先週のこと、伊東へ買い物へ出かけるため、県道12号を通って、冷川峠方面へ向かっていました。いつも通る道なのですが、その途中の白岩と呼ばれる一帯はのどかな田園地帯であり、昔ながらの里山風景が望まれ、何度通っても気持ちの良いところです。
この白岩から冷川峠に行く途中、「国士峠」方面を指す標識に出くわします。これを右折すると県道59号に入り、その先は湯ヶ島に至ります。かつて川端康成も逗留して伊豆の踊り子を書いたといわれるあの有名温泉です。
この59号線沿いに、「伊豆大見の郷 季多楽」という道の駅のような施設がある、と前から聞いていたので、ちょっと気になり、伊東へ行く途中に立ち寄ってみることにしました。
この道の駅?は、12号を右折して数百メートルも行かないうちにすぐに見つかりました。すぐそばに「大見城」という中世の城跡があり、静岡県がここを整備するとき、観光の目玉とするためか、そのすぐそばを走る県道12号沿いに作ったのが、「季多楽」のようです。
この「伊豆大見郷」は天城山の北麓に位置し、伊豆半島の中央を流れる狩野川の支流・大見川沿いにあるひなびた里です。良質の源泉を湧出し、古くから湯治場として、また近年は大手の病院が進出して温泉を利用した治療などが行われています。
しかし、伊豆半島の中でも、観光開発がほとんど行われてこなかったところで、またあまり目立った観光スポットもありません。ところが、最近この大見城の城跡が整備されて以降、少しずつ脚光を浴びているようで、この「季多楽」の駐車場にも平日にもかかわらず、県外ナンバーの車が何台か止まっていました。
「季多楽」には小さな売店が併設されています。通常の道の駅ほどの規模はありませんが、この大見の里の地場産の農産物や、天城わさび、天城椎茸、その他の野菜、あるいはこれらの加工品である漬物、つくだ煮類を販売していました。
なかなかリーズナブルなお値段だし、ほかにも花卉類も販売していて、「ちょっと伊豆へ行ってきました」的なお土産を買うにはなかなか良い場所かもしれません。
駐車場にはすぐそばの大見城の見取り図と散策コースを表示した看板が掲げられていました。もう夕方の4時近く、城跡は小高い山を上らなければならないようでもあったため、この日はここを散策するのはやめましたが、富士山も見えるようなので、今度晴れた日を選び、時間を作ってじっくり見学したいと思います。
この「季多楽」をチェックするという当初の目的を達したので、そのまま伊東へ向かおうとも思ったのですが、これまで来たことのない、大見郷、という場所がどんな場所なのかもう少し見てみようと思い、そのまま12号を東進してみることに。
すると、山間を流れる大見川を中心として開けた山里であることがわかりました。谷を流れる大見川を中心として、ひなびた集落が点在し、県道の両脇には棚田、またあちこちにはワサビ田らしいものも散見されて、ここにもまた美しい伊豆の原風景が見られ、良い目の保養になりました。想像以上です。
1kmほど走り、もうそろそろ伊東へ行かなくちゃ、と思っていたところ、道路脇の看板に「最勝院」と書かれている文字が目に入りました。ちょっとだけのぞいてみようか、ということになり、側道にクルマを乗り入れ、数百メートルも走ったところ、何やら山門が見えます。
すぐ脇にある駐車場に車を止めて、道路脇にある案内看板をみると、そこには、この最勝院は曹洞宗のお寺である説明書きなどが書いてありました。
山門のほうを見やると、逆光越しに境内の緑が鮮やかなシルエットになって見え、ここもなんとも美しい風情です。
かなり大きなお寺のようであり、山門も相当立派なもので、これをくぐると古式ゆかしい境内が見えてきました。山門を入ってすぐのところには、両脇に池がしつらえてあり、その水も澄んでいて、鯉も数匹泳いでいます。
本堂はここから百メートルほど奥にあります。それほど古いものではなく、どうも昭和になって建て替えられたもののようですが、境内の敷石やあちこちにある地蔵や五輪塔といった寺物はほとんどすべてが苔むしていて、いかにも古そうです。
