修善寺の大患

10月も下旬になり、涼しいを通り越して寒さを感じる日も多くなってきました。

このころになるとさすがに咲く花も少なくなり、庭で目立つのは山茶花(サザンカ)やツバキぐらいのものです。ただ、紅葉が進み、なにかと華やかさのないこの季節の穴を埋めてくれています。

修善寺には「修善寺自然公園」というモミジの紅葉がきれいな公園があり、毎年この時期になると多くの観光客で賑わいます。出店(でみせ)も何軒かあって、ふだんはガランとしている駐車場もクルマで一杯になります。

公園に入り、正面にあるゆるやかな坂道を色づいたモミジを鑑賞しながら上がっていくと、登り切ったところの右側道沿いに「夏目漱石詩碑」と書かれた案内板が立っています。そのすぐ裏側に高さ3mほどもある石板が据えられており、そこには漱石が修禅寺に滞在していた折に詠んだ自筆の漢詩が彫られています。

1910(明治43)年、小説「門」を書き終えた漱石は、悩まされていた胃潰瘍の治療で麹町の長与胃腸病院に入院しました。退院後、知人に修善寺温泉での療養を勧められ、8月6日から10月11日までの2ヶ月間、修善寺温泉にある菊屋旅館に滞在しました。

ところが、8月24日に急に病状が悪化し、一時危篤に陥ってしまいます。命はとりとめ、快方に向かう9月29日、菊屋旅館の病床で書いたのがこの石板にある詩です。以下がそれになります。

仰臥人如唖 黙然看大空(ぎょうがひとあのごとく もくぜんとたいくうをみる)
大空雲不動 終日杳相同(たいくうくもうごかず しゅうじつはるかにあいおなじ)

病床にあって、私は唖(おし)のように黙って窓辺に望める大空を眺めている。大空に浮かぶ白い雲の様子は終日変わらない、という意味で、終日空と向かい合っているうちに、大自然の中に融け込んだような気分になったことを作詩したものと考えられます。

彼我が一体化することを「主客融合」といいます。本来は死んで空に還っているところを生き延びたことに感慨を覚えてこの詩を創ったのでしょう。この「修善寺の大患」で、漱石は生命の尊さを自覚すると共に、生きるということの意味を改めて考えさせられたに違いありません。



漱石はこのときのことを、のちに「思い出すことなど」の中で書いています。修善寺の大患を自ら描いた随想であり、同じ年の10月から翌年の2月まで間欠的に綴ったものが当初は「病院の春」と題して、朝日新聞に掲載されていました。

この中に登場する人物は、妻である夏目鏡子のほかに、門人である松根東洋城や坂元雪鳥、このころ勤めていた朝日新聞の渋川玄耳(げんじ)や同社主筆の池辺三山(さんざん)などがいます。ほかに、東京で漱石がかかっていた長与胃腸病院から派遣されてきた医師たちや、修善寺の町医などが出てきます。

「吾輩は猫である」や「坊ちゃん」などのヒット作によってこのころ既に高い名声を得ていた漱石は、それまで勤めていた大学の講師を辞め、本格的に職業作家としての道を歩み始めていました。朝日新聞に入社したのはこの大患の3年前で、日本のジャーナリストの先駆けといわれる池辺三山に乞われてのことでした。

三山は、陸羯南、徳富蘇峰とともに明治の三大記者とも称された人で、漱石以外にも二葉亭四迷を入社させ、今日文豪と言われる作家の長編小説の新聞連載に尽力した人物です。「思い出すことなど」には、修善寺から帰ったあと長与病院に入院ししながら原稿を書いていた漱石に対し、三山が「余計な事だ」と叱ったといったことが書かれています。

また、同じ朝日新聞の社会部長だった渋川玄耳は、漱石の吐血の連絡を受け、部下の坂元雪鳥に指示し、漱石が治療を受けていた東京の病院から修善寺まで医師を派遣させました。8月20日には自らが漱石を見舞うために修善寺にやってきて一泊しています。

渋川は漱石が熊本の第五高等学校(熊本大学の前身)の英語教師だったころからの知己で、彼を社員として東京朝日新聞へ招くことに尽力しました。




東京で漱石の胃潰瘍を治療していたのは長与胃腸病院といい、当時は麹町区内幸町にありましたが、現在は四谷に移転しており、経営者も長与一族から変わって別な人になっているようです。当時の病院を開設したのは長与称吉という人で、漱石の主治医でもありました。

父は、初代の内務省衛生局長だった長与専斎で、「衛生」という言葉をドイツ語から翻訳して採用したのはこの人です。コレラなど伝染病の流行に対して衛生設備の充実を唱え、また衛生思想の普及に尽力したことで知られています。長崎の医学伝習所で、オランダ人医師ポンペから西洋医学を学んでおり、日本における西洋医学発展の先駆けでもあります。

息子の長与称吉もそうした医者血を引いており、東京帝国大学医科(現在の東京大学医学部)を経て、7年間ドイツのミュンヘン大学医学部に留学していました。このころ、現地の女性に子供を産ませ、手切れ金を渡して解決したという逸話が残っていますが、その面倒を見たのが、衛生局で父の專齋の部下であり、ドイツ留学中の後藤新平だったといいます。

また妻・延子は後藤象二郎の娘であり、妹・保子は総理大臣を務めた松方正義の長男・松方巌と結婚するなど、何かと政治家と関わりのある人でした。ちなみに、次女・仲子は同じく総理大臣を務めた犬養毅の息子と結婚しており、その長男の異母妹がエッセイストの安藤和津で、その夫は俳優で映画監督の奥田瑛二です。

漱石は「三四郎」「それから」に続く前期三部作の3作目にあたる「門」の執筆途中に胃潰瘍になり、この長与称吉が院長を務める長与胃腸病院に入院しました。

胃潰瘍になった原因はいろいろ取沙汰されていますが、ひとつには妻の鏡子が起こすヒステリー症状が漱石を悩ませ、神経症に追い込んだことが一因とされます。また第一高等学校と東京帝大の英語講師を勤めていたころ、一高での受け持ちの生徒のひとり、藤村操が華厳滝に入水自殺してしまったことが遠因だとする説もあります。

北海道出身の藤村が自殺現場に残した遺書「巌頭之感」は新聞各紙で報道され、大きな反響を呼びました。厭世観によるエリート学生の死は「立身出世」を美徳としてきた当時の社会に大きな影響を与え、後を追う者が続出しました。

彼の死に伴い、一高の生徒や同僚の教師達だけでなく、事件に衝撃を受けた知識人達の間で「漱石が藤村を死に追いやった」といった噂が囁かれるようになりました。こうした風評被害に苛まれて苦悩した結果、漱石は神経衰弱を患ってしまい、授業中や家庭で頻繁に癇癪を起こしては暴れまわるようになり、欠席・代講が増え、妻とも約2か月別居しています。

さらには、職業作家としての初めての作品「虞美人草」の執筆途中に、門下の森田草平が1に平塚明子(平塚らいてう)と栃木県塩原で心中未遂事件を起こしており、その後始末に奔走したことも神経衰弱や胃病を悪化させた原因と言われています。

塩原事件とのちに呼ばれるこの事件では、雪山で二人が彷徨ううち、森田のほうが意気地を失い、「人を殺すことはできない」と言って心中に使うつもりだった明子の懐刀を谷に投げ捨ててしまったことなどから、心中未遂に終わりました。

警察に保護された森田はマスコミを避けるために漱石の家に身を隠しますが、事件の後始末を任された漱石は解決策として平塚家に弟子の結婚を申し出ました。しかし、結婚など考えていなかった明子に呆れられ、断られています。

事件の翌年、森田はこの事件を自ら綴った「煤煙」の連載により有名作家となり、明子は「青鞜」を創刊して、有名女性運動家、平塚らいてうとなりました。




漱石は1910年6月18日から7月31日まで長与胃腸病院に入院していました。修善寺で療養することになったきっかけは、その退院後、門下の松根東洋城が皇族の北白川宮の避暑に随行して修善寺に行くことになったことです。漱石は良い空気を吸えば症状も改善するだろうとこれに同行することを決めたようです。

住み慣れた土地を離れて別な環境に身を置き療養することを「転地療養」といいます。このころは富裕層の間でよく行われていました。現代でもストレス性の症候(無自覚性のものも含めて)などに対して、転地療養の効果は認められているようです。堀辰雄の小説 「風立ちぬ」で有名になった結核等の治療施設、サナトリウムも転地療養をするためのものです。

漱石に修善寺行きを勧めた松根東洋城は、本名は豊次郎で、俳号の東洋城(とうようじょう)はこれをもじったものです。漱石に紹介されて正岡子規の知遇を受けるようになり、子規らが創刊した「ホトトギス」に加わるようになりました。

漱石とは、愛媛の尋常中学校(現松山東高等学校)時代、同校に教員として赴任していた彼から英語を学んだときからの付き合いです。卒業後も交流を持ち続け俳句の教えを受けて終生の師と仰いでいました。

京都帝国大学仏法科卒業後、宮内省に入り宮中の祭典・儀式および接待に当たる「式部官」をやっていましたが、たまたま公務で修善寺に長期逗留することになり、ちょうど漱石が退院していたことから誘いをかけたようです。

東洋城は、子規没後「ホトトギス」を継承した高浜虚子と決別し、虚子らが掲げる「客観写生」の理念とは一線を画した作風を確立しました。実践を重視した芭蕉の俳諧精神を尊み、俳諧の道は「生命を打ち込んで真剣に取り組むべきものである」としたその理念に同調する者は多く、後世に名を残す多くの俳人を輩出し、彼らは渋柿一門と称されました。

「渋柿」の呼称は、宮内省式部官であったこのころ、大正天皇から俳句について聞かれ「渋柿のごときものにては候へど」と答えたことが有名となったためで、のちに創刊主宰した俳誌「渋柿」の名もそこからきています。

東洋城は、子供のころから眉目秀麗でも知られていましたが、定まった住居をほとんど持たず、生涯独身であり、数々の女性問題がそうした生き方をとらせたといわれています。宮内省に入省したとき、伯母・初子の婚家である柳原家に寄寓しましたが、このとき、離婚して柳原家に出戻っていた柳原白蓮と親しくなりました。

柳原家は鎌倉時代からの名家で、皇室に近い一族です。東洋城の父も宇和島藩城代家老の長男、母も宇和島藩主伊達宗城の三女であって、叔母の初子が名家である柳原家に嫁いだのもその名家としてのつり合いからでしょう。白蓮とはつまり従妹同士ということになります。

「花子とアン」で有名になった柳原白蓮のことを知っている人は多いでしょう。のちに、福岡の炭鉱王・伊藤伝右衛門と再婚しますが、その後、社会運動家で法学士の宮崎龍介と駆け落ちしたことで、当時のマスコミにセンセーショナルに報道されました。

柳原白蓮と同じ屋敷に住むことになった東洋城と白蓮はすぐに仲良くなり、恋人同士になりました。結婚まで誓いあいましたが、彼の母親の反対で結婚を許されず、その後は嫡男であったにもかかわらず独身を貫きました。

「花子とアン」でこのエピソードが語られることはありませんでしたが、白蓮が炭鉱王の妻になったのは、この東洋城との仲が認められなかったことも関係しているようです。社会運動家と駆け落ちし再婚した白蓮は、その後の戦争の時代と戦後を波瀾万丈で送りますが、二男・一女を得て81歳で大往生しています。

東洋城のほうは、その後も各地で渋柿一門を集めて盛んに俳諧道場を開き、人間修業としての「俳諧道」を説いて子弟の育成に努め、86歳で亡くなりました。墓は宇和島市の金剛山大隆寺にあります。



東洋城が修善寺に行くことになったのは、式部官というこのころの彼の職務上の理由からだと上で述べました。北白川宮成久王(きたしらかわのみや なるひさおう)という皇族の避暑に随行するというのがその任務でした。

成久王は陸軍士官学校卒業後、27期生として陸軍大学校を卒業しており、この修善寺行きはその卒業間近のころでしたから、おそらく卒業旅行の意味があったのかと思われます。1895(明治28)年生まれですから、このとき15歳だったはずです。

のちの1921年(大正10年)には、軍事・社交の勉強のため、「キタ伯爵」の仮名でフランスのサン・シール陸軍士官学校に留学。翌年には自動車免許も取得し、機械好きな彼は自家用車(ヴォワザン社製)を購入しました。既に結婚しており、妻房子も同伴でした。「ごく平民的」と謳われた夫妻は社交界でも評判が高かったといいます。

この滞仏中に運転を覚えた成久王は、「一度、腕前を見てほしい」と、当時同じく留学中であり、自動車運転に習熟していた東久邇宮稔彦王(ひがしくにのみや なるひこおう)をドライブに誘いました。しかし、成久王の運転の腕前を怪しんだ稔彦王は「あなたの運転はまだ未熟だから気を付けたほうがいい」と忠告した上で同行を断りました。

ちなみに、この稔彦王はのちの第二次世界大戦中は海軍の高松宮と共に大戦終結のために奔走し、大戦後は終戦処理内閣として内閣総理大臣に就任したことで知られる人物です(在職1945年8月17日-1945年10月9日)。これは初の皇族内閣でもありました。

稔彦王に断わられた成久王は、そこでドライブの相手を同じく留学中の朝香宮鳩彦王(あさかのみや やすひこおう のち陸軍大将)に変え、同日の朝に妃の房子内親王やフランス人の運転手等と共にドライブに出発しました。

出発先は、ノルマンディー海岸の避暑地ドーヴィルで、そこに泊りがけのドライブをする予定でした。途中で鳩彦王を拾い、エヴルーで昼食をとったあと、成久王がハンドルを握り、その後ペリエ・ラ・カンパーニュという村に近づこうとするころ、前方にのろのろと走っている車をみつけました。

成久王はその前の車を追い抜こうとしましたが、その際にスピードを出し過ぎ、車は大きく横に滑って道路を飛び出し、路傍にあったアカシアの大木に激突。この事故で、運転していた成久王と助手席にいたフランス人運転手は即死し、同乗していた房子妃と鳩彦王も重傷を負いました。成久王は35歳でした。

東洋城がこの成久王に随行して修善寺に来たのはこれより20年前であり、まだ顔には幼さが残っていたはずです。無論、この国民から愛された王子がその後悲惨な死を迎えることになろうとは想像だにしていなかったでしょう。

ちなみに、成久王と房子妃の間には永久王という男子がいましたが、のちに陸軍砲兵大尉として蒙疆(モンゴル及び中国北部)へ出征し、演習中に航空事故に巻き込まれ殉職しています(享年30)。その子の北白川道久王は81歳まで生き、長寿を全うしましたが、男子に恵まれなかったため、北白川家はその後男系としては断絶しました。

漱石が修善寺で初めて喀血をしたのは8月17日で、当初その治療に当たったのは野田洪哉という修善寺の町医者です。

修善寺には野田姓が多く、確認はしていませんが、おそらくそのルーツは庄屋などの大家だったでしょう。現在でも名家として地域の尊敬を受けています。野田洪哉が院長をしていた大和堂医院は、現在も修禅寺のすぐ前を流れる桂川を隔てたすぐその先にあり、内科医として開業されています。

野田医師は、漱石が吐いたものが血であることを指摘し、帰京を勧めました。24日の危篤時には長与胃腸病院から派遣されてきた副院長の杉本東造の指示で食塩水輸液を準備し、漱石の救命に貢献しました。

一方、8月17日の漱石吐血の報を受け、長与胃腸病院が最初に送った医者は、森成麟造といい、当時まだ26歳の若い医師でした。のちに漱石が長与胃腸病院を退院したあとは、新潟県高田市(現上越市)に帰郷して開業。漱石はこのとき自宅に彼を呼んで送別会を開き、修善寺での大患時の対応を謝しています。

このとき森成医師と一緒にやってきた坂元雪鳥は、第五高等学校で夏目漱石に師事し、以後漱石の弟子格となった人で、このころ東京朝日新聞社に入社しており、漱石の容態を本社に伝える臨時記者としての役割も担っていました。8月24日の危篤時には30通以上の電報を東京に送っています。

長与胃腸病院副院長の杉本東造が修善寺にやってきたのは、漱石が危篤になった8月24日夕方でした。菊屋に着き、漱石を診察したあと「さほど悪くない」と見立てましたが、そのわずか2時間後、漱石は吐血して意識を失い、危篤となりました。

「思い出すことなど」にはこのとき30分ほど意識を失っていたと書かれており、その間にカンフル剤が16本以上打たれました。

その後一時意識はもどりましたが、再び意識を失いかけました。遠ざかる意識の中で杉本医師と森成医師がドイツ語で「駄目だろう」「ええ」などと会話していことを覚えており、そのことも書いています。漱石は大学予備門や大学のときにドイツ語を第二外国語として学んでいました。専門の英語ほどではないにせよ、その程度の会話は理解できたのでしょう。

