バシャールになる日

梅の花が咲く季節になりました。我が家にほど近いところにある修善寺梅林でも、梅のほころびが5~6分ほどになっています。

富士山が見えるなど眺めがよいこともあり、ここにはよく散歩に出かけるのですが、それにしてもこの梅林はいつ頃がからここにあるのかな、とふと気になったので調べてみました。

すると、この梅園の隣にある「修善寺自然公園」が1924(大正13)年に開園したことがわかりました。当時の修善寺町の町制施行記念事業として、もみじや赤松が植樹されたようで、これはその後1967(昭和42)年に再整備され、そのとき「民間所有の梅林」を加えて管理するようになったということです。

この「民間所有の梅林」が修善寺梅林のことのようです。がそれにしても、これがいつ造成されたのか、については手がかりがありません。ただ、「修善寺自然公園」が最初に整備されたのと同時期に造成されたのかな、と推測されます、

仮にそれが大正13年だとすると、今年で97年となり、園内の最古の梅の木は100年ほどだということなので、年代的にはだいたい一致します。はっきりとした開設の時期は特定できませんでしたが、1世紀にも渡る歴史があるものだとわかり、妙に納得した気分です。

しかし、伊豆最古の温泉と言われる修善寺温泉はそれ以上の歴史があります。平安初期に開かれたといいますから、1000年以上の歴史があることになります。梅林も100年という長い年月を経ているとはいえ、それと比べればごくごく新しいものということになります。

そういうふうに考えてくると、時を測る尺度というものはまことに遠大なものだなと感じます。

人類の起源はさらに古く600~700万年前くらいだそうです。これに対して地球ができたのは、45億年前だといいますから人類の歴史はそのわずか数パーセントです。人生80年といいますが、それはさらに短く、地球の歴史の長さに比べれば朝露が消えるがごとくのはかなさです。




そんな短い人生を送って何になるんだろう、とついつい思ってしまいがちですが、問題は時間の長い短いではなく、いかにその時間を過ごしたか、というその中身ではないでしょうか。

「今は過去の積み重ね、未来は今の積み重ね」とよく言います。過去の行いや経験を何度も繰り返し、その結果として今があるわけで、今の積み重ねがまた未来を作っていきます。当たり前のことですが、今を積み重ねていさえすれば、未来はやってきます。

ただ、ぼーっと生きているだけの今の積み重ねと、一生懸命生きている中での積み重ねの先にある未来は形が違ってきます。善行を重ねた上での未来と、悪行を繰り返した末にある未来にも明らかな違いがあるはずです。因果応報、六道輪廻はこの世の道理です。

我々が住まう地球も、厳しい環境変化を経験してきたからこそ今の姿になったといえます。かつて巨大隕石の衝突で恐竜は絶滅しましたが、その結果哺乳類が台頭し、人類全盛の時代を迎えました。全く天変地異が起こらない星なら、現在のようにはならなかったでしょう。

少し話が飛躍するかもしれませんが、地球以外の星にもし地球外生命体がいるとして、その生命体が住まう星にももし大きな環境変化がなければ、大した進化はしていないのではないでしょうか。宇宙人もまた「艱難爾(かんなんなんじ)を玉にす」でなくてはなりません。

ただ、そうした著しい環境変化が逆にその生命体の根性をねじまげてしまうかもしれません。育った環境があまりにも悪かったため卑屈になり、「悪い宇宙人」になってしまうということもありそうです。

天変地異などによる災難が起こらなくても、他の星々の隣人たちから侵略される、ということもあり得ます。戦いに明け暮れた結果、自らも侵略的な思想を持つようになり、目には目をモットーとするような過激な思想を持つ宇宙人集団になっているかもしれません。

実際、地球外生命体を研究する人達の中には、そうした心配をする人もいて、いたずらに他の星に向かってメッセージを投げかけるのは危険だと主張している研究者もいます。宇宙物理学者として高名な故スティーヴン・ホーキング博士などもその一人で、地球人が宇宙に対して自らの存在を積極的に発信することには反対していました。




一方、逆に「いい宇宙人」もいるかもしれません。厳しい環境を克服して程よい進化を遂げた結果、慈愛の精神を持つ宇宙人像というのもまた想像できなくもありません。

ただ、あまりにも良い宇宙人なので、我々地球人とのあまりの文明のレベル差を気にし、地球に混乱を与えないよう接触をやめよう、あるいは地球の文明の自力での発展を妨げないようにしよう、と考えているかもしれません。そんな彼らは我々より何枚も上手です。

「動物園仮説」というものがあります。これは宇宙人は地球人の存在を知っているけれども、干渉しないよう自分たちの存在を隠している、というものです。干渉しない理由としては、地球を含む宇宙域が保護区に指定されており、宇宙人が自由に立ち入ることをできなくしているといったことが考えられます。つまり我々は動物園の檻の中にいるというわけです。

そもそもこうした仮説は「もし恒星間航行を可能とする宇宙人がいるなら、なぜこの地球にやって来ないのか?」という疑問に対する答えとして立てられたものです。

こういう仮説を、フェルミのパラドックス(Fermi paradox)といいます。物理学者エンリコ・フェルミが最初に指摘したもので、地球外文明はありそうなのに、そうした文明との接触の証拠が皆無なのはなぜか?という矛盾を指します。

このほかにも、宇宙人は存在し、すでに地球に到達しているけれども地球人の技術が未熟なのでいまだ検出されない、という説があります。いずれも我々が宇宙人を認識できない理由として立てられた仮説です。

一方では、恒星間空間に進出するための進化・技術発展における難関を突破できないので地球にまでたどりつけないという説もあります。我々の祖先がそうだったように、そもそも宇宙に旅立つような科学技術を持った文明がなければ、地球に辿り着けるはずはありません。

こうした仮説はいずれももっともらしく聞こえます。しかしよくよく考えてみれば、そもそも宇宙人というものが我々と同じような形態をしているのかどうかすらわかっていません。その思考内容が地球人に理解できるものであるかどうかも不明です。

仮説はいくらでも立てられますが、それに対する反証の可能性も全くないわけであり、仮説ではあっても理論とはいえません。宝くじを買わずにそのあたりはずれを予想しているようなものであって、事実関係に基づいた議論もできません。

そう考えると、結局この宇宙には地球以外に生命体が存在しないのではないか、と考えたくもなります。「存在しないものは来ない」という仮説を立ててもかまわないわけです。



一方、地球以外に生命がいる確率はゼロではないけれど、今のところ地球の生命が全宇宙で一番目に発生した生命で、二番目は登場していない考えることもできます。或いは二番目以下が存在しても、我々の文明のレベルよりも低い水準に留まっているのかもしれません。

