ノーベル賞と妾

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今日明日は、「寒露」と呼ばれる季節のようです。

「露が冷気によって凍りそうになるころ」ということで、雁などの冬鳥が渡ってきて、菊が咲き始め、コオロギなどが鳴き始めるころだとされます。

このあと、さらに月末ころには「霜降」となり、紅葉が始まるとともに木枯らしが吹きはじめます。

毎年、この時期になるとノーベル賞の各賞が発表になります。そして今年は、昨日、一昨日と二人の日本人が受賞し、歓喜の声で列島が揺れています。

このあと、今日にはノーベル化学賞の発表があり、何人かの日本人候補の受賞が取沙汰されているようです。さらにはノーベル文学賞の候補、村上春樹さんの受賞もあるのではないかと噂されており、そのいずれかでまた受賞が実現すれば、トリプルでの受賞となり、本邦初となります。あるいは、4人とも同年受賞という快挙もありうるかも。

それにしてもこれまでいったい何人の日本人が受賞しているのかな、と改めて調べてみると、今回の受賞を含めて過去に25人もの受賞者がおり、この数は非欧米諸国の中で最も多いそうです。

自然科学系に限れば22人となり、この数は、欧米もすべて含めたすべての順位では、アメリカ、イギリス、ドイツ、フランスに次いで5位であり(2014年まで)、アメリカの250人、イギリスの78人は別格としても、フランスの31人に迫る勢いです。

ちなみに、人文文化系の3人は、文学賞の川端康内と大江健三郎、平和賞の佐藤栄作になります。日本がこれまで受賞したことのないのは、ノーベル経済学賞だけです。

なぜ、日本人はいつも経済学賞を受賞できないかについて調べてみたところ、賞に値する人は日本にも何人もいるものの、たまたま受賞のタイミングがこれまでなかっただけで、いつ日本に来ても不思議ではないという見方があるようです。その一方で、日本のこれまでの経済学者は、欧米の学者の追随者や解説者が多いからだという意見もあります。

今日の世界が直面している根源的な経済現象に対し、独創的な分析や解決法を理論的に提示し得ていないからではないか、ということがいわれているようですが、なるほど借金の額は世界一だし、長びいている不況から抜け出せないのも、アイデアに優れた経済学者がいないからなのかもしれません。

一方の、科学部門で日本人が実際に受賞したのは、第二次世界大戦終結後の湯川秀樹が初めてであり、敗戦直後の日本国民に大いに自信を与えました。以後、毎年とはいいませんが、自然科学部門では数年に一回の受賞を繰り返すようになり、21世紀に入ってからはほとんど毎年のように誰かが受賞するといったペースとなり、現在に至っています。

これほどまでに受賞のラッシュが起こっている理由としては、それはやはり科学技術に対する長年の投資効果が最近になってようやく出てきたからだろう、というのがもっぱらの見方のようです。

また、ノーベル賞受賞の基準としては、ノーベル委員会は、最低20~30年以上の累積的な業績を見るそうで、日本の場合、ようやくその基準に合致してきたということがあるようです。お隣の韓国では金大中氏が2000年に平和賞を受賞した以外、科学部門では受賞がありません。

これは、科学技術開発の歴史はあまりにも短い、ということがいわれているようです。韓国の場合、1966年の韓国科学技術研究所(KIST)の設立からわずか50年足らずということもあり、国の研究開発事業費規模の面でも80年代初頭まで100億ウォン(約10億円)水準にとどまっていたそうです。

基礎研究ではなく、産業化のために取り急ぎ目先の技術に関する開発研究だけが急がれていたことなども、ノーベル賞受賞者を輩出できていない理由のようです。

これは中国や台湾も同じであり、台湾は3人の科学部門の受賞者、中国は一人だけです。中国は他に2人の受賞者がいますが、このうち一人は、体制側の文学者、莫言(モー・イエン・文学賞受賞)であり、もう一人は、反体制派の活動家、劉暁波(リュウ・シャオボー・平和賞)氏です。

劉氏に至っては、2010年に「国家政権転覆扇動罪」による懲役11年および政治的権利剥奪2年の判決が下され、4度目の投獄となり、現在も遼寧省錦州市の錦州監獄で服役中です。

ノーベル平和賞の選考で劉が候補となった時点で、中国政府はノルウェーのノーベル賞委員会に対して「劉暁波に(ノーベル平和賞を)授与すれば中国とノルウェーの関係は悪化するだろう」と述べ、選考への圧力と報道されていました。