漱石はそうした会話をうつらうつらと聞きつつ、森成と雪鳥の二人に両手を握られたまま朝を迎え、その後回復に向かいました。

長与胃腸病院としては、VIPである漱石の治療にあたっては本来、主治医である院長の長与称吉を派遣したいところでした。ところが、このころ長与称吉は腹膜炎を発症しており、それどころではありませんでした。最初に若い医師、森成麟造が送られたのも、この院長の急病に対して副院長の杉本が対応していたからだと考えられます。

杉本医師はその後、25日ごろまで修善寺に滞在していたようですが、漱石の回復を見てとると帰京し、かわりに看護婦を2人派遣しました。長与称吉院長は、そのすぐあとの9月5日に亡くなりました。

漱石はこのことを知らされておらず、9月になって森成医師から粥食を許可されて退院し、東京に戻って長与胃腸病院に挨拶に行ったとき、はじめてその事実を知らされて唖然としたようです。冒頭で紹介した詩にあったように、自分は生き残り、主治医だった長与称吉が死んでしまっていたこと対し改めて無常の意味を思ったに違いありません。

漱石の妻鏡子は、漱石が喀血した8月17日には子供の避暑先の茅ヶ崎にいて、漱石吐血のことは翌日18日に電報で知りました。電報を送ったのはおそらく東洋城でしょう。あわてて東京に子供を返してから修善寺に向かい、到着したのは19日の午後でした。

その翌日の20日には小康を得たことから、森成医師が「私は東京に帰ります」と言ったところ、鏡子は森成に強い口調で詰め寄り翻意を迫りました。今回の漱石の修善寺療養にあたっては前もって胃腸病院へわざわざ出かけていき、旅行に行かせてもいいかどうかを伺って快諾を得ていたこともあり、誤診とでも言いたい気分があったのでしょう。

森成医師に対し、「私から言えば、お医者の診察違いとでも言いたいところだのに、病人をうっちゃって帰るなどとはもってのほか」と言い放ったと伝えられています。

この鏡子夫人は広島は福山の人です。元医師で、貴族院書記官長の中根重一の長女で、漱石とは見合い結婚で結ばれ、2男5女を設けました。このうち長男の夏目純一はのちにバイオリニストとなり、その息子が漫画家でエッセイストの夏目房之介であることをご存知の人も多いでしょう。

漱石との見合いの席では、鏡子は口を覆うことをせず、歯並びの悪さを隠さずに笑ていたそうで、そうした裏表のない彼女に漱石は好感を抱いたようです。また、鏡子も漱石の穏やかな様子に魅かれたようで、父の重一が漱石のことをベタ褒めしたこともあって早々に結婚を決めました。

しかし、お嬢様育ちの鏡子は家事が不得意であり、寝坊することや、漱石に朝食を出さぬままに出勤させることもしばしばで、二人の間には口論が絶えませんでした。慣れぬ結婚生活からヒステリー症状を起こすこともままあり、これが漱石を悩ませ、神経症に追い込んだ一因とされています。

漱石が第五高等学校教授になり、二人で熊本に引っ越したころ、鏡子は初子の出産で流産しました。このとき慣れない環境もあいまってヒステリー症が激しくなり、熊本中央を流れる白川沿いにある藤崎八幡宮のすぐ裏の淵に投身自殺を図ったといいます。その後漱石はしばらくの間、就寝の際に彼女と手首に糸をつないで寝ていたそうです。

裏表がなく、ずけずけとものを言う鏡子の性格は、鏡子を含めた中根家に共通したものだったようで、そうした言動から神経症を悪化させた漱石もまた、鏡子や子供たちに対して頻繁に暴力を振るうようになりました。

周囲から漱石との離婚を暗に勧められたこともあり、このとき鏡子は、「私の事が嫌で暴力を振るって離婚するというのなら離婚しますけど、今のあの人は病気だから私達に暴力を振るうのです。病気なら治る甲斐もあるのですから、別れるつもりはありません」と、言って頑として受け入れなかったといいます。

こうした言動からもわかるように、夫婦仲はそれほど悪くはなかったようです。漱石の死後、鏡子が子供たちの前で失言し、それを子供たちにからかわれると「お前達はそう言って、私のことを馬鹿にするけれど、お父様が生きておられた時は、優しく私の間違いを直してくれたものだ」と、亡夫・漱石を懐かしむことがしばしばだったといいます。

漱石が専業の小説家となったのち、彼を慕う若手の文学者やかつての教え子たちが毎週木曜に夏目家に集うようになりました。これがいわゆる「木曜会」で、会が開かれるようになると、鏡子はしばしば彼らの母親代わりとして物心両面から面倒を見たといいます。

漱石は、経済的に苦しい立場にあった門人たちに金銭面での援助をすることも多かったようで、このとき鏡子は漱石に言われたとおりにポンと、当時としてはかなりの額の金銭を渡していました。漱石夫妻が門下生に貸した金は相当の額だったようですが、そのほとんどが貸し倒れになっていたといいます。

孫の夏目房之介は、鏡子の性格には多少問題はあったものの裏表がなく、弱いものに対する慈しみの気持ちの強い、子供や孫に慕われる良き母であり良き祖母であったとその手記に記しています。

とかく、悪妻、猛妻という名で呼ばれることが多い鏡子ですが、このころはまだ男尊女卑の風潮が強く、おとなしい良妻賢母が良いとされた時代です。失言が多くおおざっぱな行動が目立つ鏡子がそのように見られてしまうというのはやむを得ない面があったと思われます。

漱石の修善寺大患の際、最初に見舞いに駆けつけた安倍能成(あべよししげ、のちの貴族院勅選議員、文部大臣、第一高等学校時代の漱石の教え子)を見て、鏡子は「あんばいよくなる」さんが来てくれたからもう大丈夫、とユーモアたっぷりに語って周囲を笑わせたといい、おおらかな一面もあったことをうかがわせます。

漱石の死後、鏡子はその後半世紀近く生き、1963(昭和38)年に85歳で没しました。死因は心臓の疾患でした。

漱石は、「明暗」執筆途中の執筆中だった1915(大正4)年12月9日、体内出血を起こし自宅で死去しました(49歳10か月)。最期の言葉は、寝間着の胸をはだけながら叫んだ「ここに水をかけてくれ、死ぬと困るから」であったといいます。

漱石が亡くなった翌日、その遺体は東京帝国大学医学部の解剖室において解剖されましたが、それを行ったのは長与胃腸病院の院長、長与称吉の弟の又郎(またお・長与専斎の三男)でした。長与又郎は、癌研究所や日本癌学会を設立し、癌の解明に努力したことで知られ、癌研究の先駆者です。

衛生に力を入れていた父の専斎の遺志を継いで、公衆衛生院や結核予防会をも設立しましたが、自ら予言していた通りに癌となり、1941(昭和16)年に63歳で亡くなりました。死の前日に、医学への貢献により男爵の爵位が贈られています。

母校である東京帝国大学の伝染病研究所長や医学部長を経て、総長に就任したこともあり、若いころには野球部長も務めていました。

部の寮である「一誠寮」にある同寮の名を綴った書は又郎の揮毫によるもので、これを書く時、「誠」の字の右側の「ノ」の画を入れ損なった又郎は、これを指摘した選手たちに対し「最後のノは君たちが優勝したときに入れよう」と語ったといいます。

東大の六大学野球最高位は、現在でも1946年春季の2位でのままであるため、今も残されているこの書の「ノ」の部分は未だ欠けたままとなっています。

この長与又郎解剖を依頼したのは、未亡人である鏡子であったといい、生前の漱石はそれを承認していたようです。漱石の亡くなる5年前には末娘の雛子が突然死しており、解剖などの措置をとらなかったため、死因が不明のままに終わっていました。

そのことが夫妻の心にはひっかかっていたようで、日ごろから科学的思考を重んじるタイプだった漱石もまた、解剖を行うことで死因や病気の痕跡をつきとめることが重要だと考えていたようです。夫の遺体の解剖が医学の将来に役立ててもうということが本人の意思にかなうと、鏡子も判断したのでしょう。

その際に摘出された脳と胃は寄贈された脳は、現在もエタノールに漬けられた状態で東京大学医学部に保管されています。重さは1,425グラムであり、成人男性の脳は一般に1350~1500グラムだそうですから、特段重いというわけではありません。遺体は東京都豊島区南池袋の雑司ヶ谷霊園に葬られました。

漱石が修善寺で宿泊した菊屋本館は戦後解体され、当時の別館が現在の本館になりました。温泉街にある筥湯(はこゆ)という共同浴場の横にはこの本館跡の掲示があります。菊屋本館2階の漱石が吐血した部屋は、修善寺自然公園の隣にある「修善寺虹の郷」へ移築され、現在「夏目漱石記念館」として公開されています。

修善寺に来ることがあったら、ぜひ訪れてみてください。

隕石のはなし

10月も終わろうとしています。

少し早いかもしれませんが、このころになると今年ももう終わりだな、という気分になるのは私だけでしょうか。

今年もいろいろあったな、と思い起こす中で、最大の事件はやはり新型コロナウィルスの流行であり、それに引きずられる形での東京オリンピックの延期、7月からの一連の豪雨災害、そして8年近く続いた安倍政権の終焉といったところが主なニュースでしょうか。

全体的に重い空気の漂った感のある今年ですが、その中でも少し明るい話題はないかと探すと、山手線で約49年ぶりの新駅となる高輪ゲートウェイ駅の開設、第5世代移動通信システム(5G)がサービスを開始、ヴェネツィア国際映画祭での黒沢清監督の銀獅子賞(スパイの妻)受賞といったことがありました。

さらにもっとイイ話はないのか、と探してみたのですが、日本だけでなく世界中がコロナ渦にある中では、ちょっとくらい明るい話も、闇夜の中の豆電球くらいの効果しかなく、逆に漆黒の闇の中に飲み込まれてしまいそうです。

私的には、先の9月末に手の手術をして1週間ほど入院したのが最大の出来事でしょうか。よかったことといえば、このコロナ騒動のおかげで当初予定していた中国出張が中止になったことがあげられます。もとより気乗りがしない出張だったので、ホッしたのもつかの間、来年はまだ騒動が終息していない中での再出張が画策されているのが気になります。

暗い世相の中、年末恒例の「今年の漢字」はきっと「災」ではなかろうかと思うのですが、既に2度も選ばれている(2004年と2008年)ということで、だとすると「難」とか「凶」とかいった漢字をついつい思い浮かべてしまいます。あるいは「害」とか「渦」といったものもありかもしれません。




とはいえ、今年もまだあと2ヵ月以上あるわけですから、この間、少しはいいことがあるかもしれません。明るい話題はないかな、と探してみると、この年の末にJAXAで開発された小惑星探査機「はやぶさ2」が地球へ帰還する、ということがわかりました。

12月6日にそれが実現するようで、帰還カプセルの投下場所は初代はやぶさと同じくオーストラリア南部に位置する軍の演習地、ウーメラ試験場を予定しているようです。無事帰還すれば、耐熱容器に収納された採取物質が回収できます。

これが成功すれば、有機物や水のある小惑星を探査して生命誕生の謎を解明するという科学的成果を上げるための初の「実用機」の開発に成功したことになり、今後の日本の宇宙開発にとって計り知れない恩恵をもたらすことになるでしょう。ちなみに初号機である「はやぶさ」は小惑星往復に初めて挑んだ「実験機」と位置づけられているようです。

地球へ向けてカプセルを放出したあとのはやぶさ2の本体はその後、再度小惑星探査に投入されるそうで、およそ10年後の2031年7月に1998 KY26という小惑星を接近探査することになるようです。これは今回のはやぶさの探査目標「リュウグウ」を選ぶにあたっても候補になった天体の1つで、直径30メートル前後の非常に小さな小惑星です。



「リュウグウ」は直径が700mありました。これに対してこのような微小小惑星を観測することの意味は、それを近接観測することによって、地球史の解明だけでなくプラネタリーディフェンスに有益な情報が得られるからだといいます。

プラネタリーディフェンスとは、地球に衝突する恐れのある地球近傍天体(Near-Earth object NEO)を発見・観測し、衝突に備える試みで、スペースガード(Space Guard)ともいいます。スペースガードは各国で実施されおり、日本以外では、アメリカ、オーストラリア、フィンランド、イギリス、ドイツ、イタリアが協力して観測を行っています。

その統括的な役割を果たしているのは、イタリアのフラスカーティに本拠を置くNPO、スペースガード財団(The Spaceguard Foundation)です。1994年、木星に天体が衝突した事件を受けて地球でも起こりうるとの危機感が高まり、同年に開催された国際天文学連合の総会での提言を受けて1996年に設立されました。

地球近傍の物体の観測を統括する国際的な組織であり、同財団の下、各国にスペースガードセンターが組織されています。それぞれの国の中央天文台や宇宙開発機関から資金援助を受けて新しくスペースガードセンターを設置したり、既にある施設で観測を実施しています。

日本では、岡山県の井原市美星町に「美星スペースガードセンター」が設置されており、JAXA等からの支援を受け、NEOのほか、宇宙空間を彷徨うスペースデブリ(宇宙ゴミ)の監視も行っています。

光学式と電波式のふたつの観測装置を用いた観測が行われており、光学式の場合には、広視野角を持つ望遠鏡複数台によって、主に地球近傍へ接近する小惑星や彗星等の軌道を求める、といったことが行なわれています。

また、電波式観測装置としては、「フェーズドアレイレーダー」という軍艦の艦載用レーダーにも使われている最新式のものが備えられており、このレーダーは非常に指向性が高い(いろんな方向からの電波を受信できる)ことから、スペースデブリの位置をつきとめるのに最適です。

先代のはやぶさが地球突入した際にも、参考になる貴重なデータがこれらの観測機器で得られたそうで、今後も地球近傍に接近する小惑星や彗星の軌道を正確に把握し、将来の地球衝突を予測することになっています。10年後にはやぶさ2が観測するであろう小惑星1998 KY26のデータもそれに寄与することになるでしょう。

ただ、「美星スペースガードセンター」に設置されているレーダーでは、現在大きさ1.6メートルまでの宇宙ゴミしか補足できないそうで、それ以下の宇宙ゴミの接近についてはアメリカからの情報に依存しています。

このため、2023年度を目途に、高出力高感度のレーダー設備を新設し、特殊な信号の処理技術も採用して、従来と比べて約200倍の宇宙ゴミ探知能力を持たせることが計画されて、います。防衛省が計画している別のレーダー施設との連携も考えられており、低軌道で周回している10センチ程度の宇宙ごみの監視が可能になるといいます。

一方、大きな小惑星などの衝突については、ハワイ大学などによって10m以下の天体に対して大気圏突入よりも数日から数週間前に警告ができるようにするシステムの開発が進んでいるほか、これよりもはるかに大きなもの(100mを超えるようなもの)についても、数年から数十年前に予測できるよう各国との調整の上、システム開発が進んでいます。






ちなみに、2008年10月6日、アフリカ大陸スーダンの北東部のヌビア砂漠の大気圏に突入した、推定4メートルの天体(2008 TC 3)は、アメリカ・アリゾナ州にあるカタリナ天文台(CSS)の1.5メートル望遠鏡によって検出され、翌日地球に衝突するまで監視が続けられました。

この衝突では幸い大きな被害は出ず、合計10.5キログラム(23.1ポンド)の重さの約600個の隕石が回収されました。

一方、2013年2月15日にロシア連邦ウラル連邦管区のチェリャビンスク州付近に落下した隕石は、その通過と分裂により発生した衝撃波によっての大規模な人的被害をもたらしましたが、スペースガードの観測では事前に検出されることはありませんでした。

この隕石落下では、衝撃波で割れたガラスの破片を浴びたり、衝撃波で転ぶなどして、1491人の怪我人が発生しました。指が切断されるなどの大けがして入院した人は52人に上り、うち13人が子供でした。中には隕石に直接当たったことにより頸椎を骨折するという重傷を負った52才の女性もいました。

ロシア科学アカデミーなどの解析によれば、隕石の直径は数mから15m、質量は10トン、落下速度は秒速15km以上で、隕石が分解したのは高度30kmから50kmではないかと見られています。

幸い、この隕石による死者は報告されていませんが、隕石による広範囲への災害は、ロシア帝国時代の1908年に発生したツングースカ大爆発以来の出来事であって、これほどの負傷者を出した隕石災害は前例がありません。

ツングースカの隕石落下は、居住地から離れた場所であったことから人的被害は公的には確認されていません。しかし、遊牧民のキャンプが吹き飛ばされるなどで死傷者が出たとする伝聞が残されているほか、猟師や木こりなどの犠牲者がいた可能性もあります。

隕石が大気中で爆発したために、強烈な空振が発生し、中心地と目される場所から半径約30~50kmにわたって森林が炎上し、東京都とほぼ同じ面積の約2,150平方キロメートルの範囲の樹木がなぎ倒されました。1,000km離れた家の窓ガラスも割れ、爆発によって生じたキノコ雲は数百km離れた場所からも目撃されました。