こういうのをレアアース仮説といいます。希少鉱物を指すレアアースではなく、英語では”rare earth hypothesis” と書き、直訳では「稀な地球」ということになります。宇宙は文明を持つ高い知能がある生命で満ちあふれているといった考え方とは対極的な考え方です。

ただ、レアアース仮説は、地球人のように高い知能がある生命体の存在が稀といっているのであって、地球外生命そのものの存在を否定しているわけではありません。

地球の生命は、かつて何度も苛烈な地球環境の激変に直面し大量絶滅を経験してきたために、現在のように進化しました。しかし、そもそも地球のように生命を育むことに適した環境にある星は稀だと言われます。また何度も絶滅を繰り返すような過酷な条件にある確率も低いといったことから、レアアース説は立てられました。

とはいえ、レアアース説が唱えられてからすでに20年以上が経っています。現在は当時とは比べようもないほど太陽系外惑星の探査技術が進んでおり、NASAのデータに基づけば、地球外生命体が存在する可能性がある太陽系外惑星は60以上もあり、まだまだ増えそうです。

そう考えてくると、やはり高度な知能を持った宇宙人はいるのではないか、と思えてきます。最近、アメリカ空軍などの公的な機関がお墨付きのUFO映像を公開するようになり、これらがその証拠だと主張する人たちを勢いづかせています。

「宇宙人は存在するのだが、検出されにくい。それでも理由はわからないが時々姿を見せる。地球に来ている証拠だ」というわけですが、さらに飛躍した主張には、到達した宇宙人は発見されているが、各国政府によって公表が差し控えられている、というものもあります。

アメリカ軍は宇宙人の存在を否定していますが、実はその存在を知っていて、理由は不明だけれども最近その方針を変え、かねてより把握していたその存在を公開しようとしているのではないか、というわけでまさに「メン・イン・ブラック」です。

これらの主張は、到達した宇宙人は全て、潜伏、又は地球の生命に擬態して正体を隠しているといった仮設の上に立っています。

しかし地球にやってきている宇宙人が目に見えるものとは限らず、我々が認識できない形態の生命である、と考えられなくもありません。ケイ素生物・意識生命体といったものがそれです。ケイ素生物というのは、ケイ素(シリコン)でできている生物のことです。自由に形を変えられるので、石などに擬態して我々には見つけられなくなります。

あるいは別次元(五次元等)に存在するため地球人が認識出来ない、といった説もあり、これらはタイムリープ(タイムトラベル)と合わせてSFの世界でよく語られる宇宙人像です。

これとは別に、宇宙人は過去に地球にやってきたものの、最近は来ていない、というものがあります。古代と言われる時代に地球に到達して遺跡などを残し、人類はその子孫である、といった説です。最近の訪問がないのなら認識できないのはあたりまえです。

古代人の技術ではとうてい造れないような創造物があり、それが宇宙人の存在を指し示す証拠だと主張する人はたくさんいます。ナスカの地上絵やピラミッドのような巨大な考古学遺跡やオーパーツは、宇宙人の技術で作られたとか、類人猿から人類を創った、世界各地に残る神話の神々は、宇宙人を神格化したものであるといった数々の説が出されています。



しかし、過去にいたものが現在は存在しない理由な何なのでしょうか。人類の進化を妨げないためだ、といった説もありますが、どこか無理があるように思えます。もし宇宙人がいるとしたら、現在でも何等かの形で存在し、我々を助けてくれてもよさそうなものです。

ただ、彼らは現在もすぐそばに居て、意識体のような目に見えない形をとっているというのなら納得できます。あるいは地球人とまったく同じ姿形をしているためにそうだと認識できないようになっている、ということも考えられます。

そうだとして、何のために正体を見せないようにしているのでしょうか。可能性として、地球人の中に紛れ込んで科学的に我々を調査研究している、といったことなどが考えられますが、あるいは彼らはすでに自分たちの故郷を失ってしまっているのかもしれません。

自分たちが住んでいた星が何等かの理由で消滅し、移住してきた先が地球である、という可能性は否定できません。地球で生き延びるため、地球人そっくりに姿を変え、トラブルを避けることを優先して生きているとしたら、認識できない理由もわかります。

我々が住まう地球もまた永遠のものではありません。地球そのものが天変地異で消滅してしまう確率は低いでしょうが、巨大な隕石による人類の滅亡はありえます。あるいは、太陽が死滅してしまえば、地球の生命はすべて失われるでしょう。

最近の研究では、63億年後に太陽は中心核で燃料となる水素が使い果たし、膨張を開始して赤色巨星になるといわれています。外層は現在の11~170倍程度にまで膨張し、この時点で水星と金星は太陽に飲み込まれ、高温のため融解して蒸発すると予想されています。

その後太陽は現在の11 – 19倍程度にまで一旦小さくなりますが、再び膨張を開始し、最終的に太陽は現在の200倍から800倍にまで巨大化し、膨張した外層は現在の地球軌道近くにまで達すると考えられています。

その後太陽は10~50万年にわたってガスを放出し、その結果白色矮星となり、何十億年にもわたってゆっくりと冷えていき、123億年後には収縮も止まります。もはや核融合反応を起こすエネルギー源も無いため、次第に表面温度が下がり、最後は黒色矮星になります。

黒色矮星になった太陽は徐々に光を放出しなくなります。肉眼で見ることは出来ず、重力的な影響が明白であっても光学的に確認することはできません。ただ、太陽が黒色矮星の状態にまで十分冷えるには、10の15乗年(1000兆年)程度の時間がかかるそうです。

仮に地球が膨張した太陽に飲み込まれなかったとしても、その後太陽はどんどんと冷えていきますから、地球に住まう生命体がその光や熱の恩恵を受けることはなくなります。つまり地球上には住めなくなる、ということです。

だとしたら脱出するしかありません。おそらくその段階では我々地球人も超がつくほど高度な科学技術を持っており、地球以外で住むことのできる星を見つけていることでしょう。しかし、そうした星には先住民がいる可能性があるわけで、だとしたら、彼らを征服するよりは中に紛れ込んで生き残るという平和裏の選択肢を選ぶのではないでしょうか。



かくして、その星に住まう先住民にとって我々は宇宙人になりえるわけです。我々はその星の住民になりすまして生きはじめ、その文明に影響を与えていくのかもしれません。

地球とまったく異なる異星の環境に住むことができるようになった我々は、想像を絶する異質な形態になっている、と考えることができます。それどころか、「生命」に当てはまらない存在である可能性すらあります。

映画「コクーン」では、分子や原子構造を持たないエネルギー体としての宇宙人を登場させており、まるで電波の様に物質を通り抜ける宇宙人像でした。「意識生命体」といえる形態であり、それはいわゆる「幽霊」のような存在です。

