新緑の色が一段と濃く成ってきました。日中の気温は連日25度を超えるようになり、梅雨にも入っていないのに、もう夏といってもよいくらいの陽気です。
そんな中、お天気も良いし、花が散ってしまってからは遅い、ということで、河津のバカテル公園へ行ってきました。先日も松崎の岩科学校へ行ってきたばかりであり、最近は南伊豆方面へ出かけることが多くなっています。夏が本格化すると、伊豆は観光客でごったがえすので、今のうちに……という気持ちもあるからですが……
今日は、そのバカテル公園のバラの様子を書こうかとも思ったのですが、先日最勝院のことを書き、その中で、「関東管領」のことを書きかけてやめてしまったので、引き続きこのテーマに本格的に取り組もうと思います。
関東執事・関東管領の誕生
さて、そもそも関東管領とは何なのでしょうか。
鎌倉幕府を倒して、室町幕府の初代将軍の座についた足利尊氏は、当初嫡男の義詮(後の二代将軍)を鎌倉の主に据えましたが、その後彼を手元に置いて自分の後継として育てようと考え直し、京都へ呼び戻しました。
しかし、足利家の不在によって関東地方が荒れるのを恐れ、嫡男の代わりに次男の亀若丸(足利基氏)を関東統治のために鎌倉へ派遣しました(1349年、正平4年/貞和5年)。これが、「鎌倉公方」のはじまりです。
ただ、基氏はまだ幼かったため、これを補佐するために「執事」と呼ばれる補佐を置きました。これが後年の「関東管領」になっていきます。
しかしこのころ、京都にも将軍を補佐する役割の武士がおり、これも執事と呼ばれていたため、これと区別するために、鎌倉のほうの執事は「関東執事」と呼ぶことにしました。
当初は2人指導体制で、上杉憲顕、斯波家長、次いで高師冬、畠山国清といった複数の関東の有力武将が任じられましたが、次第にこのうちの上杉氏が一番力を持つようになり、最終的には一人枠の執事職(関東管領)を、上杉氏が世襲していくことになります。
上杉氏というのは、元々は天皇家に仕える公家でしたが、鎌倉時代後期、親王の将軍就任に従って鎌倉へ下向して武士となった一族です。
上杉家には諸家があり、このうちの山内上杉家(やまのうちうえすぎけ)が一番力を持っていました。山内上杉家は、足利尊氏・直義兄弟の母方の叔父上杉憲房の子で、上野・越後・伊豆の守護を兼ねた上杉憲顕に始まる家です。
名前の上に「山内」が付くのは、鎌倉の山内(鎌倉市山之内、現在でも「管領屋敷」の地名がある)に居館を置いたことにちなみます。
当初、山内上杉氏は上野国(こうづけのくに、現栃木県を中心とした地域)を中心とした地域だけに勢力を持っていましたが、関東管領に任じられるようになってからは次第に勢力を拡大し、のちに伊豆半島の守護も任されるようになります。これが、関東管領と伊豆のつながりの始まりです。
「上杉憲顕(のりあき)」は、この上杉家として一番最初に関東執事になった人です。しかし他の関東勢と執事任命を巡っての権力争いに一度は破れて失脚し、越後に隠遁して過ごしていました。が、鎌倉公方の足利基氏に請われて、1362年(正平17年/貞治元年)に復職します。
関東執事としては四代目になりますが、このときから、関東執事は「関東管領」と呼ばれるようになります。
関東管領と鎌倉府の対立
このころに関東管領の守備範囲は、上杉家の勢力範囲でもある上野国(主に現栃木県)を中心とした北関東一円でした。ところが、その後、鎌倉公方の足利基氏が急死。このため、鎌倉公方が主に治めていた南関東の武蔵の国一帯にたびたび反乱がおきるようになります。
このため、室町幕府から関東管領の上杉家にこれらの反乱の鎮圧の要請があり、これを見事に遂行した上杉管領家は、その後、南関東の鎌倉公方の直轄領をも管理下に収めるようになっていきます。そして、代々関東管領の職を独占するようになり、以後関東管領が消滅するまで、上杉家の世襲制になりました。