このように、平和賞は圧政下における反体制派のリーダーに贈られることがわりと多く、このため、その度に受賞者の国の政府から反発を受けています。ナチス・ドイツの再軍備を批判したカール・フォン・オシエツキーもしかり、ソ連の際限ない核武装を批判したアンドレイ・サハロフもしかりです。

かつて中国に軍事占領されたチベットの亡命政権を代表するダライ・ラマ14世の受賞に、中国が反発したということもありました。また、ミャンマー軍事政権の圧政とビルマ民主化を訴えたアウンサンスーチーも政府によって弾劾されています。

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ま、それはともかく、こうした文系部門を除いた自然科学分野においては、日本は既にノーベル賞自体の提唱国、スウェーデンの受賞者数を抜き去っており(2014年時点、スウェーデンは自然科学部門で16人)、ほかにスイスやオランダ、イタリアやオーストリアといった先進国よりも多くの受賞者を出しています。

これからも科学技術の国、として胸を張って世界に名乗っていけるでしょうし、他国もそうした優れた人材を多数輩出している我が国の技術力を認め、尊重してくれるに違いありません。私もかつては技術者の端くれでしたから、大変名誉なことに思います。

ところで、昨日、ニュートリノに質量があることを突き止めたことでノーベル物理学賞を受賞した梶田隆章さんは、東大大学院時代、2002年に同じく物理学賞を受賞した小柴昌俊さんの研究室の一員でした。

その後、加速器実験に興味を持ち、卒研にいそしみながら、ニュートリノ施設「カミオカンデ」の開発に携わり、カミオカンデでは建設作業に汗を流し、現場でケーブルの敷設などを行っていたそうです。

修士論文もカミオカンデの装置がテーマだったそうで、1998年、スーパーカミオカンデでニュートリノ振動を確認し、ニュートリノの質量がゼロでないことを世界で初めて示した戸塚洋二さんは、ともに小柴博士の弟子でした。梶田さんの兄弟子ともいえる存在で、同じくスーパーカミオカンデの完成に尽力した人です。

梶田さんとともに、有力なノーベル賞候補と目されていましたが、2008年に直腸ガンのため亡くなりました(66歳没)。師匠の小柴さんは、その戸塚さんの告別式での弔辞で「あと十八ヶ月、君が長生きしていれば、国民みんなが喜んだでしょう」と発言しており、ノーベル賞受賞のノミネートを期待されながら亡くなったその早い死去を惜しみました。

しかし、今回、もう一人の愛弟子、梶田さんがノーベル物理学賞を受賞したことで、戸塚の果たせなかった夢を実現させる形となりました。生前受賞できなかったことは、ご本人もさぞかし残念だったことでしょうが、あちらの世界でさぞかし喜んでおられることでしょう。

それにしても、このように亡くなった人にはノーベル賞は与えられないのかな、と調べてみました。

そうしたところ、やはりノーベル賞は「本人が生存中」が受賞条件なのだそうです。かつてはノミネート時点で生存していれば受賞決定時に死亡していてもよいこととされており、実際、そうしたケースもあったようです。1931年の文学賞、1961年平和賞の2例があります。

しかし1973年からは、10月の各賞受賞者発表時点で生存している必要がある、とされました。が、さらにその後、ノミネートされていれば、発表があった時点で死亡していても取り消されないことになり、その規定により1996年経済学賞のウィリアム・ヴィックリーは授賞式前に亡くなっても受賞が取り消されませんでした。

また、2011年生理学・医学賞のラルフ・スタインマンは受賞者発表の直後に当人がほんの3日前に死亡していたことが判明しました。しかし、これには受賞決定後に本人が死去した場合と同様の扱いをし、変更なく賞が贈られることになりました。

とはいえ、今回の受賞に先立ち、7年も前に亡くなっている戸塚さんの場合では、亡くなった当時にはノミネートもなく、残念ながらこの規定により、受賞は認められません。

各国の軍隊などでは死後にその階級が特進する、といったことがあり、また、日本の勲章も死後に授与されることもあるようですから、このように長年の研究に身を捧げて亡くなった研究者に対して何等かの救済措置はないのかな、と思ったりもします。

ノーベル賞では、現段階ではそうした仕組みはないようですが、賞を与える理由についても長年の間に少しずつ変わってきているようなので、将来的にはそうしたことも考慮に入れられるようになるのかもしれません。

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しかし一方では、このように日本人が受賞を逃す要因として、研究者側にも問題がないとはいえないようです。

ノーベル委員会が一次選考で受賞候補者を探す際、その候補者がいる国の研究者や過去の受賞者に、推薦状を出してくれるように依頼をするのだそうですが、それに対する返信率が、日本の場合は他国と比べて非常に低いのだといいます。それだけ、日本人の場合はノミネートに対して無頓着だ、という現実があるということのようです。