あるいはこれらの生命体は別次元に存在し、今の我々ならまったく認識出来ないようなものかもしれません。世界の根源をなす要素が異なる世界は、異次元世界と呼ばれます。

我々が過ごしている3次元空間の世界では、空間内を動くことによって移動が行われますが、それ以上の次元の世界では、我々の世界と根源となる要素が大きく異なっていると考えられます。四次元、五次元といわれるような世界を住まいとする宇宙人なら、我々が認識できなくても当たり前です。

仮設といわれればそれまでですが、我々も将来、そうした次元に住まう精神的宇宙生命体になっているという可能性は否定できないのです。

アメリカの特殊効果デザイナーのダリル・アンカが、交信できるようになったとされる宇宙生命体がそうしたものだと言われています。その名をバシャールといいます。

バシャールという名前は本名ではなく、ダリルがアラブのバックグラウンドを持つことに由来して、その生命体自らが名付けました。アラビア語で指揮官、存在、メッセンジャーといった意味を持ち、また、ダリル自身はバシャールの過去世であると発言しています。

ダリルは1973年、当時住んでいたLAでUFOと2回遭遇したことをきっかけに、その生命体とチャネリングができるようになったそうです。その結果、物事に対する見方が変わり、事象そのものの本質を直感でとらえる” 現象学 ”に興味をもつようになりました。

人間の理解の範疇を超えた世界について色々研究したり勉強する中、ある日瞑想をしていると、誰かが大量の情報を頭の中に入れてくるような感覚が彼の身に起こったといいます。それがバシャールからの最初のコンタクトで、その後、ダリルはバシャールと頻繁にチャネリングをするようになり、彼らの住む世界について様々なことを知るようなりました。

ダリルによれば、バシャールはオリオン座近くにある緑色がかった惑星「エササニ」に住んでいるそうです。地球より少しだけ小さいため、地球ほどの重力はありません。しかし大気は地球よりも濃く、地軸が傾いていないため、1年中心地良い温暖な気候 だといいます。

四季は存在せず、台風などの天候の荒れはありません。1日は25時間ほどと地球とほぼ同じですが、1年は454日と地球よりも3ヶ月ほど長くなっています。

エササニ星人の特徴としては、個人ではなく複数の意識が合わさったような存在とのことで地球人には物理的に不可視だといいます。

また、言葉や名前を持たず、身長は150センチくらいの人間の子供のような体つきで白っぽい灰色の皮膚を持っています。目は大きくて白目のない淡いグレーの瞳で、男性は髪の毛がなく、女性は大体が白い髪だそうです。我々には見えませんが、彼らにはそう「認識」できるようです。

食事はとらず、よって排泄もしません。様々な個性を持ちますが、互いに共通意識を持つ大きな集合意識体で、テレパシーで意思疎通を行います。エササニ星人の100年は私たちの1000年に相当するそうです。

私たちからエササニ星やバシャールの存在を視覚でとらえることができないのは、互いの次元・密度が違うからだといいます。宇宙は多次元構造でできており、異なる次元・密度では周波数も異なり、その空間は見えないし相互作用もしません。

私たち人類がいる世界は「第3密度」で、これに対してより高い波動を持つエササニ星の世界は「第4密度」です。バシャールによれば、時間や時間の連続性といったものは人間が作り出した概念であって思い込みだそうです。過去や未来などあらゆる時間は、実は「いま、ここ」に同時に存在しているといいます。

宇宙のすべての物質はエネルギーです。エネルギーは振動であり波動です。そして「密度」とは、振動数の高さを表す言葉です。宇宙のあらゆるものは7つの密度に分類され、密度が高いほど振動数が高くエネルギーも大きくなり、高レベルの波動と同調します。逆に密度が低いほど振動数やエネルギーが低くなります。

バシャールは常にワクワクし、情熱に従って生きることによって、高い振動数を持ち、高いエネルギーに満ち溢れているそうです。そうなることによって、「やりたいことを、やりたいときに、やれる能力」が磨かれるといいます。

「ワクワクする」というのは「人生の中で真の自分を表現することの出来る波動を高める」ことを表し、その波動は同じような波動を引き寄せます。自分のワクワクする気持ちに従って生きることが人生の目的であり、エササニ人はそれを率先して行っているようです。

周波数が上昇するにつれ、時空間の概念が緩んで柔軟性が生まれるので、自分の意識次第で時間が変化します。そして、時間とは「過去→現在→未来」という直線的な流れではないことに気づくそうです。

そうなると、肉体や実体はあまり意味を持たなくなり、他のバイブレーション、他次元、他の現実(パラレルワールド)、高次のエネルギー周波数をとらえる感覚が鋭くなるといい、そうなればテレパシーで意思疎通ができ、異次元の存在とも交信が可能になります。

ワクワクしたことをたくさんやり、振動数が上がるように毎日を一生懸命過ごしていれば人生は望み通りになるようです。我々もそうした毎日を積み重ね、その上に立った未来を獲得すれば、遠からずバシャールのような意識生命体に近づけるのかもしれません。

太陽系滅亡前までにササエニ人以上に進化し、新たな星で暮らすようになった我々もまた、そこに住む住民から宇宙人と呼ばれているに違いありません。

すべてはことのままに

あけましておめでとうございます。

皆様方におかれましては、今年もお健やかにお過ごしになられますよう、祈っております。年明け早々、流行り病が猛威を振るっていますが、いつかは春がやってきます。頑張りましょう。

さて、我が家のお正月は例年通り穏やかでした。お雑煮を食べ、質素ながらも正月料理を用意してお屠蘇を少し飲んで新年が始まりました。しかし、いつもと少し違ったのはそのあとの初詣。

本来は少し遠出をして、普段あまり行かない遠くの神社に詣でる、というのが我が家の風習です。例年だと下田の白浜神社や芦ノ湖畔の箱根神社といったところまで足を延ばすのですが、今年はさすがに近くの神社で初詣を済ませました。

正月に遠出をしたくなるのは、いつもは味わえない雰囲気を味わってみたいと思うからです。家と会社との間の往復で終始している生活から脱却し、非日常を味わいたいという気持ちは、まとまった休みのとれる年末年始にはとくに高まります。

昨年は掛川まで足を延ばし、事任八幡宮というところで初詣をしました。本当は隣の森町にあり、遠州一の宮とされる小國神社というところに行きたかったのですが、ひどい渋滞に巻き込まれたため参拝をあきらめ、別の神社を探してたどり着いたのがこの神社でした。

