瑞泉と八重桜 ~旧中伊豆町(伊豆市)

今日からゴールデンウィークです。

といっても、自営業の我々にとっては、とくに連休のありがたみというものは感ぜられず、この間にはどこへ出かけるにも道が渋滞するので、外出するのが億劫になるなど、むしろありがたくない面もあります。

連休中は、行楽地を避け、なるべく人の行かなそうなところをみつけるか、行楽客で込みそうな時間帯を避けるようにしていますが、ここ伊豆に移ってきてからは、そうした逃げ場もあまりなく、今年はどうしようかなと考えている最中です。やはりウチでおとなしくしているのがいいのかもしれません。

ところで、観光客があまり行かない伊豆の場所といえば、西伊豆の南西部がその最たるものでしょう。鉄道やバスなどによるアクセスが悪く、乗用車で行かざるを得ない場所であり、また、下田や土肥、戸田といった主要な港もない場所ですから、海からのアクセスも困難です。

我々が住んでいるのは、「中伊豆」と呼ばれる地域であり、ここからならば1時間半ほどで松崎まで行くことができますが、もし、沼津や三島を起点とするならば、その倍近い時間がかかってしまいます。東京などの関東地方からの車アクセスなら半日行程でも行けるか行けないかの場所です。

ところが、この中伊豆にもあまり観光客が訪れない場所があり、それは、伊豆市の最東端にある旧中伊豆町や、伊豆の国市の旧大仁町の山あいなどです。

先日、山口から来ていた母を三島まで送っていった帰り、夕方までにはかなり時間があったので、ちょっとこのあたりに行ってみようということになり、大仁から県道19号線、通称、大仁宇佐美道路を東進して、この「僻地」を目指しました。

期待?していたとおり、道中には何もなく、途中、地場産品を販売する「農の駅」のようなものがあったほか、伊豆の国市営のさつきが丘公園というスポーツ公園があるくらいで、観光施設らしいものは何一つありません。

さらにその先に、「大仁瑞泉郷」という公園らしきものがある、と聞いていたので、ここを目指していくことにしましたが、各所にこの公園への道案内の表示はあるものの、行けども行けども、なかなか到着しません。

大仁からは、およそ40分ほども走ったころ、ようやく「MOA大仁農場」の看板が見え、山間の谷間に広大な敷地の農場が見えてきましたが、どうやらこの中に大仁瑞泉郷はあるようです。

あとになってわかったのですが、この大仁瑞泉郷や大仁農場というのは、「MOA自然農法文化事業団」という団体が、主に、「自然農法」を推進する生産者グループ(自然農法普及会や研究会など)のために造った施設のようであり、平成11年に静岡県のNPO法人(社団法人)に認定されて以降、その活動拠点としている場所のようです。

MOAというのは、“Mokichi Okada Association”の略だそうで、その名の通り、「岡田茂吉」という人が、1935年(昭和10年)に立教した新宗教系の教団、「世界救世教」の関連団体です。

箱根にあるMOA箱根美術館や、熱海のMOA美術館もその関連施設であり、教団所蔵の美術品を展示しているとのことで、前からMOAってなんだ?と思っていた疑問がようやく晴れました。

この世界救世教の公称信者数は、国内に100万人を超えるそうで、海外にも99ヶ国で200万人の信者がおり、タイの約70万人、ブラジルの約44万人とその大部分を占めるようです。

タイ、ブラジルには、国内と同様、聖地と定めた神殿および庭園が建設されており、日本のこの中伊豆もまた、この団体の「庭園」として、「大仁瑞泉郷」の名でこれが建設されたようです。

すぐ近くまで行ったところ、もうすぐゴールデンウィークということで、連休中には、何等かのフェスティバル的なものが開かれる予定のようでしたが、この日は、もうすでに時刻は4時半を過ぎており、入場はあきらめました。

遠目にみると、芝桜などがきれいに植えてある広々とした公園が見え、また敷地内には無農薬野菜を使ったレストランなどもあるようで、今度また機会をあらためて行ってみようかと思います。

ちなみに、世界救世教の特徴的な宗教活動は、「浄霊」という手かざしの儀式的行為を各信者が行うことだそうで、このほか、自然農法という農法を推進することと、芸術活動を行うことがその信義に取り込まれているとか。

「浄霊」とは、同教団で行われる儀式的?行為のことで、病人の患部や、各病気ごとに有効とすされる「急所」に手をかざす事によって、その病状を癒すというものらしく、これは一応、医学的にも「代替医療」のうちの「エネルギー療法」という医療行為としてカテゴライズされているようです。

なので、オウム真理教のような必ずしもいかがわしい信仰集団、ということではなさそうなのですが、世界救世教の一流派では、「おひかり」と呼ばれるペンダント状のものを首にかけることにより、信者なら誰でも行うことが可能な術とされているそうで、そういう話を聞くと、ちょっと引いてしまいます。

