時よ止まれ


12月になりました。

今年もあと1ヶ月となると、もうあとは何もできないなぁと思う一方、いやいやまだ時間はたくさんある、と思い返したりもします。あげくのはてには、めんどくさいな~と、とか思いつつもついつい年末ぎりぎりまで大掃除などで頑張ってしまったりしてしまう……今年ももうそんな季節になりました……

それにつけても、年齢を増すごとに時間の経過が早くなるような気がします。年齢を重ねれば重ねるほど、一日なり一年が過ぎるのが速くなってきている、という感覚はほとんどの人が感じることのようです。

その原因を探してみると、以下のようなことがいわれているようです。

説1:経験による処理速度向上説
新鮮な経験が少ないと、時間の経過は短く感じるという説。

説2:心拍数の法則
「心拍数」の高さと時間感覚には関係があるという説。

説3:インプットが少ないから説
記憶量=時間 という理論。この理論だと仕事でアウトプットばかり続けていてインプットが少ない大人の時間は短くなるという説。

説4:ジャネーの法則
人が感じる時間の長さは、自らの年齢に反比例するという説。

説2の「心拍数」は「子供のときは心拍数が高いので、時間がゆっくり流れるように感じるが、大人になると心拍数が低くなるので、時間が早く流れるように感じるようになる」ということのようです。心拍数が低くなるということは医学的にも実証されていることなので、あぁもっともかな、という気がします。

が、個人的には説1のように、新しい経験が少なくなるから、という説が正しいかな、という気がします。いろんなことを経験してきたあとでは、新たなチャレンジに要する時間も少なくて済みます。そうした意味では、説3も同じで、新しい経験=インプットが少なくなるわけで、これは同じことのように思います。

年をとって自分の動作や思考の速さ・時間当たりの作業量が低下すると、相対的に時間が速く過ぎるように感じる、ということもよく言われます。若い時に10分で歩けた道を歩くのに20分かかるようになったり、1日で片づけられた仕事に2日かかるようになったりすると、相対的に時間が2倍ほど速く過ぎるように感じることになるわけです。

何かをしようと考えているうちに、あれっ、もう一時間も経っちゃった、というようなことは、我々ぐらいの年齢の人ならだれでもある経験ではないでしょうか。若いころには、ものの10分ほどで決断して行動に移れたのに……です。

説4のジャネーの法則というのは、これを法則化したものです。19世紀のフランスの哲学者・ポール・ジャネが発案し、甥の心理学者・ピエール・ジャネが著作で紹介した法則で、これは主観的に記憶される年月の長さは年少者にはより長く、年長者にはより短く評価されるという現象を心理学的に解明したとされるものです。

簡単に言えば生涯のある時期における時間の心理的長さは年齢の逆数に比例するというもので、言い換えれば時間の経過は年齢に反比例します。

例えば、50歳の人間にとって1年の長さは人生の50分の1ほどですが、5歳の人間にとっては5分の1に相当します。従って、50歳の人間にとっての10年間は5歳の人間にとっての1年間に当たり、5歳の人間の1日が50歳の人間の10日に当たることになります。

本当に時間の経過がこの計算どおりかは別として、「法則」といわれればなるほどそうかな、という気にもなってきます。

が、なんとなく釈然としないのは、年をとれば時間が流れるのが早いというのは確かにそうかもしれませんが、同じ年齢の人を比べた場合、人によって時間の感じ方は違うからではないでしょうか。私と同年齢の友達の中には、時間なんてそんなに若いころと違いしやしないよ、という人はたくさんいます。

また、だいいちこの法則が人間にだけに適用されるというのはおかしいと思います。ほかの生物も同じなのか、といえば、「ゾウの時間、ネズミの時間」に代表されるように生物の個体の生理学的反応速度が異なれば、主観的な時間の速さは異なると考えられているようです。

この「ゾウの時間、ネズミの時間」というのは、動物生理学を専門とする生物学者の本川達雄の新書のタイトルで、1992年に中公新書から発行されてベストセラーになり、1993年の講談社出版文化賞の科学出版賞をも受賞した本です。

動物のサイズから動物のデザインの論理が数理的に解説されており、動物の大きさや種類によって時間感覚や体感時間が違うということが説明されています。

動物の体重や食事量、生息密度、行動圏の大きさ、歩く速度の関係などから動物の大きさなどが変わってくるというようなことの解説があり、当然感じる時間の長さも寿命も変わってくる、というわけです。

従って、ヒトとネコでは時間の感覚が違うはずですし、また同じ人間であっても、食べるものや住んでいる場所、はたまた体格や性別によっても感じる時間の長さが違っていても不思議ではありません。

