夢の途中 3 東雲

小学校からの卒業は、幼少期を過ごした地域との縁切れも意味していた。

毎日、猿猴川沿いの道を通り、川を渡って通っていた場所へは、何かの用事がなければ行かなくなった。用というのもとりわけ何もない。親しい友達がいるわけでもなく、訪れる必要のある場所もない。

それまで、東雲の自宅はその中だけが自分の世界を構築するための場所だったが、家の中だけでなくその周辺もが、にわかに自分の世界の中心になりつつあった。

とはいえ、堀越のような野趣あふれる環境ではない。住宅、店舗、工場が混在するようなところで、緑はほとんどない。自然といえば、すぐそばにある猿猴川があるだけで、あとは歩いて10分ほどのところに公園がある程度である。公園といってもサッカー場半分ほどの広場の周りにポツポツと樹木が植えてあるだけで、およそ緑地とはいえない。

地域のイベントはたいていそこであり、夏のラジオ体操に秋祭り、運動会や防災訓練といった行事はすべてそこで行われていた。しかし住んでいる住民数に比べて明らかに容量オーバーだ。大した遊具があるわけでもなく、子供にとっても遊びにくい場所で、私もここで過ごした思い出はほとんどない。

もっとも中学生になってからも遊びに行くような時間はなく、その理由は、通い始めた学校が遠かったからでもある。

私が入学した学校は大洲中学校といい、青崎小学校を卒業した生徒たちはほとんどがここに入る。小学校も越境入学だったが、その延長で中学校もまた同じ手続きで入った。「寄留」といい、その学校の学区の住民の家に「寄宿」しているという証明書があれば許される。

私の場合、昔住んでいた堀越の官舎のすぐ隣に親しくしていた夫婦が住んでおり、そこの家の住民ということで登録していて、この家には小中学校を通じてお世話になった。

ちなみに、阪神タイガースの金本元監督は、この青崎小学校、大洲中学校の卒業生で、私の後輩になる。私と違って生粋の広島生まれで、青崎町内会のソフトボールや大州中学校の軟式野球部でプレーをしていたそうだ。

実は、その中学校は自宅の目の前にある。家のすぐそばにある堤防に上がれば、猿猴川を隔ててそこから300mほど先に校舎が見えるのだ。ところがそこに行くための橋が目の前にはなく、かなり上流にまで迂回しなければならない。

かくして小学校の時と同様、毎日せっせと遠路はるばる学校まで歩いて通う毎日がまた始まった。かつてと同じように、堤防沿いの道を橋がある上流まで遡り、ふたたび下って校門まで辿り着く。片道40分はかかるから、なかなか良い運動になる。

このころまでに私の体重はほぼ標準にまで落ちていて、この通学のおかげで体も随分と丈夫になった。しかし、放課後にさらに体育系の部活をする元気はなく、入ったのは美術部だった。

顧問の先生の名は前川といい、自分のことを「おとこまえかわ」と言っていたが、美男子には程遠い。縦長の顔でひょうひょうとしており、あだ名は「馬」だった。冗談を言って生徒を笑わせるのが好きで、みんなに好かれていた。教員仲間の中でも評価は上々らしかった。

振り分けられて入ったクラスの担任の先生でもあったが、姉がこの学校に通っていたころの担任でもある。そのころ、前川先生が姉につけたあだ名が、苗字の「瑛江」にちなんで「おはなはん」だったこともあり、入学してきてから私の担任になると早速同じあだ名で私を呼ぶようになった。

姉はこの学校を2年ほど前に卒業していて、市北部の市立商業学校に通っており、そこにはバスで通っていた。私と違って、小中学高を通じて遠路を歩いて学校に通った経験はなく、すべてをバス通学で済ませていた。

私も希望すれば親は定期代くらいは出してくれただろう。しかし、小学校のころの苦行?の名残か、このころからわざと棘の道を進もうとする傾向が出てきていた。修行僧のような高い志を持つものではないが、自分を追い込むことで快感が得られる、という現在まで続くサド的な性格だ。自虐的ということばがぴったりの変人である。

小学校卒業前から自分もそろそろ変わりたい、と感じていたこともあったが、中学に入ってからは、そうした自虐的な性格の方向がなぜか勉学に向かうようになった。貪欲に勉強に励むようになり、学校の授業だけでは飽き足らず、両親に頼み込んで、近くの塾にも通い始めた。

「英数教室」といい英語と数学だけを集中的に授業してくれる。この二科目を制すれば高校受験も優位に進められる、といわれていた。このころすでに高校受験を意識していたわけではなかったが、とりわけ英語を学びたい、という気持ちが強く、数学のほうはこの塾でたまたま教えていたからついでに学んだ、という恰好だった。

ところがその数学の先生の教え方が上手だったせいもあり、すぐにそのレベルは塾生の中でもトップクラスになった。若い先生で意欲もあったのだろう、とりわけ私には懇切丁寧に指導をしてくれた。

英語のほうの先生は少し年配で山川先生といった。こちらも教え方がうまく、文法などはすぐに習得した。私の現在の英語能力の基礎はすべてここでこのころに培われたといっていい。

英語については、この塾通いとは別にNHKのラジオ放送で、「基礎英語」といいう番組を毎日欠かさず聞いていた。これもこの語学の理解を深めるのに大いに役立った。

英語を学びたい、と考えたのは将来海外に行きたい、とこのころから思うようになったからだ。このころ「兼高かおる世界の旅」という人気テレビ番組があり、これを見ては、いつかはあんなふうにいろんな国を旅してみたい、と漠然と思っていた。世界中を旅する、というふうにはならなかったが、海外へ行くというその夢はその後実現することになる。

この塾通いの成果は上々で、やがて学校での英語と数学の点数は毎回ほぼ満点で、ほかに敵なし、といったレベルになった。こうなると不思議なもので他の教科の制覇にもがぜん、意欲がわいてくる。理科、社会、国語、といずれもトップレベルを目指したが、国語については、いつも大した勉強もせずによい点がとれた。

理科については数学の延長のようなところがあり、コツをつかめば同様の要領で習得できる。好きな科目でもあったことから、こちらの成績もいつもよかった。問題は社会である。基本は国内外の歴史なのであるが、その試験問題には記憶力が試される。小学生のころ暗算で挫折したそろばんのことをつい思い出した。

新井君というクラスメートがいた。小学校のころにいじめられた荒井とは読みは同じだが別人だ。どうもこの名前に縁があるらしい。だが、小学校時代のアライとは違い、すこぶる仲がよく、一緒によく遊んでいたし、ふざけあえる一番の親友になった。

この新井君、他の教科の成績はからっきしダメなのに、社会科の成績だけはいつもよい、というへんな奴だった。どうも自分の記憶力を誇っているようなところがあり、社会科だけは私に負けたくない、といつも言っていた。

いわばライバル視していたわけだが、「全科目完全制覇」を目指していた私としては、親友だといっても負けるわけにはいかない。それまで以上に社会科にも力を注ぐようになり、彼の成績を凌駕した。ついにこの教科を含め、ほぼ全部の教科でトップの座をキープするようになった。

しかし体育だけは、あいかわらずの成績で、小学校以来、満点を取ったことは一度たりともない。いつも平凡な成績、いや平均点以下だった。母の運動神経のDNAはどうも私には遺伝しなかったらしい。

課外活動としていた美術のほうもパッとしなかった。うまくなるためにはまずデッサンをしろ、と前川先生に言われ、アポロンだかビーナスだかの石膏をせっせとスケッチしたが、どうにもコツがつかめず、まったく似てこない。

もっと自由に何か書かせてくれればいいのに、といつも思っていたが、そのうち塾通いで勉強するほうに力を注ぐようになってからは、美術教室からは自然と足が遠のいた。




中学校に入ってすぐだったろうか、好きになった女の子がいた。

背丈はクラスでも一番小さいほうだったが、目鼻立ちのすっきりした京風美人でポニーテールがお似合いだ。中学に入ってすぐ仲良くなったが、1年生のころはいわば小学校の延長のようなもので、冗談を気軽に言い合える友達程度だった。

ところが年齢は15~16でそろそろ色気づくころである。2年生になってからは妙に意識し始め、だんだんと気になる存在になっていく。向こうもそうなのか、それまで普通に話しをしていたのが、だんだんと口数がすくなくなっていった。

2年に上がってクラス替えがあったが、この子とはまた同じクラスだった。毎日顔を合わせていたが、目と目が合うと、お互いにそらす。廊下ですれ違う時も無言のままだ。

あちらがこちらを好きかどうかを確かめたい、と思うようになればそれはもう恋である。幼いころに淡い恋心を抱いたケイ子ちゃんのときのような軽い気持ちではなく、想いは日に日に深まっていった。

しかし、もともと奥手でシャイな性格が災いし、想いを相手に伝える方法がみつからない。嫌われたらどうなる、どうしようという自己保全の気持ちのほうが強く、とうとう自分の殻を破ることができなかった。

その点、後年女性への接し方は多少ましになり、進歩したかもしれない。しかし、このときはうまく相手に気持ちを伝えるテクニックはなく、またその機会も得られず、結局そのまま中学生活を終えた。

当然この恋は終わり、と思っていたが、ところがなんとその後彼女は私が進学したのと同じ高校に入学してきた。中学時代のもやもやした気持ちはその後高校時代にまで持ち越され、やがては破綻を迎えることになるのだが、そのことはまた後で書こう。



恋の話はさておき、一に勉強二に勉強ということで、勉学に励んで過ごした3年間は瞬く間に終わった。何かに打ち込み充実しているときというのは、時間が早く過ぎていくものらしい。

一方で、何か楽しかったり嬉しかったりするイベント、あるいは事件はなかったか、と思い起こすのだが、印象に残っているのはほとんどない。初めて行った九州をめぐる修学旅行ぐらいのもので、たいした出来事はない。

このころの自分は内へ内へと向かっていた気がする。あいかわらず父に金を出してもらっては歴史小説を買い漁っており、週末になると本の虫になっていた。ちょうどそのころ司馬遼太郎さんの「国盗り物語」がNHKの大河ドラマで日曜日に放映されていてこれに夢中になった。

その原作を何度も読み返すこことはもちろん、毎週土曜日午後の再放送は一話も欠かさず見通したものだ。司馬さんの作品はその後ほとんどのものを読んだが、その後再び大河ドラマにとりあげられた、坂の上の雲、花神、といった司馬作品は大のお気に入りであった。

この人の作品といえば、とくに維新ものが多く、幕末ころの舞台は、京、江戸、薩摩、そして長州、これは今の山口県である。

私の母は山口生まれであることは先に書いた。それに関連したことをもう少し詳しく付け加えてみたい。

当初、母の実家は市のはずれの仁保というところにあった。「にほ」と読むが、地元の人の多くは「にお」と発音する。山口駅からは10kmほど東にある山間にある地域で、仁保川という小さな川の右岸側を中心に、東西4~5キロにわたって集落が広がる。

集落といっても、田んぼや畑のなかにぽつぽつと民家が散らばる程度のものだ。母の実家は、その一番東の奥まったところにあったが、切り立った山のある麓にあって北向きの土地であり、お世辞も地味がいいとは言えない。

母の一族は、ここで何代にもわたって農家として暮らしてきた。私がまだ幼いころの記憶では、まだ藁ぶき屋根の母屋があった。またこれに隣接して鶏小屋や牛小屋があり、牛にやる干し草を蓄えるための地下サイロなどがしつらえてあった。

目の前に一反ほどの田んぼがあった。少し離れたところにも畑を持っていたが、これらがこの一家の財産すべてであり、それだけで何代も食いつないできた。

私が小学校の低学年のころ、すぐ近くに、山口衛星通信所という施設ができた。旧国際電信電話(KDD)が1969年(昭和44年)に開設したもので、巨大なパラボラアンテナが20基ほども居並び、なかなか壮観だ。最大のものは直径34mで、これは衛星通信用パラボラアンテナとしては日本一の大きさだという。

こんな田舎にこうした近代的な施設が建設されたのは、本州でインド洋上の衛星との交信ができる唯一の場所、ということが理由であったようだ。が、そのほかにも、台風の来襲が少なく、地震が少ない土地だからでもある。田んぼや畑以外には何もない場所ではあるが、災害にだけは強いというところが、とりえといえばとりえといえる。

しかし、災害がないということと食えるということはあまり関係がない。災害がなければ田畑が失われることはないが、だからといって極端に生産性が上がるわけでもない。代々に渡って細々と農業を続けていたが、やはり外へ出て働いたほうが金になるのでは、ということになったのだろう。母の父─ 祖父は、こうして軍隊へ出仕するようになった。

勤め始めたのは海軍で、当初大小の軍艦に乗っていたようだが、その後、呉にあった「海軍潜水学校」というものに軍から金を出してもらって入校した。砲術学校や水雷学校などの術科学校を卒業したあと、水上艦や潜水艦で実務経験を積んだ士官・下士官・兵が入校する学校である。

いわば海軍のエリートが学ぶ学校であるが、祖父は砲術学校も水雷学校も出ていなかったはずである。にもかかわらず入校できたのは、よほど出来が良かったのか、あるいは目端が利くタイプだったのだろう。射撃がうまかったらしく、何かの大会で入賞し、賞をもらったこともある。そうした技量が認められたのかもしれない。

潜水学校では、潜水艦の運用に必要な知識と技能を修得した。そのあと、実践部隊に配属されたようで、おそらくはイ号とよばれる大型潜水艦の勤務なども経験したはずである。

それを証明する写真でも残っていそうなものだが、残っているのは潜水学校時代のものばかりである。おそらく、この当時の潜水艦は国家の最高機密であったため、写真の撮影は許されなかったのだろう。

何年かの間、潜水艦乗りとして勤務したが、その後太平洋戦争が始まったころには予備役に入る年齢に達した。このため、結局戦闘に駆り出されることはなく、無事に終戦を迎えた。

仁保の家に帰り、しばらくは農業を続けていたが、やがて住み慣れた仁保を離れ、町の中心に引っ越すことを決めた。無論、一家総出での引っ越しであり、このときはまだ健在だった曾祖母と祖母、母と妹の4人を連れて仁保を後にした。長年住んだ土地、仁保とはこうして縁が切れることとなった。

引っ越し先は山口駅のすぐ裏である。民家が密集するあまりいい立地ではなかったが、そこで小さな宿を営みなじめた。退役の前に軍からある程度まとまった金を退職金としてもらっていたらしく、それを元手に始めたのがこの宿だ。

米殿荘という名で、1~2階合わせて5部屋ほどしかない小さな宿だった。私が幼いころは夏休みや冬休みになると、母に連れられてその家へよく遊びに行っていたものだ。しかしあまりにも小さいため利益が出ず、このため大借金をして、新たにもう少しましな“ホテル”といえるレベルのものをその近くに建てた。

祖父の性は中村で、名は六蔵とだったから、そこから一文字づつ取り、「中六ホテル」と命名した。場所は「ちまきや」という市内唯一のデパートのすぐ近くで、山口一番の目抜き通り、“道場門前”から歩いて数分のところにある。前の宿に比べれば格段に立地はよく、より大きな収入が得られる、という算段だったろう。

ところが、私が小学校5年のときに、祖父はあえなく脳溢血で亡くなった。63歳だったから、かなりの早死にだ。もとから大酒のみで、休みの日には朝から食らっていたと聞く。その死因も酒と無関係ではなかったろう。とはいえ、酔って家人に暴力をふるうといったことはなく、陽気で明るい酒だったように記憶している。

主人を亡くした祖母は途方にくれた。というのも、息子を交通事故で亡くしていて、その遺児を引き取って育てていたためである。亡くなったのは母の弟にあたり、私からみると叔父になる。まったく覚えていないが、私が幼いころにはよく遊んでくれたらしい。

20代半ばで結婚し、相手との間に男の子を一人も受けた。ところがその子は幼いころにポリオにかかり手足が不自由となった。それが理由だったのか、夫を亡くしたあと母親は育児を放棄し、別の男性と結婚、東京へ出て帰ってこなくなった。

小児麻痺だったその男の子は、私との関係でいうと従弟ということになる。この子を育てながらホテルの経営もしなければならない、またそれを建てたときの借金もある、ということで経済的に追い詰められた祖母は、あろうことかさらに知人から借金をした。

ところがその知人というのがヤクザまがいの人物だったらしく、借りた金の倍額に近い金を返せ、と言ってきた。このあたり、子供のころに聞いた話なので、事実と多少異なるところもあるかもしれないが、ともかく騙されて大金を払う羽目になったことは確かである。

返す金のめどなど立つはずもなかった祖母は、娘二人にすがった。母にはもうひとり妹がおり、これが同じ市内に住む叔母である。亡くなった弟と含めて三人姉弟だった。その妹と合わせてその借金を肩代わりすることになり、叔母の家だけでなく我が家にも大きな負担がのしかかることになった。

一方、父には松江在住の叔母がいた。戦後すぐに日本に帰国した際にもかなり世話になったらしく親しかった。その彼女の夫が検事をしており、この件についてもその義理の叔父に相談したようだ。

その結果裁判にまで持ち込むことになった。その叔父の力がどの程度及んだのかはよくわらかないが、結果として勝訴とまではいかないまでも、かなりの借財を減らすことに成功する。

しかし借金がまったくなくなったわけでもなく、その後祖母はかなり長い間貧窮生活を余儀なくされ、叔母と我が家からの援助でなんとかしのいでいた。

その後、叔父の遺児である従弟は、広島にある養護施設に入ることになった。保養の義務はなくなったわけであり、晩年の祖母の暮らしにはようやく明るさが戻ってきた。俳句が好きで、町内の俳句の会によく出かけ、友達も多かったようだ。しかし、私が30過ぎのころ、子宮がんで亡くなった。83だった。

実は私は祖母が育てていたこの従弟が大の苦手だった。それは健常者ではないからという理由ではなく、性格的な不一致があったところが大きい。

一方、叔母には息子が二人いて、そのうちの一人が私と仲が良かった。その叔母の息子と祖母の育てていた子は同い年、私がひとつ上だからほぼ同学年である。3人で遊ぶこともあったが、家でゲームをするくらいならよしとしても、外へ出て遊ぶとなると、どうしても障害のある彼と同じ行動というわけにはいかない。

いつも置いてけぼりにされる、というひがみもあっただろう。ときにありもしない嘘をついて、何事かのトラブルを私やもう一人の従弟のせいにする。体が不自由なのでいたわってやりたいという気持ちがある反面、そういう態度をみせつけられるといい気持ちはしない。

詳細は記憶していないが、あるとき、洗濯場のもの干し竿が何かの拍子にが落ちて、彼が腕に軽いケガをした。そのときもそれをすぐそばにいた私のせいにし、祖母と母に告げ口された。無論、私は何もやっていない。はっきりとそう明言し、認められたが、嘘までつかれて悪者にされかけたことで不信感がいよいよ強まった。

そしてそれがきっかけとなり、それ以後、彼とは距離を置くようになっていった。現在彼は、養護施設を出て一人暮らしをしているが、最後に会ったのは、何十年も前のことになる。
子供のころのそんなことを根に持っているわけではないが、あえてこちらから会いにいこうとしないのは、そうした事件があったことと無関係とはいえない。

とはいえ、お互い余生はそれほど長くない。そろそろ昔のことは水に流し、ふたたび手を取り合える時がくればいいな、と今は考えている。

話は戻るが、その従弟が養護施設に入る前から私は、夏休みや冬休みになると、たいていこの家に遊びに来ていた。相変わらず苦手な彼はいたが、両親や姉の束縛から逃れられる、ということは大きかった。家族と一緒にいるということは安心感がある反面、毎日顔を突き合わせていればいやにもなることもある。

その点ここは自由だし、何よりもホテルだけに家が大きかった。昼間はほぼ客はいないから、好きな場所を自分で選んで、苦手な彼と顔を突き合わせないことも可能だ。食事は別に一緒に取る必要はなく、場合によっては外に食べに出ればいい。

ただ、そんなことよりも、山口という場所が好きだった。歴史に興味のあった私は、かつて長州と呼ばれていたこの地の史跡を見るのが楽しみだったし、風情のある街並みを歩き回ると心が安らんだ。山口以外の史跡もバスや電車を乗り継いで簡単に行ける。維新の舞台となった萩は頻繁に訪れたし、長府、下関といった場所にも偉人達の数々の足跡がある。

市内に限って言えば、幕末だけでなく、戦国の時代からの史跡も多く、滅亡した大内氏やそれを打ち滅ぼした毛利氏ゆかりの地も多数ある。本を読むばかりではなく、実際に目と足で歩いてそれを確認し、空想でその時代に遡ってみるのもまた楽しい。

姉が通っていた幼稚園のあるザビエル記念聖堂のことは前に書いた。この聖堂のある公園は、長崎を思わせるようなエキゾチックな雰囲気があり、「亀山」とも呼ばれるその丘からは山口の黒瓦に覆われた古い町並みを見通すこともできる。キリスト教徒迫害の歴史もここにくれば学ぶことができ、往時を偲ばせる。

山口は先の大戦で戦禍を受けていない。このため平安時代にその基礎が形成されたとう昔の街並みが、あちこちにそのまま残っている。古道も多い。それらの道を通るたびに、いつも違う表情を見せてくれる。

一番のお気に入りは、香山公園というところで、「西の京・山口」を代表する名所となっている。園内には数々の史跡があるが、その中心にある瑠璃光寺は大内氏全盛期の大内文化を伝える寺院であり、梅の名所でもある。

その梅林の中に国宝の五重塔がある。室町時代、大内氏25代の大内義弘がこの場所に「香積寺」という寺を建立したが、その跡地に後年建てられたものである。

この大内義弘という人は、大内家最初の全盛期を築いたことで知られ、大内氏の中では最も偉大な武将とされる。

室町幕府の命で多くの功績を立てた名将であったが、しかし能力があるということは目立つ存在でもあるということである。守護領国を6か国にまで増加させるほどにもなると、誰の目にも幕府を脅かす存在に映る。ついには将軍足利義満に目をつけられるようになった。

義満が自分を排除しようとしていることに気づいた義弘は、逆に幕府を倒そうと仲間を募り、応永6年(1399年)に和泉国の堺に大軍を率いて赴き、応永の乱を起こした。しかしこれを上回る3万余騎といわれる幕府軍に包囲され、奮戦するも敗れて戦死した。

戦死した義弘の後継はなかなか決まらず内紛が起こったが、最終的には弟である盛見(もりはる)が大内氏を継いだ。このとき、兄を弔うため香積寺の敷地内に、五重塔の建設を開始した。しかし、盛見自身も九州の大友氏らとの戦いで永享3年(1431年)に戦死する。五重塔はその後、盛見の子、大内教弘の代に完成した。嘉吉2年(1442年)頃といわれる。

大内義弘の亡骸は一旦堺で葬られた後、山口に戻され、香積寺に改葬されたが、その墓こそがこの五重塔といわれている。通常なら仏舎利が納められている五重塔の下奥深くに大内義弘の柩があるとの伝承がある。

