コメとサケ


昨日までの三連休は、観光客でごったがえすであろうからと、なるべく外出は避けようと思っていました。しかし、天気も良いことであり、家の中に引きこもっているのも、なんだかなぁということで、お昼もだいぶ回ったころから、外出してきました。

とくに行先は決めていませんでしたが、直前になってタエさんが、前から気になっていた、「奥の院」へ行ってみようか、というので私もその気になり、修善寺温泉を起点にそこまで歩いてみることにしました。

奥の院というのは、修善寺温泉を開いたといわれる弘法大師が、若いころに修業をした寺院であり、修善寺温泉からさらに東へ行った山奥にあります。

境内には、奥の院、すなわち正覚院というお寺と、大師が座禅を組んだという岩洞や滝などがあるらしいのですが、なにぶん、急に決めたことでもあり、詳しいことは何も調べずに出かけることとなり、それでもたぶん、温泉街から20分ほどで着くだろう、と高をくくっていました。

ところが、修善寺温泉から既に3kmほども歩き、少々へばっていたところに現れた標識には、ここより更に「2km先」とあるではありませんか。時計をみると、すでに4時近くになっており、こらから更に現地で色々見るためには、もうかなり遅い時間です。

外出の目的は、気分転換のようなものでもあったことから、じゃあ、無理して今日行くのはやめよう、ということで、二人ともあえなくリタイアを決め、帰宅することに。このへん、体力のない50代の熟年夫婦のこととて、奥の院での秘密レポート?を期待されていた方々には、がっかりかもしれませんが、お許し願うとしましょう。

しかしながら、この散歩は非常に快適なものでした。ふだんは足を踏み入れることのない、修善寺温泉から更に山奥へ分け入ったその場所は、左右前後にのんびりとした田んぼが広がる昔ながらの田園地帯であり、遠景に見えるなだらかな山々は優しく、水が張られた田んぼには今まっさかりの新緑が写り込み、絵のようです。

このあたりの田では、今ちょうど、田植えを始めようかという時期であり、その多くが代掻きを始めるか、既にそれを終えて水を張り始めており、いち早く田植えを終えた田も中にはありました。

弘法大師も歩いたという奥の院への参道には、ところどころ祠もあり、また、各所には、昭和のはじめに、四国八十八ヶ所霊場より移されたという、「御砂」の上に、弘法大師の像と札所本尊の梵字、名号を刻んだ石碑を建立したものがあります。

修善寺では、これを「桂谷八十八ヶ所」と称し、四国と同じ「八十八ヶ所巡り」として、毎年春と秋に、観光協会の主宰で、これを巡回ウォークする催しが開かれます。

白装束に身を包み、「お遍路さん」に変身した観光客が、がチリンチリンと行脚しながら、石碑のある温泉街や周辺の山道を、家内安全・無病息災・大願成就などを祈願しながら歩く姿は、修善寺の風物詩だそうです。

その遍路道は、我々の住む別荘地のすぐ近くにある修禅寺梅林や修善寺自然公園にも伸びていますが、この奥の院に行く途中の参道もそのひとつでもあり、あちこちに石碑が据えられ、ところによっては、休憩所を兼ねてベンチも置いてあり、そこから田園風景がまた美しかったりして、なかなか心憎い気配りです。

何もないといえば何もない田園風景なのですが、いまどき、観光地の近くでこれほどひなびた景色が見れる場所というのも、なかなかないのではないでしょうか。たいていは、何等かのお店や看板などが風景を疎外しているものですが、ここにあるのは農家と田んぼ、そして美しい山と川だけです。

また、景色だけでなく、その周辺には、田んぼの代掻きで出る虫などを目当てなのか、さまざまな鳥たちを見ることができ、カエルの声まであちこちから聞こえてきて、「のどか」というのは本当にこういう場所のことをさすのだと感じました。

ところで、この田植えの準備作業をやっている方々は、遠目にみるとやはりお年寄りがかなり多いようです。稲作に機械化が進み人手が余り要らなくなったため、「母ちゃん、爺ちゃん、婆ちゃん」のいわゆる「三ちゃん農業」をする農家が多くなり、修善寺においても若いお父さんは町に働きに出る、兼業農家の方が多くなっているためです。