こうしたことがあまりにも多いので、いつだかノーベル委員会委員が来日した際、日本の科学技術審議会にこの点について苦言を呈したそうです。日本の研究者は、せっかく世界最先端の研究をやっているのだから、もう少しその研究内容をアピールする、ということを覚える必要があるのかもしれません。

が、これについては、かつての日本人研究者は英語などの外国語が苦手であった、ということなども関係しているのかもしれません。日本も一応、英語は義務教育で教えられてはいますが、外国のように日常的にこれを使って生活する、というレベルにはまだありません。

ところが、最近の日本人の受賞者の中には自分の専門を深めるために諸外国へ出かけて行って研鑽する人が多く、このため英語を初めとする外国語に堪能な方も多いようです。最近、急に受賞率が高くなってきている理由のひとつには、このように日本人研究者の国際化がより進んでいる、ということも関係しているのかもしれません。

これに対して、昔の研究者はいかにも外国語が苦手、という人が多くいました。かつて、1970年に北海道大学理学部の化学第二学科助教授だった、大澤映二さんという人がいました。

彼は、それまで存在が確認されていなかった、フラーレン (fullerene C60) という、数十個の原子からなる構造を単位とする炭素の同素体の存在を理論的に予言したものの、英語論文にせず邦文でのみ発表しました。そのため、1996年のノーベル賞を逃したといわれています。

この顛末は、この当時のイギリスの科学雑誌「ネイチャー」にも掲載されたといい、こうした日本人の英語下手は、かなり有名な話のようです。また、世界初のビタミンB1単離に成功した鈴木梅太郎も、ドイツ語への翻訳で「世界初」が誤って記されなかったため注目されず、1929年のノーベル賞を逃したといわれています。

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ただ、これよりさらに以前のノーベル賞候補者と言われるような優秀な日本人の多くは、語学にも堪能な人が数多くいました。

たとえば、1915年に世界初の人工癌発生に成功した、日本の病理学者、山極勝三郎は、28才でドイツに留学しており、このため非常にドイツ語に堪能でした。

帰国後に東京帝大医学部教授に就任。病理解剖学を専攻し、特に癌研究では日本の第一人者でした。ウサギの耳にコールタールを塗布し続け、人工癌の発生に成功し、ノーベル賞候補といわれました。が、1926年のノーベル賞は癌・寄生虫起源説のヨハネス・フィビゲルに授与されました。

ノーベル賞委員会では、当初、共同受賞、という意見もあったようですが、フィビゲルは山極が科学界に入ってくる以前に、「発見の根拠となる素晴らしいアイディアを持っていた」として、当初の意見を変更し、フィビゲルの単独受賞を決めました。

選考委員の一人、フォルケ・ヘンシェンは、その後1966年に来日し、東京で開かれた国際癌会議の際に行った講演で「私はノーベル医学賞を山極博士に贈ることを強力に提唱した者です。不幸にして力足らず、実現しなかったことは日本国民のみなさんに申しわけがない」と述べたそうです。

このときの会見でヘンシェンはまた、選考委員会が開かれた際に「東洋人にはノーベル賞は早すぎる」という発言や、同様の議論が堂々となされていたことも明かしたといいます。

すなわち、この当時には、語学力云々よりも、日本人に対する偏見のようなものが多少なりともあったことがノーベル賞の受賞を阻む原因であった、ということなどが推察されます。

日本人としての初受賞は、1949年(昭和24年)の湯川秀樹博士ですが、その後23年もの間受賞がもたらされなかったのも、かつてはこうした偏見があり、それがぬぐえなかった、ということが実際にあったことなのかもしれません。

湯川博士は、戦前から既にその受賞理由である、中間子の存在の予言をしていましたが、そんな中の1935年(昭和10年)、すでに日中戦争中であった当時に、物理学の国際会議の最高峰、ソルベー会議に招かれ、このときにアインシュタインやオッペンハイマーらと親交を持つに至り、国際的に評価されたことが受賞原因になったともいわれています。

湯川博士の次にノーベル賞を受賞したのは、1965年の朝永振一郎博士(量子電気力学分野での基礎的研究で受賞)ですが、朝永博士もまた、ドイツのライプツィヒに留学し、ヴェルナー・ハイゼンベルクの研究グループで、原子核物理学や量子場理論を学ぶなどの国際派でした。

湯川博士や朝永博士以降もぽつぽつと受賞者は出ていますが、あいかわらず日本人の国際化は進んでいなかったとも思われ、かつそうした内気な性格が国際的な偏見を解消するために支障となっていた、ということは確かにあるかもしれません。