この瑠璃光寺の隣には、香山墓所と呼ばれる墓所があり、こちらは大内氏のあと長州を治めた毛利氏の墓所となっている。もっとも歴代のものすべてがあるのではなく、明治維新当時の当主、13代毛利敬親やその奥方の墓などである。天皇陵ほどの規模はないが、同じ円墳であって、国の史跡に指定されている。

周囲の敷地より一段と高いところに造成された墓地で、ここに上がる石段の前にある石畳は、「うぐいす張の石畳」として知られる。石畳の上に立って強く柏手打つと、「チュンチュン」と雀が鳴いたような音が返ってくる。意図してそのように作られたものではなく、周囲の地形と石段による音響効果のためと考えられているが、なかなか風情がある。

周囲はうっそうとした木々に囲まれていて、いつ行っても静かな環境なのだが、それだけに、手を打って跳ね返ってくるその音は凛としたもので心地よい。朝早くここを訪れ、誰もいないのを確認してからこれをやるのが好きで、山口に帰ると必ず訪れる場所でもある。

この公園の周辺にはそのほかにも数多くの史跡があり、例えばすぐ近くの「天花(てんげ)」というところには、その昔雪舟のアトリエがあったとされる場所がある。雪舟は大内氏の招きにより40歳頃に山口に来ており、このときここに「雲谷庵」という小屋を建て、捜索活動に励んだ。

50歳前までここにいたらしく、その後応仁元年(1467)に遣明船に乗り、いったん中国に渡った。帰国後もここに住み、作画活動と弟子の養成に努めたとされるから、よほどこの地が気に入っていたのだろう。永正3年(1506)87歳のとき没したが、それもこの地であったと言われている。

その当時住んでいたとされる雲谷庵がここに再建されているが、これは明治17年に建てられたものである。下にある道路から10mほど上の高台に建てられていて、敷地の南側に立つと、山口市街が一望できる。

おそらく雪舟の時代にはのどかな田園風景が広がっていたと思われ、500年も前のそうした風景を想像しながら思索にふけっていると、時間はあっという間に過ぎていく。

瑠璃光寺、毛利氏墓所、そして雲谷庵と、順番にこうした史跡を訪れたあとは、一の坂川、という川沿いを歩く、というのが、私の散策のお決まりコースである。室町時代に大内氏が一の坂川を京の鴨川に見立てて街割りをしたといわれており、左岸の竪小路エリアは現在も当時の町並みが多く残る。

川沿いには桜並木が植えられ、市内でも一番と言われるほどの桜の名所である。この川の護岸は、「ホタル護岸」と呼ばれるもので、昭和46年8月の台風19号で、旧一の坂川が流失したのち、翌年から改修作業が開始され、2年越しで完工した。

護岸には全国初といわれる工夫がされており、多孔質な形状が導入されて水生植物が生えやすくなっている。また、地元の小学校の生徒や先生、有志などが、ホタルの餌となるカワニナなどを増やす努力をしており、幼虫の放流なども行っている。こうした努力の結果、毎年6月には多くのホタルが孵化し、その乱舞を楽しむことができる。

このほか、市の中心部にある山口県庁のすぐ西側にある鴻ノ峰という山も見どころである。子供のころからよく上った山で、大人になった最近でも好んで訪れる場所だ。

標高338mの山頂には、大内氏が築城した山城の跡があり、近年設えられた展望台からは市内が一望できる。東側の山麓にある山口大神宮の神域にもなっていて、ここから山頂に行く登山道がある。

また、西側にも登山起点があって、その昔は糸米村と呼ばれ、維新の立役者、木戸孝允の旧家があった場所である。孝允はその死に臨んで「糸米村にある木戸家の旧宅・山林を糸米村へ寄付し、村民の学資に充当してほしい」という遺言を残した。遺言は実行され、村民はこれを公債証書へ転換し、その利子をもって村民子弟の学費に充てた。

このとき、孝允の遺徳を讃えるため、明治19年(1886年)に「木戸公恩徳碑」を建てるとともに、孝允を祭神としてこの地に「木戸神社」を創建した。

うっそうとした森の中にあるような神社で、境内も広いことから、子供が遊ぶには恰好の場所である。神社の脇から鴻ノ峰に登る登山道が整備されており、40分ほども登れば頂上まで行ける。麓に近い登山道脇には自然豊かな小川もあって、子供のころからここでもよく遊んだものだ。

山口は、こうした街歩き、山歩きができるという点が魅力だが、さらに、意外にも海が近い。30分もクルマを走らせれば、秋穂という浜辺の町に行くことができる。観光客もおらず、また地元の人もほとんどいない静かなここの海辺でのんびりするのが好きだったし、ときには魚釣りもやった。

というわけで、後年、大学に入ってからや卒業後に就職してからも山口には頻繁に帰り、結婚して息子が生まれてからもこの山口行脚は続いた。今や第二の心のふるさとといってよい。




中学時代の私は、歴史小説を読み、こうした山口のような古い街の史跡を歩き回ることが好きな歴女ならぬ歴男だった。それ以外にはほかに趣味らしいものはたいしてなく、ひたすらに勉強していたような気がする。先生たちからも一目置かれ、3年生になってからは英語の先生に頼まれ、クラスメートのために宿題のプリントまで作っていた。

そのころ私は学級委員長に任命されていた。その責務の一端ということで任されたわけだが、同級生に宿題を出されるというのは、クラスメートからすれば大きなお世話だったろう。さぞかし嫌な奴だと思われていたかもしれないが、先生サイドからは重宝がられた。

当然、悪い気はしなかった。小学校時代には落ちこぼれになりかけていた自分がここまで持ち上げられるようになったのは、自分を励まし切磋琢磨してきたからだ、という自負があった。

しかしそうした豊かな時間は瞬く間に去っていった。3年生の夏ぐらいからはそろそろ次のステップへの秒読みが始まる。受験という一大イベントだ。成績の良かった私は、市内でも難関校といわれていた高校への進学を視野に入れ始めた。

この当時、広島市内の公立校で最もレベルが高いといわれていたものが五つあり、それは、舟入、観音、基町、皆実、国泰寺で、合わせて「公立五校」と呼ばれていた。ほかに、私立では修道高校などが高いレベルにあったが、私学だけに当然高い学費がかかる。公務員の親を持つ身としては高望みはできない。

もっとも、修道などという新興宗教のような名前の学校に行きたくはなかったし、同じく宗教染みた名であるとはいえ、国泰寺高校のほうには興味があった。

戦前は広島一中とよばれた名門校で明治に開校されて以来、広島の経済界に多数の人材を輩出してきた。東大や京大に多数の入学者を出すほどレベルは高くはないが、広島では一流の学校と目されている。

当然、競争倍率は高く、同じ公立五校の中でも一番入るのが難しいといわれていた。ちなみにこの五校の入試は共通で、受験前にどの高校に入りたいかの希望が聞かれ、試験の成績に応じてその希望校に入れるか否かが決まる、というシステムになっていた。

私は当然のことながら、第一希望に国泰寺を選び、二番目に皆実、三番目に基町を選んだ。あとの二つを選んだ理由は、自宅から比較的近い、という理由だ。

それまでの成績からみても合格間違いなし、と先生からは言われたが、それでも滑り止めのため、ほかに城北高校という私立高を受験した。その当時できたばかりの高校でレベルはたいして高くなかったが、現在はかなりの入学難関校になっている、と聞く。

中学三年間を通じて通っていた英数教室でも受験対策の勉強が始まった。塾の先生もまた私の合格は間違いないよ、と言ってくれたが、何事も実際の蓋を開けてみなければわからない。手綱を引き締めて最後の追い込みも頑張った。

2月。受験の日を迎えた。試験は確か最寄りの皆実高校であったように記憶している。試験問題は難しいとは思わなかったが、確実に合格したかどうかは自信がなかった。

その2~3週間後だったと思う。第一志望の国泰寺高校から一通の手紙が届いた。どきどきしながら封を切り、中にある紙を開いた。

そしてそこに「合格」の文字をみたとき、やった!と思わず声を上げた。

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本稿の内容はすべて事実に基づいたノン・フィクションです。ただし、登場する人物名は仮名とさせていただいています。また地名や組織名についても、一部は実在しない名称、または実在する別称に改変してあります。個々のプライバシーへの配慮からであり、また個人情報の保護のためでもあります。ご了承ください。

夢の途中 4 国泰寺

入学が決まった国泰寺高校は、かなりの街中にある。というか、その場所には隣接して南には市役所、西側には中央郵便局がある、という立地で、ほぼ広島の町の中心部に位置する。

北へ歩いて5分ほども行けば広島一の繁華街八丁堀があり、さらにその隣には流川(ながれかわ)という全国的にも有名な夜の街がある。直線距離で1キロほど離れた場所は、8月6日に投下された原爆が炸裂した中心であり、現在そこは世界の人々が集まる巡礼地、平和記念公園だ。

北には広島城、その周りには県庁のほかありとあらゆる官公庁も軒を並べていて、いわば広島文化の中心に位置する学校なのであった。広島の東端の僻地で育った我が身としては何か急に華やかな舞台に飛び出た感じがした。

ちなみに、国泰寺高校は通称、鯉城高といい、鯉城とは広島城のことを指す。語り継がれる伝統的応援歌の「鯉城の夕べ」は、この城の下で育つ若者にエールを贈る内容だ。

鯉城と呼ばれる所以は諸説があり、その昔鯉の産地だったから、といったことや、城のお堀に鯉がたくさん泳いでいたから、といったことが言われている。しかし、城の一帯はその昔、海に近く、そこが己斐浦(こいのうら)と呼ばれていたから、とする説が有力のようだ。それにちなんでか、市の西部には「己斐」という町と駅がある。

それにしてもなぜ、学校の名前は己斐ではなく、国泰寺なのか。その近くには同名の寺はない。なぜなのだろう、という疑問は入学してすぐのころのガイダンスで説明された。

戦前、そういう名前の大きな寺があって、この地域一帯がその名をとってそう呼ばれていたそうだ。原爆投下によってそうした歴史的な建物はすべて破壊されたから、せめて新しく建てる学校施設にそうした名残を残そう、ということだったらしい。

それにしても、もっと別のネーミングでもよかったのではないか、と思ったりもする。国泰寺の名を拝する前は「広島一中」の名で親しまれ、この地を代表する学舎だったようだから、せめて広島一高とか、己斐のような地域を代表するような名称を与えてほしかった。そう思うのは私だけだろうか。

住んでいる東雲からこの国泰寺高校までは約4キロあった。バスで行けば15分ほどで着く距離であり、自転車通学も許されていたから30分もあれば登校できる。しかし小学校、中学校と学校へは歩いて通っていた私は、ここでも歩いて行くことを決め、毎朝やや早めに家を出ることにした。徒歩だと、約45分ほどもかかる。

歩いて登校することについては、実はこだわりがあった。ただ単に小中学校からの名残り、あるいは惰性といった面もあったが、そのころ読んだ新田次郎の小説に影響されてのことだ。

「孤高の人」という小説で、主人公は加藤文太郎という。昭和の初め頃に現れ、不世出といわれた登山家で、「地下足袋の文太郎」と呼ばれていた。なんでも登山靴を買うこともできないほど貧乏だったので地下足袋で山登りをしていたが、その姿が他の登山者の間で評判となり、そのうちにその呼び名が定着したらしい。

歩くのが早い人で、平坦地もさることながら、山登りのスピードは驚異的だったといわれている。新田さんの小説のストーリーは、当時の登山界に彗星のごとく現れて消えていったこの偉人の生涯を追ったものだった。

実在する人物で、現在の三菱重工の技師である。当時は三菱内燃機製作所と言っていた。仕事の合間に行う登山活動がやがて本業のようになり、最後は北アルプスで遭難死するのだが、登山にあたっては徒党を組まず、必ず「単独行」で臨んだ。

すべての責任は自分ひとりで背負い人に迷惑はけっしてかけない、あらゆることを自分の中だけで完結させる、という人だった。その生きざまは強烈であり、そのキャラクターに魅せられた。何よりも「孤高」ということばが気に入り、その後の私の人生のある時期までにおいては、ひとつの座右の銘のようになっていった。

もとより一人で過ごすほうが好きであり、歩くことを好んだ自分をこのヒーローに重ね合わせ、かくありたい、と願ったものである。

かくして、この高校時代にも4キロ先の学校までせっせと歩く毎日が始まった。雨の日も風の日にもである。小中高とこれほどまでに歩いて学校に通った学生は、広島中探してもほかにいなかったのではなかろうか。

私が入学したころの国泰寺高校には、入ってすぐのところに二棟の木造校舎とこれに付随する木造家屋があった。校門から入ってすぐにあるこれらの家屋群は古き時代の風情を残すものであり、この学校の歴史の長さを思わせた。

といっても、広島の町は原子爆弾によって破壊されており、戦前の建物はほとんど残っていない。この校舎も戦後すぐの創建だろうから築30年ほどのはずだった。細部をみると確かにそれほど古くない。ただ、デザイン自体が明治大正を想わせるものであり、造りもがっしりとしていた。

入学してすぐの1年生の時は、このレトロな校舎で学んだ。もっとも、学内にはもうひとつ近年建てられた鉄筋コンクリートの校舎もあり、高学年になるとこちらに移った。新参者にはお古を、経験を積んだら新しい校舎を与えてやる、という見え透いた学校の指導方針のように思えた。

一年生の担任は江上先生といった。やせ形でひょろりとしており、つかみどころのない感じの先生だったが、穏やかな性格でこの学校のルールについては、ひととおりの行き届いた説明をしてくれた。右も左もわからない新入生にとってはありがたい配役だったかもしれない。

クラスには50人ほどいた。そのうち、何人かは卒業まで一緒に過ごすことになったが、その中の二人とは今でも親しい付き合いがある。一人は藤井君といい、こちらはなんと、小中学と同じで、この高校までもが一緒だった。

幼馴染といっていいが、それほど仲が良かった、というほどでもない。それが現在までもつきあいが続いているというのは、腐れ縁というかんじがしないでもない。もしかしたら前世でも何かご縁のあった人物なのかもしれない。

出来のいい子で、その後、難関の大阪大学工学部に入学、卒業後は同じく大阪に本社があり、世界的な企業として知られる大手の電機メーカーに入った。同級生の中ではエリート中のエリートといえる。

もう一人は高橋君といった。中学時代は柔道をやっていたそうだ。この学校では体操部に入り、器械体操をやりはじめたが、そのずんぐりとした体形からは体操をやっている、というのは想像できない。後年、大学に入ったあとは、弓道をやるようになったというから、体型とそれに合ったスポーツというのは必ずしも合致しないものらしい。

こちらは、妙にウマがあい、同じクラスだったのは一年のときだけだったが、三年間を通じよく行動を共にした。親友と言ってよく、その後の大学時代も、就職したあとも、何かと機会があれば会い、近況を報告しあっていた。広島に帰ることがあれば、時間を作って飲みにも行ったりもした。

ちなみに、彼は大学では鉱山科に入り、卒業後は通産官僚となった。現在も経済産業省となった同じ省庁で、あちこちの鉱山の管理をする仕事をしているようだ。

普通、高校の同級生というのは、卒業後は縁が遠くなる。ところがこのふたりは、その後の人生においても節目節目に出会うという、不思議な人たちである。

もっとも、現在の私の妻も同その一人であるのだが、そのことはいずれこのあと書いていこう。ちなみに、家内との人生二度目の結婚式のときにはこの友人二人を、高校時代の代表ということで招待している。

ほかの高校時代の友達にも後年かなりの時間を経て再会し、また新たな親交を深めていくことになるのだが、紙面と時間のこともあるので、とりあえずは自分のことをさらに書いていこう。




高校に入学したそのころ、私はもうすでに次の目標を見失っていた。難関校に入学したことで安心してしまった、というところはあるだろう。さらにその3年後に迎えることになる大学受験についてはまるで視野になかった。

ただ、それ以前の問題として、将来いったい何をやりたいか、何になりたいか、といったことについてもほとんど何も考えていなかった。高校を卒業したあとのビジョンについてはまるで白紙に近い状態だ。

ただ、頭の片隅になんとなく、ひっかかっていたことがある。小学校の卒業文集に、自分は何になりたいか、を書くコーナーがあり、そこには「エンジニア」と書いていた。その当時エンジニア、などという言葉はまだまだ新しい響きがあり、それをあえて使っていた、というあたり、大人びている。

しかし、その意味を果たしてはっきりわかっていたのかどうか。父親が電気技師であったことから、漠然とそういう仕事をする人たちだろう、というくらいの知識しかなかった。自分も手先が器用だし、大人になったら父と同じような仕事をやるのもいいな、程度に思っていた。

それを思い出し、将来、エンジニアとやらになるももいいな、と考え始めた。ただエンジニアといってもその幅は広い。いったい何の分野の技術者なのかについては、あいかわらず明確なイメージは持てないままにいた。

配電工などの職人から博士級の研究者まで数多くの種類のエンジニアは存在する。その中から、自分がなりたいものを選ぶというのは、高校に入ったばかりの小僧には少々難題だ。

とはいえ難しく考える必要もない。なりゆきに任せる、ということもできたはずだが、私はことあるごとに何か目標を作らないと走れないタイプだ。目の前に人参をぶらさげた馬よろしく、何かご褒美、何か目的がないと、次の行動に移れないのである。

そこで、自分はいったい何が好きか、と自問してみた。すると、あえていえば子供のころからなぜか海が好きだったということを思い出した。

幼少時代を過ごした堀越や青崎が海に近かったこともあり、いつも潮の香を感じつつ育った。また小学校のころはいつも夏休みになると山口を訪れ、そこにある海で遊んだ。子供のころから海がいつもそばにあり、傷つきやすい幼ない心を癒してくれた。

が、海が好きだということは、そうした育った環境のせいばかりではなく、そもそもは何か生まれつきの性質とも関係があるようにも思える。

のちに二度目の結婚をした後、相方の知り合いの紹介で、いわゆる霊能者と言われる人に自身を霊視してもらったことがある。彼女の母親はいわゆるスピリチュアルの分野に傾倒していた人で、知り合いにはそうした霊能者がたくさんいた。

娘の彼女も霊視してみてもらっており、私と結婚してからは私のこともみてもらいたくなったようだ。あるとき連絡し、二人してその人に会いに行った。

その霊視の結果、私の背後にはでっぷりと太った船問屋の主人がいるという。そしてその人こそが守護霊の代表格だということだった。さらに私自身も前世では海関係の商売をやっていたらしく、船の積み荷の前で算盤をはじいていたその当時の姿も見えるという。

この世に生まれ変わる前の人生で何か海の関係の仕事をしていた、という記憶はまるでないのだが、そういわれてみればそんな気もする。思い当たる節はいくつかあった。

そのひとつとして、私はほとんど船酔いというものをしたことがない。普通、船に強い、と自称する人であっても、小舟であればあるほど揺れはひどくなり、ときに気分が悪くなることがある。しかし、私の場合それをむしろ快感のように感じる。

子供のころ、山口に帰るたびに母方の従弟とあちこち遊びに行ったが、遊覧船などに乗る機会があるとき、決まって船酔いするのはこの従弟で、私はケロッとしていた。

後年、大学や仕事でいろいろな船にのったものだが、ほとんど船酔いをした、という記憶がない。留学していたころ、研究所の調査船で時化気味の海に出ることがあったが、同僚のインド人はゲーゲーやっていたにも関わらず私は平気だった。

さらに私は車酔いをしない。バスなどで長距離を移動すると気分が悪くなるという人も多いようだが、これまでの人生でただ一度ですら陸上の乗り物で酔ったことはない。

船や車に酔わないというのは自慢ですらあり、「揺れ」というものに対する耐性のようなものがあるようだ。これは明らかに今生で経験的に得られた能力ではない。

それに加えて、海に出るとやけに高揚とした気分になる。普段の生活のほとんどは陸上で過ごしているわけだが、時々妙に海のあるところに行きたくなるし、船にも乗りたくなる。

船の上で過ごすことを職業にしているわけではないので、その機会はそれほど多くはないが、たまにそうしたチャンスがあると、うれしくてうれしくてしょうがない。

こうしたことは、前世で何等かの海の仕事をしていたという傍証になるかもしれない。何か船に乗る職業についていた、あるいは何等かの形で海とか関わっていた、ということは確かなことのように思えてくる。

そのくせ水泳は苦手で、水の中に入る、というのはどうも子供のころから嫌いだった。まったくの金槌ではないが、どうも水の中に浸かっているというのが好きではないのだ。小学校時代に体育で水泳の時間があると、たいてい仮病を使って休んでいた、ということは先にも書いた。

さらに想像をふくらませてみると、もしかしたら、船乗りだった最後、乗っていた船が難破したか何かで、死んだのかもしれない。前世でそうした苦しかったことなどの記憶は現在までも持ち越されるという。今生でも何等かの障害を引き起こしたり、そうでなくても苦手とすることとして現れたりするらしい。

と、こうしたことを書いても、輪廻転生を信じていない人にはピンとこないだろう。論議があることは承知しているから、それが自分の進路を決めるためにまで影響していた、と断定するのはやめておこう。ただ、将来の進路を考えるにあたり、漠然としたイメージとして「海」を思い浮かべたのは、そうした過去生の経験と無関係ではないのかもしれない。

一方で、このころ海という分野で何かをやっていきたい、という気持ちが高まっていったのは、時代変化とも関係がある。

高校に入学してしばらしくてからのこのころ、ちょうど日本は高度成長期をそろそろ終え、次の開拓期に入ろうとしていた。その中で「海洋開発」という言葉がさかんに使われるようになっていく。

海洋開発といっても、いろいろあり、一般的には海底に眠る石炭石油などの化石燃料を開発することを指す。しかし、それ以外にも波や潮流を利用した発電、魚介類の増養殖、海洋水そのものの利用などがある。利用方法としては塩の抽出だけでなく、その他のミネラルや鉱物などの取り出しもあり、数多くの利用の可能性が取り沙汰されていた。

加えて深海の開発、という分野があり、水深が1000mをも超えるような海底には数々の未発掘の豊富な資源ある可能性が示唆されている。現在、深海底のシェールガスの開発などが話題になっているが、私の高校時代にも既にマンガン団塊や熱水鉱床、ガス田といった言葉が日々のニュースにも取り上げられるようになっていた。

アメリカはそうした分野のパイオニアで、アポロ計画における月面探査の成功のあと、海という新たな分野への取り組みに熱心であった。そうした情報がさかんに日本にも入って来るようになっていた。

日本は周囲を海に囲まれており、そこにある大陸棚の開発は大きな国益にもなる、ということで毎年、政府が積み上げる予算の中で、科学技術分野のその部分にもかなりのウェイトが置かれるようになっていた。

しかしこのとき私はまだ16~7歳だ。そんな国家的なプロジェクトに関われるとは思ってもいなかったし、何の能力があるわけでもない。ただ単に海に関わる仕事がしたい、と感覚的に思っていただけである。



