ストーカーの科学

タレントの菊池桃子さんが、タクシー運転手からストーカー行為を受けた、というニュースに驚いた方も多いと思います。

このタクシー会社というのが、これまた業界大手(日本交通)だということで、私も驚いています。その昔は深夜残業のあとに、よくこの会社のタクシーにお世話になりましたが、紳士的な運転手さんばかりだったので、なおさらです。

元運転手は、菊池を客として乗せたことから自宅を知り、その周辺でつきまとうなどしたため、菊池さんが警察に届け出たようです。警察はこれを受けて、警告などをしていたようですが、それでもやめず、Twitterで「菊池さんに会いに行く」と予告し、実際に現場に現れたところを現行犯逮捕となったそうです。

それにしても、警察まで動き出しているのに、自分の行為が犯罪である、となぜ自己認識できなかったのか、というところが疑問です。ストーカー行為をするような人の心には、やはり常人とは違った何かが棲みついているのかな、と想像してみたりしているところです。




ストーカーと追っかけ

このストーカーという言葉は、英語のストーク(stalk)から来ています。植物の「茎」という意味もありますが、獲物に忍び寄ること、そっと追跡するという意味もあり、これにerをつけることで、つきまといをする「人」を意味するようになります。

人を執拗に追跡したり、それによって相手を悩ませたり怖がらせる人というのは、今に限らず昔からいるわけですが、それが社会的に知られるようになり、犯罪行為である、違法である、ということが明確化されるにつれ、そういう行為に及ぶ犯罪者を指すために用いられるようになりました。

ストーカーはまた、いわゆる「追っかけ」の一つだともよくいわれます。いわゆる「有名人」に対するストーカー行為であり、芸能人やスポーツ選手といったメディアへ良く顔を出す人たちへの憧れのようなものが悪い方向に変化したものと考えることができるでしょう。

日本でも、明治20年代ごろにはもう既にこの追っかけはあったといいます。「女義太夫」というものがあり、これは浄瑠璃の一種です。太夫と呼ばれる語り手(歌い手)と。三味線弾きで演奏されるのが基本で、江戸時代から既にあるものです。明治に入ってから「寄席」が流行るようになると、ここに登場する「娘義太夫」がとくに大人気になりました。

落語や講談に次ぐ人気を誇り、とくに若い学生たちはこの娘義太夫に熱中しました。娘義太夫の日本髪が熱演のあまり乱れ、かんざしが髪から落ちると、その争奪戦が始まったといいます。

無論、演出です。娘義太夫が別の寄席に移動する時は、その人力車を追い駆けてついていったといい、15・6歳ほどの年端もいかない少女に熱狂するこうした若者たちのフィバーぶりは、現代のアイドルに対するものとほぼ同じです。

1892年(明治25年)5月26日の読売新聞に掲載された記事は、そうした学生を「放蕩書生」と呼んで、彼らが勉強時間を浪費するほど彼女たちに夢中になっていることを嘆く内容となっています。こうした放蕩書生は、大卒の初任給が25円程度の時代に、寄席通いで50円も使っていたといい、当時、彼らは「追駆連」(おっかけれん)と呼ばれていました。

ストーカーの心理

現在もそうですが、こうした「追っかけ」が過ぎると、やがて暴力的な行為が起こるようになったり、最悪は、ファンがスターを死に至らしめる、といったことも起こり得ます。日本だけでなく、悪質なストーカー行為は古今東西引きも切らず、最近の一例ではジョン・レノンの殺害事件が思い起こされます。

「追っかけ」をしてしまうような人々には、憧れの対象との間に” 愛情関係 “がある、と勝手に思い込む人が多いようです。やがて、彼らの心の中では、相手がその愛情をなかなか認めてくれないという想いがつのるようになり、ついにはそれを認めさせる必要がある、と思いこむようになります。ときにそのために武装までして付きまとうケースもあり、大きな問題に至ります。

こうしたストーカーたちが、精神障害者かそうでないかは別として、その一般的特徴には、「被愛妄想(エロトマニア)」とう症状が見て取れるといいます。「被愛」というのは、自分が愛される、という意味です。これに「妄想」がつくと、証拠・根拠がないのに相手が自分を好きであると信じる、ということになります。

この被愛妄想の怖いところは、相手が自分を嫌っている証拠・根拠があっても相手が自分を好きであると信じている、信じて疑わない、といったところです。

これは明らかに、通常の恋愛感情とは違います。自分が相手を好きだ、とたとえ一方的であっても強く思うだけなのが恋愛感情であり、相手に好意が見て取れない、と分かった場合はそこで、失恋となります。ところが、相手が自分を強く好きに違いない、と思い込み、本人的にはいつまでも破局に至らない、というのが被愛、ということになります。

法的取締まり

このように、ストーカーは一般的に自己愛が強いのが特徴であり、また、相手の拒絶に対しても過度に敏感な反応を示し、時としてそれが暴力につながります。ストーカーと言われる人々のすべてのタイプに共通するところは、相手の感情に想像力を働かせることができない、甘え、思い込み、欲求不満を攻撃に替えて解消する、というところです。

こういう人たちにつきまとわれると、多くの場合、当事者同士では収拾がつかなくなり、警察に届け出るしか方法がなくなります。しかし、日本ではかつて、つきまとい行為を既存の法律が対象としていなかったため、警察が介入できず、取り締まることができませんでした。

もっとも、つきまとい行為から一歩踏み出してエスカレートした場合は軽犯罪法違反、さらに名誉毀損罪や脅迫罪で取り締まることは可能でしたが、いったん取り締まりが終息すると、再度付きまとい行為が再発する、ということがほとんどでした。

こうした法律的に取り締まりができない状態で、警察が対応できる範囲を超え、つきまとい行為が殺人に直結してしまった例に「桶川ストーカー殺人事件」があります。女子大学生が元交際相手の男を中心とする犯人グループから嫌がらせ行為を受け続けた末、1999年(平成11年)に埼玉県桶川市のJR東日本高崎線桶川駅前で殺害された事件です。

これを機に、議員立法でストーカー規制法が2000年(平成12年)に制定されて全国的にストーカー行為を取り締まる機運が高まり、地方公共団体などでもストーカー行為を刑事罰に規定した迷惑防止条例が制定される例が多くなってきました。

このストーカー規制法によれば、ストーカーとは同一の者に対し、つきまといなどを反復してすることを指し、「つきまといなど」の示すところは、恋愛感情その他の好意やそれが満たされなかったことに対する「怨恨」により、相手やその関係者に以下のいずれかの行為をすることをさします。

面会・交際の要求(7,738人 52.2%)
つきまとい・待ち伏せ等(7,607人 51.3%)
無言電話・連続電話(4,453人 30.0%)
乱暴な言動(3,069人 20.7%)
監視していると告げる行為(1,092人 7.4%)
性的羞恥心を害する行為(987人 6.7%)
名誉を害する行為(793人 5.3%)
汚物等の送付(139人 0.9%)

カッコ内の数字と%は2009年(平成21年)の認知件数(分類上の複数計上)であり、多い順です。直接面会したい、会いたいという行為が最も多くなっていますが、つきまといや待ち伏せ、無音電話といった陰湿なものがそれと同等以上に多いのが特徴的です。



医学的にみたストーカー

それにしても、通常の人の感覚なら、こうした行為が明らかに異常であると自覚できるものですが、当人にはストーカーとの自覚が無い、という点が問題です。

しかし、医学的にみても、精神異常ではないとされるケースも多いようで、周囲の人からもちょっと変な人、ぐらいにしか思われていない、といったこともよくあるようです。ところが、あるとき急に異常行動に走る人もいるわけで、こうしたことから、ふだんよりそうした「気」のある人を看過した周囲にも問題がある、といわれることも多くなりました。

一方では、精神的にも明らかに正常とは言い難い人がストーカーになる場合も増えていて、警察庁の統計によれば、ストーカーに占める精神障害者の割合は、2009年(平成21年)の認知件数は0.5%、71人だそうです。もっともこれ医学的な検査をして異常であると認知された数であり、実際にはもっと多くの精神障害ストーカーがいそうです。

精神病とは、妄想や幻覚を特徴とした症状であり、なおかつ、それを当人が自覚していないような明らかに精神的に重篤な状況をさします。精神病を病んだストーカーの症状としては、恋愛妄想、関係妄想といった妄想が多く、その昔は精神分裂病といわれていた統合失調症の症状を伴うことが多いようです。

現実検討ができない症状であり、場合によっては相手が好きなのかどうなのかも判断できないような症状と思われますが、ストーカーの分類上は、これを「精神病系」というようで、明らかにこれは病気です。

一方では、これ以外の明確には病気とはいえないようなストーカーもいて、たとえば「パラノイド系」と呼ばれる人たちがいます。

妄想によりストーキングを行いますが、妄想の部分以外は正常で、言動は論理的で、行動は緻密であることが多いようです。パラノイドとは、パラノイア(paranoia偏執病)の形容詞形で、不安や恐怖の影響を強く受けており、他人が常に自分を批判しているという妄想を抱くものを指します。

自らを特殊な人間であると信じたり、隣人に攻撃を受けている、などといった異常な妄想に囚われますが、あることに強い妄想を抱いている、という点以外では人格や職業能力面において常人と変わらない点が特徴です。ストーカーとしては、現実の恋愛関係の挫折によるつきまとい行為もありますが、無関係の相手につきまとうタイプが多いようです。

また、「ボーダーライン系」というのもあります。こちらも、性格は外交的・社交的で、一般人とほとんど変わりません。しかし、「孤独を避けるための気違いじみた努力」が特徴であり、こちらも病気ではなく、人格の成熟が未熟であることが原因であることが多いといわれます。

自己中心的で、他人・相手の立場になってみてものを考えることが出来ないタイプが多く、我々が考えている以上に世の中には多いと考えてられており、中には医療関係者の中にもいる、といわれています。人間関係は濃く、相手を支配しようとするところに特徴があるといいます。

さらに、「ナルシスト系(自己愛性人格障害))。これは、自己愛が強い、つまり自信・自負心が強いのが災いし、拒絶した相手にストーキングする、といったもので、いわゆる「ナルちゃん」です。行動的な分類からは「挫折愛タイプ」に属するものが多く、破滅型です。

騒々しく見栄っ張りで、傲慢で人を利用するという明確な悪癖が表に出るタイプがいる一方で、過度に傷つきやすく、失敗を恐れ、恥をかかされることを心配するために人前に出ることを避けるといった人もおり、二面性があるのが特徴です。

以上は、病気ではない、とされる人たちですが、もうひとつ「サイコパス系(反社会的人格障害)」というのがあり、こちらは明らかに精神異常者であり、ストーカーの中でも最悪の部類です。

被愛妄想を持つ(相手が自分を好きであると信じる)のではなく、自分の感情・欲望を相手の感情と無関係に一方的に押し付けるタイプで、性欲を満たすための道具として相手を支配するものが多いようです。「凶悪・冷血な犯罪者」「典型的な犯罪者」になることも多く、人間関係は強引で、相手に「取り憑く」能力を持っています。

