職、Sさんもこの自動書記ができる方で、我々夫婦も先祖の霊からの伝言を自動書記していただいたことがあります。
私の場合、Sさんに見て頂いたときは、かなり古い先祖の霊が降りてこられたようで、文書化されたその文章もかなり古い日本語でした。今も大事に取ってありますが、そのことはまたいつか別の機会にでも書きましょう。
この「自動書記(Automatism)」というものを世界的に有名にしたのは、フランスの詩人でダダイストでもあったアンドレ・ブルトンであるといわれています。
アンドレ・ブルトンは、第一次世界大戦後にダダイスムと決別して精神分析などを取り入れ、新たな芸術運動を展開しようとした人物として知られています。
ダダイスム(Dadaïsme)というのはフランス語で、1910年代半ばに起こった芸術思想・芸術運動のことです。ダダイズム、あるいは単にダダとも呼ばれます。
第一次世界大戦に対する抵抗やそれによってもたらされた虚無を根底に持っており、既成の秩序や常識に対する、否定、攻撃、破壊といった思想を大きな特徴とし、このダダイスムに傾倒した芸術家たちはダダイストと呼ばれました。
アンドレ・ブルトンは、第一次世界大戦頃、この当時はまだフランスではあまり知られていなかったオーストリアの精神分析学者、フロイトの心理学に触れ、終戦後ルイ・アラゴン、フィリップ・スーポーといった共産主義文学者らとともに、ダダに参加しました。
が、1920年代に入ってダダの中で台頭してきた別の一派と対立するようになり、盟友のアラゴンやスーポーらとともにダダと決別します。そのあと1924年になり、盟友のアラゴンやスーポーらとともに新たな芸術運動を展開、その活動開始を宣言する「シュルレアリスム宣言」の起草によって、いわゆるシュルレアリスムを創始しました。
シュルレアリスム( Surréalisme)はフランス語で日本語では「超現実主義」と訳されます。自動書記によって眠りながらの口述や、常軌を逸した高速で文章や絵を書く実験から始まったもので、半ば眠って意識の朦朧とした状態で芸術作品を仕上げていきます。
このとき、彼が宣言前後から行っていた詩作の実験がのちにオートマティスム(自動書記)と呼ばれるようになっていきました。
自動書記は、内容は二の次で時間内に原稿用紙を単語で埋めるという過酷な状態の中で作業を進めます。美意識や倫理といったような意識が邪魔をしない状況の中で書かれるもので、こうした奇抜な方法により、それまで誰もが考えもしなかったような意外な文章が出来上がるといいます。
無意識や意識下の世界を反映して出来上がった文や詩から、自分達の過ごす現実の裏側や内側にあると定義されたより過剰な現実・「超現実」が表現でき、自分達の現実も見直すことができるといわれています。
この自動書記に代表されるシュルレアリスムとは、もともとはまるで夢の中を覘いているような独特の現実感といったような意味で、略語の「シュール」は日本語では「非現実的」「現実離れ」と訳され、現在の日本ではブラックジョークを指す時のことばとして扱われることもあります。
やがてシュルレアリスムということば、文学作品だけでなく、絵画や写真の世界でも使われるようになり、新しい芸術の形態、主張として定着していきました。
シュルレアリスムは、思想的には上述のフロイトの精神分析の強い影響下にあって人間が意識していないいわゆる「無意識」を表現するという心理学的側面を持っていました。
また、視覚的にはジョルジョ・デ・キリコに代表される形而上絵画作品の影響下にありました。
形而上絵画というのは、キリコの典型的な作品の例をあげると、画面の左右で、遠近法における焦点がずれている、彫刻、または、マネキンなどの特異な静物が描かれている、長い影が描かれている、時計は、正午示しているのに、影がひどく長い、煙を吐く汽車が描かれてきるのに、煙はまっすぐ上に向かっている、などなどです。