もっとも、海を意識し、より具体的な進路─進学先を探り始めたのは、高校生活も2年を終えようとするころのことである。高校に入ってすぐのころはまだ遊びたい気分も強く、そこである部活動をやることにした。

写真である。

もともと興味があった。幼かったころ、「日光写真」というキャラメルのおまけに熱中したことは前にも書いた。それ以後、小学生時代には子供向け雑誌の付録についている「幻灯機」などにも興味を示した。

原理は簡単だ。いろいろな映像が刷り込んであるセロファン製の「ネガ」に後ろから豆電球で光を当てる。そのままだと大きく映らないので、フィルムの前にはプラスチック製のレンズが取付られるようになっていて、そのレンズで拡大された映像を壁に映して楽しむ。

ふすまなどの白い壁に映写するのだが、連続した映像を見るためにセロファンのネガは帯状になっていた。違う映像が何枚も印刷されており、帯を引っ張れば次々と映像が変わる、という仕組みだ。

日光写真をもう少し複雑にしただけのものだが、そのわくわく感は数段違った。小さな感光紙に白黒の映像が出てくるだけの玩具とは違い、より大きな画像が楽しめ、しかもカラーときた。その映像を見るために夜になるのが楽しみにしていたが、そのうち昼間でも押入れの中なら使えることを悟り、さらに熱中していった。

ちょうどこのころ、高度成長期にあった日本はそんなおもちゃではなく、本格的なカメラの開発に取り組むようになっていた。そうした中、のちに世界に冠たる有名カメラメーカーや電子機器メーカーになる会社が次々と生み出されていく。

オリンパスもその一つである。もともとは内視鏡などの医療器具を作っていた会社だったが、そうしたトレンドに乗ろうということで、カメラ開発にも力を注ぐようになっていた。

この時代、フィルムカメラの主流は、ブローニー判と呼ばれる大判フィルムカメラの時代から、35ミリ判と呼ばれる現在まで引き継がれる小型サイズのフィルムカメラへと移り、その全盛時代を迎えようとしていた。

そうした小型のフィルムカメラが普及した理由は、フィルムの製造コストが安くなったことと、小さなサイズでも高精度の映像が撮影できるようになったことである。

35ミリカメラで撮影した映像は、障子半分ほどの大きさの印画紙に印刷しても十分に鑑賞できるほど解像度が高い。またコンパクトサイズであることから、それまで大きいものではバケツほどのサイズであったカメラの大きさを弁当箱程度のサイズにまで小さくすることに貢献した。これは200年近くある写真の歴史を塗り替えるほどの画期的な技術であった。

一方、一般家庭で見る写真はそれほど大きくなくてもいい。せいぜい手札程度の大きさで十分であり、35ミリ版フィルムほどの解像度はむしろ過剰すぎる。

そうしたことから生まれたのが、ハーフサイズのカメラである。35ミリのフィルム一枚に、その半分の大きさの映像が2枚撮影できるというもので、24枚撮りのフィルムなら48枚、36枚撮りなら72枚も撮影できる。

カメラ自体がまだ比較的高価だったこの時代、このアイデアは庶民の多くに受け入れられ、ハーフサイズカメラは爆発的に普及した。

そのひとつが、「ペン」の名前で親しまれたオリンパスのカメラである。私が小学生の高学年になったころ、我が家でも父親が早速この「オリンパスペン」を購入した。

このころ、父の役職は主任クラスになっており、給料もそこそこよかったようだ。近くの雑貨屋で借金をしていた堀越時代に比べれば、裕福とはいえないまでもそうした贅沢品を購入できるほどになっていた。

ところが、このカメラ、所有者は父親なので自由には使わせてもらえない。ただ、購入当時は父が独占していたが、そのうち家族全員のもの、ということで、それぞれが必要なときに使う、ということになった。

しかし、それでも自分の好きなものを撮影することはできない。べつに共有カメラでも写真は撮影できなくはない。しかし、自分だけのマシンで世界を創造したい、というそこだけは妙なへ理屈を自分で作り、家是を捻じ曲げて、贅沢にもマイカメラが欲しい、と願った。

このころ、小学校高学年だった私の小遣いは月千円程度であり、それで買えるわけがない。そこで、息子にはいつも甘い父にねだったところ、思いがけなくOKが出た。

こうして生まれて初めて買ってもらったカメラはコニカ製だったと思う。プラスチックでできたボディーに、カートリッジ式のフィルムが付いている。カートリッジには12枚、24枚、36枚撮りの3種があったが、価格設定が高かったため、私の少ない小遣いでは12枚撮りぐらいしか買えなかった。

このため、一枚一枚を大切に撮ったが、もともとはフィルムカートリッジを売りたい商品であったため、カメラ本体の機能は大したことはない。レンズも単焦点で品質もよくなく、映りもたいしたことはなかった。それでも初めて自分だけのカメラを持ったうれしさで、肌身離さず毎日そのカメラを持ち歩いたものである。

最初は庭の花とかが多かったが、そのうち風景写真も撮るようになっていった。家族で出かけるときなどはフィルム代を親が出してくれるので、家族写真をサービスで撮ることも多かった。無論、余ったフィルムで自分の好きなものを撮影するのである。

このカメラにはキュービック状のストロボが付いていたため、雨の日や夜にも実験的に撮影を行うようになり、徐々に自分の写真のレパートリーを広げていった。




その後、家族用と位置付けられていたオリンパスペンも飽きたのか誰も使わなくなり、中学生のころ、ついには私が自由に使うカメラとなった。映りのイマイチなコニカ製カメラは次第に日の目をみなくなり、いつのまにか引き出しにしまいっぱなしになっていった。

もっとも中学時代の私は趣味が勉強のようなものだったので、あまり写真には熱中しなかった。ところが、高校に入学し、多少心に余裕ができたこともあり、もともと興味のあった写真に本格的に取り組むようになっていく。

中学校ではあまり本腰を入れなかったものの元美術部の私は、作画をする、ということに対しては依然強い興味を持っていた。絵を描くということに関しては挫折したが、写真という新たな分野ならもしかしたらモノになるかもしれない、などという恐れ多い野望を抱いた。

そこでまずはどんなカメラがあるのかを写真雑誌で調べはじめた。次にはそうしたカメラのスペックばかりを特集した番外編を購入して、徹底的に研究した。難しい用語はそうした雑誌についている用語集で勉強し、わからないことは本屋で立ち読みして理解に努める、という念の入れようだ。

もともと学習意欲がたかまると集中的にそれを勉強する、という性癖を持っていた私は、たちまちのうちに「カメラ博士」となっていく。

ところが手元にあるのは、ハーフサイズのカメラにすぎない。本格的なフルサイズの35ミリカメラ、しかもレンズ交換が可能な一眼レフカメラが欲しい。

この時代、日本のカメラメーカーが製造するカメラは世界的にみても最高水準のものになりつつあり、外貨を稼ぐ重要な輸出品となっていた。

それまでのカメラは、ライツに代表されるドイツメーカーのものが主流であったが、一般には被写体をとらえるファインダーと、実際の映像を取り込む光学系が二つある、いわゆる二眼レフやレンジファインダーといわれるカメラだった。

被写体を目で見て確認する光学系と、被写体からの光を取り込み、フィルムに落とす光学系のふたつがあるため、二眼などと呼ばれる。この方式のカメラの欠点はファインダーで見ているものと実際に撮影されたもの間に細かな差異が出てくるという点である。

「二つの眼」で被写体の方向を見ているわけであるから、眼で見てシャッターを押すまでには非常に短い時間であってもタイムラグが生じる。また、「眼と眼」の間にも僅かな距離差があるわけであり、ファインダー画像と撮影画像の間には小さなズレが生じることになる。

つまりはリアルタイムで撮影した画像が撮れないという点が最大の欠点であったが、これを解決したのが日本のメーカーが開発した一眼レフである。

今でこそ普通の技術になってしまったが、この当時は画期的なものであった。原理としては、ひとつのレンズで取り込んだ映像を、カメラ内部にある「鏡」で反射させてファインダーに取り込む。このことで実際の被写体を目で確認しながらシャッターを押すことが可能になる。

シャッターを押すと同時に、その鏡が跳ね上がり、その後ろにあるフィルムに映像が焼き付けられる、というものなのだが、書けば簡単に聞こえる。しかし、その鏡を瞬時に跳ね上げるためには高度な技術が必要であり、また鏡で反射させてファインダーで確認するためには「ペンタプリズム」という特殊なレンズが必要になる。

このレンズを世界に先駆けて開発し、それまでの主流だった二眼レフから一眼レフの時代を作るきっかけを作ったのが、旭光学工業という会社である。

のちにペンタックスと名前を変え、現在はコピー機などを製造するリコーグループに取り込まれているが、この当時は一眼レフといえばペンタックスといわれるほどに、その名をとどろかせていた。

ペンタックスのペンタは、言うまでもなくペンタプリズムからとったものである。五角形のことをペンタゴンといい、その形のプリズムだからペンタプリズムである。

のちにその特殊プリズムや跳ね上げ式ミラーの特許期間が切れ、国内メーカー各社がこぞってこの技術を使って一眼レフカメラを作るようになっていった。その中には戦前から軍需用の光学機器を製造していた日本光学工業(現ニコン)があり、ほかにはキャノン、ミノルタ、オリンパスといった現在までも続くほぼすべてのカメラメーカーが含まれている。

ちなみに、今はもうなくなってしまったヤシカやトプコン(東京光学)といったメーカーも一眼レフを作っていた。

とまあ、こうしたうんちくがスラスラ書けるほどに高校一年生のころにはもうすでに、どっぷりとカメラお宅になっていた私だが、いかんせん、現物がない。

そこで、それとなく父親にモーションをかけると、いつものように息子に甘い父が、それなら志望校に受かったお祝いに、と言ってくれた。もっともいますぐに、とういわけではなく、クリスマスあたり、と言われた。年末にはボーナスが出るのでそれを当て込んでの約束であり、とはいえ、それを聞いて飛び上がるほどうれしかったのを覚えている。

一方では、カメラを買ってやるという父の確約を取ったものの、ではどのカメラを買うかについては、かなり悩んだ。どこのメーカーのものも優れた製品ばかりだったが、最終的にはミノルタSRT101とアサヒペンタックスSPFという二機種に絞り込んだ。

両者の大きな違いはフィルムに露出を与えるための測光方式だったが、そのころ主流になりつつあった中央部重点測光方式のペンタックスを最終的には選んだ。これはファインダーの中央部に位置する被写体を重視し、ここの明るさを計測することに重きを置く、という方式だ。片やミノルタのほうは全フィルム面を平均的に測光するというものだった。

前者はとくに動きの速いものには有効であり、後者はどちらかといえば風景や人などの動きの少ないものの露出に向いているといわれていた。一眼カメラをまだ一度も使ったことがない人間がそんな聞きかじりの知識だけで機種をえらぶなど笑止だったが、スペックを見比べ、ああでもないこうでもないと悩んでいる時間は実に幸せだった。

こうして念願の一眼レフを手に入れるときがきた。白黒のデザインに赤字でPENTAXと書かれた化粧箱を手にしたときは天にも昇るような気持ちになった。

前述のとおり、一眼レフカメラの最大の特徴はファイダーとレンズという二つの光学系を一つにまとめることが可能になったという点であるが、これによりもう一つ大きな利点が生まれた。

それはレンズ交換が容易にできる、という点である。それまでの二眼レフなどでも交換レンズ式のものはあったが、レンズだけでなく、ファインダーもまたレンズに合わせて交換するか、何等かの方法でファインダー倍率を変える必要がある。

一眼レフの場合は、ファインダーで覗いている画像はレンズを通して直接入って来ているものであるから、レンズを交換すれば自動的にファインダーで見ている映像も変わる。使っているレンズを通してありのままの被写体を見ることが可能なのである。

レンズは撮影したい被写体に応じて自由に焦点距離が違うものを使うことができる。遠くのものを写したければ望遠レンズを、狭い場所で広い範囲を撮影したければ広角レンズを用意すればいい。つまり、交換レンズがあれば、飛躍的に被写体の対象が広がるのであり、一方、交換レンズがなければその最大の特徴を生かせないということになる。

私が買ってもらったペンタックスには「標準レンズ」というものが付いていたが、これは被写体が普通の大きさ、等倍に見えるだけのものである。対象とする被写体の幅を広げ、より作品のレパートリーを増やしたいならば、さらに視野を広げる広角レンズや、逆に部分を拡大して見ることのできる望遠レンズがあったほうがいいに決まっている。

現在ならば広角から望遠までの広い範囲をカバーするズーム式の交換レンズがかなり安価に入手できるが、この当時はまだ高価で、単体レンズを買うほうが安上がりであった。このため少ない小遣いを貯めて、最初に比較的安価な望遠レンズを買ったが、光学系が複雑になるため高価な広角レンズのほうまで手が出ず、こちらは少し父に援助してもらって買った。

こうしてカメラ本体に加え、望遠レンズ、広角レンズの三種の神器を手に入れた私は、意気揚々と写真部に入部した。二年生の初め頃だったと記憶している。

その部室というのが変わった場所にあった。一年生のときに入っていた木造の古い校舎の階段裏にあり、入り口は極端に狭くしかもドアの高さも背丈ほどしかない。階段下の空きスペースを使って無理やり作った部屋であるためと思われるが、そのために室内も狭く、4~5人も入るといっぱいになる。

それに加えて一人がやっと入れるほどの暗室がしつらえられており、それがまた部室を狭くしている要因だった。

北向きで薄暗く、窓も小さい。そうした環境の悪さもあったためか、部員数は少なく、同じ二年生が私を含めて3人、先輩が2~3人ほどしかおらず、一年生はいなかった。

私以外の二年生の名は今井君と小林君といい、のちに三年生が卒業した後は今井が部長に、小林が副部長になった。おまえが部長をやれ、という話も出たが断った。私自身はリーダーになりたいという気分はなく、むしろ自由に一人で好きな写真を撮りたい、というふうに思っていたのでその人事には何の不満もなかった。

一応、顧問の先生がいたと思うが、名前や顔も全く覚えていない。ほとんど部室に顔を出したことはなく、部員のやりたいようにやればいい、という考えだったようだ。

写真部に入って以降というもの、私の写真熱は日増しに高まっていった。そのころ撮影に最もよく使ったのは、フジフィルム製のネオパンSSSという感度400のフィルムで、駅前の写真材料専門店でまとめて買うと、かなり安くなる。

ほかにコダックのTRY-Xという同感度のフィルムがあり、はっきりとした輪郭の出るフィルムだったことから気に入り、その後常用フィルムとなった。

フィルムや印画紙などの購入費の一部は学校側から出るし、また現像液や定着液といったものの値段はそれほど高くはなかった。従って、少ない小遣いを圧迫するといったこともない。

かくして今考えると「愚作」といえるような作品の量産化が始まった。部長だった今井君がありとあらゆる分野にチャレンジしていたのに対し、私はどちらかといえば風景写真専門で、いかに景色をきれいに撮るか、に重きを置いていた。

この点、絵と同じであり、その作風には性格が出る。他の人が動きのあるものや人物を対象として選ぶ一方で、私はというと一人で対象とじっくり向き合える形を好んだのはそうした性格としかいいようがない。

もっとも風景写真だけでなく、学校の行事についてもよく撮影した。バレーボール大会や体育祭といったスポーツ系の行事だけでなく、文化祭や修学旅行といった行事でも必ずといっていいほどカメラをぶら下げていた。また日常的にカメラを教室に持ち込むことが許されていたことから、ことあるごとにクラスメートを撮影するようになった。

その中には今の奥様も含まれている。のちに結婚をすることになるわけだが、ただ、このころはまるでその人には関心はなかった。従って彼女だけを選んで写真を撮るといったことは全くなく、この当時の彼女が写っている写真は数枚残っているにすぎない。

興味はなかったが、ただ面白い子だな、という印象だけは持っていた。この高校では「班」を編成し、そのグループ毎に課外活動をする、ということを奨励していた。それが何の意味があるのかは考えたこともなかったが、今思うに、おそらくその後社会に出たあとのコミュニケーション能力を養わせるという意図があったのだろう。

それはともかく、いわば「合法的」に異性と話ができる、というわけでこの班活動はわりと人気があった。何をやるかについては特に決められているわけではなく、グループディスカッションをしたり、共有日誌を書く、といったことをみんなやっていた。

班は二年間ずっと同じというわけではなく、一学期が終わる毎に総入れ替えする、というきまりだった。あるときこの未来の奥様と同じ班になることがあり、それをきっかけに会話をする機会が増えた。

といっても、何を話すでもなく、共通の話題といえば、お互い本が好きだったので、今何を読んでいるか、どんな小説がおもしろいか、といった話だったと思う。先方もそうだったようだが、こちらも異性としての魅力はとくに感ぜず、ただ背の高い子だなと思った程度だ。話の内容もまるで覚えていないことから、相手に合わせるほどのものだっただろう。

二年生の最後の学期前のことだったと記憶しているが、一度だけ彼女が年賀状をくれたことがある。そこには、次の学期になって班が変わっても、お互い無視などはしないようにしましょう、といった優等生的なことが書いてあった。

わざわざ年賀状にそんなことを書いてこなくても、と思ったが、年賀状をくれたこと自体がうれしく、またその親しげな文面に好感を持った。ただ、それ以上何も期待しなかったし、ましてや恋愛感情などはこれっぽっちも持たなかった。彼女と浅からぬ縁ができるようになるのは、その後高校を卒業してからのことになる。

二年生になってからの担任は岸本先生といった。名前を千紘といい、これは「ちひろ」と読むらしかったが、われわれは陰でセンコー、と呼び捨てにしていた。口の悪い友達は、それを「先公」と同じ意味で使っている風でもあった。

ちょっと変わった先生で、授業の合間に自分が学生のころにいかにバンカラだったか、という話をよくしてくれた。

そのひとつに、喫茶店に入って、誰が一番大きなものを持ち出してくるか、という遊びをやった、というものがある。友達とみんなで入り、お茶を飲んで店を出るとき、たいていはスプーンだのカップだの小さなものを持って出るのに対し、彼はトイレに入って便器を取り外しマントにくるんで持ち出してきた、という。

嘘かまことかわからないような話だったが、繰り返し聞かされるその話は皆の笑いを誘った。別のときには、映画館に入るときの話もあった。学生でお金がなかった彼は、入り口の発券売り場のおばさんの前に立ち、いきなり、うしろ!と叫ぶ。

驚いたおばさんが、後ろを振り向いている間に、さっと中に駆け込み、タダで映画をみることができた、という。しかし、同じことを何回も繰り返しているうちに、そのおばさんも呆れ、もう「うしろ」はいいからさっさと入りなさい、とタダで映画を見せてくれるようになったそうだ。

そういった過去の自分の蛮勇を、いかにも楽しそうに話す。同じ話を何度も何度も聞かされたが、聞かされるほうもあーまた始まったよ、と思いつつも、それを話しているときのセンコーの楽しそうな様子に釣り込まれて、ついつい笑ってしまうのであった。

専門は国語と古文で、とくに漢字について詳しく、国文学の知識があるらしかった。たくさんいる先生の中でもリーダー格で、たしか進学相談の責任者だった。そのためか、9つある学級の中で私たちのクラスはいの一番の1組を拝領した。のちに3年1組センコーズと仲間内で呼ぶようになる面々との出会いがそこにあった。



恋の話を少ししよう。

中学校の頃に好きになった彼女が同じ高校に入学してきた、と前に書いたが、その彼女とは、3年間を通じてついに同じクラスになることはなかった。入学後もその恋心を持ち続けたが、シャイな性格はあいかわらずで告白などできようはずもなく、瞬く間に時間が過ぎた。

時折校内で見かけるときにはドギマギしたが、何か行動に出るわけでもなく思いを募らせるだけだった。このあたり、後年結構大胆な行動をとるようになったのとは大違いで、初心(うぶ)そのものだ。

この点、ほかの同級生は大人びていた。ジャズやロックといった洋楽を聞き、うわさによれば酒もたばこも経験済みだという。さすがにSEXの話は聞かなかったが、あるいは私のような遅れている奴にそうした話は伝えられなかっただけかもしれない。

このころの私といえば、無論、酒やたばこなど口にしたこともない。洋楽などにはまるで興味がなく、強いて言えばフォークソングが好きで、ラジオから流れるそれを好んで聞いていた。楽器メーカーのヤマハが後押しするコッキーポップという番組があり、お気に入りだった。

この点、「先進派」の面々からみれば、素人臭いものばかりを聞いている、うざったいおぼっちゃんだったろう。やや小太りの体形で髪は七三分け。ニキビ面で、しかもいつもカメラをぶら下げているという風体は、まさに今で言うオタクである。後年、わが奥様から聞いた話からも、このころの私は男性としての魅力はゼロに等しかった。

ひと様に恋をして受け入れられるということ自体が不可能であることは明らかだったが、それを自覚するでもなく、ただひたすらに自分だけで作り上げた恋愛モードのラビリンスの中にいた。そこから抜け出せなくなり、もがき苦しむ姿は我ながらなさけなかった。

高校2年の秋のこと、受験の準備をそろそろ始めなければいけない段階になり、ようやくこの恋を終わらせよう、という気になった。もやもやとした気分では次のステップに向かえない、と自分に言い聞かせようとした。かといって直接話すことなどできようはずもなく、手紙を書いた。

中学時代からの同窓生だから住所は知っている。震える思いで彼女への気持ちを書き、ポストへ投函したが、そこには自分の気持ちに答えてくれるなら、来る彼女の誕生日に平和公園に来てほしい、と書いてあった。

彼女の誕生日は、10月15日だった。手紙を投函したその日からこの日までの長い長い時間が過ぎていき、ついにはその日を迎えた。

指定した時間は放課後の3時か4時ころだったと思う。早めにその場所に行き、5分待ち、10分待つ頃からもうあきらめムードが漂っていた。結局1時間ほど待ったが、彼女が現れることはついになかった。

奇しくもその日は、広島東洋カープが、球団創設以来の初優勝を飾った日だった。公園を後にして、八丁堀の繁華街を通ったときには、町中がお祭り騒ぎだったが、傷心の私にはそんな光景も目に入らず、ひたすらに肩を落として自宅へと帰っていった。

この時期、長い間の悩みに結論が出た、ということはむしろよかったのかもしれない。ようやく次の難関である大学受験へ目が行くようになり、このころから真剣に進路について考えるようになっていった。

しかし時すでに遅しである。

この学校はいわゆる進学校であった。このため、大学受験に備えるためにはできるだけ環境を変えないほうがいい、ということで2年次のクラスがそのまま3年次に持ち越されたほどだ。

2年に上がってすぐのころから、来たる受験に備えよ的な指導などもあったが、秋といえばそろそろ追い込みに入る時期であり、本格的受験勉強を始めるには遅すぎる。

しかも写真や恋にうつつを抜かしていたこともあり、このころの私の成績はといえばまるでぱっとしないものだった。理科系を志望していたくせに、国語や社会などの文科系のほうの成績がむしろよく、数学や物理化学の成績は低迷していた。

