四境戦争

私がまだ小学生のころ、山口での遊び場と言えば、サビエル教会堂のある亀山公園か、近所にいくつかある神社の境内でした。

お寺さんも多くありましたが、神社と違って庫裏に住職や寺坊主がいることが多く、気兼ねなく遊ぶ場としては不適当でした。その点、神社は神職が出入りすることはまずほとんどなく、夕方遅くまで遊んでいても誰の目も気にすることはありません。

遊び先の神社としては候補がいくつもありましたが、県庁から500mほど西へ下がった場所にある木戸神社の境内はひと気も少なく、お気に入りでした。木戸孝允の居宅だった場所に建てられた神社で、主神は木戸候自身です。

背後にそびえる高嶺山への登山道の入り口にある神社で、周囲は緑に囲まれ、小川もありました。ここで日がな一日、虫を捕ったり、川遊びをしたりで、気が向けば背後にある高嶺山にも登れ、飽きることはありませんでした。

母の実家からこの木戸神社に向かう途中にひとつの寺があり、子供心に実にお寺らしいお寺だなぁと思っていました。こちらも高嶺山の裾野に建てられていましたが、周囲に木々はなく、明るい斜面に本堂と鐘突き堂ばかりがやたらに目立つ古刹です。

無論、ここで遊ぼうといった気はなく、むしろ近寄りがたいその雰囲気に気圧されるかんじがしていたものです。が、長じてから司馬遼太郎さんの小説を読んだことで、その実態を知りました。

臨済宗の寺で普門寺といい、古くこの地に大内正恒が創建した寺があったが荒廃していたものを延元元年(1336年)大内氏第8代当主、大内弘直が再建して菩提寺としました。

大内氏は、毛利がこの地で根を張る前に勢力を誇った豪族で、京文化をこの地に持ち込み、このため山口は、小京都と呼ばれるほどに古い町並みを数多く残すこととなりました。その大内氏の最後の当主、大内義隆の時に朝廷に働きかけたことにより、当寺は「勅願寺(国家鎮護・皇室繁栄に効力があると朝廷が認定)」となりました。

その後、31代義隆の時代に大内家は事実上滅亡しましたが、このときその原因となった家臣、陶氏の兵が放った火で普門寺は焼失。その後の毛利氏統治時代の天正(1573年)になって、惟松(しょうまつ)円融が再興しました。

円融は、同じ山口市内にあり、大内政弘が別邸として建てた常栄寺の元住持でした。この常栄寺は市内屈指の大寺で、その庭は雪舟に依頼して築庭させたものといわれています。大正時代に国の史跡・名勝に指定されましたが、皮肉なことに、指定されたその年に本堂が消失して、現在のものは昭和8年(1933年)の再建です。

その由緒ある常栄寺の住職だった円融を迎え入れたということ、また、かつては勅願寺でもあったということなど、普門寺もそれなりの格式の高い寺として地元住民の尊敬を集めていたと思われます。

村田蔵六が、この歴史ある普門寺境内にある観音堂を宿舎として起居するようになるのは、幕末の1865年(慶応元年)5月のことです。山口藩庁(現県庁)からは徒歩わずか10分ほどであり、藩の御用で登庁するためには、まことに都合の良い立地になります。

それまでは萩の博習堂で若い藩士たちに洋学を教えていた蔵六はまた、下関など藩内各地を飛び回って軍備を整える役を担っていましたが、高杉晋作の功山寺挙兵に端を発した俗論派と正義派の内乱がとりあえずの収束を見た3月、藩の軍政専務となりました。

藩軍制改革の責任者となったわけですが、これを機に、それまで居住していた萩から山口に拠点を移しました。長州藩はこのころから軍の中枢を山口に移しつつあり、ここで本格的に兵制改革に着手するためです。




蔵六が居を移すや否や登庁するよう知らせがあり、何事かと伺候すると、藩侯から直々の沙汰があるといいます。さっそく藩庁に出仕すると御殿に通されました。平伏していると、敬親候がお出ましになり、お側用人から、「大組御譜代並、馬廻士譜代班に列し、100石高取りにも取り立てる」との下達が読み上げられました。

馬廻(うままわり)士とは、武芸に秀でた者が集められたエリートであり、代々藩候の親衛隊的な存在とされた要職です。また100石取りといえば、現在価値に換算すると1,000万円以上(一石約10万円の計算、但、諸説あり)の収入がある役職であり、藩の重役クラスです。これほどの高禄を得るようになったというのは大出世に違いありません。

同時に藩侯からは、それまでの村田蔵六を改め、「大村益次郎永敏」と改名するがよい、とのお言葉を賜ります。「大村」は故郷の字から(鋳銭司村大村)、「益次郎」は父親の「孝益」の1字をとったものですが、諱の永敏は敬親が与えたものです。武家の正称はむしろ諱(いみな)であり、これにより名実ともに武士として認められた、ということになります。

鋳銭司村の村医者として、百姓の身分のまま一生を終えることを考えていた人物が、これほどの抜擢を受けたのは、下関戦争の後処理でその才が認められたことにほかなりません。が、かつて江戸で彼を見出し、長州に連れ帰った桂小五郎の推挙も大きかったようです。

高杉晋作による功山寺挙兵が成功して、俗論派政権による政治が終わり、正義派が主権を握るようになったあと、桂小五郎は長州藩の統率者として迎えられていました。後に伊藤博文は小五郎が長州に迎えられた時の様子を「山口をはじめ長州では大旱(ひどいひでり)に雲霓(雨の前触れである雲や虹)を望むごときありさまだった」と語っています。

長州政務座に入ってからの桂は、藩主敬親が掲げる武備恭順の方針を実現すべく軍制改革と藩政改革に邁進することになりますが、いまや長州藩という大軍事会社の副社長として、それまでは顧問とはいえ身分は課長程度にすぎなかった蔵六を専務取締に大抜擢したわけです。

こうして、蔵六改め益次郎永敏となった彼の「藩士」としての日々が始まりましたが、宿舎とする普門寺では、「兵法」を学びたいとする者の訪問がぽつぽつと増えてくるようになります。彼もこれに応え、諸生の希望により普門寺を臨時の校舎として、この当時の日本としては最先端の洋式軍学を教授するようになりました。

当時、これを普門寺塾と呼び、また、歩兵、騎兵、砲兵などを扱っていたため、「三兵塾」などとも呼ばれていました。大村先生と呼ばれるようになった彼は藩庁に通い、その傍らひたすらここで日々、市井の若者の教育にあたるようになります。

しかしこのころはまだ、大多数の藩士の彼に対する扱いは、出身を卑しんでひどく冷淡であったようです。ただ、時代の変化を見据えたのか、集まってくる百姓町人も多く、彼らすべてに分け隔てなく軍学を伝授しました。また、そのことを通じ、階級を超えた連携がこれからの世では必要になってくることを彼らに悟らせようとしました。

さらに益次郎は、オランダの兵学者クノープの西洋兵術書を翻訳した「兵家須知戦闘術門」を刊行。さらにそれを現状に即し、実戦に役立つようわかりやすく書き改めたテキストを作成。それをもとに普門寺に集まる面々への指導を始めました。

もとより、大阪の適塾で塾頭をしていた益次郎の教え方には無駄がなく、また江戸・麹町の鳩居堂で蘭学・兵学・医学を教えていた経験は、ここでもいかんなく発揮されたため評判は高まるばかりで、集まる塾生も次第に増えていきました。

話は飛びますが、ちょうどこのころ薩摩藩では、開明派の島津斉彬が亡くなって伯父・斉彬の養嗣子なった島津忠義が藩主となりました。が、若年だったため、実質は斉彬の異母弟で、実父の久光が権力を握り、「公武合体派」として雄藩連合構想の実現に向かって活動していました。

しかし、久光の主張する幕政改革は徳川慶喜ら復古派保守の主張と真っ向から対立して展望を開くことができず、藩内では大久保利通や西郷隆盛らを中心に幕府に対する強硬論が高まっていました。



一方、薩摩藩は、先の八月十八日の政変では、会津藩と協力して長州藩勢力を京都政界から追放し、また引き続いて、蛤御門の変では、上京出兵してきた長州藩兵と戦火を交え敗走させるに至り、両者の敵対関係は決定的とものとなっていました。

幕府勢力から一連の打撃を受けた長州藩には、彼らを京都政治から駆逐した中心勢力である薩摩・会津両藩に対する深い恨みが生じており、多くの藩士は「共には天を戴かず(共にこの世に生きてはいられようか、殺すか殺されるかだ)」と心中に誓い、「薩賊會奸」の四文字を下駄底に書き、踏みつけて鬱憤を晴らす者がいるほどでした。

ところが、この両者を結びつけようとする人物がいました。ご存知、土佐藩の脱藩浪人で長崎で亀山社中を率いていた坂本龍馬です。彼は薩摩、長州のような雄藩の結盟を促し、これをもって武力討幕をするのが世直しの一番の近道だと考えていました。このため、両藩を結びつける何等かのきっかけを見出そうと暗躍を始めていました。

前述のとおり、桂小五郎が藩の指導権を握った結果、その息のかかった益次郎は長州軍の近代化の責任者となりましたが、このポスト就任後の改革にあたり、益次郎はまず、高杉晋作が結成した奇兵隊ほかの諸隊の組織体系の見直しが急務であると考えました。

従来の武士だけでなく、農民、町人などの各階級により構成されていたこれらの部隊への参加は、それまではいわばボランティアでしたが、彼は藩がその給与を負担し、兵士として基本的訓練を決行しなければ、やがて押し寄せる幕府軍には太刀打ちないと上梓しました。

これは受け入れられ、まず、諸隊を整理統合して藩の統制下に組み入れ、満16~25歳までの農商階級の兵士を再編して約1600人の部隊を作り上げました。また、旧来の藩士らも石高に合わせた隊にまとめ上げ、従卒なしに単独で行動できるようにして効率のよい機動性を持たせました。さらに、各隊の指揮官を普門塾に集めて戦術を徹底的に教えました。

次いで取り組まなければならないのはやはり装備です。益次郎は、先に防禦掛に任命されて以降、アメリカやフランスと接触して大小の武器を調達しており、既に大田・絵堂における萩藩政府軍との戦闘ではそれらが有効であることを証明しました。しかし、こと大軍の幕府軍を相手にするとなると、質もさることながら、数の上で足りないのは自明でした。

このため、部下を長崎に派遣して最新のライフル銃であるミニエー銃や大砲を大量に購入させようとします。しかし、長州が密貿易で武器を輸入していることを薄々気づいていた幕府は、諸外国に働きかけて、長州との武器弾薬類の取り引きを行わないよう依頼するなどの先手を打っており、長州には武器が入って来にくい状態が続いていました。

このとき、長州の武器調達に一役買ったのが、坂本です。自らが率いる亀山社中(のちの海援隊)が口をきき、長崎のグラバー商会からミニエー銃4,300挺、ゲベール銃3,000挺の買い付けに成功、これを長州に斡旋しました。そしてこれを購入したのは薩摩藩だったことにし、長州への流用は、幕府にこれを秘匿しました。

坂本が仲介に入ったため間接的ではありましたが、これにより薩摩藩が長州藩に恩を売った形になり、この取引はその後の薩長和解の最初の契機となりました。

さらに坂本は、薩摩藩名義でイギリス製蒸気軍艦、ユニオン号の購入にも成功します。購入時の薩摩名「桜島丸」はその後長州の手に渡ると、「乙丑丸(いっちゅうまる)」と改名されました。ちなみに、同船の運航は亀山社中が請け負うことになりました。

このユニオン号が長州の手に渡った背景には、イギリスが薩摩・長州の両藩の共通の協力者になりつつあった、という背景があります。

薩摩藩では、先の下関戦争とほぼ同時期に勃発した薩英戦争(文久3年(1863年))での敗退を受け、それまでの攘夷論が揺らぐようになっていました。イギリスは、戦後の講和交渉を通じて薩摩を高く評価するようになり、薩摩側も、欧米文明と軍事力の優秀さを改めて理解し、イギリスとの友好関係を深めていました。

一方の長州藩もまた下関戦争の敗戦を受けて攘夷が不可能であることを知り、以後はイギリスに接近して軍備の増強に努め、倒幕運動をおし進めようとしていました。

両藩に出入りしていた坂本はこの双方の事情を知り、イギリスを媒介者として両藩を結び付けようと考えていたようです。薩摩藩によるユニオン号の購入においても、これがいずれは長州の手に渡ることをイギリス側に承知させていたに違いありません。

一方、このころ薩摩藩は、薩英戦争や度重なる京への軍隊の派遣等により兵糧米が不足しており、今後の活動に支障が出ることが懸念されていました。そこで坂本は長州から薩摩へ不足していた米を回送する策を提案し、先の武器の返礼とすることを長州に提案します。長州もこれを了承し、これによって両藩の焦眉の急が解決することになります。

以後、薩摩と長州は急速に接近します。紆余曲折はあったものの、両者重臣によって会談が進められ、ついに慶応2年1月21日(1866年3月7日)、京都の小松帯刀邸で坂本を介して薩摩藩の西郷、小松と長州藩の桂小五郎が介し、6か条からなる同盟を締結しました。

この密約に基づいて薩摩藩は、その後の幕府による第二次長州征討参加の要請に対して出兵を拒否し、以後薩長の連携関係はさらに深まっていくこととなりました。




一方、そんなことはつゆ知らぬ幕府内では、第一次長州征伐後の長州の処分を巡って激論が繰り広げられていました。その処分にあたっては減封移転などの比較的軽い処分で穏便に済ますべきとする妥協案と、改易が妥当、これに抗うなら再長征を視野に入れるべきとする強硬論が拮抗していました。

この混乱の背後には、開国以降著しく低下する幕府の諸藩への指導力不足があります。今や朝廷、幕府、諸藩と三つのパワーバランスの上に成り立つ現在の体制下において、「強い幕府」を志向する「復古派」と朝廷と組んでの政権運営を目指す「公武合体派」は真っ向から対立しており、長州の処分はどちらがイニシアチブをとるかにかかっていました。

結局幕閣は、列強の中でもこのころ急速に幕府に取り入るようになっていたフランスの後押しを受け、勤皇諸藩に対して強硬な姿勢をとる道を選びます。長州処分においても諸藩を動員し長門周防を取り囲めば、おのずと滅すると考えた幕府は、慶応元年(1865年)11月7日、ついに31藩に、「第二次長州征伐」の出兵を命じました。

薩長同盟締結の約2ヶ月半ほど前ですが、このころ既に両藩では結託して幕府に当たることを水面下で合意していたと思われます。秘密裡に長州と通じていた薩摩は、慶応2年4月14日、大久保利通を通じて出兵拒否の旨を幕府に通達。幕府はこれを拒絶しますが、再三の交渉の結果、薩摩の不参加が確定しました。

ちなみに、時の将軍は13代将軍・徳川家定が死去したため、前将軍の最近親ということから14代将軍となった家茂です。就任当初、13歳という若年であったことから一橋慶喜が「将軍後見職」に就き、時を経てこのとき20歳になっていたとはいえ、その権力は抑制され、幕府の動向はほぼ慶喜の意向によりコントロールされていました。

この慶喜ですが、のちの大政奉還の実行や鳥羽伏見の戦いにおける江戸への逃げ帰りなどによって、弱腰の将軍、とみなされがちですが、案外と勇猛な武将でした。

蛤御門の変においては、御所守備軍を自ら指揮して鷹司邸を占領しているほか、長州藩軍を攻撃する際は歴代の徳川将軍の中で唯一、戦渦の真っ只中で馬にも乗らず敵と切り結びました。この変を機に慶喜はそれまでの尊王攘夷派に対する融和的態度を放棄し、会津藩・桑名藩ら譜代親藩との提携を本格化させています(一会桑体制)。