無論、鎌倉公方は廃止されたわけではなく、3代鎌倉公方には足利満兼という人物がおり、鎌倉に鎮座しています。しかし、実質権力は関東管領が握っており、鎌倉公方は有名無実の公方となりさがっていました。
このころ、室町幕府の将軍は三代目の足利義満になっていましたが、将軍権力を強化するため、花の御所を造営して権勢を示し、直轄軍である奉公衆を増強するとともに、有力守護大名の弱体化を画策していました。
とくに、周防・長門・石見・豊前・和泉・紀伊の6ヶ国の守護を兼ね、貿易により財力を有する強大な勢力であり、周防・長門(現山口県)を拠点として勢力を伸ばしていた山内義弘を当主とする、「山内家」の存在は将軍専制権力の確立を目指す義満の警戒を誘っていました。
そして、義満が金閣寺の造営を始め、諸大名に人数の供出を求めとき、山内義弘のみは「武士は弓矢をもって奉公するものである」とこれに従わなかったことなどを理由に、義満は山内義弘から和泉、紀伊などの守護職を剥奪しようとするなどの動きを見せます。
また、義満は度々義弘へ上洛を催促するようになりましたが、「上洛したところを誅殺される」などの噂が流れたことから、追い込まれた義弘はついに、室町幕府に反旗を翻すことを決め、美濃の土岐詮直や近江の京極秀満、比叡山・興福寺衆徒などと連絡をとり共に挙兵することをうながしました。
そして、あろうことか、このころ三代目鎌倉公方となっていた足利満兼がこの山内義弘の誘いに乗り、いざ事あらば呼応するとの密約を結んでしまいます。
もっとも、鎌倉公方は、初代の足利基氏、二代目の氏満代、代を重ねるに従って京都の幕府と対立するようになってきており、三代目の満兼の代でも京都との緊張関係が続くという背景がありました。
こうして、1399年(応永6年)、大内義弘は軍勢を率いて和泉に着き、ここで挙兵・篭城しましたが、この動きに、義満は自ら指揮をとって、3万の軍勢で出陣。河内国(大阪府)堺に籠城する大内勢と激戦となりましたが、数では圧倒的に劣る大内勢は最初から苦戦してしまい、また、幕府側に寝返るものも出てきて次第に義弘は孤立。
そして、およそ1ヵ月半の激闘を繰り広げた後、義弘はついに打って出て戦死してしまいます。
このころ、上杉家では、上杉憲顕から数えて既に7人の関東管領を出しており、「上杉憲定」(在任1405~1411年)の代になっていました。そして、この大内義弘が挙兵した応永の乱において、上杉憲定は義弘に呼応して挙兵しようとした3代鎌倉公方足利満兼を厳しく諫言しました。
これに反発しつつも足利満兼は結局挙兵を思いとどまりましたが、やがて上杉憲定をも疎んじるようになり、以後関東管領と鎌倉公方の関係も急速に冷え込んでいきました。
山内上杉家の台頭
しかし、満兼が1409年(応永16年)に死去するとその子供の、「足利持氏」が四代目の新公方になります。
このとき、足利持氏の信任を得たのは、山内上杉家と対立関係にあった犬懸上杉家の「上杉氏憲」であり、このため上杉憲定は失脚するところとなり、その代わりに関東管領に就任したのは氏憲でした。
そして氏憲は持氏の叔父にあたる足利満隆や満隆の養子で持氏の弟である足利持仲らと接近し、若い持氏に代わって鎌倉府の実権を掌握しようとしはじめます。
ところが、1415年(応永22年)の評定で、氏憲はまだ子供だと思っていた足利持氏から手厳しい反論に合い、その後この二人の仲は険悪になっていきます。
やがて氏憲は関東管領を更迭され、その後任には、敵対する山内上杉家の上杉憲基(憲定の子)が就任します。
このため、氏憲は足利満隆・持仲らと相談し、犬懸上杉家と姻戚関係にある一族や地方の国人衆なども加え、翌1416年(応永23年)に、鎌倉公方、足利持氏と上杉憲基への反乱を起こしました。
これが、「上杉禅秀の乱」と呼ばれる内乱であり、禅秀とは、このころ出家していた上杉氏憲の法名になります。
上杉禅秀一派の足利満隆は、鎌倉の御所近くの宝寿院に入り、氏憲と共に持氏と上杉憲基を拘束しようとしましたが、両者はともに家臣に連れられて既に脱出していたため、事なきを得ました。