南西へ約500km離れたイルクーツクでは衝撃による地震が観測されたといい、爆発から数夜に渡ってアジアおよびヨーロッパにおいても夜空は明るく輝き、ロンドンでは真夜中に人工灯火なしに新聞を読めるほどであったといいます。

地面の破壊規模から推定された隕石の大きさは、直系60~100m、質量約10万トンとされ、爆発地点では地球表面にはほとんど存在しない元素のイリジウムが検出されました。破壊力はTNT火薬にして5メガトンとされ、これは広島型原爆の300倍以上の威力です。



おそらく有史以来、最大のものがこの隕石だと思われますが、さらにさかのぼり、有史以前ともなると、いったいどのくらいの隕石が地球を襲ったかについては誰にもわかりません。ただ、こうした巨大な地球外天体の衝突は大量の生物の絶滅を引き起こすことから、そうした観点からの研究が進んでいます。

多細胞生物が現れて以降、地球では少なくとも5度の大量絶滅が生じていることがわかっていますが、その原因は必ずしも小天体の衝突によるものとは限りません。超大陸の形成と分裂の際に発生する大規模な火山活動による環境変化によるものと考えられている絶滅やその他のものもあって、原因や原因について立てられた仮説は一定していません。

ただ、白亜紀末にいわゆる恐竜が絶滅した際の大絶滅については、隕石や彗星などとの天体衝突が原因であるとする説が定説になりつつあります。

三畳紀後期からジュラ紀、そして白亜紀まで繁栄していた恐竜は、現生鳥類につながる種を除いて約6600万年前に突如絶滅しました。ほとんどの恐竜が絶滅したこの時期には、全ての生物種の70%が絶滅したと考えられています。

地質学的には、中生代と新生代の境目に相当する時期であり、中生代白亜紀(独: Kreide)と新生代古第三紀(英: Paleogene)の境目であることから、この大変化のあった時代はK-Pg境界またはK-P境界と呼ばれています。

K-Pg境界を境にして、ほぼ全ての恐竜、翼竜、首長竜、アンモナイトが絶滅しました。生き残ったのは、爬虫類の系統では比較的小型のカメ、ヘビ、トカゲ及びワニなどに限られました。恐竜直系の子孫である、古鳥類や小型の獣脚類も大きな打撃を受けましたが、現生鳥類につながる真鳥類は絶滅を免れて現在も存続しています。

海中ではアンモナイト類をはじめとする海生生物の約16%の科と47%の属が姿を消しました。これらの生物がいなくなった後、それらの生物が占めていたニッチは哺乳類と鳥類によって置き換わり、現在の生態系が形成されました。我々人間もその生き残った生態系の中から生まれました。




こうした恐竜を中心とする生物の大量絶滅の原因としては、「夜間も活発に活動する哺乳類の台頭によって、恐竜の卵が食べつくされた」、「あまりに巨大化した恐竜は、種としての寿命が尽きた」、「白亜紀末期に出現した被子植物に対応できなかった」等の説がありましたが、いずれも客観的な証拠が欠けていました。

1980年、アメリカカリフォルニア大学の地質学者ウォルター・アルバレスとその父でノーベル賞受賞者でもある物理学者ルイス・アルバレスおよび同大学の放射線研究所・核科学研究室の研究員2名が、K-Pg境界における大量絶滅の主原因を「隕石」とする論文を発表しました。
アルバレス父子はイタリア中部の町、グッビオに産するK-Pg境界の薄い粘土層を、彼らの研究室にしかなかった「微量元素分析器」を使って分析し、他の地層と比べ20 ~160倍に達する高濃度のイリジウムを検出しました。

イリジウムは、プラチナの精錬の副産物として得られ、年間の採掘量はプラチナの生産量に依存するがわずか4トン程度で、貴金属、レアメタル(希少金属)として扱われています。 地球の地殻中での濃度は0.001 ppmにすぎませんが、隕石には多くのイリジウムが含まれており、その濃度は0.5 ppm以上であるとされています。

デンマークに産出する同様の粘土層からも同じ結果が得られたことから、アルバレス父子はイリジウムの濃集は局地的な現象ではなく地球規模の現象の結果であると考え、彼らはその起源を隕石に求めました。

発表した論文には「巨大隕石の落下によって発生した大量の塵が地上に届く太陽光線を激減させ、陸上や海面の植物の光合成が不可能となって、食物連鎖が完全に崩壊した結果大量絶滅をもたらした」と記載されました。また衝突直後の昼間の地上の明るさは満月の夜の10%まで低下し、この状況が数か月から数年続いだだろうと推定しました。

ところが、この論文の内容を他の多くの地質学者が否定、いくつもの反論が出ました。反論のなかで最も有力だったものが、イリジウムの起源を火山活動に求めた「火山説」でした。地表では希少なイリジウムも地下深部には多く存在します。それが当時起こっていた活発な火山活動により地表に放出されたとするのが火山説です。

インドのデカン高原には、地球上でもっともな広大な火成活動の痕跡である「デカントラップ」があります。2,000メートル以上の厚さを有する洪水玄武岩の何枚もの層から成り、面積は50万平方キロメートルに及びます。「トラップ」とは階段を意味するスウェーデン語で、この地域の景観が階段状の丘を示すことに由来します。

「デカントラップ」は、6800万年前から6000万年前の間に何回かの噴火によって形成されたと考えられており、時期的にも6600万年前とされるK-Pg境界と合っています。

このため、大規模な噴火の際に放出された大量の火山ガスと粉塵が当時の地球において大規模な環境破壊をもたらしたと推測されました。K-Pg境界より規模の大きな大絶滅であったP-T境界事件の原因とも推定されており、隕石説に反対する多くの地質学者が、この巨大な洪水玄武岩の噴火説を支持しました。

一方、アルバレスたちの論文の発表の直前には、ニュージーランドのK-Pg境界層でもイリジウムの濃集が確認され、同様のイリジウム濃集層がスペイン・アメリカ各地・中部太平洋・南大西洋の海成堆積岩層からも確認されました。K-Pg境界層の厚さは、ヨーロッパでは約1cmでしたが、北アメリカのカリブ海周辺やメキシコ湾岸では厚さが1mを超えました。

北アメリカのK-Pg境界の粘土層中には、高熱で地表の岩石が融解して飛び散ったことを示すガラス質の岩石テクタイトとそれが風化してできたスフェルール、高温高圧下で変成した衝撃石英も発見されており、これらはすべて、隕石衝突時の衝撃により形成されたと考えられました。

アルバレス父子の理論を支持する研究者たちによって調査が進むにつれ、K-Pg境界層の厚さから北アメリカ近辺に落下したらしいという点と、カリブ海周辺およびメキシコ湾周辺のK-Pg境界層で津波による堆積物が多く見つかることから、やがて落下地点はこの近くにあると推定されるようになりました。

最初の論文発表からおよそ10年を経た1991年、巨大隕石による衝突クレーターと見なされる「ユカタン半島北部に存在する直径約170kmの円形の磁気異常と重力異常構造」が石油開発関連の調査で発見されました。この調査は「メキシコ石油開発公団」(ペメックス)が石油探査のために行ったもので、1970年代後半から行われていました。

調査を行っていたのは、地球物理学者のアントニオ・カマルゴとグレン・ペンフィールドの二人で、ペンフィールドは当初、このクレーターが火山噴火によるものと考えていましたが、その証拠を得ることができず、調査をあきらめていました。

しかし1990年に惑星科学者であるアラン・ラッセル・ヒルデブラントと接触し、隕石落下によって形成される岩石標本を見せられたことから、このクレーターが隕石によってできたものではないかと考えるようになりました。そこでペメックスが採取していたボーリングサンプルを再調査したところ、その形成年代がK-Pg境界と一致することを発見。

含まれる岩石成分が隕石の衝突によって周囲に飛び散ったテクタイトと一致することが判明し、「K-Pg境界で落下した巨大隕石によるクレーター」であると確認され、メキシコユカタン半島の北西端チクシュルーブにあったため、チクシュルーブ・クレーターと名付けられました。深さ15 ~25kmの規模を持つ巨大なクレーターです。

チクシュルーブの名は中心付近の地名に由来し、マヤ語で「悪魔の尻尾」という意味があります。クレーターの直径についてはその後1995年に直径約300kmという説も発表されましたが、現地での地震探査の結果、現在では「直径200km」が妥当とされています。




その後、火山由来のイリジウムが検出される場合は同時にニッケルとクロムの濃度増加を伴うことがわかり、隕石由来の地層からはこれらの不純物が検出されないことがわかりました。K-Pg境界層からはイリジウム以外の元素の濃集は確認されていないことから、これにより火山説より隕石説のほうが有力な説とされるようになりました。

2010年、12か国の地質学・古生物学・地球物理学・惑星科学などの専門家40数人からなるチームが、K-Pg境界堆積物から得られた様々なデータを元に衝突説及び火山説についてその妥当性を検討した結果、チクシュルーブ・クレーターを形成した隕石の衝突が、K-Pg境界における大量絶滅の主要因であると結論づける論文をサイエンス誌に発表しました。

2014年には日本の千葉工大がこの時期の生物大量絶滅は、隕石衝突による酸性雨と海洋酸性化が原因であるという論文を発表しました。

それまでに提案されていた絶滅機構の仮説では海洋生物の絶滅を説明することが困難でしたが、千葉工大の研究者たちは高出力レーザー光を使って、宇宙速度での岩石衝突蒸発実験を行い、その結果、衝突で放出された三酸化硫黄(発煙硫酸)が数日以内に酸性雨となって全地球的に降り注ぎ、深刻な海洋酸性化が起きていたことを明らかにしました。

さらに2015年、地球惑星科学を専門とするカリフォルニア大学バークレー校のポール・レニー教授らが精密な年代測定方法によって、その衝突時期を分析した結果、それは約6604万年前と特定され、誤差は前後3万年であることなどもわかりました。

火山説はこうして葬られるかと思われましたが、超巨大隕石が衝突したのと時期を同じくして、デカントラップから溶岩流出量が増加していることが確認され、その時期は6604万年前の前後5万年内だと特定されました。現在では、溶岩流出は隕石衝突で誘発されたものであり、この二つの事象が同時に作用して大絶滅が引き起こされたと考えられています。

宇宙から落下してくる隕石は、大気圏で表面温度が1万度近くまで熱せられます。高速の隕石は高度11000mより下の対流圏を1秒以下で通り過ぎるので、非常に大きな衝撃波を伴い、地上に衝突した直径10kmの隕石は地殻に数十kmもぐりこみながら運動エネルギーを解放して爆発します。

チクシュルーブでは、推定直径10から15kmの大きさの隕石の爆発エネルギーで衝突地点周辺の石灰岩を含む地殻が蒸発や飛散によって消失し、深さ40km、半径70~80kmのおわん型のクレーター(トランジェントクレーター)ができました。このときクレーター部分とその周辺の海水も同時に蒸発・飛散して無くなりました。

この爆発の衝撃による爆風は、北アメリカ大陸全体を襲い、マグニチュード10程度の大地震が起きました。トランジェントクレーターの底には溶解したものの蒸発・飛散せずに残った岩石が溜まり、やがて再凝結しました。大きく開いたクレーター中心部は地下深部の高温の岩石が凸状に盛り上がってきて中央部が高くなりました。

中心部の盛り上がりに対応して地下の岩盤の周辺部は低下し、地表ではトランジェントクレーターのおわん型の壁が崩落して外側に広がっていきます。これらの地殻変動によってクレーター周辺の地殻は波打ち、同心円状の構造が形成され、最初のクレーターの形状が消し去られたあと、更に大きなクレーター構造となって残りました。

浅海に空いた巨大なクレーターに向かって海水が押し寄せるため、周辺海域では巨大な引き波が起こり、勢いよく押し寄せる海水はクレーターが一杯になっても止まらず、巨大な海水の盛り上がりを作った後、押し波となって周辺へ流れ出し全世界へ広がりました。衝突地点に近い北アメリカ沿岸では300mの高さの津波となって押し寄せました。

地面に衝突して爆発した隕石は全量が飛散し、衝突地点の岩石も衝撃のエネルギーで蒸発・溶解・粉砕され、トランジェントクレーターでは、隕石質量の約2倍に相当する岩石が蒸発(ガス化)し、隕石質量の約15倍の融解した岩石と、隕石質量の約300倍に達する粉砕された岩石が飛び散りました。

蒸発した岩石には石灰岩や石膏が含まれており、これが大気中で分解して大量の二酸化炭素と二酸化硫黄が発生。融解した岩石は空中で冷えて凝固しガラス状のマイクロテクタイトになります。衝突地点から吹き上がったこうした高温の噴出物は、クレーター周辺に再び落下して森林に火事を起こさせ、大量の煤(すす)を発生させました。




衝突地点から放出された大量の塵や大規模火災による煤は空中に舞い上がり、太陽光が地上へ到達するのを妨げました。さらに隕石衝突で大気中に巻き上げられた塵や煤は、比較的大きなサイズのものは対流圏(高度約11000mまで)まで上昇したあと数か月をかけて地上に落下しました。

1000分の1mm以下の小さなサイズのものはその上の成層圏や中間圏まで上昇し、数年から10年間とどまりました。これらは太陽光線に対して不透明であるため、隕石落下の直後には地上に届く太陽光の量は通常の100万分の一以下にまで減少しました。

この極端な暗闇は対流圏に大量に噴き上げられた煤や塵が地上に落下するまで数か月続き、その期間気温が著しく低下し、光不足で植物は光合成ができなくなりました。

北アメリカのK-Pg境界に相当する地層のハスやスイレンの化石から、隕石は6月頃に落下したこと、落下直後には植物が凍結したことが分かっており、またK-Pg境界直後の海洋においても植物プランクトンの光合成が一時停止したことが判明しています。

さらに、大気中に放出された二酸化硫黄は空中で酸化し硫酸となって酸性雨として地表に落下し、一部は硫酸エアロゾルとなって空中にとどまりました。そして高温の隕石や飛散物質が空気中の窒素を酸化させて窒素酸化物を生成し酸性雨を更に悪化させました。

煤や塵と同様に、硫酸エアロゾルも地表に届く太陽光線を減少させる物質であり、これらの微粒子の影響による寒冷化はその後約10年間続いたと推定されています。こうした隕石衝突による地上の暗黒化・寒冷化は「衝突の冬」と呼ばれるようになりました。

以上のように、この巨大隕石の衝突は、衝突地点で破滅的な状況を生み出したのみならず、数か月から数年におよぶ地球全体における光合成の停止や低温を引き起こし、その結果招いた環境の激変によって、恐竜をはじめとする多くの生物種が滅びました。

チクシュルーブ・クレーターを形成した衝突エネルギーは、1.3×1024 J – 5.8×1025 J、又はTNT換算3×108~ 109メガトンと計算されていますが、この量は冷戦時代にアメリカとソ連が持っていた核弾頭すべての爆発エネルギー104メガトンの1万倍以上に相当します。

仮にもし現在、の冷戦下の核弾頭すべてが爆発したと仮定すると、著しい爆発で舞い上がった塵や大規模火災で生成された煤の影響によって地上に到達する太陽光の著しい減少が生じ、厳しい寒冷化が起こると考えられています。

北半球中緯度地方の夏至の気温は平均で10-20℃低下し、局所的には35℃ほど低下があり、オゾン層は壊滅的に破壊されて農業はほぼ全滅すると考えられていますが、忘れてはならないのは、こうした環境変化を起こす隕石がもたらすエネルギーがK-Pg境界で落下した隕石の持つエネルギーの1万分の1にすぎないということです。

もしもチクシュルーブ・クレーターを形成したのと同じ隕石が現在の地球に落ちてきたら、当然のことながら人類もまた大きなダメージを受けるでしょう。地球近傍天体(NEO)は、いつ人類に滅亡をもたらしてもおかしくない絶対的な脅威であり、歴史上の人間同士の戦争や疫病によるものをはるかに超える被害が出ることは間違いありません。

地球近傍天体の直接の衝突だけでなく、前述のロシア・チェリャビンスクの隕石の例にもみられるように、そうしたニアミスによっても大きな被害が出ると考えられています。ほかにも天の川銀河内でのガンマ線バースト発生や、破局噴火、長周期の気候変動などが考えられ、天文学的・地学的災害によって我々人類が滅亡する可能性は否定できないのです。

1933年に刊行された、フィリップ・ワイリーとエドウィン・バーマーのSF小説「地球最後の日」は、2連の放浪惑星が地球に衝突するというストーリーでした。地球衝突のコースをとるその存在に気付いた科学者たちは、唯一人類を存続させる方法として、可能な限りの人数が乗り込める大きさの宇宙ロケットを作って地球を脱出させました。

最後の人類が旅立った先は、あろうことか地球に衝突しそうな放浪惑星の一つであり、もうひとつの惑星は地球に激突し、地球とともに砕け散りました。

残った放浪惑星に辿り着いた人類の生き残りは、ここで新たな人類の歴史を作り始める、というのがこの話のオチですが、現在の地球もその環境が悪化の一途をたどりつつあり、そうした中、火星への人類移住計画も取沙汰されていて、「地球最後の日」もあながち荒唐無稽な話ともいえません。