平安時代には清少納言の「枕草子」や多くの和歌、鎌倉時代には「吾妻鏡」、江戸時代には十返舎一九の「東海道中膝栗毛」などに登場するなど、由緒正しい古社です。

「事任」は「ことのまま」と読みます。「こと」は「言」であって、言い換えると「言葉のままに」となり、「願い事が意のままに叶う」という意味になります。言葉を司る神様であって、物書きや役者など文言を生業とする人にとっては大きなご利益があるとされます。

私も文章で飯を食っているようなところがあり、家内もかつてはコピーライターをやっていました。日ごろから読み書きには何かと気を使ってきた二人だからこそ、思いもかけずこの神社を見つけたのはきっとここの神様のお導きであったに違いありません。




その境内ですが、独特の空気感があり、いわゆる「良い気」に満ち満ちている感があります。多くの人が同じような感覚を持つようで、事任八幡宮への参拝についての書き込みを読むと、参拝するだけで気持ちが洗われるようだ、といった表現がよくみられます。

これだけ気持ちの良い気分にさせてくれる神社というのはそうそうあるものではありません。何か凛とした空気が漂い、神域一帯が何かふんわりとした霊気に包まれているように感じます。気のせいかどこからか笛の音色や鈴の音が聞こえてくるような気さえします。

一般に、「音」は、禍々しき魂や霊を追い払い、場を清める働きがあるとされます。その昔、日本においては鉦や太鼓などの楽器の音は異界にも届くものと考えられていました。

神隠しにあった子供を探す時などにも、大きな音をさせて異界へ音を届けると良いとされ、鉦や太鼓をにぎやかに叩いて捜索を行っていたといいます。異界とはこれすなわち神様が住まう世界であり、現在でも神前で行う祭囃子や能では太鼓や笛が使われます。

神社に参拝する時打つ、拍手(かしわで)もまた音による浄化の儀式です。両手を合わせ、左右に開いた後に再び合わせることで音を出します。音を出す理由は、神への感謝や喜びを表すため、願いをかなえるために神を呼び出すため、邪気を祓うためなど諸説あります。

魏志倭人伝には、邪馬台国などの倭人の風習について「見大人所敬 但搏手以當脆拝」と記されています。「貴人に対し、跪いての拝礼に代えて手を打つ」という意味で、この当時は神様だけでなく、高貴な人にも拍手を打っていました。また、人以外の貴いものに対しても拍手をしていたようですが、長い年月の間に主として神様に対してだけになりました。

一方、柏手だけでなく、神様に対して唱える祈りや呪文もまた長い年月の間に形を変え、現在までには祝詞(のりと)の形になりました。

祝詞は神道の祭祀において神に対して唱える言葉で、万の神々を称え奏上するものです。ノリトのノリは「宣る」の名詞形で、呪的に重大な発言をすることであって、その内容は様々です。一般的にはまず祭神の御名や当該祭祀の由来が述べられ、続いて神徳を称え、供物や神酒を奉り、そして祈願の趣旨が述べられます。

なお、詔(みことのり)も、祝詞の一種かと考えられます。天子(皇帝・天皇)の命令、またはその命令を伝える国家の公文書(詔書)ですが、その内容は「宣命」として口頭で下位の人々に伝達されていました。この当時、天子は神様でしたから、祝詞のように人から上へ上奏するものではなく、逆に神から人へ下達する言葉ということになります。




祝詞にせよ、詔にせよ、声に出した言葉には「言霊」が宿るといわれています。「言魂」とも書き、言葉には霊的な力があるとされ、古来、日本は言魂の力によって幸せがもたらされる国「言霊の幸ふ国」とされてきました。

神前に限らず、声に出した言葉は、現実の事象に対して何らかの影響を与えると信じられ、良い言葉を発すると良い事が起こり、不吉な言葉を発すると凶事が起こるとされています。

これとは別に、神前で自分の意志をはっきりと声に出すことを「言挙げ」と言います。内容は神道の教義的なものが多く、「言挙げ」はこれを「ことば」によって明確にする行為です。

ここでの「ことば」とは広義には「身振り」など音声以外の要素も含みます。現在の多くの神道諸派では言葉よりもこうした「身振り=所作」を重んじています。とはいえ、「ことば」を重視していることには変わりはなく、その「ことば」が自分の慢心により発せられたものであった場合には悪い結果がもたらされると信じられてきました。

神道における「言挙げ」の歴史は古く、奈良時代の歴史書、「古事記」の中巻には、伊吹山(滋賀県米原市)の神を討ち取りに出かけた倭建命(ヤマトタケルノミコト)が事挙げを行ったという記述が出てきます。

ミコトが伊吹山に登った時、牛ほどの大きさの白い大猪が現れました。ミコトは「この白い猪は神の使者だろう。今は殺さず、帰るときに殺せばよかろう」と言挙げをし、これを無視してしまいます。ところが実際にはこの猪が神そのもので、怒った神は大氷雨を降らし、これによってミコトは失神してしまいます。

やがて気を取り戻し、山を降りたミコトは、麓にあった「居醒めの清水」で正気をやや取り戻しますが、ほどなく病の身となっていました。米原には現在も醒井(さめがい)という地があり、ここの加茂神社に湧き出る名水が「居醒めの清水」と呼ばれています。

ミコトはそのあと、弱った体で大和を目指して、現在の岐阜南部から三重北部へと進んで行き、そして能煩野(のぼの:三重県亀山市)に到ったとき、「倭は国のまほろば たたなづく 青垣 山隠れる 倭し麗し」と国を偲ぶ歌を詠って亡くなりました。この地には現在、能褒野神社があり、ヤマトタケルノミコトが祀られています。

以後、さまざまな事挙げがなされるようになったようです。万葉集の柿本人麻呂の歌に「葦原の 瑞穂の国は 神ながら 言挙げせぬ国」とあるほか、作者不詳の作で「蜻蛉島大和の國は神からと言擧げせぬ國しかれども吾は言擧げす 」といったものが残されています。

詔としての事挙げはいろいろなものが唱えられていたようですが、ばらばらだった言挙げはその後、整理・淘汰されていき、室町時代になってから、神道家、吉田兼倶によって体系化され、神道初の理論書が完成します。「唯一神道名法要集」「神道大意」などがそれです。

これはその後伊勢神宮に受け継がれて「神道五部書」として完成し、中世から近世初期にかけて神道の最重要経典となり、伊勢神道などの根本経典として現在に至っています。

このように言霊、事挙げは古い歴史を持ちます。そもそもこうした万葉の時代に言霊信仰が生まれたのは中国の影響といわれています。この時代、中国の文字文化(漢字)に触れるようになったことが、日本人にとっては逆に「大和言葉」を自覚することに繋がりました。精神的基盤として、自らが作り上げた言語を重要視するようになったのです。