この反乱の報に接した京都幕府は、駿府の今川範政らや、宇都宮氏らに満隆・氏憲の討伐を命じました。そして翌1417年(応永24年)の戦いで氏憲や満隆らは善戦しましたが、配下の武将達が次々と離反するに及んで遂に力尽き、応永23年(1417年)1月10日、満隆や持仲と共に鶴岡八幡宮の雪ノ下の坊で自害して果てました。
この乱で敗北した事により、犬懸上杉家は事実上滅亡しました。ただし、氏憲の子の何人かは出家することにより存命し、幕府の庇護を受けています。
これにより、以後、関東管領は、上杉家の中でも、山内上杉家が代々世襲していくことになります。そして、「上杉憲実」が1419年(応永26年)、父である上杉憲基に変わって関東管領に就任しました。関東管領としては、実に19代目になります。
以後、山内上杉家は、主に関東地方一帯の守護及び地頭の管理に当たるようになり、関東一円の武士を掌握し次第に鎌倉府以上の力を持つようになります。しかしこうして権力の頂点に至ったことにより、さらに鎌倉公方との対立が深まっていくことにもなりました。
鎌倉府の閉鎖と復活
一方、京都の足利幕府の6代将軍に就任した足利義教と、鎌倉公方の足利持氏は上杉禅秀の乱が終わったあと、再び対立し始めます。
実質関東地方一円を治める実力者となった山内上杉家でしたが、京都の室町幕府から関東の管理を任されているにすぎず、所詮は鎌倉公方の補佐です。このため、京都の幕府からの指令には抗えない立場であり、このためことあばら京都幕府ともめごとを起こそうとする持氏を上杉憲実はたびたびいさめています。
ところが、反対に持氏に逆ギレされ、持氏が自分を暗殺しようとしているという風説まで流れるようになったため、いったんは管領職を辞して上野国に逃れます。そして、実際に持氏が憲実追討のために持氏が兵を起こそうとする動きを見せたため、武蔵府中に陣を構えました。
そして、京の将軍足利義教とも呼応して、鎌倉を攻め、持氏を自害させることに成功します。こうして、およそ90年間にわたって続いてきた鎌倉府(鎌倉公方)はここにきていったん閉鎖されることになりました。1438年(永享10年)のことであり、この乱は「永享の乱」と呼ばれています(ただし、鎌倉府は後年復活)。
ところで、この鎌倉府を閉鎖に追いやった人物、上杉憲実こそが、先日我々が訪れた最勝寺を創建した人物です。祖父の上杉憲栄(管領職は拝領せず)の追善供養のためこの寺を開いたといわれています。
この上杉憲栄(うえすぎのりよし)は、1422年(応永29年)に没した人で、初期のころの上杉関東管領として活躍したあの上杉憲顕(前述の山内上杉家の始祖)の実子になります。
父が没した跡を受けて越後守護となり、在京して幕府のために長い間働きましたが、28歳という若さで出家して遁世し、但馬(現兵庫県北部)で坊さんの修業を積んだあと、山内家の所領であった伊豆にやってきました。そして、「八幡(はつま)」という場所に隠棲し如意輪寺というお寺を創建します。
調べてみたところ、この八幡というのは、修善寺から伊東へ行く県道12号の途中にある字で、現在の伊豆市役所の中伊豆支所のある地域一帯をさすようです。如意輪寺がどんなお寺だったのかといった細かいことはわかりませんが、今はもう本堂などは残されておらず、ただ寺跡らしい後だけは残っているようです。
上杉憲栄はこの寺で父の上杉憲顕の菩提などを弔っていたようですが、この如意輪寺で72歳で亡くなっています。
上杉憲実がなぜ、この祖父の憲栄の菩提寺を同じこの八幡の近くの大見に建設したのかはよくわかりません。最勝寺の寺伝によると創建は、1433年(天文元年)ということであり、これが事実だとすると、上述の永享の乱の5年ほど前ということになります。