慌てて中学時代に通っていた塾の英語の先生、山川先生に電話をかけて数学の塾を紹介してもらい、通うにようになったが、前からこの塾に通っていた他校の学生のレベルに追いつくことができず、これも焼け石に水だった。

やがて3年生になると、受験までの時間は早回しとなり、あれよあれよという間に卒業が近くなっていった。無論この間、体育祭や文化祭、修学旅行といった大イベントはあり、あいかわらずカメラをぶらさげてそれらの活動に参加してはいたが、こと勉強に関してはどうしても集中できなかった。

親に頼み込んでお金を出しもらい、通信教育も受け始めたが、意思の弱さが露呈し、埋めて返すべき答案用紙は空白のままうず高く積み上げられていった。

このころ、妙に熱っぽく、体がだるい、ということが続いた。あいかわらず学校までは歩いていく、という生活を続けていたが学校から帰ったあとも疲れがとれず、勉強もせずに寝込んでしまう、ということがままあった。

のちに分かったことだが、このころ私はどうも軽い結核にかかっていたらしい。のちに20代になって会社の健康診断を受けた際に撮影されたレントゲン写真には、肺にその名残らしい影が映っていると言われた。

就職後は体調もよく、その前の大学時代にも特段体に問題はなかった。調子が悪かったのはその高校時代の一時期だけであり、今思えばそのころ最悪の条件で受験シーズンを迎えていた、ということになる。

失恋をし体調もぱっとしない、という最悪のコンディションの中で受験への準備が始まった。それよりも、まずはともかく、進学する先を決めなければならない。

そこで、私が選んだ受験校には二つのタイプがあった。ひとつはもともとの目標である、海洋関係の学科がある大学で、もうひとつはカメラに関係し、精密機械工学の科目がある大学だった。

この時期この段階で一つの分野を選ぶことができず、分散してしまったという点、すでにもうかなりの混乱が見て取れる。しかも受験予定の学校は数校ではなく、6つも選んでいた。

海洋系が3つ、精密機械工学が3つであり、いずれもそのころの私の成績ではかろうじて受かるかもしれない、と目される大学だった。ただ、このうちのひとつ、東京の国立大学だけは受験倍率が30倍を超えており、受験する前から自分でもほぼ絶望的と分かっていた。

受かるはずもない大学を選ぶこと自体、計画性のなさがもう明らかなのであるが、もしかしたら…という一縷の望みに託したい気持ちがどこかあった。

受験予定の大学のうち、地方の国立大学以外は東京でまとめて受験することが可能だったので、これらの大学の受験日が近づくと、東京に宿を取って試験に望むことになった。

ただ、ホテルに泊まると高くつくため、父の東京のつてに頼み込んで下宿屋を見つけてもらい、短期間だけ滞在させてもらうことにした。

山手線のどこかの駅近くだったと思うが、薄暗くて陰気な下宿で、そこにはもう長い間受験のために下宿している同年代の若者、数人がいた。結局それら先住民とはほとんど接触をもたず、ほぼ引きこもり状態で受験を迎えた。

当然、この間も勉強もしなければならなかっただろうが、なぜかやる気にならない。今更じたばたしても同じさ、と開き直り、広島から持ってきていた小説を読みふける始末だ。

そんないい加減な受験体制で志望校に受かるわけはない。

結局、国立校であった2大学は予想通り落ち、かすかに希望をつないでいた精密機械工学系の3つもダメだった。




唯一合格通知が来たのが、一番行く気のなかった南海大学だった。

選んだ6校の中では一番レベルが低く、「万が一」ほかの志望校に全部落ちたら、というときのための「滑り止め」だった。しかしその万分の一の確率のくじが当たるとは思っていなかった。

このとき、失敗したな、と思った。もしこの大学を選んでいなければ、今年の受験は全滅であり、だとすれば、一年間浪人させてもらえるかもしれない、という期待があったからである。

ところが受かってしまったために、両親にしてみれば、そこへ行かないなら何のために受験したのよ、ということになる。

とはいえ、私立校だったため二人にとっては大きな負担にもなることから、まさか進学はないよな、と高をくくっていた。ところが、のちに聞いた話では、両親は私に黙ってくだんのセンコー先生にアドバイスをもらいに行っていた。

高校二年の失恋後、私は次第に気難しくなり、自分自身の世界に閉じこもるようになっていた。両親ともほとんど話さず、この受験にあたってもそれらの志望校を選んだ詳しい理由も伝えていなかった。

そのほとんどに落ち、困った両親は、最後の砦となったその大学に息子を通わせるかどうかの判断が得たかったようだ。気難しくなっている本人には確認もせず、担当教員に相談に行ったのはそのためだ。もっともその前に、私からも浪人させてくれ、と頼んではいた。しかし、あまりいい顔はされず、結論は先送りになっていた。

このとき、両親からの相談を受けたセンコーの答えは浪人はさせず、進学させなさい、だったようだ。だが、どういう論理でそう決めたのかについては、何も伝えられず、学校から帰った私に対して父はただ、進学しろ、と迫った。

一方、浪人をしてよりランクの高い志望校への入学を模索していた私は反発した。無論、センコー先生のアドバイスがあったことなどはまるで知らされていない。が、なぜか強気に進学を宣言する両親をみて、これはあきらめるしかないな、と次第に思うようになっていった。

このころの私は疲れ切っていた。失恋問題に加えて受験の失敗、そしてまだこのころ尾をひいていた体の不調…

結局はもうどうとでもなれ、という気分で、いやいやながら進学することに決めた。

その進学先は広島でもなく東京でもない。これまで一度も行ったことのない、縁もゆかりもない土地、静岡であった。

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本稿の内容はすべて事実に基づいたノン・フィクションです。ただし、登場する人物名は仮名とさせていただいています。また地名や組織名についても、一部は実在しない名称、または実在する別称に改変してあります。個々のプライバシーへの配慮からであり、また個人情報の保護のためでもあります。ご了承ください。

夢の途中 5 焼津

進学先を決めたあと、卒業までの日にちはほとんどなかった。

3月になると、クラスメートがそれぞれどこの大学に合格したか、といった情報がぽつぽつと流れてくる。あいつはどこに受かった、あそこを落ちた、といった話が授業の合間にささやかれていたが、私は自分がどこに進学するかはあまり人に話さなかった。

「三流校」という言葉がいつも頭に浮かんでいた。自分の進学先のことを話す友達たちの間をすり抜け、足早に家に帰る日が続いた。

正直なところ、この時期、何をやっていたのかはほとんど覚えていない。好きな写真を撮る元気もなく、うつろな時間だけが流れていた。起きている時間よりも寝ている時間のほうが長かった。病んだ体を、知らず知らず治そうとしていたのかもしれない。

やがて時は確実に流れ、卒業の時を迎えた。この卒業式も何があったのか全く覚えていない。体育館で卒業生全員が並んでいたことぐらいは覚えている。しかし両親が来ていたかどうか、自分がどんなふうに卒業証書を受け取ったかといったことはまるで記憶にない。ほとんど心身喪失状態だったといっていい。

その日もなんとなくクラスメートとも別れを告げ、3年間通い続けた学校を後にした。去り際に卒業出来てよかったとか、楽しい、あるいは苦しい3年間だったとかといった感慨はまるでなく、ただ単に、あぁ終わったんだ、という脱力感しかなかった。

卒業式が終わるとあわただしく広島を出る準備が始まった。母がいろいろ生活用品を揃えてくれるのをぼんやり見つめ、あれこれ説明してくれるのを半ば上の空で聞いていた。洗濯の仕方、料理の方法、といったことだったと思うが、どうでもよかった。

このころ、実際に入学する前、下宿先を見に行こう、と突然父が言い出した。なんでも満州時代の父の友人が大学の近くの町に住んでいるらしい。そこに泊めてもらって旧交を温めると同時に、お前の行く学校周辺の様子を見てこよう、息抜きにもなるし、というふうなことを言う。

父にすれば息子の進学先を無理やり決めた、といううしろめたさがあったのだろう。私はといえば、進学先についてはすっかりあきらめモードとなっており、まったく父に反応しなくなっていたから、そのことを気に病んでいたたに違いない。

私自身は別にそんな下見をしなくても、ぶっつけ本番でいいや、と思っていたから、少々ありがた迷惑に思った。が、父にすれば、最近落ち込み気味の息子を少しでも前向きにさせよう、という気持ちがあったのだろう。そう思い当たったら断れなくなった。

このとき新幹線で行ったのだと思うがそれすらも記憶にない。たぶん静岡駅で降りたのだろう、東海道線に乗り換えて父の友人宅からの最寄駅に着いたころには夕方になっていた。

ところがこのところ心身不調だった私は、この日はさらに体調を崩していた。二人でタクシーに乗り、そのお宅に辿り着いたころには、高熱を発し、下痢気味のままそのお宅にお世話になる羽目になった。親切な一家で、年ごろの娘さんがいたと思う。お母さんと一緒に薬の手配や食事の面倒をみてくれ、ありがたく思ったことなどを覚えている。

大学のあった焼津は、その家から目と鼻の先であった。手厚い看護で体力を取り戻した私は翌朝、父とともにバスを乗り継いで現地に赴き、大学とその周辺を視察した。

第一印象は、とんでもないところへ来てしまったな、というものだった。下宿のある周辺は田んぼと畑ばかりで、そのまわりに民家がぽつぽつ。店らしいものは何もなく、そのかわりにあちこちあるのは町工場と製材所の類だ。

あとで知ったのは、そこは石脇という集落で、昔、そこに北条早雲が起居していた城があったらしい。ここから、バスに乗れば10分ほどで焼津の中心部に出ることができる。

この集落から北は、なだらかな丘になっており、「高草山」という領域になる。石脇はその山のふもとにあたり、山のほうへ向かって緑の茶畑が広がる。大学はその茶畑のさらに上のほうにあり、バスで曲がりくねった坂道を登って行った終点にあるらしい。

父と二人、その連絡バスに乗ると、最初は茶畑の中を走っていたが、そのうち、うっそうと茂った雑木に左右を囲まれた道を分け入って進んでゆく。こんなに山奥か、とだんだんと不安になっていったが、そうこうするうちに目の目が開けてふたたび茶畑が広がり、バスが止まった。

バスを降り、そこから校舎らしい建物のほうへ歩いて行き、振り向いたが、その瞬間驚いた。目の前にはたおやかな斜面を利用した茶畑やミカン畑が広がり、その先には茫洋とした駿河湾が広がっていた。はるかかなたには三保半島らしきものが見える。キラキラと輝く駿河湾は織り上げたばかりの絹のようで、その美しさに思わず息をのんだ。

この大学が高台にあることは知っていたが、まさかこれほどの景色を持っているとは知らなかった。これ以降の2年間、その景色を日々堪能しながらの学生生活が始まることになるのだが、そのときの駿河湾の美しさはその後の生涯でも忘れることのできないものとなった。

ところが、である。キャンパスを後にし、ふもとにある下宿先を見学した時には正直唖然とした。

その下宿は三洋荘といった。40人ばかりが入居できるアパート二棟からなり、大学までは目の前のバス停から毎朝定時に便が出ている。入居者には個室が与えられるが、広さは3畳ほどしかなく、収納スペースはほとんどない。風呂とトイレは共用で、とくに風呂は大浴場といった趣で、大きなバスタブに皆が共同で入る、といったものだった。

食事は朝夕まかないが出るが、昼は自分で用意することになっており、そのための自炊スペースがあった。既に先輩の学生たちが暮らしており、その生活ぶりを垣間見ることができたが、なんというか貧乏くさかった。これまで家族以外の人間と暮らしたことのない私が、はたしてこんな世界に溶け込めるだろうかと一抹の不安を覚えざるを得なかった。

父もそんな私の様子をみて心配になったのだろう。大丈夫か、と声をかけてきたが、即答でなかなか気に入った、と嘘を言った。わざわざ休みを取り、息子のためにとここへ連れてきてくれたことへの感謝の思いからだったが、内心は泣きたい気持ちでいっぱいだった。

その後広島へ帰り半月ほどが経ち、再び広島を離れる日を迎えた。だが今度の旅は短期間ではなく、かなりの長期間になるはずだった。15年超住んだその町は、その日やけにもやっていた。晴れてはいるのだが空気がよどんでいる感じがしたのは、あるいは私の心象風景だったかもしれない。

既に荷物は静岡に送ってしまっていたから手荷物はわずかだった。駅までは母が見送りに来た。平日で父は仕事に行っていたと思う。

新幹線ホームでしばらく待っていると、私が乗る列車が来た。母を見るともうすでに泣き出しそうな顔をしている。私は悲しくなんかないぞとばかりに笑顔でこれまでのことの礼を言おうとしたが、うまく言葉にならない。車両に乗り込み、窓越しに母を見るともう泣いている。

私はもう一度精いっぱいの笑顔で手を振った。やがて発車し、ホームに立ち尽くす母が遠ざかっていく。と、思わず大粒の涙が出て、そのあとしばらく泣いた。平日のその時間、車内はまばらだったから、号泣するその声はおそらく誰にも聞かれなかっただろう。




こうして私の大学生活が始まった。

といっても、町中にある大学のようにはいかない。ちょっとしゃれた服を着て、小ぎれいな靴を履いて出かける、などということはありえない。夏ならほぼ全員がサンダルを履き、上はTシャツで下はGパン、時には半ズボンを履いて通学、というのが標準だった。

もう少し身なりに気を付ければいいのに、といわれそうだが、どうせ通学路は農道である。下宿そのものが畑のど真ん中にあり、そこを出ると一面の茶畑が広がる。その間を縫うようにして農作業用の道が山の上のほうに伸びており、これをせっせと登攀するとキャンパスに行きつく。上りは片道30分ほどだったろうか。下りは逆にその半分程度で済んだ。

親からはバス通学できるほどの十分な金はもらっていたが、節約して別のものに使うことにした。奇しくも小中高で貫いた、歩いて学校へ通うという習慣がここでも続くことになった。

下宿であてがわれた部屋は、一階の真ん中ほどにあり、窓を開けるとそこは生活道路を挟んで一面の畑であり、眺めはさほど悪くはなかった。寮母一家がともに住んでいたが、優しい家族で、食事もおいしく、気配りができる人たちだった。心配した風呂も最初はとまどったが、他の寮生と同じバスタブに入ることにもそのうち慣れた。

友達も次から次へとできた。一番最初に声をかけてきたのは、隣の部屋の住人で菊池君という。岩手の一関出身で、東北なまりがあったが、すぐに打ち解けていろいろお互いの境遇を話すようになった。

自転車とジャズが好き、ということで、自転車のほうはとくに影響は受けなかったが、後者のほうには興味がわいた。言われるままに彼のお気に入りを聞いているうちにいいなと思うようになった。

ほかにも、友人がたくさんできたが、その後長い付き合いとなった者も多い。出身地はというと、東京、千葉などの関東圏がやはり一番多かった。

しかし、北海道や鹿児島、新潟や岐阜といった地方からやってきた連中もおり、日々いろんな方言が飛び交う。私の出身である広島や山口の人間はいないのが残念だったが、逆に同郷者がいれば、小さな閥ができてしまった可能性もあるわけで、それはそれでよかったと思う。

父と最初にここを見たとき、大丈夫かなと心配したものだが、そんなことがあったかな、と思うほどにすぐにこの寮生活には慣れた。というか、毎日が楽しく、いろんな連中と色々な共通の楽しみができ、そのひとつのきっかけが、工藤君という一人の寮生だった。

現在もそうだが、この当時も未成年者の喫煙は禁じられている。ところが彼は、一目をはばかることもなく、おかまいなくタバコを吸っていた。しかも日に一箱は軽く開けてしまうほどのヘビースモーカーだったから、そのうちみんなから「ヤニ」と呼ばれるようになった。

いったいいくつの時から吸っているのか、ついぞ聞いたことはなかったが、北海道のかなり田舎のほうの出身だと教えてくれた。おそらくは育った場所柄、未成年者も喫煙しやすかったのだろう。地方のある地域では、子供のころからタバコに寛容な地域がある、と聞いたことがある。

道人らしくおおらかな性格で、来るものは拒まない、というところがあった。このため、彼の部屋にはなぜか人が集まることが多く、一種の社交場のようになっていた。

学校から帰ると真っ先にみんながそこに集まる。ヤニはそれを嫌がるでもなく、自ら入れたコーヒーを振る舞ったりするものだから、その評判を聞いた連中がまた集まる。一種のサロンのようなもので、学校から帰ってきたらまずみんながその部屋に来るようになった。

普通ならプライバシーの侵害の問題だ、と本人が拒否しそうなものだが、自分の部屋に大勢の連中を抱えていること自体が、この人物にとってはうれしいらしい。有志の巣窟、梁山泊が彼氏の理想のようだった。

ヤニの部屋に出入りするのは、毎日は来ない連中も含めて最初は7~8人程度だったろうか。
そのうち友達が友達を呼び、この寮に住んでいる以外の住人も遊びにくるようになり、多いときには狭い部屋に10数人もの人間がつめかけたこともある。

こうしてこの不思議なサロンに大勢の寮生が集まるようになり、最小はただ単にダベっているだけだったが、誰ともなしに暇だからトランプをやろう、ということになった。

はじめは、誰もがやったことがある、ババ抜きやざぶとん、七並べといったものだったが、やがて、ポーカーや大貧民などの複雑なものになり、これにみんな熱中した。我々のグループ─そのころはもうすでにそうした雰囲気があった、は麻雀などにはまるで興味を示さない面々ばかりで、ある意味同質の人間が集まっていた。

割とおとなしくまじめ。勉強もまあまあできて羽目をはずさない、といった連中で、無論、私もそのカテゴリーに入っていた。梁山泊のように、優れた人物が集まっていたかどうかははなはだ疑問だが、近い性質の人間が集まっていたことは確かであり、類が友を呼ぶ、というとはこのことだ。



一方、学校の授業はというと、つまらなかった。この学校は独特のカリキュラムを持っていて、1~2年生はこの山の上にある焼津校舎で「教養課程」を学ぶ。3年になると浜松に移り、専門課程を学ぶという決まりだった。

教養課程の教科の中には、測量や土木工学の基礎といった専門分野もあったが、基本的には基礎教養をつけさせる、という方針だった。このため、第二外国語や美術、体育などの授業もあり、私は第二外国語でフランス語を選択し、体育ではゴルフや柔道を習った。

フランス語はほとんどお遊びのようなもので、授業を受けた後も全く上達しなかった。体育の時間も同様だったが、初めてやるゴルフは新鮮で面白かった。

意外だったのは柔道で、担当の先生から、君は本格的にやればうまくなるよ、と言われた。南海大学は、オリンピックでメダリストを輩出するほど、柔道教育に熱心な大学である。こうした体育の授業にもかなり名うての先生が就任している。

その先生から、柔道がうまくなる、といわれて悪い気はしなかったが、体育会系のその方面へ行く気はさらさらなかったので、その助言は無視することにした。同じ寮に柔道部に属する友達がいて、入らないかと誘われたが丁重にお断りした。

一方、私がこの学校に来て、本当に学びたかったのは専門分野だ。かねてより海に関わる仕事のエキスパートになりたいと思っていた私は、もっと海洋に関する授業があると思っていた。しかし、焼津校舎ではそうした内容の授業は極端に少なく、しかも内容が薄い。

せっかく大学に学びに来たのに、この程度しか教えないのか、と不満でしかたがなかった。しかも、カリキュラムが極端に手抜きで、週間工程表をみると専門科目の授業はガラ空きだ。

受験して合格したのは土木工学科というコースだったが、ほかには海洋環境学科、養殖学科、資源学科、造船学科などがある。他の学科のカリキュラムの予定表をみると、一年次からもうすでに専門分野の授業がびっしりと組んであるではないか。

我々土木科には授業が全くない日もあるほどで、ほかの学科の生徒がせっせと授業を受けている間、あたかも遊んでいるかのように見られた。実際、他学科の学生からは「遊びの土木」と揶揄される始末だ。

数少ない専門学科の内容も、私からするとかなりレベルが低く、そんなことをここでわざわざ教えなくても、というものもあった。高校の地学程度の内容のものばかりで、大学という最高教育機関で教える内容ではない、と憤りもした。

一方、教養課程の内容も物足りなかった。そもそも第二外国語などは、卒業後に必ずしも必要なものではない。なぜ英語がないのだろう、と思った。また数学は、高校の授業で受けたものよりも程度が低く、同級生が首をかしげながら授業を受けているのを見て、なんでこれがわからないのだろう、といつも思っていた。

もともとは国立大学に入れるレベルにあった、と自負していた私にはすべてが物足りなく、ここに入学したのはやはり失敗だったと思いはじめた。入学を強要した父親の顔が改めて目に浮かんだが、こうした事態を招いたのも決断したのも自分である。父は責められない。ましてや高い学費を払ってくれているのである。

しかしそれにつけても大学の授業はつまらなく、レベルが低すぎる。もっと貪欲に学びたい、と思った。そんなふうな気分になったのは、中学校以来かもしれない。高校時代には勉学だけでなく恋愛にも挫折し、立ち直れないほど落ち込んでいた私の心の中にひさびさにムラムラと闘志がわいてきた。

いっそのこと別の大学に入り直してやろうかとも思ったが、新しくできた友達と過ごす今の寮生活もなかなか楽しい。こちらもなかなか捨てがたいな、と考えたあげく、そこでひそかにある目標を立てることにした。

それは、このままこの生活を続け、いっそのこと首席でこの学校を卒業してやろう、ということだった。

どうせ回りはバカばかりだ、ちょっと勉強すれば首席になんて簡単にとれる、と考えた。思い上がりもなはだしい、いやな奴だな、と自分でも思ったが、実際、それが可能と思えるほどに学科全体のレベルは低く思えた。

しかし、たとえレベルの低い学校でも、もしトップで卒業すれば、それに伴う代償がきっと得られるに違いない。その先のことはまたそのときに考えればいい、と考え直した。

こうして、新たなチャレンジが始まった。あいかわらず授業はつまらなかったが、それならそれでどんな内容でも吸収してやろうと燃え、前にも増して熱心に授業に対峙するようになった。大学の授業も高校と同じようにテストがあるものが多かったが、そうした機会にはできるだけ万全を尽くそうと、徹底的に研究して試験に臨んだ。

そのおかげもあり、大学一年を終わるころには、それまでに取得した単位のほぼすべてがAという成績を得た。

しかし一方では、周囲には自分がそれほどできる、ということも悟られないよう注意した。
私が所属していた学科はほとんどが男子学生で、こうした集団では、出来がいいやつはたいてい孤立する。中・高時代のように男女混交集団ならばそれも目立たないが、男ばかりとなると目の敵にされることも多くなるものだ。

実際、私以外にもできそうな奴はひとりふたりいたが、周りからはできのいいおぼっちゃん、といった目でみられ、孤立気味だった。周囲に溶け込み、周りと仲良くやっていくためには、「同胞」を装うのが一番いい。