人類を滅亡に導くのは、地球近傍天体の衝突だけとは限りません。現在世界中に蔓延しているコロナウィルスのように、ウイルスやプリオン、抗生物質耐性を持つ細菌などが大発生し、全人類に感染して死滅する、という可能性もあります。

最近の研究では、人為的に制作された病原体で人類を絶滅させることは可能とされてり、しかもそのようなものを作るための障壁は低いと科学者たちは警鐘を鳴らしています。

その一方で、そのような事態を「認識し効果的に介入」して病原体の拡散を食い止め、人類滅亡を防ぐことが出来る、ともいわれています。今回のコロナ騒動を機に、そうした認識を高め、地力をつけて来るべき人類の滅亡に備えたいものです。これからの時代を担う若い世代にはとくにそれを期待したいと思います。

地図にない町

ロシアのウラジオストックは、日本から直行便で約2時間半、今や気軽に行ける港町になりました。東欧を起点とするシベリア鉄道の始点であり、ヨーロッパとアジアの雰囲気が入り混じるエキゾチックで独特な雰囲気が魅力です。

2017年8月からは無料の電子査証での訪問が可能となっており、2020年2月からは日本航空が、また3月からは全日空が成田から毎日1往復の便を就航させたことなどから、日本人観光客が増えています。

ほかにもS7航空の直行便が毎日運航しています。関空からも各社の便がありますがこちらは週に1~2便のみ。韓国経由だと航空券代もかなり安くなりますが、総飛行時間が長くなるのが難点です。

飛行機のスケジュールにもよりますが、現地への移動時間を含めても成田発2泊3日が基本。調べてみたところ、添乗員同行のツアーでも最安値で6万円台からあるようです。

最大の観光名所がどこかといえば、その答えを出すのはなかなか難しそうです。誰もが訪れたくなるような特別な名所が存在しないからですが、そこもまたウラジオストックの魅力であるといえます。

ほとんどの観光地は市内に集中しており、あくせくとあちこちを回る必要がなく、ゆったりとした時間の流れを感じとることができます。

ロシアでしか購入できない雑貨を求めるのもよし、街中にあふれるストリートアートや美術館、バレエなどの芸術鑑賞をするのもよし、大自然の中でのトレッキングや見晴らしの良い展望台に行くのもありです。北朝鮮料理の店やカジノなどもあって、各々が期待するシーンに合わせた観光が楽しめます。




その古い街並みも魅力で、大手企業の資本の店舗はほとんど見掛けません。「ZARA」や「バーガーキング」といった例外は多少あるものの、昔からの街並みがそのまま残っており、古き良き時代のヨーロッパのノスタルジーを感じさせます。

ウラジオストックの名称は「東方を支配する町」を意味しています。その通り、かつてウラジオストックはロシアの極東政策の拠点となる軍事・商業都市でした。本来のロシア語での読みはヴラディ・ヴォストーク(ウラジ・オストク)ですが、日本では明治時代以降、ウラジオ・ストックと解され、漢字には浦塩斯徳(または浦潮斯徳)が当てられました。

日本海に突き出した長さ30キロ、幅12キロのムラヴィヨフ・アムールスキー半島(ロシアの極東政策に深く関わった同名の政治家に由来する)の南端部、北緯43度7分、東経131度51分に位置し、かつてはロシア海軍の太平洋艦隊の基地が置かれていました。

人口は60万とちょっと。丘陵上の市街に囲まれるようにして金角湾が半島に切れ込んでおり、天然の良港になっています。街の中心部は金角湾の奥にあり、南には東ボスポラス海峡(ロシア船舶が黒海へ頻繁に出入りをするトルコのボスポラス海峡にちなんでこう呼ばれる)を挟んで軍用地や保養所などのあるルースキー島が浮かんでいます。

2012年9月にはこのルースキー島でロシアAPECが開催され、首脳会議の会場となりました。ロシア政府はそのAPEC開催に備える形で、ルースキー島連絡橋の建設やウラジオストック国際空港の改修を行うなど、総額約6,000億ルーブル(1兆6,500億円)の莫大なインフラストラクチャー投資を行いました。

ルースキー島では、リゾート地化を目的として大規模な開発が進められ、現在までに数々のリゾートホテルや水族館(プリモルスキー・オケアナリウム)が完成するに至っています。また、APEC終了後、極東連邦大学がその会場跡に移転しました。

清の時代に外満州(Outer Manchuria)と呼ばれていた地域の中で、現在のウラジオストックにあたる地域は海參崴(ハイシェンワイ・海辺の小さな村の意)と呼ばれていました。外満州は、1858年のアイグン条約と1860年の北京条約によって、清からロシア帝国に割譲されました。

ロシア帝国は外満州から獲得したこの土地を沿海州と名付け、その南部にウラジオストックの街を建設しました。19世紀末までには太平洋への玄関口として、また北に厳氷海しか持たないロシアが悲願とする不凍港として極東における重要な港町に位置づけられるようになりました。

日露戦争時には、ロシア帝国海軍バルト艦隊、太平洋艦隊の分遣隊が置かれ、のちに強化されてウラジオストック巡洋艦隊となりました。日本海海戦で日本の連合艦隊に完膚無きまで叩きのめされた後、残りの艦船のほとんどがバルト海へ返され、太平洋艦隊はシベリア小艦隊に縮小されました。

その後の革命の勃発によってロシアが国力を弱めると、第一次世界大戦では連合国が干渉戦争を仕掛け、シベリアへ出兵することが決まります。連合国のひとつであった日本も、1918年(大正7年)に帝国陸海軍が当地に進出しました。

日本はウラジオストックからイルクーツク以東を1918年から1922年にわたって占領しましたが、「ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国」と名前を変えたソビエト政権が日本のシベリア出兵に対峙すべく極東共和国を建国。占領を続ける日本軍との対決が始まります。

占領を続ける日本は、ボリシェヴィキ(レーニンが率いる左派)が組織した赤軍や労働者、農民によるパルチザンによる激しい反抗受けましたが、その結果1922年10月にウラジオストックが陥落し、これを機に北サハリンを除く地域から撤退。極東共和国は存在意義を喪失し、ソビエト政権へ統合される事となりました。

ソビエト連邦時代の1935年、それまであった小規模な艦隊を拡張する形で、ウラジオストックを本部とするソビエト連邦海軍太平洋艦隊が創設されます。1938年には、沿海州を改組した沿海地方の州都となるとともに、ウラジオストックは軍港として重視されるようになりました。

太平洋戦争(日)・大祖国戦争(ソ)の時代を経て米国との冷戦に入った後、国際都市として開かれていたウラジオストックは一変することとなります。1958年からソ連が崩壊する1991年まで、ごく一部を除いて外国人の居住と、ソ連国民を含む市外居住者の立ち入りが禁止され、「閉鎖都市」となったのです。

しかし、ソ連崩壊後の1992年、閉鎖の指定が解除されました。民間旅客航空会社のウラジオストック航空が誕生し、日本各地の空港との間に定期便が就航するようになり、1993年には、閉鎖都市となっていた間ナホトカへ移動していた日本国総領事館も戻ってきました。

2012年のAPEC開催が決まったことで大規模な公共事業が実施された結果、急速に交通インフラの整備も進みました。空路では、サハリン航空を併合した「オーロラ」が成田と新千歳の間に航路を開き、海路では、韓国のドゥウォン商船が京都舞鶴港と韓国の浦項迎日湾港、ウラジオストックを結ぶ航路を開設しています。

産業では自動車産業を積極的に誘致しており、マツダやトヨタ自動車など外資系メーカーの進出しているほか、日本からの中古車輸入が盛んとなり、極東における一大市場となっています。さらに、天然ガスの生産・供給において世界最大の企業であるガスプロムと日系企業によるLNG生産プラントの建設も計画されています。




閉鎖都市

このように、近年のウラジオストックの発展はかつてそれが「閉鎖都市」であったことを忘れるほどに著しいものです。

ウラジオストックと同様、かつて閉鎖都市だった東欧各地の都市も開かれ、国際交流が盛んになってきています。

かつて閉鎖都市を持ち、現在はソビエト(ロシア)から独立している東欧諸国は、カザフスタンやウクライナ、エストニア、スウェーデンといった国で、またソビエトと冷戦関係にあったアメリカ合衆国にも閉鎖都市がありました。

閉鎖都市は、主として核兵器や化学兵器開発といった国家秘密に関わるような特定の目的のために作られた都市です。街の情報の開示や出入りを厳しく制限することで兵器の秘密を保持し、開発をしていること自体を秘密にしたり、また軍事基地の情報が外に漏れないようにするために閉鎖を行いました。

そもそもアメリカ合衆国が核兵器開発のために秘密都市を作ったことをソビエト連邦側が察知し、それを模倣して作るようになった、ともいわれています。その住民は、主として核兵器製造や化学兵器製造、あるいは何らかの軍事活動に従事している者やその家族です。

通常、都市というものは出入りが自由ですが、閉鎖都市の多くはフェンスや壁など、出入りの障壁になるもので囲まれています。検問所や何らかのゲートのようなものを設けて外の人間の立ち入りを厳しく制限しており、一般人は立ち入ることができません。

中に入ることができるのは極めて限られた者だけであり、住民が転出することも、陰に陽に、さまざまな形で制限されたり、それをしないように当局から圧力がかかりました。仮に転出ができた場合でも長らく当局から監視の対象になることも多く、そうしたことから、その都市で生まれた人の多くが一生涯その都市で暮らすことになるといいます。

ソビエト連邦崩壊後のロシアでは1992年に「閉鎖行政領域体に関するロシア連邦法」が制定され、この法律の適用を受けて、42の閉鎖都市(ロシアではZATOと呼ばれる)が指定され、そこに住む住人の人口合計は推定でおよそ130万人に及ぶとみられています。

核開発にかかわるZATOが多く、核開発以外に関わるZATOとしては、宇宙開発関係のアムール州のツィオルコフスキー(旧称ウグレゴルスク)、ICBM基地があるトヴェリ州オジョルヌィ、潜水艦基地があるカムチャッカ地方ヴィリュチンスクなどがあります。

42のZATO以外にも、約15の確認されない都市があると考えられており、いずれもが特別な行政組織で運営されていて、居住者や関係者以外の立ち入りは規制されています。

アメリカ合衆国でも、マンハッタン計画による原子爆弾研究・製造の拠点として、過去に同様の機密都市を建設しています。1943年に指定されたオーク・リッジ、ロスアラモス、ハンフォードの3つの都市がそれらです。

いずれも都市も建設前には大規模な人口密集地はありませんでした。オーク・リッジとロスアラモスは、該当地区とその周囲に農村が点在していただけであり、アメリカ陸軍がその居住農民たちから半ば強制的に土地を収用し、これに応じない者は強制排除しました。

オーク・リッジやロスアラモスと言った現在の地名は、付近に過去に存在した地名から命名されたものです。ハンフォードだけはそれ以前から同名の漁村が存在していましたが、住民はやはり強制的に土地を収用され立ち退かされた後、同じ名前が付けられました。

ただし、建設当初からこれらの名で呼ばれていたわけではありません。オーク・リッジはサイトX、ロスアラモスはサイトY、ハンフォードはサイトWと呼称されていました。また内部の個々の施設もその目的や用途、機能を隠匿するため、S-25、Y-12といったコードネームで呼ばれていました。

しかしこうした秘匿名称を使うことは返って周囲の興味を引くという考え方から、上述のような地名などをあてがわれることになりました。地図にもそれらの施設が記載されることはなく、実際にそのような都市・施設が存在しているかどうかは、一般市民はもとより政府・軍関係者でも一部の者にしか知らされませんでした。

マンハッタン計画が終了した1947年以降、オーク・リッジとロスアラモスは存在自体の秘匿対象から外れ、正式な地名・自治体として公表されました。

しかし依然として施設の内容は秘匿され、また住民の管理も続き、さながらソ連型社会を思わせるかのような居住統制が行われていたといいます。

また人種差別もあえて強まるように指導されていたといい、これは白人主体の運営のほうが情報が漏れにくいと考えられたためでしょう。こうしたところに白人社会が幅を利かせているアメリカという国のえげつなさを感じます。



これらの都市が完全に解放されるのは、冷戦の終結後です。ただ、マンハッタン計画に基づいてプルトニウムの精製が行われていたハンフォードだけは、現在もハンフォード・サイトと呼ばれて核燃料や核廃棄物の再処理が行われています。核施設の労働者以外は基本的に居住せず、外国人の立ち入りも制限されている点は昔と同じです。

こうした閉鎖都市では上空の飛行制限を行ったり、閉鎖都市につながる道路を封鎖するなどの規制も行われていました。また郵便物を届ける際も、近くの大都市の名前を使い、郵便番号も特殊なものを用いる(ソビエトの場合、Arzamas‑16, Chelyabinsk‑65など)といったことまで行われ、その都市がこの世に存在することをできる限り秘密にしていました。

こうしたことから、閉鎖都市は「秘密都市」と呼ばれることすらあり、こうした秘密都市は、地図上からも消されたり、その描写を変えられていました。そもそもが戦時下の対策として始められたことから、こうした改変を戦時改描(かいびょう)と呼びます。

軍事的に重要な施設が、地形図上に偽って表現されたり消されたりするもので、日本でも戦時下に毒ガス開発の拠点であった瀬戸内海の大久野島(広島県)が地図から消されていたというのは有名な話です。

日本だけではなく、世界中でこのような戦時改描が行われていましたが、最初は重要な施設を空白にしておく「省略改描」だけでした。しかし、第一次大戦で都会が爆撃を受け多数の犠牲者が出たことなどを受け、架空のリンゴ畑や桑畑が描かれるようになりました。

日本では陸軍参謀本部の外局である陸地測量部によって戦時改描が行われていました。対象となったのは、軍事施設、基幹産業関連、皇室関連施設などで、貯水池は芝生に、火薬庫は桑畑にしたりと、色々な改描が行われました。その一方で敵国の地図を入手し改描を行った箇所を看破するといったことも行っていました。

ただ、こうした改描を行ったことがわからなくなってしまう恐れもあることから、軍事施設では星の下に錨を描いた記号を書き込み「陸海軍官衙」と注釈を入れたり、枠外に記入されている価格を丸括弧で囲むなどして改描の有無がわかるようにしていました。




消された町

かつての閉鎖都市や秘密都市も同様に地図上から消される、ということは日本だけでなく他の国でも行われていましたが、そうした軍事目的の施設や都市でなくても地図を見ただけではどんな場所なのかわからない、ということは往々にありがちです。

インターネットが普及した今日では、googleマップのストリートビュー機能などによって世界中どこにでも行けますが、人が踏み入れたこともないような場所や紛争地域、あるいは中国のように積極的な情報開示をしていない国にそうした場所は多いようです。

航空写真がある場合はどんなところなのかそれなりに見当はつきますが、それがない場合や小さな縮尺の写真がない場合はほとんどお手上げになります。

実際には存在するはずなのにいくら調べてもどこだかわからない場所もあります。多くの場合、呼称が複雑だったり似たような地名が多数あることが原因ですが、記載漏れや間違いによって見つけられない場合もあり、改めてしっかり調べれば見つかったりします。

しかし、中には知名度の低さや「存在感の薄さ」からインターネット上では「実在しない町」になってしまっている場合があり、中には恣意的に消されそうになった町もあります。

ドイツのビーレフェルトは、そうした町のひとつです。

ノルトライン=ヴェストファーレン州にあるこの町は、人口33万人の実在する都市ですが、インターネットによって、「実在しない」とされるようになってしまいました。「その存在を信じさせようとする巨大な陰謀がある」とする情報まで流され、陰謀を企む「やつら」によってそうした情報が流されたのだとする噂まで流されました。

それによれば「やつら」は「当局」と手を結び、「ビーレフェルト」なる架空の都市があたかも実在するかのような情報が流れました。またビーレフェルト関連のニュースも「やつらのプロパガンダ」と論評され、Bielefeld の一部を“B*e*e*e*d,”、“B**l*f*ld”などとわざと伏字にして公表されました。

挙句の果てには、実在するビーレフェルト大学(Bielefeld University)は実は宇宙人が運営していて、この大学がそうした陰謀を画策している本拠地だといった噂まで流れ、さらにはBIではじまるビーレフェルトの自動車のナンバープレートは実際には存在せず、偽造されたものだとする情報まで流れました。

一方ではこのようなありもしない都市が存在するかのように信じさせる陰謀が「いつ始まったのか、なぜ仕組まれたか」といった逆説的な特集記事まで組まれ、あたかも何等かの陰謀が実際にあったかのように見せかけるサイトまで出てきました。

この町に関し、「試しに、相手に3つの質問をしてみよう」といった問いかけがネットで流されたこともあります。これは、

あなたは、ビーレフェルトから来た人を知っていますか?
あなたは、ビーレフェルトに行ったことがありますか?
あなたは、ビーレフェルトに行ったという人を知っていますか?