このころはまだ鎌倉公方と幕府の対立は始まっていないころであり、上杉家が関東管領を務める関東地方の情勢も比較的安定し、財も相当蓄えていた時代であると考えられることから、この機会に戦乱の影響が及びにくい山里に先祖の菩提寺を建立しようとしたのかもしれません。
上杉憲実は、上野・武蔵・伊豆守護を司る関東管領として務めるかたわら、室町幕府将軍義教と持氏の融和にも努力した篤実な人物であったようです。またそれだけでなく、足利学校や金沢文庫を再興した文化人としても知られています。
足利学校(あしかががっこう)は、下野国足利庄(現・栃木県足利市)にあった、平安時代初期、もしくは鎌倉時代に創設されたと伝えられる中世の高等教育機関です。室町時代から戦国時代にかけて、関東における事実上の最高学府であったといいます。
また、金沢文庫(かねさわぶんこ、かなざわぶんこ)は、鎌倉中期の歴代の執権北条氏を影で支えた「北条実時」が建設した武家の文庫です。日本の初期における私設図書館とも位置付けられており、その創建は1275年(建治元年)ごろではないかといわれていますが、上杉憲実のころにはかなり荒れ果てていたらしく、彼がこれを再建したと伝えられています。
さて、少し寄り道しましたが、本題に戻りましょう。
鎌倉府と足利幕府との争いに巻き込まれ、そのため一時関東管領を辞していた上杉憲実ですが、1440年(永享12年)に下総の結城氏などが持氏の遺児を奉じて再び幕府に反抗する反乱を起こすと、その鎮定に協力するために復職します。
その後しばらくして再び管領職を辞するなどの出入りを繰り返していますが、その後1447年(文安4年)に、幕府の命により鎌倉府が再興されるまでは、この憲実率いる上杉家がしっかりと東国支配を行っていました(約9年間)。
古河公方と堀越公方の誕生
しかし、幕府は関東管領の権力が大きくなりすぎるのを警戒したのでしょう。その命により、鎌倉府を復活させます。すると再び、関東管領である上杉家と鎌倉府の対立が起こるようになり、持氏の別の遺児、足利成氏が鎌倉公方となると、1454年(享徳3年)に成氏は関東管領上杉憲忠(憲実の長男)を暗殺しています。
自らが鎌倉公方を復活させておきながら、この争いをゆゆしき事態だと考えた室町幕府は、駿河守護であった今川範忠によって、足利成氏を攻めさせます。これによって鎌倉府を追われた成氏は、古河(現茨城県の西端)を本拠とするようになり、以後自らを「古河公方」と名乗るようになります。この一連の乱は世に「享徳の乱」と呼ばれています。
いったん、鎌倉から古河へ追い込まれたような形になった成氏ですが、その後は盛り返し、鎌倉周辺の相模国内だけでなく、下河辺荘(しもこうべのしょう・現茨城、千葉、埼玉県の一部)などを経済的基盤として、関東一円に大きな影響力を持つようになります。
一方、京都の足利将軍家はこうして不安定になる一方の関東地方の情勢をなんとかしようと、その一族である「足利政知」を新たな鎌倉公方とし、新しい風を吹き込むために彼を鎌倉に派遣します。
しかし、享徳の乱を起こして幕府と敵対状態にあった古河公方、足利成氏の勢力は強大であったため、足利政知は関東管領の上杉家の力を借りても鎌倉に入ることができず、とうとう仕方なく、伊豆の長岡に逗留することにします。そして、この地が「堀越」という名前であることから、古河公方と区別するため、「堀越公方」と呼ばれるようになったのでした。
なお、この際に政知の補佐役として上杉教朝・渋川義鏡という人物が補佐として任命されましたが、既にあった鎌倉公方補佐の関東管領と区別するため、旧称である「関東執事」を一時的に復活させています。
こうして、関東地方は、ほぼ全域を古河公方が実質支配し、幕府の鎌倉府は存在はしていたものの実質機能しておらず、伊豆の長岡に封じ込められた状態となってしまいました。
一方、幕府の手先として旧来からの関東管領を務めていた山内上杉家は、堀越公方の権力を復活させるべく鎌倉方面にもしばしば出向き、古河を拠点とするようになった古河公方、足利成氏と何度も戦いますが、その都度負け、次第に勢力を落としていきました。