実は、ジャネーの法則とは逆の科学的見解もあり、年をとると時間の流れを遅く感じるとことを示す実験結果もあるそうです。

たとえば1分経ったら合図をする条件で統計を取ると、年齢が上の人ほど遅く合図する傾向があるそうで、このことから、年をとると現実の時間より心的時間の方がゆっくりと流れるようになり、実際の時計とは異なる精神的な時間というものがあるのではないかという意見があるようです。
 
これには、いくつかの要因があるとされ、その中の一つとして加齢にともなう身体的な代謝の低下が考えられ、代謝が落ちると、心的時間もゆっくりと流れるようになる、という学者もいます。

この説だと逆に代謝が活発だと、心的時間は早く流れるということになり、代謝は心的な時計の動力源の一つということになります。

確かにが年を取って時間が早く流れるように感じる反面、こうしたお天気の良い秋の日に庭先の陽だまりを眺めていると、昔若かったころよりも妙にゆっくりと時間が流れていくような気がします。実際には1時間もその場にいたような気がするのに、数分しか経っていない、などということもありがちです。

従って年齢を重ねてからの時間の経過というものは、実生活において時間が流れていくのが早いと感じつつも、その刹那刹那では心的にはわりとゆっくり流れているように思える瞬間が多くなるというのが私の実感です。

とはいえ、年齢には全く関係なく、気分によっても変化するような気もしますし、個人差だってあるような気もします

例えば同じ音楽を聴いても、安静にしていたり寝ぼけている時は速く聴こえ、激しい運動や活動の後では遅く聴こえる事があります。おなかがすいているときに、ラーメン屋を探しているとその道のりは長く感じますが、ラーメンを食べておなか一杯になったあとの道のりは妙に短いのは何故なのでしょう。

そもそも時間とは何かと言えば、ヒトが勝手に作り出したもので、原始の時代にもともとは時間などなかったはずです。

時刻の表し方は、歴史的に見て様々な方法があり、古くは太陽の動きでこれが決められました。日の出という時刻があり、日没という時刻があって、また日が南中する時刻が正午とされたわけで、このほかにも月や星の動きによって時間は決められていました。

すなわち時刻は、自然をもとに決められていたのであって、現在のように機械式の時計を基準に定められたりなどしていなかったわけです。

現代の自然科学を習得し、その枠内で思考するようになってから、人はつい、時間は常に一定の速さで過ぎるものでそれに合わせて様々な現象の進行速度や周期の長さが計れる、と考えがちです。

が、実際には周期的な現象、例えば天体の周期運動、振り子の揺れ、水晶子の振動、電磁波の振動などの繰り返しの回数を他の現象と比較して、これを「時間」と思っているだけにすぎず、よーく考えてみると、何か絶対的な時間の歩みそのものを本当に計っているかどうかさえ疑わしくなってきます。

実は「常に一定の速さで過ぎる時間」という概念は、ガリレオ・ガリレイによる「振り子の等時性の発見」とその後の「機械式時計」の発達以降の近代において優勢になってきたものであり、こうした概念が西洋から入ってくる前の日本では、「不定時法」はごく普通に使われていました。

定時法とは言うまでもなく、1日を24時間に等分割し、時間の長さは季節に依らず一定な現代の時間法です。一方、不定時法とは、夜明けから日暮れまでの時間を6等分する時間法で江戸時代以前の日本で普通使われてきた時間概念です。

日出と共に起き日没と共に寝る昔の生活に根ざした時法ですが、季節により昼夜の長さが変わるので時間の長さが変わってしまいます。不便なようですが時計のない人にとっては太陽の高さで大体の時刻がわかるので却って便利です。

これと同様に、その時代時代でそこに住んでいる人達が信じている「信念」のようなもので時間の流れる速さは異なる、ということは古代からの通念であり、例えば仏教の世界観では「下天の1日は人間界の50年に当たる」と言われているとおり、我々が一日と思っている時間も実は別世界では3日かもしれず、100年である場合だったあるのです。

科学的な意味でも一般相対性理論では、重力ポテンシャルが異なる場所では時間の流れる速さは異なることが知られており、こうして考えてくると、現在の我々が定めている時間というものはいったい何なのよ、という気がしてきます。

西欧で中世以降に機械式の時計が登場してからは、人々は機械的意識にもひきずられるようになり、機械の針が零時を示した時が一日の始まりだという認識を持つようになりました。

が、よくよく考えてみればこれは自然と切り離されてしまった時刻観であり、現代の欧米諸国や日本をはじめとする先進国の人々は、こうした自然から離れてしまった機械的時刻を意識しているが故の強いストレスを感じているといわれています。

実は、人工的に作り出された「秒」の長さ・周期というのは、平均的な人間の平常時の脈拍よりも短く設定されてしまっています。

こうした「せせこましい」秒周期の音を日々聞かされることや、あるいはそれを意識することが、人間にとって何らかのストレス源になってしまっているのではないか、ということを指摘する学者もおり、人間は普段意識している「時間の長さ」が我々の心にも影響を与えていることは心理学的にも確かめられています。