というものです。ビーレフェルトをよく知らない人がこうした質問をされれば、3つの質問すべてに「いいえ」と答えてしまうでしょう。

しかし、もしも1つでも「はい」と答えた人物がいたら、その人物(あるいはその知人)は「やつら」の陰謀に加わっているに違ない、というわけで、こちらも何か陰謀があるかのように思わせる巧妙な仕掛けといえます。



このように「消される対象」となったビーレフェルト市ですが、たしかに「大都市なのにぱっとしない」微妙な存在のようです。第二次世界大戦で激しい爆撃を受けたために歴史的な町並みや建物も少なく、全国的に知られた観光地もありません。また有力な企業や公共機関があるわけでもなく、ニュースに取り上げられることもほとんどありません。

アウトバーンは郊外を通過するだけであり、鉄道駅は市の中心部にあるものの、かつてはまるで仮設駅のような雰囲気でした。2007年に大規模な改修工事が行われたため多少事情は変わったとはいえ、人々はビーレフェルト市が大きな都市であることに気が付かないまま通過してしまいます。

市に本拠を置くプロスポーツチームとしてはサッカーのアルミニア・ビーレフェルトがあり、このチームは観客動員数では世界第1位のプロサッカーリーグであるブンデスリーガ一にかつて属したこともありますが、その地位を維持し続けるほどの力はありません。

方言がありますが、日本でいえば青森や沖縄のそれほどひどくはなく、ビーレフェルト方言を話す人物としゃべったとしても、そのなまりが印象に残ることはあまりありません。

このようにこれといった特徴がないビーレフェルトは、他の地域に住む多くのドイツ人にとっては印象に残らないのです。

こうした風潮に危機感を覚えた市政府は1999年、新聞に Bielefeld gibt es doch! (ビーレフェルトは存在する!)と題する広告を載せました。しかし、よりによってその掲載日が4月1日であったために、「陰謀論」に加担した格好になりました。

さらにGoogle マップではビーレフェルト都心部の衛星画像の解像度は長らく低いままであったといいます。衛星画像と道路地図は完全に合致しなかったといい、データは2006年10月に更新され、都心部も詳細に見ることができるようになりましたが、市長のオフィスには現在でも実在を確かめる電話やEメールがしばしば寄せられるといいます。

このように、どこの国でも印象の少ない町や地域というものはあるものです。ドイツ以外では、1980年代にアメリカのノースダコタ州が同様に「抹消」の対象となったほか、ネブラスカ州、アイダホ州、ワイオミング州などもその存在感の薄さからよくからかわれます。

ジョージ・H・W・ブッシュ政権時代に国防長官や副大統領を勤めたディック・チェイニーは、このうちのネブラスカ生まれであることから、「やつら」の側で陰謀の片棒を担いでいるとよくジョークのネタにされました。

このほか、スペインのテルエルは県都でありながら、山がちな地形と少ない人口のために存在感が薄いようです。1999年、Teruel existe (テルエルは存在する)というスローガンを掲げるキャンペーンが展開されましたが、このスローガンは、Teruel no existe (テルエルは存在しない)という巷で流行ったジョークを逆手にとったものだったといいます。

さらには、国家的にも存在感がない国もあります。例えばヨーロッパ諸国の中においてはベルギーがそのひとつです。国土が小さいこともありますが、突出して優れた産業もなく、国自体の実在が疑わしいとしてジョークの格好のネタにされることも多いようです。

日本でも、影の薄い県は少なくありませんが。ネットなどで「忘れられている都道府県ランキング」といったキーワードで探すと、島根県 福井県 佐賀県 滋賀県 山口県などがよく出てきます。このほか群馬県や栃木県も印象に残りにくい県のようです。

2005年11月にフジテレビで「ニッポン列島緊急特番ザふるさとランキング最新格付け決定SP!!」という番組が放送されましたが、この中で栃木県は「影の薄い県第1位」に格付けされました。

さらに栃木県の県庁所在地である宇都宮市は、それが県庁所在地であることすら知らない人が多いようです。栃木県出身のお笑いコンビのU字工事は、人口51万人の大都市であるこの宇都宮の存在感の薄さをしばしばネタにします。

しかし同じ栃木県にはさらに影の薄い町があります。市貝町(いちかいまち)というのがそれで、ここも同じフジテレビによって「影の薄い市町村第1位」に格付けされました。

栃木県南東部に位置する町ですが、たしかに目立った観光地はなく、人口も1~1.2万人と決して多いといえません。出身者に目立った有名人はおらず、2014年に道の駅「サシバの里いちかい」ができましたが、全国に1200ほどある道の駅の人気投票では800位前後でけっして賑わっているとはいえません。

近くには同じ大きさの益子町、芳賀町、茂木町、高根沢町などがあることもその影の薄さを際立たせています。これら4町と違って町の名前さえ出されないことも多いとかで、これが「日本一影の薄い街」とされた理由ですが、これにはさらに「日本一影が薄い県の」が頭につきます。

しかしどんなに影が薄くても実在する町には人も住み、土地もあるわけです。市貝町のように印象の小さい町は日本中いたるところにあり、ここが取り上げられたのは、印象が薄いとされる栃木県という地域を際立たせたかったからでしょう。同県・同町にお住まいの方々にとってはいい面当てです。



実在しない町

このように地図に載っていて実在するものの印象が薄い町がある一方で、地図には存在するにもかかわらず、実在しない町、というものもあります。

かつてイギリスのアーグルトン(Argleton)という町がそうした町として有名になったことがあります。2009年12月中旬に訂正が行われるまで、この地名はイギリス・イングランドのランカシャー州オートンに近接した位置に表示されていましたが、実際にはこの場所は空き地が広がるばかりの土地でした。

Google マップおよびGoogle Earthで表示されていた「アーグルトン」の位置は、北緯53.543度 西経2.912度座標: 北緯53.543度 西経2.912度でした。ここは人口約8000人の村・オートン(Aughton)の村域内で、リヴァプールとヨークとを結ぶ幹線道路A59がすぐ近くを走っています。

通常、Googleのデータは他のオンライン情報サービスにも利用されています。このため、「アーグルトンの天気」「アーグルトンの不動産」「アーグルトンの求人」といった、あたかもこの町が実在するかのような情報が多数リストアップされることになりました。これら関連付けられたサービスや事業体は、同じ郵便番号L39の地域内にある実在のものです。

実在しない町「アーグルトン」に気づいて最初に反応したのは、マイク・ノーラン(Mike Nolan)という人物でした。オートンの隣町オームスカークでウェブサービス会社の社長を務めるノーランは2008年9月、インターネット上で実在するかのように扱われているこの「幽霊集落」のことを自身のブログに書き込みました。

さらに翌年にはノーランの同僚であるロイ・ベイフィールド(Roy Bayfield)によって詳しい調査が試みられました。グーグル・マップが指し示す場所に特別な何かがあるのかどうかを実際に歩いて調べたベイフィールドは、その結果を彼自身のブログに報告しました。

そのブログで彼はまず「アーグルトン」は「一見普通だった」(deceptively normal)と語り、しかし現実と虚構が混交するまるでマジックリアリズムの町のようだとこれを補足しました。

マジックリアリズムとは、日常にあるものが日常にないものと融合した作品に対して使われる芸術表現技法で、世界中の小説や美術に見られるものです。例えば、大江健三郎の「同時代ゲーム」では、主人公の故郷である「村=国家=小宇宙」は徳川期に権力から逃れた脱藩者により四国の山奥に創建された村です。

明治維新以後「村=国家=小宇宙」は大日本帝国の版図に組み込まれますが、租税や徴兵に抵抗するため「二重戸籍」の仕組みを持っていました。しかしこの仕組みが露見したため、大日本帝国は軍隊を派遣し、ここに「五十日戦争」の火蓋が切られた…といった物語です。

このベイフィールドによる「アーグルトンの発見と探索をめぐる物語」がどのようなものだったのかはよくわかりませんが、実際に何か歴史があるかのごとく紹介し、かつ幻想的な町であるといった創作をしたのでしょう。

これがまず地元のメディアによって取り上げられ、2009年11月には「Googleマップには存在するが、現実には存在しない町」が世界中のメディアの注目を集めるようになり、インターネット上でも大きな反響を呼びました。

Googleにおける”Argleton”の検索結果は、2009年11月4日現在で25,000件、同年12月23日には249,000件にまで増加したといい、Twitterでも”Argleton”はよく使われるハッシュタグ(検索をしやすくするためのキーワード)となりました。

その結果、「アーグルトンでこのTシャツを買ってきた」とか「ニューヨーク、パリ、アーグルトン」であるとかいった文字をプリントした商品を販売するサイトまで登場するようになりました。

果てには「著作権トラップ」としてGoogleがわざと「アーグルトン」を記したと疑う人まで出てきました。これは著作権の侵害者を発見したいときに時々使われる手法です。

例えば図鑑や地図など、ある対象を事細かに調べ上げた類いの著作物の場合、本文中にさりげなく誤った情報を数個混入させておけば、それを丸ごと盗用する者は誤った情報だと区別することなく一緒に書き写すはずです。その項目の有無を確認することによって不法な盗用であることを立証しやすくなります。

つまり、無断複写によって地図の著作権を侵害した者が言い逃れできなくするための罠として、Googleがわざと間違った情報を載せておいたのではないかというわけです。

よく見ると、“Argleton”のスペルはこれを入れ替えると”Not Large”になります。これは単語または文の中の文字をいくつか入れ替えることによって、全く別の意味にさせる遊び、「アナグラム」と考えることもできなくはありません。

さらにスペルを入れ替えるとこれは”Not Real G”にもなります。この場合、GはGoogleのGであるという解釈です。Googleがその名を伏せてこうした罠をかけたのではないかというわけですが、一方ではこれは、単に“Argleton”を含む村の名前である”Aughton”をスペリングミスしたものではないか、と指摘する人もいます。

こうしたいろいろな憶測に対して、Googleのスポークスマンは「我が社の情報の大部分は正確だが、たまに誤りもある」とコメントし、利用者に誤りをデータ提供者に知らせるよう勧めたといいます。

Googleマップにデータを提供しているのは、オランダに本拠を持つテレアトラス社というカーナビゲーション用のデジタルマップなどを提供する会社でしたが、同社は、このような「異常」がデータベースに混入した理由についての説明を行わず、ただいずれ「アーグルトン」は地図から除去されるだろうと述べるにとどまりました。

情報の訂正は2009年12月中旬に行われ、以降 Google Map 上でも「アーグルトン」を見つけることはできなくなりました。

おそらく現在でもGoogleマップを探し歩けば、アーグルトンのように実在しない町が世界中に存在するのでしょう。おそらく日本でも同じと思われます。

もしかして、あなたの住む町も間違った記載がされているかもしれませんし、あるいは消されているかもしれません。ぜひ一度チェックしてみることをお勧めします。

ユダという名の日本

10月です。日本では神無月ともいいます。

出雲大社に全国の神様が集まって一年の事を話し合うため、出雲以外には神様が居なくなるのでこう呼ぶのだとか。逆に、神々が集まる出雲では、この月は神在月と呼ばれます。

ではなぜ出雲なのかですが、これは中世以降、全国で最も布教活動に熱心だった出雲大社の御師(おし)たちがこの話を広めたからです。

御師というのは、それぞれの神社の広報マンのような存在で、講とよばれる結社を広めるために作られた職業です。戦国期を除いて経済が比較的安定していた時代、庶民はレジャー感覚で寺や神社にお参りをしていましたが、このとき御師の助けを受けていました。

御師は頑張って宣伝を行い、自社を援助してくれるサポーターを獲得するよう努力しましたが、このサポーターのことを「檀那」といいます。有力神社に御師職が置かれて布教活動が盛んになると、祈祷などにやってくる依頼者をこう呼ぶようになりました。神社に限らず寺院でも同じ呼び方をします。

中でも伊勢御師の活動はとくに活発で、全国各地で「伊勢講」を構築しては檀那の世話を行い、逆に彼らが伊勢参りに訪れた際には自己の宿坊で迎え入れて便宜を図りました。

鎌倉時代から室町時代初期にかけては、こうしたことが全国の神社で行われるようになりました。何しろ儲かる商売なので、御師の間で師職(御師の職)や檀那の相続、譲渡・売買といったことがさかんに行われるようにもなります。

江戸時代になるととくに勢力の強い御師のもとに檀那や祈祷料などが集まり、伊勢以外では富士や出雲の御師組織がと大きくなり富士講や出雲講といった講ができました。出雲の場合、その御師が布教する場所は丹所(たんしょ)といい、これが全国に建設されるようになりました。

出雲神社の御師たちはこの丹所を発信源として、神無月には出雲以外には神様が居なくなるという説を流布しました。無論、何の根拠もあるわけではありませんが、出雲神社のような由緒ある神社の御師が言うことだから、と人々はこれを信じるようになり、その御師組織が出雲講と呼ばれるように大きくなった江戸時代には全国で信じられるようになりました。




このようにある出来事の由来について、確固たる根拠がないにもかかわらず、何等かのかたちで権威づけられ定着してしまったものを、民間語源と呼びます。

民衆語源、語源俗解、民俗語源、通俗語源などとも呼ぶようですが、広められたものが必ずしも「語」とは限らないので、民間伝承(フォークロア)と呼ぶ方が正しいかもしれません。

民間語源のこのほかの例としては、「くだらない」というのがあります。

地方へ流通していく京都・上方の物産で、特に灘の酒などのように地方産より上質とされたものは、は「くだりもの」とよばれるのに対し、そうではないものは「くだらない」とされ、つまらないものという意味で使われるようになりました。もっともらしい説ですが、これも根拠があるわけではなう、長い間にそうであろう、とされるようになっただけです。

「師走」もそうです。年末は坊さんが仏事で忙しく走り回るからこう呼ばれるようになったとよくいわれますが、こちらも民間語源のひとつであり裏付けるものは何もありません。

「邪馬台国」はなぜそう呼ぶようになったのか、というのもあります。これは、九州に上陸した大陸からの使節がこの地域の住民に、「この国の名は?」と問うたとき、彼らが九州弁で「大和(やまと)たい」と答えたというものです。笑い話のような話ですが、真に受ける人もいそうです。

似たようなものは英語にもあります。英語のアスパラガス(asparagus)がスパローグラス(スパローは“スズメ”でスズメ草)に由来するという俗説や、ヒストリー(history)がヒズ・ストーリー(彼の物語)に由来するといったものです。

語源が方角をあらわす北東西南のそれぞれを意味する英語NEWSもNorth、East、West、Southの頭文字だという説がありますが、これも民間語源にすぎません。本当は“new”が複数形化したものであり、「(複数の)新しいこと」という意味のラテン語が語源です。

民間語源が単語や綴りを変えてしまう場合もあり、島を意味する「islandアイランド」は、もとは古英語で“iland”と綴っていました。ところが、ラテン語で島を意味する「insulaインスラ」が語源であるとする俗説が広がった結果、発音には不要な“s”の字が挿入されてislandとなってしまいました。

英語を日本語に翻訳する際にできたとされる語源俗解もあります。肥筑方言のひとつである「ばってん」は、英語の“but and“または”but then“によるとする説です。これは意外にも言語学的には正しく、古語の「〜ばとて」は、「それでもしかし」という意味であり、英訳すれば”but then“です。

さらに「阿呆(あほ)」の語源は英語の「ass holeアス・ホール」であるという説や「ぐっすり」の語源は英語の「good sleep」であるという説などがあります。




このほか、日本語にはヘブライ語が多数入り込んでいるという説があります。「ジャンケンポン」はヘブライ語「ツバン・クェン・ボー(隠す・準備せよ・来い)」であり、これは「キリスト教の一切を語る秘儀」を表現しているのだそうです。

さらに、「威張る」は「バール(主人)」、「さようなら」は「サイル・ニアラー(悪魔追い払われよ)」、「晴れる」は「ハレルヤ(栄光あれ)」、ありがとうは「ALI・GD(私にとって幸運です)」などがあり、さらに、京都の「祇園」は「シオン」であるとか、「イザナギ・イザナミ」は「イザヤ」だとするなど、ヘブライ語とされる語は意外に多くあります。

実際、ヘブライ語と日本語には類似点が多いようで、そうした類似点を背景に言語学者らが「日ユ同祖論」というものを唱えました。日本人の祖先が2700年前にアッシリア人に追放された「イスラエルの失われた10支族」の一つとする説で、日本人とユダヤ人は共通の先祖ヤコブを持つ兄弟民族であるというものです。

この古代イスラエルの失われた10支族とは、ユダヤ民族を除いた、ルベン族、シメオン族、ダン族、ナフタリ族、ガド族、アシェル族、イッサカル族、ゼブルン族、マナセ族、エフライム族を指しています。