慶応2年(1866年)6月7日、幕府艦隊の周防大島口への砲撃により、ついに第二次長州征伐が始まりました。周防大島は、伊予松山藩(現愛媛県)からほど近く、いわば四国方面からの長州への入り口にあたります。また、長州東部の岩国領と西の周防長門など本藩との境にあり、まずは岩国を切り離して孤立させよう、と考えたにほかなりません。

続いて、13日には山陽道・芸州口(現広島山口境界)、16日には山陰道・石州口(島根山口境界)、そして17日には関門海峡・小倉口(福岡山口境界)でそれぞれ戦闘が開始され、四方向から幕府軍を迎えたことから、この戦争はのちに「四境戦争」とも呼ばれました。

幕府は第一次征討の時と同じく10万とも15万ともいわれる兵を招集しました。これに対し、長州の兵力は3,500だったというのが定説です。が、3,500では四方向からの幕府軍を迎撃するには十分ではなく、雑兵を入れて実数では4,000~5,000といったところだったではないでしょうか。

筆者が整理したところ、だいたい次のようになります。

大島口  長州藩:500  幕府軍+伊予松山藩:2,000~3,000 
芸州口  長州藩:2,000  幕府軍+彦根・越後高田・紀州・大垣・宮津等各藩:5~60,000
小倉口  長州藩:1,000  幕府軍+小倉、肥後・柳河・久留米など九州諸藩:2~30,000
石州口  長州藩:1,000 幕府軍+浜田、紀州、福山藩等各藩:3~40,000 

いずれにせよ、長州の勢力は幕府に比べると著しく小さく、大島口を除けば20倍、30倍という幕府軍に挑んだことが見えてきます。

幕府はこれ以外にも、洋式軍船と古い和船を動員した艦隊を構成していました。このうちの洋式船群は最新鋭の富士山丸(木造機帆軍艦1000t)を含み、旭日丸(木造帆走船500t)、翔鶴丸(木造外輪汽船350t)、八雲丸(汽船337t 松江藩所有)の計4隻でした。

富士山丸は米国に対して発注して手に入れたもので日本に到着したのは慶応元年12月ですから、この戦が始まるわずか半年前です。帆走が主ですが、機走もでき、砲12門を備えるこの当時、幕府諸藩を通じて最大最強の軍艦でした。

また旭日丸は、幕命で水戸藩が建造した西洋式帆船、翔鶴丸は、1857年にアメリカで建造された外輪式の蒸気商船「ヤンチー」を改造したもの、八雲丸は文久2年(1862年)に松江藩がイギリスから購入した船で原名はガーゼリといい、中古ながら鉄船でした。

6月9日、周防大島の北側、本土との間にある大島瀬戸(海峡)付近に進んだこれら幕艦は、島北部の久賀村へ砲撃を加え、ここから幕府陸軍が島へ上陸するとともに、島南部の安下庄からも松山藩軍が上陸し、大島を守っていた長州軍と交戦しました。

長州側もこの島の戦略的重要性を知っており、ここが落ちれば岩国が孤立することを理解していましたが、この幕軍による奇襲攻撃によって慌てた長州軍は、大島の西、本州側の遠崎(現柳井市付近)へ撤退します。




この大島への幕軍の進行の情報を受け、10日、山口藩庁は第二奇兵隊、浩武隊に大島へ向かうよう令を発すると同時に、高杉晋作が三田尻港から丙寅丸(へいいんまる)に乗り大島へ向かいました。

丙寅丸は四境戦争直前の1866年5月に高杉が長崎へ赴き、藩の了解を得ず独断で3万6千両の値でグラバーより購入したもので、購入時の名前はオテントサマ丸でした。四境戦争が始まると海軍総督である高杉晋作を乗せて運用されたため、旗艦として扱われました。

ただ、排水量わずか94tの木造船で、直接、幕府海軍に太刀打ちできるような船ではありません。このため、高杉は、12日の夜半、真っ暗闇の中をこの船を出し、瀬戸を抜けて島の北側に停泊していた幕府方の間をすり抜けるように走らせました。この時、各船とも蒸気を落として停泊しており、夜戦の用意もなく、搭載砲もしまい込んでいました。

間をすり抜けるように航走を続ける丙寅丸は小船であり、各艦の見張りも夜目がきかなかったため僚艦と勘違いしてしまいました。丙寅丸はそれをいいことに、そばを通るたびに、続けざまに大砲を打ち放したため、各艦とも大混乱に陥りました。

このとき、旭日丸は帆船であるため、全く動くことができず、他の機関船も火を落としているため、すぐには動けません。それを横目に丙寅丸は目の前まで接近して各艦の間をくるくると動き回り、大砲を撃ちまくりました。幕艦は狼狽しますが、砲をセッティングするには時間がかかり、また準備ができても敵を撃つつもりが味方の艦を撃ったりしました。

実はこのとき、長州側は別の陸戦部隊を夜陰に応じて小船で大島に上陸させており、島の山頂に陣を構えていました。幕軍は眼下の大島瀬戸に面する大島川の村に駐屯しており、丙寅丸は、ここへも数発の砲弾を撃ち込んだようです。

眼前の見方艦が砲撃を受けるとともに、自陣にも砲弾が撃ち込まれて、山麓の海岸に野営していた幕軍はさらに混乱します。そこへ今度は山頂からは長州からの陸軍部隊が攻め込んだため、幕兵をさんざんに駆逐され、残兵は大島の南部に退避しました。

一方、海上では薄明のころになってようやく翔鶴丸が蒸気を上げ、丙寅丸を追跡しますが、夜陰に乗じて逃げ去った丙寅丸を見つけることはできません。翌日15日、長州はさらに大島に兵を送り込んで南部の松山藩部隊も追い払い、17日には完全に大島を奪回しました。

大村益次郎は、この戦争において石州口・芸州口の二方面を指揮ました。しかし芸州口において幕府歩兵隊や紀州藩兵などとの戦闘が始まった際には石州口で指揮を執っていました。なお、このとき、西国の雄藩だった広島藩は幕府の出兵命令を拒み、戦闘に参加していません。

第一次長州征討で広島は最前線基地となり、戦争景気に湧いた広島藩ですが、古くは長州毛利家の領地だっただけに、長州びいきの者も多く、今回の第二次長州征伐にも否定的でした。このため、不戦の代わりに長州藩の仲介を務める役割に徹することを申し出、幕府もしぶしぶこれを認めました。

6月初めに始まったこの芸州口での長州との戦闘に参加した諸藩は、主として彦根藩と高田藩(越後)です。が、藩境の小瀬川(現大竹市南部)で行われた緒戦では、長州軍の火力に押されあっけなく壊滅しました。

この勢いに乗じ、井上馨率いる長州軍は、幕府本陣のある広島国泰寺のすぐ近くまで押し寄せ、幕府軍だけでなく、中立を保っていた広島藩まで慌てさせました。このため、幕府歩兵隊とこのころ幕軍最強の一つと言われた紀州藩が戦闘に入ると、戦況は逆に幕府軍が優勢になり、岩国領まで押し返しました。

紀州藩は、第14代将軍家茂を出した藩で、徳川譜代藩だけに軍備にも力を入れていました。プロイセン(ドイツ)から専門家を招き、軍事教育を受けていたといわれ、明治後も軍制改革を進め、軍事顧問として高名なカール・ケッペンなどを招くなどして軍隊の養成を進めるなど、その後の大日本帝国陸軍の創成に大きく寄与した藩です。

西洋式軍装に身を包んだ紀州兵による果敢な攻撃に対し、最新鋭の軍装を整えていた長州も押し返して膠着状況に陥ります。結局この状態は3ヵ月ほども続きましたが、その後9月に入ってから両者で交渉が行われ、両軍とも追い打ちをしないことを確約し、停戦となりました(後述)。



6月16日、大村益次郎が実戦指揮していた山陰側の石州口でも戦闘が始まりました。このとき津和野藩は中立の立場をとっており、これを通過して最初に対面したのは、現在の島根県浜田市周辺を領有していた浜田藩を主とする幕府軍です。

この浜田藩領主、松平武聰(たけあきら)は徳川慶喜の実弟であり、水戸徳川家から養子に入った人物です。倹約令を出して不正を厳しく取り締まり、さらに高津川の治水工事や石見半紙、養蚕業などの殖産興業化を推進して藩財政を再建し、名君と言われていました。

しかし、このとき武聰は病に臥していたために十分に指揮が執れず、益次郎率いる精強な軍勢の前に悪戦苦闘します。また、益次郎の戦術は巧妙な洋式用兵術に基づいており、最新の武器を持ちながらも無駄な攻撃を避け、相手の自滅を誘ってから攻撃を加えるという合理的なものであり、易々と浜田城下まで進撃しました。

対する浜田藩も松平武聰の命によってそれなりに洋式軍備を整えていたようですが、いかんせん、部隊を指揮する幹部が旧態依然とした戦術に捉われていたため、ことごとく益次郎の戦略に嵌り、自滅していきました。益次郎率いる長州軍は7月18日には浜田城を陥落させ、のち天領だった石見銀山をも制圧しました。

この浜田城攻撃の際、炎上する城を見て益次郎の部下が、浜田藩の盟友である松江藩が救援にやってくるのでは、と心配しました。しかし彼は赤穂浪士の討ち入りの故事を引き合いに出して、「雲州そのほかからの応援は絶対来ない」、と断言したといいます。

赤穂浪士の故事というのは、吉良上野介の実子で米沢藩主だった上杉綱憲らが、事件当日、討ち入りの事実を知りながら、諸般の事情により駆けつけなかったことを示していると思われます。同様に、浜田藩と松江藩は関係が深く、歴代の両藩の藩主の多くは松平家から出ていることもあって兄弟藩のような関係でした。

そのこともあり、浜田城が陥落したとき松江藩が加勢するのではないか、と懸念されたわけですが、実際には武聰は松江城に逃れただけで、援軍は来ませんでした。幕末の松江藩は政治姿勢が曖昧で、のちの大政奉還・王政復古後も幕府方・新政府方どっちつかずだったために、新政府の不信を買ったといい、このときも長州討伐には消極的でした。

ちなみに、松平武聰は、その後さらに美作国の飛び地(鶴田領・現岡山県東北部)まで逃れ、ここで鶴田藩を興して明治維新を迎えています。

「無闇に応援に来るものではない、それでは事情が許さない」と益次郎が、断言したのもそうした状況分析に基づいたものであり、こうした論理的に戦況を考究する能力はその後の戊辰戦争でもいかんなく発揮されました。後年、長州藩における蘭学の先駆者で洋学の重鎮、青木周弼はこうした益次郎を評して「その才知、鬼の如し」と語ったといいます。

一方、四境戦争の最後のひとつ、小倉口では、幕府老中でもある総督、小笠原長行が指揮する九州諸藩と高杉・山縣有朋ら率いる長州藩との激闘が関門海峡を挟んで始まりました。

「小倉戦争」とも呼ばれたこの6月中旬に始まった戦いにおいて、幕府軍は優勢な海軍力を有しており、圧倒的な軍事力の差異がありました。しかし、大軍であるため長州への渡海侵攻を躊躇している間、逆に17日には長州勢の田野浦上陸を、7月2日には大里上陸を許して戦闘の主導権を奪われました。田野浦は関門海峡の東端、大里は西端にあたります。

「拱手傍観(きょうしゅぼうかん)」とは、手をこまねいて何もせず、ただそばで見ていることですが、小笠原長行に率いられた諸藩軍・幕府歩兵隊ともまったくその体であり、九州に上陸した長州軍はそのままの勢いで幕軍総督府のある小倉城に迫る勢いであったのに対し、これに対峙したのは、九州側最先鋒といわれた小倉藩だけでした。

なお、このとき、小倉藩に劣らぬほどの兵力や軍備を持っていた佐賀藩は、幕府にこの戦闘への出兵を拒んでおり、大政奉還、王政復古まで静観を続けました。

戦闘はその後7月下旬まで続き、27日には小倉城下防衛上の最重要拠点である赤坂・鳥越地区で激しい戦闘が起こりました。「赤坂の戦い」とも呼ばれるこの戦闘は、現在の小倉駅東側付近で起こったもので、長州軍側は海軍総督高杉晋作が指揮を執り、征長軍には軍備の近代化を急速に進めていた熊本藩が参戦しました。

熊本藩細川氏は、この征長軍への参加に際し、家老・長岡監物の指揮下にアームストロング砲(8門)や洋式銃などを装備した精鋭部隊を派遣しており、この赤坂口の戦いで長州軍に激しい銃砲撃を加えて大打撃を与えます。更に小倉藩軍が追撃して大里方面まで長州軍を撃退することに成功し、小倉戦争で初めて幕府側に優位をもたらしました。

しかし、この勝利に気をよくしたのか、小笠原総督は小倉藩家老・長岡監物が出した幕府への支援要請を拒否しました。このことから、熊本藩を含む諸藩は不信を強め、この戦闘後に一斉に撤兵・帰国してしまいました。これにより、長州軍は一気に戦況を盛り返して優勢に戦闘を展開、幕府側の敗色は濃厚となります。

しかも折も折、7月20日に将軍家茂が薨去(こうきょ:天皇未満で位階が三位以上の者の死はこう呼ぶ)したとの報が入ると、小笠原は事態を収拾する事なく戦線を離脱してしまいました。孤立した小倉藩は8月1日に小倉城に火を放って退却し、小倉戦争は幕府側の敗北に終わりました。この敗戦責任を問われた小笠原は10月に老中を罷免されました。

長州軍側では、奇兵隊第一小隊・隊長山田鵬輔らが戦死するなどの被害を受けましたが、死傷者の総数としては幕府軍よりかなり寡少だったようです。大島・芸州・石州合わせたこの戦役での死傷者合計はおよそ2~300人程度だったといわれます。対する幕軍の被害はこの倍以上だったと思われますが、諸藩毎にカウントされており、その総数は不明です。

家茂死去の際には、徳川将軍家を継いだ徳川慶喜が「大討込」と称して、自ら出陣して巻き返すことを宣言したと伝えられますが、小倉陥落の報に衝撃を受けてこれを中止し、家茂の死を公にした上で朝廷に働きかけ、休戦の勅命を発してもらいました。

慶喜の意を受けた勝海舟と長州の広沢真臣・井上馨が9月2日に宮島で会談した結果、停戦合意が成立し、戦闘が長引いていた芸州口と、大島口・石州口での戦闘が終息しました。

しかし、小倉方面では長州藩は小倉藩領への侵攻を緩めず、戦闘は終息しませんでした。この長州藩の違約に対し、幕府には停戦の履行を迫る力はなく、小倉藩は独自に長州藩への抵抗・反撃を強力に展開しました。

10月に入り、長州藩は停戦の成立した他戦線の兵力を小倉方面に集中して攻勢を強め、小倉城南部の企救(きく)など、防衛拠点の多くが位置する場所にまで入り込むに及んで、ようやく停戦交渉が始められ、慶応3年(1867年)1月になってようやく両藩の和約が成立しました。

この和約の条件により、小倉藩領のうち、関門海峡を含むその南部一帯の企救郡は長州藩の預りとされ、明治2年(1869年)7月に企救郡が日田県の管轄に移されるまでこの状態が続くこととなりました。

第二次征討の失敗によって、幕府の武力は張子の虎であることが知れわたると同時に、長州藩への干渉能力はほぼなくなりました。

さらに幕府はこの戦争へ薩摩藩を巻き込むことができず、その後この時すでに薩摩が長州と盟約を結んでいたことを知り、潮の変わり目を悟ります。

このため、この敗戦こそが江戸幕府滅亡をほぼ決定付けたとする向きもあります。

征討終了後、大村益次郎は山口に帰還、12月12日海軍用掛を兼務するよう沙汰が下り、海軍頭取・前原彦太郎(のちの前原一誠)を補佐するようになります。翌年には軍の編制替えを行うなど、その多忙さは変わることはありませんでした。