先天的な原因があるとされ、ほとんどが男性であるとされますが、女性は皆無というわけでもないようです。もっとも、その大部分は殺人を犯すような凶悪犯ではなく、身近にひそむ異常人格者です。ただ、北米には少なくとも200万人、ニューヨークだけでも10万人のサイコパスがいる、とされています。

日本では「反社会性パーソナリティ障害」と名称されているようですが、研究が始まったのがごく最近のため、その実態はまだよくわかっていないようです。

ボーダーライン型の実態

こうした、サイコパスは特別の存在として、ストーカーといわれるような人は、前述のように「精神病系」「パラノイド系」「ボーダーライン系」「ナルシスト系」の4つのタイプに大きくわけられるようです。

この中で、男女を問わずストーキングを受けた者が最も困難に陥れられる、最も始末の悪いタイプ、といわれるのが、ボーダーライン系(型)であるといいます。

ボーダーライン型は、医学的には、「境界性パーソナリティ障害」といい、英語のBorderline personality disorderを略して BPDといいます。

BPDの症状は青年期または成人初期から多く生じ、30代頃には軽減してくる傾向があるようです。症状の機軸となるものは、不安定な思考や感情、行動およびそれに伴うコミュニケーションの障害です。

具体的には、衝動的行動、二極思考、対人関係の障害、慢性的な空虚感、薬物やアルコール依存、自傷行為や自殺企図などの自己破壊行動が挙げられます。また激しい怒り、空しさや寂しさ、見捨てられ感や自己否定感など、感情がめまぐるしく変化し、なおかつ混在する感情の調節が困難です。

自己同一性障害の人もこうした障害を持っていることが多いといい、不安や葛藤を自身の内で処理することを苦手とすることが多いようです。

性的放縦、ギャンブルや買い物での多額の浪費、アルコールや薬物の乱用といった衝動的行為に及ぶことも多く、過食嘔吐や不食などの摂食障害がある場合もあります。最悪の衝動的行為は自殺ですが、そのほかにもリストカットなどの自傷行為や薬物の過量服薬があり、結果として死に至ることもあります。



以上は、本人自身が苦しむ症状ですが、問題は、次の「対人障害」です。具体的に他に及ぼす影響であり、これには主に二種類あります。

ひとつが他者を巻き込み混乱を呼ぶケースであり、多くの場合、これがストーカー行為として表面化すると社会問題になります。

依存や混乱の著しいタイプの人は、他者を巻き込みやすく、人との摩擦が生まれやすくなりますが、そうした行為が顕在化するのは、相手とある程度関係が深まり、その相手が本人との深い層にある感情や願望に触れた場合だといいます。

もうひとつは、対人恐怖・過敏性が強く、深い交流を避け回避的になるケースであり、こちらは社会問題化することは少ないとはいえ、社会人の一員であった場合は、元々所属していたその組織などに影響を及ぼします。表面上は顕著な対人障害もなく社会機能が維持できている人も多く、一見すると対人障害があるとは見受けられない場合があります。

いずれの場合も、ふだんは異常に見えない人が多いといわれています。しかし、いったん周りの人間がこの症状に巻き込まれると、様々な被害を受けることが多く問題になります。前者の場合はストーカーとなり、特に社会問題になるわけですが、後者も社会貢献ができなくなるわけであり、大きな意味では社会問題のひとつとなりえます。

近年そうした人が増えているといい、治療法もいろいろ模索されていますが、治療法としては、精神療法(心理療法)が主になるようです。精神療法とは、心理セラピーともいい、薬物のような物理的また化学的手段に拠らず、教示、対話、訓練を通して精神障害や心身症の治療、心理的な問題の解決を図ろうとする方法です。

欧米諸国に比べ日本においては、こうした精神療法を医療として認めるかどうか、という議論がまだあり、制度面の遅れがあるようです。しかし、近年、「精神科専門療法料」という名目で健康保険が使えるケースも増えており、このような「目に見えない技術」に対しても理解が深まってきているようです。期待したいと思います。

ただ、精神療法の効果が出るには概ね一年以上の長期間がかかるといい、BPDの症状の自覚がある人は、根気よく医療対象者をみつけて、気長に対処していく必要があります。「BPD」、「境界性パーソナリティ障害」のキーワードで検索すれば、多くの医療関係機関が見つかると思いますので、心当たりのある方は最寄の医療機関を探してみてください。

BPDだった有名人

ここまで読んできて、BPDなんて症状はないし、他人事だと思っている人も多いと思います。しかし、上にあげた症状のうち、「ギャンブルや買い物での多額の浪費」、「アルコールや薬物の乱用」などのキーワードをみて、案外とドキッとした、という人も多いのではないでしょうか。

実は、過去にもBPDだったとされる有名人も多く、例をあげれば、スイスの詩人・ヘルマン・ヘッセ、作家の太宰治、イギリスの王妃のダイアナ妃、女優のマリリン・モンロー、同じくアメリカの清純派女優ウィノナ・ライダーなどがいます。

太宰治は慢性的な虚無感や疎外感を抱えていた、といわれており、安定している時期は自己愛的性格でしたが、不安定時は感情統制が困難でした。芥川賞を逃した時の怒りは常軌を逸していたといい、感受性が強く、高い知能を持っていた、というところが、BPD障害を持つ人によく現れる特性と一致します。

太宰は、この当時鎮痛剤として流通していたパビナールという薬に依存していました(現在は麻薬に認定)。たびたび「離人感」を口にし、自殺願望が絶えず、実際、心中未遂を繰り返して5回目で自殺完遂に至りました。38歳で亡くなりましたが、28歳のころには精神科病院である江古田の東京武蔵野病院へ入院していたことが知られています。

マリリン・モンローもまた7回に及ぶ自殺未遂を繰り返し、薬物の過量服薬で亡くなりました。母子家庭で育ちましたが、母親はうつ病で何度も精神科病院に入院しており、孤児として育てられたモンローは、愛情に飢えていたものの、他者との親密な関係を保ちにくい環境で成長したことが要因といわれます。

睡眠薬とアルコールの依存症になり、死の8年ほど前から精神分析医による治療を受けていました。主治医はモンローについて「いつも自分を価値のないつまらない人間だと思っていた」と振り返っており、死の数日前のインタビューでは、「世界が必要としているのは本当の意味での親近感です。どうぞ私を冗談扱いにしないで下さい」と語っていました。

そして、ダイアナ妃。彼女もまた、BPDだったといわれており、衆人の目にさらされるストレス、夫婦間の諍いにより摂食障害が悪化し、カミソリやレモンスライサーで体を切ったり、夫のチャールズと口論中にテーブル上にあったペンナイフで自分の胸や腿を刺すなど衝動的な行動を取ることもあったといいます。

慢性的なうつ状態もあり、大勢の心理療法士や心理学者、精神分析医にかかっていたそうです。しかし、晩年のダイアナ妃はチャリティー活動に生きがいを見出し、対人地雷の廃絶、ホームレスやエイズ患者、暴力被害や薬物依存症の女性問題にも取り組みました。

既存の枠に捕らわれない奉仕活動を行い、「病んでいる人、苦しんでいる人、虐げられた人とともに歩んでいる」と称えられ、世界中で愛されましたが、残念ながらこちらも若くして亡くなりました(36歳)。

以上、例としてあげた3人は、無論、ストーカーとは言えない人々であり、優れたパーソナリティを持った人物として、むしろ畏敬を集めるような人々ばかりです。おそらくは、BPDの対人障害としては、対人恐怖・過敏性が強く、深い交流を避け回避的になるといった内向的なタイプの人たちだったでしょう。

しかし、そうしたひとたちがこぞってこうした短い一生を送る羽目になる、といったところが、BPDの症状もたらす闇の深さといえます。

近年、啓発本やインターネットなどにより、一般社会でもBPDの存在が広く認知されるようになってきています。しかし病名が普及するにしたがって、意図しないところでBPDに対するネガティブなイメージも高まっていった傾向があり、患者自身あるいは周囲の人間も、この病名にある種の嫌悪感を持つことが多いといいます。

この傾向は医師やカウンセラーなどの治療者にも存在し、現在でも不必要に忌避的になる医療従事者は少なからずいるといいます。しかし1990年代以降、さまざまなアプローチでの治療法や、2000年代からは治療ガイドラインも次々と発表され、BPDは医療の現場では特別な存在ではなくなっています。

ストーカーによる被害を少なくするためにも、ぜひその治療法が確立され、拡散していってほしいものです。




天才バカボンと天才

2017年に50周年を迎えた赤塚不二夫原作「天才バカボン」が、今年7月に「深夜!天才バカボン」としてTVアニメ放送されることが決定したそうです。

前作から18年ぶり、5回目のTVアニメ化となるこの番組では、主人公となるパパ役を、俳優の古田新太さんが、また、バカボン役を入野自由さん(いりのみゆ:声優)、ママ役を日高のり子さんが担当するそうで、古田さんは今回初のアニメ作品主演となります。

この天才バカボンが世に出たのは、1967年のことで、4月9日発行の「週刊少年マガジン」でした。その後、「週刊少年サンデー」「週刊ぼくらマガジン」と連載雑誌が変わりましたが、最終的に「月刊少年マガジン」連載となり、1978年12月号で一応の完結を見ました。

その後も現在に至るまで単なるギャグ漫画の枠を越え、単行本、テレビ、CMなど各種メディアに取り上げられており、ドラマとして実写化もされたこともあります。

「天才バカボン〜家族の絆」のタイトルで、2016年3月11日に日本テレビで実写ドラマが放送され、バカボンはお笑いコンビ・おかずクラブのオカリナ、バカボンのパパはお笑いコンビのくりぃむしちゅーの上田晋也が演じました。

また、バカボンのママは 松下奈緒、レレレのおじさんは、小日向文世、おまわりさんが高嶋政伸、バカボン家の「隣人」としてマツコ・デラックスが登場するなど、豪華な俳優陣が脇を固めました。さらに昨年1月6日には「天才バカボン2」のタイトルで、第2弾を放送。今年のゴールデンウィークにも第3弾が放送されることが決まっているそうです。

私も昨年の放送をチラ見しましたが、小日向さんが演じるレレレのおじさんが、なかなかいい味を出していました。また、オカリナさんは、バカボンにそっくりでしたが演技のほうは???上田さんのバカボンのパパもちょっと「これじゃない感」がありましたが、同じくご覧になっていたみなさんはどうだったでしょうか。

この「バカボン」の語源は、梵語の「薄伽梵(ばぎゃぼん)」に由来しているそうで、これは仙人や貴人の称号です。また、バカボンパパの常套句「これでいいのだ」も「覚りの境地」の言葉とのことで、レレレのおじさんも、お釈迦様のお弟子の一人で「掃除」で悟りをひらいたチューラパンタカ(周利槃特=しゅりはんどく)をモデルにしているのだとか。