独自の文化・思想、精神世界を尊び、自国文化を再認識する過程で日本人自らが作り上げた言語が尊重され、その結果として言霊信仰が定着していきました。言霊は日本人のルーツそのものであり、日本人の心でもあります。



ところで、「言葉」の語源は何でしょう。これは「言(こと)」と「端(は)」の複合語であるといわれています。古くは、言語を表す語は「言(こと)」が一般的で、「ことば」という語は使われていませんでした。

やがて「言」(こと)」には「事(こと)」と同じ意味が持たせられるようになり、「言(こと)」はかなり重い意味として使われるようになりました。

それでは、「事」とは何でしょうか。「事」は象形文字で、そもそもは「神への祈りの言葉を書きつけ、木の枝などに結びつけた札を手にした形」です。変じて、「祭事に携わる人の様」を示すようになり、やがては「仕事」「仕える」という意味を持つようになりました。

人にとって仕事をするというのは重い作業です。「言」に「事」の意も持たせることで、その意を深めようとしたわけですが、ところが、逆に軽々しく使えなくなってしまいました。

そこで、「言」「事」に何かを加えて軽い意味にしようとしました。その時考えられたのが「端」で、この象形文字は「定められた位置に正しく座る巫女の形」を表していいます。そこから「正しく座る、正しい、正す」という意味を示す文字として使われるようになりました。

これを「言」と組み合わせることで重い意味を「正」し、事実が伴わないような「口先だけ」の語として使うようになりました。軽い物言いを表現するために「羽」という文字が加えられたという説もあります。

最初は「言端」「言羽」と書いていたようですが、奈良時代までには「言羽」だけが残り、これに「言葉」「辞」が加えられました。「万葉集」にもこの3つが使われています。現在のように「言葉」という文字だけが使われるようになったのは、室町時代頃と考えられおり、この時代の随筆、「徒然草」では主に「言葉」が使われています。

複数ある「ことば」を示す漢字の中で「言葉」が残った理由としては、「葉」はたくさんの意味で豊かさを表す上で最適と考えられた、という説があります。

「古今和歌集」には「やまとうたは ひとのこころをたねとして よろずのことの葉とぞなりける」と書かれています。平安のこのころすでに「葉」を「ことば」の一般的な用語として使いたい気分が多くの人にあったのでしょう。



話は変わりますが、神前で祭事に携わる人たちが行う行事のひとつに禊(みそぎ)があります。罪や穢れを落とし自らを清らかにすることを目的とした神道における水浴行為であり、滝行などに代表されるものです。不浄を取り除く行為である祓(はらえ)の一種であって、神社に参拝するとき、手水で手や口を清める行為も禊のひとつです。

「古事記」などの神話によると、伊邪那岐神(イザナギ)は死者の国へ行き心身が穢れ、帰って来ました。そこで日向(現宮崎県)の小戸の阿波岐原(おどのあわぎはら)という場所で海水を浴びて禊を行い、この時、祓を司る祓戸(はらえど)の神々が生まれました。この神々の力でその後多くの罪や穢れが清められるようになったのが、禊の始まりとされます。

一方、当初、祓には、こうした水の禊以外にも、火の禊、風の禊、光の禊、大気の禊、など色々なものがあったそうです。そしてもうひとつ、「言霊の禊」というものもありました。つまり現在までに生き残ったものが、水の禊と言霊の禊ということになり、言霊の禊は祓(はらい)となり、今日では神道の浄化儀式として宮中や神社で日常的に行われています。

大晦日に行われる「大祓」というのをご存じの人も多いと思いますが、これは天下万民の罪穢を祓うという意味を持つ神道の年最大の祓の行事のひとつで、12月31日だけでなく、毎年6月の晦日(30日)にも行われています。

祓が「言霊の祓い」の名残である証拠に、祓の際には、祓詞(はらえのことば、はらえことば)が唱えられます。神事の前に必ず行われる祝詞の一種です。祓詞を唱えれば、祓戸の神々の御神力により、罪や穢れが清められると言われています。

祓詞を理解する話として、次のようなものを紹介します。明治初期の伊勢神宮神官が集めた霊験譚「神判記実」の中にある話で、紀伊国の岩松という樵(きこり)が狼の群れに襲わるという話です。狼に襲われた岩松は、木に登りますが、狼は背に登って重なり迫って来たため、暗唱していた祓詞を唱えました。

すると、突然心が清浄になり、狼達は降り、地に伏せ始めました。そのまま祓詞を続けていると、今度は朽ちた木の枝が折れ、大きな音と共に落ちたため、狼達は驚いて退散しました。難を逃れた岩松は、その後も日常的に祓詞を唱え続け、96歳まで生きたそうです。

このように、神通力のある言葉を唱えるというのは邪悪を廃し、幸せをもたらすとされ、これが祓詞です。祓詞は神道各派によって異なり、いろいろなものがあります。例えば出雲大社の祓詞は次のようなものです。

「掛介麻久母畏伎伊邪那岐大神筑紫乃日向乃橘小戸乃阿波岐原爾御禊祓閉給比志時爾生里坐世留祓戸乃大神等 惟神奈留大道乃中爾生令氐在奈賀良其御蔭乎志深久思波受氐皇神等乃御恵乎大呂加爾思比多利志時爾過知犯勢留波更奈里今母罪穢有良牟乎婆祓閉給比清米給閉登白須事乎八百万乃神等共爾聞食世登恐美恐美母白須」(かけまくもかしこきいざなぎのおほかみつくしのひむかのたちばなのをどのあはぎはらにみそぎはらへたまひしときになりませるはらへどのおほかみたちかみながらなるおほみちのなかにうまれてありながらそのみかげをしふかくおもはずてすめかみたちのみめぐみをおほろかにおもひたりしときにあやまちおかせるはさらなりいまもつみけがれあらむをばはらへたまひきよめたまへとまをすことをやおよろずのかみたちともにきこしめせとかしこみかしこみもまをす)」

お分かりのとおり、こんな長たらしい言葉を我々が使うのは日常的ではありません。第一暗記するのが大変です。

こんな長い文を覚えなくても、日ごろから汚い言葉や穢れた言葉は使わないようにし、良い言葉ばかりを使うようにすれば、良いことばかりが起こるようになる、といわれています。つまりは祓詞の簡易版であり、自分流の「祓えことば」です。

自分が発した言葉は、自分も耳にしています。口から出した瞬間、他の誰かに届く前に自分自身が自分の発したものを直に受け取ります。これはつまり「出したものが返ってくる」ということを意味し、それがこの世の真理であり道理です。

