今年もいよいよ明日からゴールデンウイークです。今週末には一年の三分の一が過ぎ去るわけであり、時の速さをあらためて思います。
この調子だと、50年、100年はすぐに過ぎてしまいそうな気さえしますが、現世でのこの肉体をそこまで持たせるのは、SF小説でもない限り無理でしょう。
さて、先日、そのSFにまつわる話題や未来予想図について書きましたが、今日は続編を書いてみたいと思います。
まず最初に、SFはいったい、どれくらい昔からあるのか、ということを見てみましょう。
一説によれば、「最古のSF小説」と呼ばれているのは、古代ギリシアの作家ルキアノスの書いた「イカロメニッパス」ではないかと言われています。
この「イカロメニッパス」では、主人公のメニッパスが両手に翼をつけてオリュンポス山の上から、ギリシア神話の神、イカロスのように飛び立って月の世界に行き、そこで月の哲学者と会います。そして彼に、目を千里眼にしてもらって地上を見て、世界の小ささを実感するという話です。
それからかなり時間が経ちますが、14世紀にダンテ・アリギエーリによって書かれた「神曲」も、当時の科学的知見が盛り込まれたSFであるといわれており、その天国篇では、主人公のダンテが天動説宇宙に基づいて構想された天界を遍歴し、恒星天の上にまで昇っていくという内容になっています。
17世紀に登場した天文学者、ヨハネス・ケプラーは、天動説が主流であった当時、地動説の考えに基づいて小説を書いており、この小説「ケプラーの夢」は、アイスランド人のドゥラコトゥスという主人公が地球と月を自由に往復する精霊に連れられて月世界へと旅行する物語です。
一方、ヨーロッパ以外に目を向けると、古代インドの叙事詩「マハーバーラタ」には、これに登場してくる「神」は、超兵器「インドラの雷」を操りますが、これはすごい破壊力を持っており、その描写は核兵器を連想させるといいます。
このほか、同じインドの叙事詩「ラーマーヤナ」には、大気圏外の航行が可能なヴィマナと呼ばれる乗り物が登場するそうで、これはまさにSFです。
別のインドの文献には、このヴィマナの詳細な解説や、操縦方法までもが記述されているそうで、もしかしたら、太古の昔のインドでは、宇宙人がやってきており、原作者はその「史実」を書き残したのかもしれません。
日本においても、最古の物語といわれ、平安時代に作られた「竹取物語」も、月から人がやってきて再びそこへ帰るというSF的な話であり、室町時代に作られた「浦島太郎」も時間の流れの歪みが描かれており、「タイムマシン」の原型という人もいます。
日本神話の「天孫降臨伝説」も、高度な文明を持つ異星人が天からやってきたお話と考えれば、SFめいてきます。天孫降臨については、以前このブログでも書きましたが、現在の天皇家一族の祖先が天から降りてきたという伝説です。
その後、時代が、19世紀や20世紀と下るようになると、ヨーロッパではよりマニアックなSFが書かれるようになり、その先駆者が先日にもとりあげた、ジュール・ヴェルヌやH・G・ウェルズなどです。しかし、彼らが活躍するよりも50年以上も前にもすでに発表されたSF小説がありました。
1816年に当時19歳のメアリー・シェリーが書いた「フランケンシュタイン-あるいは現代のプロメテウス」がそれであり、SFというよりもむしろ「怪奇小説」的ではありますが、見方を変えれば、「人造人間」を描いたSF小説にほかなりません。
副題のプロメテウスは、ギリシャ神話の神の名前であり、全能の神、ゼウスともに人類の創造に関わったことから、著者がこのタイトルを選んだものと思われます。
ストーリーをご存知の方も多いと思いますが、これは科学者ヴィクター・フランケンシュタインが死体を集めて繋ぎ合わせ、人造人間を作ることに成功する話です。しかし、その醜さゆえに彼は、人造人間とは名ばかりの「怪物」としてこの世に生まれた自分を憎み、やがて自らを抹消していきます。
造られた「怪物」は「こころ」を持ち、幾度か人間と交流を試みますが、醜い容姿のせいでことごとく拒絶されます。絶望した「怪物」はヴィクター博士に、自分の伴侶となり得る女性の「怪物」造るように要求し、博士はその要求をいったんのみますが、女性の完成間近になってその約束を破ってしまいます。