創始者の岡田茂吉は、1882年(明治15年)、東京府浅草生まれ。幼少時に実家は貧しく、また茂吉は虚弱体質で次々と病気にかかり、結核にもなり、不治の宣告も受けたこともあります。こうした幼いころの体験により、のちに食生活の安全性をとなえ、「自然農法」を提唱するようになっていったようです。

浅草の尋常小学校、尋常高等小学校を卒業すると、画家を志し、1897年(明治30年)、15歳のとき、東京美術学校予備ノ課程に入学するも眼の病に侵され中退。

その後の青年期に商売を行い、いったんは成功しますが、過労をきっかけとして多数の病気にかかり入院を3回し、不治の宣告を2回受けます。このような体験の中で薬物の持つ副作用に気づき、医薬品や医者に頼らない、自然治癒力を重視した生活様式を築き上げるようになりました。

やがて、小間物屋「光琳堂」をおこし、さらには「岡田商店」という装飾品卸商も経営するようになり、その後は映画館経営なども行うまでになるなど、順当に商売を成功させ収益を上げてきましたが、ある年、取引先銀行の破産で事業が頓挫。

さらに妻が流産や死産を繰り返し、やっと妊娠した子も5か月で死亡、先妻も死去するなどの不幸が重なりました。このころの茂吉は、慈善活動は進んでやるほうでしたが、宗教は大っ嫌いの無神論者だったそうです。しかし、こうした不幸が続いたことで、人の世の儚さを思い、救いを求めて色々な宗教の講話を聴くようになりました。

こうして関わった色々な宗教団体からは、信仰を勧められることもあったようですが、なかなかそうした特定の宗教には心が向かなかったところ、1920年(大正9年)になって、「大本教」という宗教に巡り合います。

大本教は、霊能者の「出口なお」という女性が1892年(明治25年)に設立した、教団組織であり、出口なおに「降りた」とされる、国之常立神(くにのとこたちのかみ)という、日本神話に登場する神様を宗祖としています。

日本書記には、天地開闢(てんちかいびゃく)のときに出現した、一番最初の神と書かれており、日本神話の「根源神」として、大木教のような新宗教や一部の神道で重要視されています。大木教は、戦前の日本において、有数の巨大教団へと発展した宗教団体です。

その教祖、出口なおには、国常立尊の神示がお筆先(自動筆記)によって、信者たちに伝えられたとのことで、岡田茂吉も、そのお筆先にあった「世直し思想」に惹かれて入信したようです。

世直し思想というのは、キリスト教でいう「最後の審判」であり、また仏教でいうところの「末法の世」のことです。

また、茂吉はこのころ、歯痛に悩んでいましたが、詰めていた消毒薬を取ったところ、歯痛がよくなったなどの経験に基づいて、「薬が病気のもとではないか」という自分の考えと、大本教の信義である、薬は逆に人にとっては毒になるといいう「薬毒」の教えが一致していたこともまた、入信の決め手となりました。

入信して6年が経った1926年(昭和元年)の暮れのある晩、茂吉は、突然、お腹に光り輝く玉が入ってくる、という神秘体験をします。そして、このとき、その後の自己の使命を悟ったそうで、それがのちの世界救世教の設立でした。

1926年といえば、第一次世界大戦後の経済大恐慌の時です。茂吉も大木教に帰依しつつ自分の会社を経営していましたが、株が一斉に暴落したのに伴い自身の事業も大打撃を受け継続困難になります。

1931年(昭和6年)、茂吉は今度は千葉・鋸山の山頂にて神秘体験を得たといい、これをきっかけとして、「岡田式神霊指圧療法」を開始しますが、これがのちの世界救世教における「浄霊」の原型だったようです。

しかし、その術の施布が、大本教の方針と異なるという批判を受けるようになり、入信後から14年経った1934年(昭和9年)に、大本教から追われるようにその組織を離れました。

1935年(昭和10年)地上における「天国建設」を目的として、のちの世界救世教のベースとなる「大日本観音会」の立教を宣言します。

東京の麹町山元町に本部を置き、同年、世田谷区上野毛の玉川郷で、自然農法による栽培実験と研究を始めるようになり、これを通じてその根本原理や食の重要性を信者たちに説くようになります。現在の箱根や熱海にあるMOA美術館の構想も、この玉川郷時代に形づくられたようです。

しかし、時代は徐々に太平洋戦争へ向かう暗い世相に入ってきており、1936年(昭和11年)ころからは、官憲から強い圧迫を受けるようになります。このため、宗教行為と治療行為の分離を迫られ、治療行為部門を「大日本健康協会」として分離。