もっとも、これはバカボンが売れ始めたのちに、巷で作られた風説のようで、赤塚さん自身は1967年の連載第1回の扉絵の部分に、「バカボンとは、バカなボンボンのことだよ。天才バカボンとは、天才的にバカなボンボンのことだよ」と説明しています。おそらくは熱烈なファンが、そのストーリー中に「哲学」を見出したく、勝手に創作したのでしょう。

私くらいの年代の男性は、この漫画を読んだことがある、という人が多いと思います。このころのマガジンには「あしたのジョー」「巨人の星」といったその後テレビアニメとしても人気を博すマンガがたくさん掲載されていて、毎週発売の水曜日前になると、わくわくしていたのを覚えています。無論、バカボンも大笑いしながら読んだものです。

初期にはちょっと天然なママのネタを中心に、頭が足りない純粋なバカボンとパパが騙されたり周囲を振り回す、ホームコメディでしたが、のちにバカボンとバカボンパパが話の中心となるナンセンスギャグに移行。中期よりパパの母校であるバカ田大学の後輩などが登場し、パパを中心としたドタバタ劇になっていきました。

1969年になって、それまで「週刊少年マガジン」に掲載されていたのが、「週刊少年サンデー」に掲載誌が変更になりました。その後、1971年に初めてテレビアニメ化が決定したことを理由に「週刊ぼくらマガジン」で連載を再開。1か月後、同誌の休刊で「マガジン」本誌に返り咲き、以降1976年まで連載されました。

1971年に掲載誌が「マガジン」に復帰してからは、次第にシュールなギャグが頻出するようになり、突如ひとコマだけ劇画タッチになる、意図的な手抜き、といった実験的手法が増え、子供向けのナンセンスギャグだった作風が、どちらかといえば大人向きの、とはいえギャグとばかりは言い難いグロテスク、皮肉、ブラックユーモアになっていきました。

後期になると「おまわりさん」、「ある家族の話」、「漫画家と編集者」などといった、主役のバカボンパパさえ登場しない作品が登場するようになり、刑事用語の解説が出てきたり、わざと絵を下手にして自らのアシスタントが不在という設定で描いていたりで、本作とは全く関係ない話も多くなりました。

まだ子供だった私には、こうした変化について行けず、次第に読み飛ばすようになっていたのを覚えています。その最終回もあやふやで、各紙に掲載されていたため、どれが本当の最終回なのかわからないそうです。

作者本人は、「「毎回が最終回」のつもりで全力投球で描いていました」と語っていますが、本心かどうか疑わしいところです。作中、バカボンパパも「最終回が何度もあったので、わしも分からないのだ」と発言しており、読者を煙に巻くエンディングをいろいろ模索しているうちに、連載を打ち切られた、といったところが本当のところでしょう。

一応、デラックスボンボン1992年12月号に書かれたものが最後とされているようですが、1988年の月刊少年マガジンに、赤塚不二夫とフジオプロのアシスタントが「最終回の内容を考える」という記事が掲載されたそうです。

その内容は、「パパとママが離婚」、「バカボンがハジメちゃんを包丁で刺し殺す」、「パパと本官さんがピストルで撃ち合い両者血まみれ」といったものであり、そして最後にはアシスタントが暴走で描いた、という設定で、本編とまったく関係ない漫画が6ページも掲載され、最後にパパが「読者の諸君また二度とおあいしないのだ」言う、というものでした。




赤塚不二夫、その半生

赤塚不二夫は、1935年(昭和10年)9月14日、満州国熱河省古北口(現在の北京市北東部)に赤塚藤七と妻リヨの6人兄弟の長男として生まれました。本名は、「赤塚藤雄」で、後のペンネームの不二夫は、本人曰く、「二人といないから”不二夫”と名づけた」「親がかってにつけた名前だから、勝手に変えた」と書いています。

しかし、親しかった同じ漫画家の松本零士によれば、赤塚不二夫の「不二」も、藤子不二雄の「不二」も、この当時彼らが自分の作品を持ち込んだ、「不二書房」にあやかって付けたペンネームだといいます。

その赤塚が生まれた、古北口は当時の満州国と中華民国との国境地帯でした。父親である藤七は新潟県の農家出身で、地元の小学校を経て苦学の末、陸軍憲兵学校の卒業試験を2番目の成績で卒業し関東軍憲兵となりました。

しかし、上官の理不尽な言い分が我慢できずに職を辞し、満州国警察の保安局特務警察官になりました。そして、国民革命軍と対峙して掃討・謀略(防諜)活動を行う特務機関員として働くようになり、地元住民を宣撫する、といったこともするようになりました。

この父・藤七は非常に厳格な人で、かつ権威的であったといい、赤塚も「のらくろ」や「日の丸旗之助」といった漫画を読むことを禁じられ、箸の持ち方などでも厳しくしつけられたそうです。幼い頃の彼は父に恐れさえ感じ、大の苦手だったといいます。

しかし宣撫官という職務柄もあって普段から現地に住む中国人とも平等に接することに努め、補給された物資を村人達に分け与えたり、子供たちにも中国人を蔑視しないよう教えるなど正義感の強い人物でもありました。

その後終戦間際になると、満州の治安はかなり悪化し、日本人はしばしば抗日ゲリラ側から攻撃を受けるようになりました。とくに父の藤七は特務機関員ということでゲリラから目を付けられており、当時の金額で2000円もの懸賞金がかけられていたといいます。

しかし、同じ中国人の村人からも密告されることもなく、また終戦直後の奉天で赤塚家の隣に住む日本人一家が中国人に惨殺される中、普段から中国人と親密にしていた赤塚の家族は、彼らの助けを得て難を逃れています。

1945年(昭和20年)8月15日、赤塚は10歳の時に奉天で終戦を迎えました。しかし翌16日、中国人の群衆が鉄西の工場内にある軍需物資を狙って大挙して押し寄せ暴徒化、凄惨な殺戮に発展しましたが、この時の体験について赤塚はのちにこう書いています。

「ぼくたちが住む消防署の官舎の隣は鉄西消防署、その隣が憲兵隊。道路をはさんで藤倉電線と東洋タイヤの工場があった。その工場内にある軍需物資を狙って、数え切れないほどの中国人が殺到したのだ。無秩序の略奪は、中国人どうしの目を覆う殺しあいに変わった。これに日本人の工場関係者と憲兵が加わって、三つ巴、四つ巴の地獄絵が出現した。」

この時、馬小屋に潜んでいた一家は父の部下だった中国人の手助けもあり、全員中国服を着せられて消防車に乗り、鉄西から無事脱出して事なきを得ました。後に赤塚は「いつも部下の中国人を可愛がっていたおやじが、ぼくたち一家を救ったと思わないわけにはいかなかった」と語っています。

しかし父は侵攻してきた赤軍によってソビエト連邦へ連行され、軍事裁判後、4年間シベリアに抑留されました。奉天に残された母は11歳だった赤塚や他の兄弟を連れ、翌年の1946年(昭和21年)引揚船を目指して徒歩で渤海沿岸を歩き始め、葫芦島から大発動艇で4日かけ佐世保港に到着。汽車で母の実家がある奈良県大和郡山市矢田口に移りました。

しかし、その引き揚げまでに妹の綾子はジフテリアにより死去し、弟は他家へ養子に出され、更には生後6か月の末妹も母の実家に辿りついた直後に栄養失調のため夭折。帰国する頃には兄弟は藤雄と弟と妹の三人と半数となっていました。このとき母親には泣く気力もなく、その姿を見た赤塚は「胸がえぐられるようだった」とのちに語っています。

漫画家人生のスタート

父を除いた一家が奈良へと引き揚げてから母親は、大日本紡績・郡山工場の工員寄宿舎で寮母として働くようになり、赤塚は地元の小学校に編入して小学5年生となりました。このころの奈良での経験について、彼は次のように回想しています

「満州から引きあげてきて、奈良の大和郡山に3年間住んでいたんだけど、あのあたりってヨソ者を徹底的に排除する風潮があったんだ。差別意識が定着してたのかもしれないな。オレも差別されたよ。配給の列に並んでて、オレの順番になると「満州、ダメ」とか言って本当にくれないんだから。いい大人が子供に対してだよ。今でも忘れられないよ。」

「奈良の少年時代は餓鬼のように動物のように生きた。底辺に生きる少年たちの群像から、私の登場人物のキャラクターを得ている」とも回想しており、一緒に遊んでいた近所の当時3歳の馬車屋の息子が、「おそ松くん」に登場する浮浪児「チビ太」のモデルに、またいたずらをして遊んだ野良猫が「ニャロメ」のモデルにもなったといいます。

このころ、赤塚をいじめていた連中の番長で奥村という寿司屋の息子がいましたが、あるとき、「俺のこと、そんなにイジメるんだったら、漫画を描こう」と、藁半紙16枚を糸で縫い、そこに「寿司屋のケンちゃん」というマンガを描いて、これを番長に差し出しました。

番長はしばらく、パラパラめくり、それからみんなを集めて、「いいか、今度からなぁ、赤塚イジメたら、俺が承知しないぞ」といい、以後、赤塚はイジメにあわなくなったといいます。

これをきっかけに奥村と仲良くなった赤塚は、柿畑から柿を盗んで売り警察の厄介になるなど、数々の悪行に手を染めることになりますが、実はこの番長は性格の優しい面がある男で、体に障害があるような仲間などには、けっして手出しをしなかったといいます。

クラスに一人、重度の小児マヒの子がおり、運動会の日がきましたが、彼は参加できません。窓から外を見ているだけの彼に、ボス奥村は、赤塚に命じました。「お前残って、あいつと一緒にいてやれ。」しかたなく赤塚は運動会に出ないで、二人で教室に残ったといいますが、そのとき、この番長が体がでかくて腕っぷしが強いだけの男ではない、と悟ります。

ハンデを背負った友達の気持がわかり、赤塚に運動会を休ませて付き添わせるという、教師ではできない対応をやってのけた彼の姿に、赤塚は強い立場にありながら弱い者を守り、決して差別しない態度をとっていた父の姿を重ねました。

周囲から差別される立場の人間に対して優しい態度をとる、というこの二人の姿は、少年時代の赤塚の心に深く刻まれることとなり、この経験がきっかけとなって後の赤塚作品では「弱い者いじめはしない」という姿勢が貫かれることとなりました。

こうした中、赤塚は2学期の頃から貸本屋で5円で漫画を借りて読むようになります。戦後、小説や漫画単行本、月刊誌を安く貸し出す貸本店が全国規模で急増しており、その書き手の中には戦後を代表する数多くの作家や漫画家が排出されました。手塚治虫もその一人であり、赤塚はその作品「ロストワールド」に出会ったことで漫画家になることを決意。

そもそも幼いころから絵が得意だった彼はその後も漫画を描き続け、小学6年生になった12歳の時には「ダイヤモンド島」というSF長編漫画を描き、母親と一緒に大阪の三春書房という出版社へ最初の作品を持ち込みます。しかし、これは失敗に終わりました。