そうした人間関係に割と敏感な私は、そうしたことにならないよう、適度にバカを装い、自分の成績はあまりひけらかさないようにした。しかしその一方で、学習が遅れている同級にはできるだけ手を差し伸べるようにした。それだけ余裕があり、自分の勉強時間はさほど必要としなかったためだ。

そのおかげもあり、クラスメートからは一目置かれるようになった。あいつ、バカなことを言っているけれど、なかなかできるみたいだぞ、みたいに思われていたと思う。

やがて、あいつに聞けば親切に教えてくれる、ということでほかの寮からも教えを乞う者が訪れるようになり、それに伴い別の学科からの訪問者も増えた。それまでは同質の人間とばかり遊んでいたが、そうした中から異種の友人がひとり、また一人増え、そのおかげもあってさらに新たな動きが生まれることになるのだが、それについては後述する。

首席で卒業する、という野望は結論から言うと結局達成できなかった。しかし、実際にはほぼそれに近い成績で卒業することができた。それに続く就職活動もその成績のおかげで順調だったが、そうしたことについても後で書こう。




話は変わる。

高校を卒業し、焼津で暮らすようになってから、最初の夏を迎えたころのことである。

大学の夏休みは長い。7月の半ばぐらいから始まって、9月の初頭あたりまで休校だからほぼ丸々二か月ほどもある。

おいおいこんなんでいいのかよ、とも思ったが、これほど自由で長い夏休みを過ごせるのは小学校以来のことである。せっかくだからゆっくり休もうかとも思ったが、何かアルバイトでもやったほうが、遊ぶ金にもできていい。そのころ、昔熱中した写真熱が復活しており、新しいカメラなども手に入れたかった。

焼津にもアルバイト先はたくさんあったが、休みのあいだ、静岡にいればそれだけ食費もかかる。それならいっそのこと広島へ帰れば食費も浮くし、両親も喜ぶだろうと思い、帰郷することにした。

久々に帰った広島の町は、それまでと違って見えた。かつて15年余り住んだ町と焼津の町を比べると、格段に広島のほうが都会だ。だがしかし、同じ学生でも高校生と大学生の視点の違い、とでもいうのだろうか、それまでわからなかった広島の欠点がわかるようになった。

第一に野暮ったい。当然ながら広島弁が飛び交っているわけであるが、この言葉は聞きようによっては下品に聞こえる。しかもその方言に比例して町もどこかバタ臭い感じがする。

八丁堀や流川あたりを歩いていると、街並みはきれいなのだが、ビルの陰などはゴミだらけで掃除が行き届いていない。ステテコを履いたおっちゃんや汚いなりをした子供が普通に歩いているし、気のせいか町ゆく人のセンスも遅れている。

タクシーだけでなく一般車両の運転も荒っぽいし、だいいち車が多すぎる。中国地方最大の町ということで隣県から多数の車が流入してくるためだが、街中を縦横に走る市電や、市内を流れる七つの川にかかる多くの橋がその交通を妨げている、ということもある。

加えて暑い。夏の間、日中の暑さは半端ではないが、それに加えて、夕方になると風がピタッと止まる。日中は街中のほうが海よりも気温が高いから陸から海に向かって吹く風が卓越している。

一方、夕方になって日が落ちると逆に陸上の気温が下がり海風のほうが強くなる。その両方が均衡する時間帯があり、その時間になると広島中の風が止まる。これが「凪」とよばれるものである。この風のない時間帯の広島の暑さは筆舌に尽くし難いものがある。

一般に広島の町は暑い、とよく言われる。もっともこれはこの凪のせいだけではなく、原爆が投下された町、ということでそのイメージが増幅されてきた、ということもあるだろう。実際には夏にもっと暑い町はたくさんあるわけだから、その分損をしているかもしれない。

とはいえ、戦後の復興期を経て広島の町はコンクリートジャングルになっている。加えて他県からの流入者の増加とそれに伴う車両の増加によって明らかにヒートアイランド化している。実際にも暑い町なのである。

その暑い夏の広島に帰ってきた私を無論、両親は歓待してくれた。久々に自宅で食べる母の手料理はどれもおいしく、帰ってきてよかったと思った。しかしその帰郷の目的は両親を喜ばせることだけではなく、アルバイト先を探すことである。

広島でのアルバイト先など一つも思い浮かばなかったが、父に相談すると、役所の取引先に聞いてみてくれる、という。

後日、紹介されたのは小さな測量会社で、仕事内容は測量補助ということだった。「補助」の内容は、測量士にくっついていって、見通しの確保のための藪漕ぎをしたり、スタッフ(測量用の棒)を立てたり、といった内容で、実際にやってみると思ったより重労働だった。

「補助」の意味は、測量機器を操る測量士のその先の見通しをよくする、ということであり、場所によっては川の中に入り込んだり急な山の斜面を登ったりで、山中を藪漕ぎしながら草刈りをしなくてはならない場合もある。それまであまり体を使うことに慣れていなかった私は、一日が終わると何もする気にならないほど疲れ切る、ということも多かった。

ただ、仕事はきつかったが、学ぶべきことも多かった。測量会社のアルバイトということで、現在自分が学校で学んでいることの延長戦にある実態を知ることができたのも大きい。

とはいえ、卒業後にこうした職に就くのかな、と思うと正直ピンとこなかった。測量屋になるために大学に入ったのではない。もっと大きな仕事をしたいためだ。アルバイトをしながら改めてそんなことを自分に言い聞かせた。

その後、大学が休みになると広島に帰省して、「外貨を稼ぐ」ことが習慣化した。大学の春休みは夏の次に長い。2年生の春にやったアルバイトは、芸北のかなり高い山の中にある林道でガードレールと作る、というものだった。作業内容はいわゆるドカチンと変わりなく、相当にきつかったが、体が鍛えられたし、仕事を通じて年配の土方達と仲良くなった。

いわゆるブルーカラーの人々が、いかに身を削って日銭を稼いでいるかを体験し、それまで机の上でしか知らなかった「土木」という世界の幅がいかに広いかを実感した。

その後も測量関連のバイトをいろいろ経験したが、3年生の夏くらいまでには、そうした仕事にも慣れ、いっぱしの測量助手になっていた。頼りにされ、広島を出て他県での仕事に駆り出されることもあり、一番遠くでは長野まで行ったこともある。



そうした中、2年生の夏のことだったと思う。ひさびさにセンコーズの面々で同窓会をやろう、という話になった。私はよく覚えていないのだが、卒業時に同窓会幹事、というのを決めたらしく、男女二人が任命されていた。

その二人のうちの一人が坂田君といい、もう一人がかの中山さんだった。かつて同じ班にいて、年賀状をくれた相手だ。ふたりがなぜそう決めたのかは知らないが、その同窓会は普通の飲み会ではなく、どこかで野外活動をやろう、ということになったらしい。

たぶん他の同級生の意見も聞いて決めたのが、「県民の森」というキャンプ場での同窓会で、これは市北部の山中にある。二人の呼びかけで、男女合わせて十数人が集まった。市内から電車で移動し、現地集合したが、高校卒業後1年以上たっての再会である。それぞれが大学生の板がつき、多少大人びたように見えた。

その中に幹事である中山女史も当然いたが、高校で毎日顔を突き合わせていたころと比べて、格段に変わったな、という印象を受けた。ベージュのトレーナーに黒いパンツといういでたちで、特段おしゃれな恰好をしているわけでもないのだが、妙に垢ぬけたかんじがした。とくに表情が変わって、きれいになったな、と思った。

高校時代には同じ班になっても特段意識もせず、親しくもなりたいとも思わなかったが、昔とは変わった雰囲気の彼女を見て、妙に心がざわめいた。

漫画チックに表現すると、キューピットの放った矢が、ズッキューンと心臓に突き刺さった、という構図だ。なんだこの気持ちは、と最初はとまどったが、それがしばらく忘れていた恋愛感情というものだと気づいたころにはもうすっかり彼女に夢中になっていた。

そのキャンプはたった一泊二日のものだったが、その間、それとなく彼女を観察しているうちに、さらに気持ちが高ぶってくる。しかし無常にも別れの時間は差し迫っていた。

みんなで楽しく過ごしたあとの最後、記念撮影をしようということになった。ただ、普通に撮ったのでは面白くない、ということで、人間ピラミッドを作って、それを撮ろうという話になった。

実は言い出しっぺは私だったのだが、それはもしかしたら間接的に彼女の手に触れられるかもしれない、という下心丸出しの発案だった。

無論、撮影者はこのクラス専属のカメラマンである私、撮影するカメラも自前のものである。三脚にカメラをセットして、セルフタイマーで撮ったが、その時の写真をみると、一枚目はシャッターがなぜか半切れで、私が左側下から二段目、そのすぐ上に大柄な彼女が崩れ落ちそうになりながら、かろうじて私の背中に手をついて乗っている。

ピラミッド崩壊寸前のタイミングで撮ったその写真はしかし、みんな笑顔で、いかにも楽しそうだ。青春してます、的ななかなかいい写真となった。ちなみにこの写真は、これよりはるか後の結婚式で使われることになった。

こうして大学二年の長い夏が終わろうとしていた。しかし、新たに火のついた恋の火種はそう簡単には消えない。

高校時代には引っ込み思案が災いとなり痛い目に遭っていた私は、ここでは大胆な行動に出ることにした。県民の森のキャンプの際、彼女から市内にある本屋でアルバイトをしている、と聞いていたので、そこに顔を出すことにしたのである。

彼女のバイト時間は昼間ではなく、夕方近くからで、これはこの時間帯のほうが時給がよかったためだろう。これを彼女から聞いて知っていた私は、あらかじめこの時間帯を選んでこの「犯行」に及んだ。

その本屋は八丁堀のアーケード街にあり、割と大きな店だった。最初、一階を探したが、ここにいないとわかると、二階にいるのだろうと見当をつけた。そこには学術図書などが置かれているコーナーがあり、ドキドキしながら階段の一段目に足をかけた。急いで上がってすぐのところにレジがあり、そこにいた彼女がこちらを見て、あらっ、と笑いかけた。

自分で仕掛けていたくせに、いきなりの再会なのでなんと答えていいか戸惑った。ぶっつけ本番でやればいいやと思ってはいたが、どう声をかけるかまるで何も考えていなかったのだ。咄嗟に、「ちょっと学校で使う専門書を買いに来てね」と嘘をついてその場を取り繕った。

そして彼女には関心がないようなふりをして、書棚を探り、海洋関係のかなり分厚い本を取り、レジへ持っていった。それを見た彼女が、「まあ、こんな高い本を」と言う。「学校でちょっと使うんだ。高いけれどしょうがないよ」と嘘八百の言い訳をしたあと、「ところで」と切り出した。

そして、「今回の帰省には車で帰ってきてるんで、もしもうすぐバイトが終わるなら、家まで送ろうか」と言った。

ついこの間、キャンプ場で親しく話をしたあとでもあり、流れ的には自然だったと思う。しかし、大胆にも車での初デートをこのとき自分の口から提案できるとは、思ってもみなかった。

これに対して彼女は、ちょっと考える風だったが、「じゃあ7時に終わるから、すぐ近くで待ってて」と答えた。

このとき、彼女の答えを聞いて、思わず、「しめた!」と思った。その時間までには30分ほどあっただろうか。夕方のことであり、また食事も取っていなかったが、腹が減ったのも忘れて、ひたすらに待った。

やがて車を止めた待ち合わせ場所に彼女は小走りでやってきた。緊張していたので彼女がどんな服装をしていたかはよく覚えていないが、ロングスカートをはいていたと思う。前回ハイキングスタイルで現れた彼女とはまた違う魅力があった。

このころの彼女の自宅は、市内北部の安古市というところにあった。彼女を乗せたあと、車を西に走らせ、市内で一番大きな川、太田川にぶつかると右に曲がって北を目指した。

正直なところ道順などはどうでもよく、いかに彼女とうまく会話ができるかに集中していたので、あちこちで道を間違えた。かなり遠回りをしたが、その分彼女と長い時間話ができてありがたかった。

もっとも、彼女は道を間違えたことなどまるで気づくそぶりもない。いつもはバスを使っているので、乗用車での移動はあまり経験したことがないのだろう。

車中、彼女との会話の内容は、お互いの学校のことや家族のことなど、当たり障りのないことばかりだったと思う。40分くらいだったろうか、その楽しい、というか妙に舞い上がった気分の時間はあっという間に過ぎた。

別れ際に手を振る彼女を笑顔で返しながら、自宅のある東部を目指して黙々と取って返したが、心の中は高揚していた。そしてこの恋、ぜったいうまくいく、大丈夫、と自分に言い聞かせた。

やがて夏が終わろうとするころ、私はひとり静岡に帰って行った。彼女を送っていった車は、そのころ中古で買ったもので、白いセダンのジェミニだ。車好きの私はその後何台も乗り継ぐことになるが、いすゞの車はこれが最初で最後だった。そして、彼女との恋もまたそうなる運命にあるはずだった。はるか遠い先の未来のことがなければ…。

恋をしている身には、一分一秒が長く感じるものだ。ましてや秋。静かに深まる季節の中、ふたたび彼女に会いたい、声が聞きたい、という思いも日に日に深くなっていく。しかし物理的な距離に加えて、彼女と新たな接点を持つ手立ては今のころなに一つない。

電話番号は教えてもらっており、同窓会の日時の確認などで以前一度電話をしたことがある。しかし、そのときは不在だった。今回も電話してみようかと思ったが、夏に会って以来、数か月が経っており、いきなりの電話は不自然だ。

どうしよう、こうしよう、と考えているうちに、また再び、高校時代と同じ迷宮に落ち込んでいった。もがいても逃げられない恋の罠というヤツだ。

そして考えあぐねた末に出した結論はやはり、手紙だった。

高校時代にあれほど痛い目にあった方法でしか思いを伝えられないのは、どれほど不器用なのだろう、とこのときも思った。しかし他に打つ手立てもなく、彼女宛ての手紙をせっせっとそれこそ徹夜で書き、翌日投函した。

しかし、一週間経っても二週間経っても返事はこない。その手紙には、またお会いしたいといったあたりさわりのないことを書いていたと思う。そのため返事の書きようがないのか、などと都合のよい解釈をし、さらに待つことにした。

それでも手紙は来ず、一ヵ月ほどが経った。さすがにしびれを切らした私は、第二弾の手紙を書くことにした。最初の手紙とは異なり、好きか嫌いかはっきりしろ、とまではいかないまでもそれに近いことを書いたと思う。

それに対して今度はわりとすんなりと手紙が帰ってきた。たぶん1週間かそこいらだっただろう。おそるおそるそれを開けると、そこには短い文章が書かれており、末尾にあったのは、予想通りの “No!” の文字だった。

それまでの相手の反応をみて、もしかしたら、とは思っていたが、案外とストレートなその返事に、正直なところ、やられた!ぐらいにしか思わなかった。失恋も二度目になるとだんだんとそのダメージが小さくなるものなのかもしれない。

このとき、何をとち狂ったのか、私はさらにそれに返事を書こうとした。しかし相手の強烈な否定の手紙に対して、書いて返す言葉は容易にはみつからない。半日考えた挙句、引き出しに入れてあった年賀状用のゴム版を持ち出し、そこに大きな文字を彫り始めた。

やがて出来上がると、赤い絵の具を筆につけて版に塗り、用意してあった便せんを重ねると馬連で伸ばして一枚の「手紙」を完成させた。この間、わずか30分ほどの作業だったと思う。息を切らすほどのスピードで刷り上げたその手紙を両手で持ち上げると、そこには、赤い「合格」の文字があった。

実はこの手紙、その後再び日の目を見ることになるのだが、このときはそんなことは思いもよらない。

現在の妻の引き出しの奥深くに30年間密かにしまってあったその手紙には、このほかに「人生二勝一敗」と書かれていた。

一敗は彼女に振られたことへの意趣返しのつもり、二勝はこのあとその倍ほどの恋を勝ち取ってみせるぞ、という意気込みを込めたつもりだったが、「合格」の印字と同じく、要は単なる照れ隠しにすぎない。

それをどう彼女が理解したかどうかは知る由もなかったが、出す必要もないこの手紙を出したことこそが、その後何十年も経ったあとに意味を持ってくるのだから人生とは不思議である。

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本稿の内容はすべて事実に基づいたノン・フィクションです。ただし、登場する人物名は仮名とさせていただいています。また地名や組織名についても、一部は実在しない名称、または実在する別称に改変してあります。個々のプライバシーへの配慮からであり、また個人情報の保護のためでもあります。ご了承ください。

夢の途中 6 浜松

こうしたことを書いていると、大学時代のことで書くことというのはそれこそ山ほどあることに改めて気づく。その後の人生を考えても、これほど密度が濃かった時間はない。多くのことを経験し、いろんなことを吸収した。

今考えても、現在の自分を形成する骨格は、ほとんどこのころにかたち創られたといってもいい。

その延長上にある大学卒業後のこともそろそろ書いていきたい気分もある。しかし、自伝であるこの稿においては、もう少しどうしても書いておかなければならないことがいくつかある。

焼津時代の後半、そろそろ二年生になって数か月が経とうとしていた。このころまでには下宿生活にも慣れ、家族と離れて暮らしているといった悲哀はまったく感じなくなっていた。多くの友達にも恵まれて毎日が楽しく、大学のカリキュラムにも余裕があったため、ストレスなく過ごせていた。

学校まで約30分の登山活動もまた、体を鍛えるにも効果的で、大学受験の前後、精神的にも肉体的にも疲弊していたことが嘘たったかのように健康を取り戻していた。おそらく中学校時代以来だろう、穏やかな気持ちで毎日を送っていた。

「ヤニの部屋」ではさらに入場者が増え、下宿の内外からいろいろなタイプの人間が集まるようになっていた。出身地はもとより、性格も好みもそれぞれ違っていたが、共通しているのはみんなエネルギーを持て余している、という点だった。

その余った力を勉強に向ければよさそうなものだが、学校をさぼって焼津の町をぶらつく者、アルバイトに没頭する者、パチンコなどのギャンブルに手を出す奴もいた。良し悪しは別として何か新しいことにみんな飢えていたことは確かだ。それほどこの片田舎の学生生活は退屈だった。

私もそのひとりだった。勉強はそれほど必死にならなくても、悠々と人の前に出ることができる。高校時代に熱中した写真活動も復活し、アルバイトで稼いだ金で新しいカメラを買ったりしたが、当時ほどの情熱は戻ってこず、時折撮影に出る程度だった。

同じ寮で、栃木出身の伊藤君という友達がいた。同じ学科であることから学校で一緒にいることが多かったが、寮へ帰ってからのプライべートの時間も共有できる友人だった。彼もまたカメラが趣味だということが仲良くなったきっかけだが、その彼からはほかのことでも影響を受けた。

ジャズフュージョンが好きで、その関連でオーディオ機器にも詳しい。その彼に触発されて、あまり高くない程度のオーディオを私も買ったりした。FMラジオをエアチェックしたテープをたくさん持っていたので、借りて聞いているうちに私も虜になり、自分でもエアチェックをするようになった。

アースウィンド&ファイヤーやシャカタク、チック・コリアやカシオペアといった、この時代を一世風靡したフュージョンの名曲の多くは現在までも聞き続けている。

しかし、カメラにせよ音楽にせよ、所詮は個人趣味だ。一日中没頭できるほど時間を潰せるわけではなく、第一、ひとりの世界に閉じこもるのは不健康だ。私を含め「ヤニの部屋」に集まる面々のあり余ったエネルギーを発散させるため、また自分のためにも何か新しいことを始められないか、と考え始めていた。

あるとき、ヤニの部屋の住人のうち、とりわけそうした新しいことを好みそうな者数人が集まって私と雑談をしていた。そのとき誰が言ったのか、あるいは私が言ったのか忘れたが、「射撃って難しいんだろうか」という話題になった。

なぜ射撃なのか、ほかにも面白そうなことはあったかもしれないが、その話題にみんなが飛びつき、それで新しいサークルを作るのも面白いかも、と口々に言い出した。確かに学内にはいろいろな部活があるが、射撃部はない。それにしてもいかにも危なそうな飛び道具を使ったクラブ活動がはたして実現するものなのかどうか。

何の情報もないため、その場では何の結論もでなかったが、とりあえず俺が調べてみるよと自分が請け合い、その後焼津市内の書店や市立図書館などで情報を集め始めた。

すると、いろいろなことがわかってきた。まず、射撃にもいろいろあるが、オリンピック競技に採用されているようなポピュラーなものは、大きくわけて散弾を使うクレー射撃と精密射撃を行うライフル射撃の二つだ。

クレー射撃は散弾を広範囲に飛ばすために強い火力が必要で、火薬が不可欠だ。一方、ライフル射撃には火薬を使うジャンルと、火薬を使わないふたつの分野がある。

火薬を使うライフルは国内では所有が厳しく制限されているが、火薬を使わないタイプはエアライフルという。すなわち空気銃であり、それほど規制も厳しくない。筆記試験を受けて受かれば、申請して銃を持つことも夢ではない。

このころ、ヤニの部屋に入り浸っていた外部からの訪問者の一人に、里田君という人物がいた。市内にある水産会社の社長の息子で、市内に一人でアパートを借り、そこから車で学校まで通学している。いわゆるボンボンだ。

父の会社を継ぐために必要な水産の知識を得ることが目的で入学し、ここでは養殖学科に所属していた。同じくヤニ部屋には養殖学科に所属する人間が何人か出入りしており、彼らがここに来る呼び水になったようだ。

おっとりした性格でいつもニコニコしていたが、意外と行動派で、この射撃部創設の話を聞くと、眼を輝かせて自分も仲間に入れろという。父が社長だけあって顔が広いらしく、射撃部を作るためのアドバイスをしてくれる人間を探してみる、と言い出した。

ヤニ部屋の面々の中でもこの話をしているのはごく数人だ。まだ部を作ろうといった具体的なプランは何も出ていない段階だったが、その申し出によって話はとんとん拍子に進み始めた。

孤独癖があるくせに、人を集めて意見をまとめる、ということは妙に得意だった私は、ここで中心的な役割を担うようになっていく。

最初のメンバーはこの里田含めて4~5人だったが、寮内外に声をかけるとたちまち10人以上に膨れ上がった。部活動として認められる人数は8人ほどだったから、既に人数的には十分である。

ただ、大学側にその設立を認めてもらうためには予算計画や、設立趣意書、規約や練習計画といった多くの書類を作成しなければならない。顧問の先生やコーチといった指導者も誰かに乞わねばならず、部活動を開始するための手続きは結構面倒なものであった。

そうした書類関係の作成、手続きは結局ほとんどすべてを私がやり、大学との交渉、指導者の要請など渉外的な事柄は里田がやった。部活動の方針を決めるため、頻繁にグループディスカッションを開いたが、その中である時、ところで部長は誰にするか、という提議が出た。