その結果、上杉家傍流の「扇谷上杉家」が山内上杉家に迫る勢力を得るようになり、両家の間でも内紛が勃発。18年続いたこの戦いは結局、山内上杉家の勝利に終わりましたが、享徳の乱で古河公方が登場して以降、通算して50年にわたる戦乱が続き、この結果関東地方はすっかり荒廃してしまっていました。
後北条家の登場と関東管領の滅亡
この情勢につけいり、関東地方に乱入してきたのが、北条早雲です。この当時、まだ伊勢宗瑞と名乗っていた早雲は、初代の堀越公方の足利政知が1491年(明応元年)に病没すると、その後継に選ばれていた次男の潤童子を母もろとも殺し、二代目の堀越公方に就任していた異母兄の茶々丸を攻めます。
1495年(明応4年)、早雲は苦労の末、堀越公方の居城であった伊豆長岡の堀越御所を攻め落として茶々丸を追放すると、山内上杉家との戦いで疲弊していた扇谷上杉家に近づきます。そしてこれが、その後の関東地方における早雲を初代とする「後北条氏」の台頭のきっかけになりました。
こうして早雲亡きあとも、後北条氏は関東中心部へと勢力を拡大していくようになります。一方の山内上杉家は、扇谷上杉家との争い以降も内紛が続き、2度にわたる家督争いによって自らの勢力をさらに後退させていきます。
その後も後北条氏の勢いは止まらず、どんどんと関東地方の諸豪族は後北条氏になびいていきます。こうなるともう、古河公方としても関東管領の上杉家や堀越公方と争っている場合ではない、ということになります。
北条早雲を関東地方に導いてしまった、扇谷上杉家もようやくその脅威に気付くようになったのです。
そして、共通の敵を打つべく、古河公方足利晴氏、関東管領の上杉憲政(上杉憲実の孫にあたる)、扇谷上杉家当主の上杉朝定の三者で連合軍を結成。
1546年(天文15年)、武蔵国の河越城(現在の埼玉県川越市)の付近で後北条軍と激突しますが、戦上手の後北条、北条氏康に敗北。古河公方、山内上杉家とも大打撃を受け、扇谷上杉家は朝定が討死し、滅亡してしまいます。
その後、上杉憲政は上野国などを拠点として北条氏へ抵抗しようとしますがうまくいかず、現群馬県藤岡市にあった居城の平井城を失うと越後へ向かい、元は家臣筋であり外戚でもあった越後の長尾氏を頼りました。
これが、1551年(天文20年)のころのことだったようです。その10年後の永禄4年(1561年)に憲政は山内上杉家の家督と関東管領の職を、この長尾家の当主長尾景虎に譲りましたが、これが誰あろう、かの有名な「上杉謙信」になります。
ここで伊豆と越後がつながることになります。その後も江戸時代に至るまで続いていくことになる上杉家は、その家督を伊豆の守護職、山内上杉家から譲られて成立した家だったのです。
景虎はこの時その名を政虎(後に輝虎・法名は謙信)と改め、関東管領に就任しますが、しかし既に関東管領は実質的には機能しておらず、謙信の死をもって終焉を迎えることになります。
つまり、最後の関東管領は上杉謙信だったということになります。
上杉謙信を最後の関東管領とするならば、最初に関東執事が誕生してから229年、また上杉憲政がその職を謙信に譲ったのが最後とするならば、212年、いずれにせよ200年以上続いた関東管領は、ここについに消滅することになりました。
山内上杉一族の滅亡
一方、越後に亡命した上杉憲政は、1578年(天正6年)に謙信が死去すると、謙信の2人の養子景虎と景勝との家督をめぐる争いに巻き込まれます。旧山内上杉家臣に北条氏との関係を重視する意見もあって、憲政は景虎を支持しましたが、山内杉山家の旧臣の大部分は景勝方につきました。
当初は拮抗していたこの家督争いでしたが、やがて越後の国人勢力や武田勝頼に支持された景勝のほうが有利になり、景虎は憲政の居館に立て籠もり抵抗を続けるも窮地に立たされるようになります。