こうした「いびつな」絵を見る者は、静謐、郷愁、謎、幻惑、困惑、不安などを感じることが多いものですが、これが書き手の狙いでもあり、個人の意識よりも、無意識や集団の意識、夢、偶然などを重視する技法です。
こうした技術がシュルレアリスムと直結しました。結果として文学や絵画全体を含めて合体し、自動筆記による文学作品やデペイズマン、コラージュなど偶然性を利用して見る側の主観を排除した技法や手法として世界中に広まっていきました。
コラージュというのはお分かりだと思います。新聞の切り抜き、壁紙、書類、雑多な物体などを組み合わせることで、例えば壁画のような造形作品を構成する芸術的な創作技法であり、見る相手を混乱させます。
デペイズマン (dépaysement) というのは、もともとは「異郷の地に送ること」というような意味ですが、こちれも意外な組み合わせをおこなうことによって、受け手を驚かせ、途方にくれさせるという技法で、マグリットやキリコなどが得意とした技法です。
例えば、野球をする人たちの上に黒いオサガメが浮かんでいる、部屋いっぱいに、巨大なリンゴが描かれている、絵の一部が夜なのに、他の一部が昼であったりする、石でできた巨大なリンゴとナシ、波打ちぎわに上半身が魚・下半身が人間の体をした生き物が横たわっている、などの奇抜な絵をご覧になった方も多いでしょう。
キリコらの形而上絵画とも似てはいますが、困惑、不安などは感じさせず、こちらはあくまで受けてを驚かせ、混乱させ、別の次元に連れて行くことを目的とした技法です。
なお、アンドレ・ブルトンが見限ったダダイスムとシュルレアリスムの関係としては、ダダに参加していた多くの作家がシュルレアリスムに移行しているという事実からしてもわかるように、思想的にも似通っています。いずれも既成の秩序や常識等を否定し、新しい芸術分野を切り開こうとした点では共通点が多いようです。
ダダイズムはシュルレアリスムの勃興により衰えましたが、1960年代にアメリカで復興し、これはネオダダと呼ばれ、「反芸術」運動として隆盛し、のちのポップ・アートやコンセプチュアリズムなどへと分岐するもととなりました。ダダの表現方法とし現在も生き残っているものの代表には写真表現としてのフォトモンタージュなどがあります。
さて、このようにシュルレアリスムは、アンドレ・ブルトンはらの詩人によって先導されました。その後他の芸術分野にも広く支持され、多岐にわたって派生し、絵画だけでなく写真の分野などでも大きな影響を与えたことは上述のとおりです。
写真の世界でシュルレアリスム写真家として最も有名なのはマン・レイでしょう。ダダにも参加しており、もともとは画家でもあり、実験映画なども作った多才な人でした。もう一人、写真家のアンリ・カルティエ=ブレッソンも有名な人ですが、彼もまたこの頃シュルレアリスムの影響を受けているとも言われています。
一方、シュルレアリスムに属する主たる画家としては、マックス・エルンスト、サルバドール・ダリ、ルネ・マグリット、イヴ・タンギー、ポール・デルヴォー、エドガー・エンデなどがいます。ピカソも後にシュルレアリスムに傾倒したそうです。
シュルレアリスム絵画の書き手たちもまた、自動筆記を多く用いたといわれています。ほかにもやデペイズマン、コラージュなどの技術を駆使し、自意識が介在できない状況下で絵画を描くことで、無意識の世界を表現しようとしました。
彼らの絵画は具象的な形態がなくさまざまな記号的イメージにあふれており、また不条理な世界、事物のありえない組み合わせなどが写実的に描かれました。
ちなみに私はこのダリが大好きで、スペインに仕事で行った折りには、時間を作ってわざわざわざバルセロナのダリ美術館へ作品を見に行きました。無論とても素晴らしいものでしたが、驚いたのはその細緻さで、細かい部分は0.1mmもあるかないかの細い線で描かれていて、これはとても素人では真似はできないわ、と思いました。
ダリといえば奇抜なファッションやびよ~んと上に伸びた髭が有名ですが、ダリの絵のあの幻想的な雰囲気は確固たる技術に裏打ちされているのであって、単なる酔狂な変人が描いたお遊び絵画ではありません。