一同が一斉に私のほうを向いた。

が、このとき私はそれを是としなかった。理由はいくつかあったが、ひとつは中学時代の経験から、リーダーというのは傍が考える以上のプレッシャーがかかる役割だということを実感していたからだ。高校時代にも写真部で責任ある立場にされかかったことがあるが断ったことは前にも書いた。

生来、リーダーというよりもサブリーダーのほうが性に合っていると思っており、あるいは補佐役として指導者をサポートする側のほうが向いていると考えていた。このため、このときもリーダーよりも、サブリーダーの立場を選んだ。

これはこのあと、私の人生におけるポリシーのようになっていった。人の上に立つのを嫌い、いつも目立たないようにふるまうのが常となった。陰で人を操るフィクサーのような存在ともいえ、悪ぶるところのある私にはぴったりだ。

サブリーダーを選んだのには、別の理由もあった。リーダーになれば、四六時中人に指示を出さなければならず、いつも取り巻きに囲まれ、人と繋がっていなければならない。リーダーは孤独だ、ということがよく言われるが、それは心理的な面を指しているのであって、物理的に孤独はありえない。当然、一人が好きな私には向かない。

サポート役なら、組織員に直接命令を下す必要はない。ある程度のコミュニケーションがとれればいい。人との付き合いはなんとなればリーダーに押し付ければ済むわけで、私のように自己完結を好み、単独行動が好きな人間にはサブリーダーのほうが向いている。

もっともリーダーほどではないにせよ調整能力は必要だ。チーム全員の動向をある程度把握できる能力がなければならず、孤独でいつも押し黙っているようでは務まらない。チームのムードメーカー的な役割が求められる。

その点、私は場の雰囲気というのを読むのが得意で、全体の話をそれとなく自分が望む方向に持っていける、という特技を持っていた。これは、子供のころから培われてきた「オヤジ殺し」の才能の進化形ともいえる。

一方では優柔不断だから決断力はなく、リーダーには向いていない。このため、その役割は里田にやらせることにし、私は副部長、ということで皆を納得させ、そのとおり学校に申告することになった。




こうして、数か月後、わが射撃部は正式に学校側に認められた。年間の活動費用をもらえるようになり、またトレーニングをするにあたり、学内の設備はどんなものを使っても良い、との許可を得た。ただ、まだ部室は与えられず、着替えなどは空いている教室を使うよう指示された。

この射撃部創設にあたっては、実は警察公安からの調査が入っていた、ということを後から知った。広島に住まう両親の元にある日、警察がやってきたといい、その目的はリーダー格である私が怪しい人物であるかどうかを確認したい、ということだったようだ。

これには面食らったが、考えてもみれば、部として成立すれば、そのメンバー十数人が一同に人を殺傷する能力がある道具を手にすることになる。もしその集団が狂気的なものであった場合、社会的な脅威になるわけであり、警察にすれば、そうなる前にその組織化を阻止しなければならない。

無論、我々は銃を手にした過激組織になろうとしていたわけではない。当然、調査の結果、何も危ない奴らではない、ということになったのだろう、結局のところ、何のお咎めもなかった。

おそらく学校へも警察から問い合わせがあったのだろうと思うが、その際、私が作成した創設趣意書などの書類も提出されたに違いない。こうした書類の作成には細心の注意を払ったつもりであったが、その結果として部の創設が認められたのだと思うと、うれしかった。

それにしても、何も知らない両親はさぞかし驚いただろう。わが息子はいったい何をやらかしたのか、と思ったに違いない。私自身まさか、広島の実家にまで警察が行くとは考えていなかったので、何も告げていなかったのだが、のちに二人から警察による突然の訪問のことを聞いて、少し心が痛んだ。

こうした小さなトラブルはあったものの、無事に射撃部の活動が大学からも公安からも認められた格好だが、まだまだ問題は山積みだった。その最大の問題は、射撃部といっても我々誰しもが射撃などやったことはなく、また銃そのものも手にしたことない、ということであった。

部として活動していくためには、どうしてもその専門家による指導が必要だった。そうした指導者としては学内の人間、できれば教職にある人が望ましかったが、こんな片田舎の大学のキャンパスにそんな都合のいい人がいるわけがない。

しかし学外からコーチを招いている他の部活もあり、とくに教職にある人なら問題ないようだったので、これについては、かねてより里田が接触していた静岡市内の高専の先生を招聘することにし、大学に申し出て了承を得た。

ところが、この先生はただものではなかった。自らも射撃の選手をしており、エア射撃の一つのジャンル、エアピストルの名手だった。国体にも参加したことがある本物だ。一見、やわな体のように見えるが、運動神経は抜群で体がものすごくしなやかだった。

のちにこの先生に教わったところによると、射撃には筋肉は禁物なのだそうで、あまり隆々となると撃てなくなるという。むしろ柔軟性が必要だということで、しなやかな体を作るためにはやはりトレーニングは欠かせない。

その後、我々が画策した射撃部は学校側に正式意に認められ、かくしてこの顧問兼、トレーナーの先生を筆頭に部活動が始まった。基本的には毎日トレーニングを行うが、2日に一度ほどのペースで先生にも来てもらい、実践的な指導をしてもらうことになった。

日々のトレーニングの内容としてはランニングを基本とし、これに柔軟運動が加わる。腹筋背筋を鍛えるための前屈背屈運動に加え、腕立て伏せや片足座屈などを組み合わせたもので、複雑なものはない。ただ、単純であるということは実はハードである、ということを後で思い知った。

とくにきつかったのはランニングで、もともと山中にあるこの大学では、ほとんど平場はない。一周400mほどの小さなグラウンドを出ればあとは山道ばかりで、片道1キロもこれを登れば脈拍は最高レベルに達する。

さらにそのあとに柔軟運動が待っている。一番ヘビーなのが、片足座屈であり、これは片足だけで立ち、どこにも手をつかず、その軸足一本だけを曲げ伸ばして上体を持ち上げまた下げる、というものだ。実際にやってみていただきたい。かなり足を鍛えないとできない。

コーチの先生はこれを楽々とやっていたが、最初からできる者は私を含めて数人しかいなかった。ちなみにのちに私はこれを一人で練習し、最終的には両片足ともに20回は楽にできるようになった。また、ランニングについても、一番先に順応し、長い坂道を一番で駆け上がるのはいつも私だった。

それまでは体育系のサークルに入ったことは一度もなく、自分の体力がどのくらいあるのか考えてもみなかった。ところが、意外に順応できていることに驚いた。やればできるじゃん、ということで、それまでにも増してトレーニングに励むようになった。

まがりなりにもサブリーダーである。自分自身が率先してをやらねば示しがつかない、ということもある。そういう気分が、トレーニングにはっぱをかけた、ということもあっただろう。

が、考えてみれば小中高と学校に歩いて通ったように、もともと自分の体をいじめ、鍛えることには前向きだった。このときもこの苦行に、次第に快感を覚えるようになっていった。

通学のようにただ単に歩くということではなく、射撃というひとつのスポーツを通じて、体を鍛えるということに目覚めたわけで、学業以外のことで意欲的に自分の能力を伸ばすようになっていったことは新鮮だった。

それまでの人生ではありえなかったことであり、自分にはまた別の能力があり、それが開花し始めたのだ、と考えるとそれは驚きでもあった。人間とはいったいどれほど潜在的な能力を持っているのだろう。

ところが、私以外の面々もそうだったかといえば、必ずしもそうとはいえない。入部した部員は、私も含めてそれまでは日頃帰宅部を決め込んでいた元オタク少年ばかりである。他の運動部と比較しても遜色ないほどの練習量に根をあげる奴が次々とでてくるようになり、日々の練習を休むやつも目立ってきた。

それは、小中学校時代、理由をつけては水泳の時間をさぼっていたかつての自分をみているようでもあった。ただ、脱落者は出なかった。というか、出さなかった。特段罰則などは設けなかったためであり、休みたい奴は休め、という方針だった。

だがしかし、射撃に限らずなんでもそうだが、訓練を積まなければうまくなるはずはない。練習をさぼった者は、その後実際に銃を手にしても一向に上達しなかった。

トレーニングではこれ以外にも、銃を構えたときの姿勢制御の練習、といったこともやった。いわゆる、シャドートレーニングで、このときはまだ銃は手にしていなかったので、銃と同じ長さ、重さの棒などを使う。

棒を目の前で構え、上半身をやや後ろに倒しながら腰は前のほうに突き出す、いわゆる「立射」の構えをこのとき初めて学んだ。この構えでは、ほぼSの字に体を折り曲げ、そのまま長時間立ち続けなければならない。なるほど体が柔軟でなければだめだ、というあたりまえのことが、この練習でわかった。

実際の銃を手にし、実弾を打てるようになったのは、トレーニングを始めるようになってから三ヵ月ほども経ったあとだった。既に正式に部活動が学校から認められていたが、まだ実際の射撃はしておらず、もうすぐ2年生の夏休みを迎えようとしていた。

射撃の場合、その道具である銃は他のスポーツのようにレンタルというわけにはいかない。その所持は許可制であるためであり、自前で買って用意し、警察署でそのナンバーなどを登録する必要がある。その費用について、私自身は春休みの間いつものように測量のアルバイトをしており、銃を買うために十分な額を用意できていた。

しかし、さらに購入の前には公安が主催する「猟銃等講習会」という講習を受けなければならない。講習の終わりには、考査があり、合格の場合修了証が交付され、これをもって初めて銃を持つことが許される。

試験そのものはさほど難しくない。銃刀法に関する法律文を熟読して中身を理解し、30問ほどの答案用紙に〇☓をつけていくだけの簡単なものだ。ところが、あろうことか私はこの試験に落ちた。他のメンバーは全員がパスしたのに、である。

原因はあまりにも簡単なテストなので油断をしたことと、あらかじめ法令を十分に読みこなすなどの準備を怠ったことにある。が、サブリーダーが銃を持つ資格がない、というのではさすがに皆に示しがつかない。幸い、一回限りの試験ではなかったため、もう一度受験しなおして合格し事なきを得たが、冷や汗ものだった。

こうしてようやくほんもの銃を手にする日が来た。購入したのは東京、恵比寿にある「タクト」という銃砲店だ。静岡にも銃砲店はあるが、こうした競技専門の銃を扱っているところはひとつもない。

また競技専門の銃はそのほとんどが輸入品だ。国産もあるが、精度が低いとされ、国際大会などでは見向きもされない。外国製の銃のなかでも最高級といわれたのが、ファインベルグバウというドイツ製である。ほかにワルサーなど、ピストルで有名なメーカー品もあるが、多くの競技者がファインベルグバウを使っていた。

そうした輸入品を扱っている業者は日本全国でも少なく、調べたところ静岡から一番近い店がそのタクトだった。恵比寿の駅を降り、商店街が立ち並ぶ通りにその店はあった。4~5人がまとまって上京し、銃を受け取ることにした。あらかじめ注文してあったので、あとは代金を払い持ち帰るだけである。

店に入り、店主からいろいろ説明を受けたあと、注文していた銃を受け取ったが、初めて手にするそれに手が震えた。まがりなりにも本物だ。扱いを間違うと、人を殺傷する凶器になるし、他人に盗まれては大変なことになる。

このため、自宅に持ち帰っても、鍵付きの金属製のロッカーを用意して自分以外の人間がそれを開けないよう、厳重に管理することが求められる。

そもそも銃というものの原理はすべて同じで、吹き矢と変わりない。鉄で作った筒に弾を込め、入り口から圧縮した空気を送り込み、出口から射出する。その空気を送り出す原動力を圧搾機に求めたのが空気銃であり、爆薬による発動力に求めたのが火薬銃ということになる。

ところが、空気銃の場合、「空気」という日本語に惑わされ、威力がない、と思っている人が多い。しかしそれは違う。圧縮した空気により筒から射出される弾の速度は、小型拳銃に匹敵する。当たりどころが悪ければ死に至らしめる凶器であり、それを持つことには重大な責任が伴う。空気銃=殺傷能力がない、という理解・認識自体が間違っているのだ。

戦前、日本では誰しもがこの空気銃を持つことができた。が、それは家の周りにいる小鳥などの小動物を捕獲するため、あるいはイノシシや鹿などの作物を荒らす害獣を脅かすためのものであり、威力も精度もたいしたものではなかった。いわゆる「鉄砲」の域を出るものではない。

現在のエアライフルと比べれば雲泥の差がある。ライフルとは「旋状」の意味であり、近代的な銃の中には弾を射出する筒の中にらせん状の溝が彫ってある。これにより発射する弾丸を回転させ、進む方向を安定させることができるとともに、対象物に当たったときにはその衝撃を大きくする効果がある。

標的に正確に当てる銃を作るためには、このライフル加工が必然であるとともに、ほかにも極めて高度な加工技術が必要である。高い圧力がかかる銃の強度を高めるための精錬技術、弾を込め発射するまでの複雑な連動機構、正確な射的を可能にするための照準装置などがそれである。

隣接する国同士が争う期間が長かった欧米では、火薬が発明されて以降、それを最大限に活用する技術として銃の製造がさかんになった。日本にも輸入された火縄銃のような原始的な銃に始まり、その技術はいくつかの大きな戦争を経て洗練され、現在のようなものになっていった。

一方、一次・二次世界大戦のようなグローバルな争いがなくなった近代以降は、大容量の火薬に大きな弾丸といったオーバースペックな銃は必ずしも必要なくなった。比較的治安の良い国や地域が増え、日常的な防衛のためには最小限の威力を持った銃があればいい、ということになった。

さまざまな試行の結果、弾丸を射出する原動力も必ずしも火薬である必要はない、という結論に達し、エアライフルのようなエコノミックな銃が生まれた。

一方、いざ戦争が始まったときのためには、射撃技術を保ち続けることが必要である。その必然性から日々の射撃練習が行われるようになり、射撃に巧みな者同士を競わせるなかからスポーツ射撃というジャンルが生まれた。火薬を使わないエアライフルは万人に受け入れられやすく、平和的なスポーツ競技の道具としてはぴったりだ。

この点、かつて同様に戦争の武器であったアーチェリーや槍投げなどと同じである。射撃と同様にスポーツ競技として生き残り、オリンピック競技として親しまれている。

戦争の名残といえば、マラソンもかつては伝令が前線からの報告をもたらすために走ったことが起源だといわれているようだ。馬術競技もそもそもは騎馬に代表される馬を利用した軍備にその発祥がみられる。

それほど遠くない将来、戦争そのものもスポーツ化されるのではないかという説まである。eスポーツなる、わけのわからないようなものまでがスポーツとして認められようとしている。かつては射撃がスポーツになるなど誰もが予想しなかったのと同様、想像を超えるスポーツが未来には登場しているかもしれない。



さて、念願の銃を手に入れた面々は静岡に帰った。

その後は、皆もくもくと練習に励み、とくに私はそれに熱中した。

スポーツ射撃においては立射が基本だ。このほか、膝射、伏射があって、立射と合わせ3種混合で行う複合競技と、立射だけ、あるいは伏射だけの単独競技がある。最近はエアピストルやビームライフルと言ったものも導入されていて、これらを組み合わせた複合競技もあるようだが、私の時代にはそれだけだった。

立射だけの競技の場合、60発を撃つ。また立膝伏の3種競技の場合は、それぞれ20発づつを撃ち、合計60発で命中率を競う。安定が悪いのは、立射、膝射、伏射の順であり、立ったまま競技を続けなければならない立射が一番難しい。

実際に銃を構えてみるとその難しさがわかる。まずは、なかなか狙いが定まらない。重い銃を支える体のバランスがうまくとれないこともあるが、そもそも10m先にある的が小さすぎるのである。たかが10mと思うかもしれないが、その距離は100mほどにも感じる。

標的の直径は45.5mm、同心円状になっていて一番外側が1点、中に向かって5mmづつ減じるたびに加算され、最終的に中心が10点となるが、その部分のテンはわずか0.5mmしかない。その部分にかすめさえすれば10点満点だが、実際やってみてほしい。ちょっと練習したくらいでは、まずは当たらない。

一度や二度では照準が決まらず、3度4度と繰り返し、ときには一発撃つのに5回も6回もかかることもある。その都度、銃をいったん降ろし、また持ち上げる。ずっと持ち続けるよりもそのほうが楽なのだ。

もっとも、時間制限があり、60発競技ならば1時間15分と決められているから、延々と上げ下げを続けることはできない。限られた時間に重量物を急いで上げ下げするといことは、それなりに瞬発力もいるということであり、著しく体力を損耗する。

エアライフル競技に使う銃の重さの上限は5.5キロと決められているが、ほぼほとんどの銃がこのMAX重量だ。これを持ち上げ下げるという行為、すなわちこれは同じ重さのバーベルを同じ回数上げ下げするのと等しい。いや、体を妙な具合に折り曲げて行う動作だから、単純に重量物を上げ下げするよりかなりきつい。

仮に一発撃つのに3回照準をやり直したとすると、60発打つためにはその動作を180回繰り返すことになる。

立射の練習時、60発ワンサイクルの実射を、最低でも3サイクルくらいは行う。180×3=540回もの銃の上げ下ろしをすることになるから、練習が終わることにはへとへとになる。射撃がうまくなるためにはかなりの体力が要る、ということがおわかりだろう。加えて体の柔軟性を高めることが重要であることは先にも述べた。

日頃の練習では一番命中率の悪いこの立射競技を中心に行う。膝射と伏射は、当たってあたり前の世界なので、ほとんど練習しなかったが、いざ試合ともなるとこの姿勢での射撃も行うことになるため、そのいずれもが練習できる場所が必要となる。

練習を行えるのは公的に認められた射撃場だけである。焼津校舎の中にはもちろんないが、近くにも実射を行える射撃場はなかったため、富士市にある岩本山射撃場まで出かけていた。

いつも車を持っている連中が同伴してくれるとは限らず、そもそも運転手も練習を行うわけだから帰りの運転が大変だ。というわけで、たいていは片道1時間ほどをかけて焼津駅から電車でそこへ通っていた。当然のことながら、練習に出かけた面々は疲れ果て、帰りの車両の中では泥のように眠っていた。

ただこれは我々が二年生までのことで、三年生になって浜松校舎に移ったあとは、焼津キャンパスのすぐ近くに射撃場ができ、こちらへ通った。その場所は、丸子(まりこ)といい、安部川の右岸側にある。広重の浮世絵にも出てくる、かつての丸子宿であり、とろろ飯で有名だ。現在もとろろを食べさせる店があり、この当時もあった。

この丸子射撃場には、週末になると必ず訪れ、日がな一日練習に明け暮れたものだ。授業が午前中しかないときに練習に来ることも多く、浜松時代の私は射撃の虫になっていた。

立射600点満点を目指す中、練習ではあるが、私が達成したスコアは最高で590点台で、常時580点台後半をキープしていた。これは国体レベルの選手が出すほどのスコアだ。他の部員はといえば、よくても560点程度だったから、手前味噌ながら私の技量は頭抜けていた。

ところが、残る学生時代の時間は少なく、こうしたスコアを出せるようになったころには、卒業論文の仕上げや就職活動が待っていた。射撃に割く時間は減らさざるを得ず、次第に射撃場からは足が遠のいていった。

もっと射撃をやりたかったが、学業に忙殺され、結局試合にも出ず、私の射撃生活は終わった。その後社会に出てからは、今度は仕事のほうで忙しく、射撃を再開する機会は永遠に失われた。

もし、もう一年ほどあれば、もっと射撃の腕を上げていたと思うし、公的な大会などにも出場できたに違いない。もっとも、練習で高いスコアを出せても試合になればそうはいかないことは知っている。射撃もスポーツであり、その厳しさは知っているつもりだ。しかしそうだとしても、結局一度も競技に出ることができなかったことが悔やまれる。

が、それはそれでよかったのだと思う。そのことによって、その後また違う道を歩むことができたのだから。また、いつの日か生まれ変わって別の人生を歩むとき、このことをもし思い出したなら、再び射撃にチャレンジしてみたいものである。




射撃の話はこれくらいにしておこう。

その記述に熱が入り、また、そのなりゆきで、いきなり大学生活の終わりのところまで飛んでしまったが、ここからは、3年次から移り住んだ浜松の町でのことについて少し書いていこう。

焼津での2年間は、終わってみればそれまでの人生での中で一番中身の濃く、かつ長く感じた一時期だった。それに比べ、浜松に移ってからの時の流れは矢のように速い。

3年次になって移動した浜松キャンパスは、浜松駅から南へ6kmほど離れた海岸沿いにあった。駅前にもたくさんのアパートがあったが、できれば海の近くがいいと思い、大学にもほど近い、遠州大砂丘とも呼ばれる中田島砂丘のすぐ近くに選んだ。

2軒長屋の片側で、もう一方には何かの職人さんの一家が住まわっていた。古い建物だったが、バストイレ・キッチン付きで生まれて初めて誰にも干渉されない空間を手に入れることができ、喜びはひとしおだった。

無論、親からの仕送りだけでは十分とはいえず、いろいろアルバイトをやって稼いだ金で家賃を補充した。家具などには一切金をかけず、ベッドなどは酒屋でビール瓶の空き箱をもらってきて敷きならべ、その上に布団を引いて代用した。

大学3年になってからの大学の授業は専門科目が多くなり、格段に難しくなった。それでも時節あるテストなどでは集中力を途切らすことなく加点を重ね、1・2年次に獲得した成績の上にさらにA評価を重ねていった。最終目標である首席での卒業は、不可能ではないと思った。

4年生になり、卒業論文を書くためにそろそろ所属するゼミを決めろと大学側が言ってきた。だが、正直なところ卒論などどうでもよく、そのゼミを主宰する先生のほうに興味があった。

というのも、卒業後の就職先はその先生のコネによって決まる、ということが大っぴらに言われていたからである。実際、東京にある大企業とつながりがある先生のゼミ出の学生は、その企業へ就職する確率が高く、逆にコネのない先生のゼミに入ると、静岡の地元企業ぐらいにしか入れない、という事実があった。

当然、就職の良いゼミの先生は人気が高い。中でも福田耕三先生という海洋構造物が専門の先生のところに入ると、よい就職先を紹介してくれると評判だった。このため福田ゼミへ入ることを希望する学生は多く、最終的にはくじ引きで決められた。

そのくじに当選し、福田ゼミに入ることに成功したときは小躍りした。だが、姑息ながら、そこから先、いかに先生に気に入られるかが問題だった。

無論、金銭や贈り物の贈与で関心を買うことはできない。勉学で認められる以外に道はないとわかっていたから、ゼミに入って先生が提示したテーマの中でも一番難しそうなものを選んだ。

海の上に浮かぶ大型構造物にかかる「波漂流力」という特殊な力を実験的に計測し、考察する、という内容で、構造物としては、巨大な石油タンクのようなものが想定されていた。私以外に二人が手をあげたが、そのひとりは焼津時代に同じ寮にいて仲良くなった伊藤君、もう一人は3年次になって親しくなった坂井君という人物だった。

この研究テーマは先生にとっても重要だったらしく、ほかに大学院生が一人ついた。日本人ではなくインド人で、アタルさんという。この研究テーマで博士論文をとり、祖国へ帰って大手の企業に勤めたい、という希望があることをのちに聞いた。