1579年(天正7年)、憲政は景虎の嫡男道満丸と共に和睦の交渉のため、春日山城の景勝のもとに向かいましたが、このとき2人は景勝方の武士によって不意打ちに遭い、陣所で討たれました。享年57だったといいます。一説には包囲され、自刃したともいわれますが、詳細は記録されていません。
憲政の居館を退いた景虎はその後、鮫ヶ尾城という城に篭りますが衆寡によって敵を退けることができずやはり自刃。これら憲政や景虎と景勝との内乱は後年、「御館の乱」と呼ばれるようになりました。
その後、越後上杉家は、上杉景勝によって運営されるようになります。ちなみに、その家臣にはかの有名な直江兼続(なおえかねつぐ)がいます。2009年のNHK大河ドラマ「天地人」で、妻夫木聡さんがその主役を演じたのをご記憶の方も多いでしょう。
なお、憲政のお墓は、越後領内の寺にあったといいますが、のちに景勝が転封されたため、この寺も移動し、現在は、米沢市の照陽寺というお寺に移されているといいます。
ところで、この憲政は、越後に亡命前、3人の子をもうけていたといわれています。憲藤、憲重、龍若丸という名前だったそうで、このうちの憲藤と憲重の二人は父憲政の越後入りに従い、上述の御館の乱で討死したようです。
そして、父憲政につき従って憲藤、憲重は越後に入る一方で、その一番下の子であった龍若丸は、どうやら、そのとき逃げ遅れたようです。
一説によると、部下の裏切りにあい、後北条に捕縛されたといい、このとき裏切った家臣もまた処刑されたといいます。拘束されたのちには、小田原へ運ばれる予定だったようですが、監視の目を盗んで逃亡し、伊豆の湯ヶ島方面に向かったようです。おそらくは堀越公方の館があった伊豆長岡から、天城山の方面を目指していたのではないでしょうか。
しかし、とうとう捕捉され、切られてしまいます。あるいは、自刃したという話もあるようですが、状況からみてどちらであっても不思議ではありません。そのとき、龍若丸の亡きがらを葬ったのが最勝院といわれており、そこへ運ぶ途中に峠があり、これが先日のブログでも紹介した「国士峠」になります。
この道沿いにはこの史実を記した説明看板が立てられているそうで、峠名の由来として「1551年(天文20年)、上杉憲政の子、龍若丸が自刃し、そのこうべを湯ヶ島から大見村最勝院まで輿に提げ運んだことから、輿提げ峠=国士峠となった」と書いてあるそうです。このことは先日書いたばかりです。
現在も最勝院の本堂堂裏手には、そのお墓として五輪塔が据えられており、ここが龍若丸の終焉の地であることの説明看板が立てられている、ということも先日も書いた通りです。
上杉憲政やその二人子は御館の乱の際に上杉景勝方の兵士により討たれて亡くなり、また、龍若丸も亡くなったため、山内上杉家の一族はこれで断絶したかと思われました。
ところが、この亡くなった三兄弟のほかに、憲景という人物がいたという記録があり、御館の乱でも討死したようですが、一子があり「家房」という名前だったといわれています。実際、憲政の孫・曾孫達としてその存在が江戸時代に確認されているそうで、そうすると、歴代の関東管領の子孫たちは今のこの世にも実在している可能性があります。
その子孫が今日まで生き残っているかどうかはよくわかりませんが、もしかしたらひっそりと、関東管領の子孫だと自覚しつつ、今も静かに世をおくっていらっしゃるのかもしれません。
もしかなうことなら、お会いしたものです。フィギアスケートの織田信成選手のように、かつての戦国武将の面影を残した人物であるかもしれないのです。
さて、今日も長くなりました。が、関東管領って何?古河公方と堀越公方、はたまた鎌倉公方との関係は??とよくわかっていなかった人には、少しはわかっていただけるよう、整理できたのではないでしょうか。
整理した私もしかりです。すっきりしました。また改めて、こうした難しい課題にチャレンジしてみたいと思います。が、疲れたので、今日のところはこれまでにて。