このころ、茂吉は、今でいう統合医療による療院(病院)を設立する構想をたてており、のちにMOAの組織で建設されるようになった多くの療院はこのころの発案です。しかし、同年の9月、警視庁より療術行為禁止令が出、医療組織は発足して数か月で解散するはめに。

このときのことについて茂吉は後年、自分たちがやっていた療術行為を科学として世に問いたかったが、世間的には「宗教団体」とみなされていたがゆえに、その「浄霊」の効果を正しく認識してもらえなかったと述懐しています。

このあたり、この浄霊というものを経験していない私には、これがどういうものかはよく理解できませんが、気功や霊気(レイキ)など科学的に証明されていない人体の周囲や内部に存在するとされたエネルギー場に作用させる治療法である、「エネルギー療法」や「バイオフィールド療法」などは、古くから欧米では医療行為として認められています。

アメリカ国立衛生研究所 (NIH) に属する国立補完代替医療センター (NCCAM) では、このエネルギー療法のほか、心理面からの働きかけによって身体機能や症状に介入しようとする、瞑想法や芸術療法などを含む医療行為を、「代替医療」として実際の治療に取り入れています。

現在では主流医療に取り込まれているものもあり、それらは、「生物学的治療法(biologically based therapies)とも呼ばれ、ハーブ類や、サプリメントなどの物質を利用したものです。

岡田茂吉が率いる世界救世教における施術においては、病気の原因は薬による二次被害であるとする思想、すなわち大木教における「薬毒」を主に主張しており、西洋医療の投薬や手術、東洋医学の漢方にかわる治療として「浄霊」を取り入れるのだと主張しています。

われわれは、「浄霊」と聞くと、すぐにテレビのオカルト番組で、霊にとり憑かれた人を「霊能者」を自称するひとたちが、エイヤッと背中などを叩いて悪い霊を追い出すシーンが目に浮かべますが、茂吉らが主張する浄霊は、欧米でいうところの、前述の「代替医療」に近いものと思われます。

茂吉は、この浄霊が医療行為として認められるよう、医師を呼んでの懇談会や出版物を出すなど意欲的にその活動を行ったといいますが、とうとう生前には日本の医学会にはこれを認めてもらうことができませんでした。

このため、信者の中には、日本の医学界と対立的な姿勢を見せる者もあり、その結果発生したトラブルなどが新聞に掲載されるようなこともありました。

このため、茂吉の死後、現在の世界救世教は、その方針を、より医学との共存的な姿勢を取る方向に向けているそうで、以来、彼らの浄霊を医療技術者たちに「強要」することはやめ、教団施設内に、自らの医療施設を設け、その施術も教団内の信者を中心に行っているようです。

その内容もとくに秘密にしているわけではないようで、このあたり、極端な秘密主義をとり、過激な殺人集団になっていったオウム真理教などのようないかがわしい宗教団体ではなさそうです。

岡田茂吉の生前、「浄霊」は病気治療法としてのひとつの技術であり、施術者も病気治療の急所などについての基本的な医学知識が必要とされたようです。

ところが、彼の死後は、二代目の教主(岡田茂吉の息子)により世界救世教の浄霊は宗教的儀式(祈り)の面が強調されすぎるようになり、施術者は病気の急所などの知識は必ずしも必要ではないとされるようになったとのことで、このことをめぐって、昭和60年ころから世界救世教の内部でかなり混乱があったようです。

その結果として、その後世界救世教は、大きく分けて二つの流派に分かれ、病気治療的面を強調する会派と、病気治療的面を強調せず宗教儀式的なものとして行う会派が並立するかたちとなり、このあたり、浄土真宗の大谷派と東本願寺派の対立とどこか似ています。

一方、茂吉が唱えた、「自然農法は」、これが現在のように「無農薬有機農法」として注目を集めるよりはるか前の昭和20年代から彼によって提唱されてきたものであり、MOA自然農法文化事業団の前身団体が、独自の無農薬有機農法を研究、実践、推進してきたものです。

岡田茂吉の死後、彼が創設した世界救世教としても、琉球大学の教授で比嘉照夫が提唱する有用微生物群(EM、Effective Microorganisms)を採りいれた土壌改良法による農業の提唱により、環境浄化の活動などを積極的に取り入れるようになりました。

このため、現在では、この「EM農法」による有機栽培と、世界救世教の「自然農法」は同じものであるかのように言われていますが、もともとは別なものです。

現在の世界救世教では、病気治療的面を強調せず宗教儀式的なものとして行う会派、これらには、「世界救世教いづのめ教団」、「世界救世教主之光教」などがあるそうですが、これらの会派は、いまだに自然農法にEM技術を使用する会派として知られています。