怒った「怪物」は、博士の妻や友人を殺害したため、博士による「怪物」の追跡劇が始まります。長い追跡の末、博士は北極海で怪物を追い詰めますが、その直前に衰弱し死んでしまいます。「怪物」には良心が残っており、自分の創造主の亡骸の前で、複雑な心境を語った後、自らを「消滅」させるべく、北極海へと消えていき、そして……
という、ストーリーです。1931年にこれをリバイバルして公開された映画のほうの怪物は、研究室から脱走し、村で無差別に殺人を犯したため、怒れる村人たちに風車小屋に追い詰められ、燃え盛る小屋もろとも崩れ去る……という原作とはちょっと違うエンディングになっています。
原作者のメアリー・シェリーは、このほかにも「吸血鬼」の作者としても知られていますが、吸血鬼の話そのものは、ヨーロッパに古くからあります。しかし、フランケンシュタインも吸血鬼もSF小説的に仕上げたという点ではメアリーはその先駆者です。
メアリーの「フランケンシュタイン」はSF的テーマを扱いながらも「怪奇小説」であり、科学小説を書こうというモチベーションによって書かれたわけではありませんが、後世の多くの作家や評論家たちがメアリーに先駆的な業績を認め、SFの先駆者あるいは、創始者であると考えているようです。
19世紀前半の作家エドガー・アラン・ポーもまた、SFの開祖の一人であると目されており、彼の作品も、怪奇・恐怖小説の類が多いのですが、「鋸山奇譚」や「大渦に呑まれて」のほか、「ハンス・プファールの無類の冒険」などのように、科学知識を応用した作品も見られます。
とくに「ハンス・プファールの無類の冒険」は、気球による月世界旅行を描いたものであり、この当時の最新の科学知識が用いられており、この小説による影響をその後SFの大家といわれるようになった、ヴェルヌやウェルズもポーも受けているといわれています。
さらに、ジュール・ヴェルヌがそのおよそ半世紀後に書いた、「月世界旅行」は、その後これを読んだ、コンスタンチン・ツィオルコフスキーやフォン・ブラウンといった、その後宇宙工学の大家と言われるようになった科学者に大きな影響を与えました。
彼らは少年期にこれを読んでロケット工学の研究者をめざすようになり、この分野で名を成すようになったといわれています。彼らの手によって発展したロケット工学は、ついには実際に月まで人間を運ぶに至っており、ヴェルヌこそがロケット工学の父だと評価する人までいるようです。
核エネルギーの開発を行い、結果的に原子爆弾を実現させる事となったハンガリーの科学者レオ・シラードもまた、H.G.ウェルズのファンであったそうで、ウェルズの作品「解放された世界」に登場する原子力兵器に触発され、核開発に携わるようになってといわれています。
このほかのロボット、携帯電話、テレビ、潜水艦なども、最初はSFの世界で登場して「未来にはきっと存在するであろう技術」として概念が普及し、その後に現実世界でも実現したものです。
ある意味ではSF作品で培われた「科学技術」が本物の科学へと変身してきたといってもよく、現実味を伴わないフィクションであるとして読まない人も多いようですが、先人科学者たちの創造力を掻きたてる源としては重要な役割を担ってきたわけです。
未来史(Future history)という学究分野もあるそうで、これはSF作家がサイエンス・フィクションの共通の背景として構築したい未来の想像上の歴史です。
作家がその未来史の年表を作ることもあるし、読者が提供された情報を元に年表を再構築することができ、とくに職業作家だけがその研究を行っているわけではなく、現在では、諸分野に関する政策立案・政策提言を主たる業務とする、いわゆるシンクタンク(think tank)に所属する科学者たちも未来史を作っています。
「未来史」という用語を考案したのは、アメリカのSF雑誌であるアスタウンディング誌の編集者のジョン・W・キャンベルであり、同誌が1941年2月号で「未来史」を扱ったのが最初であり、結構古い歴史があります。
未来史を構築した最初の作家は、アメリカのSF作家のニール・R・ジョーンズと言われており、「宇宙飛行士(astronaut)」という用語を初めて使ったのもこの人です。サイボーグやロボット、人体冷凍保存の概念などを考え出したのもこの人といわれています。
