シヴァと大黒

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6月になりました。

新緑は早、深緑になりつつあり、その色が伊豆の野山のほぼ全部に定着するようになるころには、そろそろ雨の季節がやってきます。

東海地方の梅雨入りの平年値は、6月8日だそうで、昨年は少し早く6月4日でした。長期予報を見ると、来週末あたりが雨になっており、おそらく今年の梅雨入りは平年並みなのではないでしょうか。

この、梅雨をもたらす、梅雨前線は、気象学的にはモンスーンをもたらす前線(モンスーン前線)の1つだそうです。モンスーン(monsoon)とは、ある地域で、一定の方角への風がよく吹く傾向があるときの風、「卓越風」のことを指します。季節によってその卓越風の向きは変わります。このため、アラビア語では「季節」を示す(マウスィムmawsim)と呼び、これがこの言葉の語源といわれます。

日本では夏季には太平洋高気圧(小笠原気団)から吹き出す南東風が卓越し、モンスーンとなります。これが、中国北部・モンゴルから満州にかけて発生する、暖かく乾燥した大陸性の気団、揚子江気団や、オホーツク海にある、冷たく湿った海洋性の気団、 オホーツク海気団と干渉しあって梅雨前線ができるわけです。

日本を含む南アジアや東南アジアで発生するモンスーンは、インド洋や西太平洋に端を発する高温多湿の気流が原因です。この地域のモンスーンは地球上で最も規模が大きく、このため、世界最多の年間降水量を誇ります。広範囲で連動して発生していることから、総称してアジア・モンスーンと呼ばれ、同時にこの影響を受ける地域をモンスーン・アジアといいます。

気象学では一般的に、梅雨がある中国沿海部・朝鮮半島、そして日本列島の大部分もモンスーン・アジアに含まれます。

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このモンスーン・アジアにおいて、世界最多の年間降水量を有する場所は、インドのチェラプンジです。インドの東部、メーガーラヤ州にある都市で、北西部にはネパール、東にはミャンマーがあり、それぞれの国境まではわずか200kmほど、という位置関係です。

標高1,484mの山地に位置し、ベンガル湾からの吹き上げる湿気の影響が非常に大きく、これが多雨の原因です。1860年8月から1861年7月の1年間には26,461mmという世界最高の年間降水量を記録し、長年、年間降水量世界一の記録を保持していました。

しかし、1994年、近隣のマウシンラムにその記録を抜かれました。

マウシンラムは、同じメーガーラヤ州のカーシ山地にある村で、2017年現在も、「世界で最も湿った地」として知られ、ここ約50年間の年平均降水量はおよそ11900mmに達します。ギネスブックによれば、中でも1985年度の降水量は26000mmに達したとされます。

日本で一番雨が多いとされる高知県の年間降水量が3700mm程度ですから、いかにものすごいかわかります。ちなみに、静岡県は9位で、2400mmほど。1985年のマウシンラムの降雨量のわずか10分の1以下です。

加えて、ここの降水量は年較差が比較的少ないのが特徴です。また、極めて霧が多く、晴天を望むことが少ないといいます。年から年中雨、というのは、考えただけでも気が滅入りそうですが、いったいどんなところなのか、想像に絶します。カビ対策はどうしているのでしょうか。

ところで、このマウシンラムと多雨度に関してライバル関係にあるチェラプンジは、東に直線距離でわずか9~-16kmの位置関係です。従って、その降雨量に関してはおそらく目糞鼻糞です。このためマウシンラムが1994年に世界で最も降水量が多い地として認定された際、ライバルのチェラプンジの住民が強く憤慨したといいます。

このマウシンラムには、「マウシンビン」とよばれる洞窟が存在します。マウシンビンにはシヴァ神の宝塔を象ったかのような巨大な石筍(せきじゅん)や巨大な岩塔が立ち並び、シンパー・ロック(Symper Rock)とよばれています。

石筍とは、洞窟の天井の水滴から析出した物質が床面に蓄積し、たけのこ状に伸びた洞窟生成物です。これに対して、洞窟の天井面から垂れ下がる形態のものが鍾乳石です。鍾乳石は、広義ではこの石筍や石柱などを含む洞窟生成物の総称としても使用されています。

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シヴァは、サンスクリット語で「吉祥者」の意味です。ヒンドゥー教の神であり、現代のヒンドゥー教では最も影響力を持つ3柱の主神の中の1人。そしてヒンドゥー教の一派、シヴァ派ではとくに最高神に位置付けられています。

シヴァは形の無い、無限の、超越的な、不変絶対のブラフマンであり、同時に世界の根源的なアートマンであるといわれます。ブラフマン(brahman)とは、ヒンドゥー教またはインド哲学における宇宙の根本原理。一方、アートマンは、最も内側 (Inner most)を意味する サンスクリット語の Atma(アートマ)を語源としており、意識の最も深い内側にある個の根源を意味します。「真我」とも訳されます。

真我は、スピリチュアル的には、「自我」、「魂」であり、言い換えれば「本当の自分」です。自己の中心であるアートマンと宇宙そのものであるブラフマンとは、同一であるとされており、つまり、宇宙と真我は表裏一体、ひとつのもの、ということです。