功山寺

長州藩校であった明倫館は、現在の萩市のほぼ中央に位置し、道路を隔てて反対側には市役所があるという一等地にあります。

長州藩は当初、萩に藩庁を置いていたため、萩藩と呼ばれることも多く、明倫館も「萩藩校・明倫館」と呼称されていました。

国の史跡に指定される古い建物群が残っており、その一部は2014年まで小学校として使われていましたが、隣接地に新設移転され、明治維新150年記念事業の一つとして再整備されました。2017年からは「萩・明倫館学舎」の名称で博物館として公開されています。

博物館として公開される以前に私が前を通りがかったときには、まだ生徒たちが元気に校庭を走り回っていました。中がどういうふうになっているのか、見たいなーと思っていたところです。現在はカフェ・レストランなども併設されてずいぶんと見どころも多そうなので、次回帰郷したらぜひ訪問してみたいところです。みなさんもいかがでしょうか。

この明倫館ですが、元は別の場所にありました。享保3年(1718年)に5代藩主、毛利吉元が毛利家家巨の子弟教育のために、現在の場所から2kmほど西にある堀内という場所に建てられ、すぐ近くの萩城内から通うには便利な立地でした。

それから約130年後までには学ぶ生徒も増え、教える教科も倍増して手狭になったため、嘉永2年(1849年)に現在地(江向)に拡大移転しました。

約5万㎡もの敷地内に学舎や武芸修練場、練兵場などがあり、NHKの大河ドラマ、「花燃ゆ」で大沢たかおさんが演じた楫取素彦(小田村伊之助)や、吉田松陰もここで教鞭をとっていました。幕末までには、山口に「鴻城明倫館」が設立され、三田尻にあった「三田尻越氏塾」も支校の一つに加えて育英の拠点とするなど、長州藩は教育熱心な藩でした。

また、医学・洋学の面においては、早くから萩市街に医学所を設けて、医師の子弟に医学を、また家中藩士を選んで洋学教育を行なっていましたが、安政3年(1856年)に、これを明倫館内に移すと同時に、洋学所も設けて「博習堂」と名づけ、西洋の科学技術を講習しました。

蔵六は、1864年(元治元年)にこの博習堂の御用掛に任じられて教授職に従事し、西洋の兵制・文物の導入に努めるとともに、若い藩士に兵学を教えるようになっていました。教師の職は、大阪の適塾や江戸の鳩居堂時代にとった杵柄であり、綿密な準備に基づく詳細な教技は評判も高く、藩内における評価も上々でした。

ところが、時の情勢は、次第にこうしたのんびりとした空気を許すようなものではなくなってきました。先の下関戦争において無断で諸外国と戦争を始めた長州藩を罰するため、幕府は「長州討伐」を決定。尾張藩・徳川慶勝を総督とし、薩摩藩の西郷吉之助を大参謀とする征長軍を編成して、大阪から長州へ向けての進軍が開始されようとしていました。

一方、下関戦争や蛤御門の変(禁門の変)は、長州藩の軍備や財政面で大きなダメージを与えました。また、政治面でも大きな変動をもたらし、それまで藩侯に攘夷を推奨していた正義派の勢力が著しく衰え、幕府への恭順止むなしとする椋梨藤太ら俗論派が台頭してきました。

元治元年(1864年)9月、山口政事堂で藩主敬親臨席の元、君前会議が開かれ、正義派の代表格である井上聞多が武備恭順論(表向きは恭順しつつも戦うことも想定)を説きますが、親幕・武装解除を唱える俗論派の抵抗により会議は紛糾。

最終的には敬親が、武備恭順を長州の国是とする事を言明して終わりますが、会議からの帰途、井上は暴徒に襲われて瀕死の重傷を負います。

その翌日、今度は周布政之助が、突如切腹。蛤御門の変で藩士の暴発を抑えられなかったことの責任を取ってのことですが、正義派の面々のよき理解者であった周布の自殺は、彼らに大打撃を与えました。俗論派の椋梨らの独走を許し、彼らが藩の人事を掌握するようになっていきます。

勢いに乗る俗論派は10月、藩主敬親公父子を擁して萩城へ入り、以後、それまで山口政治堂で行っていた藩議がすべて萩で行われるようになります。この移動には俗論派の実戦部隊である撰鋒隊も帯同しており、プチクーデターともいえるでしょう。

山縣有朋ら奇兵隊幹部は、いまだ山口に滞在していた藩主の息子、毛利元徳に拝謁し、建議書を提出して藩侯らの萩行を止めるよう求めましたが受け入れられませんでした。萩に拠点を移した俗論党は、それまで藩の要務を務めていた正義派の面々を罷免し始め、政務役だった高杉晋作もこのとき役職を取り上げられました。

折もおり、ちょうどこのころ幕府が西国諸藩に動員をかけ、10万以上ともの軍勢が畿内に動員されたという情報がもたらされました。こうした中、萩に中枢を移した俗論派は蛤御門の変を積極的に指導した正義派三家老を切腹させ、幕府に降伏する事を主張。これに対し高杉晋作が創設した奇兵隊をはじめとする諸隊の幹部は反対の建議書を提出しました。




しかし、長州藩の支藩である岩国藩の当主、吉川経幹(つねまさ)が、首謀者を処罰して事態の収拾を図ることを毛利敬親に進言するなど、情勢は正義派にさらに不利になっていきます。

幕府の長州征伐が迫る中、奇兵隊ほかの諸隊は長州藩内各攻め口に兵を配置しますが、俗論派主導の萩藩政府は、敬親から三家老を切腹させて幕府へ恭順するという策の了承をほぼ得ていました。このため、各攻め口に使者を送り、征長軍と衝突しないよう周知するとともに、諸隊幹部を山口の政事堂に集合させ、諸隊の解散を命令しました。

藩の解散令に従わない場合は罪を問う旨を布告するとともに、さらに藩主父子は、諸隊総督に親しく諭す所があるため萩へ赴くよう命じますが、諸隊は俗論派を警戒して拒否。

このころ萩で藩侯父子を説得していた高杉晋作も、俗論派の台頭に身の危険を感じて萩を脱出しました。 その際、盟友のひとり、楢崎弥八郎も誘いましたが同意せず、残留した楢崎は捉えられ、後に処刑されました。

ちょうどこのころ、征長軍総督・徳川慶勝は大阪を出発し広島へ向かい始めるとともに、西郷ら別働隊は関門海峡側へ集結を始めていました。慶勝が大阪を出発する際、江戸幕府は蛤御門の変の際に捕えた長州人7人を斬首して征長軍の門出を祝しました。

萩から山口へ脱出した高杉は、三田尻港からさらに福岡藩へ逃れ、彼の庇護者であった女僧、野村望東尼の別荘、平尾山荘に匿われました。この時点では、藩内で高杉に同調して蜂起するような機運はまだ高まっておらず、彼は九州を巡って遊説し、各地で同志を募った上で長州に戻り、決起することを考えていました。

こうした中、かねてより取り沙汰されていた三家老の切腹が実施に移されます。その首は征長軍に届けられて首実検が行われるとともに、藩主敬親父子は謹慎し、幕府へ発する降伏文書の準備を始めました。俗論派はさらに正義派の粛清を続け、野山獄に投獄していた蛤御門の変の四参謀(宍戸左馬之助以下三名)までも処刑しました。

このころ、下関まで進軍してきていた征長軍参謀である西郷隆盛は、ひとつの決断をします。蛤御門の変では長州と相対した薩摩ですが、彼の国もまた、先年イギリスとの間で薩英戦争を繰り広げ、敗戦を喫しています。このことから西郷は、外国勢力が日本に迫るかかる時期に、こうした内戦は無益であるとの認識を持っていました。

また、薩摩藩主である島津久光からも藩命として長州内の内戦回避に尽力するよう、指示を受けていたと言われます。

このため西郷は、長州の恭順をみるやいなや、征討回避に動き、征長軍幹部に停戦を呼びかけ始めました。結果西郷は、慶勝の信任を得て戦争回避の交渉を取り仕切ることとなりますが、これはかつて薩摩藩が、蛤御門の変において長州を撃退した功績があり、征長軍内でも大きな発言力を持っていっためでもありました。

また、徳川慶勝は、元々尊王攘夷派であり、そもそもこの長州討伐には消極的だったといわれています。井伊直弼が安政5年(1858年)にアメリカと日米修好通商条約を調印した際にも江戸城へ不時登城するなどして直弼に抗議しましたが、これが災いし、井伊が反対派を弾圧する安政の大獄を始めると隠居謹慎を命じられています。

こうしたどちらかといえば消極的なリーダーを持った征長軍総督府は、とりあえず総攻撃を延期。「五卿の引き渡しと附属の脱藩浪士の始末、山口城破却、藩主父子からの謝罪文書の提出」を条件に停戦してもよい、と西郷を通じて長州側に伝達してきました。

ここで、蛤御門の変で長州に落ち延びた公家七卿がなぜ五卿になったかですが、これはこのうちのち錦小路頼徳が病没、澤宣嘉は他藩の攘夷運動参加のために転出したためです。

無論、総督府からの通達は最終的な降伏条件ではなく、この時点では総督府の誰もが一時的な戦争回避の為の条件と考えており、戦後落ち着いた時期に別途沙汰があり、長州藩は改易ないし減封されるだろうとみなしていました。 西郷隆盛ですら、長州毛利は東北あたりに数万石で減封され、この戦は終わるだろう、と考えていたようです。

また、最初から領土削減を戦争回避の条件として持ち出すと、短期間での妥結が不可能となります。このため、総督府側はこの時あえて減封に言及しなかったと見られます。



いずれにせよ、表だって提示された降伏条件はそれほど厳しいものではなく、このため長州はこれを飲み、戦闘は回避されるのではないか、とみられていました。が、あにはからんや、長州藩内では、この情勢を根本から覆す謀事が着々と進行していました。

三家老が切腹したという情報が山口にもたらされると、正義派の息のかかった各諸隊幹部は激怒しました。さらに諸隊は、萩藩政府が彼らを駆逐するため、軍兵の動員をかけた事を察知します。 諸隊は衆議し対策を練りますが、山口の地形は寡兵で守ることが出来ないと判断し、正義派に協力的な長府藩主毛利元周を頼り、長府へ赴くことを決めます。

長州藩は大きく分けて、長府藩、徳山藩、岩国藩の三つの支藩をもちます。このうち長府藩は最も西の関門海峡を含むエリアを統治しており、長府城下は関門海峡から直線距離でわずか5~6キロほど東、という位置関係です。

長府の地名は「長門国府」にちなみ、古代より山陽道の中継地として栄え、国府および国分寺が置かれていましたが、やがて長門国の中枢が萩や山口に移行してからは、国府としての機能が低下し、単なる宿場町として位置付くことになりました。

江戸時代に入ってからは、長州藩の支藩として長府藩が設置され、これにより長府毛利家が陣屋(櫛崎城)を構え、その周辺に武家屋敷が広がるようになります。現在もこの時代の武家屋敷がいくつか残り、明治期に建てられた豪華な長府毛利邸、国宝の仏殿を持つ功山寺、乃木希典対象を祀る乃木神社などと合わせ、長府は見どころの多い町です。

この長府藩の幕末の動乱の中での藩主、毛利元周(もとちか)は、長州藩主・毛利敬親の補佐を務めており、正義派には好意的でした。

諸隊の戦略としては、五卿を帯同して長府に赴き、正義派に理解のある元周の長府藩と力を合わせ、馬関の長州本藩会所を抑えて金米を取り、役人を追い払い、俗論派退治のための義兵を起こすというものであり、この計画は後に高杉挙兵の下地となりました。そしてまずは五卿の長府への下向と、諸隊の移動が実施に移されました。

このころ、野村望東尼の元に潜伏していた高杉は、藩内の正義派同志から、長州正義派の家老が切腹された旨の手紙を受け取ると、即座に長州へ帰還し俗論派を打倒する事を決意します。 しかし多数の間者や征討軍に囲まれる長州への帰還は困難を極め、町人に変装して帰国することとなりました。

高杉を匿っていた平尾山荘の家主、野村望東尼は、変装の衣服の用意を徹夜で行い、以下の歌を添えて送り出しました。

   まごころを つくしのきぬは 国のため 立ちかへるべき ころも手にせよ

高杉はこの心遣いに感激し、後に野村望東尼が、高杉ら脱藩浪士を匿った罪で離島に流刑になった際は、人を遣わして奪還しています。またその後に病に倒れた高杉を看病し、最期を看取ったのは望東尼でした。

こうして高杉は筑前より下関へ帰還します。この時、諸隊幹部は、各地に派遣された俗論派代官を暗殺する計画を建てていましたが、これを聞いた高杉は、兵力が分散することや全員一致しての決起にならないことを説き、また諸隊からの脱走が増加し自然解隊の恐れがあることを指摘して、諸隊が一致して即座に挙兵すべきであると主張しました。

一方、このころすでに広島に進駐していた総督府は、先の降伏条件への回答を得るため先遣使を山口に派遣し、不穏な動きのある長府の状況確認の巡回もさせようとしていました。

しかし、長府に反抗する諸隊があることを知っていた萩藩政府は、彼らを終始酒宴でもてなして山口に留めました。このため、先遣使らは山口城破却等の条件履行のアドバイスをしただけで広島に帰りました。

これと前後して、幕府から要請を受けた九州諸藩の使者が、長府にいた五卿を訪れ、朝廷及び幕府の命令により九州の五藩が五卿を預かりたい、という申し入れをしました。これを五卿も諸隊も断固拒否しますが、使者の代表が、筑前勤王党(尊皇攘夷派)に属する福岡藩士だったため、三条実美ら五卿は説得され、福岡・太宰府に移ることを決めます。

これにより、長州藩としては勤皇のよりどころの一つを失うことになりました。が、結果としてその後長州内で起こる動乱に五卿が巻き込まれることなく、維新後、三条実美は太政大臣や内大臣に、三条西季知は参与や神宮祭主、東久世道禧は枢密院副議長や貴族院副議長となるなど、それぞれ明治政府の要職に就くことができました。

幕府にすれば、このとき福岡藩に五卿の始末を期待していたわけですが、それが実行されなかったため、同藩はのちに尊皇攘夷の雄藩の一角とされるようになりました。ただ、そのことで藩主である黒田長溥が幕府に責められるなどによって藩論が佐幕に傾き、勤王派が弾圧されるなどの動乱がありました。

これにより筑前勤王党は壊滅状態に陥りましたが、その後再び巻き返すなど、藩論が目まぐるしく変転するまま幕末を迎えました。

ちなみに、高杉を助けた野村望東尼はこの福岡藩の重職の娘で、勤皇派に属していたためこの動乱に巻き込まれ流刑されますが、前述のとおり、これを高杉が奪還しました。




この五卿退去により、諸隊の中にも恭順の空気が広まり始めましたが、こうした中でも強硬に俗論派と戦うことを主張する高杉は、少数の賛同者とともに決起し、諸隊全体をそれに続かせようと画策します。しかし、高杉の挙兵計画を聞いた諸隊幹部は全員一致して反対しました。

高杉は、この消極的な諸隊幹部の態度に怒り、自らと一緒に立ち上がるよう大演説をぶちましたが、彼らの心をつかむことは出来ません。説得が不調に終わった彼は下関に赴き、わずかな賛同者とともに決起の準備を進めざるをえませんでした。