ところがこの研究テーマを選んだのは失敗だった。というのも、学校側から与えられる研究費用は微々たるもので、実験に使う模型を購入する金がない。それをすべて自分たちで自作しなければならないことが後で判明したからである。

さすがに困り、先生になんとかしてください、と泣きついたが、そこはなんとかうまくやれ、と逆にやり込められてしまった。仕方なく、学校の近くにある造船所などを回って頭を下げて安い材料を仕入れ、4人がかりで苦労して手作りでそのモデルを作り上げた。が、そのためだけに優に半年はかかった。

が、出来上がった模型を実験水槽に浮かべ、計測装置からデータが無事に取れた時の喜びはひとしおだった。生まれて初めて自分たちの手だけで行った研究が成果をあげたことに対しては、大きな満足感が得られた。

この実験の成功は無論、先生への印象もよくした。その後先生と何かと会話をするようになり、プライベートなことも話すようになった。先生は元、海上保安庁に勤めていたことがあり、私の父が建設省で公務員であることを知ると、さらに親近感をもったようだ。何かと広島の両親のことも聞いてくださるようになった。

逆に先生のことも聞かせてもらうこともあり、神奈川の大和にあるご自宅の様子なども話してくれた。お嬢さんが一人おり、ペットとしてポメラニアンを飼っている、といったことも聞かされた。ポメ、と呼んでいるとおっしゃっていたが、少々お堅いイメージのある先生の一面を見た気がして、親しみがより沸いた。

我々の研究が着々と進む中、4年になって半年もしないうちに最後の授業が終わった。早めに終わったのは、あとの時間は卒論に注力せよ、ということである。すべての学内試験結果が出たあと、土木工学科、約200名の成績発表があった。

結果として、私の順位は3番だった。目指していた首席の座は射止めることはできなかったが、多くの学生を率いてひとつの組織を立ち上げ、それを運営するという忙しさの中で、この成績を得た、というのは手前味噌ながら人に自慢できることだ、と思った。

首席は、土質が専門の先生のゼミに入っていた、あまり付き合いのない学生だった。一方、驚いたのは、私と一緒に卒業論文に取り組んでいた伊藤君が2番だったことだ。

前から成績が良いことは知っていたし、趣味の面でもいろいろ教わった。お互い切磋琢磨して勉強をしあった仲だからうれしく思ったが、まさか自分よりも上とは知らず、複雑な心境ではあった。

こうして、首席で卒業するという、入学当初に掲げた目標に向かっての私のレースは終わった。目標は達成できなかったものの、成績表にはずらりとAが並んでおり、もし大学院を希望したとしても、問題はなく入れただろう。

とはいえ、さらに進学の道を選ぶつもりはなかった。高い学費を出してくれた両親にこれ以上甘えるわけにはいかなかったし、4年間、十分に勉強したわけであり、もういいや感があった。今は勉強を続けるよりも実社会に出て経験を積むべきだ。就職活動こそが次の目標だ、そう思った。

このころ、卒業後に入る企業への就職活動が認められているのは10月くらいからで、現在よりかなり遅かった。成績発表が終わり、卒業論文の発表があるまでの約3ヵ月ほどがその期間となるが、我々の福田研究室でも、ゼミ生それぞれが先生の情報をもとに、就職先を模索し始めた。

ある日のこと、授業が終わり、同じ卒論をやっていた伊藤、坂井の両君とゼミ室で雑談をしていたところ、突然、福田先生が現れた。こんな時間に何のご用かとおもったら、開口一番、よい就職先があるが、君たちのうち誰かひとり応募してみないか、という。

詳しく聞いてみるとその会社は、大手の建設コンサルタントだという。先生はそこの取締役と昔から懇意であり、その関係もあって福田ゼミからは毎年一人枠で、その会社への採用があるということだった。

思わず三人とも顔を見合わせたが、中でも一番成績のよかった伊藤君にやはり優先順位があるだろう、と思った。ところが彼は、私の顔をみるばかりで沈黙している。坂井は、というと、どうせ俺には関係ないさ、というかんじでこちらも黙っている。えっ、それじゃぁ俺?と驚いていると、伊藤君がかすかにうなずくではないか。

後で聞いた話では、彼はこのとき別の企業への就職を視野に入れていたらしく、自力でそこに入社することを望んでいたようだ。

私自身も自分でいくつか候補として考えて始めている会社があったが、どれも強いモチベーションを持って入りたいと思ったものばかりではなかった。決め手がなく、どうしようかと思っていたところだ。

それなら、ということで福田先生のその申し出をありがたく受けることにしたわけだが、この時こそが、その後10年以上にも及ぶこの会社との腐れ縁が生じた瞬間だった。

のちにわかったことだが、大学と企業との間には、文書化されていない就職協定的なものがあるらしい。企業は人材が欲しいし、大学側も就職率が良いということになれば入学してくる学生も多くなるわけで、お互い持ちつ持たれつの関係だ。

その「協定」のパターンはいろいろ。企業出身の教師はその会社と太いパイプがあり、かつての古巣に自分の愛弟子を嫁がせる、という方向性がひとつ。また、企業から研究費の名目で資金を提供してもらっている教師は、資金源であるその企業と当然繋がりが強くなるため、自分の教え子をそこに送り込むことも多くなる。

このほか、単純に企業のトップと友達、というケースもある。かつての友人から乞われ、人材提供をするという場合もあり、私の場合はどうもそのパターンだったらしい。

後で聞いた話では、福田先生とその会社の取締役は、若かりし頃に海軍で一緒だったらしく、そのころからの友人だったということだ。最初に先生が紹介して入社した教え子が優秀で、その後もあたりはずれのない学生を提供し続けてくれていたので、今年もよろしく頼むよ、ということらしかった。



こうして、その年の秋の日のこと、私はその会社、ワールドビジョン・コンサルタンツ(WVC)を訪問した。会社訪問とはいいながら事実上面接である。緊張して何をしゃべったか、相手がどんな立場の人だったかも忘れてしまったが、お互い、好印象だったと思う。

面接を終えてそのすぐあとのこと、会社の裏手に小さな神社をみつけ、そこでささやかな合格祈願をした。鳥居をくぐって出たとき、のどが渇いたのでそばにあった自動販売機でジュースか何かを買ったところ、めずらしく「当たり」が出た。当たるともう1本タダで飲める、というやつだ。

こうしたくじに、めったに当たらない私にとってはめずらしいことで、こりゃー幸先がいいわい、きっと神様からの伝言だわ、と思ったものだ。

後日、形式ばかりの入社試験があり、その1週間ほどあとには早くも正式の採用通知が来た。先の自動販売機の予告はやはり本当だったか、と妙に納得した。

しかしこの会社への就職は、実は本来自分が思い描いた道とは違っていた。もともと何等かの海洋開発をやっている組織へ入ることが目標だったから、それとは少し違う方向性の会社を選んだことになった。

建設コンサルタントという分野は、一般にもなじみがないだろうが、この時の私も同じで、実は、そうした企業を選んだことについては、のちのちまでしこりが残った。海で仕事がしたい、という思いはこのときもまだ強かった。

しかしこの会社は主に海外での仕事が多く、海を渡っての向こうに活躍の場がある。面接時にもそう聞かされた。なので、いずれは海に関連した仕事もできるだろう、ということでなんとか自分を納得させた。

これ以外にも訪問した会社がふたつあり、ひとつは土木水理実験をやる会社で、もうひとつは大手ゼネコンの関連会社だった。いずれも会社規模は小さく、また海洋に関係ある仕事は少なそうだったので、合格通知が来た段階で、丁重にお断りした。

こうして、大学院への進学はやめ、他の会社の申し出も断り、何か退路を断つような形で就職先を決めたあと、卒業までにすることはあとひとつ、卒業論文を仕上げることだった。しかし、こちらも年内中には片がつき、卒業までには、数か月も時間が残った。

何をして過ごそうかなと思ったが、射撃についてはこのころもう熱が冷めており、また腕も相当鈍っているようだったので、もう一度熱中しようとは思わなかった。それよりももっと将来に役立つことをやろうと考え、就職先が海外系ということもあって、英語をもう一度勉強しなおそうと思った。

もともと英語は好きだった。中学校時代には塾通いもし、NHKの英会話番組も視聴するなどして習得に努めた。しかし高校時代のいわゆる受験英語で挫折した。リーディングが中心のその授業は面白みがなく、時折あるヒアリングの時間も苦痛だった。

その後留学もし、ある程度英語が自由に使えるようになった今考えると、こうした日本の学校の英語教育はどこか間違っているとしか言いようがない。

留学先のアメリカで、わずか半年で英語がある程度使えるようになってことなども加えて考えると、明らかに文部科学省は間違った指導方針を掲げていると思う。

もっとも文科省の影響が及ぶのは高校までであり、大学での英語教育はその学校側の裁量でどうとでもできる。より力を入れる大学もあるが、その一方で専門科目に専念させたい、という目的などから全く英語教育をやらないところもある。

私が卒業した南海大学も英語の授業はなかったが、世界に飛び立つ専門家を育てたいなら、なぜ英語の授業がなかったのだろう、と思う。英語科目がカリキュラムに取り込まれなかった理由は知る由もないが、これにより私はすっかり英語からは遠ざかることになっていた。

そうしたこともあり、ここへきて急速にまたそれを学びたいという意欲が出てきた。こため、何で調べて知ったのかよく覚えていないが、たぶん新聞の広告か何かだったろう。浜松の駅近くに評判のいい英会話学校があることを知り、早速通い始めた。

今でも持っているが、その学校で配られた「Thinking in English」という英語教材は、私の英語能力を高めるのに実に役に立った。高校でもこういった実のある英語教材を使えばいいのに、とその時も思ったものだ。

その英会話学校には、卒業までの3ヵ月ほど通っただけだったが、それなりに使える英語が身についたように思う。ただ、実際はそのあとの就職した会社ではほとんど使う機会がなかった。英語をシャワーのように浴びるようになるのは、それからさらに5年ほども経ったあとのことになる。

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本稿の内容はすべて事実に基づいたノン・フィクションです。ただし、登場する人物名は仮名とさせていただいています。また地名や組織名についても、一部は実在しない名称、または実在する別称に改変してあります。個々のプライバシーへの配慮からであり、また個人情報の保護のためでもあります。ご了承ください。

夢の途中 7 神宮前

4月になった。1日付で社員となり、港湾部という部署に配属された。文字通り港湾の施設、例えば港の防波堤とか船が接岸する護岸とかいったものを設計する部署だが、海岸の堤防の設計などもやっていた。

入社してすぐに与えられたのがその海岸堤防の基本的な設計の仕事で、それは古い堤防の高さを見直し、設計しなおす、というものだった。難しそうにみえるが、設計手順書のようなものがある。それに従って計算書に手入力していけば、初心者でも計算できる。

とはいえ、初めての仕事だったのでじっくり時間をかけて設計を行った。ありがたかったのは、そうしたことを初めてやる新入社員に対してその時間を十分に与えてくれたことであり、先輩社員たちのアドバイスも適切だったことだ。

入社したてのころは、慣れない社会人生活のこともあり、少々神経症気味だったが、1年も経たないうちに慣れ、その後さらに難しい設計も任されるようになっていった。

2年目に入るころ、山崎さんという5歳ほど年上の上司に付き、海岸の調査の仕事をやるようなった。その後長きにわたり、いろいろ指導してもらったが、妙に気が合い、プライベートでも付き合いがあった。食事を一緒にいったり、といった日常のことだけでなく、休みにはゴルフの打ちっぱなしなどにも連れて行ってもらったりした。

とはいえ悪い面での影響もあった。この先輩のおかげでタバコをやるようになったのだ。ストレスの解消にと最初は軽い気持ちで吸いはじめたのだが、そのうち一日に二箱も吸うヘビースモーカーになった。

休憩時間になると、山崎さんだけでなく、同じ職場の同僚とベランダに出て、タバコを吸いながら渋谷の街並みを見るのは良い気晴らしになった。時に、タバコを吸わない面々もそれに加わり、新宿の高層ビル街を眺めながらいろんな話をした。世間話が多かったが、社内の異性についての噂話などもある。独身者も多く、情報交換の面もあった。

社内には女性も比較的多く、各部署にはたいてい2~3人の正社員がおり、そのほかにアルバイトやトレーサーといった補助員の女性がやはり同数ほどいた。神宮前という場所柄、おしゃれな恰好をしたがる人もいたが、たいていは普通の服装をしており、まじめな人が多かったように思う。

狭い空間のことであるから、当然男女の間のことも数多くあった。が、それをここで書いていると他のことが書けなくなってしまうのでやめておこう。のちに一人の女性が私の運命を変える、とだけとりあえず書いておく。

仕事のほうでも、その後の運命を変える変化があった。ある時、山崎さんから、ある特殊な防波堤の設計を手ほどきしてもらった。

「離岸堤工法」といい、消波ブロックを3~4段積み重ねた短い防波堤を海岸線から、数十メートル離して置く。するとその背後には徐々に砂が溜まり始め、数か月後から1年も経つ頃には、海に向かって山型に飛び出した海岸線が形成される。

これを「トンボロ」という。そもそもは岸から離れた小島のすぐ後ろに砂州ができる現象を指す。島の後ろ側では波や潮の流れが弱まるため、そこに砂が溜まりやすくなる。語源は、ラテン語で「土手」を意味するから、その昔、ヨーロッパのどこかでこれを人工的に作り、その背後に砂を貯めることに成功したのだろう。

近年になってその土手を消波ブロックで作るようになった。積み上げただけで小島と同様の効果があり、そのすぐ後ろ側に砂が溜まることで、その部分の海岸線の浸食を防ぐことができる。このころ、海岸浸食が日本各地で問題になってきており、その対策のために最も有効な工法として日本中から注目を集めるようになっていた。

ちなみに、この消波ブロックのことを「テトラポッド」という人がいるが、これは商品名であって一般呼称ではない。「異形消波ブロック」または「消波ブロック」というのが正しく、公的な文書ではこちらを使う。

どの程度の砂が溜まるのかについては、この消波ブロックでできた離岸堤を置く場所によって決まる。岸から離しすぎると砂が溜まらないし、近づけすぎると溜まりすぎてすぐに離岸堤と陸が繋がってしまう。そうなるとそれ以上浜を沖に向けて肥やすことができなくなってしまう。

離岸堤のうしろにどの程度の砂がつくかについては、その海岸に押し寄せる波の平均的な高さや海底の地形にも左右される。海底の勾配がどのぐらいか、波の大きさはどのくらいか、といったことから始まり、さらにはそこを流れる砂粒の大きさがどの程度か、重さはどれくらいか、といったことにも左右される。

小さな砂粒なら波や潮によって流されやすいが、大きすぎると逆に移動しない。どの程度の大きさの波がくればその砂が動くのか、といったことも検討の対象となる。離岸堤を置く位置を決めるためには、その海岸にある、ありとあらゆる要素を検討しなければならないのだ。

さらにいえば離岸堤の長さをどの程度にするか、水面上どのくらい積み上げるか、複数を配置する場合は、離岸堤同士をどの程度離せばいいのか、といったことも背後に堆積する砂の量に関係してくる。単純にみえる工法だが、検討することはいくらでもあり、実に奥が深いのである。

この離岸堤の設計を含め、海岸の浸食の問題に対処する土木工学の分野を、とくに「海岸工学」と呼ぶ。

この当時まだ新しい学問体系だったが、「海岸」という言葉が入っているところに妙に心がときめいた。かつて高校生のころに「海洋開発」というキーワードにひらめきを感じた時とはまた違う心のざわめきだった。

その言葉との出会いがその後10年ほどに及ぶ長い学びの旅の始まりだとはこのときはまだ気づいていなかった。一生を左右するようなこととの遭遇というのは、そんなものなのだろう。漠然と頭の中に入ってくるだけで、形はまだ何もない。

ただ、離岸堤についての知識は既にあった。大学にいた当時、別の研究室に池上ゼミというのがあった。池上真(まこと)先生という人のゼミで、この先生は専門課程では構造力学を教えていた。実はこの離岸堤を日本で初めて発案して現場に導入したのがこの人だった。

元建設省の役人で、定年退官後に南海大学に入り教授となった。離岸堤の考案者ということで知名度は高く、大学4年になってゼミを選ぶとき、この先生の名前を知っていて、その研究室に入ることも考えた。

しかし、その当時は海洋開発のほうにより興味があり、福田先生の研究テーマのほうが魅力的に思えた。このため、結局池上研に足を向けることはなかった。ただ、池上先生の著書は授業でも使われ、一通り目を通していた。

就職後、この離岸堤に仕事をするようになってから、改めてその本を読み返すことになった。が、正直なところ、内容は高度ではなく、参考程度にしかならなかった。離岸堤そのものが新しい工法であり、池上先生もまた多くの知見を持っていなかったのである。

しかし、その本の中には他の重要情報が含まれていた。中でも離岸堤や海岸工学に関する多くの知見の多くは海外からのものであることを池上先生は示していた。実は離岸堤そのものも、最初の実践的利用は日本ではなく、アメリカであることなどもそこで知った。

もうひとつ、このころから海岸工学に関する論文集が毎年土木学会から出版されるようになっていた。「海岸工学講演会論文集」といい、私が入社したころの論文数は50にも満たないほどペラペラなものだった。現在は国内外から論文を集め、毎年500近い数の論文が集められている。

一方、この初期の論文集では投稿数が少なかったため、海外からの論文が目立った。なかでも、とくにアメリカ発のものが目を引いた。

カリフォルニアやフロリダ、ハワイやミシシッピーといったアメリカの各州がその舞台であり、離岸堤だけでなく突堤や養浜といった最新の海岸工学の知見がちりばめられていた。仕事の合間にそういう論文をながめつつ、いつかはそうした場所を訪れてみたい、と次第に思うようになっていった。

海岸工学の発祥の地こそアメリカ、という強烈な印象がこのころ私の頭の中に刷り込まれていったのである。

ただ、会社に入って4年目に入るとそれなりに忙しく、プライベートでそうした場所を訪れる時間も、具体的なプランを練る暇もなかった。個々の構造物の設計だけはなく計画的な仕事も任されるようになっており、長大な海岸全体の侵食対策を総合的に立案する仕事はそれなりに大変だ。

いくつもの大河川が流れ込んでいる海岸もあり、漁港や港湾がある海岸もある。河川から流れ出る砂の量や防波堤のような人工の構造物の設置状況によって、その海岸の浸食の状況は変わってくる。それらを総合的にみて対策を考えていかなければならないのである。

浸食の問題を抱えた海岸は全国にあったが、この当時、とくに浸食が深刻な海岸は北陸に多かった。このため、その方面へ頻繁に出かけたが、その後資格を取ったときに書いた論文の舞台となった海岸も富山だった。新潟や石川も多く、今でもときどきプライベートで近くを通ることがあるが、ついついそこへ立ち寄ってしまう。思い出深い地である。




思い出して懐かしいといえば、会社があった神宮前という場所もそうだった。神宮とは明治神宮を指す。その周囲には2020年のオリンピック開催の中心となる国立競技場や神宮球場、東京体育館といったスポーツ施設がたくさんある。

明治神宮に加えて、絵画館(聖徳記念絵画館)や日本青年館、津田塾大学といった文化施設もあり、周囲は公園化されていて、東京でも屈指の文化・スポーツ圏といえる。

会社の家屋自体もかつての東京オリンピックの際に選手宿舎として建てられたもので、三角形13階のちょっとしゃれた建物だった。上階に上がると、渋谷や新宿方面が一望に見え、すばらしい眺望が味わえる。

中央線千駄ヶ谷駅を出て南方の外苑前まで通る道をキラー通りといい、この通りに面していた。近くにはビクターのスタジオもあり、よく芸能人をみかけた。

そのすぐ西側には表参道があり、そこから足を延ばして5分も歩けば青山という立地だ。老若問わず、現在も人気の街である。表参道、外苑、原宿、神宮前、といったふうに切り離されて話題にあがることも多いが、私的には同じ町であり、それらを統一したこれらの環境が若き自分の青春の場だった。

おしゃれな街のおしゃれな会社ということで、アルバイトに来る面々の中にもちょいと時代の流行に敏感な連中が多かった。この当時「竹の子族」というド派手な衣装を着た種族が表参道に出没するようになっていた。休日になると歩行者天国となる路上で、ラジカセを囲みながら踊るのだが、そうした輩もうちにアルバイトに来ていた。

休日出勤中にそうした奴らに出くわすのだが、踊ったばかりの恰好でそのまま会社に来るわけだから、当然目立つ。こちらも休日だから私服が多かったが、それは普通のまじめなものであり、自分とのギャップに驚いたものだ。

もっとも、そうした輩に自分が影響されることはなかった。ただ、そうした流行に敏感な環境に合わせるかのように私もそれなりに着るものには気を使った。着の身着のままの今からは想像もできないほどのおしゃれだ。

ワイシャツにネクタイ姿という基本は崩さないまでも、カラーシャツを着て背広や靴、ネクタイにもこだわり、わりといいものをいつも着ていた。ワードローブという言葉を覚えたのもこのころである。

休日出勤では私服も許されていたことから、仕事のあと街に繰り出すことも考えて、それなりにファッションも楽しんだ。休日出勤はたいてい土曜日だから、その夕方からは同僚らと渋谷や新宿の街で飲み、何軒もはしごして朝方まで騒いでいるということもあった。

もっとも生来の孤独癖が首をもたげてきて、一人でぶらぶらと町を歩いて気晴らしする、ということも多かった。とはいえ、一人で飲み屋に入る勇気はなく、そうしたときは、好きな場所を歩き回ったあげく、たいていテアトル系の映画館に入る。

主として古い映画を扱っており、週末になると1000円ほど払えば一晩中映画を見ることができる。毎金・土曜日にそれぞれ4本ほどの映画を見、月通算で30本ほども鑑賞していたこともある。私の映画好きはこのころに始まったといえる。

「ぴあ」がこの当時の私の行動バイブルで、映画の上映情報はもとより、東京であるイベントのすべてがそこに書かれていた。高校時代から写真が好きだったこともあり、そこに掲載されている写真展にもよく出かけた。プロの写真家が撮り、プリント化した写真やはり質が格段に違う。かつての自分の写真の拙さを想いつつも、それらを堪能した。

こうしたフォトサロンがある場所は新宿に集中しており、渋谷以外で最も時間をつぶすことが多かったのがこの町だ。あまり忙しくないときは、平日仕事が終わってから、この新宿を目指して同僚や同期と飲みに行くこともあった。

この同期生─ 同年大学を卒業した新入社員は30人ほどおり、皆仲がよかった。とりわけ、会社に入ったころに住んでいた寮にいた面々とはその後も長く付き合いが続いた。

この寮のことを少し書いておこう。入社したその当初から、1年半ほどのお世話になった。小田急線の相模大野に位置し、駅から徒歩15分ほどの住宅街の中にある。

すぐ隣の駅が町田で、ここは今では関東屈指の繁華街となり、若者が集まる街として有名になっている。だが、この当時はまだ出来たてで、今ほど賑わっていなかった。というか駅のまわりには何もなく畑だらけだった。