当初の未来史研究の実践者は、テクノロジー、経済、社会などの現在の傾向から外挿したり、未来の傾向を予言しようとすることがほとんどでしたが、最近では社会システムや社会の不確かさを検討し、具体的なシナリオを構築することが多くなってきています。
外挿やシナリオ以外にも、様々な科学的な手法や統計学的、経済学的な技法が使われるようになっており、ここまでくると、立派な学問のひとつです。後述しますが、未来史と「未来学」は良く同一視されるようです。
一部のSF作家などは、立派な「フューチャリスト」として認識されており、彼らはきちんとした技術的なトレンドを調べ、そこから自らが導き出した結論を作品に反映させます。
アーサー・C・クラークなどがその代表的な作家であり、その作品は社会的にもそれなりの高い評価を得ています。
もちろん、SF作家の中には技術的あるいは社会的な未来の予測をテーマとせず、単に物語の背景に利用する者も多く、例えば、アーシュラ・K・ル=グウィンは「闇の左手」で予言者、予知能力者、フューチャリストが仕事として予言する世界を描いており、その著作には少々科学の発展からは逸脱したものが多いようです。
しかし、こうしたSF作家たちの作品やシンクタンクの研究者が作った未来史が、限りなく実際に近い、遠い未来の世界を我々に垣間見させてくれているのは確かであり、これによって掻きたてられた想像力によって、また新しい科学技術が創造(想像)されていくにちがいありません。
1990年10月、経済企画庁は今後20年で世界はどうなるのかを「世界経済」「国民生活」「産業経済」「社会資本」の4つのテーマで分析することになりました。その一環として「2010年技術予測研究会」が設置され、特に産業技術に関して集中的な予測が行われました。
2010年技術予測研究会」は1990年12月から101の技術予測を開始し、1991年9月に結果を公表しています。
その内容をみると、たとえば、当時市販されているコンピュータのメモリは4MBが最高でした。4MBといえば、現在のデジカメ写真1枚分程度にすぎませんが、その予測は、これが1〜2年後に64MBになり、2000年頃には1GBになると予測されていました。
ところが、現実には、1GBのDRAMは1995年に開発され、現実が予測より5年ほど早くなっており、このあと2030年に1TB(1000GB)が開発されると目されています。
このように、最近の未来史の予測においては、実際に実現した科学技術の完成の時期が早まり、その「実現度」が急速に加速している感があります。
50年後に実現すると予測したものが、実際には、その10分の1、5分の1の年限で実現することもあり、自分が生きている間には到底実現しないだろうと思われたことが、実際に開発された技術として、その日の朝の朝刊に載っていたりします。
こうした「加速する未来」を科学的な視点から、解き明かそうとする学問があり、これを「未来学( Futurology)」といいます。
未来学は、現状の技術開発の状況から未来を予測するだけではなく、過去の歴史上の状況を踏まえた上で、未来での物事がどう変わっていくかを詳細に調査・推論する学問分野です。
Futurology という言葉は本来、「未来研究」を意味し、これは、ドイツ人の科学者で Ossip K. Flechtheimという人が、1940年代中盤に確率論に基づいた新しい学問として提唱したものです。
「確率論に基づいた」というところがミソであり、これは、時間を直線に喩えると、未来は時間線の中で未だ起きていない部分を指し、これを統計的に予測するということにほかなりません。
すなわち、未だ起きていない事象の存在する時空間、つまり未来は、既に起きた事象と時間の集まりの反対に位置するものであり、現在、すなわち、今起きつつある事象の集まりを境として、過去の向こう側にあるものです。
未来学者とは、この未来を現在と過去の事象から見通し、何らかの分析を試みようとする人々ということになります。未来学は英語圏では最近、“future study(未来研究)”の用語のほうで一般化しつつあるようです。
未来学者が未来を予測するにあたっては、過去から現在に至るまでの傾向から未来の状態を予測するのが典型的な方法論であり、これは Strategic Foresight(戦略的洞察)といわれています。