そして、元治元年12月15日(1865年1月12日)深夜、下関・長府にある功山寺にて高杉晋作は挙兵しました。この夜、下関では珍しい大雪であったといいます。

この功山寺ですが、かなり長い歴史を持つ古刹で、嘉暦2年(1327年)に創建されました。正慶2年(1333年)には、後醍醐天皇の勅願寺(朝廷が国家鎮護・皇室繁栄に効力があるとして認めた寺)となり、時の権力者、足利尊氏から寺領が寄進されるなど、朝野の尊崇を得て栄えました。

室町時代には大内氏の庇護を得ますが、大内氏が滅亡後衰退していたものを、慶長7年(1602年)、長府藩主毛利秀元が再興。曹洞宗の笑山寺として再スタート。秀元の没後、功山寺に改名されました。仏殿は鎌倉時代の禅宗様建築を代表するもので、国宝に指定されているほか、多数の文化財をする、県内屈指の名寺です。

先に、福岡へ逃れた五卿が滞在していたのもこの寺で、今ものこる豪華な書院で起居していたと伝えられています。境内にはこのほか、高杉晋作が挙兵した折の姿を模した銅像が建てられており、騎馬姿のこの像は、「維新の町・長府」のシンボルともなっています。

この蜂起後に藩内で繰り広げられた内乱は、元治元年に起こったことから「元治の内戦」と呼ばれ、また、功山寺での決起は、「功山寺挙兵」、「回天義挙」とも呼称されます。

しかし、その最初の決起の参加者は、高杉を含めたごく限られた者たちだけでした。集結したのは伊藤俊輔率いる力士隊と石川小五郎率いる遊撃隊、義侠心から参加した侠客のわずか84人だけであり、装備していた大砲はたった一つでした。

挙兵した高杉らがまず最初に目指したのは、関門海峡にもほど近い「新地」にあった「馬関会所」です。長州藩の町役人・村役人が詰める事務所で、両替所、取引所などを兼ねており、高杉はここを襲撃することで今後の戦で必要となる、金品をまず得ようとしました。

功山寺から下関へは長府藩領を通行する事となりますが、かねてより正義派に好意的だった長府藩はこれを妨害しませんでした。易々と会所を収得した高杉らですが、もとより食料と金銭を取れれば良く、人を殺すのは悪いと考え空砲を一発撃ったところ、ここに詰めていた総奉行の根来親祐らもすぐに降伏しました。

流血は避けられたものの、会所襲撃を察知した長府藩が事前に密告をした後であり、会所側は既に金穀を移動させていました。このため、こうした算段には聡い伊藤俊輔が、高杉と親しい下関の豪商入らの元を走り回り、二千両の大金を借りだしました。

周辺の住民は決起した高杉らに好意的で、このとき、120人ほどの志願兵が馬関会所に来たといい、その後も志願兵は増える一方であったといいます。会所を掌握した後、高杉は18名からなる決死隊を組織して三田尻の海軍局に向かい、「丙辰丸」など軍艦3隻を奪取。これにより、「高杉蜂起」の知らせは、その日のうちに長州中に広まりました。



このころの村田蔵六は、俗論派にも正義派にも属さず、ただ黙々と萩で藩の兵装を整える事業を推進し、兵学教授に専念していたと思われます。知らせを聞いた蔵六は、下関戦争の後始末で行動を共にした高杉が挙兵したと聞いて内心驚いたでしょう。しかし、藩から高禄をもらって勤務をしていた手前、そのことは億尾にも顔に出しませんでした。

この高杉挙兵の報を受けた俗論派・萩藩庁政府では、すぐに動きがありました。その報復として、野山獄に投獄していた正義派の首脳たちを11名を斬首にします。野山獄で粛清された彼らはのちに萩市の東光寺に慰霊のための墓が建てられ、「福甲子殉難十一烈士」と呼ばれました。

ところが、萩藩政府は、このクーデターを軽く見ていたきらいがあります。十一烈士の処刑があった同日も、視察に来た幕府の3名を受けいれており、何事もなかったように山口城破却の状況を案内しました。山口城は城ではなく館と説明し、破却の仕方も屋根瓦十数枚を落としただけでしたが、巡見使はこれを問題なしとして了承して広島に帰りました。

さらに翌日、もう一人の巡見使が萩に向かい、毛利藩主父子の蟄居状況を視察し、長州が戦争回避条件を満たしていることを確認した上で長州を去りました。12月29日、征長軍総督府は萩へ正式に解兵令を伝え、総督府内の幕臣も広島を離れ江戸へ帰国しました。

幕府軍に内乱が発生していることを知られることなく事が進んだ、とみた俗論派政府は、12月25日になって、ようやく決起した高杉らの討伐を決め、高杉らを「追討」する議案を藩主へ提出しました。

この議案を見た藩主敬親は、一読の後に「追討」を「鎮静」に改めさせたといいます。「そうせい公」と呼ばれた敬親が、議案を自ら変更することは非常にまれであったといいますが、藩候もまた、高杉らのクーデターはたいしたことがない、と考えていたようです。

同日、家老・清水清太郎が切腹に処されました。 清水清太郎は最後に残った正義派家老であり、彼の死により、萩藩政府内の正義派高官はすべていなくなりました。

これを受けて、高杉らが率いる正義派諸隊はついに一戦を覚悟します。元治2年(1865)正月6日夜半、赤間関街道を粛々と進軍し、秋吉台東に位置する「絵堂」に達しました。

この赤間関街道というのは現在、地元山口の人でも、かつての街道とは認識していないようなルートです。瀬戸内海に面する長府付近を発し、北東方面に抜ける間道で、その終点は日本海側の萩になります。

途中、美祢(みね)、大田(おおだ)、絵堂(えどう)、明木(あきらぎ)と辿って、萩に到達しますが、この途中の大田と絵堂がこの紛争の主たる舞台となりました。風光明媚な景勝地として知られる秋吉台・秋芳洞の東にある「美東町」と呼ばれる付近です。ちなみに、奈良の大仏を形成した銅は、ここの長登銅山で産出されました。

萩藩政府は、毛利宣次郎(厚狭毛利家・家老)を諸隊鎮静軍の総奉行に任じ、26日先鋒隊1200名が萩城下を出立し、絵堂を本陣とし、反乱軍を包囲する形で駐屯。後軍1400名が絵堂の北部・明木に本営を構えたほか、1200名が北方の三隅に後詰めとして進軍しました。

対する正義派諸隊の総数は600名ほどだったといわれており、このうち絵堂に進んだのは150とも200とも言われているようですが、明確な記録がありません。が、いずれにせよ、数では圧倒的に藩政府軍が優位でした。このため、この絵堂で1月6日に始まったとされる戦闘では、諸隊が萩政府軍本陣を夜襲して開戦の火蓋が切られたと伝えられています。

この夜襲は成功し、諸隊は絵堂を占領しましたが、ここは防御に向かない地形であり、また数でも劣勢のため放棄して南進し、翌7日には、大田川流域の大田(秋吉台の南東)に出ました。このころまでにはその総数は400ほどまでに増えていたといい、近代兵器を装備した諸隊が、民衆の支援を得て藩政府軍を圧倒します。

結局、大田・絵堂戦役は、正月16日までの10日間も続くことになりますが、高杉が組織した反乱軍諸隊はほとんどの戦闘に勝利しました。またこれに呼応するように、山口南部の小郡(現新山口市駅周辺)でも諸隊が蜂起し、ここを占領するとともに、藩議事堂のある山口をも掌握しました。

さらに三田尻他の各地代官はことごとく俗論派に与した者でしたが、彼らもすぐに恭順し、防長二州においては、萩を除くすべてが正義派である反乱軍諸隊によって掌握されるようになりました。このクーデターにおける、大田・絵堂の戦いを含むすべての争乱で死傷した兵士数は必ずしも明確ではありませんが、彼我ともにかなり過少であったようです。

2月9日、長府藩主の毛利元周らが萩城に登り、藩主敬親、重臣と一堂に会して会議を行いました。元周らは敬親に対し、諸隊の建白書を受け入れて国内の統一を図るべきことを提案。敬親父子がこれを了承したのを受け14日、奇兵隊・八幡隊は萩城周辺を制圧しました。

さらに諸隊が萩南部の明木に侵攻し、海上からは癸亥丸が空砲を撃って示威活動をする中、諸隊が萩城へ入城すると、俗論派の幹部らは逃亡しました。城内と萩市内は非常に混乱したため、敬親候は癸亥丸へ使者を遣わして発砲を止めさたといいます。のち、高杉らは野山獄に囚われた正義派諸氏を釈放しました。

逃亡した俗論派の首魁、椋梨藤太、中川宇右衛門らは石州(現島根県)等で捉えられ、その後の5月、萩の野山獄において処刑されました。このとき椋梨は、正義派の取り調べに対し「私一人の罪ですので、私一人を罰するようにお願いします」と懇願したといいます。

その他の俗論派の重鎮も順次捕縛・処刑され、ここに俗論派は完全に潰えました。ただ、老若男女を問わない虐殺のような事態は起こりませんでした。高杉ら幹部の戒めも厳しく、略奪・暴行といったことも皆無でした。かつて俗論派が正義派を弾圧したときも同様であり、長州藩が幕末の動乱以降、多くの人材を残すことができたのはこのためです。

2月22日、敬親父子は先祖を祀る霊社に参拝して臨時祭を納め、騒乱の責任を毛利家祖先に謝罪し、維新の政治を敷くことを誓います。さらに3月17日、敬親は諸隊の総督と長州各支藩の家老を召し、改めて、武備恭順の対幕方針を確定しました。

これにより、長州藩は一丸となって幕府による第二次長州征討へ備えることとなりますが、武備恭順のうちの「恭順」の文字は、その後「反幕」へと変化していきます。

この第二次長州征伐は、幕府軍と長州軍が本格的に砲火を交える熾烈なものとなっていきますが、このとき、長州軍を勝利に導いた立役者は、高杉晋作と村田蔵六でした。

長州を囲む四方の海山から幕府が攻撃を加えたこの戦いでは、第一次長州征伐とは比べ物にならないほどの死傷者を数えることとなります。後年、「四境戦争」とも呼ばれるこの争乱に寄与した蔵六の活躍については、また次項、書きたいと思います。




火吹き達磨

村田蔵六は、長州藩ではその風貌から「火吹き達磨」のあだ名を付けられていました。この名は周布政之助が付けたとも、高杉晋作が付けたとも言われています。 

高杉晋作は言わずと知れた時代の風雲児。しかし、周布政之助は知らない人が多いと思うので、少し説明しておくと、長州藩「大組」という藩内門閥士族、つまり代々重役を担うエリート家の出です。24歳の若さで、藩の蔵元検使暫役、29歳で政務役に抜擢され、村田清風の後継とみなされました。

村田清風は、下関海峡を通行する西国諸大名の船に新たに税を課すなどの手腕で藩の財政改革を成し遂げた人物で、老齢のために幕末の動乱期前に死没(1855年、73歳没)しましたが、長州がこの時期、幕府に抗うだけの備えを蓄えることができていたのは、彼のおかげであるといっても過言ではないでしょう。

周布は、この村田を尊敬し、これを継いで藩財政の立て直しに力を注ぎましたが、若い頃から議論好きで、嚶鳴社という研究会を主唱し、尊王攘夷思想を持つ仲間をまとめて、「正義派」のリーダーと目されるようになりました。正義派とは尊王攘夷を旨とする輩の集まりで、これに対して幕府に恭順しようとする保守派は、俗論派と呼ばれました。

正義派・俗論派の呼称は、のちにこの周布に擁護される形で討幕を進めていった高杉晋作がつけたものですが、正義派は改革派である晋作らの立場を正論化するためのネーミングです。敵対する俗論派を保守佐幕と決めつけ、なかば彼らを煽る形で藩論を自分たちの都合のよいように形成しようとしました。

清風の改革の時代から、一貫して反対派であった同じく藩の重役「椋梨藤太」が、この俗論派のリーダーであり、保守佐幕の彼らは、ことごとく周布らと対立し、一時期強い権力を掌握して正義派の面々を弾圧しました。

椋梨家は、長州を組成した毛利・小早川家に早くから追従した武家で、代々重臣として登用されてきた家系ですが、この時期は方向性を誤りました。改革の急先鋒となった周布らの行動を理解できず、時代に埋もれていきます。

対する周布家もまた重役を担う家系であり、歴代の当主が家老職を務めてきました。政之助は、父と長兄が相次いで歿したことによる末期養子(家の断絶を防ぐために緊急に縁組された養子)であったため、家禄を68石に減ぜられ、わずか生後6ヵ月で家督を相続しました。

若い頃から血気盛んな人物として知られ、愚直ともいえる一途な性格から多くの舌禍事件を起こしてたびたび逼塞処分を受けました。椋梨ら保守派とも幾度かの抗争を行い、その都度失脚しますが、持ち前のふんばりで何度も返り咲き、松陰門下の高杉晋作、久坂玄瑞ら、若い藩士たちのよき理解者として、長州藩を尊皇攘夷の雄藩へ押し上げていきました。

藩エリートに生まれたという点では高杉も周布とよく似ています。出自も家格は大組士で、長州では名門で知られる家系でした。父の小忠太は、直目付・学習館御用掛に任じられて長州藩と朝廷・幕府の交渉役を務めたことで知られる人物です。晋作はその跡を継ぎ、将来を嘱望されていましたが、父親にはむかうように討幕へと突き進みました。

この周布政之助は1823年生まれ、高杉晋作は1839年生まれです。境遇や性格が似ていたせいか、16歳も年が違うこの後輩を周布はかわいがりました。一方の村田蔵六は1824年生まれですから、周布と同年齢です。このことから、年少である高杉晋作が年上の蔵六を指して、「火吹き達磨」のあだ名をつけたとするのは少々無理があるかもしれません。

むしろ同年代で、豪放磊落な性格だった周布が遊び心でつけたのではないでしょうか。酒癖が悪かったともいわれますから、何かの酒の席で、村医者あがりの蔵六を多少蔑む意味もあって、こう呼んだのではないかと思われます。




ところで、この「火吹き達磨」とは、いったいなんなのでしょうか。

筆者が調べてみたところ、これは「火吹き玉」とも呼ばれ、昭和初期まで広く一般に使われていたものです。中が空洞の卵型をした金属球で、だいたい銅でつくられています。一か所に孔が明けられた不思議な道具です。

江戸時代のいつのころかわかりませんが、発明されて各家庭で広く普及しましたが、明治大正と各家々から囲炉裏が姿を消して行くに連れて、姿を消して行ってしまいました。使い方としてはまず、これを囲炉裏の炭(熾(おき)火)のそばへ置きます。しばらくすると、中の空気は約2倍に膨張して、一か所に明けられた孔から噴き出していきます。

空気の噴出が落ち着いたところで、火箸で玉をつまみ上げて、水を張った桶の中へ放り込みます。すると、玉の中の膨張していた空気は冷やされて、体積が半分くらいに減ります。その減った分だけ、火吹き達磨の中へ水が吸い込まれます。

そしてこの水をたっぷり吸い込んだ玉を再び火鉢の中の熾火のそばに置きます。しばらくすると、熾火の熱で中の水が沸騰するため、今度は空いた穴の口から勢いよく水蒸気が噴き出ます。

この水蒸気が炭と衝突すると、「水性ガス反応」が起こります。化学式で書くと、水素(H2)と一酸化炭素(CO)が合わさる形です。そして熾火の火が引火すると、このガスは勢い良く燃えあがります。

火吹き玉からの水蒸気の噴出が少なくなってくると、ふたたび火箸でこれをつまみ水の中へ、そしてまた熾火のそばへ……とこれを繰り返します。通常、炭は固形物であるため、なかなか燃え上がりませんが、こうすることで、短時間に強い火力を得ます。これにより、急速に暖をとることができます。