旧約聖書のアブラハム(紀元前17世紀)の孫はヤコブ(別名イスラエル)であり、ヤコブの12人の息子を祖先とするのが、イスラエル12支族です。孫で同名のヤコブ(ヤアコブ)の時代にエジプトに移住した後に、子孫はやがてエジプト人の奴隷となりました。

400年程続いた奴隷時代の後の紀元前13世紀に、モーセが彼らをエジプトから連れ出しました。12支族はシナイ半島を40年間かけて放浪した末に永住の地をみつけ、200年程かけて一帯を征服していきました。そしてその地カナンにおいて、ダビデ王(紀元前1004年‐紀元前965年)の時代に統一イスラエル王国として12部族がひとつにされました。

しかし、それを継ぐソロモン王(紀元前965年‐紀元前930年)の死後、南北に分裂して、サマリヤを首都にした10部族による北王国イスラエルと、エルサレムを首都にした2部族による南王国ユダに分かれます。

その後、北王国は紀元前722年にアッシリアにより滅ぼされ、10支族の指導者層は虜囚としてアッシリアに連行されました。しかし、10支族の民たちの行方はわからなくなり、このため残された2部族たちは彼らを「失われた10支族」と呼ぶようになりました。

10支族はアッシリアに征服された後信仰を邪魔されない場所に移り、このため消息不明になったのではないかと噂されましたが、その行方をはっきりと示す記録は残っていません。

一方、ユダ族等の残り2支族は、エルサレムを都として南ユダ王国を建国した後、紀元前586年に新バビロニアに滅ぼされました。指導者層はバビロンなどへ連行され虜囚となりましたが、同胞同士で宗教的な繋がりを強め、失ったエルサレムの町と神殿の代わりに律法を心のよりどころとするようになりました。

そして神殿宗教ではなく律法を重んじる宗教としてユダヤ教を確立することになります。ユダ族はその後離散し、今日のようにユダヤ人と呼ばれるようになりました。そのユダヤ人たちがアメリカの援助で再び建国したのが現在のイスラエルということになります。

それでは失われた10支族はどこへ行ったのでしょうか。

旧約聖書の第4エズラ記には次のような記述があります。

「幻に現れたその群集は…九つの部族であった。彼らは異教徒の群れを離れ、先祖がいまだかつて住んだことのない土地に行き、自国で守ることのできなかった規則をせめて守るようにとの計画を互いに持ち合って、さらに遠くの国へ向かった。…それはアルザレト(もうひとつの土地あるいは果ての地)という地方であった。彼らは最後までそこに住み…」

明治期に来日したスコットランド人のニコラス・マクラウド(ノーマン・マクラウド)は、こうした旧約聖書などの記述をもとに、彼ら、あるいは彼らの一部が日本にやってきたのではないか、という説を立てました。

そして日本と古代ユダヤとの相似性の調査を進め、世界で最初に日ユ同祖論を提唱、体系化し、1878(明治11)年に“The Epitome of The Ancient History of Japan(日本古代史の縮図)”を出版しました。

マクラウドは、スコットランド・スカイ島出身とされる人物です。日本に来る前は、ニシン業界に身を置いていとされています。しかし生没年含めてその出自には不明な点が多く、ただ現存する著書の献辞に「スコットランド自由教会」の聖職者が使う表現があることから同派の宣教師だったと推測されています。

マクラウドは、日本で最初の王と呼ばれていた男が“オセー”という名で、これが紀元前730年に王位に入り紀元前722年に死亡したとされるイスラエルの最後の王“ホセア”だと主張しました。

一方、日本国を建国したとされる神武天皇は紀元前660年に即位したとされています。神武天皇が“オセー”という別名を持っていたという歴史的な資料はありませんが、年代も近く時代的には合っています。

またマクラウドは、10支族の内の主要な部族は、青森戸来村、沖縄奄美、朝鮮半島らを経由して日本の鞍馬寺へ渡ったとし、またダン族など残りの支族は、そのまま朝鮮半島に留まったと主張しました。これら古代イスラエルと日本のつながりを証明するものとして、ほかにもユダヤ教と神道それぞれの宗教儀式の類似点などを示しました。

明治後期になりこの説に英語教師の佐伯好郎や牧師の川守田英二らが同調し、1930年代には対日禁輸政策を取る米国への対応策の一環として立案された「河豚(フグ)計画」などに利用されました。

フグ計画とは1930年代に日本で進められた、ユダヤ難民の移住計画です。1934(昭和9)年に実業家で日産コンツェルン創始者の鮎川義介が提唱したもので、1938(昭和13)年の五相会議で政府の方針として定まりました。実務面では、陸軍大佐の安江仙弘、海軍大佐の犬塚惟重らが主導しました。

計画の内容としては、ヨーロッパでの迫害から逃れたユダヤ人を満州国に招き入れ、自治区を建設するというものでした。しかし日本はその後ユダヤ人迫害を推進するドイツのナチ党との友好を深めていったために計画は形骸化し、日独伊三国軍事同盟の締結や日独ともに対外戦争を開始したことによって実現性が無くなり、しまいには頓挫しました。

「河豚」の呼称は、1938年に行われた犬塚大佐の演説に由来します。ユダヤ人の経済力や政治力を評価していた犬塚ですがその一方で「ユダヤ人の受け入れは日本にとって非常に有益だが、一歩間違えば破滅の引き金ともなりうる」とし、美味ではあるものの猛毒を持つ「河豚を料理するようなものだ」と説明したのです。

この当時、ユダヤ人社会は日本と比較的友好的な関係にあり、一方、日本の満州国建国などによってアメリカと日本との外交的対立は先鋭化してきていました。そこで同計画書において提示されたのが、世界に散らばるユダヤ人とアメリカの双方の関心を惹く方法でした。

具体策としてはアメリカのラビを日本に招聘し、ユダヤ教と神道との類似点をラビに紹介するといったことやユダヤ教を日本人に紹介して理解を深めてもらうといった案が浮上しました。そしてこれを実践していく上において、日ユ同祖論はうってつけの背景論でした。

結果としてこの計画はとん挫しましたが、第二次大戦後、新宗教団体の「キリストの幕屋」(1948年設立)が再びこの説を支持してイスラエルに接近しました。1970年代には英文冊子を作成して同国大統領に進呈するなどして同説を広め、さらに在米ユダヤ人ラビ(ユダヤ教における宗教的指導者)のマーヴィン・トケイヤーがこれを大々的に宣伝しました。

トケイヤーはラビとして渋谷の日本ユダヤ教団に勤務し、1976年まで日本に滞在してユダヤと日本の比較文化論を研究していた人物です。ヘブライ語を話す皇族の三笠宮崇仁親王と親交を結び、親日家として知られていたため、彼が唱える日ユ同祖論は反響を呼びました。




以上のようにマクラウドやトケイヤーといった人物によって提唱されたのが日ユ同祖論において指摘された日本人とユダヤ人文化の類似点は多数にのぼりますが、以下にはその代表的なものを筆者の独断で整理してみました。

皇室や神道において獅子と一角獣は重要な意味を持つが、獅子はユダ族の紋章であり、一角獣は北イスラエル王国の王族であるヨセフ族の紋章である。京都御所(清涼殿)には天皇家の紋章として、獅子(ライオン)と一角獣(ユニコーン)の紋章があり、天皇の王冠には一角獣が描かれていたとされる古文書がある。

現在でも京都御所清涼殿昼御座奥の御帳台(天皇の椅子)の前左右には、頭頂に長い一角を持つ狛犬と角のないものが置かれており、天皇の即位に用いられる高御座の台座には獅子と一角獣(麒麟)と思われる絵が描かれている。

仁徳天皇陵とマナの壷

仁徳天皇陵(大仙陵古墳)は、契約の箱に収められていたユダヤ三種の神器の一つであるマナの壷(jar of manna)を形取ったものではないかと考えられる。陵墓には壷の取っ手とおぼしき膨らみが認められ、また鍵穴のように見えるが、向きを変えれば壷のようにも見える。

そもそも前方部が台形で後方が円と考えれば、これはマナの壺を象ったものとも考えらえる。鍵穴という解釈は、長い時間を経て誤った認識が持たれるようになったものである。

神道の儀礼・様式

日本もユダヤも水や塩で身を清める禊の習慣がある。また、ユダヤ教では祭司がヒソップ(ヤナギハッカ属の香草)という香草や初穂の束を揺り動かしてお祓いし、日本の神社の神官も榊の枝でお祓いをする。

ユダヤのお祓いは、イスラエルの民が、モーゼの先導でパレスチナの地に脱出した故事を記念し、ヒソップで子羊の血を門に塗り、浄化したことに由来する(過越しの祭り)。日本では古来から植物には神が宿ると考えられており、榊の枝先に神が降りてヨリシロになると考えられたことに由来する。

それぞれ由来は異なるが、両者とも神社(神殿)において植物を用いてお祓いを行い邪気を払うといったところに類似点がみられる。なお、ユダヤのメズサ(護符)と日本のお守りは似ている。

神社の施設の様式

イスラエル民族がエジプトを出て放浪していたころの移動式神殿である幕屋や古代イスラエル神殿(エルサレム神殿)では、入口から、洗盤(水で洗う場所)、至聖所、聖所 と並んでいる。神社においても、入口から手水舎、拝殿、本殿 と並んでおり、構造が似ている。

古代イスラエル神殿は木造建築であり、建築後に賽銭箱が備えられた。また、幕屋の神殿の内部は赤色だったとされており、神社にも赤色の神社がある。生後30日ごろに赤ちゃんを神社(神殿)初詣でさせるお宮参りの習慣は、日本とユダヤにしか見られないものである。

正月の鏡餅

日本の正月とユダヤの過越しの祭(後述)はよく似ている。過越しはユダヤの祭日のうち最古かつ最大の行事であり、新年の祭りでもある。日本の年越しと同じように、家族で寝ないで夜を明かす。過越祭は全部で7日間と規定されており、日本の正月と同期間である。

過越祭の日だけは普段と食べるものが違う。普段はふっくらとしたパンを食べるが、この日に限って、「種なしのパン(マッツォ)」を食べる。この種なしパンは日本でいう餅に似ている。丸く平べったい種なしパンを祭壇の両脇に重ねて供えるという風習は、同じく餅を重ねて飾る鏡餅(かがみもち)と似ている。

赤い(朱塗りの)鳥居

トリイは、ヘブライ語のアラム方言で門という意味であり、日本の神社のトリイ(鳥居)と音が同じである。過越の前にはヒソップで羊の血を門に塗るという風習があることから、これが日本の朱塗りの鳥居となったと考えられる。

なお、羊の血を門に塗った理由は、エジプト脱出の前日、“殺戮の天使”がエジプト全土に襲いかかって来たため、モーセが、玄関口の二本の柱と鴨居に羊の血を塗らせて災いを防いだことに由来する。モーセはこのとき災いが通り過ぎるまで静かに家の中で待つように指示したが、これが「年越し」のルーツになったと考えられる。

アーク(聖櫃)と神輿

古代ユダヤの聖櫃(アーク)と日本の神輿(みこし)は、良く似ている。アークはモーセが神から授かった「十戒石板」(モーセの十戒)を保管するための箱である。全体に黄金が貼られており、旧約聖書」の“出エジプト記”にはそうしたアークの作り方が書かれていて、それは日本の神輿の作り方と似ている。

また、アークの上部には2つのケルビムの像が羽を広げて向かいあっているが、日本の神輿もその上には鳳凰(ほうおう)と言われる鳥が配されていて大きく羽を広げている。

さらにアークの下部には2本の棒が貫通しており、移動するときには、神官が肩にかつぎ、鐘や太鼓をならして騒ぎ立てる習慣があり、日本にも同様の風習がある。アークを担ぐための2本の棒は絶対に抜いてはならないとされており、祭りが終わった後も、棒を差し込んだまま保管されている。日本の神輿の担ぎ棒も差し込んだままである。



以上のように、日本古来の神道に関する造作物や習慣には、旧約聖書を緒元としたユダヤ文化とよく似たものが多くみられることが、日ユ同祖論の根拠となっています。ほかにもここには書かなかった多数の類似点があります。

そうしたユダヤ文化が日本に入ってきたのが本当だとして、それでは、その文化を持ち込んだのは誰なのでしょうか。かつての失われた10支族が、直接日本にやってきてそれらをもたらしたのでしょうか。

実は古代の日本において“秦氏”と呼ばれていた一族がその古代イスラエルの失われた10支族の末裔ではないかという説があります。

秦氏とは、4世紀後半、第15代応神天皇のときに、大陸から渡来してきたと考えられている一族で、この時数千人とも1万人ともいわれる多数の人々が日本に帰化してきたとされます。その一部は大和(奈良)の葛城に、多くは山城(京都南部)に住みましたが、雄略天皇(5世紀半ば)の時に、京都の太秦(ウズマサ)の地に定住するようになったとされます。

日本に定住後、秦氏は非常に有力な一族となり、794年に作られたとされる平安京は、事実上この秦氏の力によって完成したといわれています。仁徳天皇陵のような超巨大古墳の建築にも秦氏の力が及んでいたと考えられており、この陵墓とユダヤのマナの壷の類似点は上で述べた通りです。

京都の八坂神社もまた秦氏の本拠地といわれています。八坂神社を信奉する氏子たちが奉じる祇園信仰の風習には、古代ヘブライの信仰のものと類似している点がいくつかあり、そのひとつが「蘇民将来」という護符です。

八坂神社で祇園祭の行われる7月には社頭や各山鉾にて「蘇民将来子孫也」と記した「厄除粽(ちまき)」が授与され、これが「蘇民将来の護符」と呼ばれるものです。

厄除けのご利益があるとされ、紙札、木札、茅の輪、ちまき(円錐形)、角柱など、さまざまな形状・材質のものがありますが、共通点としては「蘇民将来」の文字と「晴明紋」が記されていることです。晴明紋とはすなわち、ユダヤ教のシンボルである五芒星であり、別名ダビデの紋章といわれるものです。

また八坂神社の八坂(Yasaka)は、10支族の一つであるイッサカル族のアラム語における呼び名、“Yashashkar(ヤシャッシュカル)”が語源とする説もあります。こうしたことが秦氏が日本にユダヤ文化を持ち込んだのではないかとする根拠となっています。

もともと秦一族は、景教(ネストリウス派キリスト教)を信仰し、景教徒の拠点であった中央アジアの弓月国に住み、アッシリア王国(現在の北イラクあたりにあった)が興隆した以降、中東の共通言語となったアラム語を話していたとされています。

弓月国があった場所は、現在の中国とカザフスタンの国境付近と推定され、その都は、現在の中国新疆(シンチャン)ウイグル自治区北西部の伊寧(いねい)付近にあったとされます。弓月国には、ヤマトゥ(ヤマト)という地や、ハン・テングリ山という山がありました。

「テングリ」はキルギス等の中央アジアの言葉で「神」という意味です。彼らはユダヤ人と同様に養蚕や絹織物技術にすぐれていたとされますが、中国での万里の長城建設の労役を逃れるため、西暦(紀元後)360年頃から数回にわたって日本に渡来してきたとされます。

5世紀末には渡来者は2万人規模になったといい、このころの有力豪族の長であった秦酒公(はたのさけのきみ)もまた弓月国からやってきたと考えられています。

秦酒公は日本酒の醸造技術を発展させ、また養蚕で成果を挙げてウズマサの称号を得たとされ、さらに絹の製造技術や西方知識を持っていたため天皇の保護を受け、天皇に仕えました。とくにハタ織りなどの絹事業で財をなし、有力豪族となっていきました。

この秦氏が根拠地とした地は太秦(ウズマサ)と呼ばれるようになり、これはアラム語でのイシュマシァ(Ish Mashiach)に相当し、インド北部ではユズマサと発音します。また、ヘブライ語ではヨシュア・メシアと発音され、これは選ばれた者ヨシュアを意味し、ギリシャ語ではイエス・キリストのことです。

日本書紀(720年成立)には、皇極天皇(642〜645)に関する記述があり、この中でこのウズマサ(キリスト?)を信仰する豪族として秦河勝(はたのかわかつ)という人物が登場します。秦氏の族長的な人物であり、聖徳太子にも強い影響を与えた人物ですが、秦酒公と同じく弓月国からやってきた帰化人と考えられます。

秦河勝が弓月から持って来たという胡王面(異国の王の面)は、のちに伎楽面(ぎがくめん)として仮面舞踊劇伎楽(ぎがく)で用いられるようになりましたが、この面はユダヤ人などの異国人のようであり、天狗のように鼻が高くなっています。

秦大酒のほうは748年、大蔵長官となり朝廷の財政に関与したといわれています。秦河勝と同様に京の太秦を本拠地としていましたが、国内で勢力を伸ばすにつけ、その一派は大分の宇佐に住むようになり、一説にはこの地の神、ヤハダ神を信仰したことがのちの八幡神社宇の創設につながったともいわれます。