この、我々日本人にとっては、最も身な農業であり、それゆえに季節ごとに日本特有の風物詩を醸し出している「稲作」について、改めて調べてみました。

この稲作、北緯50°〜南緯35°の範囲にある世界各地域で稲作は行われており、現在では、米生産の約90%をアジアが占めるそうで、ヨーロッパや中近東、アフリカなどでの産出量は極端に少ないようです。

それだけアジアの風土に適した農作物ということなのでしょうが、その起源は、かつてはミャンマーやベトナムとの国境にも近く、植物相の豊富な中国南西部の「雲南省」といわれてきましたが、最近の考古学的調査によれば、どうやらここはその発祥の地ではないということがわかってきたそうです。

様々な考古学調査から、雲南省の稲作遺跡での稲作は4400年前以上に遡れないことが明らかになってきており、その後日本にも伝来する、「ジャポニカ稲」の起源は東南アジアであるらしい、と茨城県つくば市にある国の機関、農業生物資源研究所も発表しています。

栽培種としてのこの稲の色や食感などの4つの遺伝子を調べたところ、その伝来は、起源の東南アジアから中国の長江付近へ伝わり、同地での栽培化の過程でジャポニカ稲が発生したと推測されるのだそうです。

では、中国以外の東南アジアのどこが本当の原産地か、といわれるとその辺はまだ明らかになっていないようですが、いずれにせよ、中国へ伝来し、これが、ジャポニカ稲として改良され、日本に伝わってきたようで、揚子江下流の浙江省(上海のすぐ南)では、約7000〜6500年前の水田耕作遺物が1970年代に発見されています。

こうしたいわゆる「水稲(すいとう)」は揚子江中・下流域で発達し、日本へもこの地方からどうやら九州に伝播したと考えられていますが、これがどういうルートで、九州のどこに持ち込まれたのが最初だったのかについても、まだ結論が出ておらず、諸説があるようです。

日本への伝来に関しては、揚子江下流域から直接九州北部に伝来したという説や、西南諸島を経て九州南部へ伝わったという説、揚子江下流域から遼東半島を経由して朝鮮半島を南下したのちに九州北部に伝来したとの説があります。

いずれにせよ、日本では九州がその最初の伝来場所らしく、それゆえに、九州に邪馬台国のような強力な国が出現し、この国の起源になったという説が有力視されています。邪馬台国は畿内にあったのではないかという人も多いようですが、やはり強い国を造るためには食糧事情の良さは必須条件であり、米がその条件を満たしたであろうというわけです。

日本最古の水田址遺跡もまた、九州の福岡にあります。弥生時代前期初頭の水田遺構ということで、福岡平野の板付遺跡や菜畑遺跡、野多目遺跡、橋本一丁田遺跡などがそれです。

近年の研究における炭素年代測定法によると、これらの遺跡は約3200年ほど前であり、この結果から、これまでは曖昧とされてきた弥生時代の始まりは、紀元前12世紀まで遡る可能性も出てきたそうです。

こうして、九州に伝来した稲作はその後日本中に広がっていきましたが、寒冷な東北地方にも伝わり、古くから栽培が行われています。しかし、東北地方の太平洋側は「やませ」が発生するため、せっかく栽培した稲も冷害による甚大な被害を受けることが多かったようです。

やませとは、春から秋に、オホーツク海気団より吹く冷たく湿った北東風または東風(こち)のことであり、特に梅雨明け後に吹くことが多いようです。

梅雨明けというと、苗から育てた稲がようやく大きくなろうかなるまいかの時期であり、このやませは、東北地方の太平洋沿岸、時には関東地方の太平洋側にも吹き付け、海上と沿岸付近などの海に面した平野に濃霧を発生させます。この冷たい霧が稲作にとっては大敵な冷害の原因となるのです。

しかし、そうした障害があるにも関わらず、稲作は江戸時代には北海道の渡島半島にまで伝わっています。最初、その規模は微々たるものでしたが、その後明治時代以後は北海道の石狩平野でも栽培されるようになり、寒冷地で稲作を可能とするために多くの技術開発が行われました。