ダリに代表されるようにシュルレアリスムのブーム下では、夢や無意識下でしか起こりえない奇妙な世界が数多く描かれましたが、彼らの絵の中に出てくる人物や風景はあくまで具象的であり、ダリの絵と同じくその多くは非常に細密です。日本画でいえば、横山大観とか、古き時代の狩野派の画家でしかなしえないような綿密な写実の技術を持っています。
こうした奇妙な世界を写実的に描くダリやマグリットの作品は、見るものに強い混乱を起こすとともに、その対照的で親しみやすい画風から一躍人気作家となりましたが、特にダリはアメリカで大人気を博しました。
ただ、晩年にはあまりにも金儲けに走ったため、後にかつてのシュルレアリスム関係者から「ドルの亡者」と非難されています。
こうしたシュルレアリスムの大家たちは、作品の内容こそ色々違いがありますが、いずれもが独自のトランス状態を作り出し、何等かの憑依状態にあって作品を作っていったといわれています。
話が絵画などの芸術作品のほうの話に飛びすぎたきらいがあるので、少し元に戻していこうと思います。
冒頭で紹介したトーマス・ステッドが1912年にタイタニック号沈没で死去したのち、彼が創った肉親と死別した人々のため無償で通信を試みる組織、「ジュリア顕幽連絡局」は資金難で一時中断しました。
しかし、その二年後の1914年には、ステッドの友人の支援で「ステッド局」という名称で再開し、1914年、生前ステッドがあの世のジュリアから自動書記で受け取ったとしていたとされる、7年間にもわたった通信を娘のエステルが発表。これは、“After Death or Letters from Julia(邦題 死後-ジュリアからの便り)”として刊行されました。
彼の死後、ステッド自らがは複数の交霊会に現れたとされており、さまざまな手段で通信を送ってきたといい、死後も苦しんでいる霊を救済する仕事をしていたとされています。
その死後の4年後の1916年には、精神科医のウィックランド博士が催した交霊会にもステッドが現れたとされており、タイタニック号事件で水死した人の霊を連れて来て、博士のカウンセリングを受けさせたそうです。
このウィックランド博士という人は、正確にはカール・オーガスト・ウィックランドと(1861~1945年)といい、スウェーデン生まれの米国精神科医です。妻のアンナを霊媒とし、Mercy Band (マーシーバンド)と呼ばれる霊界の医療団とともに精神病の治療を行ったとされています。
青年期まで父から家具職人と時計職人の技術を学んだ後、20歳で渡米。シカゴに移住してダラム医科大学で精神医学を専攻したあと、1909年から9年に渡って国立シカゴ精神病学会の会長を務めました。その後ロサンジェルスに移住し、国立精神病学会の研究機関で晩年まで精神科医として働き続けました。
ウィックランド博士が心霊現象に興味を持つようになったきっかけは患者だったといい、心霊現象を調べるため交霊会に出席するうちに、妻のアンナに優れた霊媒能力があることがわかったといいます。
やがて妻を通して、霊界の医療団から治療に協力するよう要請を受けるようになります。人間に憑依した霊は混乱した精神状態にあり、感覚的にも地上人に近く、霊界の医療団を見たり声を聞いたりできず、治療を受けることもできないといいます。このため、一度博士の妻の体を借りて霊を説得する必要があったのだそうです。
治療ではまずアンナが霊の憑依を確認し、博士たちが患者に軽い電気ショックを与えて、憑依している霊をアンナに乗り移らせ、次に博士が霊に状況を説明し、自分の肉体の死を認めるようにもっていきました。
そして、霊の生前の様子を聞いて問題点をはっきりさせ、それを乗り越えて霊界に行くよう説得します。霊が納得して霊界に向かう気が起きると、霊界の医療団の協力で家族が迎えに来たり、霊が自ら離れて行ったりしてこうして「除霊」が完了します。
治療が終了し霊が離れると、多くの患者は生来の人格を取り戻したといいます。