このヤハダはアラム語では、“YHWDH”と書き、語源は“Yahawada”で、失われた支族のユダ族を意味します。つまり、ユダ/ユダヤの語源でもあります。

宇佐に定着した秦氏の一族は八幡神社を創設しましたが、これが712年に官幣社(朝廷の正式神社)となり、現在までも受け継がれている宇佐神宮です。現在、全国にある八幡宮の総本社であり古くから皇室の崇敬を受けている神社です。

この八幡神社(宇佐神宮)は秦大酒が大蔵長官になった翌年の749年頃から急に勢力を持ち始め、やがて奈良の平城京に上京するとともに全国にその分祀が置かれるようになりました。このころはじめて神輿を作成したとされ、それのもとになったのがアークではないかというわけです。

上でもふれたとおり、秦氏は平安京の造成に尽くしたとされます。794年に行われたこの平安京遷都は仏教勢力から逃れるためだったとも言われています。その直後に京都で祇園祭が始まっていますが、祇園信仰の風習には蘇民将来の護符などがあり、これが古代ヘブライ由来のものと考えられるといったことも上で述べました。

また、「山城国風土記」に記述がみられる秦氏の豪族のひとり、秦伊侶具(はたのいろぐ)は、稲荷神社の創設者といわれています。「イナリ」という発音は、“JNRI”または“INRI”ではないかとされ、これはユダヤの王・ナザレのイシュア(ヨシュア)であって、ローマの公用語であったラテン語ではイエス・キリストを意味します。




秦氏は伊勢神宮の遷宮にも関与したとの説もあります。現在伊勢市に鎮座する伊勢神宮は現在地へ遷る前には、平安京内にある「元伊勢」に一時的に祀られていたと考えられており、元伊勢のひとつとされる松尾大社(京都府京都市西京区)は秦氏の一族のひとり、秦都理(はたのとり)が創建しました。

この松尾大社は、松尾神を酒神として祀っています。松尾大社の由緒には、これは渡来種族である秦氏が酒造技術に優れたことに由来すると書かれており、上で述べた「秦酒公」との関連が指摘されています。

さらに京都太秦の大酒神社は、その名も「ウズマサ明神」を祀っていますが、古くは大辟神社(おおさけじんじゃ)と書き、大辟は中国語でダヴィと発音することから、ダビデ紋章、ダビデ王との関連が取沙汰されています。

このようにかつての平安京であった京都には秦氏や古代ユダヤにまつわると考えられる数々の痕跡があり、この当時の天皇家がその影響を受けたことは確かです。平安京に遷都をした桓武天皇は古代ヘブライの燔祭(はんさい)の儀式を行なっていたという説もあります。

この儀式は、古代ユダヤ教における最も古く、かつ重要とされた儀式で、生贄(いけにえ)の動物を祭壇上で焼き、神にささげるというものです。秦氏が持ち込んだ風習に違いありません。

平安京当時の遺跡からは、「六葉花」という六角形の花の文様を形どった瓦があちこちから出土しており、平安京のシンボルとして多用されていたのではないかとする説があります。現在の京都府や京都市の府章・市章は、その平安京のマークを図案化したものだといわれており、これもまたダビデの紋章(六芒星)が原案だと言われています。

さらに、平安京をヘブライ語になおすと「エル・シャローム(平安の都)」であり、これすなわち、古代イスラエルの都ヘブライの聖地「エル・サレム」です。名称の類似だけでなく、聖地エルサレムの「城塞」は12の門を持つなど、構造が平安京とよく似ています。ただ平安京は中国の洛陽を建設のモデルにしたという学者が多いのは確かです。

このように日本とユダヤの歴史的・宗教的な類似点を列記してくると、かつての失われた10支族の末裔が秦氏であり、その秦氏の血が元からの日本人と混じりあって現在に至っているというのは本当のことのように思えてきます。

実は、こうした類似点を背景に、分子人類学的調査も行われています。これは分子生物学を人類研究に応用して、ヒト集団の遺伝的系譜やその多様性、疾患との関連性を検討するものです。その方法のひとつは、ヒトのDNAや、人から人へと感染するウィルス(JCウイルスタイプなど)を民族的に追跡するというものです。

現代日本人を対象として行なわれたDNA調査の結果によれば、日本人の1~2%に白人系遺伝子が存在している可能性があるとされており、JCウイルスタイプによる調査でも、北海道を除く日本人の約2%に白人系JCウイルスタイプが見られたといいます。

ただ、白人といってもそれがユダヤ人と証明されたわけではなく、こうした結果だけで、日ユ同祖論を証明することはできません。しかし、日本とユダヤの文化類似を考える上では興味を引かれる研究結果といえます。

とはいえ、日本人とユダヤ人のルーツが同じであるとする説は、一般的にはあまりにも突飛なかんじがしますし、学問的見地からも見直す余地が多数あるとする指摘もあります。当然でしょう。

日本にはヘブライ語やアラム語などの古代の中東言語を専門的に比較、研究する大学や公的機関はありません。このため単語や音に類似を見つける事が出来ても検証不足で、関連を決定付ける事は不可能だという研究者もいます。



ただ、日本の文化とユダヤの文化の両方を知る識者の中には、感覚的に日本民族とユダヤ民族の民族性は良く似ているとする人も多くいます。キリスト教思想家で聖書学者だった内村鑑三(1861~1930))やイスラエルの歴史学者でヘブライ大学名誉教授、イスラエル日本学会名誉会長のベン・アミー・シロニー(1937~)などがそうした人たちです。

アメリカに留学し、英語にも堪能だった内村は「代表的日本人“Representative Men of Japan/Japan and the Japanese”」という本を書いており、この中で幕末の志士たちが信奉していた陽明学はキリスト教に近いものだと説明しています。形骸化したそれまでの朱子学の批判から出発し、時代に適応した実践倫理を説いたのが陽明学です。

江戸時代の支配層は保守的で普遍的に秩序志向にある朱子学を好み、このためキリスト教に近い考え方をする陽明学を弾圧したとする研究もあります。実際、体制に反発する人々に好まれ、正義感に囚われて革命運動に走った者の中に陽明学徒が多かったのは事実です。

大塩の乱を起こした元与力大塩平八郎や、倒幕運動した幕末維新の志士を育てた長州藩の吉田松陰も陽明学者を自称していました。西郷隆盛もまた陽明学に影響を受けていたと内村鑑三は書いており、その西郷無しには維新革命は起こらなかったでしょう。

陽明学に似ているとされるキリスト教とユダヤ教は現在では異なる宗教とみなされていますが、同じく古代ユダヤにルーツを持ちます。そうしたユダヤ的な感覚が幕末・明治以降、日本を変える原動力になったとすると、やはり日本人にはそうした血が流れているのだなと、素直にそう思えたりもします。

かつての失われた10支族である北王国の民は、鋳造の「金の子牛」の像を神前において王国の祭祀の拠り所としていたそうです。

神の命を受け、偶像崇拝を諫める立場にあったモーセはこれを怒り、金の子牛を燃やしてしまいました。そしてそれを粉々に粉砕して水に混ぜ、イスラエルの民衆に飲ませた上で、偶像崇拝に加担した民衆の殺害を命じました。このとき死んだ民衆の数は3千人に及んだといいます。

もし、そうした北王国の民の血を継いでいるのなら、きっとあなたも金の子牛が好きに違いありません。あなたの家にあるのはもしかしたら豚の貯金箱かもしれませんが、そっとそれを胸に押し当てて目を閉じてみてください。金の子牛が脳裏に浮かんで来たら、きっとあなたの前世はユダヤ人に違いありません。

吉ふたつ

ヒガンバナが咲く季節になりました。

学名はリコリス・ラジアータといい、リコリスはギリシャ神話の女神・海の精の名、ラジアータは「放射状」という意味です。花が咲いたとき放射状に大きく広がっている様子は、クモの巣に見えなくもなく、英語では、レッドスパイダーリリーといいます。

秋の彼岸のころ、茎の先に強く反り返った鮮やかな花弁を広げるこの花は、葉は一切なく、花が終わって晩秋になってからようやく葉を伸ばし、年を越して他の植物が青々と茂る夏前にその葉が枯れるという、かなりの変わり者です。

彼岸花(ヒガンバナ)の名の由来は、秋の彼岸頃、突然に花茎を伸ばして鮮やかな紅色の花が開花することに由来しますが、これを食べた後は死(彼岸)が待っているからだともいいます。

たしかにこの花は毒を持っています。球根は鱗茎と呼ばれる鱗のような葉が重なり合ったもので、ここにアルカロイドという物質を含んでいて、口にすると流涎(よだれ)や吐き気、腹痛を伴う下痢を起こします。ひどい場合には中枢神経の麻痺を起こし、最悪の場合は死に至ることもあるそうです。

そのためか、葬式花、墓花、死人花(しびとばな)、地獄花、幽霊花、火事花、蛇花(へびのはな)、剃刀花(かみそりばな)、狐花(きつねばな)、捨て子花、灯籠花、天蓋花(仏像や住職が座っている上に翳される笠状の仏具)などなど、各地で不吉な名で呼ばれています。

一方、別名の曼珠沙華(マンジュシャゲ)は梵語(サンスクリット語)で「赤い花」「葉に先立って赤花を咲かせる」といった意味です。釈迦が法華経の悟りを得た際、これを祝して天から降ってきた花(四華)のひとつが曼珠沙華であり、天上の花です。

同じ花なのに片や死の世界の花を意味し、他方では天国に咲く花とされているという不思議な植物でもあります。

日本には有史以前に中国大陸から持ち込まれたようです。稲作が日本に伝えられたとき、土と共に球根が混入してきて広まったと考えられていますが、土に穴を掘る小動物(モグラ、ネズミ等)を避けるために有毒な球根をあえて持ち込み、畦や土手に植えたのだとする説もあります。

球根は有毒ではありますが、適切に用いれば薬になり、また水にさらしてアルカロイド毒を除けば救荒食(きゅうこうしょく)にもなります。これは、飢饉や災害、戦争に備えて備蓄、利用される代用食物のことで、栃(とち)や椎(しい)・楢(なら)などの木の実や蘇鉄(そてつ)の実などもそれです。

熊本城を作った加藤清正は籠城戦に耐えられるように、畳の芯や土壁の繋ぎに芋茎(里芋の茎)を埋め込んで救荒食としました。また壁にはかんぴょうを塗り込み、堀にはレンコンを植えていたといいます。

このほか、城内のあちこちにアカマツを植えさせました。アカマツの幹から剥ぎ取った樹皮は、コルク化した外樹皮を除いて軟らかくなるまで煮ると食べることができます。またこれを餅や米に混ぜ込むことで嵩増しができます。マンジュシャゲも同様に毒抜きをすれば、救荒食になります。

日本では北海道から南西諸島まで全国で見られます。土手、堤防、あぜ、道端、墓地、線路際など人手の入っているところに自生しますが、もともとは人の手によって植えられたものがほとんどです。害獣から作物を守るために田畑の縁に沿って植えられることも多く、それらが列をなす景観は秋の風物詩です。

山間部の森林内でも見られる場合がありますが、これはそうした場所がその昔人里であった可能性を示すものです。仏教に由来する花であることから、かつては墓地、あるいは寺院の周りに好んで植えられたようで、それらが荒廃した後も生き残っているものと想像されます。




ヒガンバナの名所として国内最大級のもののひとつに、埼玉県日高市にある巾着田があります。500万本のヒガンバナが咲き誇り、最盛期には最寄り駅である西武池袋線高麗駅に多数の臨時列車が停車し、彼岸花のヘッドマークをあしらった列車が運行されたりします。

また神奈川県伊勢原市にある日向薬師付近でも100万本のヒガンバナが咲きます。埼玉県秩父郡横瀬町にある寺坂棚田の畦にも100万本のヒガンバナが咲くそうです。

愛知県半田市の矢勝川の堤防にも多数のヒガンバナが咲きます。一説には200万本ともいわれ、その近くには童話「ごんぎつね」の作者、新美南吉を偲んで建てられた新美南吉記念館があります。

この地は南吉の出身地です。「ごんぎつね」は、それら旧知多郡半田町や岩滑(やなべ)地区の矢勝川、隣の阿久比町にある権現山を舞台に書かれたといわれています。「城」や「お殿様」、「お歯黒」という言葉が出てくることから、その設定は江戸時代から明治頃と考えられています。

「ごんぎつね」は筆者である南吉が幼いころに老翁から聞いた話という体裁をとっています。小学校の教本として使われており、どんな話か知っている人も多いでしょうが、一応紹介しておきます。

ひとりぼっちの小狐「ごん」は村へ出てきては悪戯ばかりして村人を困らせていました。ある日ごんは、村の兵十(ひょうじゅう)が川で魚を捕っているのを見つけ、いつものようにいたずら心から彼が捕った魚やウナギを逃がしてしまいます。

それから十日ほど後、兵十の母親の葬列を見たごんは、あのとき逃がしたウナギは、実は兵十が病気の母親のために用意していたものだったと悟り、後悔します。

母を失い、自分と同じようにひとりぼっちになった兵十に同情したごんは、ウナギを逃がした償いにと、イワシ売りの籠からイワシを盗んで兵十の家に投げ込みます。しかしその翌日、イワシ屋に泥棒と間違われて兵十が殴られていた事を知り、ごんは反省します。

ごんは自分の力だけで償いをすべきだと思い直し、その後自分で採ってきた栗やマツタケを兵十の家に届け始めます。しかし兵十はその意味が判らず、知り合いの加助の言葉を信じて神様のおかげだと思い込むようになります。それをこっそりと聞いていたごんは、割に合わないなと、ぼやきながらも届け物を続けます。

その翌日もごんは、栗を持って兵十の家に忍び込みます。兵十は物置でなわをなっていましたが、ふと目を上げると家に入っていく子狐を目にし、あのウナギを盗んだ狐だと気付きます。またいたずらに来たのかと納屋にあった火縄銃を取りに行き、火薬を込め、家の戸口から出ようとしていたごんを撃ってしまいます。

兵十が土間に倒れているごんに駆け寄ったとき、そばに栗が固めて置いてあったのが目に留まり、はじめてこれまでも栗や松茸を持ってきていたのがごんだったことを知ります。

「ごん、おまえだったのか。いつも、栗をくれたのは」と語りかける兵十に、ごんは目を閉じたままうなずきます。兵十は火縄銃をばたりと取り落とし、その筒口から青い煙が出ているところで物語は終わります。

出生地である半田を舞台に新美南吉がこの物語を執筆したのは、わずか17歳の時(1930(昭和5)年)でした。彼が幼少のころに祖父から聞かされた口伝を基に創作されたとされていますが、南吉は4歳で母を亡くしており、この名作が生まれたのはその経験が深く影響したといわれています。

本名は新美正八。雑誌「赤い鳥」出身の日本の児童文学作家と知られ、代表作であるごんぎつねも最初はこの雑誌に掲載されました。結核により29歳の若さで亡くなったため、作品数は多くありませんが、童話の他に童謡、詩、短歌、俳句や戯曲も残しています。

1913(大正2)年7月30日、畳屋を営む父・渡邊多蔵、母・りゑ(旧姓・新美)の次男として生まれました。前年に生まれ、すぐに死亡した兄「正八」の名をそのままつけられましたが、母は出産後から病気がちになり、29歳の若さで他界しました。父の多蔵は再婚相手を探しはじめ、のちに酒井志んという女性と再婚しました。

その後、南吉の母の実家、新美家ではりゑの弟・鎌次郎が亡くなり、跡継ぎがなくなってしまいます。そこで南吉が養子に出されることになりましたが、当時の法律では跡取りの長男を養子に出すことを禁じていました。

そこで多蔵は既に亡くなっていたりゑの父、六三郎の後見として自らの名前を新美家に入れ、自分の孫として南吉を養子に出すことにしました。六三郎には志もという老妻がおり、南吉は血のつながらないこの祖母の息子として新美家で暮らすようになりました。




しかし、寂しさに耐えられず、5か月足らずで渡邊家に戻った南吉は、今度は多蔵の再婚相手、志んと暮らすようになります。多蔵と志んの間には異母弟の益吉が生まれていましたが、志んは南吉を実子と同じように扱い、南吉も益吉をよくかわいがっていたといいます。

やがて南吉は半田第二尋常小学校(現・半田市立岩滑小学校)に入学します。おとなしく体は少し弱かったものの成績優秀で「知多郡長賞」「第一等賞」を授与されたこともありました。卒業式では卒業生代表として答辞を読みましたが、この答辞は教師の手を入れず、南吉一人で書き上げたものだったといいます。

小学校卒業後に入学した中学は、県立半田中学校(現・愛知県立半田高等学校)でした。ここのころから南吉は児童文学に取り組むようになり、校友会誌に「椋の實(むくどりのみ)の思出」「喧嘩に負けて」などの作品を出品しています。その後も様々な雑誌に作品を投稿し始めました。

半田中学校卒業直前、「赤い鳥童謡集(北原白秋編)」を読んで感銘を受けます。卒業後の希望は大学に行き、児童文学者の大西巨口(きょこう・主に名古屋で活躍した)や菊池寛のように新聞記者で生計を立てることでした。その中で作品を書き、いずれは記者を辞めて文筆業だけで食べていこうと考えていました。