これを古代インドの思想では梵我一如(ぼんがいちにょ)といいます。アートマンとブラフマンが同一であることを知ることにより、永遠の至福に到達しようとするのが梵我一如であり、インド哲学の聖典、ヴェーダの究極の悟りとされます。

ヴェーダ(Veda)は、日本語では「梵」と書き、紀元前1000年頃から紀元前500年頃にかけてインドで編纂された一連の宗教文書の総称で、「知識」の意でもあります。

こうした流れから、すなわち「シヴァ」とは全ての中の全て、創造神、維持神、破壊神、啓示を与える者です。全てを覆い隠すものだと信じられており、とくにシヴァ派にとってシヴァは単なる創造者ではなく、彼(彼女)自身も彼(彼女)の作品だといいます。

シヴァは全てであり、普遍的な存在である… というのですが、ここまでくると何やらわけがわからなくなってきそうです。この世、いなや宇宙に広がり、私たちの体をも突き抜けるという、ダークマターのようなもの、というのが現代的な解釈かもしれません。こちらも物理学が専門でない私にはわけのわからないものですが…

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ただ、そうした説明は一般人にもわかりかねます。このため、古来から数多くのシヴァ像が形作られてきました。偶像上のシヴァの特徴としては、額の第三の目、首に巻かれた蛇、三日月の装飾具、絡まる髪の毛から流れるガンジス川、武器であるトリシューラ(三叉の槍)、ダマル(太鼓)、などなどがあります。

また、シヴァは通常「リンガ」という形に象徴化され信仰されることも多いようです。リンガは、一般に男性の性器(男根)を指すサンスクリット語で、本来は「シンボル」の意味を持ちます。

特にインドでは男性器をかたどった彫像は、シヴァ神や、シヴァ神の持つエネルギーの象徴と考えられ人々に崇拝されています。リンガ像の原型が、インダス文明にあるという説もあります。が、この当時の遺跡から発掘されたものが性器崇拝に使われたかどうかは判然としません。ただ、リンガ像の原型になったという考え方は正しいと考えられているようです。

こうした性器崇拝に関する記述は、古代インドの宗教的、哲学的、神話的叙事詩「マハーバーラタ」にも数多くみられます。ヒンドゥー教の聖典のうちでも重視されるものの1つで、そこには豊穣多産のシンボルとしてのリンガの崇拝が記録されています。

後世にシヴァ信仰の広まりとともに、こうしたシヴァの姿がより人々に鮮明に意識されるようになり、大小さまざまなリンガ像が彫像されるようになりました。こうした彫像が多くのヒンドゥー教寺院に祀られるようになったのはこの聖典に拠るところが大きいといわれます。

その説明によれば、通常、リンガの下にはヨーニ(女陰)が現されます。人々はこの2つを祀り、白いミルクで2つの性器を清め、シヴァの精液とパールヴァティーの愛液として崇める習慣があります。

シヴァの主要な性格は、「サマディ」で、これは日本語の「三昧」に相当する言葉です。日本では、「贅沢三昧」「ゴルフ三昧」というような、悪習慣の意味でよく使われますが、本来はシヴァ神の本質を意味するものであり、極度の偏執的な「凝り性」を表しているといいます。

つまり、瞑想だけでなく、エッチに関しても、何に関してもシヴァは何億年もの時をかけてひとつのことに没頭するわけです。こうした究極の凝り性の姿が「リンガ」という偶像に例えられ、これを尽きることなく生命を生み、さらに破壊する女神として崇めるわけです。リンガは、シヴァの原理や現世の本質をあらわしており、この世の万物を生み出し続ける性器そのものという位置づけがなされてきました。

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こうした性器崇拝はかつての日本にもありました。我が国にも「男根崇拝」の時代があり、その名残のひとつが、実は「道祖神」だといいます。ご存知の通り、守り神として主に道の辻に祀られている民間信仰の石仏であり、自然石・五輪塔もしくは石碑・石像等の形状のものが多いようです。基本的には、厄災の侵入防止を祈願するために村の守り神として崇められてきましたが、実はそのルーツには子孫繁栄の意味も含まれていたといいます。

こうした思想を生み出したインドの特異性は、その思想をさらに発展させ、性魔術である「タントラ思想」を生み出しました。今でもインド北部のカジュラーホーには、ミトゥナという男女の性交場面を現した彫刻がありますが、これはタントラ思想を具現化したものと言われます。

シバ神妃の性力 (śakti)を崇拝し、実践行法に関する規則や、神を祀る次第、具体的方法も含む魔術だそうで、その術は192種もあるとされます。どんな秘術なのか想像しかねますが、セックスにも48手あるそうなので、あるいは似たようなものなのかも(※ここのところ未成年の閲覧不可!!)。

これが元となり、のちに発展したインド密教では、タントラを所作、行、ヨーガの3種に分類しています。また、チベット密教では、タントラを所作、行、ヨーガ、無上ヨーガ、の4種に分けています。

所作とは、現在の日本語では、行い、振る舞い、しわざのことで「一日の所作を日記に記す」という風に使います。が、もともとは仏語で、身・口・意の三業(さんごう)が発動することを意味します。