逆に想定される未来、もしくは望ましい未来をもたらすには今どうすべきかを考える方法を、バックキャスティング(backcasting)といい、こうした手法を使って未来研究を実際に行っている学者たちは、自らをフューチャリスト(futurist)と呼んでいます。
「未来史」を作ることを職務とする、SF作家が自らを「フューチャリスト」と称するのに対し、こちらはあくまで科学者としての称号であり、サイエンティスト、と呼ぶのと似ています。
現在のような学際的性格の未来学あるいは未来研究は、1960年代中盤に、ハンガリー系イギリス人であり、電気工学者・物理学者であるガーボル・デーネシュらによって確立されました。デーネシュの有名な業績としては、ホログラフィーの発明があり、彼はこれにより1971年のノーベル物理学賞を受賞しています。
未来研究は、現在の選択が将来にどう影響するかを研究するものでもあります。予測を行い、ありうべき未来を描くため、変化と安定の源泉・パターン・原因の分析を可能な限り試みます。
「現在」起こっている事象について、今後ありうる変化、もっともらしい変化、望ましい変化を予測し、その予測にあたっては、変化の社会的側面と自然的側面なども考慮します。
このように未来学は、かなり多角的な研究分野ですが、学問分野としては未だ若く、概念や方法論も十分に確立しているとは言いがたい部分もあります。
しかし、マサチューセッツ工科大学の環境学者であり、未来学者でもあるデニス・メドウズらが、資源・人口・軍備拡張・経済・環境破壊などの全地球的な問題研究で世界的に有名な、スイスの「ローマクラブ(Club of Rome)」というシンクタンクに対して報告した、「成長の限界」という考えかたは、世界中から注目を浴びました。
「成長の限界」とは、システムダイナミクス(実験や広域的な俯瞰が困難であるビジネス・政策などの社会問題を予測するシミュレーションモデル)の手法を使用してとりまとめた研究で、その結果からは、人口増加や環境汚染などの現在の傾向が続けば、100年以内に地球上の成長は限界に達する、という研究結果が得られました。
1972年に発表された成果であり、その結論を一言でいうと、
「人は幾何学級数的に増加するが、食料は算術級数的にしか増加しない」
というものです。これは「人は子供が生まれてその子供がまた子供を生むので「掛け算」で増えていくのに対し、食料はある土地では年に1回それも同じ量しか生産出来ない、つまり「足し算」になるという概念に基づく結論でした。
現在では、この考え方を未来学の「起点」として考えている学者が多く、多くの企業がこうした未来学の成果を長期的な成長に関する戦略立案に役立てています。
アメリカでは、未来学そのものを教育システムに取り込もうとしており、他の国々に広がりつつあります。
教科としての未来学は、学生が長期的なものの見方ができるような概念・ツール・プロセスを学習させることですが、当然のことながらその延長には、企業や政府機関において、社会問題を専門とするスペシャリストを養成することが視野に入れられています。
余談になりますが、私がまだハワイ大学の大学院生だったころのこと、週末といえどもその週に与えられた課題をこなすべく、ほとんどは図書館で一日中を過ごしていました。が、時に、息抜きのために、その図書館の中にある人文科学系の棚を漁っては、昔の書物を読んでいました。
ハワイ大学は、「日本研究」においても世界でトップクラスにあり、その書棚には、かなり貴重な古文書なども所蔵されていたりします。それらの中には江戸時代の学術書もあり、またラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の著書「心(Kokoro)」や「怪談 (kwaidan)」の初版本(英語)なんてものもありました。
それらの中に混じって、古い日本の雑誌などもあり、戦前の大正、昭和初期時代の「週間朝日」などは、息抜きに読むのには最適でした。
そうした古い史料を読むことで、戦前の日本が何故、どうやって戦争に突入していったか、などの経緯がなんとなくわかるわけですが、これは現在から過去に至るまでの一連の出来事を頭の中に入れた上で、知らず知らずのうちに、その雲のような情報を系統立てて整理しているからでもあります。