品種改良は当初耐寒性の向上や収量が多くなるように行われ、その後「米」は我が国を代表する全国的な農産物となっていきました。最初は、現在よりももっとたくさんの色々な品種が栽培されていましたが、いまのように飽食の時代になってからは、コシヒカリやその系統種のように、味が良くて耐病性が向上したものだけが流通するようになりました。

「米離れ」の原因は、栽培技術が進みすぎ、米余りになるおそれから減反政策を行うようになったためでもあります。米を作らない農家には補助金を支給し、転作を進めたため、ますます米の量は減り、日本人のコメ離れは加速していっています。

農林水産省によると、2011年7月から2012年6月までの国内の主食用米の需要実績は、810万トンと、過去最低を更新したそうで、2012年7月から2013年6月までの需要予測は798万トンとさらに落ち込み、戦後初めて800万トンを割り込む見通しです。

戦後のコメの需要は1963年の1341万トンをピークに、食生活の欧米化や少子化などで減少傾向が続いており、さらに日本の食料自給率は低下していきそうです。

一方、米の流通については、かつては米屋でしか手に入らなかったものが、規制緩和によってスーパーマーケット等にも販売が解禁されており、正規の流通以外で売買される自主流通米が増え、国内の流通販売は自由化されています。また、国際的な貿易自由化の流れにより、高率の関税を課す関税方式での輸入も解禁されるようになりました。

この関税を撤廃しようというのがご存知TPPであり、多くの米作農家が、自由化により自分たちが作ったコメが売れなくなると危惧するのは当然のことです。

TPPが実現し、日本に諸外国の安いコメが入ってくるようになるとすると、日本産の米を作る農家も減っていく可能性もあり、そうなると、昨日見た、あの修善寺の山里の米づくりののどかな風景も見れなくなってしまうのかなぁと少々心配です。

水田の光景は、日本の伝統的文化のひとつといってもよく、日本人と稲作の深い関わりを示すものとしては昔からある田植を始め、田植踊・御田祭・御田植・御田舞などなどの豊作を祈るための多くの儀式や祭、あるいは民俗芸能などが伝承されています。

その筆頭が、皇室が宮中祭祀として行う「新嘗祭(にいなめさい)」であり、これは天皇が皇居の御田で収穫された稲穂を天照大神(アマテラスオオミカミ)に捧げ、その年の収穫に感謝するお祭りごとです。

一般でいえば「収穫祭」にあたるもので、例年、勤労感謝の日の11月23日に、天皇が五穀の新穀を天神地祇(てんじんちぎ)に進め、また、自らもこれを食して、その年の収穫に感謝します。皇居内にある神嘉殿(しんかでん)というお社で執り行われます。

このように米は、普通に炊いて食べる「白米」として、最も日本中に浸透した食べ物であるわけですが、日本の食文化にも大きな影響を与え、このほかにも、粥や強飯(おこわ)、餅やちまきなど多様な食べ方を生み出してきました。

醸造して「酒」を作るというのも、古くから行われている利用方法であり、「日本酒」の文化もまた、米同様に、日本を代表するものです。

日本酒の主な原料は、米と水と麹、そして酵母、乳酸菌などです。「麹」というのは、正式には「麹菌」といい、蒸した米にコウジカビの胞子を振りかけて育てたものであり、その名の通り、「菌」の一種です。これが米の主成分であるデンプンをブドウ糖に変えます。そしてその糖に変える過程を「糖化」といいます。

日本酒造りにはもうひとつ、「酵母」というものを使います。酵母もまた、「菌」であり、米のような有機物(食物)を利用して分裂しながら成長します。この状態のことを「発酵」といい、その過程で日本酒ができるわけですが、この発酵をしやすくするために使われるのが、もうひとつの菌類の麹菌です。

酵母には、何十万を超える種類が自然界にあり、それぞれ異なった資質を持っています。そしてこの酵母の多様性こそが、酒の味や香りや質を決定付ける重要な鍵となります。多種多様な酵母の中でも、日本酒の醸造に用いられる酵母のことをとくに「清酒酵母」といいます。

ところが、この酵母は、それだけでは、米に含まれるデンプンを分解する力がありません。そのままでは酵母は米をエネルギー源として利用することができず、言い換えれば、デンプンを分解して直接アルコール発酵を行うことはできません。