また、行も、現在の日本語に名残として残っており、こちらも仏教用語です。心の働きが一定の方向に作用していくこと、意志形成力のことであり、例えば、桜を見て、その枝を切って瓶にさしたり、苗木を植えてみようと思い巡らすこと、といった場合に使われます。

ヨーガは、現在では、身体的ポーズ(アーサナ)を中心にした、宗教色を排した身体的なエクササイズとして行われていますが、本来のヨーガは、古代インドに発祥した伝統的な宗教的行法です。心身を鍛錬によって制御し、精神を統一して人生究極の目標である輪廻転生からの「解脱」に至ろうとするものです。

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こうした現在の日本語にも残るタントラの思想を日本にもたらしたのが、密教です。性魔術であるタントラ思想は、最初インド密教に取り入れられ、さらにはヒンドゥー教、ボン教、ジャイナ教、そして仏教にも取り入れられて共通して存在します。こうしたタントラはさまざまな形で南アジア、カンボジア、ミャンマー、インドネシア、チベット、モンゴル、中国、韓国、そして日本に伝わりました。

タントラ思想と仏教が融合したものが、チベット密教であり、これが中国に伝わり、そしてこれを初めて日本に持ち帰ったのが、弘法大師こと、空海です。空海はこれを真言密教の形にまとめ上げ、これがさらに発展したのが、今なお日本中に数多くの信者のいる真言宗になります。

タントラの心は日本に今なお強く息づいているといえ、このタントラの流れをひく密教の聖地としては、比叡山、高野山などが有名です。このほか、全国の身近にある稲荷もタントラの影響から発生したものといわれています。

このタントラを人類にもたらしたのは、そもそも人知を超えた存在に対する恐れの感情と、自然のメカニズムです。そしてそれを具現化したものがシヴァであったわけですが、このシヴァは実は非常に化身が得意だとされます。このため、多数の別名を持ちますが、その一つが「マハーカーラ」です。「時間を超越する者」、「時間を創出する者」という意味を持ち、すなわち「永遠」を意味します。

マハーは「大いなる」もしくは「偉大なる」、カーラは「黒、暗黒、時間」を意味し、世界を破壊するときに恐ろしい黒い姿で現れます。シャマシャナという森林に住み、不老長寿の薬をもします。力ずくでも人を救済するとされており、本来は、究極のいいヤツです。

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ここで、「大」と「黒」といえば、日本人ならすぐに思い浮かべるのがあの「大黒天」です。

タントラの流れを引く密教用語が、日本に入ってきた際に翻訳されてできた言葉ですが、大黒天は、大暗黒天とも漢訳され、その名の通り、もともとは青黒い身体に憤怒の形相をした護法善神でした。

例えば、東京の神田明神の大黒天像は怖い顔をしており、福岡県の大宰府市にある観世音寺の大黒天立像も憤怒相です。

この逆に、千葉県市川市にある日蓮宗の寺院、本光院の大黒様は柔和な顔をしていますし、近年お土産物店などで売られている大黒天像なども、ほとんどが優しい顔をしています。

これはなぜか。実は、憤怒相は鎌倉期の頃までで、これ以降、大国主神と習合して現在のような福徳相で作られるようになったためです。習合(しゅうごう)とはさまざまな宗教の神々や教義などの一部が混同ないしは同一視される現象のことで、神道の神格と仏教の尊格が習合した場合は神仏習合と呼ばれます。

日本での大黒天は、「大黒」と「大国」の音が通じていることから神道の大国主神と習合したといわれており、現在の大黒天が上記の本来の姿と違い柔和な表情を見せているのはこのためです。

しかし、鎌倉期以前は、破壊と豊穣の神として信仰されていました。後に豊穣の面が残り、七福神の一柱の大黒様として知られる食物・財福を司る神となりました。室町時代以降は「大国主命(おおくにぬしのみこと)」の民族的信仰と習合されて、微笑の相が加えられ、さらに江戸時代になると米俵に乗るといった現在よく知られる像容となりました。

現在においては一般には米俵に乗り福袋と打出の小槌を持った微笑の長者形で表されますが、袋を背負っているのは、大国主が日本神話で最初に登場する因幡の白兎の説話において、八十神たちの荷物を入れた袋を持っていたためです。また、大国主がスサノオの計略によって焼き殺されそうになった時に鼠が助けたという説話から、鼠が大黒天の使いであるとされます。

奈良市の春日大社には平安時代に出雲大社から勧請した、夫が大国主大神で妻が須勢理毘売命(すせりひめのみこと)である夫婦大黒天像を祀った日本唯一の夫婦大國社があります。

かつて、ここ静岡、熱海の伊豆山神社(伊豆山権現)の神宮寺であった走湯山般若院にも、像容が異なる鎌倉期に制作された夫婦大黒天像が祀られていたそうです。が、現在では熱海の老舗温泉旅館、古屋旅館に移されているといいます。一泊数万円する高級旅館のようなので、当分、お目にかかることはないでしょうが。