13歳の時の1949年(昭和24年)秋、母親は、わずかな稼ぎでは3人の子供を養っていくことが困難となり、兄弟は父の郷里である新潟の親類縁者にそれぞれ預けられることになりました。中学1年生になっていた赤塚は新潟県に住む、大連帰りの父親の姉一家に預けられることになり、ここで母親からのわずかな仕送りで暮らすようになりました。

1952年に中学校を卒業。しかし、貧困から高校進学を断念し、映画の看板を制作する新潟市内の看板屋に就職しましたが、これが赤塚ののちの作風にも影響を与えることになります。仕事柄、映画看板の制作に携わっていたことから花月劇場という映画館であらゆる映画を鑑賞するようになり、キートンやチャップリンの喜劇に感銘を受けました。

この時期から「漫画少年」への投稿も始めましたが、その中に手塚治虫が投稿作品を審査するコーナーがあり、そうした論評を通じてこの頃から自分の絵柄を模索し始めるようになります。やがて18歳になった1954年、父親の友人の紹介で上京。ここで就職した江戸川区小松川の化学薬品工場でも勤務しながら「漫画少年」へ投稿を続けました。

ちなみにシベリアへ抑留されていた父は、赤塚が14歳になったその年の暮れに舞鶴港へ帰国し、農業協同組合職員の職を得ていましたが、外地から戻ったもてあまし者として、排他的な農村では心底とけこむことは出来なかったといいます。



デビュー

こうした中、投稿していた漫画のひとつが石森章太郎の目に留まります。これを機に、石森が主宰する「東日本漫画研究会」が制作する同人誌に参加することになりますが、この同人に「よこたとくお」がいました。また既にプロの漫画家だった「つげ義春」が同じく赤塚の漫画に興味を持ち、しばしば彼の下宿に遊びに来るようになりました。

このつげからプロへの転向を勧められた赤塚は、一人では心細いというよこたを誘い、彼と西荒川で共同生活をしながらプロ漫画家として活動するようになります。やがて、つげの仲介で曙出版と契約を交わし、1956年、描き下ろし単行本「嵐をこえて」でデビュー。

同年、上京した石森を手伝う形でトキワ荘に移り、第二次新漫画党の結成に参加。少女漫画の単行本を3〜4ヶ月に一冊描く貸本漫画家となりますが、トキワ荘の他の面々と同じく収入は少なく、原稿料の前借をして漫画を描く自転車操業状態にありました。将来を悲観して廃業を考え、新宿のキャバレーの住込店員になろうと思った時期もあったといいます。

1958年、「少女クラブ」増刊号で編集者が石森との合作を企画。合作ペンネーム「いずみあすか」名義で作品を発表。続いて石森と、同じトキワ荘にいた女性漫画家、水野英子との合作を3人の頭文字(水野のM、石ノ森のI、赤塚のA)をとり、「U・マイア」というペンネームにして作品を発表しました。

このネーミングは、3人ともワーグナーが好きだったためドイツ名の「マイヤー」が候補としてあがったものであり、それにU(ドイツ読みでウー)を付け「うまいやー」をもじったものでした。

ちなみに、この水野英子は、日本の女性少女漫画家の草分け的存在で、後の少女漫画家達に与えた影響の大きさやスケールの大きい作風から、「女手塚」と呼ばれることもある漫画家です。赤塚の母は向かいの部屋に住んでいた水野英子を非常に気に入り、事あるごとに結婚を勧めていたといいますが、本人は赤塚亡きあとも現在まで独身を貫いています。

こうした合作で石森は赤塚を高く評価するようになり、ちばてつやや、秋田書店の名物編集者として知られる壁村耐三に推薦。壁村は赤塚に「まんが王」1958年11月号に読切漫画を依頼。こうしてギャグ漫画「ナマちゃんのにちよう日」が発表されましたが、好評であったため「ナマちゃん」として連載が決定しました。

栄達と影

1961年(昭和36年)、26歳になった赤塚は、8歳年下のアシスタント第1号、18歳の稲生登茂子と結婚。このためにトキワ荘を退去しました。翌1962年「週刊少年サンデー」で「おそ松くん」、「りぼん」で「ひみつのアッコちゃん」の連載を開始し、一躍人気作家となり、1964年(昭和39年)、「おそ松くん」で第10回小学館漫画賞受賞しました。

そして、1967年「週刊少年マガジン」で「天才バカボン」を発表、「週刊少年サンデー」でも「もーれつア太郎」を発表して天才ギャグ作家として時代の寵児となりました。さらには、代表作である「ひみつのアッコちゃん」「もーれつア太郎」は1969年に、また「天才バカボン」は1971年にと、代表作が相次いでテレビアニメ化されました。

以後2010年現在までに「天才バカボン」は4度、「ひみつのアッコちゃん」は3度、「おそ松くん」「もーれつア太郎」が2度にわたりテレビアニメ化されています。

1975年(昭和50年)、バカボンシリーズ第二作目となる「元祖天才バカボン」が日本テレビ系列で放映開始。この時期には漫画家としては最も多忙を極め、週刊誌五本の同時連載をこなす一方で、パロディ漫画におけるパイオニアとして知られた長谷邦夫の紹介によりタモリと出会います。

以後、タモリを中枢とする芸能関係者との交流を深めるようになり、1977年(昭和52年)を境に、ステージパフォーマンスに強い関心を示すようになった赤塚は、テレビの世界に傾倒していくようになり、数多くのイベントを企画・出演するようになりました。

そんな中、1978年(昭和53年)、長らく主力作家として執筆していた「週刊少年サンデー」「週刊少年マガジン」「週刊少年キング」での連載が全て終了。また、同年の「月刊少年マガジン」12月号でも、「天才バカボン」が終了し、以降、執筆活動は縮小傾向を迎えます。

昭和57年、執筆していた週刊誌の最後、「ギャグゲリラ(週刊文春)」の連載が終了。この頃より、酒量が激増するようになりますが、そんな中の昭和62年に再婚。お相手はアルコール依存症に陥った彼のサポートを行っていた、写真家の国玉照雄の元アシスタントの鈴木眞知子。この結婚は先妻・登茂子が後押したもので、保証人も勤めたといいます。

その後も「ひみつのアッコちゃん」や「天才バカボン」「もーれつア太郎」が続々とリメイク放映されるたびに赤塚はその制作に参加し、また新作漫画が「コミックボンボン」を中心とする講談社系児童雑誌に連載を描くなど、健在さを印象付けていましたが、リバイバル路線が終焉を迎えた1991年頃より、更に酒量が増え始めました。

晩年

1997年(平成9年)には第26回日本漫画家協会賞文部大臣賞を受賞。翌年(平成10年)にはついに、紫綬褒章を受章を受賞するに至りますが、同年12月12日、吐血し緊急入院。精密検査の結果、食道がんとの告知を受けました。

医師から「2か月後には食べ物がのどを通らなくなる」と告げられ、「食道を摘出し小腸の一部を食道の代用として移植する」と宣告されましたが、この時も赤塚は「小腸を食道に使ったら、口からウンチが出てきちゃうんじゃないの。」とギャグで返す気丈さを見せといいます。

手術は成功しますが、その後再び悪化し再入院。10時間に及ぶ手術を受け、5か月間の長期入院を余儀なくされ体重は13キロ減少した赤塚ですが、酒とタバコはやめられず、退院後のインタビューでは水割りを片手にインタビューを受けていました。

その後も毎月定期的にアルコール依存症治療の「ウォッシュアウト」のため入院を繰り返していましたが、2000年(平成12年)8月25日、自宅内で転倒して頭部を強打。数時間後に言葉が不明瞭になったため緊急入院。検査の結果、急性硬膜下血腫と診断され、緊急手術を行いましたが、その後は順調に回復し、11月には退院を果たしました。

同年暮れ、点字の漫画絵本「赤塚不二夫のさわる絵本“ よーいどん! ”」を発表。ある日テレビで見た視覚障害を持つ子供たちに笑顔がなかったことにショックを受け、「この子たちを笑わせたい」という思いから制作したもので、この絵本は、点字本としては空前のベストセラーとなり、全国の盲学校に教材として寄贈されました。

2002年(平成14年)4月、検査入院中にトイレで立とうとしたところ、身体が硬直し動けなくなり、脳内出血と診断され、5時間に及ぶ手術。これ以降、一切の創作活動を休止していましたが、その後2004年ごろから意識不明のままの植物状態になりました。

そんな中の2006年(平成18年)7月、赤塚を看病してきた妻の眞知子がクモ膜下出血のため56歳で急死。さらにその2年後の2008年(平成20年)8月2日午後4時55分、赤塚不二夫もまた、肺炎のため東京都文京区の順天堂大学医学部附属・順天堂医院で死去しました。満72歳没。

残したことば

赤塚の葬儀では藤子不二雄A(安孫子素雄)が葬儀委員長を務めることとなり、8月6日に通夜、翌7日に告別式が東京都中野区内にある宝仙寺で営まれました。喪主は長女・りえ子が務め、告別式には漫画・出版関係者や芸能関係者、ファンなど約1200人が参列し、藤子不二雄A、古谷三敏、高井研一郎、北見けんいちらが弔辞を読み上げました。

タモリもまた、本名の“森田一義”として弔辞を読みましたが、この時手にしていた巻紙が白紙であった事が報じられ、話題となりました。その弔辞の最後は「私もあなたの数多くの作品の一つです。」と結ばれていました。

タモリは、1970年代半ばに福岡で赤塚に出会いました。カンパの資金により月1で上京して「素人芸人」として即興芸を披露していたタモリの芸を認めた赤塚は、大分県日田市のボウリング場の支配人であったタモリを上京させました。そして、自らは事務所に仮住まいしながらタモリを自宅に居候させ、物心双方から援助を続けたといいます。

赤塚不二夫の生前の最後の言葉は、倒れた時に偶然、女性の胸に手が触れて際に放ったという、「おっぱいだ、おっぱい」。

原稿に記した最後の文字は「思い出を積み重ねていくのが人生なのよ。イヤーン! H」だったそうです。




金シャチへGO!