炭は何もしなければ時間をかけてゆっくりと燃え尽きていきますが、こうして人為的に燃やしてやれば瞬間的な暖がとれるわけです。昔人の知恵といえるでしょう。

この金属製の玉には、職人の遊び心でいろいろな彫金が施されていたようです。そのひとつが「達磨」であり、長州ではこれが定番だったので「火吹き達磨」と言う呼び名が定着したようです。

別に金属製である必要はなく、陶器などでも作られていたようですが、耐久性や熱伝導率のために銅製のものが多かったようです。また達磨だけでなく、大黒様の形や鍵、薬缶といったいろいろなものがありました。コレクションにすると将来的に高値がつくお宝になるかもしれません。骨董店で探してみてください。

で、この火吹き達磨に蔵六が似ているということなのですが、生前、彼と面識があり、明治いなって歴史家になった元水戸藩士の鈴木大という人の表現では「人となり、短驅黎面(小柄で色黒)にして、大頭、広額、長眼、大耳、鼻梁高く、双眉濃く、髷を頭頂にいだき、常に粗服半袴をまとい」とあります。

額が広くて、ゲジゲジ眉、しかも身なりには構わない、というところが最大の特徴のようで、維新後に来日したお雇い外国人の一人、エドアルド・キヨッソーネによって描かれた肖像画でも、異様に大きな額の村田蔵六が描かれています。死後に関係者の証言や意見をもとに彼が描いたものですが、元となる写真は発見されていません。

一方、靖国神社に蔵六の銅像がありますが、これもキヨッソーネの肖像画を元に制作されたようです。ただ、こちらは額の大きさはそれほどではなく、眉毛が妙に強調されており、これまた別人のようです。

袴を身につけ、左手に双眼鏡を持っていますが、これは「上野の彰義隊を攻める折に、江戸城富士見櫓から北東を凝視している姿をモデルにした」とされます。

蔵六には琴子という配偶者がいましたが、二人の間に子はなく、養子をとっています。このため実子から村田蔵六という人物の容貌を推し量ることもできないわけで、現時点ではキヨッソーネが書いた肖像画が唯一彼の顔を知る手立てということになります。



ちなみに、このエドアルド・キヨッソーネとはイタリアの版画家・画家で、明治時代に来日しお雇い外国人となった人物です。

イタリアのアレンツァーノ(ジェノヴァ県)の美術学校で銅版画の彫刻技術を学び、22歳で卒業、特別賞を受賞し教授となったのち、紙幣造りに興味を持ちイタリア王国国立銀行に就職し同国の紙幣を製造に関わっていました。

来日した理由は、大隈重信が提示した破格の条件(月約1千万)を提示したこともありましたが、当時写真製版技術の発達が進んでおり、彼が得意とする銅版画の技術を生かせる場を求めていたためでもありました。また明治政府にとっても偽造されない精巧な紙幣の製造が課題であり、国産化を目指しその技術指導の出来る人材を求めていたためでした。

来日後、当時の大蔵省紙幣局を指導。印紙や政府証券の原版を作成し、日本の紙幣・切手印刷の基礎を築きました。また若い世代に絵画の手ほどきなどもしており、近代日本の美術教育にも尽力したことで知られます。奉職中の16年間に、キヨッソーネが版を彫った郵便切手、印紙、銀行券、証券、国債などは500点を超えるといいます。

1888年には宮内省の依頼で明治天皇の御真影を製作し、同省から破格の慰労金2500円を授与されました。また村田蔵六以外にも、数多くの元勲や皇族の肖像画も残しています。ただ、面識がない人物を描いたことも少なくなく、西郷隆盛の肖像を描いたのも彼です。

良く知られているゲジゲジ眉で丸坊主、という例の西郷の顔は、彼が想像で描いたもので、実際の西郷はもっと細身だったのではないか、という説もあるようです。案外と、今年の大河ドラマの主人公役、鈴木亮平さんくらいの体格だったのでないでしょうか。

村田蔵六もそうですが、西郷もまた生前の写真が残っていなかったため、西郷の縁者でもあった初代印刷局長・得能良介からアドバイスを受けて描いたとされています。ただ、西郷の場合は、実弟の西郷従道と従兄弟の大山巌がこの当時まだ存命であり、彼らをモデルにイメージを作り上げることが可能でした。

このほか、キヨッソーネは、新紙幣の藤原鎌足や和気清麻呂といった古人を描きましたが、前者を描く際には元総理の松方正義、後者の時は木戸孝允をモデルにしたとされます。なお、有名な明治天皇の肖像も彼の手によるものです。皆が良く知るこの肖像は、実際とはかなり異なっており、写真も残っていますが、実際はよりいかつい顔をされています。

キヨッソーネは、雇用期間が終了した1891年(明治24年)には、それまでの功績を認められ、現在価値にしておよそ6~7千万円の退職金(現在に換算)と、年額約3千万円近い終身年金をもらい、さらに勲三等瑞宝章を政府から与えられています。

これらの莫大な収入の殆どは、日本の美術品や工芸品を購入するのに当てたほか、寄付したといいます。また、彼が収集した美術品は、浮世絵版画3,269点、銅器1,529点、鍔1,442点をはじめとして15,000点余りに上りますが、これら収集品は死後イタリアに送られ、現在はジェノヴァ市立のキオッソーネ東洋美術館に収蔵されています。

キヨッソーネは最期まで日本に留まり、1898年に65歳のとき、東京・麹町の自宅で没、青山霊園に葬られました。独身を通したため、遺言で残された遺産は、すべて残された召使に分配されたそうです。

さて、火吹き達磨の話やらキヨッソーネの話で前段が長くなりました、村田蔵六の話に戻りましょう。

前項では、村田蔵六が江戸から長州藩に戻り、軍事や外交における顧問として重用されるようになるまでについて書いてきました。

ここから長州藩は、討幕に向かい、それこそ火達磨のようになっていくわけですが、対する幕府も長州征討の体制を整え、残る力を絞り出してその火を消そうと躍起になっていきます。

前項でも書きましたが、長州藩としては、激動する情勢に備えて、それまで日本海側の萩においていた藩の中枢を、より山陽筋に近い山口に移し、ここに軍事拠点を作ろうとしていました。これが明治維新からわずか5年前の、1863年(文久3年)のことです。

この年は、尊王攘夷運動が最大にして最後の盛り上がりをみせた年でした。京都には各地から尊攘派志士が集結し、「天誅」と称して反対派に対する暗殺・脅迫行為が繰り返されました。朝廷内においても三条実美や姉小路公知ら尊攘派が朝議を左右するようになり、国事参政と国事寄人の二職が設けられると、二人がこれに登用され実権を握ります。

これに出仕する長州藩士、久坂玄瑞らも朝廷に影響力を持つようになり、諸藩に抜きんでて尊王攘夷を推し進めようとしました。そうした情勢のもと、何者かが足利三代の将軍像の首を切り取る、といった事件が起こり、時の天皇である孝明天皇も、攘夷祈願のために賀茂神社や石清水八幡宮に行幸する、といった反幕と攘夷への動きが加速します。

ついには、孝明天皇が将軍徳川家茂を宮中に呼び出し、参内した家茂に対し、この年の5月10日を攘夷決行の日とすることを約束させるに至ります。そして、当日になると長州藩はこの定約通り、下関海峡を通る外国船を次々と砲撃。列強もこれに反撃しました。




いわゆる「下関戦争」と呼ばれるこの戦争は、この年・文久3年(1863年)の5月と翌年、文久4年(1864年)の7月の二回にわたって起こり、イギリス・フランス・オランダ・アメリカの列強四国の艦隊と交戦しました。

長州藩は馬関海峡とも呼ばれる下関海峡に砲台を整備し、藩兵および浪士隊からなる兵1000程、帆走軍艦2隻(丙辰丸、庚申丸)、蒸気軍艦2隻(壬戌丸、癸亥丸:いずれも元イギリス製商船に砲を搭載)を配備して海峡封鎖の態勢を取り、列強艦隊が海峡を通過すると砲撃を加えました。

これに対して、列強艦隊は17隻で艦隊を形成して応戦し、その内訳はイギリス軍艦9隻、フランス軍艦3隻、オランダ軍艦4隻、アメリカ仮装軍艦1隻からなり、総員は約5,000の兵力でした。

列強艦隊側は、緒戦でオランダ東洋艦隊所属のメデューサ号が大破するなどの被害を出しましたが、結果としてほとんどが無傷で、一方の長州側は帆船・庚申丸、蒸気艦壬戌丸が沈没、蒸気艦・癸亥丸が大破して壊滅し、アメリカ・フランス艦隊による砲撃によって、下関砲台のほとんどが破壊されました。

この長州藩の暴走に驚いた幕府は、7月8日、外国船への砲撃は慎むよう通告し、16日には詰問使を軍艦「朝陽丸」で派遣し、無断での外国船砲撃について長州藩を詰問しました。ところが長州は悪びれるどころか、アメリカ軍との交戦で失った長州艦の代用として朝陽丸の提供を要求し、拒まれるとこれを強制的に拿捕。さらに詰問士らを殺害しました。

他方、戦闘で惨敗を喫した長州藩は、独自に講和使節を列強艦隊に送り、その使者に高杉晋作を任じます。この時、高杉は脱藩の罪で監禁されていましたが、火急のときということで許され、家老宍戸備前の養子「宍戸刑部」と偽って、列強艦隊旗艦のユーライアラス号に乗り込んで談判に臨みました。

このとき、高杉と同行していたのが、ほかならぬ村田蔵六であり、これを機会に彼の名が頻繁に歴史書に出てくることになります。前項で書きましたが、蔵六は、4年前の1860年(万延元年)、長州藩士に取りたてられ、馬廻士に准ずる待遇を受けていました。また下関戦争当時は、手当防禦事務用掛という軍事面での事務掛の仕事をしていました。

8月14日には、その語学力を買われ、四国艦隊下関砲撃事件の後始末のため外人応接掛に任命され、列強との交渉のために下関に出張しており、18日には講和が成立しました。

結果として、長州藩は、下関海峡の外国船の通航の自由、石炭・食物・水など外国船の必要品の売り渡し、悪天候時の船員の下関上陸の許可、下関砲台の撤去、賠償金300万ドルの支払い、などの5条件を受け入れましたが、ただし、賠償金については長州藩ではなく幕府に請求することになりました。

これは、巨額すぎて長州藩では支払い不能だ、と高杉らが主張したこともありますが、そもそも将軍家茂が先に朝廷に攘夷を約束した、ということもあり、長州藩にしてみれば今回の外国船への攻撃は幕府が諸藩に通達した命令に従ったまでのこと、と押し通しました。

この調停の際にどのように蔵六が活躍したのかはよくわかりませんが、おらくは軍事通として、砲台の処理手続きや諸外国が必要とする軍艦運用のための必需品目のリストアップ、あるいは賠償金の国際レートの計算といった実務をこなしていたのではないでしょうか。

その功績が認められ、26日の外国艦隊退去後すぐの29日には、政務座役事務掛に任命されており、続いて12月9日には、藩校、明倫館から分離され、洋学校として設立された「博習堂」の教授に任命されています。

博習堂は事実上、兵学校であり、蔵六はその後、表だってはここの教授役をしながら、軍備関係の充実に取り組むようになります。しかし、うなぎのぼりに増えていく軍費を調達するのは容易ではなく、そこで彼が取り組んだのは「密貿易」でした。

このころはまだ幕府が治世をしていた時代であり、鎖国の中、諸外国と貿易をするのは当然、重罪です。が、蔵六は幕府には隠密に事を進め、とくにアメリカやフランスと接触して、大量の武器を輸入していたようです。輸入した武器は自藩で使うのは無論のこと、他藩へ流用してその利鞘を稼いでいた形跡も残っています。

先の下関戦争で唯一生き残ったのは、旧式の蒸気軍艦・壬戌(じんじゅつ)丸のみですが、この船のボイラーを打ち抜いて沈める、といった乱暴なこともやっています。幕府にはスクラップになったと報告して、フランス商人に引き取らせ、売金にさらに16万両上積みをして36丁もの大砲を装備した新型軍艦を購入したことなどが最近の研究でわかっています。

この壬戌丸はその後、航行可能にして上海に曳航されています。これら一連の裏工作を行ったのがアメリカだったといわれ、その後も、モニター号(Monitor)などの戦艦を何度も下関に派遣して長州に武器弾薬を供給しており、この事実は横浜に居る外国人の間で良く知られたことだったといわれています。

この壬戌丸売買の際には、蔵六自身が密かに上海に渡航していたとされる証拠も見つかっており、たとえばその売買記録の中に彼の記名と押印が残されているといいます。




とまれ、こうした列強艦隊の攻撃によって長州藩は手痛い敗北を蒙り、欧米の軍事力の手強さを思い知らされるとともに、逆に彼らの手を借りなければ討幕果たせない、いや、むしろうまく利用しよう、と考えるようになっていきます。

下関戦争は軍備の充実の重要さを藩士たちに思い知らせ、その装備に大転換をもたらす大きなきっかけにもなりましたが、戦闘任務達成のために部隊・物資を効果的に配置・移動して戦闘力を運用する、といった戦術の重要性をも知らしめました。

例えば、下関海峡は両側とも険しい山になっていますが、この戦争では、その地の利を活かすことなく、長州は破れました。

15箇所あった長州藩の砲台は何れも海岸に近い低地に構築され、正面の敵にのみ対応するようになっており、このため複数の砲台が連携しての「十字射撃」はできず、加えて列強の砲弾がその上の崖に命中すると岩の破片が砲台に降り注ぎ、慌てふためく、といったこともありました。

また、この戦争で列強艦隊が用いた大砲は砲身内に螺旋を施した、いわゆるライフル砲であり、極めて高い命中精度があったのに対し、長州藩の大砲は砲腔も同時に鋳造する旧式のものであり、射程も威力も大きな差がありました。

そして、そもそもが力で圧倒的な差異のある列強と戦争を行うための国際的な根回しや、戦後の処理といったことも含めた戦略についても、その未熟さが露呈しました。戦術面でも戦略面でも長州軍のそれは古いばかりではなく、行き当たりばったりのものであることがわかり、幕府と戦うためには、これを近代化する必要性を痛感させられました。

さらには、上陸した諸外国の陸戦隊に長州藩兵が切り込みをかけるようなケースも殆ど無く、戦後長州藩では「侍は案外役に立たない」との認識が生まれます。

戦前、長州藩領内では頻繁に一揆が発生するような状況にあり、下関戦争が勃発したとき、一部の百姓たちは自発的に外国軍隊に協力し、活躍したといわれます。そして、これを見ていた高杉晋作は、彼らは案外と戦争に使える、と考えるようになります。

そして、士分以外の農民、町人から広く募兵することを藩に上申するとともに、下級武士と農民、町人からなる部隊を結成することを思いつき、これを「奇兵隊」と称しました。また、膺懲隊、八幡隊、遊撃隊などの同様に身分が低いものから形成される諸隊も結成されました。

この身分を超えた戦闘部隊の結成を高杉に進言したのが蔵六である、という証拠は何もありません。が、もともとは士分になく、百姓に近い身分で医業を営んでいた蔵六のアイデアを高杉が採用したと考えたとしてもおかしくはありません。

その証拠に、村田蔵六はこの奇兵隊を中心とした混成部隊を軸に、長州藩軍の体制を整えていきます。それはまた、維新後の日本陸軍や海軍へと受け継がれていきました。

こうして、下関戦争を契機に、村田蔵六を軍事顧問に据え、軍備増強を進めていった長州藩ですが、蔵六が列強との交渉のために下関に出張し、列強との講和が成立した8月18日には、会津藩と薩摩藩が結託して長州藩を京都から追い出す、という、いわゆる「八月十八日の政変」が勃発します。