その熱海に近い場所に住む、我々夫婦の結婚記念日もそろそろ近づいてきました。6月20日のそのころにはもう既に梅雨に入っていることでしょう。

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ウンカとキリギリス

blog170523-9226富士山の雪が遠目にもかなり融けてきて、夏山になりつつあるのは明らかです。

暑さ厳しい季節に入りつつある証そのものであり、夏が嫌いな私にとっては、今年の夏もいつも通り暑いぞ~、と脅しをかけられているような気分になってきます。

とはいえ、富士山そのものに悪気があるわけでなし、日々変化する凛々しいその姿でどれだけ心が洗われていることか。がしかし、富士の守り神、木花咲耶姫もまた暑い夏がお嫌いだからこそ、その高嶺の涼しい場所に鎮座しておられるに違いありません。

そろそろ厚く着込んだ十二単を脱ぎ捨てて衣替えをされているに違いなく、もしかしたら、今日あたりは残雪を使ってかき氷など、召し上がっているかもしれません。

それにしても今日も暑くなりそうです。朝から気温がどんどん上がり、9時の時点でもう既に25度。まだ、5月だというのに…です。

ここは山の上ゆえに、やや気温は低いものの、午後には30℃まではいかないまでも、おそらくそれに近い暑気になるのではないでしょうか。

こうした暑さに誘われてか、虫が多くなってきました。先日、庭の水やりをやっている間に、今年初めて蚊に食われ、仕舞ってあったキンカンはどこかと探し回る、という一幕があったばかり。そろそろ虫よけスプレーを買い、蚊取りも求めて、これからのムシムシする季節に備える必要がありそうです。

ところで、虫といえば、その昔は、虫送り(むしおくり)という行事があったそうな。

虫追い(むしおい)ともいい、農作物の害虫を駆逐し、その年の豊作を祈願する目的で行われるこれは、今はかなり廃れてしまった日本の伝統行事のひとつです。

ちょうど春から夏にかけての今の時期、すなわち初夏のころ行われていた行事で、夜間たいまつを焚いて行います。一般的には藁人形をつくって悪霊にかたどり、作物を食い尽くす害虫をくくりつけて、鉦や太鼓をたたきながら行列して村境にいき、川などに流しました。地域によっては七夕の行事などと一緒にやることもあったようです。

しかし、明治時代以後、虫送りは各地で廃れていきました。農薬が普及するようになったことと、火事の危険などから行われなくなったことが原因のようです。

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とはいえ、長い歴史を持つす風習だけに、現在も続いているところもあちこちにあり、私の郷里の山口でも、長門市から下関市にかけての日本海沿いの北浦地方で「サバー送り」という虫送りの風習が残っています。萩藩やその支藩では、虫の害によって米の凶作が起こることも多く、その度に飢饉が生じたため、各地で虫送りが行われました。

北浦地方の場合、「サバーサマ」「サネモリサマ」という2体の騎馬武者姿の藁人形を作ります。それを自分たちの地域から隣の地域へ、さらに隣の地域へと、かつての村の境を幾つも越え、延々と送り出していく、リレー形式であるのが特徴です。どこまで行くかについては、その年によって異なりますが、最長では60km近くになるようです。

確認されたものでは最長約53kmあったそうで、そのときは約1ヵ月にわたって送り出されています。こういった形の虫送りは、全国的にもまれで、2009(平成21年)には、県の無形民俗文化財に指定されました。

この北浦地方の「サバー送り」「サバーサマ」のサバーとは、稲の害虫であるウンカなどを指します。時に、大発生して米の収穫に大打撃を与える、体長2~3cmほどのバッタとセミのあいの子のような虫で、ウンカは「浮塵子」と書きます。「「雲霞のごとく」、という表現がありますが、こちらは「雲」や「霞」のように人が集まっている、という場合に使い、虫のウンカとは関係ありません。

「サネモリサマ」のほうですが、こちらは、源平合戦で亡くなった老武士・斉藤実盛(さいとう さねもり)のことです。その死にざまから、無念の死を遂げた怨霊が稲を荒らすようになったという伝説があります。その怨霊を鎮めるために「サネモリサマ」として崇めるようになり、害虫であるウンカの化身であるサバーサマをよそへ連れて行っていただくよう祈る行事として「サバー送り」が定着したようです。

この北浦地方のサバー送りは、6月末から7月上旬にかけて長門市の飯山八幡宮で、地域の人々が藁人形を作ることから始まります。長門市中心部から南の山の手のほうに行ったところにある、東深川藤中(ふんじゅう)にある古社です。奈良時代に湊の浜にまつられ、平安時代初期に現在地に移されたと伝えられています

この神社で、宮司さんたち主導で、街の有志が藁の馬に人が乗った形の「サバーサマ」「サネモリサマ」を作ります。騎馬武者姿のこの2体の藁人形が出来上がると、顔には、白い半紙を貼り付け、目・鼻・口を描き、頭には紙で作った兜をかぶせ、背には羽織代わりに貼った紙に「一○」と書き、腰には木の枝で作った刀を差します。

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ネットで見つけた写真で見ると意外に大きく、中学生の背丈ほどもあります。2日間の神事の後、地域の人たちがこの藁人形を担ぎ、幟(のぼり)を持ち、鉦(かね)や太鼓をたたきながら八幡宮を出発し、長いリレーが始まります。その後は、車に乗せ換え、初日は旧長門市域と長門市街の西にある日置(へき)との境に藁人形を置いて立ち去ります。そこからは、子ども会などが徒歩や車で中継点まで運び、そっと置いて立ち去ると、また送り出されます。