先日、名古屋城の敷地内に「金シャチ横丁」なる商業施設がオープンしたそうです。

城周辺で食事や買い物が楽しめる同施設は、河村たかし名古屋市長の肝いりでできたもので、尾張名古屋のシンボルともいえる名古屋城とその周辺の魅力を向上させ、さらに国内および海外からの来訪者に名古屋の魅力をアピールすることを目的とした、といいます。

河村たかし市長は、2010年(平成22年)に、 自身が主導した市議会リコールの署名数が法定数を下回ったとして、名古屋市長を引責辞任しましたが、出直しのために再出馬し、翌年2011年(平成23年)名古屋市長に再選、見事返り咲きました。

その再選にあたり、公約だった名古屋城周辺に再現する城下町構想を推進し、「世界の金シャチ横丁(仮称)」基本構想」を策定。2014年2月には正式名称が「金シャチ横丁」となることが決定しました。

具体的には、「なごやめし」と呼ばれる名古屋名物の食べ物を提供する老舗飲食店や、地元の若手経営者が創作する新しい食文化を提案する飲食店、さらに古くからの伝統工芸品を販売する物販店・お土産物屋が集まっています。

2つの商業施設区域に分けられており、それぞれ異なるコンセプトで形成されていて、正門側は「義直ゾーン」、東門側は「宗春ゾーン」と名付けられています。

「義直ゾーン」は、尾張藩初代藩主・徳川義直にちなんで命名。伝統的な純和風の街並みをイメージし、建物は名古屋城の築城当時にも使われた木曽の材木を使用しています。昔から続く名古屋の食を提供し、名古屋が得意とする伝統工芸に触れる機会を与える情報発信の場ともなるほか、イベント会場などに使用される広場も設けられています。

また、「宗春ゾーン」は、徳川家きっての派手好きで知られた7代藩主・徳川宗春にちなんで命名。義直ゾーンとは差別化し、モダンなデザインを取り入れた建物で構成されます。出店店舗は、若手経営者による意欲的な飲食店が立ち並んでおり、道路に面したテラス席や夜のライトアップなど、おしゃれな空間も演出されます。

オープンしたての施設なので筆者もまだ行ったことがありませんが、ネットを見る限りはなかなか魅力的に仕上がっており、今度名古屋へ行ったらぜひ、立ち寄ってみたいと思います。




天守閣の再建

しかしそれにしても、名古屋って、ここ以外にどんな観光施設があったでしょうか?

私がそう悩むほど、名古屋、といえば何かこれといって行きたい、という場所をあまり思いつきません。かつては、「魅力に欠ける都市第1位」に輝いた?こともあり、あるテレビ番組では、「日本一行きたくない街」などとレッテルを貼られてしまいました。

名古屋市民からも「住む街やから、観光的な魅力はないかも」、「他の都市でここには負けてないってトコがない」といった意見が出るほどで、日本を代表する大都市でありながら、住んでいる市民もやや自嘲気味のようです。

そんな名古屋の中でも、名古屋城周辺というのは、駅にも近く、隣が県庁という立地にあり、開発が進んで賑やかな西側に比べて、どちらかといえば地味な駅東側においては、一番人が集まりそうな場所です。

ただ、名古屋城周辺にはこれまで、固定の飲食店などが非常に少なく、観光の途中で一休みできる場所があまりありませんでした。「金シャチ横丁」のような施設が増えることによって城周辺での滞在時間が増え、長い歴史を持つ名古屋の魅力が再認識されるようになれば、観光の町として一皮むけるかもしれません。



ところが、この「金シャチ横丁」のオープンに水をかけるように、名古屋のシンボル、名古屋城の天守閣が、この5月から閉鎖されることが決まっているそうです。

実は、この名古屋城、従来の鉄筋コンクリート造りの建物を壊し、木造で再建されることになっており、事の発端はやはり川村たかし市長です。

河村氏は、名古屋市長に就任以降、「名古屋を訪れても“行く所が無い”と言われるのはいかんこと。わしは天守閣を木造で再建しようと言う意見ですけど」などと述べ、かねてより、名古屋城の木造復元化に前向きの姿勢を見せていました。

この市長の木造復元化計画に対しては当初、有識者からの厳しい批判がありました。在任が長くなり(今年で9年)、近年影響力が低下していると言われる同市長が注目を浴びるために打ち上げたネタの一つに過ぎず、文化庁への申請もなされていない無理な計画であり、議会を押し切る力もないだろう、といったものです。

その一方で、別の有識者からは、名古屋城は資料が豊富に残る貴重な城であり、木造復元は外国人へのアピールとなる。また、城は外国人観光客が訪れることの多いスポットであり、木造化は外国人観光客への相当なインパクトが見込まれる、といった賛成意見も寄せられました。

こうした中、コンクリートで作られている現在の天守閣の耐震性が現行の建築基準法に適合しないことなども指摘されるようになり、また老朽化も進んでいることなども明らかとなるなど、城の建て替えがより現実味を帯びてきました。

再建築にあたっては、従来のものを耐震補強すればよいという意見もありましたが、新発田城三階櫓(新潟県 2004年)、大洲城天守(愛媛県 2004年)など、近年、全国各地で木造による天守の再建が相次いでおり、名古屋城においても2013年に木造再建の検討結果が示され、その総工費はおよそ500億円と試算されました。

同年、2027年の完成をめどに再建を実施する方針が正式に名古屋市から公表され、2017年3月、自由民主党、民進党、公明党等の賛成多数により名古屋市議会で可決。当面、10億円の木造復元関連予算が支出されることになりました。

さらに、同年4月には川村市長が4選を果たしました。この選挙においては、木造復元に反対する弁護士の岩城正光元名古屋市副市長が出馬したものの河村氏に大差で敗れ、これで木造による天守閣の復元は確実なものとなりました。

5月、名古屋市は優先交渉権者の竹中工務店(大阪市)と基本協定を締結し、当初目標としていた2027年の予定年度よりも大幅な前倒となる、2022年12月の完成を目指し、最大505億円と目される事業がスタートを切りました。

これを受けて名古屋市は、現天守への入場は、今年の5月7日から2022年末の復元完成まで禁止すると正式発表。天守以外はこれまで通り見学できるものの、今後4年に渡って近隣のエリアは立ち入り禁止になるようです。

来年3月には外部エレベーター、9月には天守閣本体の取り壊し始めるそうで、木造復元工事に入るのは、オリンピックの始まる直前の2020年6月からの予定。それに先立つ来年6月頃より、工事に伴う囲いを天守閣まわりに建て始めるとのことです。

この天守閣の木造復元化により、従来の天守閣で展示されていた重要文化財や刀剣や甲冑の展示はできなくなります。しかし、同じく重要文化財の旧本丸御殿障壁画やガラス乾版写真などは西之丸に建設予定の重要文化財等展示施設に移設するといいます。

とはいえ、名古屋市の活性化に向け、せっかく「金シャチ横丁」ができたというのに、それに水をかけるようなこの天守閣の封鎖は、名古屋離れを加速させるのではないか、とする向きもあります。これに対して市は、観光客の減少を食い止めようと、名護屋城跡公園の開園時間の延長や無料化の検討など、さらなる「目玉づくり」を急いでいるといいます。

戦後の急成長時代の中、戦災で焼け落ちた天守などのコンクリートによる再建が日本各地で進みましたが、「城フェチ」の筆者としては、何をそんなに急いでいたのだろう、従来の木造建築で立て直して欲しかったなあ、とかねがね思っていました。なので、今回の木造建築への「回帰」に関しては私的には大賛成です。

先般、1994年にやはり木造建築で再建された掛川城を見学する機会がありましたが、古絵図などの調査に基づいて忠実に再現された同城は素晴らしく、再建されたとは思えないほどの「古さ」を感じました。城の雰囲気というものはやはり、建てられた立地とか、周囲の環境とマッチした「造り」。古きを偲ばせるものはやはり木造だ、と感じたものです。

コンクリートから再度木造によって立て替えられ、新たなスタートを切る名古屋城もまた、現代の名古屋の地に「古きよき時代」の風を吹かせてくれるに違いなく、今後観光に力を入れようとしている名古屋の期待にも応えてくれるに違いありません。その再建に大きく期待したいところです。



名古屋城とは

ところで、この名古屋城ですが、いったいどういう歴史のあるお城なのかということをおさらいしておきましょう。

名古屋城は、大阪城、熊本城とともに日本三名城に数えられ、伊勢音頭にも「伊勢は津でもつ、津は伊勢でもつ、尾張名古屋は城でもつ」と詠われていました。大天守に上げられた金の鯱(金鯱(きんこ))は、城だけでなく名古屋の街の象徴にもなっていることは、みなさんもご存知のとおりです。

名古屋一帯は、その昔、尾張国と呼ばれており、その中心は長らく清須城でした。現名古屋城から北西に直線距離で6kmほど行ったところにあった城で、織田信長が1555年(弘治元年)に、現在の名古屋城の二之丸にあった「那古野城跡」を移設したものです。

現在、清須城跡は開発によって大部分は消失し、さらに東海道本線と東海道新幹線に分断されており、本丸土塁の一部が残るのみですが、天守は、平成元年(1989年)に旧・清洲町の町制100周年を記念して、RC造による模擬天守として再建されています。

その後、信長が本能寺の変で入滅すると、清須城は秀吉配下の福島正則の居城となりました。正則は、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの折りには東軍に加担したため、清須城も東軍の方拠点として利用され、戦後は安芸に転封した福島正則に代わり、徳川家康の四男・松平忠吉が入り、以後、徳川家の居城となりました。

しかし、水害に弱い清須の地形の問題などから、徳川家康は1609年(慶長14年)に、九男義直の尾張藩の居城として、名古屋に新たに城を築くことを決定。1610年(慶長15年)、西国諸大名を主体とした天下普請で築城が開始されました。

石垣は諸大名の分担によって築かれましたが、中でも高度な技術を要した天守台石垣は、城造りの名手といわれた加藤清正がこれを主導しました。清正は、九州などの外様大名に激飛ばして巨大な石垣石を負担させ、各大名が刻印を打って運ばれてきた石の積み上げには延べ558万人の工事役夫が動員され、土台は僅か1年足らずで完成したといいます。

そのあと、天守の築造が始まり、1612年(慶長17年)後半までにはほぼ完成しました。
大天守は層塔型で5層5階、地下1階、その高さは55.6メートル(天守台19.5メートル、建屋36.1メートル)と、現代の18階建て高層建築に相当するものでした。

高さでは江戸城や徳川大坂城の天守に及ばなかったものの、延べ床面積では4,424.5m2に及ぶ史上最大規模の城で、体積では姫路城天守の約2.5倍もありました。

その落成にあたり、大天守の屋根の上には徳川家の威光を表すためのものとして、天守の屋根に据え付けられたのが、金の板を貼り付けた金鯱(金のしゃちほこ)です。

その後、江戸期を通じて、本丸御殿、二之丸、西之丸、御深井丸、三之丸などが次々と完成するとともに、外堀や内堀なども整備され、現在の名古屋城跡公園を形作る全体の城郭は17世紀前半までにはほぼ完成したようです。

維新後は、1872年(明治5年)に東京鎮台第三分営が城内に置かれ、1873年(明治6年)には名古屋鎮台となり、1888年(明治21年)に第三師団に改組され、第二次大戦が終わるまで陸軍が統治していました。

ただ、本丸だけは、1893年(明治26年)、陸軍省から宮内省に移管され、名古屋離宮と称されていましたが、その後名古屋離宮は1930年(昭和5年)に廃止されることになり、宮内省から名古屋市に下賜されました。