ただ、患者によっては多数の霊が憑依しているため、数回にわたる治療が行われ、また、どうしても説得に応じない霊も中にはおり、こうした場合には霊界の医療団が隔離し、特別に治療したそうです。
こうした「患者」には狂信的な宗教者に間違った信仰を教え込まれた者や、わがまま一杯に育った青年、麻薬中毒患者などの霊が多かったそうです。
さて、このように、ウィックランド博士が行った除霊も、トーマス・ステッドが得意とした自動書記もいずれもが、「憑依」というものを利用している点が特徴です。
シュルレアリスムの小説家や画家たちもまた、何か別の存在に憑依されて肉体を支配されているかのように、自分の意識とは無関係に作品を作ったとされています。
いずれもが、本人がその行動をとっているのではなく、死者の霊や高次元の存在、時には神や宇宙人といった存在によって憑依されることで、無意識的にペンや筆を動かしたりするといわれています。
この憑依ということばですが、これはドイツ語の Besessenheit や英語の “spirit”“ possession” などの学術語を翻訳するために、昭和ごろから使われるようになり、特に第二次世界大戦後からは一般的にも用いられるようになったもののようです。
文字どおり霊などが人に乗り移ることで、憑(つ)くとは「憑りつく」の意味です。憑霊、神降ろし・神懸り・神宿りなどがそれであり、「憑き物」ともいう場合もあります。とりつくのが霊の場合、時には悪魔憑き、狐憑きなどと呼ばれる悪質なものである場合もあるようです。
古代から、シャーマンという職業霊媒師が、世界中に存在しました。トランス状態に入って超自然的存在(霊、神霊、精霊、死霊など)と交信する現象を起こすとされる職能・人物のことであり、憑依はこうしたトランスの一形態であり、通常はある人物に対して、外在する何等かの霊がこの人物の行動を支配します。
こうした職業霊媒のように、人間が意図的に霊を乗り移らせる場合もありますが、一方では霊が一方的に人間に憑くとされるものも多く、しかも本人がそれに気がつかない場合もあるといいます。
とりつく霊とされているのは、本人やその家族に恨みなどを持つ人の霊であったり、動物霊であったりする場合もあります。何らかのメッセージを伝えるために憑くとされている場合もあり、あるいは本人の人格を抑えて霊の人格のほうが前面に出て別人になったり、動物霊が憑依した場合は行動や容貌がその動物に似てくる場合さえあるそうです。
こうした悪質な憑依霊が様々な害悪を起こすと考えられる場合は、これは「霊障」と呼ばれています。
イギリスの超常現象専門の研究者として知られるリン・ピクネットという女性は、種々の文献や、証言を調査した結果、憑依という現象は太古の昔から洋の東西を問わず見られることを確認しています。
すでに人類の歴史の初期段階から、トランス状態に入り、有意義な情報を得ることができるらしい人がいたことが分かっているそうで、その後部族社会が出現しはじめた頃には、憑依状態になった人たちはいつもとは違う声で発語し、これによって周囲の人々は霊が一時的に乗り移った気配を感じていたらしいことなども明らかになっています。
初期文明では憑依は「神の介入」と見なされていたようですが、古代ギリシャのヒポクラテスは「憑依は、他の身体的疾患と同様、神の行為ではない」と異議を唱えていたといいます。
古代イスラエルのヘブライ語聖書、すなわち旧約聖書にも憑依の記述は存在するそうで、その状態は霊に乗っ取られた状態であり、乗っ取る霊は悪い霊のこともあり、サタンの代理として登場する記述があるといます。
キリスト教では、憑依に対する見解は時代とともに変化が見られ、聖霊がとりつくことが好意的に評価されたり、中世には魔法使いや異端と見なされ迫害されたり、近代でも悪魔祓いの対象とされたりしました。現在でも憑依についての解釈は宗派によって、見解の相違が存在します。