このリレーは日置のさらに西にある、油谷(ゆや)に入っても同様に行われます。その後も、西へ西へと進み、各自治会や子供会などにより、数週間をかけ、最終的には下関市豊北町の粟野のあたりに達します。このあたりは、美しい海岸線が続く場所で、大きな海水浴場こそはありませんが、碧い海と岩礁帯、そして青い空との組み合わせが魅力です。

このころになると、藁人形はかなり傷んでいますが、見つけた人によってさらに運ばれ、置く場所も一定せず、どこまで行くかはその年次第です。豊北町には、このさらに西に、粟野以上に美しい海岸線のある角島という景勝地があり、このあたりまで行ったこともあるのではないか、と想像します。

豊北町では、この藁人形を運べば不幸にならないとされてきたため、その昔から誰がしかが見つけると、こっそりと別の村へと運び出す、ということが繰り返されてきたようです。ただ、近年では伝承を知らない人が増え、道端に放置された藁人形は、雨風に打たれるまま、そのうち朽ちていく、といったこともあったようです。

しかし、有形文化財に指定されてからは逆に有名になり、新聞なども取り上げるようになりました。今では、藁人形を見つけた子どもたちが、そのいわれを寺社や地域の古老に聞いて地域の伝承や歴史を学ぶ、ということもあり、古くからあるこうした風習を、社会教育的な意味合いを込めて紹介されることも多くなっているようです。

豊北へ来たあとの藁人形の行方は不定ですが、最終的には海に流されることが多いようです。誰がどういう基準で最後を決めるのかはよくわかりませんが、不幸の源とされるものはいつかは始末しなければなりません。その行先が海のかなたというのは、そこに冥土があると信じられてきたからでしょう。

こうした虫送りは、昔から全国的に見られる行事でした。しかし、現在では広域にわたり送り継がれる例は全国的にも稀となり、この山口県の例のようにヒトガタを用いて行われるものはかなり少なくなりました。山口県内でも数少なく、貴重なものであり、今後こうしたかつての農耕文化を象徴するような行事は長く伝えていってほしいものです。

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ところで、このサバー送りの「サネモリサマ」の語源となった、斉藤実盛ですが、なぜ害虫のシンボルになったかといえば、それは「平家物語」に書いてあった逸話から来ているといいます。

斎藤実盛が討たれる際、乗っていた馬が稲の切り株につまずいたところを討ち取られたといい、その後実盛は民間伝承の中に取り込まれ、稲を食い荒らす害虫(稲虫)ということで定着していきました。馬が切り株につまづいた、というのはちょっと想像しにくいシチュエーションですが、それがきっかけとなったとしたら、稲の切り株さえなければ~、と実盛が死後の世界で強く思ったとしてもおかしくはありません。

実盛にすれば、稲憎しだったわけですが、これが高じて稲を食い荒らす稲虫(ウンカ)に例えられ、あげくは実盛虫とまで呼ばれるようになりました。そして、虫送りのことを実盛送りまたは実盛祭とも呼ぶようになっていきました。

それにしても、この実盛とは実際にはどんな人物だったのでしょう。

調べてみると、平安時代末期に生きた武将のようです。時代背景を見てみると、ちょうどこのころが武士が台頭し始めた時期であり、武力を背景にさかんに朝廷の政治に口出しをするようになったころです。その結果として保元・平治の乱が勃発し、それを契機に朝廷の権威がゆらぐようになり、やがては平清盛の率いる平氏が台頭し始めた、という時代です。

実盛は、越前国の出で、武蔵国幡羅郡長井庄(現、埼玉県熊谷市)を本拠とする、長井別当と呼ばれる斉藤家の一子として、天永2年(1111年)に生まれました。このころの武蔵国は、相模国を本拠とする源義朝と、上野国に進出してきたその弟・義賢という両勢力の緩衝地帯でした。

源義朝といえば、あの有名な源頼朝・源義経らの父です。そのさらに父の源義家はもともとは畿内・河内の人でした。その死後、河内源氏は内紛によって都での地位を凋落させていましたが、都から東国へ下向した義朝は、在地豪族を組織して勢力を伸ばし、再び都へ戻って下野守に任じられました。その後勃発した保元の乱では、東国武士団を率いて戦功を挙げ、さらに勢力を伸ばしました。

実盛の本拠地は、現在の東京・埼玉にあたる武蔵国ですが、その南にある、現在の神奈川県にあたる相模国を支配していたのが、源義朝でした。逆に北側にある、上野国、現在の群馬県にあたる地域に進出し、支配をしていたのが、義朝の弟の義賢になります。

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実盛は初め、この兄のほうの義朝に従っていましたが、相模よりも大きな武蔵国と上野国を併せた地域で勢力を伸ばしていくほうが、今後関東地方に君臨していく上では有利と考えたのでしょう。義朝を見限って、やがて義賢の幕下に伺候するようになっていきます。

対する、義朝には、義平という長男がいました。通称は鎌倉悪源太といい、母は京都郊外の橋本の遊女とも言われ、源頼朝・義経らの異母兄にあたる人物です。勇猛果敢な武将として恐れられていました。