時の天皇、孝明天皇は、熱心な攘夷主義者ではあったものの、下関戦争を引き起こした長州のような急進派の横暴を快く思っておらず、攘夷の実施についても幕府や幕府の息のかかかった諸藩が行うべきものと考えていました。

ところが、宮中では、三条実美らの急進派が権力を握っており、「公武合体派」でもあった孝明天皇は、彼らを排除する勢力として島津藩に期待していました。公武合体とは、朝廷(公)の伝統的権威と、幕府及び諸藩(武)を結びつけて幕藩体制の再編強化をはかろうとする政策ですが、その幕府側の中心は会津藩でした。

会津藩と薩摩藩を中心とした公武合体派はかねてより中川宮朝彦親王を領袖とし、彼の下に朝廷における尊攘派を一掃する計画を画策しており、8月15日に中川宮が参内して天皇を説得、17日に天皇から密命が下ります。

この令により、京都守護職、松平容保(会津藩主)は自藩の兵1500名を動員し、これに薩摩藩兵150名を加えた部隊は、18日未明に、御所九門の前に分散して警備に立ちました。勅令の主旨は尊攘派公家や長州藩主毛利敬親・定広父子の処罰等であり、これにより、長州藩はそれまでの担当だった堺町御門の警備を免ぜられ、京都を追われることとなります。

こうして翌19日、長州藩兵千余人は失脚した三条実美・三条西季知・四条隆謌・東久世通禧・壬生基・錦小路頼徳・澤宣嘉の公家7人とともに、京から長州へと下りました。世に言う「七卿落ち」です。

この政変によって、長州藩は朝廷における政治的な主導権を失い、御所内での急進的な攘夷路線は後退しました。しかし、朝廷はなおも攘夷を主張し続け、翌年の1864年(元治元年)には、時代に逆行する横浜港の鎖港の方針を幕府の合意のもと決定しました。

しかし幕府内の対立もあって港の封鎖は実行されず、3月にはその履行を求めて水戸藩尊攘派が蜂起する(天狗党の乱)などの騒動が頻発します。こうした情勢のなか、各地の尊攘派の間では、長州藩の京都政局復帰を望む声が高まることとなりました。

長州藩内においても、事態打開のため京都に乗り込み、武力を背景に長州の無実を訴ようとする進発論が論じられましたが、桂小五郎(木戸孝允)、高杉晋作、久坂玄瑞らは慎重な姿勢を取るべきと主張しました。

ところが、この年の6月5日、池田屋事件で新選組に藩士を殺された変報が長州にもたらされると、藩論は一気に進発論に傾いていきました。慎重派の周布政之助、高杉晋作らは藩論の沈静化に努めますが、福原元僴や益田親施、国司親相の三家老等の積極派は、「藩主の冤罪を帝に訴える」ことを名目に挙兵を決意。

この進発論を支持し、実践部隊を動かしたのが来島又兵衛、真木保臣(和泉)らの重臣であり、これに長州藩に賛同する諸藩の浪士を含めた約1400名の長州藩兵が、19日、御所の西辺である蛤御門(京都市上京区)付近で蜂起します。そして会津・桑名藩兵と衝突、ここに、いわゆる「蛤御門の変」の戦闘が勃発しました。

一時、長州藩兵は、京都御所内に侵入しますが、薩摩藩兵が援軍に駆けつけると形勢が逆転して敗退し、狙撃を受けた来島又兵衛は自決。このとき、松下村塾で高杉晋作とともに松陰に将来を嘱望されていた、久坂玄瑞も朝廷への嘆願を要請するためこの戦闘に参加していましたが、侵入した関白・鷹司輔煕(たかつかさすけひろ)の邸宅で自害しました。

帰趨が決した後、落ち延びる長州勢は長州藩屋敷に火を放ち逃走。一方の会津勢も長州藩士の隠れ家一帯を攻撃。戦闘そのものは一日で終わったものの、この二箇所から上がった火を火元とする大火「どんどん焼け」により京都市街は21日朝にかけて延焼し、北は一条通から南は七条の東本願寺に至る広い範囲の街区や社寺が焼失しました。

生き残った兵らはめいめいに落ち延び、負傷者を籠で送るなどしながら、大阪や播磨方面に撤退。主戦派であった真木和泉も敗残兵と共に天王山に辿り着き、ここに立て籠もりますが、21日に会津藩と新撰組に攻め立てられると、皆で小屋に立て籠もり火薬に火を放って爆死しました。

こうして、長州藩はおよそ自爆ともいえる行為によって、より中央から遠ざかっていきましたが、これだけでは終わらず、やがては幕府軍による「長州征伐」によって、藩存続の最大の危機に陥ることになります。



この時期、既に長州藩の軍備の責任者になっていた蔵六がこうした攘夷について、どう考えていたのか、についてはほとんど資料がありません。が、親交のあった福沢諭吉が自伝の中で、師である緒方洪庵について書いているものの中にヒントがあるようです。

洪庵は、文久2年(1862年)、幕府の度重なる要請により、奥医師兼西洋医学所頭取として大阪を出て、江戸に出仕していますが、その翌年の1863年に享年54で死去しています。福沢は、洪庵が運営していた大阪の適塾に入門しており、先輩塾生だった蔵六とは面識がありました(蔵六より11歳年少で、入門も蔵六より9年あと)。

福沢の自伝によれば、その洪庵の通夜が東京であったとき蔵六と再会し、このとき彼が先の下関戦争について触れ、「あんな奴原にわがままをされてたまるものか。これを打ち払うのが当然だ。どこまでもやるのだ。」云々の発言をしたと書いており、蔵六がこれほどの過激な攘夷論を吐いたことに驚いています。

これについて福沢は、「自身防御のために攘夷の仮面をかぶっていたのか、本当に攘夷主義になったのか分かりませぬが……」とも記しています。蔵六自身も後年、この当時は攘夷論者であったことを知人にほのめかしています。

鋳銭司村の藪医者から、藩の軍事顧問的な存在に成りあがったばかりのこの頃の蔵六もまた、沸騰する藩内の攘夷論に飲み込まれ、あるいは酔ったような状態になっていたのかもしれません。

とまれ、この時期の蔵六はまだ時代の表にはほとんど出ず、藩初の洋学校である、博習堂で若い藩士へ黙々と軍学を教授していました。このころの蔵六は40歳前後。東京で暗殺されるのは、このときからあとわずか5年余りのことです(…続く)。

蔵六


あけましておめでとうございます。

伊豆では、大晦日の夜から少し雨が降りましたが、元旦には上がり、ここ数日は素晴らしい富士の姿を見ることができます。

そうした新春の爽快な空気の中、今年も気負うことなくボチボチとこのブログを書いて行こうと思います。お気が向いたら、ご笑覧ください。




さて、今年は明治維新150周年ということで、先日帰省した山口では、あちこちの街灯などにこれを祝うペナントがぶら下げてありました。

あらためて、この「維新」の意味を調べてみたところ、江戸幕府に対する倒幕運動から、明治政府による天皇親政体制の転換へと、それに伴う一連の改革全体を指すようです。

その範囲は、法制から、身分制、金融、産業、経済、文化、教育、宗教などなどの広範囲に及ぶため、いったいいつ維新が始まり、どこで終わったかについては必ずしも明確にはできないようです。

西南戦争の終結(明治10年、1877年)までという説や、内閣制度の発足(明治18年、1885年)、立憲体制の確立(明治22年、1889年)までとするなど諸説あるようですが、やはり区切りとしては、年号改元に当たる明治元年旧9月8日(1868年10月23日)をもって、維新となすことが多いようです。

山口の維新150年もこれに基づいており、維新の原動となった人物を数多く輩出した萩市では、今年の10月に向けて各種の記念シンポジウムや講演会、パレードなどが行われるようです。

私も長州人の血を引く一人として何か記念すべきことしたいな、と思うのですが、なにぶん貧乏暮らしゆえに寄付は無理としても、やはりすべきは、このブログで維新の立役者となった長州人について書き残しておくことかな、などと思っていたりしています。

が、膨大な人材を輩出した国のこと、いったい誰のことを書いていくかな、と考えたときになすべきことは、やはり好きな人物、興味のある人のことを取り上げることでしょう。

カッコよさという点においては、若き血を散らした高杉晋作や久坂玄瑞といった松下村塾の面々が思い浮かぶのですが、こういった松陰門下の面々とは距離を置き、独自のビジョンを持って時代を突き進んだ人物として興味をそそられるのが、村田蔵六こと大村益次郎です。

実は私の祖父が婿入りする前の本名が村田といい、名前も七蔵ということもあり、昔から親近感を持っていた人物です。山口にはこの村田姓はわりと多いようで、とくに現在の山口市を中心とした、「周防(すおう)」と呼ばれた地域にこの姓の家が多いようです。

一方、長州藩にはもうひとつ、その西と北側に広がる「長門」というエリアがあり、この中の「萩」がかつての長州全体の首府で、藩庁もここに置かれていました。

多くの志士たちもこの萩の町から排出されていますが、その原動力となったのが、当時の幕府にとっては危険思想の持ち主とされていた吉田松陰の私塾、松下村塾です。ここで学んだ多くの藩士がさまざまな分野で活躍、これが倒幕運動につながっていきます。

その活動がだんだんと過激になるにつれて、もともと討幕には消極的であった藩侯以下の指導者たちもこれに巻き込まれるようになり、激動する情勢に備えて、ついには藩の中心をより山陽筋に近い場所に移すことを決めます。

こうして1863年(文久3年)4月に、長州藩は山口に新たな藩庁を築き、ここを「山口政事堂」と称するようになりました。

藩主毛利敬親候は、歴代の藩主が暮らした萩城からこの山口に入りますが、このときまだ表だって幕府に楯突こうとは考えておらず、山口移住と新館の造営の申請書を恐るおそる江戸に提出して「山口藩」と改名する旨了承を得ています。

しかし拠点をより軍隊を動かしやすい山陽側に移したということは、無論討幕の伏線であり、このころから政治だけでなく軍事のそれを萩から山口へ動かすようになっていきます。



村田蔵六が生まれた、周防国吉敷郡鋳銭司というのは、この山口から山を一つ越えた南側にあり、瀬戸内の海にほど近い場所にあります。

現在は国道2号が地域を貫き、山陽自動車道山口南インターチェンジが設けられたことから、交通の要衝の一つとなり、物流拠点として複数の運送会社等の営業拠点が置かれているような場所ですが、おそらく江戸時代には大きな特徴のない寒村だったかと思われます。

ただ、平安時代には貨幣を造る役所が置かれており、「鋳銭司」の地名はここから来ています。また、長沢池という比較的大きな灌漑用水池があり、これは、慶安4年(1651年)頃築かれたとされ、鋳銭司村をはじめ、名田島村、台道村といった周囲の田畑に堤水を供給していました。

たとえ他村が干ばつにみまわれても、長沢堤を利用する村々は干ばつを免れたといいます。また海が近いことから、このあたりの農家では塩田を持っているところが多く、このことから寒村とはいえ、村人の暮らしぶりは比較的豊かだったと推定されます。

父は村田孝益いう村医者で、妻うめの長男として生まれ、蔵六は幼いころから青年期までを「宗太郎(惣太郎とも)」という名で育てられました。

物心つくまでには、父の跡を継いで村医になるつもりだったようですが、はるか北にある萩で討幕を叫んでいた連中が、萩から山口への藩庁の移転とともに大挙して山口に移り住むようになり、鋳銭司を含む山陽側はがぜん騒がしくなってきました。

鋳銭司村の東には、三田尻港(現在の防府市・三田尻中関港)があり、江戸時代初期にここは、海路で参勤交代へ向かう出発地となりました。1654年(承応3年)に毛利綱広が萩往還を造った際に、公邸である三田尻御茶屋を築造すると、以後大いに栄えましたが、後に参勤交代が海路から陸路に変更されるに及び、その役割は限定的なものとなりました。

それでも、7代藩主毛利重就は、隠居後にこの三田尻御茶屋に住むなど、三田尻は要衝として重視され、幕末に至るまでもその重要性は変わらず、坂本龍馬が土佐藩を脱藩して、下関に向かう際にはここに立ち寄っています。また、綱広が建造した御船倉も海軍局と名前を変え、欧米より伝わった近代航海術の教練や造船技術の教育も行われていました。

北には藩庁のある山口、東にはこの軍事的要衝である三田尻港を控えるという立地の鋳銭司村は何かと国内政治や江戸向きの話は入って来やすい土地柄であり、それまでは政治とは無関係な辺地であったこの村にも、時代の変化は次第に大きなものとして押し寄せてくるようになります。

単に村医を目指していた村田蔵六もまた、頻繁に江戸や京、そして山口藩庁のきな臭い噂を耳にするようになり、やがてはこのままこの僻地に埋もれていてはならぬ、と思うようになったのでしょう。このころまだ20そこそこだった彼もまた、世に出ることを考えるようになります。

ちょうどこのころ三田尻で、シーボルトの弟子のひとり、梅田幽斎という人物が塾を開き始めたと聞き、ここに頼み込んで医学や蘭学を学ぶようになりました。ちなみに、三田尻から鋳銭司までは直線で10kmほどですから、歩いて通うことも可能だったでしょう。

もとも秀逸な頭脳を持っていた彼はすぐに梅田の知識レベルを凌駕するほどになったようですが、蘭学以外の学問にも親しむべきだという梅田の意見を入れ、翌年には豊後国日田に向かい、国学者の広瀬淡窓の私塾咸宜園に入り、漢籍、算術、習字など学びました。

その後帰郷していったんは梅田門下に復帰しますが、このときもう既に山口では学ぶことはないと感じたのでしょう、弘化3年(1846年)、22歳のときに大坂に出て緒方洪庵の適塾で学ぶようになります。

洪庵は牛痘種痘を日本に初めて導入したことで知られる蘭学者で、おそらくはこの時代、国内においては最先端の医療技術を持ち、蘭学においても最高知識をもっていた人物だったかと思われます。彼が運営する「適塾」には全国から秀才が集まっていましたが、宗太郎と呼ばれていた蔵六はその後わずか2年ほどでこの学舎の塾頭まで進んでいます。

適塾時代の彼を知る者の伝えるところによれば、「精根を尽くして学び、孜々(シシ)として時に夜を徹して書を読むことを怠らず」とあるほど猛勉強をし、暇さえあれば解剖の本を読み、動物をとらえれば解剖を行うなど研究熱心であったといいます。

また、塾頭になってからは、綿密に考えて講義をすることで定評があり、熟生には評判もよく、学外では遊びをしない品行方正な人格であったとされます。

とくに秀でていたのは語学力だったといわれ、このほかにも医学、化学に関しても豊富な知識を得ていた彼を凌駕するほどの人間は、この時すでに関西にはいなかったと思われます。が、この人が面白いのは、それほど秀でた才能を持ちながらそれを生かそうとせず、その後適塾を辞して、片田舎の鋳銭司へ帰ってしまっていることです。

父親に帰国して医業を継ぐようにと請われたためであり、この要請に素直に納得して27歳で帰郷し、四辻という街道筋で開業しました。そして父の跡を継ぎ、村医となって村田良庵と名乗るようになり、隣村の農家・高樹半兵衛の娘・琴子と結婚しました。




ちなみにこの四辻というところは現在でも民家が散在するような田園地帯で、現在でもこんなところで商売が成立するんかい、といった場所です。無論、藩庁にいる長州藩の上層部の人間も、こんな僻地にしかもそれほどすごい人物がいるということを誰もが気付くこともなく、話題にもあがりませんでした。

江戸時代の町医というのは、供を連れて歩く徒歩医者と、奉行から許可を得て駕篭を使用する駕篭医者がありましたが、地方の村医者の場合はどちらでもないことがほとんどで、蔵六も一人歩いて診療に行っていたことでしょう。しかし、この時代、医者になりたければ誰でも開業できたこともあり、医療はそれほど信頼されていませんでした。