その原理に従い、自分が言ったことはそのまま自分に返ってくると考えれば、それはそのまま自分の中に浸透していく、ということにもなります。脳に刷り込まれたそれこそが言霊であり、望む望まないに関わらずその影響を受けるのは自分自身ということになります。

これと似たような法則に、引き寄せの法則というものがあります。こちらもポジティブな事を考えればポジティブに、ネガティブな事を考えればネガティブになるというもので、そう信じる事によって自分が求めている物を引き寄せると言われています。

言霊と同じく、ポジティブな言葉を言えばポジティブになり、ネガティブな言葉を言えばネガティブになります。本当にそんなことってあるの?と疑う方も多いと思いますが、言葉が意識を変え、意識が自分の行動を変えるので望んだ結果が生まれてくるのです。

ですから、今年は意識を変え、発言に注意し、良い言葉だけを発するようにしましょう。ネガティブな心を捨て、ポジティブマインドで毎日を過ごせば、おのずときれいな言葉だけが出てくるようになるはずです。

きれいな言葉は意識を変えるだけでなく、意識が行動を変え、さらに潜在意識の中にポジティブな事や、願いをすりこむようになります。その事によって、自分の行動がその目標に向かって動きやすくなるのです。

さて、今年最初のブログもそろそろ終わりにしたいと思いますが、最後に一つだけ冒頭で書いた事任神社にまつわるエピソードを披露しましょう。

事任神社の近くに、小夜の中山(さよのなかやま)という峠があります。掛川市佐夜鹿(さよしか)に位置する峠で、西行法師が詠み新古今和歌集に入れられた「年たけてまた越ゆべしと思ひきや命なりけり小夜の中山」という歌があり、その歌碑がこの峠に存在します。

最高点の標高は252mで、古くから、箱根峠や鈴鹿峠と並んで東海道の三大難所として知られてきました。東海道の金谷宿と日坂宿の間にあり、当時は急峻な坂のつづく難所でした。頂上には真言宗の久延寺、西側の麓にあるのが事任八幡宮であり、この峠を越えた人、これから越える人の多くがこれらの寺社を参拝し、旅の安全や願い事成就を祈りました。

事任神社からこの小夜の中山までは、旧東海道を歩いておよそ50分ほどで到着します。現在は周囲を茶畑に囲まれたのどかな山道であり、峠付近には久延寺のほか、浮世絵のコレクションが日本一といわれる「浮世絵美術館 夢灯」といったものもあります。

この峠にはかつて、遠州七不思議の一つとして知られる「夜泣き石」というものがありました。「南総里見八犬伝」で有名な曲亭馬琴(きょくていばきん)がその話を「小夜中山復讐 石言遺響(せきげんいきょう)」の中で書いています。それによれば、その昔、お石という身重の女が小夜の中山に住んでいました。

ある日お石が麓の菊川の里(現菊川市)で仕事をして帰る途中、中山の丸石の松の根元で陣痛に見舞われました。そこを通りがかった轟業右衛門という男がこれを見つけ、しばらく介抱しましたが、お石が金を持っていることを知ると斬り殺して金を奪って逃げ去りました。

その時お石の傷口から子供が生まれたといい、そばにあった丸石には死んだお石の霊が乗り移ったといいます。この石はその後夜毎に泣くようになり、里の者はこれを「夜泣き石」と呼んで恐れました。生まれた子は、近くにある久延寺の和尚が見つけて保護し、音八と名付けて育てました。

和尚は音八に飴を与えて育てたといい、音八は成長すると、大和の国の刀研師の弟子となり、すぐに評判の刀研師となりました。ある日のこと、音八はひとりの客の持ってきた刀を見て「いい刀だが、刃こぼれしているのが実に残念だ」と言いました。

すると客は「去る十数年前、小夜の中山の丸石の附近で妊婦を切り捨てた時に石にあたったのだ」と暴露しました。音八はこの客が母の仇と知り、名乗りをあげて恨みをはらしました。

後にこの話を聞いた弘法大師がここを訪れ、亡くなった母を憐れんで丸石に仏号を刻んで供養を行ったと伝えられています。

かつて、峠にあり、夜泣き石と伝えられたこの石は今はなく、その場所には、夜泣石跡の石碑があるだけです。元の石は現在、国道1号小夜の中山トンネルの手前(東京側)の道路脇に移されています。その昔「夜泣き石」を見せ物しようとした業者がこれを持ち出しましたが、興行に失敗し、焼津に置き去りになっていたものを地元の人々がここに運んだそうです。

この国道1号は昔の東海道ではありません。明治13年に東海道の北側の沢沿いを開削した新道が造られ、これが明治38年に国道となりました。昭和7年には小夜の中山トンネルができ、トンネルができたことで峠を行き交う車のアップダウンも少なくなりました。

この夜泣き石がある敷地には「名物 子育飴 元祖 小泉屋」があり、ここで子育て飴という、琥珀色の水飴が売られ、この地の名物となっています。久延寺の和尚が飴で音八を育てたという伝説から、寺の隣にあった茶屋「扇屋」が、峠を通る客に出したのが始まりとされます。

昔ながらの静岡おでんや子育て飴ソフトクリームといったものもあるようです。一度訪れてみてはいかがでしょうか。

パストラルな日々

今年もあとわずかになりました。

年の初めには、ああまた長い一年が始まる、今年は何が起きるんだろう、といったワクワク感があった一方で、見通せない先のことを思ってヤキモキした気分になったりもしていました。

年の終わりが近づく今、ともかくも大ごとはなく無事に一年を過ごすことができたという安堵の気持ちがある反面、何も成し遂げられなかったという後悔の念もあり、一方では悪いことはひとつもなかった、しかし大きな進歩もなかったなといった好悪入り混じった複雑な心境でいます。

面白いなと思うのは一年の終わりと年の初めの間にはほんの僅かな時間差しかないのに、そうしたふうに気分が変わるということです。まさに始まりと終わりは表裏一体で、人の一生とは、こうした同じことを繰り返しながらメビウスの輪のように永遠と続いていくものなのかもしれません。

かなりの齢を重ねてきた最近、それではあとどのくらいその輪の中をグルグルと回ることになるのだろう、と考えたりもします。しかし、人生に無限ということはなく、やがては死が訪れます。

哲学者の樫山欽四郎さんは、人間の本質的な特質とは「死を自覚する存在である」と述べており、「死を知ることがなければ、これほど楽なことはない」とも言っています。また人が他の生物と異なる特徴のひとつは、人は全て、そして自分自身もやがて死ぬということを知っていることだとも言っています。

自分が死ぬことを知っているがゆえに、人は人生の意味を考えます。それは一種の哲学です。人生の意味を自己に問いかけ、死の意味をどのように受け止めるか、受け入れるかを考え続けるのが人の一生といえるのかもしれません。