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しかし、実は日本人としては、湯川博士以前にもノーベル賞の候補者が出たことがあります。

第1回のノーベル賞がそれで、既に北里柴三郎や野口英世などが候補としてエントリーされていました。しかし、受賞には至らず、野口に至っては、3度もノミネートされたのに、結局受賞を逃しました。

最初と2二度目に候補とされた時は、当時最大の成果とされた梅毒スピロヘータの純粋培養の追試に誰も成功せず、業績に疑問が持たれた事が影響したようです。また、エクアドルでの黄熱病研究が認められたのは3度目に候補とされた時ですが、この時も過去の研究との不一致から疑問が持たれた、とされています。

そして、同じくノーベル賞候補といわれた北里もまた、共同研究者であったベーリングが受賞し他のにもかかわらず、受賞を逸しました。

北里は、1890年(明治23年)に血清療法をジフテリア(ジフテリア菌によって起こる上気道の粘膜感染症)に応用し、同僚であったベーリングと連名で「動物におけるジフテリア免疫と破傷風免疫の成立について」という論文を発表しました。

これにより、第1回ノーベル生理学・医学賞の候補に北里の名前が挙がりましたが(15名の内の1人)、結果は抗毒素という研究内容を主導していた彼ではなく、共同研究者のベーリングのみが受賞しました。

北里が受賞できなかったのは、ベーリングが単独名でジフテリアについての論文を別に発表していたこと、ノーベル賞委員会や、選考に当たったカロリンスカ研究所が、北里は実験事実を提供しただけで免疫血清療法のアイデアはベーリング単独で創出したと見なしたためでした。

賞創設直後の選考であり、のちのような共同授賞の考え方がまだなかったことなども要因としてあげられています。が、このほかにも、北里に対する人種差別があったのではないかといわれており、野口英世が同じく受賞を逸した最大の理由は東洋人への差別意識であったのではないか、と取沙汰されています。

この北里柴三郎も野口英世も、子供向けの偉人伝が多数刊行されて「偉人の代表」ともよべる存在となったため、医学研究者としては非常に知名度が高い人物です。野口英世に至っては、2004年より発行されている日本銀行券のE号千円札の肖像になっているほどです。

実は二人は懇意の間柄であり、野口は北里研究所に研究員として勤務したことがあり、柴三郎とは形式上師弟関係です。

ともに幕末から明治初めの激動の時期に生まれており(北里は1853年(嘉永5年)、野口は1876年(明治9年))、明治人の気質を多分に持った人です。医学界の巨匠とも言える2人ですが、共通点があり、意外なことにそれは「女好き」という点です。

野口は、会津若松で書生をやっていた若いころ、洗礼を受けたキリスト教会で出会った6歳年下の女学生、山内ヨネ子に懸想し、幾度も恋文を送っていますが、女学校校長経由で教会牧師に連絡があり叱責を受けています。

また、渡米資金を得るために婚約を交わした斎藤ます子との関係は、渡米後の野口の悩みの種となりました。さすがにアメリカ人女性、メリー・ダージスと結婚したあとはその素行は直ったようですが、若いころは女遊びが大好きでした。

清国でのペスト対策として北里伝染病研究所に内務省より要請のあった際、国際防疫班に選ばれましたが、このとき用意された支度金96円(現在価値で40万円ほど)はすべて放蕩、すなわち花街での女遊びで使い果たしてしまっています。

一方、「日本の細菌学の父」として知られ、現在の東京大学医科学研究所や、北里大学北里研究所病院の創立者でもある北里も、実は大の女好きだったといわれています。新橋の近江屋とん子こと小川かつという、22歳の芸者を大金で身請けしており、当時は飯倉四ツ辻といわれていた、現在の港区飯倉に家を借りて住まわせ、ここに足しげく通っていました。

その後麻布町二番地丹羽五郎の旧宅を3千円(現・約1200万円)も払って購入して妾宅としており、下女まで雇って養っていたそうです。

もっとも、明治の初めのころまでは妾は法的にも認められていました。1870年(明治3年)に制定された法律では、妻と妾は同等の二等親と定められており、妻と妾が同等の権利をもった、ということではありませんが、「妾」の存在が公認されていました。

当時は、貧しい親が借金と引き換えに、娘を「芸妓・酌婦・娼妓」として「売る」という行為は合法でした。売られた彼女たちは、借金を返すためには売春をしなければならず、契約書には「借金返済のため、雇い主からの指示があれば、醜業を嫌がらずにします」という条項がありました。