誰でも医者になれるとしても、腕のいい医者に患者が集まり、腕の悪い医者には患者が集まりません。医術の心得がない医者には患者が集まりませんが、宗太郎(蔵六)の場合、医術の心得があるにも関わらず、その偏屈な性格のために誰も診療に訪れませんでした。

無論、近くの三田尻からも患者が来るわけもありません。ましてや藩庁のある山口では誰一人その存在を知らなかったでしょう。ところが、江戸の適塾で塾頭まで勤めていたこの人物のことは他藩の秀才たちは皆知っていました。四辻で村医者を開業して2年ほど経ったころ、突然、伊予宇和藩島からおよびがかかります。

宇和島藩は、初代仙台藩主伊達政宗の長男である、伊達秀宗が徳川秀忠より伊予宇和島藩10万石を与えられ、慶長20年(1615年)に宇和島城に入城したことから成立した藩です。歴代の藩主には有能な人物が多く、第7代藩主、宗紀の代には、奢侈の禁止や文学の奨励、産業の振興と統制、人材の育成などを中心とした大胆な藩政改革が行われました。

ただ、宗紀は長男と次男を早くに失い継嗣がなかったため、江戸の伊達家の親類筋にあたる旗本山口家から養子を迎え入れ、第八代藩主になったのが宗城です。宗城は前藩主からの殖産興業を引き継ぎ、さらに西欧化を推し進めて富国強兵政策をとり、シーボルトの鳴滝塾で医学・蘭学を学び、その抜きん出た学力から塾頭となった高野長英を登用しました。

蔵六の採用を宗紀に上申したのは、同じくシーボルトの門人の二宮敬作です。二宮は日本初の女医(産科医)となったシーボルトの娘・楠本イネを養育したことでも知られる人物です。この年(嘉永6年(1853年))は、アメリカ合衆国のペリー提督率いる黒船が来航した年であり、時代は風雲急を告げ、洋学者の知識が求められる時代となっていました。

おそらくは二宮はシーボルト門下の他の蘭学者から、大阪の適塾にすごいヤツがいる、と宗太郎の才能を聞き知っていたのでしょう。藩侯からの了承を得ると、宇和島に招き入れ、一級の蘭学者として扱うようになります。

しかし当初、宇和島藩の役人たちは、村田の待遇を2人扶持・年給10両という低い禄高に決めたといいます。役人たちにしてみれば、汚い身なりで現れた宗太郎に対して、むしろ親切心をもってこの禄を決めたようですが、このことを江戸出張から帰ってきた藩侯に二宮が注進すると、宗城は怒り、役人たちを叱責したといいます。

すぐに給料は上士格並みの100石取に改められたといい、その後、宗太郎の才能はこの宇和島藩でいかんなく発揮されていきます。

西洋兵学・蘭学の講義と翻訳を手がけ、宇和島城北部に樺崎砲台を築いたほか、長崎へ赴いて軍艦製造の研究を行い、その結果として洋式軍艦の雛形の製造にも成功します。そうした成果も認められたこともあり、この頃、村田蔵六と改名します。

「蔵六」とは、頭としっぽ、そして四肢を甲羅の中に仕舞いこんでいる「亀」の意で、亀は酒を好む、といわれることにちなみ、大酒家の自身をなぞらえたのだといいます。ずいぶんと泥臭いネーミングであり、このあたりに、自分を大きく見せようとしない謙虚な、というよりも自嘲気味の彼の性格が見て取れます。

その後、宇和島での忙しい生活は3年ほども続き、安政3年(1856年)の初夏ごろ、蔵六と名を改めた宗太郎は、藩主伊達宗城の参勤に従って、再び江戸に出ます。

この二度目の江戸滞在における彼の仕事は、宇和島藩時代に比べれば割と暇だったようで、このため私塾「鳩居堂」を麹町に開塾して蘭学・兵学・医学を教えはじめました。

また、宇和島藩御雇の身分のまま、幕府の蕃書調所教授方手伝となり、外交文書、洋書翻訳のほか兵学講義、オランダ語講義などを行い、月米20人扶持・年給20両を支給されるようになりました。20両は現在の価値にして400万円ほどで、20人扶持は35両に相当しますから、総額では1000万円を超える収入のある高給取りだったといえます。

その後35歳になるまでにはその名声はさらに高まり、やがては築地の幕府の講武所教授となり、最新の兵学書の翻訳と講義を行うようになります。その後討幕に動くこの人物がこの時代、幕府の御用で潤っていたというのは不思議なかんじがします。

この翻訳は幕府からも高く評価され、安政5年(1858年)には、銀15枚の褒章を受けています。ちょうどこのころ、長州藩上屋敷において開催された蘭書会読会に参加し、兵学書の講義を行いますが、ここから蔵六の運命が一変していきます。

この会読会に参加してひとりに、桂小五郎(のちの木戸孝允)がおり、桂は、村田が同じ長州人だと知って驚きます。同郷にこれほどの才能を持った人物がいるとはつゆとも知らず、しかもその人物が幕府からも重用されているのを知った桂は、この才能を藩のためにぜがひでも持ち帰らねばと考えました。

ここもまた村田の面白いところであり、桂から長州のために働いて欲しいと乞われると、二つ返事でこれを了承し、高額で雇われていた幕府からはさっさと暇をもらって、宇和島藩の御用も辞退しているところです。

生きているころの村田蔵六という人と知り合った人々の話などから、この時なぜ彼が長州帰りを了承したかが推論できます。

村田蔵六という人は、細かいことによく気が付く学究肌である一方で、挨拶もろくにしない、偏屈な人間といわれていました。しかし、根は非常に真っ直ぐで、自分が信頼するに足ると感じた人間にはすべてを委ねてまかせてしまう、というところがあったようです。

また自分の才能を開花させるためにはどんな努力も惜しまないタイプの努力家でもあり、その才能を認めてくれる人間にはとことんついていく、といった気風があったように思われます。

師である緒方洪庵も高い人格を持った人物であったと伝えられており、温厚でおよそ人を怒ったことがない反面、学習態度には厳格な姿勢で臨み、しばしば塾生を叱責しました。ただ決して声を荒らげるのでなく笑顔で教え諭すやり方で、これはかえって塾生を緊張させ「先生の微笑んだ時のほうが怖い」と塾生に言わしめるほど効き目があったといいます。

そうした洪庵を尊敬し、師と仰いで努力し続けただ蔵六に対し、また洪庵も塾頭という立場を与えて報いました。



一方、桂小五郎という人も周囲の人間に慕われていました。立場に拘らずに周囲への気配りを忘れない人だったといい、偉くなっても格式張らずに目下の人を遇することでよく知られていました。

のちに山形有朋の側近として活躍し内務大臣なども務めた、元米沢藩士の平田東助がまだ20代の一書生にすぎなかった若い頃、ある朝に木戸が訪ねて来ました。このころの木戸は既に討幕藩である長州藩のリーダーと目される重要人物でした。

そのとき取り次いだ下足を信じることが出来ず、「そんな訳があるか。お使いだろう」と言ったところ、その者が「いや木戸公ご本人です」と言い張るので、半信半疑で覗いてみたら本当に木戸本人でした。慌てた平田ですが、家が狭くて応接間がなかったため、とっさに寝ていた布団を庭に放り捨てて、寝間に木戸を迎え入れたという逸話が残っています。

こういうふうに後輩や若い書生を訪問する木戸に、逆に後輩たちが困惑させられた、という話も数多く残っており、村田もまたそんな実直な木戸の魅力によって落とされたのでしょう。

とはいえ高禄を捨ててまで長州に戻ったというのは、それなりに郷里に愛着を持っていたのかもしれず、あるいは、自分が長州藩の最前線に立って導き、この国をなんとかせねば、といった大志をもっていたのかもしれません。

しかしそういう情熱を秘めた熱い人間であることを思わせないほどに、あまり多くを語らない人物であったようで、また生活は質素であったといい、芸者遊びや料亭も行かず、酒を好む以外は楽しみはなかったといいます。

若いころに幕府の蕃書調所時代の大村は贅沢をしていた時期もあったようですが、長州に帰って以降は極めて質素で、維新後に兵部大輔の高位になった後も、側近だった曾我祐準(後陸軍中将)に「強記博聞、おのれを持することが極て質素でありました」と言わしめました(注:「強記博聞」は、広く物事を聞き知り、それらをよく記憶していること、の意)。

学究肌で趣味らしい趣味もありませんでしたが、豆腐を食べながら酒を飲むのが大好きだったそうです。また骨董品を買うことを楽しみにしており、掛け軸が好きでしたが、1両以上のものは決して買うことがなかったといいます。

つまりは人並み以上の「欲」というものがほとんどない人だったようで、金というものも必要分だけあれば生きていける、といったふうに考えていたのではないでしょうか。

類い稀な語学力と、医学、化学などの知識があればもっと立身できたでしょうが、自分からは望まず、与えられた立場に文句も言わない蔵六が、瞬く間に昇進するのをみても周囲の反発は少なかったようです。しかし、医師としての素質はまったくといっていいほどありませんでした。

上でも書きましたが、蔵六がまだ村医をやっているころの評判は散々でした。この時代の村医者というのは、愛想で食っていくような人気商売で、多少薬草の知識があれば医者を名乗れる時代であり、気に入らなければそっぽを向かれ、別の医者に向かわれました。

それにしても鋳銭司村は僻地であり、三田尻や山口といった町に出れば医者には事欠かかないということもあり、またこの時代、西洋医学を学んだからといって、あんな毛唐の術なんか使えるもんか、和医者のほうがいいに決まっている、といった風潮がありました。

さらに蔵六は礼儀作法などというものほど無用なものはない、と考えていたようなきらいがあります。時候のあいさつをされても「夏は暑いのが当たり前です」「寒中とはこういうものです」と答えるような無愛想さで、治療も上手でなく評判は極めて悪く、訪れる患者はめったにいなかったといいます。

江戸の「鳩居堂」時代の塾生も、学識は尊敬するが「先生は藪」と陰口を叩いていたといいます。あるとき、塾生の一人が目を患った時も「決して薬をつけてはならぬ、薬はつけるものではない。ただれたら水で洗い夜中に書見することはならぬ」と診断し、塾生たちに「先生は医者のくせに医術というものを知らない」と笑われたといいます。

そんな蔵六でしたが、桂に勧誘されたのを機に万延元年(1860年)、正式に長州藩からの要請を受け、江戸在住のまま同藩士となりました。この時代、医者は士分ではありませんでしたから、正式に苗字帯刀を許されたことになります。扶持は年米25俵を支給されたといいますから、長州藩もそれなりに彼の価値を認めたということでしょう。

塾の場所も麻布の長州藩中屋敷に移り、以後、藩のために一心に働くようになりますが、江戸に滞在していたこの時期はまだヘボンのもとで英語、数学を学ぶとともに、箕作阮甫、大槻俊斎、桂川甫周、福澤諭吉、大鳥圭介といった蘭学者・洋学者と交わり、彼らとの情報交換を通じて内外の情勢を知ることに勤めました。

その後長州に帰り、萩にあった西洋兵学研究所である博習堂の学習カリキュラムの改訂に従事するとともに、下関周辺の海防調査も行うようにもなります。

手当防御事務用掛(防衛担当)に任命され、30歳で兵学校教授役となり、藩の山口明倫館での西洋兵学の講義を行い、鉄煩御用取調方として製鉄所建設に取りかかるなど、藩内に充満せる攘夷の動きに合わせるかのように軍備関係の仕事に邁進しはじめました。

一方では語学力を買われ、四国艦隊下関砲撃事件の後始末のため外人応接掛に任命されて下関に出張しているほか、外国艦隊退去後、政務座役事務掛として軍事関係に復帰して、長州藩の軍事外交におけるトップとしての道を歩み始めました。

しかしこのころ江戸では、次々と軍備を増強する長州藩の動向に、幕府が神経をとがらせ始めており、やがて訪れる長州征討へ向けての布石が着々と進められていました(この項続く…)。




インフルエンザの候

今年ももうあとわずかです。

先日、広島であった姪の結婚式から舞い戻ったばかりの私は、燃え尽き症候群気味で、もう何もやる気がせず、いつもならとっくに済ませている年賀状書きも年明けに回そうか、などと考えている始末です。

そんなこんなで、昨日もぼんやりとしていたら、夕方になって、同じ挙式に出席していた姉から、インフルエンザにかかったという知らせが入ってきました。なんでも、同じく出席していた親戚の何人かや新郎の職場の人たちも罹患したとのことで、どうやら、くだんの結婚式場での感染が疑われているようです。

そちらは大丈夫?ということなのですが、幸い、私自身はケロッとしており、悪いのはいつものように頭だけです。が、この年末の忙しい時期に姉も含め、かかった人たちはどんな思いをしているだろう、と他人事ながら気遣っている次第です。

このインフルエンザ、いわゆる「急性感染症」と言われるヤツです。

感染症とは、寄生虫、細菌、真菌、ウィルスなどの感染により、人間を含む生物全般の「宿主」に生じる症状です。結果生じるのは、無論、「望まれざる反応」であり、この世に存在する病いのほとんどがこうした病原体によって発症するわけで、つまりは「病気」の総元締めといってもいいでしょう。

この中でも、ウィルスのひとつである「インフルエンザウィルス」によって引き起こされるのが、インフルエンザですが、略してインフルと言ったりもします。

「インフルエンザ」の語源は、16世紀のイタリアにあるそうです。当時は感染症が伝染性の病原体によって起きるという概念が確立しておらず、何らかの原因で汚れた空気によって発生するという考え方が主流だったようです。

冬になると毎年のように流行が発生しますが、春を迎える頃になると終息することから、当時の占星術師らは天体の運行や寒気などの影響によって発生するものと考え、この流行性感冒の病名を、「影響」を意味するイタリア語で“influenza”と名付けました。

これが18世紀にイギリスで流行した際に日常的語彙に持ち込まれ、世界的に使用されるようになりました。ただし、現在日本語となっている「インフルエンザ」はイタリア語での読みと違うようで、イタリア語での正しい読みは「インフルエンツァ」に近い語感のようです。




ウィルスによって引き起こされるので、原因は「細菌」とは違うわけです。細菌とウィルスは、実はまったく異なる生物なのですが、しばしば混同して理解されています。細菌によって引き起こされるものは、コレラ、ペスト、ジフテリア、赤痢、といったものです。

その原因となる細菌はウィルスよりも数10倍〜100倍くらいサイズが大きいのですが、違いはそれだけではなく、細菌は自分の力で増殖することができますが、ウィルスは人や動物の細胞の中に入らなければ増えることができません。例えば、水にぬれたスポンジの中で細菌は増えますが、ウィルスはしばらくすると消えてしまいます。

もうひとつの重要な違いは、ペニシリンなどの抗生物質は細菌を破壊することはできますが、ウィルスには全く効かないという点です。インフルエンザにかかると、よく、タミフルなどの薬を処方されますが、これはいわゆる「抗生物質」ではありません。

抗生物質とは、基本的には細菌を殺す薬であり、細菌ではないウィルスには効き目がありません。「抗ウィルス薬」と「抗生物質」が混同されることもありますが、これは誤りです。

インフルエンザの場合の抗ウィルス薬は完全にはウィルスを死滅させることはできません。ウィルスが人の身体の中で増えるのを抑制するだけで、症状を軽減することはできてもウィルスそのものを退治することはできません。従ってインフルにかかったら、基本的には自分の免疫(めんえき)力によって治すしかありません。

一方では、予防的措置として、インフルエンザワクチンというものがありますが、こちらも事前に摂取したからといって、ウィルスを破壊するものではありません。これも人間が元から持っている「免疫機構」を最大限に利用し、ウィルス自身から取り出した成分を体内に入れることで抗体を作らせ、重症化を防ぐ目的に使用されるものです。