さきほど見た看板によれば、さらに奥のほうに墓地や別のお堂などもあるようですが、この日は時間が押していたので、とりあえず、境内の写真をパチパチと撮っただけで伊東へ向かいました。
しかし、ナントも気持ちの良い空間であり、大見城もさることながら、今度またじっくり時間を作って境内奥のほうなども散策してみたいと思いました。
この最勝院について、家に帰って調べたところ、その寺史によると、鎌倉管領で伊豆の国守護職であった上杉憲忠が、祖父憲実の菩提を弔うために室町時代の1443年(永享5)に草創したとなっているそうです。
が、歴史に詳しい方が書いていらっしゃるホームページがあり、これをみたところ、その創設は、同じ関東管領でも上杉憲実という人の手によるということで、その祖父の憲栄のために建てた寺というのが本当だということです。
本尊は体内釈迦牟尼仏、脇立は文殊菩薩・普賢菩薩。もともとこの地にあった真言宗のお寺の跡に堂宇を建て、寺領として七百貫匁が寄付され、現在の前身の本堂を建てました。
戦前までは三町歩(約3ヘクタール)の農地を所有した大寺だったといいますが、現在の敷地はかなり縮小されています。しかし、それでもかなり奥行の広い広大な敷地を持つお寺さんです。
知る人ぞ知る桜の名所でもあるようで、そういえば境内と山門の入口付近に大きな桜の樹がありました。今年はもう終わってしまいましたが、来年のサクラの季節にはぜひまた来てみたいと思います。
このお寺、古いだけに色々な伝説が残されているようで、そのひとつは天狗伝説です。初代の住職で、吾宝禅師という人の説法を聞きにきた天狗が、水源の乏しいこの地に水をもたらしたといいます。
それはこんな話のようです。
ある朝、禅師が村の人々を集めてお説法をしていたといいます。すると、数ある村人の中でも、とくに禅師の説教を熱心に聴いている老夫婦が目に留まりました。あまりにも熱心に聴いているので、説法が終わったあと、禅師は何かこの夫婦に声がかけたくなり、返ろうとしていた二人を呼び止めます。
そして、何か所望することはないか、と尋ねたところ、我々二人はもうかなりの高齢なので、この先もういつ死んでもおかしくない、もし死んでしまったとしても周囲の人に迷惑をかけたくないので、できれば生きているうちに血脈(戒名)を受けたいと答えたといいます。
それでは、戒名を与えてやる代わりに、しばらく私の説法を聞くためにここに通いなさいと禅師は二人に言いました。実は師は二人の信心ぶりを試すつもりだったようですが、その期待に答え、その後老夫婦は老師の話を聞きに毎日やってくるようになりました。
そして、ある日のこと、師はその日の説法が終わったあと、この熱心な老夫婦を呼び止め、戒名を与えることにしました。「周伯(しゅうはく)」「傳中(でんちゅう)」というのがそれでしたが、その折に禅師が二人に本当の名はなんというか、と聞きました。
すると、二人は顔を見合わせ、おそるおそる禅師に自分たちのことを語り始めました。その話を聞いた禅師は驚きました。なんとこの二人は、人ではなく、この寺の裏山に住む天狗だというのです。驚く禅師に対して、二人の天狗は戒名を与えてくれたお礼に、逆に何か願い事があればお返ししたいと禅師に言いました。
実はこの当時、最勝寺では、水が乏しく困っていました。このため、師が水がほしいと所望すると、天狗はたやすいことですといって帰っていきました。
……その夜のこと、寺の衆たちが寝静まり、禅師が静かに書物に目を通していました。……と、静かな寺の山側の墓地から、ちょろちょろ、ちょろちょろ、という水のような音が聞こえてくるではありませんか。
音はだんだんと大きくなり、ついには、さわさわと流れる沢水の音に変わっていきました。驚いた禅師が裏庭に出ると、その地面からは澄水がこんこんと湧きだしており、その水が枯れた沢に沿って、お寺の門のほうへ流れていたのでした。
こうして、最勝寺では、その後水に困ることはなくなり、この水は今も尽きることがなく、こんこんと湧き出している……とか。