しかし、時代が下るほど憑依を悪霊のしわざとする考え方が一般的になり、憑依状態の人が語る内容がキリスト教の正統教義に一致しない場合は目の敵にされ、そこまでいかないまでも、憑依は悪魔祓いの対象とされるようになりました。憑依状態になる人が、魔法使い、あるいは異端者として迫害される事例が多くなっていきました。
1630年代のフランスのルーダンで起きた「尼僧集団憑依」事件では、尼僧たちの悪魔祓いを行うために修道士でシュランという人物が派遣されましたが、このシュラン自身も憑依されてしまったそうです。
このとき、尼僧の一人でジャンヌという人がこう証言しています。
「卑猥な言葉や神をあざける言葉を口にしながら、それを眺め耳を傾けているもうひとりの自分がいた。しかも口から出る言葉を止めることができない。奇怪な体験だった。」
しかし、現在ではキリスト教徒の中にも実践的な人が増え、「憑依は悪魔のしわざ」説はかなり説得力を失っているようです。が、英国国教会のように今でも悪魔祓いを専門とする牧師団が存在す組織もあるようです。
それでは日本などのアジアにおいてはどうかというと、北海道・樺太・シベリア・満州・モンゴル・朝鮮半島を中心とした北方文化圏から沖縄(琉球)・台湾・中国南部・東南アジア・インドを中心とした南方文化圏に至るまで、広くシャーマン、巫師・祈祷師と呼ばれる人が古くから存在しました。
とくにシャーマンが行う自動書記は、日本では「神がかり」「お筆先」とも呼ばれ、これは神霊などがこの世界に接触を図る方法として説明されていました。
現在日本中にある神社も古くは、神様が降りてくる儀式をする場所でした。神宿りとか、神降ろし、神懸りなどという言葉が使われ、これは神を宿すための儀式をさす言葉で、「神降ろしを行って神を宿した」などと使われました。
降ろす神によって、夷下ろし、稲荷下ろしと称されるようになり、現在ある稲荷神社などはその名残です。また、神社でやってもらうお祓いというのも、実は憑依を取り除く儀式のひとつで、昔の巫女は1週間程度水垢離をとりながら祈祷を行うことで、自分に憑いた霊を祓い浄める「サバキ」の行をおこなったといいます。
このように和御魂の状態の神霊ばかりが降りてくるばかりではなく、ときには「憑き物」とよばれるような低級な霊も降りてきます。
これは、人だけでなく動物や道具などの器具に、荒御魂の状態の神霊や、位の低い神である妖怪や九十九神や貧乏神や疫病神が宿るとされるもので、ときには悪霊といわれる怨霊や生霊の憑依をさします。
古来、「童」と書いて「ヨリマシ」というのもあり、これは祭礼用語で、稚児などに神霊を降ろし託宣を受けるというもので、そうした資格のある少年少女がこう呼ばれました。
相撲も、その昔は皇室に奉納される神事であり、実は相撲取りはそのときの「戦いの神」の宿る御霊代であり、これも一種のヨリマシです。無論、現在ではヨリマシなどとは呼ばず力士といいますが、その昔はシャーマン的な意味合いも持っていたわけです。
こうした神がかり的な「憑依」は、近年では医学領域でも研究されるようになっています。
大正から昭和にかけて活躍した森田正馬というお医者さんは、「森田療法」と呼ばれる神経質に対する精神療法を提唱した人で、その一環として「祈祷性精神病」なる症状を研究しています。
その結果、憑依とされているものの一部は、精神疾患の一種であると結論を下し、このため日本の医学界ではこのころから憑依は病気の一種ととらえるようになりました。
現在でも医学領域や心理学の領域で、憑依は二重人格あるいは多重人格の表れとみなす考え方が多く、こうした患者にとっては「自分」というのは単一ではなく、複数の自分の寄せ集めで普段はそれが一致して動いている、あるいは、日々の管理を筆頭格のそれに委ねていると考えているとされています。
しかし、霊媒師などが降霊を行う場合、「筆頭格」のそれは、明らかに当の本人とは何か異なる実在のように見えることが多く、またその人が通常の状態ならば絶対に知っているはずのない情報を提供している場合もあり、医学では割り切れない事実があるのも確かです。