なので、ワクチンを打ってもらっても、インフルにかかる場合はかかります。接種を行っても個人差や流行株とワクチン株との抗原性の違い等により、必ずしも十分な感染抑制効果が得られない場合があり、100%の防御効果はないのが実情です。なによりも摂取される側に十分な免疫があるか否かによってその効果は左右されます。

健康な成人でも、ワクチンにより免疫力を獲得できる割合は70%弱だそうです。ましてや体の弱い人はそれ以下の効果しかありません。なお、同時期に2度接種した場合、健康体であれば90%程度まで上昇するといわれているようです。

一方では、ワクチンの接種によって副作用が出る場合もあるようです。100万接種あたり1件程度は重篤な副作用の危険性があるそうで、とくに免疫が未発達な乳幼児では重い後遺症を残す場合があるといいます。そうしたことを認識した上で接種をうける必要があり、米家族医学会では「2歳以上で健康な小児」への接種を推奨しているといいます。

また、すでにインフルエンザに罹っている人に打ってもほとんど効果はないそうで、しかも明らかな発熱を呈しているような人に摂取するのも危険だといいます。このほか、循環器、肝臓、腎疾患などの基礎疾患を有するものや痙攣を起こしたことのある人、気管支喘息患者、免疫不全患者なども「要注意者」だとされます。

もっとも、かつてはこれらのような患者には予防接種を「してはならない」という考え方でしたが、最近では摂取すると「重症化するリスクが大きい」というふうに変わってきており、予防接種することによるメリットのほうがリスクよりも大きいと考えられているようです。



いかんせん、基礎疾患をもっていようがいなかろうが、ともかくその人の免疫力が落ちていたりする場合にはインフルにかかる可能性は高くなります。不幸にして感染した場合、ウィルスが体内に入ってから、通常の場合は2日〜3日後に発症することが多いようです。

ただし、潜伏期は10日間に及ぶことがあるそうなので、現在なんとも感じていない私も正月頃には発病する可能性がないとはいえません。子供は大人よりずっと感染を起こしやすいそうなので、同じ結婚式に出席していた親戚の子供たちの中には、そろそろ発症している子もいるかも。

感染者が他人へウィルスを伝播させる時期は、本人がウィルスにかかって発熱などの発症があった前日から、症状がおさまってのちのおよそ2日後までだそうです。つまり、インフルが治りきらない間は、誰にでも移す可能性があるということであり、十分にその可能性はあります。

では、インフルに感染後に治るまではどのくらいかというと、個人差もあるようですが、だいたい体の中からウィルスが排出されるのには2週間かかるそうで、プラス、症状が軽快してからも2日ほど経つまでは通勤や通学は控えた方がよいといいます。

ということは、くだんの結婚式に出席した人の場合、仮に今発症すれば、正月休みを終えるまでがだいたい2週間ですから、これにプラス2日間の余裕をみて、始業式・仕事はじめの日あたりをパスすればOKということになります。

既に発症している人はアンラッキーだったかもしれませんが、この年末年始をじっくり休みさえすればこの冬のインフルに対する免疫ができることになり、あとは安泰ということにもなるわけです。

もっとも、インフルエンザには主に3つの型があり、症状はそれぞれ違うそうで、回復までの時間にも差があるようです。3つの種類とは、A型、B型、C型の3種であり、今回の我々のものがどれかはわかりませんがん、日本などの温帯では、全ての年齢層に対して感染し、冬季に毎年のように流行します。

で、一番激しい症状を呈するのがA型といわれています。通常一度インフルエンザにかかると、回復の過程でそのウィルスに対する免疫が体内に作られますが、このA型はウィルスの形をどんどん変えて進化し続けるため、今までに獲得した免疫が機能しにくくなります。

ワクチンの予測も立てにくいインフルエンザウィルスであり、症状としては以下のようなものです。

・38℃を超える高熱
・肺炎などの深刻な呼吸器系の合併症
・食べ物や飲み物を飲み込むのが困難なほどの、のどの痛み
・関節痛、筋肉痛




一方、B型はA型よりも軽く、症状としては、「お腹の風邪」の症状に近く、下痢や腹部の痛みを訴える程度の事が多いようです。ただし、人によってはA型に近い激しいものになることもあるとか。かかってしまえばA型だろうがB型だろうが関係ないと思うかもしれませんが、症状の改善方法を探る上でもお医者さんの判断を得たほうがいいでしょう。

また、以前は数年単位で定期的に流行していたようですが、最近では毎年のように流行しており、注意が必要です。もっともA型のように日本全国で流行を起こすようなことはない、と考えられているようです。

最後のC型インフルエンザは、いったん免疫を獲得すると、終生その免疫が持続すると考えられているタイプです。従って、再びかかったとしてもインフルエンザだとは気づかず、ふつうの風邪と思ってしまうかもしれないといい、ほとんどの大人が免疫を持っているため感染しにくく、かかるのは4歳以下の幼児が多いそうです。

また、仮に感染してもインフルエンザとしてはかなり軽症で済むことが多く、症状は鼻水くらいでほかの症状はあらわれないことが多いといいます。

従って警戒すべきはやはりA型ということになりますが、今年はまだ始まったばかりであり、これから大流行になるかどうかは、なんともいえない、といった状況のようです。

通常、11月下旬から12月上旬頃に最初の発生、12月下旬に小ピークで、学校が冬休みの間は小康状態で、翌年の1-3月頃にその数が増加しピークを迎えて4-5月には流行は収まるパターンです。ただ、今年はニュースでも話題になったように、ワクチンの供与が遅れているようで、その影響が心配されます。

インフルの感染経路ですが、主に次の3つのルートで伝播するといわれています。

1.患者の粘液が、他人の目や鼻や口から直接に入る経路
2.患者の咳、くしゃみ、つば吐き出しなどにより発生した飛沫を吸い込む経路
3.ウィルスが付着した物や、握手のような直接的な接触により、手を通じ口からウィルスが侵入する経路

この中でも、2.の咳やくしゃみなどによる「飛沫感染」が一番多いといわれているようです。空気感染において、人が吸い込む飛沫の直径は0.5から5マイクロメートルです。1マイクロメートルは0.001 ミリメートルですから、その小ささがわかりますが、このたった1個の飛沫でも感染を引き起こし得るといいます。

1回のくしゃみにより、だいたい40,000個の飛沫が発生するそうですが、ただ、多くの飛沫は大きいので、空気中から速やかに取り除かれるそうです。とはいえ、その一個を運悪く吸い込むと発症する可能性が限りなく高くなるため、できるだけ人ごみで深呼吸をするのはやめたほうがよさそうです。

誰かが咳やくしゃみをすると、離れたところにいた別の人がこれを口や鼻などの呼吸器で吸い込み、感染するというケースが一番多いわけですが、先日テレビでやっていた実験をみると、だいたいくしゃみの場合の最大「飛翔距離」は3mくらいが限界のようです。

従って、できるだけ他人から3mほどは距離をとって生活する、というのが理想でしょうが、狭い日本においてそんなことができるわけはありません。第一、電車やバスなどの公共交通機関を使う上においてこの距離をとるというのは難しそうです。ただ、できるだけそうした混雑を避ける、という対処法はおおいにありです。

なお、飛沫中のウィルスが感染力を保つ期間は、湿度と紫外線強度により変化します。ウィルスは湿度が低く日光が弱いところが好きなので、こうした環境にあるところでは長く生き残ります。なので、できるだけ日の光を浴びて明るく、かつ湿度が多いところにいれば、飛沫によるウィルス感染を防げる可能性は高くなる、ということになります。

とくに室内においては、換気をこまめに行い、空気清浄機を動かすこともインフルエンザ対策として効果があるようです。インフルエンザウィルスは湿度50%以上に加湿された環境では急速に死滅するといい、このため部屋の湿度(50-60%)を保つことにより、ウィルスを追い出し飛沫感染の確率を大幅に減らすことが可能になります。




一方、3.の「接触感染」ですが、インフルエンザウィルスは、紙幣、ドアの取っ手、電灯のスイッチなどのほか、家庭にあるその他の物品上、何にでも存在できるため、こうしたものを触ることによって感染がおこります。

ただ、インフルエンザウィルスは、いわゆる「細胞内寄生体」なので「細胞外」では「短時間」しか存在できません。細胞から栄養を取って増殖する生物なので、栄養がない場所では生きられないのです。

物の表面においてウィルスが生存可能な期間は、条件によってかなり異なります。

プラスチックや金属のように、多孔質でない硬い物の表面でかつ、人が絶対に触らない無菌室内にある多孔質でない硬い物の表面で行った実験では、だいたいウィルスは1〜2日間しか生存できなかったそうです。また、こうした無菌室ではなく、我々が生活するような通常の環境において、人が絶対に触らない乾燥した紙では、約15分間だったそうです。

これはつまり、通常の環境では、インフルエンザウィルスといえども、他の細菌や微生物に「食われる」のかどうかわかりませんが、競合して負けてしまうからでしょう。

さらに、手などの皮膚の表面では、ウィルスは速やかに「断片化される」のだそうで、皮膚での生存時間はわずか5分間未満だといいます。ヒトの体の表面にはリボヌクレアーゼ(RNase)と呼ばれる酵素が存在しており、これがウィルスを撃退してくれるようです。

もっとも5分というのは結構長い時間です。ウィルスが付着したトイレのドアの取っ手を握り、そのあと用を足している間に鼻をかんだら、その際にウィルスが鼻の粘膜から進入した、といったケースなどが考えられ、ほかにも「5分以内の悲劇」はいくらでもありそうです。

ただ入ってくるのが口と鼻ということは、その予防においてマスクの着用はかなり有効と考えられます。とくに、飛沫感染防止に特に効果的だとされ、最近多くの医療機関でも防塵性の高い使い捨て型のマスクが利用されています。




ただし、正しい方法で装着し顔にフィットさせなければ有効な防塵性を発揮できないといい、間違ったマスクの使用は感染を拡大させる危険性すらあるといいます。

そのひとつが、使用後のマスクの処分です。予防にマスクを用いた場合は速やかに処分したほうがよく、感染者が使用した鼻紙やマスクは水分を含ませ密封し、廃棄する必要があります。

なお、衣類に唾液・くしゃみなどが付着したものが、直接皮膚に入っていって感染する、といったことは科学的には考えられないそうです。しかし、一応こまめに洗濯した方がよいそうで、同様に、使ったマスクは洗濯をすれば使えるようですが、エチルアルコールや漂白剤などで消毒してから使ったほうが無難です。

もっとも、マスクの着用によってインフルエンザを予防することは、日本で推奨されているほどには欧米では評価されていないのだとか。WHO(世界保健機関)でも推奨されていないそうで、これは十分な予防効果の証拠がまだ確認されていないためだといいます。

マスクは湿気を保つためと、感染者が感染を大きく広げないための手段として考えられている程度だといい、理論的にはウィルスを含む飛沫がマスクの編み目に捉えられると考えられますが、これについても十分な臨床結果を必要とする、と欧米のお医者さんは考えているようです。

また、意外なのですが、インフルエンザの予防効果としての「うがい」もまた、あまり効果がない予防法とされているようです。厚生労働省が作成している予防啓発ポスターには「うがい」の文字がないそうで、また、首相官邸ホームページにも「明確な根拠や科学的に証明されていない」旨が記述されているといいます。

その論拠としては、インフルエンザウィルスは口や喉の粘膜に付着してから細胞内に侵入するまで20分位しかかからないので20分毎にうがいを続けること自体が非現実的であることをあげています。つまり、外出先で感染した場合、20分以上の外出ならもう既に感染しているので、帰ってきてからのうがいは手遅れでナンセンス、ということのようです。

しかし、通常の風邪予防としては効果があるようで、京都大学のお医者さんグループが行った各種実験であり、「うがいをしない群」と「水うがい群」「ヨード液うがい群」に割り付けて実験した結果、「水うがい群」には統計的にみても予防効果が認められたといいます。

通常の風邪とインフルエンザと何が違うんじゃい、ということなのですが、通常の風邪もウィルスの侵入によるものである場合が多いものの、感染までの時間がインフルエンザウィルスよりも長い、ということなのでしょう。

インフルエンザには無効かもしれませんが、通常の風邪予防に効果があるのなら、やはりうがいはしておくに越したことはありません。うがいをすることにより、水の乱流によって通常のウィルスや、埃の中にありウィルスにかかりやすくなる物質が洗い流されること、水道水に含まれる塩素などの効果も期待できるといった見解もあるようです

なお、「ヨード液うがい群」ではむしろ風邪の発症確率が高いという結果が出たそうで、これはヨード液がのどに常在する細菌叢(さいきんそう:細菌の集合体)を壊して風邪ウィルスの侵入を許したり、のどの正常細胞を傷害したりする可能性があるからだとか。うがい薬にも効果があるものとないものがあるようなので、見極めが必要なようです。

ただ、インフルの予防という意味では、うがいなどよりも、体の免疫力を作るほうがより有効のようです。免疫力の低下は感染しやすい状態を作ってしまいますから、ふだんから偏らない十分な栄養や睡眠休息を十分とることが大事です。

体の免疫力を高めるということは、風邪やほかのウィルス感染に関しても非常に効果が高いといい、アメリカ臨床栄養ジャーナルに発表された対照試験の結果では、冬季に毎日基準値以上のビタミンを摂取した生徒群は、摂取しない生徒群に比較して、40%以上も季節性インフルエンザに罹患する率が低かったそうです。

このほかの予防対策としては、感染の可能性が考えられる場所に長時間いることを避ける、ということがやはり重要です。人ごみや感染者のいる場所を避ける、というのは良く言われることではありますが、再認識したほうがよさそうです。

また、うがいに加え、石鹸による手洗いの励行や、手で目や口を触らない、といったことは、やはり物理的な方法でウィルスへの接触や体内への進入を減らすことになります。無論、手袋やマスクの着用といったことも効果があるようです。

と、長々と書いてきましたが、この冬、インフルにかかるのを心配している方には少し早くに立ったでしょうか。

ところで、我々ヒトがかかるインフルエンザはペットもかかるのでしょうか。我が家には猫のテンちゃんがおり、彼女への影響も気になるところです。

調べてみると、人がかかるインフルエンザウィルスに犬や猫がかかる、ということはこれまでに確認されていないようです。

ちなみに「猫インフルエンザ」と呼ばれるものがあるようですが、これはインフルエンザウィルスによるものではなく、呼称は「インフルエンザ」となっていますが、これはヘルペスの一種だそうです。ネコヘルペスウィルスが原因で、症状が風邪に似ているので、本来「猫ヘルペス」とでも呼ぶべきものをこう誤称するようになったものだそうです。

猫特有のヘルペスなので、ヒトに移る可能性もないそうですが、ほかのウィルスの中には、その変異によって動物→ヒト、ヒト→ヒトへ感染することも懸念されているようで、「ヒト→ヒト」への伝染が確認されたものが、「新型インフルエンザ」と呼ばれるようです。

この中でもとくに心配されているのが「鳥インフルエンザ」で、今のところ一般の人に感染する危険性は極めて低いようですが、将来的には、ヒトインフルエンザウィルスと混じり合い、ヒトヒト感染する能力を持つ変異ウィルスが生まれる可能性も懸念されているようです。

無論、ヒト・トリを始めネコにも感染する可能性がないとはいえず、将来、それが爆発的感染(パンデミック)を引き起こす可能性もあるといいます。

せめてこの冬には、そんなおそろしい流行がこないことを祈りつつ、今日のところは筆を治めたいと思います。あるいは今年最後の書き込みになるかもしれません。

残るは数日となりました。インフルの発症がないことを祈りましょう。