武蔵衆と上野衆の連合という、こうした動きを見ていたこの義朝の子、鎌倉悪源太・義平は、これを危険視し、ついに行動に出ます。そして、久寿2年(1155年)、義賢を急襲してこれを討ち取ってしまいます。「大蔵合戦」といい、ともに源氏であるこの両家の身内争いは、その後それぞれの後ろ盾である宮中の勢力の争いにつながっていったため、保元の乱の前哨戦とも言われています。

この実盛という人は、もともと旧恩には篤い性格だったらしく、義朝の元を離れて義賢の元に伺候するようになってからも、義朝への義理を忘れていなかったようです。そのためもあり、義賢が討たれるとみるや、今後の関東の勢力地図は義朝中心になっていくとみて、再び義朝・義平父子とよりを戻し、再びその麾下に入りました。

ただ、旧知の恩に報いるタイプ、というよりも、時勢のバランスを見ながら世を渡っていく、八方美人的な人物だったというのが正しい見方かもしれません。

この義朝・義平父子の配下には、もう一人畠山 重能(はたけやま しげよし)という人物がいました。大蔵合戦では、源義賢を討った立役者で、義平はこの重能に、義賢の子で2歳になっていた「駒王丸」を探し出して必ず殺すよう命じました。

しかし、見つけたその幼子に刃を立てる事を躊躇した重能は、その子をそのころ義朝・義平父子の部下に戻っていた斎藤実盛に託します。義賢に対する旧恩を忘れていなかった実盛はこれを了諾し、重能から密かに預かった駒王丸を信濃国へ逃しました。

信濃国には、木曾地方に本拠を置く豪族、中原兼遠という武将がおり、実はこの兼遠の奥さんが、駒王丸の乳母でした。そういった縁もあり、兼遠は斎藤実盛から、駒王丸が源義賢の遺児であることを聞かされると、ひそかに匿って養育することを約束します。

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こうして、駒王丸は兼遠一族の庇護のもとで成長し、長じてからは、育った土地にちなんで、「木曾」姓を名乗るようになります。義朝を叔父に持ち、つまり源頼朝・義経兄弟とは従兄弟にあたるこの人物こそが、後に「旭将軍」と呼ばれ、頼朝・義経の最大のライバルとなる「木曾義仲」です。

保元の乱、平治の乱において実盛は、平家打倒を旗印に上洛する義朝の旗下、忠実な部将として奮戦します。しかし、やがて清盛率いる平家の逆襲に遭い、徐々に義朝は追い詰められていきます。東国で勢力挽回を図るべく東海道を下りますが、その途上度重なる落武者狩りの襲撃を受け、配下の重鎮たちは深手を負い命を落としていきました。

そんな中、義朝の三男の頼朝も一行からはぐれて捕らえられ、兄の義平は別行動で北陸道を目指して一旦離脱します。そして再び京に戻って潜伏し、生き残っていた義朝の郎党と共に清盛暗殺を試みますが、失敗してしまいます。

その後も、義平は近江国に潜伏して清盛を付け狙いますが、結局は平家の郎党に生け捕られ、六波羅へ連行され、清盛の尋問を受けます。義平は「生きながら捕えられたのも運の尽きだ。俺ほどの敵を生かしておくと何が起こるかわからんぞ、早よう斬れ」と言ったきり、押し黙ってしまったといいます。

やがて義平は六条河原へ引き立てられますが、その斬首の太刀取りに向かい、「貴様は俺ほどの者を斬る程の男か?名誉なことだぞ、上手く斬れ。まずく斬ったら喰らいついてやる」と言ったそうです。太刀取りが「首を斬られた者がどうして喰らいつけるのか」と言い返すと、「すぐに喰らいつくのではない。雷になって蹴り殺してやるのだ。さあ、斬れ」と答え、義平は斬首されました。このときの義平の享年はわずか20でした。

この話には後日談があります。それから8年後、この太刀取りだった、難波経房という人物は、清盛のお伴をして摂津国布引の滝を見物に行きました。すると、にわかに雷雨となり、激しい雨の中、突然稲光が光ったと思うと、あっという間に雷に打たれて死んでしまったといいます。はたしてこの雷を落としたのは義平だったのでしょうか。

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一方、父の義朝も平家軍との緒戦での連敗を重ねます。やがては馬も失い、裸足で尾張国野間(現愛知県知多郡美浜町)にたどり着き、年来の家人であった長田忠致とその子・景致のもとに身を寄せました。しかし、恩賞目当ての長田父子に裏切られ、入浴中に襲撃を受け、ついには殺害されました。

伝承によれば、義朝は入浴中に襲撃を受けた際、最期に「我れに木太刀の一本なりともあれば」と無念を叫んだとされます。義朝の墓はその終焉の地である野間大坊と呼ばれる真言宗の寺院の境内に存在し、上記の故事にちなんで多数の木刀が供えられています。また、境内には義朝の首を洗ったとされる池があるそうです。