現在の未来学では、昔私が図書館でやっていたような暇つぶしをもっとシステム的にやっているわけであり、こうしたプロセスを教育に取り込むことは、長期的な視点を育てる上においても、広範囲なものの見方ができるようになるという点においても、大変有効な方法だと思います。
ちなみに、私が読んだ週間朝日や他の古い日本の雑誌や新聞にも、ときおり「特集」として、「日本の未来はこれからどうなる」的な記事が組まれていました。
それらの未来予測には今現在、実現したものや実現していないものなどがあるわけですが、それらを読みながら、ああこれも当たっている、これは当たっていない、これは少し考え方が足りない、などと自分なりに論評を加えるのが非常に楽しかったことを今でも覚えています。
現在では、未来学者たちが予測した未来が雑誌や新聞などで公表される機会も多くなっています。2012年から2013年の頭にかけて、各国・各機関からさまざまな近未来予想が発表されており、日本のシンクタンクの野村総合研究所もまた、「未来年表2013~2060」を発表しています。
その結果によると、例えば、2021年の3月までには、東日本大震災のために設置された復興庁が廃止となり、2025年までは国民の医療費は、2010年時点で37.5兆円だったものが、52.3兆円と大きく膨らみます。
介護サービスの利用者も41万人にもなり、すべての都道府県で人口が減少。2040年には、高齢化率(65歳以上)が、38.8%になり、総人口は、2050年に9707万人、2060年には8673万人に減少。
経済面をみてみると、2023年には公債残高は1300兆円にもなるものの、2025年、市場が大きく飛躍して1.8兆円規模となります。
同年、IT機器の消費電力はグリーンITにより40%減少し、2030年には次世代自動車が新車販売のうち50~70%を占めるようになり、2035年、ロボット産業の国内生産量が9.7兆円規模に。2050年、太陽光発電は、交換効率が40%を超えるようになり、かつ発電コストは汎用電力並みに。温室ガス排出量は、2050年:2008年比で80%削減。
さらに、世界に目を向けてみると、2035年には、世界の再生エネルギーによる発電量シェアは、全体の1/3にも達し、乗用車の総保有台数は2010年から倍増して17億台に乗ります。世界人口は、2050年、93億人超(現況70億)、65歳以上の人口は、2010年の2.5倍の15億人に。認知症患者が増え、全世界で1億1540万人に。
……といった具合に、最近の未来学に基づいた我が国の「未来予想図」はかなり、具体的な数字をあげてその状況を挙げているのが特徴であり、その昔作られた未来予測のように、○○が×になり、△ができるようになります、的な表現がなされることはまれです。
しかし、これは野村総研のような政府へも情報を提供しているような、どちらかといえばお役所的な臭いのするシンクタンクが作った未来予想図であり、その結果もまた、政府系の研究機関が予測したものをそのまま流用していたりします。
海外のシンクタンクでは、もっと大胆な未来予測をしており、例えば、アメリカの国家情報会議(The National Intelligence Council,NIC)が公表した「グローバル・トレンド2030:もう一つの世界」という報告書では、2030年までに、以下の4大潮流が起こると想定しています。
・個人の力が増大
・世界は多極化に向かう
・富と人口が大きく移動
・食料、水、エネルギー問題が増大
これらの大きなトレンドを上げた上で、さらに具体的には、
「2030年、中国は世界一の経済大国として君臨するも、生産性が向上しないため、1人あたりGDPは先進国に追いついていかず、このため対外強硬策をとる可能性が高い。ただ、中国の栄華は長く続かない」といった予測や、「中東は民主化と中産階級の増大で落ち着くが、石油枯渇で衰退」などといった細かい予測がなされています。
また、「アメリカは世界のトップの地位に戻ることはないが、豊富なエネルギーで世界の安定勢力として貢献」とか、「欧米と日本の経済規模は、2030年までに半分以下に」、「世界の人口の半分が水の需要に苦しみ、アフリカと中東は食料と水不足の危機に瀕する」などといった予測結果もあります。