入寮当時、一番古い人で10年ほども住んでいる人も数人いたが、それ以外に入社2~3年目までの若手5~6人とあとは新入社員で、それは私も含めて十数人いたかと思う。全部で20室くらいあったと思うからその約半分が新人だ。

大学、焼津時代の寮もそうだったが、この寮での共同生活もまたその後の人生に影響を与えた。もっとも大学の時と違って私生活の面ではなく、仕事でのことが多かった。同期の連中や先輩社員から聞かされる仕事の内容は、違う職場の内容、違う職種のことではあったが、参考になった。

それらと照らし合わせることで、自分の持ち分の仕事の会社での位置づけや重要度がわかり、また他の社員がどういう仕事のやり方をやっているかを自分の職場のものと比較できる。

それを参考にすることでまた工夫が生まれる。例えば、話を聞いた人同僚や先輩たちほぼ全員が夜遅くまで居残り残業をやり、そこで作った時間で落ち着いて仕事ができる、と語っていた。

しかし、私はこれはかえって効率が悪いと考えた。このため、できるだけ夜は早く帰るようにし、その代わりに朝できるだけ早く出社して仕事をするようになった。幸いなことにこの会社はフレックスタイムを導入しており、朝10時から午後3時のコアタイムに出社していれば、朝早くから何時に出社しても構わない。

それを幸いに、ほぼ毎日のペースで一番早く出社して仕事をするようになったが、思ったとおり朝のほうが効率が良い。仕事で消化できる量は午後やるよりも格段に多い上に、早く帰ることでプライベートの時間を作ることができる。

9時が普通のところをさらに早出して7時台に出社することも多く、このため同期の連中から「ニワトリ小僧」のあだ名がつけられた。

仕事に慣れるにつけ、私生活の面も充実してきた。とくに相模大野寮での生活は、同年代の会社同僚との共同生活であり、やはり楽しかった。帰寮してからその日あったことをしゃべりながら飲むビールはうまいものだ。週末には酒宴になることも多く、寮内だけでなく、駅前の飲み屋で宴会が始まることもある。

ただ、プライベートの確保という面では寮生活には問題も多く、一人になることが好きな私にとってはやや騒々しい環境だった。1年半ほど過ぎたころには、かなりの貯金もできたため、思い切って引っ越しをすることにした。

会社のある神宮前の最寄り駅のひとつに中央線の千駄ヶ谷駅がある。同じ引っ越すなら電車1本で通えるところが良いと考え、沿線をいろいろ探したところ、新宿から西へ5つ目、阿佐ヶ谷駅からほど近いところに一つのアパートをみつけた。

トイレは付いていたがバスはない。その代わりそのすぐ裏手に銭湯がある。仕事を終えて部屋に帰ると、すぐに洗面器とタオルを持って出かけ、隣の風呂屋ののれんをくぐると、わずか数分で湯舟に浸かることができた。

金はかかるが、無論、自分で風呂を立てる必要はない。静かな環境の上、近くには定食屋さんやスーパーなどもあり、一人暮らしには最適な環境といえた。駅近くにある商店街もこぎれいで、ウィンドウショッピングをするのも楽しい。しゃれた喫茶店もあり、休日にはよく入り浸った。

この界隈は戦前、「阿佐ヶ谷文士村」と呼ばれるほど多くの文士たちが好んで住んでいた。それも井伏鱒二や太宰治、川端康成、横光利や大宅壮といった錚々たる作家たちばかりであり、彼らは「阿佐ヶ谷会」と呼ばれる会合を催して交流を深めたという。

また阿佐ヶ谷には放駒部屋、花籠部屋といった相撲部屋が近くにあり、相撲取りをよく見かけた。喫茶店に入ってコーヒーを飲みながら、ふと後ろを振り返ると、大きな力士が小さなコーヒーカップを抱えている、といったこともよくあった。

こうしたことから、阿佐ヶ谷には、西東京におけるノスタルジックな街、文学の町、文化圏という印象があり、ここに住んでいる自分はかっこいい、ともよく思ったものである。



そんな街に引っ越したのは、かなり秋めいたころのことだった思う。住み慣れた寮の荷物をまとめ、寮母夫婦に別れを告げ、このころまだ大学のころから乗っていたジェミニに荷物を詰め込んで神奈川から東京へ向かった。

現在ならちょっとした引っ越しでも引越業者に頼むところだろうが、この当時は引っ越しと言えば自分でやるものだと思っていた。

しかし、独り身とはいえ、それなりの荷物はある。そこで、会社の同期数人に助っ人を頼んだ。ところが、荷物を下ろすだけの作業なので2人ほどもいれば済むものを、5人ほどもやってきた。私がどんなところに住み始めるのか興味がわいただろう。うち2人が女性で、そのうちの一人は同期入社の子で総務部に所属していた。

もうひとりは知らない女性で、聞くとこの春入社したばかりだという。国外事業部の総務担当だそうで、私の職場の一つ上の階で仕事をしているらしい。この日やってきた同期の男性社員の一人が吹聴し、引っ越しのあと打ち上げをやるから、という触れ込みで勝手に連れてきたようだ。無論、そんな話をした覚えはない。

その女性は3つ年上で、一目見たとき、そのまなざしの美しさにドキッとした。少し下ぶくれの唇がお愛嬌だったが、逆にそこがポイントとなってセクシーに見える。独特の透明感があったが、近寄りがたいというかんじでもない。

とりあえず引っ越しが終わり、部屋中に荷物が積み上げられている中、近所のスーパーで買ってきた酒とつまみで、打ち上げが始まった。みんな20代の若さであり、おバカな話題で盛り上がる中、くだんの美人も交えて会話が弾んでいく。

ひそかに観察していると、いわゆる天然で、周りの男性の失笑を買うことも多いが、それでいてケロッとしている。おバカを装っているな、と気づかせる部分もあったが、それができるほどの知性の持ち主であるらしい。

酔っているわけでもなさそうなのに、やたらに初対面の私に絡み、平気でため口をきく。とはいえ、嫌味のない程度で相手を持ち上げる術もわきまえていてなかなかの社交家だ。

明子さんといったが、名前のとおり明るい性格で、知らず知らずのうちにその笑顔に引き込まれ、「引っ越し祝い」と称したにわかパーティがたけなわになるころには、すっかり彼女の虜になっていた。

一目ぼれ、というのはこのことだろう。

宴会は、終電が終わってからも続いた。誰もが帰ろうとは言い出さず、2時を過ぎたころ、私が持ってきた数少ない布団をかぶってみんなで寝ようと誰かが言い出した。女性も二人いることだし、さすがにそれは無理だと抗議したが、当の本人たちは意外にも嫌そうでもなく、しかたがないな~と同意した。

その部屋は6畳一間しかなく、私が持ってきた荷物でいっぱいだ。そこに6人が寝るといってもほとんどくっつくような形でしか寝ることはできなかったが、みんなおかまいなく、それぞれのポジションを決め始めた。私はさすがに女性の隣はまずかろう、と思っていたところ、くだんの美女はさっさと私のそばに来て横になろうとする。

おいおい、と言おうとしたときはもう誰かが電気を消しはじめた。多少の荷物の運搬もして疲れ、アルコールも入っていたこともあり、おやすみーと別の誰かが宣言したあとはすぐに部屋は静かになった。

真っ暗闇の中、薄い布団にくるまりながら体が徐々に温まっていくが、それはすぐ隣に寝ている彼女の体温のせいでもあった。そのぬくもりを感じながら、次の朝を迎えたが、とうとうその夜は一睡もできなかった。

こうして私の新たな恋が始まった。

このころの私はもう初心そのものといった少年ではなく、異性に対して多少は自分のアピールをできるようになっていた。ここまでで詳しく書いてはいないが、大学時代の後半やその後の就職を通じていくつかの恋もし、いずれも実りはしなかったが、それらから何事かを学んでいた。

とはいえ、あまたの女性にアプローチしまくるプレイボーイのようにはいかない。あいかわらず相手に面と向かって自分の好意を直に伝えられるほど図太くはなかった。

それでも、それとなく意思を伝えて相手の感触を掴む、という技を覚える程度には進化していた。振られて落ち込む時間も短くなり、失恋に対しては免疫がある、と思い込んでいた。

なので、彼女に対しても、当たって砕けろ的なアプローチをしても傷つきはしないだろうと思った。そこで、あるとき酔った勢いで思い切って好意を伝えた。それがよかったのか、ストレートな答えは返ってこなかったが、だんだんと「よい感じ」にもなってきた。何度かデートに誘いだすことにも成功し、日がな一日一緒にいることもあった。

ところが年上の女性はしたたかだ。相手は私にのめりこむようなそぶりはみせず、本当に気があるのかないのかもわからない。

いや、本命でなかったのは確かだ。ある程度親しいにもかかわらず話ははずまない。二人だけの世界を構築する、という積極的な意思がみられないのだ。

彼女にすれば、釣りあげてしまった魚に餌をやる必要はない、というところだったろう。年下で頼りないし、新しく出会う他の男性と比べて値踏みをするほどのスリルも既にない。そこはわかっていたつもりだったが、彼女の魅力に振り回され続け、その後も悶々とした状況が長らく続いた。

そしてそのまま1年ほどが経った。同期の面々の結婚が相次ぐ中、あの引っ越し祝いのメンバーの何人かも結婚し、そのころは一緒に飲みに出かけることはほとんどなくなっていた。

彼女とは、相変わらずそこそこの付き合いもあり、ときには電話もした。夜遅く電話をしても切られるでもなく、楽しそうな話ぶりからも嫌われているというかんじはなかった。今思えばいいようにあしらわれていたのかもしれないが、お人よしの私は、きっと彼女は心の広い人に違いない、と思っていた。

あるとき、彼女から実は自分はクリスチャンだということを聞かされた。それも毎週教会に通うほど熱心な信者だという。彼女の博愛精神はそういうことだったかと、彼女の新たな側面を知って驚いた。

好きになった女性がクリスチャンとは思いもしなかったが、別の意味で興味がわいた。教会とはいったいどういうところなのだろう。これまでの人生では縁のない場所である。幼いころから山口のサビエル教会堂を知っていたが、中には入ったことがない。その教義には興味があり、教会とは何か知りたい、とかねてから思っていた。

そこで彼女に頼み込み、一度連れて行ってくれないか、と頼んだ。すると、断られるかと思いきや、意外にもあっさりと承諾してくれた。さっそくその週末、彼女が通っているという池袋の教会に連れて行ってくれるという。

「教会デート」のその日のことが思い起こされる。プロテスタントの教会だったので、教堂の中は質素そのものだ。祈りをささげる儀式に始まって聖書の朗読が続き、そのあと日本人牧師さんから「教え」が語られる。そして最後には葡萄酒とパンを授かる。

ミサが終わったあと、参列者やその牧師さんに紹介された。この集会に参加していたのは彼女を良く知る常連さんたちのようだったが、初めて参加する私を恋人だと思ったのだろう。歓迎してくれた。思わず舞い上がってしまったが、彼女は平気な顔をしていた。

彼女にすれば、また一人信者を獲得した、ということにすぎなかったのかもしれない。が、それでもよかった。実際、半分は教会活動に参加することが目的だったのだから。

二人で教会を後にしたが、それからさらに彼女を誘ったりといった無理強いはしなかった。天気の良い日曜の朝で、彼女と二人、肩を並べて秋の陽をあびながらほとんど無言で駅に向かって歩いて行った。

このとき彼女は何を思っていただろう、と今でも時々思う。女心は複雑だ。あのときもっと何かを話しかければ、また別の展開があったかもしれない、あるいは強引にどこかへ連れ出したら、案外とついてきてくれたかもしれない、などと妄想したりもした。

しかし、このとき私自身の心の中にも何か、よくわからない変化が生じかけていた。本能が告げていた。「こんなことをやっている場合じゃない…」




この教会デートを境に、彼女に対する思いが薄らいでいき、潮をひくように熱がさめていった。会社でも彼女を時節みかけたが、こちらからは積極的に声をかけなくなった。通勤途中で道すがら一緒になることもあったが、中身のない会話ばかりですぐに会社に着いた。

そのうち同じ通勤時間帯に彼女をみかけることがなくなったから、嫌われているのかな、となんとなく思った。それでもいいや、いまさら、と投げやりな気持ちで毎日を過ごした。

それからさらに1年ほどたった秋のころだったと思う。ある日のこと、彼女が結婚するという話が風の便りに伝わってきた。

私が26だったから、彼女はもうすぐ三十路だ。女性ならそろそろ本気で結婚を考えてもよい年ごろである。

久々に電話をかけてみた。すぐに電話口に出た彼女は前と少しも変わらず、昼寝でもしていたようなのんきな声が返ってきた。本当は、どんな奴と結婚するんだ、とすぐにでも聞きたかったがさすがにそれはできず、はやる心を抑えて、あたりさわりのない話題から入っていった。

最近はどうしていたこうしていた、という話のあとで、ところで…と切り出し、「結婚するんだって?」と問題の核心に触れた。

「そんなの嘘よ」という答えを期待していたが、しばらくの沈黙のあと、「誰から聞いたの?」という。

その問いには答えず、「もういい歳だからね」と茶化すと、素直に事実であることを認めた。さらに聞いていくと、相手は警察官、しかも刑事だという。

続けて聞きもしないのに、相手のことを話し出した。近所に泥棒が入り、そのことで聞き込みに来たその相手と親しくなった、といったことが馴れ初めだったようだ。そこからはじまり、強面で最初はヤクザかと思ったとか、ほかにもいろいろ聞かされたが、後ろのほうはほとんど聞いていなかった。

ほとんど上の空の会話の中で、いったいいつになったらこの電話を切ればいいんだろう、と思い始めたころ、ようやく彼女の長い話は終わった。

最後に何を彼女に言ったかはよく覚えていない。が、お幸せに、といったお追従だけは忘れなかった。やがて何もなかったかのように電話を切った。

受話器を置いたあと、しばし茫然とし、やがて泣きたい自分をそこにみつけた。泣きたくなかったが、そのあと、堰を切ったように涙が溢れ出てきた。酒を飲みながら一晩中やさぐれ、やがて冷たい畳の上で朝を迎えた。

終わっていたはずなのに、そんな感情の高ぶりを覚えたことに自分でも驚いた。やはりそれだけ彼女が好きだったのだろう。

やがて、朝霧が陽の中で消えていくように、彼女との思い出も薄れていった。社会人になってはじめて本気でのめり込んだ恋は終わった。

その後、何人かの恋人候補が現れた。しかしこちらの理由、あちらの理由もそれぞれあっただろうが、いずれも相容れぬまま本格的なものにはならず、月日が流れた。

入社して4年近くになろうとするころ、会社人としての私はほぼ独り立ちし、ほとんどの業務をひとりでこなせるようになっていた。お役人とも臆せず話をできるようになり、営業活動すらやっていた。後輩も何人かでき、逆に指導する立場にもなっていた。

このころ気分を変えるために引っ越しをした。一年半ほど住んでいた阿佐ヶ谷のアパートを引き払い、田園都市線の鷺沼というところに越すことにしたのだ。同じ会社の先輩が結婚をし、手狭になったので、そのアパートを君に譲ろう、と言ってくれたのがきっかけだった。

そこはいいアパートだった。あいかわらず6畳一間の部屋だったが、リビングキッチンが広い。またトイレに加えて風呂が付いており、しかも目の前は武蔵野平野が広々と見渡せるという好物件だ。

前に住んでいた阿佐ヶ谷と同じく住宅街の中にあったが、こちらは郊外でもあり、うんと開けている。職場からはやや遠くなったが、駅周辺には何でもあり、生活に不自由はない。

会社からは1時間弱。比較的近いので、同僚が遊びに来ることもあり、訪れた彼らとつるんで遊びに出ることも多くなった。ようやく心の傷が癒え、また新たな生活がスタートした感があった。

一方では、彼女のことがきっかけとなり、そのころは自分一人でも教会へ通うようになっていた。近くにカソリック教会があるのをみつけ、そこへ通い始めた。プロテスタントとカソリックはお互い相いれない部分があり、教義も異なるが、「初心者」の私にとってはどちらでもよかった。

ともかくキリスト教とはなんぞや、というところに興味があった。教会にやってくる人たちとも仲良くなり、イエス様がどれほど素晴らしい人だったか、といった話にも抵抗なく耳を傾けるようになった。が、それよりも、日曜日の朝に開かれるミサの厳粛な空気が好きで、それからしばらく教会通いを続けた。イセ・キリスト教徒の誕生だ。

みずから聖書を買い求め、毎週ミサのあとにある聖書勉強会なるものにも欠かさず顔を出した。それまでの自分から考えられないほどの傾倒ぶりであり、一時期はいつ、洗礼を受けてクリスチャンになろうかと真剣に考えたほどだ。



こうした宗教活動に加え、仕事や生活も安定し、いまのところもうこれ以上必要なものはない、という状況だったが、心の中には満たされない、切り欠きのようなものがあった。失恋の痛手からまだ立ち直っていないこともあったが、もうひとつ長い間心に中にわだかまりとして残っていたことが、このころふたたび首をもたげてきていた。

それは、かつて大学受験に失敗し、思うような進路に自分が進めなかったという思いだった。もちろん進学した大学では良い成績を収め、そのご褒美のように得た就職先もまた人がうらやむようなところだ。給料はよく、おそらく同じ大学卒の同期の間ではトップクラスのサラリーをもらっていたのではないだろうか。

職場も円満で、仕事も面白く、これ以上何を望むのか、という環境だったが、自分的にはまったく満足していなかった。

そもそもこの会社に入った目的のひとつは、海外に行く、ということだった。そのために卒業前に英語学校に通い、入社してからも英語の勉強は続けていた。ところが、国内での業務経験が十分にないものは海外へは出さない、という会社の方針があり、所属していた部の上層部も、私を海外へ出すのは、まだ時期尚早と考えているらしい。

失恋の相手はまだ会社を辞めたわけではない。同じ社内にいればそれなりに気にもなる。そろそろ海外へ出してくれればいろいろ心境も変わるのに、と思い始めていたが、会社の方針は方針で変わりそうもない。

それなら自分で行くしかないな、と思い始めたのが入社して5年目の春のころだ。かつて失敗した大学受験でてきた心の溝を埋め、かつ海外へ出ることができる道といえばただひとつ、留学しかない。会社に入ってから技術を磨いてきた海岸工学の聖地といえばアメリカであり、そこへ乗り込むことこそが今後自分が進むべき道のように思えた。

早速、赤坂にあるフルブライト教育委員会を訪れた。これはアメリカの大学の情報提供機関である。戦後、日本がまだ貧しいころ、太っ腹なこの国は優秀な学生を自国へ招聘し、無償で学ばせることにした。

親米化が進めば、日本の統治もよりやりやすくなると考えたからだ。フルブライト奨学金制度というものが設けられ、これにより毎年選ばれた学生がこの制度を利用して留学するようになった。

無論その制度を利用できるのは選ばれたエリートばかりであり、私など足元にもおよばない。制度を利用しての留学は無理だが、ただ、フルブライトが提供しているアメリカの大学情報は誰でも自由に閲覧できる。インターネットなどまだない時代であり、その情報は貴重だった。

もっとも、フルブライトにあったものは、かなり昔のアメリカ各地の大学のパンフレッぐらいだ。新しい情報は少なかったから、それを補うため、あちこちの図書館に通っては現地情報を集めた。しかし、必要な情報を探し出すのは結構大変だった。このころまだまだ留学というのは一般的な時代とはいえず、アメリカの大学を紹介する冊子は日英文とも少ない。

それらの情報をかき集めて進学先を探り、実際に入学が可能かどうかは、直接問い合わることにした。候補をだんだんと絞りこんでいったが、第一希望として日本に近いアメリカ西海岸の大学を考えていた。しかし、自分が希望するようなカリキュラムを持っている大学は少なく、次々と候補からはずれていった。

留学をしようと思い立ったものの、このころの私の英語はまだ拙かった。おい、ちょっと待て、その程度の語学力で留学かよ、と人から言われそうなレベルだったが、なぜか決意だけは固かった。とはいえ、英語ができなければ話にはならないので、入学前に使える程度に英語がレベルアップできるシステムがある学校が良いと考えた。

そうした中で最終的に候補地として絞り込んだのが、フロリダだった。言うまでもなくアメリカ屈指のリゾート地であり、映画やドラマでもよく舞台となる常夏の別天地だ。

ここを選んだのには理由があった。リゾート地であるだけに、ビーチの保全は不可欠であり、そのための海岸保全の学問体系を構築している大学が多い。候補の大学としては、州立のフロリダ大学と私立のフロリダ工科大学、マイアミ大学などがあった。

このうち、フロリダ大学は、公立大学なので学費も比較的安い。ELI(English Learning Institute)も充実していて、学びやすい、と何かの記事で読んだ。大学直営の英語教育機関で、外国人の入学を認めている大学なら大抵どこにもあるが、フロリダ大学にもあることを確認し、ここに決めた。

無論、フロリダ大学本校への正規入学ではない。まずはELIで英語を学び、ある程度レベルが上がったら、本校のほうへ転入すればいい、と考えたが、無論そんなに簡単にいくわけがない。

このあたり、まだ20代の若さがあった。これぞと決めると、成功しようがすまいが、その方向にわき目をふらずにまっすぐにすすめるだけのバイタリティとエネルギーにあふれていた。

会社勤めをしてほぼ5年が経っていたから、貯金もそこそこある。退職金も出るだろうし、そのころ新車で買い、乗り回していたホンダのスポーツカーを売り飛ばせば、2年くらいの渡航費用はなんとかなる、と算段した。

会社に渡航を告げたのはまだ梅雨前のころだ。海外業務も多い会社なので、会社に籍を置きながら社員のままで留学した例も過去にはあったようだ。こうした場合の規定も設けられていて、2年以内ならば退社せずに社員のままそれを認める、という。

しかし、退職金を目当てにしていた私はそれを断った。2年以内で帰ってこれる自信はなく、少なくとも3年はかかると考えていたためだ。ただ、会社上層部には一応ネゴシエーションをし、もし無事に学位を取って帰ってきたら、再就職もOKだという了承を得ての出国だった。

7月。退職する直前に、同期入社の面々が歓送会を開いてくれた。うらやむもの、危ぶむもの、それぞれだったが、私の決意を知ると、皆それなりに応援してくれた。会が終わった後、みんなの寄せ書きが入った色紙を渡されたが、その中に見覚えのない名前とメッセージがあるのをみつけた。

最初は誰だろうかと思ったが、文字をみて彼女だとすぐにわかった。しかし、苗字は結婚前のものから変わり、別のものになっていた。あなたならできる、祈っています、といった簡単なメッセージだったが、それを見たとたんにまた熱い思いが込み上げてきた。

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