太平洋戦争時には、空襲から本丸の金鯱を守るために地上へ下ろしたり、障壁画を疎開させるなどしていましたが、1945年(昭和20年)5月14日の名古屋空襲によりついに焼失。焼夷弾が、金鯱を下ろすために設けられていた工事用足場に引っかかり、そこから引火したといわれています。

この天守は1612年(慶長17年)の完成後、何度かの震災、大火から免れ、推定マグニチュード8.0の濃尾地震(明治24年)にも耐えました。しかし、この空襲ではついに持ちこたえることができず、ほかにも本丸御殿、大天守、小天守、東北隅櫓、正門、金鯱などが焼夷弾の直撃を受けて失われました。

戦後、三之丸を除く城跡のガラクタは片付けられ、北東にあった低湿地跡と併せ「名城公園」の名で公開されました。園内には、戦災を免れた3棟の櫓と3棟の門、二之丸庭園の一部が残り、また三之丸を含め土塁・堀・門の桝形などは比較的良好な状態で残りました。

1957年(昭和32年)、名古屋市制70周年記念事業と位置づけられて天守の再建が開始。このときも、再建天守を木造とするか否かで議論がありましたが、鉄骨鉄筋コンクリート構造(SRC造)で再建することが決定。焼失で傷んだ石垣自体に建物の重量をかけないよう配慮するため、天守台石垣内にケーソン基礎を新設し、その上に再建されました。

天守は1959年(昭和34年)に完成。以後、復元された金鯱とともに名古屋市のシンボルとなりましたが、竣工からはや60年を経るまでになり、近年老朽化が目立っていました。ちなみに、当初工事を請け負ったのは、同じく鉄筋コンクリート造りの会津若松城や、木造復元の白石城、伊予大洲城などの再建で知られる「間組」でした。

再建天守は5層7階、城内と石垣の外側にはエレベータがそれぞれ設置されており、車椅子でも5階まで上がることができるバリアフリー構造となっています。外観はほぼ忠実に再現されましたが、最上層の窓は展望窓としてつくりかえたため、焼失前より大きなものとなり、このためオリジナルと同じにした下層の窓とは意匠が異なります。

RC造りとはいえ、ちょうど昭和の高度成長期に入ろうかという時代に再建されたこの天守は、長らく名古屋のシンボルとして親しまれてきました。とくにその頂に置かれた金鯱は名古屋の象徴とも言ってよく、西区に本社を置く、スタンプメーカーのシヤチハタもこれを由来にするとともに、かつては「名古屋金鯱軍」というプロ野球チームもありました。

本丸御殿の完成

木造による再建が完了までは、このシャチホコも天守もしばらくその雄姿をみることができなくなりますが、一方では、本丸に隣接する「本丸御殿」が、もうすぐ完成します。

既に2008年から復元工事に入っており、この6月にも完成する予定の「本丸御殿」は、城主(藩主)が居住する御殿で、将軍、秀忠、家光、家茂の3人が上洛の途中に宿泊したこともある由緒ある建物です。

本丸と同じく戦時中に消失しましたが、こちらも創建当初の柿葺(こけらぶき)を再現する形で、今年中の全体公開を目指して総工費150億円が投じられて復元されています。杮葺とは、木材の薄板を用いて屋根を葺く工法で、通常は火に強い瓦葺が用いられますが、この本丸御殿には「迎賓館」としての優雅さを演出するために用いられていました。

御成専用としただけあって、その豪華さは当時の二条城本丸御殿に匹敵したといい、3つの書院ほか、大小合わせて14~15もの建物群からなります。これら殿舎等はすべて第二次世界大戦の空襲で失われましたが、内部にあった障壁画のうち移動可能な襖などは取り外して倉庫に収められていたため焼失を免れ、戦後重要文化財に指定、保存されていました。

完成した本丸御殿とともに、これら文化財も同時公開されるようですが、今のところ、その予定は6月8日だとか。改築のために「本丸ロス」になりかねない名護屋城跡公園にとっては救世主であり、また新たに完成した「金シャチ横丁」とともに、「新生名古屋」を盛り上げる立役者として活躍してくれそうです。




実は見どころいっぱいの名古屋

冒頭では名古屋には何もない、などと書きましたが、実はこのほかにも名古屋にはまだまだたくさん見どころがあります。

そのひとつ、熱田神宮もまた観光の名所として有名です。三種の神器の一つ草薙剣を祭神とする由緒ある古社で、境内は広く、「日本三大土塀」の一つとされる「信長塀」や「日本三大灯籠」として知られる巨大な「佐久間灯篭」など見どころがはたくさんあります。

名古屋城より少し離れていますが(南へ約7km)、名古屋駅からは名鉄名古屋本線を使ってわずか10分でアクセスできます。

また、名古屋といえば、「トヨタ」です。名古屋城から西へわずか2kmほどのところにある「トヨタ産業技術記念館」は、トヨタが明治44年(1911年)に創設した試験工場跡地と建物を利用して開設した博物館で、隠れた人気があります。

繊維機械館と自動車館から成り、繊維機械館ではグループの原点となった紡績業で実際に使用された歴代の紡績機械などを展示しており、紡績技術の発展を学ぶことができます。また、自動車館は自動車事業創業期、自動車のしくみと構成部品、開発技術、生産技術の4ゾーンに分かれており、トヨタの自動車づくりをさまざまな角度から紹介しています。

さらに、イケメンゴリラ「シャバーニ」で有名になった「東山動植物園」もあります。こちらは少々遠く、名古屋駅から地下鉄東山線で40分ほど東へ行ったところになります。

展示種類数日本一を誇るこの動物園は、愛知県民から最も愛されている人気スポットで、60haもの敷地に動物園だけでなく、植物園、遊園地、東山スカイタワーなどもあり、一日いてもあきないほど魅力的な施設にあふれています。

そろそろ桜も終わり、新緑の季節に入ります。今年の大型連休は、いまもっともトレンディーな街に生まれ変わりつつある、名古屋を目指してみてはいかがでしょうか。

人事異動の季節に

3月は、人事異動の季節です。

ここ伊豆のような地方でも、地元新聞をみると、どこそこの市町村でどういった人事異動があったか、といった細かい記事が載ります。

際立って大きな産業がない土地柄ゆえ、官公庁のお役人の動向が、地元の産業の行方に影響を与えやすいということがあるからでしょうが、都道府県レベルの新聞でも県職員の移動状況などが新聞に掲載されたりします。また、大手の経済新聞などでは、大企業の管理職のその年の移動状況などが掲載されたりもします。

いわば春の恒例事業のようなかんじであり、もう慣れっこになっている、という人も多いでしょうが、こうした人事異動というのは、いったいいつ頃からあるのでしょうか。

日本企業の人事異動の慣行は、江戸時代の参勤交代制度から来ているのではないか、という人もいるようです。いわずもがなですが、参勤交代とは、各藩の正室と世継ぎを人質として江戸に残し、多くの藩士を引き連れて、大名が一年おきに江戸と自領を行き来することを定めた制度です。

その移動のためには莫大な金がかかるため、当然、遠方の藩ほど不利になります。強大な力を持つ藩ほど外様に置く、というのがこのシステムの巧妙なところで、それによってその強大な勢力を長年にわたってそがせることができたわけです。

無駄な移動を義務付け、長期間家族から離れて住ませることを習慣化する、というこうしたシステムは、徳川250年に渡って続き、確立されました。そうした慣例の一部が明治政府の成立以後も引き継がれたのではないか、という説は、正しいのかもしれません。

もっとも、明治政府の人事異動が参勤交代制度と関係していた、という証拠は何もないわけですが、少なくとも地方の人間と中央の人間を入れ替えることのメリット、というのは新政府も感じていたのではないでしょうか。

ひとつには、地方の情勢がわかるし、逆に中央の人間を地方に派遣することによって、中央の権威を全国に知らしめる、ということができるわけで、成立間もない脆弱な政府にとっての人事異動にはそれなりの効果があったはずです。その成果に味を占め、以後、国家ぐるみで人の異動が現在に至るまで続いている、とうのが私の推測です。

これが当たっている、当たっていないにせよ、そろそろこうした習慣は時代遅れなのではないか、思うわけですが、その理由は、明治維新以後、150年を経た現代の官僚社会、あるいは日本企業における環境は、海外との関わり、という一点においてだけでも著しく変わってきており、諸外国にも例をみないこうした制度がいかにも古臭く見えるためです。

現在における、役所や会社が人事管理戦略の中核的な要素の一つとして人事異動を実施する理由を考えてみたとき、主には以下のようなものがあげられます。

①能力開発や後進の育成、人事面での活性化
本人の能力を伸ばし、ゆくゆくは組織のトップを担ってもらうためには、事業のすべての分野と機能を経験する必要がある、とする考え方です。たとえトップにならなくても、優秀なジェネラリストを育成したいのはどこの企業も希望するところではあります。コスト面を考えれば、一人の人間が多数の仕事をこなせるほうが効率的、というわけです。

②マンネリ化を防ぐため
人事異動することで組織員に新しい刺激を与え、マンネリを防ぐ、というのがもうひとつの理由です。一つの業務に長期間携わることによって発生する慢心の防止、あるいは取引先との不正防止といった側面もあり、人事異動によって常に組織をリフレッシュさせておきたい、という理想はどこの組織にもあるでしょう。

③不平等をなくすため
地方への転勤にあたっては、当然“人気のある都市“や”不人気な僻地“があります。同じ場所に長期間勤務させず、定期的に交代させれば、不平不満をなるべく公平化できる、という考え方があり、多くは2~3年、長期でも5年程度で入れ替えが行われます。

ただ、問題を起こした人物に対する懲戒としたり、会社に不都合な人物を僻地にやる、という場合もあり、この種の転勤はいわゆる「左遷」です。逆に、活躍が認められ、地方の大都市や大きな部署に異動となることがあり、これを「栄転」とも呼びます。




人事異動のデメリット

以上がだいたい人事異動の目的といわれていることですが、では、そのデメリットとは何でしょうか。近年日本も国際化が進み、こうした人事異動を毎年恒例行事のようにやっていては、いずれ先細りになる、大きな改革を、と叫ぶ声が官民ともに高くなってきました。その理由について、上の3つについてそれぞれみていきましょう。

①能力開発や後進の育成、人事面での活性化?
近年、どんな業種においても、ビジネスが専門化する傾向にあります。ひとつの業種を掘り下げることで、より付加価値を見出していく、といった方向に舵を切る業態も多く、従来のように、様々な事業を経験し、幅広い知識を持つ社員を多数育てることがはたして企業にとって重要か、という疑問が出てきています。

同じ分野の部署に継続的に勤務させ、より深いスキルと経験を養わせる、いわば昔からの職人を養成するようなやり方がむしろ必要になのではないか、という声が高まってきているようです。

2~3年おきに職務を転々と異動するだけでは、浅薄な知識と技能しか蓄積できません。専門スキルの欠如は、とくに、今後世界の企業と渡り合っていく上で必要とされる分野においては、効率と技能における大きなネガティブ要素を与えることになります。