これは、デンプンの分子量が大きすぎ、酵母はそのままではデンプンを分解できないためです。これを分解して酵母がアルコール発酵をすることができるようになるためには、下ごしらえが必要であり、まずはデンプンを変化させて、小さな分子にしてやる必要があります。その役割を担うのが米麹であり、その初期段階の分子化が「糖化」です。

米麹には、その元であるコウジカビが持っているα-アミラーゼやグルコアミラーゼといった「分解酵素」が含まれていて、この働きによって米を分解し、「糖化」を促進することができます。これによって、酵母が米をより分解しやすくし、「発酵」を開始できる下地ができるわけです。

米麹には、ほかにもタンパク質でできた別の分解酵素も含まれており、これが米を分解する過程ではアミノ酸やペプチドといった物質が生み出され、こうして生成された物質もまた、酵母の発酵の手助けをします。

また、これらの生成物質は、完成した酒の風味に大きく影響します。こうした麹菌を使って米を分解し、アミノ酸やペプチドといった物質を一次分解して生みだす過程が、いわゆる「麹造り」または「醪(もろみ)」といわれるものです。

こうして、できた麹と酵母をミックスさせることで、米がスムースに分解され、その過程でアルコールが生成されて「お酒」になっていくわけであり、いわば麹と酵母は、夫婦関係のようなものです。どちらが夫でどちらが嫁かわかりませんが、ともかく夫婦の協同作業によって、その子供であるおいしい日本酒が作られていくのです。

なお、この夫婦の協同作業を、見守りつつ常にアドバイスをしている「仲人」のような存在がもうひとつあり、これが「乳酸菌」です。

乳酸菌によって生産される乳酸は、他の雑菌が繁殖しないようにするために、とくに麹造りなどの仕込みの初期に重要です。また、乳酸を始めとする酸が、酒に「腰」を与えます。もし酸が全くなければ、酒はただ甘いだけのアルコール液になってしまうことから、酒造りにおいは乳酸菌を使って酸を出すことはとくに重視されます。

乳酸菌が仲人のような存在というのはそうした理由からです。夫婦だけで「甘い生活」をさせていると、なまけてしまうので、仲人が時々アドバイスをして、キリっとした生活をさせるよう、指導しているというわけです。

さて、近代以前は、この麹と酵母の夫婦に協同作業をさせる、つまり麹や酵母を水と「合わせる」過程において、色々な思考錯誤がありました。

麹と酵母を合わせるにあたっては、様々な方法があり、古くは、空気中に自然に存在する酵母を取り込んでみたり、酒蔵の樽などに棲みついた「家つき酵母」もしくは「蔵つき酵母」といわれる酵母に頼るなど、その時々の運任せで、酒造りには科学的視点、科学的再現性が欠けていました。

このため、醸造される酒は品質が安定せず、各酒蔵元の職人さん達の経験と勘でそれぞれのブランドが守られてきました。そもそも麹や酵母が「菌」であるという概念がなく、それが生き物らしい、ということはたぶんある程度わかっていたでしょうが、化学的・合理的に安定した醸造法を生み出すということは、どだい無論な相談でした。

ところが、明治時代になると欧米から微生物学の考え方が導入されるようになり、これによって有用な菌株の分離と養育が行うことができるようになりました。こうした技術が全国的に知れ渡るようになると、日本酒の品質の安定と向上が格段に図られるようになっていきます。

1911年(明治44年)第1回全国新酒鑑評会が開かれると、日本醸造協会が全国レベルで有用な酵母を収集するようになり、鑑評会で1位となるなどして客観的に優秀と評価された酵母を採取し、純粋培養して頒布するようになります。

こうして日本酒の製造過程におけるばらつきはなくなり、その後各酒造会社で作られる酒の品質も全国的に安定していくようになっていったのです。以来、戦後の昭和の高度成長時代に至るまで、日本酒はもっとも国民に愛された代表的な酒であり続けました。

その後、国民の生活が豊かになるにつれ、酒の需要も多岐にわたるようになり、ビールやワイン、焼酎といった酒が広く飲まれるようになったことで、日本酒のシェアは徐々に減っていきました。しかし、吟醸酒といった新たな日本酒も開発されたことから、衰退して消えてしまうというところにまでは至りませんでした。