また音を聞いている環境には、いろんな「環境音」というものもあり、この環境音の周期・リズムから心理的・生理的に影響を受けることも多くの実験で明らかになっています。

例えば工場地帯に住んでいる人は、近くにある工場の操業が始まったことで今何時ころであるかを意識するでしょうし、何にもない北海道の大草原で寝起きする人は、鳥のさえずりや北キツネの遠吠えで時間をなんとなく「感じて」いるはずです。

医学的には、自分自身のその時々の脈拍をリアルタイムで聞いていると心地よいと感じ、心地よく感じていることを示す脳波が多く出ることなども実験によってわかっています。

もしも仮に一秒の長さが現在の設定よりもいくらか長く設定されていて、人間の脈拍よりももう少し長くなっていたなら、秒針の音は人をもっとゆったりとリラックスさせるものになっただろう、ともいわれています。

確かに、時計の秒針がコチコチ動く音というのは、それを聞いて落ち着くという人もいる反面、多くの人が何か魂を削られているように感じるのではないでしょうか。

このように、現代人は、その騒がしい生活の中で、人工的に作られた時間を常に「短かすぎる」と感じるほうが多く、時間という支配者によって過剰なストレスを与えられていると考えることができます。

このため、そうした喧騒から離れ、一度自然の時間で生きる生活を送るとそのストレスから解放されることも多いものです。

たとえば人工的な時間を表示する時計類は身体から離して一切眼に入らぬようにし、自然の中で暮らし、夜は照明を用いず日没後すみやかに眠るようにし、日の出にあわせて起床し太陽光を浴びるようにすると、やがてストレスから解放され治癒される傾向がある、ということが知られています。

旅行へ出かけて旅館に泊まったとき、その多くの部屋では時計をわざとかけていないことにお気づきの方も多いでしょう。これは、日本人の多くが経験的にこうした旅行のような特別な環境に出向いたときには、時間を気にしないように配慮することこそが「お・も・て・な・し」であることを知っているからです。

さて、時間というものが人工的に作られたものにすぎない、という考え方を更に突き詰めて考えていくと、そもそも、本当に時間は過去から未来へ流れているのか、という疑問さえ出てきます。

「時間の矢(Arrow of time)」ということばがあります。時間の非対称性、言い換えれば「不可逆性」を表す言葉であり、どういうことかというと、空間は前後左右上下とどの方向についても対称的に移動できるのに、時間は過去から未来にむけての一方向にしか進行することがありません。

つまり、「非対称的」ということであり、時間の矢というのは、これを、一度放ってしまえば戻ってくることはない矢で例えたものです。なぜ時間は過去の方向には進まないのかという謎であり、イギリスの物理学者、サー・アーサー・エディントンが提唱した考えです。

例えば、コーヒーとミルクが混ざることはあっても、混ざったものが自然と分離することはありません。このようにある方向に変化することはあっても、逆方向に変化することが無いものを不可逆現象といいます。

このほかにも例えば、アルコールと水を混ぜて両者が一様に混ざっていく過程も元には戻せませんし、このように自然界において、時間と同じく不可逆な現象は、可逆な現象よりもむしろありふれたものといえます。これを端的に表現したことばが、「覆水盆に返らず」などの諺といえます。

ところが、時間に限っては、実は未来に向かう矢ではなく、「未来からやってきている」ものだという人もいます。

「時間は過去から未来へ流れているのではなく、未来から過去へ流れている」という考え方は、東洋ではアビダルマと呼ばれる仏教哲学でも古くから述べられており、これは現代の分析哲学における結論でもある、と指摘しているのが、東京都出身の認知科学者で計算言語学、離散数理科学、分析哲学などを研究している「苫米地英人」という学者さんです。

1997年に発生したオウム真理教がやったといわれる警察庁長官狙撃事件においては、犯人として逮捕された元巡査長から詳細かつ整合的な記憶の呼び起こしに成功したと報道されて有名なりました。

警視庁公安部の協力要請により、元巡査長の許諾の下、個人的に撮影したものの一部はテレビにも報道されて話題となり、その後も一時期はよくテレビに出ておられたので、顔をみるとあぁこの人かと思う人もいるでしょう。

ちなみにこの巡査長は証拠不十分により釈放され、その後も東京地検により起訴猶予とされた結果、2010年3月、公訴時効が成立し、その後も真犯人はつかまっていません。

「時間は過去から未来へ流れているのではなく、未来から過去へ流れている」という考え方に基づけば、時間は過去からもやってくるし、未来からやってくるということで、対照的であり、この考え方に従えば、「時間が過ぎる」という表現もおかしく、「時間がやってくる」のほうが正しいということになります。