沖縄では「ターリ」あるいは「フリ」「カカイ」などと呼ばれる憑依現象があるそうで、現在でも一部の人から「聖なる狂気」として人々から神聖視されています。
このためその昔、このターリと目される憑依者は、本土のように精神病患者として病院に隔離・監禁すされることもなかったといい、本土復帰以降の現在でも憑依を人間の示す積極的な営為の一つであるというふうに肯定的に受け止める傾向が強いといいます。
しかし、憑依される側も必ずしも「忘我状態になる」とは限らず、憑依された者に意識がある場合もあるといい、このことから、憑依は必ずしも自分以外の存在に乗っ取られている状態ではなく、「マナ」によって支配されている現象ではないかという文化人類学者もいます。
マナ(Mana)というのは、太平洋の島嶼で見られる原始的な宗教において、神秘的な力の源とされる概念です。魔法や超能力といった尋常ならざる特別な力の源とも言われており、この世の各所に遍在する超自然的な力です。
これらの原始宗教では、これを槍や網などの道具類、もしくは病気・疲労などで衰弱した人に注入することによって、より望ましい状態に変化させることができると考えられていました。
例えば、メラネシアの土人が際立って早く進むカヌーを説明するとき「あのカヌーにはマナが宿っている」という言い方をします。これからわかるように、彼等の間にはマナという非人格的な力の観念が存在しているようです。
この「非人格的な力」というのが何であるか、というのは我々日本人には非常にわかりにくいものです。フランスの著名な社会人類学者、民族学者のクロード・レヴィ=ストロースによれば、これは「通常の能力・状態に宿る神秘的な付加要素」と説明していることから、日本人にとっては神といえるようなものに近い存在のようです。
それでもストロースらはこれは神ではないといいます。ますますわかりにくくなってしまうのですが、別の説明ではマナはその人物の実体であり、資質そのもの、力でもあるそうで、人が潜在的に持っている霊能力やカリスマ的魅力などがマナとして現れてくるのだそうです。
ところが、日本でも民俗学者として有名な柳田國男は、マナは日本人の霊魂観の中にもあり、神道はマナ信仰の最高峰であるということを言っていたそうです。ということは、表現は違えど、マナというのは人間そのものの内にある、「神性」のようなものなのかもしれません。
また、柳田博士によれば、このマナは、増えたり減ったりするということで、これはどういうことかといえば、おそらく魂はその長い歴史において、成長したり退化したりする、という考え方が日本の神道の中にもあるということを言っているのでしょう。
よくスピリチュアリズムでは、「魂の年齢」ということが言われますが、長い間に苦労して高い次元に達した霊は霊性が高く、つまり大きな成長をとげた魂であり、また霊性の低い魂は小さいといわれます。
また、一人の人間の魂は他の目的を同じくする魂の集合体の一部であるともいわれ、それを地上に落とすことで魂の成長を図り、浄化されたその魂はやがてまたあの世に帰って元の魂達と合体し、こうして魂の集合体全体が成長していくのです。柳田國男がマナが増えたり減ったりするといったのは、このことを指しているに違いありません。
他方、マナは、お守りやジンクスといった人が何かとすがりたがるものにも「憑く」という説もあるそうです。つまり、人間以外の物質にも憑くということになります。そしてこの「憑く」とはゲームの最中に回ってくる幸運を指す「ツキ」を表すのではないかという学者もいるようです。
つまり、憑いていないと、ツキにもめぐまれない、マナが発揮されないと運がめぐってこないということにもなります。
この辺の話になると、どんどんと「形而上的」になりそうですし、頭が混乱してきそうなので、ここいらでそろそろやめたいと思います。
が、「憑いている」が「ツイている」と等しいなら、何かに憑依されているときに宝くじを買うと当たるかもしれません。
今、宝くじを買おうとしているあなた、今日は憑いていますか?