吟醸酒とは、米の外側を削る歩合を多くした上、醪みの段階をより低温とし、通常よりも長期の25日以上として醸造された日本酒です。

昭和50年代に、広島で開発されたのが最初で、この技術は「YK35仕込み」と呼ばれました。YKとは、「読めない空気」ではなく、Yは酒米の「山田錦」のY、Kは「熊本酵母」であり、35は精米歩合35%で、これが最初の吟醸酒でした。

果物のような香が特徴であり、従来の日本酒のような癖がなくてさらっと飲みやすく、冷酒の状態、またはさらに冷やして飲むという飲み方が、男性だけではなく女性にも受け、これによって日本酒衰退に大きな歯止めがかかりました。

しかし、近年、さらに日本酒の消費は減退傾向にあります。日本酒に限らず酒類一般の消費習慣から離れる「アルコール離れ」といわれる現象であり、とくに若者のアルコール離れがメディアなどでもよくとりあげられます。

ただ、アルコール消費量の減少は若者に限らず中高年でも著しいそうで、さらには日本だけではなく世界的な傾向で、フランスでもワインを毎日飲む人は1980年には51%だったのが2005年には21%に減少しているといいます。

日本酒の製造メーカーも、その長期低迷を脱しようとして、さまざまな試行錯誤が重ねていますが、なかなか日本酒の消費回復には結びついていません。

ところが、日本の外に眼を向けると、近年では、海外で日本食ブームとなり、とくにアメリカやフランスを中心とした国々では、吟醸酒ブームが起こっています。とくにニューヨークやパリなどでは、食前酒として日本産の吟醸酒を飲むのがトレンディとなりつつあるそうです。

普通酒を造るレベルの設備を持った日本酒醸造所なら、日本国外にも多く存在するのに対し、高いレベルの製造技術やきれいな日本の水が必要な吟醸酒は海外では造ることができず、必然的に吟醸酒は日本からだけ輸出される対象となります。

このため、日本でしか作れない吟醸酒は、高級酒として海外の人達に認識されるようになっており、国税庁の発表によれば、日本酒の日本国内での消費量は2006年(平成18年)には全盛期の半分近くまで落ち込んでしまっていましたが、吟醸酒を中心とした輸出量は年々倍増しているそうです。

イギリスでは2007年、日本食人気の高まりを反映して、伝統あるワインコンテストである「International Wine Challenge」に新たに「SAKE」部門が設置され、2012年には292蔵689銘柄が出品されるようにまでなりました。

これからは、外国でも吟醸酒の製造技術が進化し、これが生産されるようになれば、TPPへの参加もあいまって、それらの海外産の高級吟醸酒がいずれは逆輸入され、安く飲めるようになる、そんな時代が来るのかもしれません。

今、日本人自らが白米を食べるために行われている稲作もまた、海外で吟醸酒を造るための生産の場へとシフトしていく可能性があります。

いつの日か、修善寺郊外のあの美しい田んぼの風景の背後にも、横文字の看板立ち並ぶようになり、そこには、海外の吟醸酒メーカーのロゴと名前が入っているようになるかも。

ま、仮にそうなったとしても、あの美しい田んぼがなくなることだけはあってほしくないように思います。死ぬまでこの地にいるかどうかはわかりませんが、いつまでもあの日本の原風景のような景色が保たれていくことを願ってやみません。

さて、今日は修善寺郊外の散歩に始まり、酒の話に至ってしまいましたが、本来は酒の起源や文化などについても書いておくべきだったかもしれません。

が、それはまた別の機会に譲ることにしましょう。今日は連休の合間ということで、仕事に出ている方も多いと思いますが、この週末からは4連休という人も多いでしょう。今年は「安近短」の傾向が強いといいますから、伊豆へお越しの方も多いに違いありません。

伊豆の山々が観光客で一杯になるのはご勘弁願いたいところですが、もし修善寺に来られることがあれば、今まっさかりの田植えをご覧になるのも結構な目の保養になると思います。一度ご検討してみてはいかがでしょうか。