さらに、食料や水、エネルギーの不足から各国で争奪戦が起こり、このため精密な攻撃兵器や、サイバー兵器、バイオ兵器などを駆使した新タイプの戦争が起きる可能性が示唆されるとともに、2030年までに電気回路やアンテナ、バッテリー、メモリーなどの電子機器が人体とミックスされる、などの科学技術の発展にまで言及しています。
さすが未来学の本家、アメリカならではの予測であり、こうした予測結果をみると、日本のお役所やシンクタンクなどはもう少し本気を出して予測せんかい、という気にもなります。
私が調べた限りでは、他のお役所やシンクタンクの予想も、何かしょぼいというか、ひねりながいというか、あるいは想像力がないというべきなのでしょうか、ともかくあまりよく考えて作られていないものがが多いような気がします。
文部科学省が、「未来技術年表」なるものを作って公表していますが、個々の技術の予測はともかく、全体的なトレンドがどうなるとか、なぜそうなるのかとかの具体的な説明が欠けているようです。ついつい、どうせ、どこかのシンクタンクに任せて作ったのだろうと思うと、白けてしまいます。
そもそも、日本が作った未来史が諸外国で参考にされたなどと言う話は聞いたこともありません。欧米のように、国が国家的な威信をかけ、真剣に未来学に取り組むような科学者や機関を作ってもらいたいところです。
このアメリカ国家情報会議の予想は2030年の世界ですが、イギリスの経済誌「エコノミスト」が2050年の世界を予測しており、その中には、
・全世界的な高齢化にともない、アルツハイマーが増大
・3D技術と医療技術が合体し、微細な細胞を積層させ、3Dコピー機で臓器を製造
・ほとんどの車は他の車と情報共有できるようになる
・戦争はほとんど無人機とロボットの戦いに
といった昔ながらの未来予想図も含まれています。少々科学的な予測としては甘さが見られるような気がしますが、経済紙が作った未来予想だけに、あまり科学技術に詳しい学者が関与していないのかもしれません。
ちなみに、同じイギリスの国営放送局BBCが、なんと2150年先までの未来予測を発表しています。これをみると、例えば、以下のような予想がされています。
2017年 コンピューターに嗅覚が実装される
2019年 高解像度の人工眼球発売
2024年 脳内情報がコンピューターへアップロード可能に
2030年 ほとんどの航空機が自動化 中国が月に領土を主張
2037年 自動車が100%自動化が実現
2045年 人類の知能を超える機械が登場
2050年 高さ10000m(10km)の高層ビルが完成
2060年 火星に居住可能な基地が設置
2062年 世界初のクローン人間登場
2100~2112年 氷河期到来
2150年 人類の寿命が150歳以上に
この予想が「未来学」をもとに出された結果なのか、どういう人達の分析のもとになされたのかは、よくわかりませんが、科学番組で定評のあるBBCのことでもあり、なにやら非常に現実味があるかんじがします。日本のNHKなら、ここまでの予想はできないでしょう。いつもBBCのコンテンツばかり貰って放映しているようですから……
さて、今日もいつものように長くなってしまい、悪口も多くなってきたようなので、そろそろやめにしたいと思います。
最後に、今日の締めくくりとして、アメリカの科学者で「パーソナルコンピュータ」という概念を提唱し、「パソコンの父」といわれた、アラン・カーティス・ケイ(Alan Curtis Kay)のことばを引用して終わりたいと思います。
これは、アラン・ケイが1970年ころに関わっていた「ゼロックス社」がその保有する研究所の将来予測を執拗に彼に求めたときの回答で、アランらの開発陣と経営陣との軋轢や見解の相違から出た言葉のようです。私も好きなことばなので、前にもこのブログで取り上げたかもしれません。
「未来を予測する最善の方法は、それを発明することだ」
というのがそれです。アラン・ケイは、これをさらに別の機会に補足し、
「未来はただそこにあるのではない。未来は我々が決めるものであり、宇宙の既知の法則に違反しない範囲で望んだ方向に向かわせることができる」
とも述べています。
「宇宙の既知の法則に違反しない範囲で」というところが、彼の科学に対する謙虚な姿勢が出ていて、私が彼のことばが好きな理由でもあります。
みなさんも座右の銘にしてはいかがでしょうか。