こうした契約が法的にも認められていたわけですが、この法律はその後、1880年(明治13年)の改正でこの「妾」に関する条項が消えたため、その後認められなくなりました。

が、それ以前に入籍した妾は「すべて以前の通り取り扱う」とされて認められており、妾が全廃されるのは、1898年(明治31年)に戸籍法によって戸籍面からも完全に妾の字が消えてからです 。

しかし、法律が全廃されてからも明治から大正ころまでには、まだ妾を持っていてもまぁいいじゃないか、という雰囲気がありました。

妾を持つというのは、政治家や高級官僚のほか、財界人と言われるようなクラスの経済人、大地主などでしたが、庶民からはかけ離れた所得や資産を持つ人でもあり、お殿様のような存在でもあったので、「まあまぁ、許される行為」とみなされていたようです。

高い地位にあるとされるような人は、むしろ堂々と妾を持つ、という雰囲気すらあったようであり、妾を持つことが成功のステータスというところもあったでしょう。研究者として成功し、かなりの財をなしていた北里もそうした一人でした。

しかし、その一方で日清戦争や日露戦争後の不況で苦しむ人々にとっては、女遊びや妾といった行為を好意的に見ようはずもなく、陰では彼等を成り上がり者として嫌い、蔑んだ目で見ていました。

上述の北里の妾に関する情報も、ジャーナリストの先駆けといわれる、黒岩涙香による「万朝報(よろずちょうほう)」という新聞におけるゴシップ記事によって庶民にもたらされたものです。毎号、こうした上流階級のスキャンダルが報じられるたびに同誌はバカ売れしたといいます。

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北里がその後この妾をどうしたのか、二人の間に子を設けたかどうか、といった情報をネットで探してみましたが、出てきませんでした。

北里と野口という医学界の巨匠がこうしたスキャンダルによってノーベル賞を逸したか、といったことも調べてみましたが、そんな話もないようです。

が、2015年の現在においては、賞を与えるにあたっての素行調査もあるでしょうし、過去において女性スキャンダルあるような人達をノーベル賞候補にあげる、といったことはとんでもないことなのかもしれません。

しかし、だからといって彼等の業績が揺るぐものではありません。

北里は、私立北里研究所(現在の学校法人北里研究所)の創立者であり、また初代所長並びに北里大学の学祖でもあります。先日、ノーベル生理学・医学賞を受賞した、大村智さんは、北里の創立した北里大学の教授を長く勤め、ここでその受賞の要因となる研究の基礎を仕上げました。創設者の北里柴三郎の恩恵を受けた一人といえるでしょう。

また、福沢諭吉とも親交の深かった北里は、その晩年には、福沢との長年の恩義に報いるため、慶應義塾大学医学部を創設し、初代医学部長、付属病院長となっています。

さらに明治以降多くの医師会が設立され、一部は反目しあうなどばらばらでしたが、1917年(大正6年)に柴三郎が初代会長となり、全国規模の医師会として大日本医師会を誕生させました。

しかし、1931年満78歳で脳溢血により没。1931年には、勲一等旭日大綬章を受けています。しかし、その功績の割には、野口ほど人気がないのはなぜでしょうか。あるいは、比較的裕福な家に生まれ育った上、厳格な人だったようなので、野口英世ほどの人間味が感じられないからかもしれません。

一方の野口英世はわずか51歳の若さで亡くなっていますが、その若いころの奔放なエピソードなども語り継がれ、貧しかった家庭から努力して偉人になった人、として敬われています。渡米して、海外で実績を上げた、という点では、最近のノーベル賞受賞者のような国際派の先駆けともいえます。

北里柴三郎もまた、ドイツベルリン大学へ留学してコッホに師事し業績をあげており、国際的にも認知度の高い人でした。現在のように日本人が海外へ積極的に出かけて行って実績を作る、という雰囲気を作ったのは、もしかしたらこの二人の功績なのかもしれません。

なので、今後もし、日本版のノーベル賞ができたとしたら、この二人はぜひともその受賞者に推薦したいところです。

女好き、という欠点があったとしても……ですが、その点、日本人が世界にも認めてもらえるようになったこの時代には、日本ルールとして認めてもらってもいいのかもしれません。日本ノーベル賞候補者は、二人まで妾を持つことが許される、あるいは持つことを受賞条件とする……とか。

……さて。

このあとさらなるノーベル賞の発表も控えているようですが、日本人の受賞はあるでしょうか。期待したいところです。

が、私としてはもっと気になるのは、今晩の広島×中日のセリーグ最終戦。広島は果たしてクライマックスシリーズに進出できるでしょうか?

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