「時間というのは過去から未来に向かって流れている」とする考え方というのは、創造主が世界をつくった、とするユダヤ・キリスト教の伝統に沿った時間観に過ぎない、と苫米地さんは指摘しています。

創造主のいる宗教では、絶対神がビッグバンを起こし宇宙を創造したことからすべてが始まりそれにより玉突き的に因果が起きて現在まで来たと考えたがるものですが、そう考えないと創造主自体の存在を肯定できません。

このために、創造主の存在という過去の出来事が現在の原因である、と解釈されるようになってきたものであると苫米地さんはいい、時間というものを考えるときにはこうしたユダヤ・キリスト教的な時間観の枠を取り払う必要があると主張しています。

この「時間というのは過去から未来に向かって流れている」とする考え方についてもわかりやすく説明されています。

現在は一瞬で過去になります。今、現在だったことはちょっと前の未来です。今現在やっていることが、1時間後には過去になります。つまり現在が過去になります。

当たり前のことではありますが、現在の行為が過去になっていくわけで、我々の位置が現在だとすると、そこに向かって未来がどんどんとやってきては、過去へ消えていっているという考え方もできるわけです。

自分に向かって未来がどんどんとやってきては過去へと消えてゆく、つまり自分が過去から未来へと向かっているのではなく、未来のほうが自分に向かって流れてくる感覚というのはそういわれればわかるような気がします。

だとすれば現在は過去の産物などではなく、未来の産物であり、しかも未来というのは固定されたものではなく、無限の可能性であり、しかもその未来は過去の因果ではなく、さらには未来の因果によって決まる、ということになります。

これを川の流れに喩えるなら、クルーザーに乗って川上に進みつつ、自分は川の一点を見ている、といるということになります。川の上流を未来と考え、下流を過去だとします。

ある時自分が上流から赤いボールが流れてきて、それに続いて青いボールが流れてくるとしましょう。我々は、これを「赤いボールが流れてきたから、青いボールが流れてきた」と解釈しがちですが、実際には「赤いボールが流れてきたことが原因で青いボールが流れてきた」というわけではありません。

未来という上流から、未来における何かの因果によって、赤、青の順番で放たれてそれが現在にまで到達したから、赤、青という順番で流れてきただけです。

このとき、例えば、赤いボールを拾うか拾うまいか迷ったけれども結局拾わなかったとしましょう。その後青いボールが流れてきたのを見た時に、どう考えるか、と想像してみると、「しまった、赤いボールを拾わなかったから、青いボールが流れてきてしまった」と考えるかもしれません。

ところが、よくよく考えてみると赤いボールを拾わなかった、ということと、その後に青いボールが流れてきた、ということは何の因果関係もありません。

つまり「あの時、赤いボールを拾ってさえいれば…」などとくよくよ悩むことは意味がなく、つまり、「赤いボールを拾わなかった」という自責の念と青いボールが流れてきたことは関連がありません。

つまり、青いボールが流れてきたことについては、赤いボールを拾わなかったという過去に縛られる必要はなく、青いボールが流れてくるという「現実」は、過去に縛られない未来からやってくる、ということになります。

みなさん、納得できましたでしょうか。

実はこの苫米地さん、2000年代半ばにオーラの泉などのテレビ番組などのヒットで、スピリチュアル・ブームが起こったとき、これを繰り返し批判していました。

一方で仏教に詳しく、日本仏教やインド密教との関係についての知識も豊富で、気功については情報的存在であると語っており、こうした人がなぜスピリチュアルを否定するのかなと不思議です

輪廻転生に関しても否定されているそうで、とはいいながら、最近では比叡山延暦寺の本坊である滋賀院門跡にて天台宗で修業をなさっているそうで、私からみると、仏教なんて人が作ったルールにすぎず、そういうものに帰依するのか、とついつい思ってしまいます。

プロフィールをみると私とほぼ同年代の方のようで、そう考えるとまだまだその先の人生は長く、その得度の結果、いずれまたこうしたスピリチュアルに対しても違う見解を示してくれるかもしれませんが……

苫米地さんによれば「過去の因果によって現在、そして未来がある」などと考える限り、自分自身で明るい未来を切り開くことなどできない、とも指摘されているそうですが、果たしてそうなのでしょうか。

過去の因果によって現在があることを主とするスピリチュアリズムとは相対する考え方ではありますが、過去の因果があるから未来を切り開けないとうのはちょっと違うように思います。むしろ過去の積み重ねが未来を切り開いて行ける糧となる、と考えるほうが自然だと思います。

ま、考え方はひとさまざまですが……

皆さんはいかがでしょうか。時間は未来からやってくるものでしょうか。それとも過去から未来に向かっていくものでしょうか。