②マンネリ化を防ぐため?
マンネリ化を防ぐために人事異動を行う、という現在の体制は、日本固有の社会風土、終身雇用の慣習に基づいていると思われます。新しい職に就いて新たな挑戦に直面し、新たな物事を学べば、チームは新しいアイディアの恩恵を受ける、というわけで、言葉を変えればうまく組織レベルの「気分転換」をやっているわけです。

これによって組織内部における公平性を保ち、不平不満を和らげることで長期雇用を実現してきたわけで、極めて日本的な発想です。業績の上がらない社員は、別の仕事で業績を上げる機会が与えられる、という側面もあり、企業がそのような入れ替わりの機会を提供することで、従来はマンネリ化を防ぐことができる、とされてきました。

しかし、うまくやって行けない社員は隔離されるということが起き、また業績不振の社員をたらい回しにするというこが行われるようになってきており、こうした処遇は逆に、組織の別の部門に負担を与えることになります。

近年、パワハラやセクハラといった、強者による弱者の「いじめ」が社会問題化しており、こうした問題を放置し続ける組織における人事異動は、けっして業績向上につながることはないでしょう。

③不平等をなくすため?
地方転勤を伴う人事異動に関する大きな問題のひとつとしては、 家族を残して単身赴任する、というケースが多くなることです。日本ではそれがあまりにも普通のことですが、英語には「単身赴任」に相当する言葉すら存在しません。

総務省の統計によれば、日本の企業社員人口全体における単身赴任者数は約2%ほどだそうで、年々増加しており、現在では100万人を超えるといいます。単身赴任による家族の分離は、本人と家族の両方のストレスになりますが、また多くの場合、二世帯分の家賃を払わなければならず、収入面でも大きな負担になります。



海外との関わりが増える中で

以上のように、現代日本の人事異動は大きな問題を抱えていると思われますが、このほかにも、人事異動があるたびに、各組織で長年関わってきたプロジェクトや顧客との関係が壊れる、ということがあります。

事業の継続性が失われ、仕事が中断されだけでなく、異動によってこれまでにまったく経験したことのないような分野を担うことになり、大きなストレスを感じながら仕事を継続している、という人も多いでしょう。

日本では企業だけでなく、官公庁でも、同一の人間に多数の職務を経験させることを是としており、一人の人間に豊富な経験と特別な教育を施して、専門家として育てる、といった海外のようなやり方は行われていません。

競争社会に生き残るためだ、と称して、社員に短期間で一から学ぶことを強いている組織も多く、よくあれだけのことを短時間で覚えられるな、という職場をよくみることがあります。

短時間で知識を押し込むということは、非効率であるだけでなく、非常にストレスの溜まることでもあり、やる気の低下にも繋がりかねないわけで、場合によっては学習不消化のまま現場に送りだされることもあります。顧客や同僚にとって、仕事がわかっていないスタッフとやりとりしなければならないことは、大きな弊害といえるでしょう。

以上のような人事異動に関する問題は、異動の際の引継ぎのプロセスのプログラム化で補うことができる、とはよくいわれることですが、前任者から後任者への重要な情報とスキルの引継ぎを行う、といったことは単純に明文化できるようなものではなく、ある種の「フィーリング」に拠るところも多いものです。

引き継ぎがうまくいった場合は、その人事異動は成功しますが、大抵の場合、異動を機にして業務の中断が起き、直後に深刻な効率の低下が起こることも多く、とくに人身を預かるような分野では、重要な事柄が見落とされることで大きな事故がおきる、といったこともあります。

近年、日本の職場風土もかなり国際化が進み、外国人と一緒の職場にいる、という人も増えていると思いますが、そうした同僚のみならず、海外の顧客との取引においても、人事異動によって背景を充分に知らずに出たり入ったりする社員と仕事をしなければならないことは、大きなフラストレーションとなっているようです。





アメリカにおける人事

では、そうした取引の中でも最も多いと思われるアメリカの人事異動、というのはどうなっているのでしょうか。

これについてはまず、アメリカでは日本のような「年功序列」といった風土はなく、伝統的に「職務等級制度」が根付いています。

これはどういうことかといえば、たとえば、ひとつの製品を作る技術部門があったとします。一つの製品を作るためには、基本的なコンセプトの企画・構想から始まって、ラフデザイン、ディティールデザイン、試作、製造、検品、販売、といった風に手順を追って製品化していくわけですが、通常はそれぞれの分野におけるエキスパートが存在します。

また、それぞれの分野においても、新入社員のようなスキルがまだ未熟な人間から、中級クラス、上級クラス、監督クラス、といったレベルがあるわけであり、アメリカではこうした各分野において、職務レベルの分析を行って等級(グレード)を設定するのが普通です。

こうした明確化された職務とそれに紐付けられた等級に最も適合する人材を社内あるいは社外から公募で探し出して、職務に据える、というやり方をとっており、各職務の給与レベルは、会社のある地域や同業他社の給与調査結果を基にしてそのレンジが決められていくというのが最も一般的です。

ということは、日本のような年功序列社会における全社共通の基準というのは、アメリカの会社の中には存在しないということになります。つまり、デザイン部門の課長の給与レベルと製造部門の課長の給与レベルは、決して同じではないのが普通であり、日本のように同じ課長だから、給料は同じ、ということはまずありえない、ということです。

こうした事情があるため、社内での異動というのは現実的ではなく、むしろほぼ不可能に近いといってよく、デザイン部門の課長はデザインで磨き上げてきたスキルや実績があるからこそ、その部門の長になっているであり、もしこれが製造部門に異動になった場合は、そこの課長として必要とされる要件を満たしていないので、不適格ということになります。

従って、アメリカでは、日本のように辞令一枚だけで、一方的に異動・転勤させる、といったやり方をしている民間企業はほとんどなく、人事異動というのは、せいぜい官僚組織や軍隊ぐらいが行っているだけなのではないかと思われます。

ただ、例外がないわけではなく、社員に転勤を伴う異動を打診することもあります。が、そのような場合でも強制ではなく、転勤せずにその地に残り続けることも選択肢に入っており、本人には転勤または現在の場所に居続けるかどうかを判断する権利、また自由が認められていることがほとんどです。

ただし、転勤を選ばずに今の場所に居残る選択をした場合は、転勤によって発生する昇進や昇給といったアドバンテージは、はなから棒に振ることになります。

しかし、それはむしろ当然のこととして、社員も納得済みのことがほとんどです。転勤して昇進したり昇給したりするよりも、自分の家族や友達のいる現在の居場所に暮らし続けたいというのは、大きな変化を望まない、今の生活環境を守りたい、と考える人にとってはあたりまえのことです。

このあたりのことは、最近日本でも増えていて、地方へ転勤させられるのが嫌だから会社を辞めて転職した、というケースが多々あるようです。ただ、アメリカのように職務等級制度が一般化していないため、別の会社に移っても前の会社でのスキルが認められず、給料が下がる、といったケースがあります。

アメリアの民間会社では、日本以上に社員の生活基盤や家族・友人関係に重きを置く傾向が強く、日本のように辞令一本で移動させる、ということは難しくなっています。

また、アメリカは日本のように均一化した国民性を持っているわけではなく、人種のるつぼといわれるほどに多様な人種が住んでいるので、人の思考や論理も非常に多様化していて、それこそ千差万別、十人十色です。このような社会で、日本のように毎年年度末に人事異動を整然と行う、ということはまったく現実的ではありません。

アメリカだけでなく、おそらく多くの欧米諸国も同じような事情であり、人事異動という文化は世界的にみても、かなり珍しい制度ではないでしょうか。

国際化の中での新しい人事交流を

しかし、そうした日本社会に入り込んでくる外国人も増えてきており、とくに海外に支店などを置く日系企業へ入社する人も増えてきているようです。そうした人の中には、せっかく自分は日系企業に勤めているのだから、一度は日本で仕事をしてみたい、日本で暮らしてみたいと思っている外国人も多いようです。

最近はよく日本ブームということがいわれているようで、実は日本人が考えている以上に日本で働いてみたい、と考えている外国人が増えていると思われます。日本に来れば、人事異動があるよ、と押し付けるのではなく、相手の気持ちや希望、境遇を尊重した人事を行うのであれば、日本行きに手を挙げる外国人は多いと思われます。

「グローバル人事」が昨今の流行り言葉となっています。日本行きに手を挙げた外国に強力な戦力として十分な力を発揮してもらうことができ、それにあわせた評価と処遇を行うことこそが、優れたグローバル人事といえます。

一方で、従来からの日本的な人事異動は、専門的な人材を育てず、ビジネスの阻害になること多くなってきており、こうした状況が長く続けば、いずれは日本企業は弱体化していく、という見方をする専門家も増えているようです。

いまこそ旧来の人事異動制度を見直し、グローバル人事へとパラダイムシフトしていくことこそが、日本の生き残る道なのかもしれません。



そうだ、八ヶ岳へ行こう!

先日、八ヶ岳で痛ましい遭難事件がありました。

長野県の八ヶ岳連峰・阿弥陀岳でのことであり、3人が死亡し、4人が重軽傷を負った滑落現場は、過去にも死者が出たことのある「難ルート」として知られていたそうです。

八ヶ岳の最高峰は、赤岳・2,899 mで、これに次ぐのが横岳・2,829 m、そして、先日事故の起こった阿弥陀岳 ・2,805 m、四番目が硫黄岳 ・2,760 mとなります。これらの峰々は、南北に連なる連峰の真ん中よりもやや南側に集中しており、なかでも、横岳・硫黄岳・阿弥陀岳の三つは急峻な地形を持つ、非常に鋭い山峰です。

日本有数のロッククライミングの岩場として知られ、また冬場は氷瀑のアイスクライミングの場とてしても有名です。

それだけに、冬季に素人が入れるような山ではありません。こうした場所への冬登山は、危険を伴ない、従来からも遭難者も多いことから、それなりの熟練した登山家しか立ち入らない、立ち入れない、ということで暗黙の了解があったはずです。

詳しいことはまだわかりませんが、そうしたところへ入ったということは、冬山登山に関してはそれなりの実力を持った人たちだった、と考えていいのでしょう。で、なかったとすれば、かなり無謀な冒険だったのかもしれません。

一歩誤れば即、死が待っている、といってもおかしくない危険個所も多く、夏山ならどうってこともないような場所でも、天候の悪化によって、著しく危険な環境に豹変することもあります。

最悪なのはやはり、今回のような滑落であり、その多くが「即死」を意味します。「滑落遭難」という用語があるほどで、足を踏み外して滑り落ちれば、しばしば死に直結します。滑落の途中、固い岩などにぶつかる可能性が高く、数百m以上落ちれば、さらに死の危険が大きくなり、また落下距離が小さくても頭部を打てば致命傷になります。

ただ、聞くところによると、今回の事故での死亡者の直接の死因は、滑落によって生じた小規模な雪崩に巻き込まれての窒息死だった、といわれているようです。

また、そもそもは複数の人間が滑落しないように、ザイルで互いを結び合って予防していたはずなのに、それが起きてしまった、ということに関しては、ここ数日の暖かさによって雪氷に固定した確保鋲(ハーケン)が効かなかったということなどが考えられているようです。