一方、こららの会派と一線を引く、会の趣旨の中心を病気治療的面に置く会派で、このEM農法を自然農法において「使用しない」会派のほうは、「東方之光」という会派だそうで、こちらが現在、MOAを名乗り、MOA大仁農場や、 MOA自然農法文化事業団、MOA美術館などを運営している組織です。

このあたりの組織的な実情はかなり複雑なようですが、現代の教主も初代の岡田茂吉の子孫である岡田陽一という方で、茂吉の流派の流を組む、いわば「本流」とみなされているのが、東方之光=MOAということのようです。

じゃあ、東方之光とMOAは何が違うの?という疑問なのですが、これについては、ある別の宗教団体の方がMOAのある教団幹部にインタビューした結果などを読んでみたところ、この教団幹部は、東方之光は「霊」で、MOAは「体」という霊体の関係と答えたということです。

双方とも、表裏一体の交わった活動をしており、組織は別のようにみえても同じ教団に所属する人達が運営している、ということのようで、この大仁にある農場やその他の施設もまた、東方之光が運営しているといっても良いのでしょう。

「瑞泉郷」という名称も、もともとは岡田茂吉が、21世紀にかくあるべき、と考えた「都市構想」を具現化しようとしたものであり、彼はこれを「健康作りの雛形」のようなものと考えていたようです。

そして、その柱となるのが、療院事業、農園事業、花園事業の三大事業であり、これをもって、人々は健康で幸せになれると考えたようです。

当初はこれを熱海に作る世予定だったようですが、適当な場所がなく、その適地を探していたところ、みつかったのが現在の場所であり、本当は「熱海瑞泉郷」になる予定だったものが、現在の「大仁瑞泉郷」になったようです。

現在、瑞泉郷は日本のその他の場所でも建設が進められているそうで(これがどこだか調べてもよくわかりませんでしたが)、このほかタイ、メキシコ、ペルーでも、その国の厚生省、文部省等の行政機関が認めた「生命科学芸術学院」という教育機関を設置しているのだとか。

ハワイでも、瑞泉郷が既に建設が進められ、まもなくこれと同じ「生命科学芸術学院」が誕生するそうです。いずれはロスアンゼルス、東海岸への拡大も模索しているとのことで、何やらここまで聞くと、夢物語のような気もするのですが、現実のことだとすると、ものすごいエネルギッシュな宗教団体です。

私的には、とくにどこの宗教も信じることのない、無宗教派であり、とくにこの世界救世教なるものを支持するつもりもありませんが、岡田茂吉とその流れを組む現在の教団が主唱している、代替医療や自然農法には理解を示したいと思います。

が、それをここまで世界規模でやることには、少々疑問というか、はたしてそこまで「宗教」と称して組織化してやるようなことなのか、という気はします。

このあたり、いろいろ論議の分かれるところでしょう。が、その教義を信じることに疑いを持たず、その考えにまい進できるということはうらやましく感じる部分もあります。教団以外の人さまに迷惑をかけるではなく、自分たちの信条を貫こうとしているのであれば、何らの非難の対象になるものでもありません。

さて、今日は、実は、亡くなった先妻の9年目の命日です。

例年だと、八重桜の咲き誇るころですが、今年は早々と散ってしまいました。八重桜と聞くと、どうしても亡くなった彼女のことが思い出されるので、今年の大河ドラマのタイトルが「八重の桜」であると初めて聞いたときには、ドキッとしたものです。

先日行った、瑞泉郷の入口の道路にも、延々とその八重桜の並木があり、驚いたことにまだ、かなりの花が残っていました。山間で標高が高いためでしょうが、今考えると、なんとなく、この桜に導かれてここへ行ったような気さえします。

本当は今日は、この八重桜にちなんだ、もっと別のことを書こうかと考えていたのですが、話の流れから宗教めいた方向へ行ってしまいました。

世界救世教を設立した、岡田茂吉も、若いころに、妻や子供を亡くしたことがきっかけで、その世界に入っていったようですが、私自身も先妻を亡くしたことで、その後の人生が大きく変わりました。

人の人生を変えるものは、人の死であるというのは、昔からよく言われることですが、その典型が茂吉であり、私自身のことでもあります。

だからといって今後、茂吉のように宗教の世界に入る予定はありませんが、ある日突然おなかに光が入ってきたという茂吉のように、私にもまた何か特別な変化が起こるか日がくるかもしれません。

だとしても、茂吉のような、世界宗教家になれるとはとても思えませんが、せめて自分自身がこれなら納得できる、といえるようなことをひとつくらいは何か成し遂げてあの世へ行ければと思っています。

その何かはまだはっきりと形にはなっていませんが、それを見つけることが、亡くなった先妻への手土産のような気がしてなりません。今年こそ、その私の「瑞泉」を見つけたいと思っています。