こうして義朝そその傘下の武将たちが次々と平家に捕えられ、命を落としていく中、義朝たちと行動を共にしていた実盛だけは、関東に無事に落ち延びました。

通常ならば、ここで命運が尽きてもよさそうなものですが、しかし、ここでも実盛はその八方美人的な才能?を発揮して生き延びます。

その後平氏隆盛の世の中になることに気付くと、今度は逆に平家に仕え、東国における歴戦の有力武将として重用されようになっていきました。そのため、治承4年(1180年)に義朝の子・源頼朝が挙兵しても平氏方にとどまり、平清盛の嫡孫、平維盛の後見役として頼朝追討に出陣しています。

その後、平氏軍は富士川の戦いにおいて、伊豆で蜂起した頼朝に大敗を喫します。

富士川の戦いとは、駿河国富士川で源頼朝らと平維盛が戦った合戦です。石橋山の戦いで敗れた源頼朝が安房国で再挙し、集めた東国武士による大軍と、都から派遣された平維盛率いる追討軍とが戦ったもので、この戦いに勝利した頼朝はその後、鎌倉幕府の基礎を東国で築いていくようになります。

この富士川の戦いでは、平氏軍が突如撤退し、大規模な戦闘が行なわれないまま戦闘が終結しました。この件に関しては以下のような逸話が有名です。

両軍が富士川を挟んで対峙していたその夜、頼朝方の武将、武田信義の部隊が平家の後背を衝かんと富士川の浅瀬に馬を乗り入れました。それに富士沼の水鳥が反応し、大群が一斉に飛び立ち、これに驚いた平家方は大混乱に陥りました。兵たちは弓矢、甲冑、諸道具を忘れて逃げまどい、他人の馬にまたがる者、杭につないだままの馬に乗ってぐるぐる回る者までおり、集められていた遊女たちは哀れにも馬に踏み潰されたといいます。

平家方は恐慌状態に陥った自軍の混乱を収拾できず、総崩れになって逃げ出し、遠江国まで退却しますが、軍勢を立て直すことができず、全軍散り散りになり、維盛が京へ逃げ戻った時にはわずか10騎になっていたそうです。

この話にはもうひとつ逸話があり、実はその敗因の原因のひとつには、実盛の存在が大きかったのでは、といわれています。このころ69歳になっていた実盛は、事あるごとに頼朝ら東国武士の勇猛さを日ごろから説いていたといい、このため、維盛以下味方の武将の多くはついには過剰な恐怖心を抱くようになったといいます。

その結果水鳥の羽音を夜襲と勘違いしてしまった、という説ですが、事実がどうかはわかりません。が、それだけ平家は武士というよりも公家化しており、維盛軍は烏合の衆だったわけです。戦わずして負ける、とよく言いますが、源氏側にすれば勝つべくして勝ったと言っていいでしょう。

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その後、実盛は72歳まで生き延びます。寿永2年(1183年)には、再び維盛らと、今度は木曾義仲追討のため北陸に出陣しました。

このころの義仲はというと、これに遡ること3年前の治承4年(1180年)、以仁王が全国に平氏打倒を命じる令旨を発したのち、これに賛同して行動をともにすることを誓います。兵を率いて北信で平家と戦う源氏方の救援に向かい、さらには頼朝勢力が浸透していない北陸に進出して、ここで勢力を広めていました。

実はこのころから、義仲と頼朝との関係は急速に悪化しており、同じ平家打倒を掲げていながら、両者は反目するようになっていきます。そのきっかけは、頼朝と敵対し敗れた、父義賢の弟、源義広(志田義広)と、同じく頼朝から追い払われた叔父の源行家が義仲を頼って身を寄せたことにあるといわれています。

この2人の叔父を庇護した事で頼朝と義仲の関係は悪化し、ついには直接戦うに至ります。そして、このわずか一年後の、宇治川や瀬田での戦いで、義仲は源範頼・義経率いる鎌倉軍に敗れ、その後近江国粟津(現在の滋賀県大津市)であっけなく討ち死にしています(享年31)。

木曾義仲は、頼朝や義経ほどではないにせよ、多くの武勇伝がある武将です。が、本項では主人公ではないため、ここではこれ以上詳しくは述べません。

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とまれ、このころはまだ義仲も頼朝の部下として北陸方面で元気に奮戦していた時期であり、破竹の勢いで、各地の平家軍を蹴散らしていました。無論、平家方に付いていた実盛とは敵味方同士です。

こうした中、勢力を強める義仲を討伐しようと、平維盛らは実盛らの旗下の兵を率いて、義仲が牛耳る北陸へと出陣してきました。しかし、加賀国の「篠原の戦い」では、緒戦の倶利伽羅峠の戦いで敗れたところへ、義仲らの源氏軍からの追走を受け、平氏軍はほとんど交戦能力を失い惨憺たる体で壊走しました。

平氏側は甲冑を付けた武士はわずか4,5騎でその他は過半数が死傷、残った者は物具を捨てては山林に逃亡しましたが、ことごとく討ち取られました。平家一門の平知度が討ち死にし、平家第一の勇士であった侍大将の平盛俊、藤原景家、忠経らは一人の供もなく逃げ去ったといいます。

味方が総崩れとなる中、覚悟を決めた実盛は老齢の身を押して一歩も引かず奮戦し、ついに義仲の部将・手塚光盛によって討ち取られました。このとき、その死の原因となったのが、最初に述べた、稲の切り株に馬がつまづいたことだったとされるわけですが、なにぶん900年以上も昔の話であり、本当かどうかを証明するものは何もありません。