フランスの文学者、フランソワ・ド・ラ・ロシュフコー(1613~ 1680)は「死を理解する者はまれだ。多くは覚悟でなく愚鈍と慣れでこれに耐える。人は死なざるを得ないから死ぬわけだ」と述べています。死が何であるかを知ることを一生の課題と捉える人は多いでしょうが、その答えを知る人は少ないようです。

まして突発的事故などで襲ってくる死の場合は死について考える余裕さえありません。一方で、回復の見込みのない病にかかり余命が数ヶ月と宣告されるような場合、時間的な余裕はあっても、結局死の意味というその答えを見つけられないということはありがちです。

突然の死を迎えない人、病気にならなない人もいつかは自分が死なねばならない、じきに死ぬ、という現実に向き合うことになりますが、死までの時間的余裕があるからといって、その意味が悟れるとは限りません。




では、人は死という定めをどう受け入れるのでしょう。死期を悟った人達は、一体どのように自己の死の事実と向き合い、どのようにその事実を拒否したり受けとめるのでしょう?

最近はそうしたことを研究の対象として考える学者もいます。

アメリカの精神学者、キューブラー=ロスは、長年心療治療にあたった経験から「死に行く人」との会話の結果をとりまとめ、多くの人が辿る「死の受容への過程」を、次のような段階モデルで示しました。

第一段階:「否認と孤立」
病気などの理由で、自分の余命が短いと知りそれが事実であると分かっているが、あえて、死の運命の事実を拒否し否定する段階。それは冗談でしょうとか、何かの誤りだという風に反論することで、死の事実を否定する。しかし、否定しきれない事実であることが解っているが故に、事実を拒否、否定することで事実を肯定している周囲から距離を置くことになる。

第二段階:「怒り」
拒否し否定しようとして、否定しきれない事実、宿命だと自覚できたとき、「なぜ私が死なねばならないのか」という「死の根拠」を問いかけるが、当然、その普遍的な原理は見つからない。それゆえ、誰か社会の役に立たない人が死ぬのは納得できるが、なぜ自分が死なねばならないのか、といった問いの答えの不在に、怒りを感じる。

第三段階:「取り引き」
死の事実性は拒否出来ず、根拠を尋ねても答えがないことに対し怒っても、結局、「死の定め」は変えらず、死の宿命を認識する。なお何かの救いがないかと模索する中、死を受容する代わりを考え、取引を試みる。例えば全財産を寄付するので死を解除してほしいとか、長年会っていない娘に会えたなら死ねるなど、条件を付けて死を回避する可能性を探る。

第四段階:「抑鬱」
条件を提示してそれが満たされても、なお死の定めが消えないことが分かると、どのようにしても自分はやがて死ぬのであるという事実が感情的にも理解され、閉塞感が訪れる。何の希望もなく、何をすることもできない、何を試みても死の事実性は消えないので深い憂鬱と抑鬱状態に落ち込む。

第五段階:「受容」
抑鬱のなかで、死の事実を反芻する中、死は「無」であり「暗黒の虚無」だという考えは、もしかして誤っているのかもしれないと考える。あるいは死を拒否し回避しようと必死であったが、実は死とは何か別のことかも知れないという心境が訪れる。死んで行くことは自然なのだという認識に達するとき、心にある平安が訪れ死を受容するに至る。

ただし、これはロス博士が多数の「死に行く人」の事例を観察して得たひとつの「型」にすぎません。誰しもが同じような段階を経て、死の受容に至るわけではなく、色々な自己の死との向かい合いがあることは博士自信も認めています。

いずれにせよ、人が死を受け入れて尊厳を持って死に臨めるようにするためには、本人が死というものをしっかりと見つめる必要があり、また周囲の理解と協力が必要不可欠です。

人は「病気であることの意味」、「生かされていることの意味」、「死ぬことの意味」をめぐって様々な疑問を抱き、そして苦痛を感じますが、このような痛みは「スピリチュアルペイン(スピリチュアル的な痛み)」と呼ばれているようです。

欧米の医療では伝統的に、このような痛みを和らげるサービス、すなわち「スピリチュアル・ケア」を提供するしくみが整っています。日本の医療の場ではそうした試みは長い間行われてきませんでしたが、1990年代に入ってから注目され、実施される病院も増えてきました。




ここで「スピリチュアル」の意味ですが、WHOにおいては次のように定義しています。

「スピリチュアル」とは、人間として生きることに関連した経験的一側面であり、身体感覚的な現象を超越して得た体験を表す言葉である。多くの人々にとって、「生きていること」が持つスピリチュアルな側面には宗教的な因子が含まれているが、「スピリチュアル」は「宗教的」とは同じ意味ではない。

スピリチュアルな因子は、身体的、心理的、社会的因子を包含した、人間の「生」の全体像を構成する一因子とみることができ、生きている意味や目的についての関心や懸念と関わっている場合が多い。(WHO「ガンの緩和ケアに関する専門委員会報告」1983年)」

「人間として生きることに関連した経験的一側面」「人間の生の全体像を構成する一因子」と位置付けていることからわかるように、WHOもスピリチュアルを生きる意味や目的に関する「重要な一要素」と考えているようです。また、「身体感覚的な現象を超越して得た体験」という言葉から、目に見えない「超常的な感覚」であることを示唆しています。

「なぜ生きているのか」「何のために生きているのか」「毎日繰り返される体験の意味は何か」「自分はなぜ病気なのか」「自分はなぜ死ななければならないのか」「死んだあとはどうなるのか」「人間に生まれ、人間として生きているということはどういうことなのか」などの問いは、人間誰しも抱えています。

スピリチュアル・ケアとは、こうした問いに真正面から対面し、探究し、健全な解決へと向けて、絶え間なく働きかけるために、「超常的な感覚」を利用する一つの方法論と考えればよいかと思います。

人は、誰でも、元気なときでも、何かしらこうした「スピリチュアル・ケア」を必要としています。生きていく上においては人との関わりは不可欠ですが、職場や学校、その他の人生ステージにおける人間関係の中で抱える多くの悩みは、人を疲弊させ、「スピリチュアルペイン」を覚えさせます。

ましてや、病気になったとき、どうにもならない困難と対峙したときや死に直面しているときなどはなおさらです。

病はしばしば、何の前ぶれもなくやってくるものであり、因果関係がはっきりせずその説明がなされない疾病も多いものです。そうした場合、多くの人は「私だけなぜこんなに苦しまなければならないのか」といった疑問を持ち、現れた苦難への対処法がわからず苦しみます。