現在でも最勝寺では、この時の天狗が指の爪で彫ったという「般若の宝札」と呼ばれるものが寺宝となっているそうです。どんなものかよくわかりませんが、お札の形をしたレリーフのようなものなのでしょう。
例大祭が年二度ほどあり、これは、火防尊大祭(4/24)、大施餓鬼(8/19)だそうです。火防尊大祭のほうは既に終わってしまっていますが、大施餓鬼のほうはどんなお祭りなのか、これもまた見てみたいものです。
この最勝寺、当初は西勝寺と称し真言宗の寺院だったようですが、いったんは廃れ、これを再興して開山したときに、最勝院と寺号を改称し曹洞宗に改宗しています。
この天狗のおかげなのか、その後寺運が隆盛し、江戸時代には伊豆国の曹洞宗僧録所にもなり最盛期には宝五派1400余ヶ寺を傘下に従える大寺となります。往時は七堂伽藍をもつ豪壮な寺であり、雲水真参弁道の道場として多くの修行僧を世に送りだしました。
1827年(文政10年)、1940年(昭和15年)と火災により多くの堂宇が焼失しましたがその都度再建されています。さきほどの、火防尊大祭は、そのためのお祭りなのでしょう。
昭和15年の消失後はしばらく放置されていましたが、昭和29年に本堂が再建され、その後祖堂、総門などの他の建物の再建も行われて今日に至っています。
本堂裏手には、室町時代の伊豆の守護職であり、最後の関東管領でもあった山内上杉氏の「上杉憲政」の嫡子「龍若丸」の墓所があり、人質として小田原北条氏に送られる途中に逃げ出し、追手により追い込まれて殺され、この地に葬られたと伝えられています。
この最勝寺の東10kmほどのところには「国士峠」という峠がありまますが、これは、龍若丸の亡きがらを湯ヶ島から最勝院まで輿に提げ運んだことから、「輿提げ峠=国士峠」と呼ばれるようになったということです。
最勝院の本堂堂裏手には、そのお墓として五輪塔が据えられており、ここが龍若丸の終焉の地であることの説明看板が立てられています。
古いお寺であるだけに、このほかにも、この大見の里に伝わる不思議な話が伝わっています。
最勝院からさらに東へ進み、国士峠に向って大見川の支流・地蔵堂川に沿いに遡ると貴僧坊という字があります。この地の伝承に拠れば、永享の頃(1429~1440)に天城湯ヶ島から国士峠を越え、ひとりの旅の修行僧が訪れ、ここにあったお堂に一泊しました。
ところが、その夜半に村人がこのお堂に女の死人を担ぎ込みます。このため、この僧が棺の前で大般若経を読んだところ、なんとこの女は突然生き返ったといいます。驚いた村人たちはその後この僧を崇め貴ぶようになり、僧は村人からの喜捨(進んで金品を寄付・施捨すること)を得てこの地に大久寺という寺を開きましいた。
今はもうこのお寺は廃されているようですが、このエピソードから、この字の名前「貴僧坊」がつけられたと伝わっているそうです。
そしてこの僧こそが、その後に最勝院を開いた名僧「吾宝禅師」ということです。名前を検索すると、結構出てくるので有名なお坊さんのようです。が、今日はこの方の話はやめておきましょう。
この最勝院にはさらに別のバージョンの「黄泉がえり」の伝承があります。
ある年の大晦日に、この大見にあった茶屋の老母が急死しました。しかし、年末であったために、葬儀ができず、このため三日ほどの間、大久寺に安置されたそうです。ところが、年が明けた正月に、近隣の村人が参賀のために詣ったところ、驚くなかれ、この死んだはずの老母がたすき掛けで茶の接待をしていたといいます。
ところが、正月の三が日が過ぎた夜になると、この老婆は棺に戻っていたといい、その葬儀は四日目に営まれたとか。
古いお寺ともなると、ちょっとした里の噂話に尾ひれがついて、長い間にこうした伝承になって伝えられることが多いようですが、室町時代以降、ほとんど変わっていないと思われる風景が残るこの大見の里には、ほかにも面白い話が残っているかもしれません。
また、調べて面白いことがあったら、アップしてみましょう。
前述した、大見城のことや、関東管領大内上杉家のこと、龍若丸のこと、などなどもまた書いてみたいと思います。とりあえず、今日のところはここまで。