しかし、それ以外にも、事前の準備不足や、この登山に参加していた方たちの力量の問題もあったのかもしれません。そうした場合の遭難の原因には様々なものが考えられますが、主なものを挙げると、以下のようなものがあるようです。

登山に対するあなどり(「自分だけは遭難しないだろう」という思いこみ)、があった
登山前に当然行うべき、山の綿密な調査の不実行・不足
登山前に用意しておくべき装備の不備
自分の体力以上の山への無謀な挑戦(体力・筋力トレーニングの不実行・不足)
リーダーシップ、及びフォロワーシップの欠如、もしくは不足

過去の多くの事例では、リーダー、もしくはメンバーが、自己や周囲の状態を冷静沈着に把握していなかったために、遭難に巻き込まれたというケースが多いようです。極端な荒天、メンバーの怪我、滑落、落石などなど、何らかの重大な困難に遭遇すると、多くの場合、判断能力を失います。

様々な状況がありえますが、一般的には、こうした困難に直面した場合には前には進まないほうがよい、と言われているようです。今回の遭難においても、はたして先頭を進んでいて滑落した、とされる人物がどのような判断をしていたのかが問われるのかもしれません。

その方が亡くなったのかどうかまだよくわかりませんが、そうだとすれば、あちらの世界で今、この事故のことをどう振り返っているでしょう。

何はともあれ、まずは、亡くなった方々のご冥福をお祈りしたいと思います。また、これからは、いわゆる春山登山の時期ですが、この時期の登山は融雪による重大事故が起こりやすい環境です。くれぐれも気をつけて頂きたいと思います。

八ヶ岳伝説




さて、悲しい話はこれぐらいにしましょう。

この八ヶ岳ですが、山梨県と長野県にまたがる、南北に細長い山体で、元々は火山とみられています。

と、いっても一連の噴火は、人類の有史以前のことであり、確実な噴火記録は残っていません。活動時期は、約130万年前に始まり、数十万年前に明瞭な活動休止期・侵食期を挟んで現在のような形になったと考えられています。

南の編笠山から北の蓼科山まで、南北約21 kmもの長さがあり、その昔は多数の噴出口がある「火山列」だったそうです。活動時期や噴出物の特徴などから、山塊中央部から、やや南に下がった位置にある、「夏沢峠」を境にして北八ヶ岳、南八ヶ岳などと分類して呼ばれます。

八ヶ岳は日本百名山のひとつにも数えられています。ただ、その対象は、南八ヶ岳であり、北八ヶ岳は入っていないようです。八ヶ岳連峰全体の中では、北八ヶ岳に位置する蓼科山も日本百名山に選ばれています。

「八ヶ岳」の「八」の由来ですが、「八百万(やおろず)」などと同じように、山が「たくさんある」という意味で「八」にしたのではないかといわれています。また、幾重もの谷筋が見える姿を「谷戸(やと)」といいますから、これから八が導かれたという説もあるようです。

八つの頂きがある、ということなのですが、実際には、山、岳、峠といった呼称の峰々を合わせれば15もの峰があり、ある意味では小さな山脈といってもいいほどの規模です。

このようなバラバラな形になったのは、そもそも富士山と背比べをした結果だ、という神話があります。

あるとき、すぐ近くにあり、お互い意識し合っていた富士山と八ヶ岳が、どちらが日本一背が高いか優劣を決めよう、背比べをしよう、ということになりました。

その方法として、両者の頂上に筒を置いて水を流し、どちらに流れるかを試せばいい、ということになりました。その調停役を買った神様は、さっそく、近くにあった竹藪から最も太くて長い竹を切りだし、両者の頂のあいだにかけ、水を流してみることにしました。

実はこのころはまだ両者の高さは、ほぼ同じであり、どちらが高いとは、はっきりとはわかりませんでした。しかし、神様が筒を掛け、水を流してみると、するすると富士山のほうに流れていくではありませんか。

目の上の水が自分の方に流れてくるのを見た富士山は、その瞬間、負けた!と思い、すぐさま立ち上がって、筒を手に持ち、おもいっきり八ヶ岳をひっぱたたきました。

殴ったのではなく、「蹴り飛ばした」という話もあるようですが、いずれにせよ、富士山のバカ力で叩かれた八ヶ岳の頭は、こなごなになって砕け散り、今のような八つの峰々になってしまいました。

神様がちょっと目を離したすきに起きたことであり、それを神様が見ていなかったことをいいことに、富士山はそしらぬ顔をして、神様にもう一度、高さを試してみてください、と言いました。何も知らない神様は、筒の中の水が、今度は八ヶ岳のほうに流れていくのをみて、日本一の山は富士山だ、と宣言しました。

こうして、現在に至るまで、日本一の山は富士山、ということになりました。

この話にはさらに続きがあります。この叩かれた八ヶ岳には妹がいました。北側に位置する蓼科山であり、富士山にぶちのめされて粉々の八つの峰になってしまった兄を見て、蓼科山は悲しくて悲しくて「えんえん」と泣きました。その妹の流した涙が川になり、やがて麓の平な場所に貯まって大きな湖になりました。

その湖こそが、今の諏訪湖であり、なるほど現在の地図をみると、八ヶ岳のすぐ西側には、妹の蓼科が流した涙によって満々と水をたたえた湖水が広がります。

このように、八ヶ岳は昔からよく神話に登場します。前述のとおり、八ヶ岳の最高峰の赤岳ですが、これは国常立尊(くにのとこたちのみこと)とされ、「日本書紀」では天地開闢の際に出現した神であり、「純男」の神であると記しています。

その意味は、「陽気のみを受けて生まれた神で、全く陰気を受けない純粋な男性」であり、なるほど、その山容は南麓の長坂方面から仰ぐと、ヨーロッパ・アルプスのアイガーに似て、勇壮そのものです。

山体そのものが赤岳神社とされていますが、山麓の長野県茅野市には、「赤岳神社里宮」が建てられ、「赤岳講」と呼ばれる講も組織されて、昔から現在に至るまで信者による信仰も根強いといいます。こうしたこともあり、八ヶ岳周辺には神話や修験等に由来する石祠や石碑などが多いようです。



初心者がいくなら

八ヶ岳は南北両方のほとんどのエリアが、八ヶ岳中信高原国定公園に指定されています。

広大な裾野には、東側の清里高原や野辺山高原、西側の富士見高原や、北方の蓼科高原などが広がっており、夏の冷涼な気候を利用してレタスやキャベツなどの高原野菜の栽培が行われています。

山麓には伏流水が湧くためでしょうか、特に西南側の裾野一帯にかけて縄文時代の遺跡が濃密に分布しており、長野県側では井戸尻遺跡や尖石遺跡、山梨県側では金生遺跡や青木遺跡、天神遺跡といった多数の遺跡があります。

山梨県側では、大泉歴史民俗資料館、長野県側では井戸尻考古館といった、これらの遺跡を紹介している博物館、資料館も複数存在するので、こうしたところを訪ねて、太古を偲んでみるのも楽しいかもしれません。四季折々に各遺跡を巡るツアーなども開催されているようです。

八ヶ岳の登山ルートとしては、これだけたくさんの山塊があるため、数限りないものがあるようですが、やはり最高峰の赤岳は人気があるようです。ただ、赤岳のある南八ヶ岳はいわゆる「岩稜の世界」であり、夏山でもマニアや体力に自信のある人でないと難しい山といわれているようです。

それにひきかえ北八ヶ岳は登山道も比較的歩き易く、クサリ場や鉄はしご等も少なくのんびり山旅を楽しむことができるようです。なので、初心者の方は北八ヶ岳を中心に登山ルートを検討してみてはどうでしょうか。

とくに、北八ヶ岳の一番一番南側に位置する天狗岳はし、北八ヶ岳の最高峰でありながら、比較的初心者にもアプローチしやすい山のようです。北八ヶ岳にあっては、急峻な山容を呈しているとは言え、南八ヶ岳のそれと比べると、はるかに穏やかな山だということです。天狗岳へ登り上げる数多くのルートすべてにおいて危険個所はほぼ無いそうです。

北八ヶ岳ロープウェイ

しかしそれでも、歩いて登るのはな~という人は、蓼科方面に出かけてみてはどうでしょうか。蓼科山は、北八ヶ岳の最北端に位置する山ですが、その南西側には、蓼科高原と呼ばれる高原が広がっており、ここからは北に蓼科山、東に八ヶ岳を望むことができます。

レジャー施設が多いほか、国道152号、国道299号、ビーナスライン(旧蓼科有料道路)が高原を縦横に貫き、ドライブコースとしても好眺望を楽しめますが、筆者のおすすめは、「北八ヶ岳ロープウェイ」です。

100人乗りの大型ロープウェイで、標高1,771mの山麓(さんろく)駅は、北八ヶ岳の峰のひとつ、標高2,403 mの縞枯山(しまがれやま)の南西に位置します。ここから標高2,237mの坪庭(つぼにわ)駅まで約7分間で行く空中散歩はすばらしく、また、山頂駅には自然が造り出した芸術「坪庭」が広がります。

苔や高山植物などが長い年月をかけて生い茂り、自然に出来た植生帯で、「坪庭」とはもともとは、盆栽などを飾ったこじんまりとした日本庭園のことを指しますが、決してそんなに小さなものではありません。1周30分~40分ほどの散策路には、自然そのままの高山植物が季節毎に咲き、訪れる人々を魅了します。

また、ロープウェイを利用することによって、北八ヶ岳周辺の登山が容易になります。特にロープウェイ山頂駅からの「北横岳」登山ルートは、老若を問わずに人気があるようです。

無論、坪庭駅に併設されている展望台から、日本アルプスの絶景が楽しめます。うれしいことに展望台までは車いすでご移動可能(夏季のみ)だそうで、足の悪いご家族と一緒に行くこともできそうです。

さらに、ロープウエイから右上に見える「縞枯山」は、その名の通り山の斜面が「縞枯れ現象」で覆われている山です。この縞枯れ現象は本州中部のあちこちで見ることできるようですが、この北八ヶ岳が最も有名で、学術的にも大変貴重なものとして注目されています。

複数の研究機関が現在も継続研究中とのことですが、何故このような縞枯れが起こるのかハッキリとした原因の特定は出来ていないといいます。

ロープウェイの利用は、中学生以上の往復が¥1,900、片道が¥1,000(同、子供 ¥950 ¥500)(2018年3月現在)。

近くには、白樺湖や蓼科湖、白樺リゾート池の平ファミリーランドといった施設もあり、春スキーができるスキー場もたくさんあるようです。今年は寒かったので、5月の連休あたりまでもスキーができるところがあるのではないでしょうか。

サクラが終わったら、もうすぐ大型連休。今年は八ヶ岳へお出かけしてみてはいかがでしょうか。