進学先は早稲田大学に進学を考えていましたが、息子を進学させるつもりのない父の多蔵に反対されました。経済的な理由からだったと思われます。仕方なく岡崎の師範学校を受験しますが、結果は不合格。体格検査で基準に達していなかったためといわれています。

そこで、小学校時代の恩師の伊藤仲治をたずねたところ、母校の半田第二尋常小学校を紹介され、代用教員として採用されることになりました。

またちょうどこのころ、「赤い鳥」5月号に南吉の童謡「窓」が採用され、掲載されます。主催者の北原白秋を尊敬する南吉は喜び、教員生活の傍ら創作、投稿を続けるようになりました。その結果、さらに8月号には童話「正坊とクロ」が赤い鳥に掲載されました。

その後代用教員を退職。上京して東京高等師範学校を受験しますが今度も不合格。しかし創作意欲は衰えず、童謡同人誌「チチノキ」に入会。ここで白秋の愛弟子の巽聖歌(たつみせいか)や与田凖一と知り合いました。巽は童謡「たきび」の作詞者として知られる童話作家で、依田は昭和期の日本の児童文学界において指導的役割を担った人物です。

巽と仲良くなった南吉は、このころ彼の紹介で北原白秋の家を訪ねています。白秋との対面を果たし感激した南吉ですが、さらに巽から卒業生の半数が教職に就いているという東京外国語学校の受験を勧められます。教師になれるなら夢だった新聞記者にもなれるだろうと受験を決めます。

こうして1932(昭和5)年3月、東京外国語学校英語部文科を受験した南吉は、志願者113人中合格者11人という狭き門をくぐりぬけ見事合格を果たしました。寮のある中野区上高田には巽の他、与田凖一、藪田義雄(白秋の伝記などを書いた)も転居し、南吉は友人に囲まれて充実した学生生活を送るようになります。

入学前には「赤い鳥」に「ごんぎつね」が掲載されるという喜び事もありました。このころから南吉は白秋指導のもと童話を創作するようになり、巽と依田も新美南吉を世に送り出すことに尽力しました。「赤い鳥」にはそうした後押しを受けた南吉の作品の数々が掲載されるようになっていきます。

1934(昭和7)年、南吉は第一回宮沢賢治友の会に出席しました。賢治はその前年に亡くなっていましたが、彼は早くから賢治の作品を読み高く評価していました。この会は賢治没後に開かれた作品鑑賞会です。



ところが、それに出席の直後、南吉は喀血します。結核でした。すぐに実家に帰り1か月あまり療養したところ小康を得、4月に学校に戻りました。その後も比較的症状は軽かったことから学業は続け、1936(昭和9)年3月、東京外国語学校を卒業します。

東京で就職活動を始めた南吉ですが、この年は不景気だったこともあり、外大で教員免許を取らなかったことも災いして就職は困難を極めました。いろいろ探し回った結果、東京土産品協会という小さな会社に採用が決まり、英文カタログを作成する仕事を任されます。しかし激務の上月給は40円と安いものでした。

さらに、このころ病が進行し、二度目の喀血で倒れ1か月寝たきりの生活になります。幸いなことにすぐに近くには巽が住んでおり、夫妻の献身的な看病で多少元気になりました。しかし仕事はあきらめ、帰郷して療養に専念することにしました。

ただ、実家も裕福ではなく療養中でもあって金はどんどん出ていきます。家計のためにと半田にもほど近い知多半島の南部にあった河和第一尋常高等小学校に務めますが、代用教員であったためにすぐに職を失います。

しかしその直後新しい職をみつけました。杉治商会という飼料生産会社で、その生産高は全国の45%を占めて第一位で、全国に支店、工業を持つ大企業でした。

入社後、そこの鴉根山畜禽研究所というところに配属された南吉は、寄宿舎に住み込み、鶏の雛を世話をする仕事でを与えられました。ところが、この会社は大会社にもかかわらずその研究所の職場環境は劣悪で、20円という薄給の上、休みは月2回しかとれませんでした。結核を囲い体調も悪かった南吉はわずか4カ月でここを辞めています。

その後、半田中の恩師で安城高等女学校の校長になっていた佐治克己の働きかけで安城高等女学校への採用が決まります。1年生の学級担任となり英語や国語、農業を教えるほか図書係や農芸・園芸部長も務めました。給料は70円と厚遇でしたが、安城は半田の隣町でありながら通勤に1時間半もかかるため、翌年町内に下宿を見つけて移り住みました。

このころは体調もよく、3年生の修学旅行の引率として関西へ行ったり、同僚と富士登山を果たしたり、熱海や大島へも行くなど充実した年でした。ところが翌年、交際していた幼馴染の中山ちゑが青森県の知人宅で体調を崩して急死。その葬儀で南吉は男泣きに泣き、その後1か月は腑抜けのような状態だったといいます。

一方この年は彼の作品が次々雑誌に載りました。翌年はじめからは良寛の伝記を書き始め、10月に「良寛物語 手毬と鉢の子」が出版されます。これはヒットし、2万部も出版された結果、南吉は1300円もの印税を受け取りました。現在では3~400万円ほどの大金です。

このころ、女学校の教え子の兄の依頼で早稲田大学新聞に「童話に於ける物語性の喪失」を寄稿しています。これは長年童話を綴ってきた南吉の児童文学論の集大成ともいえるような内容でしたが、その執筆後から体調が悪化。さらには腎臓病を患って10日あまりも学校を欠勤することになりました。

その後も体調不良が続いたため、11月中旬には岩滑の実家に戻りますが、翌月には血尿が出て、このときついに南吉は死を覚悟しました。翌年1月、病院で診察を受け腎臓炎と診断された南吉は日記にそのころの死を見つめた思いを綴っています。

しかしあいかわらず創作意欲は活発で、3月末から5月末までの2か月の間に代表作の「ごんごろ鐘」「おぢいさんのランプ」「花の木村と盗人たち」「手袋を買いに」など、のちに代表作とされる童話を次々書き上げていきます。そしてこの年の10月はじめての童話集「おぢいさんのランプ」を刊行。

南吉はこの本で得られた印税で女学校職員全員に鶏飯をふるまい、職員室にラジオを寄付したりしました。しかしこのころから体調はさらに悪化し、喉が痛み声も出にくくなります。この年の11月、敬愛していた北原白秋が死去。明けた1943年の初めからは女学校を休むようになり、長期欠勤した結果、2月に安城女学校を退職しました。

退職後は咽頭結核のためほとんど寝たきりになります。既に死を覚悟していた南吉は、巽聖歌に原稿と病状を手紙にして送るとともに、このころ遺言状も書いています。南吉の病気を知らなかった巽は手紙の内容に驚いて岩滑を訪れ、離れで寝ている南吉と対面。南吉に頼まれて原稿の整理などをしています。

3月20日、恩師伊藤仲治の妻が見舞いにきましたが、南吉はほとんど声が出ない様子で、「私は池に向かって小石を投げた。水の波紋が大きく広がったのを見てから死にたかったのに、それを見届けずに死ぬのがとても残念だ」と語りました。3月22日午前8時15分、死去。29歳8か月の生涯でした。

新美南吉




生涯独身の南吉でしたが、その生涯に4人の女性との交際経験がありました。ただ、いずれも実を結ばずに終わっています。

そのうちの一人である木本咸子(みなこ)は、新美南吉の初恋相手です。18歳の頃、半田第二尋常小学校に代用教員として勤務中に交際を始めましたが、4年後に別れています。また2度目の恋人、山田梅子は24歳の頃、河和第一尋常高等小学校に代用教員として勤務中に交際を始めた相手ですが、ここを退職後疎遠になり、こちらとも翌年別れています。

上でもふれた中山ちゑは南吉の幼馴染です。子どもの頃から親しく遊んでいた彼女とは26歳の頃に再開して愛を深めあうようになり、結婚まで考えていましたが、翌年に急死したためその望みは叶いませんでした。その反動なのか、ちゑの死後の翌年、教え子の岩月みやという女性に結婚を申し込んでいますが、齢が離れすぎているという理由で断られています。

新美南吉は、地方で教師を務め若くして亡くなった童話作家という共通点から宮沢賢治とよく比較されます。

宮沢賢治は独特の宗教観・宇宙観を持ち、擬人化した動物なども登場させてシニカルで幻想的な物語を展開するのに対し、南吉の作品の主題はあくまでも人間であり、人の視線の先にある素朴でほのぼのとしたエピソードをさらに味わい深く脚色したり膨らませるといった作風で、「北の賢治、南の南吉」と呼ばれて好対照をなしています。

作品の多くは、故郷の岩滑新田(やなべしんでん)を舞台にしたものが多く、このため新美南吉は現在、半田市の名誉市民にもなっています。出身地の半田には、新美南吉記念館のほか、彼の実家や作品ゆかりの場所を巡るウォーキングコースも作られています。

新美南吉をはじめ多くの童話作家の登竜門となった「赤い鳥」は、1918(大正7)年7月1日創刊で1936(昭和11)年8月に廃刊になるまでに196冊が刊行されました。

創設者の鈴木 三重吉曰く、「低級で愚かな政府」が主導する唱歌や説話に対し、子供の純性を育むための話や歌を世に広めるための一大運動と宣言、発刊された「赤い鳥」への反響は大きく、それに賛同した支持者や投稿者によってこの文化運動はやがて「赤い鳥運動」とも呼ばれるようになっていきます。

創刊号には芥川龍之介、有島武郎、泉鏡花、北原白秋、高浜虚子、徳田秋声といったこの時代を代表する文人らの筆が寄せられるとともに、表紙絵は黒田清輝、藤島武二に師事した洋画家、清水良雄が描きました。

その後も菊池寛、西條八十、谷崎潤一郎、三木露風といった一流作家が作品を寄稿し、中でも新美南吉が憧れた北原白秋は「赤い鳥」において自作の童謡の発表を行いながら、寄せられる投稿作品の選者の役も担うなどの重要な役割を果たました。

創設者の鈴木三重吉という人は、広島県広島市出身の小説家で、広島県広島尋常中学校を出ており、これは現在の県立広島国泰寺高等学校で、私の母校です。

1882(明治15)年9月29日、広島市猿楽町(現エディオン本店がある地)に、父悦二、母ふさの三男として生まれましたが、母は三重吉が9歳の時に亡くなっています。三重吉が15歳の時「少年倶楽部」に投稿した「亡母を慕ふ」にその母のことが書かれています。

1901(明治34)年、京都の第三高等学校を経て、東京帝国大学文科大学英文学科に入学。ここで夏目漱石の講義を受けるようになります。ところが神経衰弱を煩い、静養のため大学を休学して広島に過ごしているときに完成させたのが「千鳥」という作品でした。

師である夏目漱石にその原稿を送ったところ賞賛され、漱石の友人であった正岡子規の弟子、高浜虚子にもそれが送られ、雑誌「ホトトギス」5月号に掲載されました。以降、大学に復学して漱石門下の一員としてその中心的な活動を行うようになります。

1908(明治41)年、東京帝国大学文学科を卒業。成田中学校の教頭として赴任して英語を教えるようになりますが、3年後に退職して上京、新宿の海城中学校の講師となりました。これは海軍兵学校へのエリート人材供給のための予備校として創立された学校で、古い歴史を持つ伝統校として現在でも都下有数の有名校とされています。

同年5月、三高時代に知り合ったふぢと結婚。2年後の1913(大正)2年からは掛け持ちで中央大学の講師となります。翌年より、「三重吉全作集(全13巻まで刊行)」の刊行を始めるなど数々の作品を執筆して小説家としての評価を上げましたが、片や自身の小説家としての行き詰まりを自覚し、中央公論へ「八の馬鹿」を発表以降、小説の筆を折りました。

1916(大正)5年、三重吉34歳のころ、三重吉宅には河上房太郎という青年が事務の手伝いに来るようになっていましたが、その縁で妹の河上らくも手伝いに来るようになり、このらくとの間に、長女すずが生まれました。三重吉には既に妻がいましたから、らくとのことはつまり「お手付き」ということになります。

こうして生まれた娘のために童話集「湖水の女」を創作したことをきっかけに、三重吉は児童文学作品を手掛けるようになりますが、その矢先に妻ふぢが亡くなります。ふぢは第三高校時代に付き合っていた京都の青物屋の娘でしたが、その結婚はわずか4年でした。

翌年から「世界童話集」の刊行を開始。このとき清水良雄が装丁・挿絵を担当し、児童文芸誌「赤い鳥」へ続く親交が始まります。続いて「赤い鳥」を創刊。海城中学は辞職、中央大学を休職して本格的に児童文学誌「赤い鳥」に力を入れ始めました。

「赤い鳥」では文壇の著名作家に執筆を依頼。芥川龍之介の「蜘蛛の糸」や有島武郎の「一房の葡萄」といった名作が生まれるとともに、北原白秋らの童謡、小山内薫、久保田万太郎らの児童劇など大正児童文学の名作の数々が本誌から誕生しました。当時、軍拡化で教訓色が強まっていた児童読み物は、こうして質の高い文芸としてその地位を高めていきました。

39歳の時、三重吉は小泉はま(濱)と再婚。その後もますます児童の情操教育の手本としての赤い鳥の内容の充実に努めますが、その延長で46歳の時には「騎道少年団」を設立しています。これは乗馬による少年の精神教育を主旨とする団体です。

さらに53歳の時、「綴方読本」を刊行。こちらは赤い鳥の「綴方投稿欄」の中で、選と選評というかたちで子供たちに行っていた文章作法の指導を集大成したものでした。

しかし、それが刊行される直前から喘息のため病床に臥すようになり1936(昭和11)年末には病状が悪化。東京帝国大学附属病院真鍋内科へ入院しますが、同年6月27日・午前6時30分、肺がんのため死去。53歳でした。

鈴木三重吉



三重吉の死去と共に、「赤い鳥」は同年8月号で終刊しましたが、同年10月、「赤い鳥 鈴木三重吉追悼号」が刊行されています。「赤い鳥」は18年間もの間刊行を続け、最盛期には発行部数3万部を超えたと言われます。学校や地方の村の青年会などで買われたものが回し読みされたものも多く、現在ならもっと売れていたでしょう。大ベストセラーです。

この間、排出された童話作家は、新美南吉以外にも巽聖歌や坪田譲治がおり、表紙を飾った童画家、清水良雄も高い評価を得ました。ほかに童謡差曲家として成田為三、草川信らがおり、1918年11月号に西條八十の童謡詩として掲載された「かなりや」には、のちに成田為三によって曲がつけられ、1919年の5月号に楽譜の付いた童謡がはじめて掲載されました。

唄を忘れた 金糸雀(カナリヤ)は
後(うしろ)の山に 棄てましょか
いえ いえ それはなりませぬ

唄を忘れた 金糸雀は
背戸(せど)の小薮(こやぶ)に 埋(い)けましょか
いえ いえ それはなりませぬ

唄を忘れた 金糸雀は
柳の鞭(むち)で ぶちましょか
いえ いえ それはかわいそう

唄を忘れた 金糸雀は
象牙(ぞうげ)の船に 銀の櫂(かい)
月夜の海に 浮(うか)べれば
忘れた唄を おもいだす

この歌にはそれまでの唱歌にありがちだった単純な有節形式を壊す試みがなされており、これによって芸術的な香気が高まり、詩的また音楽的にも従来と異なった響きを持っていたことから、大評判となりました。

当初、鈴木三重吉も童謡担当の北原白秋も、「わらべ歌」「子供の歌」という程度に考えられていた童謡に旋律を付けることは考えていませんでした。しかし歌と楽譜の同時掲載という形式が大きな反響を呼んだことから、元々文学運動として始まった赤い鳥運動は、音楽運動としての様相をも見せるようにもなりました。

以後、毎号、芸術味豊かな作品(=文学童謡)を掲載するようになります。この後、多くの童謡雑誌も出版されたことで、子供の情操教育のために作った芸術的な歌としての童謡普及運動、あるいはこれを含んだ児童文学運動はこの時代の一大潮流となっていきました。

さらに「赤い鳥」が刺激となって次々と子供向けの雑誌が出版されるようにもなり、三重吉の13回忌にあたる1948年(昭和23年)からは、「鈴木三重吉賞」が創設され、現在も全国の子供の優秀な作文や詩にこの賞が贈られています。

三重吉の遺骨は、鈴木家の菩提寺である、広島市・長遠寺(じょうおんじ)の鈴木家の墓に納められ、そのすぐ右隣には、三重吉の13回忌墓碑が建立されています。墓碑の「三重吉永眠の地 三重吉と濱の墓」の文字は、彼自身が生前に書き残したものです。

街中にある寺のためヒガンバナは多く咲いていないかもしれませんが、境内に「被爆ソテツ」があります。現地は爆心地に近く、三重吉の墓とともに戦禍を免れたようです。世界遺産、原爆ドームからもほど近い場所にあります。ぜひ訪れてみてください。