ただ、この際、出陣前からここを最期の地と覚悟しており、「最後こそ若々しく戦いたい」という思いから白髪の頭を黒く染めていた、という話が残っているようです。このため首実検の際にもすぐには実盛本人と分かりませんでしたが、そのことを義仲は、側近の樋口兼光の口から聞きます。

この樋口兼光とは、義仲を実盛から預かった、あの中原兼遠の息子であり、義仲が駒王丸と呼ばれていたころのあの乳母の息子でもあります。乳母子として義仲と共に育ち、長じてからは忠臣として義仲に従って各地を転戦し、上の倶利伽羅峠の戦いなどでも重要な役割を果たしています。おそらくは、母である乳母伝いに、武蔵国にいたころの知人から実盛の近況を聞き及んでいたのでしょう。

義仲は、これを聞き、その首を付近の池にて洗わせたところ、みるみる白髪に変わったといい、これで実盛の死が確認されました。

このとき、かつての命の恩人を討ち取ってしまったことを知った義仲は、人目もはばからず涙にむせんだといいます。

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こうして実盛の死から長い年月が経ちました。それから約230年後の室町時代前期の応永21年(1414年)3月のこと、加賀国江沼郡の潮津(うしおづ)道場(現在の石川県加賀市潮津町に所在)というところで、浄土宗の僧たちが庶民とともに七日七夜の念仏勤行を行っていました。

そうしたところ、突然、白髪の老人が現れ、居合わせた「太空」という高僧から十念(「南無阿弥陀仏」を十回称える作法)を受けるやいなや、諸人群集のなかに立ち入り、そのまま忽然と姿を消してしまったといいます。

このことは噂として広まり、この老人こそが、源平合戦時に当地で討たれた斉藤別当実盛の亡霊との風聞がたちました。太空はその供養を決め、卒塔婆を立てて、その霊魂をなぐさめたといいます。のちにこの話は、観阿弥とともに謡曲の祖といわれる猿楽師、世阿弥のもとにもたらされ、謡曲「実盛」としても作品化されました。

以来、浄土宗の盛んな地域を中心に、実盛の供養が慣例化するようになるとともに、謡曲として実盛が演じられる機会も増えることになりました。やがては、それらが虫送りの風習とつながり、住民の間では夏を迎える行事として定着するようになっていったのでしょう。

実盛が最後を迎えた「篠原の戦い」の古戦場は、現在の加賀市の片山津温泉から2kmほど北西に行ったところの、海岸に近い場所にあります。現在ここには「篠原古戦場跡実盛塚」がという碑とその説明文の立札が建てられています。また、ここから東へ1.4kmほど離れたところには、実盛の首を洗ったとされる池も残っています。

さらに、この実盛がかぶっていたとされる兜が、ここから10kmほど東の小松市内の多太神社に残されています。実盛が討たれたあと、木曽義仲が実盛の供養と戦勝を祈願して当社へ兜を奉献したものとされ、現在、国の重要文化財となっているようです。同神社では、現在でも回向が行われているといいます。

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実は、江戸時代の元禄二年(1689)に、かの有名な俳人、松尾芭蕉もこの地を訪れています。

奥の細道の途次、旧暦の七月二十四日(現8月27日)に北陸路を金沢から小松へ入り
ここに宿泊して、句会を開催。多太神社にも詣でて、実盛の兜や袖を拝観しました。このとき、木曽義仲と斉藤実盛の数奇な巡りあわせに思いをはせ、詠んだといわれるのが、有名な次の句です。

「むざんやな 甲の下のきりぎりす」

句中の「きりぎりす」は、秋の季語であって、実際のキリギリスのことではありません。この場合、全国あちこちでよくみられる、ツヅレサセコオロギのことだと言われています。2~3cmの小型で黒い色をしており、農耕地、庭、草地に生息します。成虫は夏から秋に出現し、家屋内に入ってくることも多く、見たことがある人も多いでしょう。

中国では、このツヅレサセコオロギを喧嘩させて楽しむ闘蟋(とうしつ)という遊びがあり、この国の伝統的昆虫相撲競技です。子供の楽しむ純娯楽的なものではなく、闘犬、闘鶏、闘牛に近く、あるいはタイ王国の国技「ムエタイ」のような国技だといいます。

奇妙な名前ですが、漢字では「綴れ刺せ蟋蟀」と書くそうです。これは、かつてコオロギの鳴き声を「肩刺せ、綴れ刺せ」と聞きなし、冬に向かって衣類の手入れをせよとの意にとったことに由来するそうです。

で、芭蕉の句に戻って、「むざん」とは、いたわしい、ふびんなこと。「いまは秋、コオロギが一匹、兜の下で鳴いている。このコオロギは実盛の霊かもしれない。おいたわしいことである。」という鎮魂の感情を表した句です。

謡曲の「実盛」にも、「むざんやな」という表現があり、芭蕉の句はそれを引用したと言われています。

それにしても、コオロギが鳴き終わる秋は当分来そうもありません。ウンカやコオロギが死に絶え、私の大嫌いな夏の終わりが一日でも早く来ることを祈りつつ、今日の項を終えたいと思います。

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