また、死を覚悟しなければならない病気になったり、人の世話にならなければ生きることができなくなる、といったより深刻な状況では「いったい私の人生は何なのだろうか?」と問いかけ、生きる意味を深く考えます。しかし当然すぐに答えは出ず、必要以上に苦しみます。

病気になると、孤独感という苦痛にさいなまれることも多く、また時には家族や周囲も人に迷惑をかけたくないという思いから罪責感さえ感じます。永遠に家族と別れなければならないと感じるので「別れの予測」に伴う苦痛もあり、また、見たことのない死後の世界に不安を感じそのことを思うだけで苦しくなったりします。

こうした様々な苦痛は、単なる精神的な痛みというよりも「魂の叫び」ともいうべきものです。自己存在の根本的な意味や価値に関わるより深いレベルの痛みであり、そうした心の痛みを感じたときこそ、適切なスピリチュアル・ケアの提供を受けることが救いとなります。



ところが、現代西洋医学はハイテクノロジー重視の医療へと変化しており、その従事者の多くは、病んでいる人のスピリチュアル・ニーズやその切実な叫びを理解できなくなってしまっています。かつての進化中の医学や各文化圏の伝統医療ではまだそうした心の叫びを受け止める向きもありましたが、現在では皆無の状態といえるかもしれません。

現代では社会全体が、若さやバイタリティー、美などばかりを高く評価しそれに言及することが多く、苦しむこと、病気の状態を生きることや死ぬこと、宗教的なこと、といったことがらについては、むしろタブー視する傾向すらあります。

病は突然やってくるものであり、そのような場合、人はスピリチュアルな痛みを感じつつ、「自分は何のために生きているのか」「死んだあとはどうなるのか」といったスピリチュアルな問いかけをします。

欧米の医療界におけるスピリチュアル・ケアは、こうした医療現場で生まれている切実な心の声に応えるためのしくみといえ、それなりに長い歴史があります。

「パストラル(pastoral)」といった名を冠した部門が設置されている医療施設も多く、これは本来、牧畜、つまり季節や水・食糧の入手可能性のために広大な陸地を家畜を移動することを表す言葉です。しかし医療的には、無限の宇宙を漂っているかのように苦しむ人々の精神的ケアを施す特別な手法を表します。

イギリスやアメリカ合衆国では”Pastoral Care Department(パストラルケア部)”といった部門が設置されている例が多く、またドイツの国公私立医療施設などでも“Seelsorge”といった名称の部門がありますが、こちらの邦訳はまさに「スピリチュアル・ケア」です。

このほかにも、欧米の病院にはスピリチュアル・ケア的な施設があることが多く、例えば、礼拝堂が併設されていたり、専門職のための宿泊所が用意されていたりします。これらは、欧米社会でスピリチュアル・ケアが制度としてしっかり根付いていることを示しています。

スピリチュアル・ケアの専門職は、チャプレン(chaplain)と呼ばれています。これは教会・寺院に属さずにスピリチュアル・ケア施設やその関連施設で働く人々で、牧師、神父、司祭、僧侶などの聖職者を指します。欧米の軍には常設のところが多く、例えばアメリカ軍にも、ラビ、イマーム、仏僧といった色んな宗教の聖職者がいます。

「従軍牧師」や「従軍神父」「従軍司祭」と呼ばれるキリスト教系の人たちがこうした軍のチャプレンの典型であって、ミリタリー・チャプレンというのがその公称です。ちなみに牧師はプロテスタント系の聖職者で、神父や司祭はカトリック系です。

ただ、チャプレンはキリスト教に限らず、どのような信仰を持つ人でもケアを提供することができるようになっており、その認定においては、神学の修士号相当の資格を持ち、信仰グループの運営経験、信仰グループからの認証、臨床パストラル教育などの4つのカテゴリーの資格、経験がなくてはなりません。

チャプレンは、軍隊だけでなく、多くの病院、養護施設、介護施設、ホスピスなどに配属され、患者、家族、スタッフに対して、精神的、宗教的、スピリチュアルなアドバイスをします。このほか、老人ホーム、介護付き住居などでチャプレンが採用される場合もあります。

かつて旧日本軍においても、従軍僧や従軍神職といった人達がいました。ただ、死者を弔うことに力点が置かれ、欧米のチャプレンのように精神的なケアを目的にしたものではなかったようです。現在の自衛隊にも似たようなものはありません。



日本の医療界においてもチャプレン的なものはありません。しかし、最近スピリチュアル・ケア職を置くようなところが増えてきました。「パストラルケア」の名でそうした専門職を受け入れているところがあり、国公立病院やキリスト教系病院などで散見されます。しかし、それ以外の私立病院などではほとんどみられません。

日本ではまだスピリチュアル・ケアが必要だとの認識が未だ十分に育っておらず、位置づけも不十分で伝統が確立していないからです。

そのための教育や訓練を受けた人が必要だという認識も不足しており、医療の片手間でできるような簡単なものではないということへの理解不足もその普及を妨げています。スピリチュアル・ケアの専門家がケアを行うことを拒むような病院すらあるといいます。

一方、終末医療(ターミナルケア)を行う場のことを「ホスピス」といいます。元々は中世ヨーロッパで、病や健康長上の不調を抱えた旅の巡礼者を宿泊させた小さな教会のことを指しました。死ぬまでケアや看病をしたことから、こうした看護収容施設全般をホスピスと呼ぶようになったもので、その後欧米では広く普及しました。

日本で最初のホスピス・ケアは、大阪の淀川キリスト教病院で1973年に始められました。その後民間の医療機関を中心に広まりましたが、やがて公的な機関も開設に乗り出すようになりました。日本初の国立のホスピスは、1987年に開設された千葉県の国立療養所松戸病院で、その後も、全国各地の国公立病院にホスピス開設の動きが広がっています。

しかし日本ではまだ癌やAIDS等により治癒が難しくなった患者などだけが対象であり、これに対して欧米では医学的に救命や延命が不可能なほとんどの病気の患者に適用されています。

人々が人生の最後の時を迎えようとする場をケアするホスピスにおいてスピリチュアル・ケアは重要であり、WHOもケアの柱は、身体的ケア、心理・精神的ケア、社会的ケアに加えてスピリチュアル・ケアであると表明しています。

日本でも施設としてのホスピスは次第に増えてきているものの、こうしたホスピスを運営する人的資源の充実はまだ不十分です。1997年の「日本全国ホスピス施設ガイド」で紹介された29のホスピス施設のうち、スタッフにチャプレン・宗教家・伝道部職員などがいるとしたのは、9施設(30%)にすぎません。

十分な知識を持ったスピリチュアル・ケアの専門家がいないところも多いと指摘されており、またホスピスチャペル、仏堂、礼拝堂、祈りのための部屋などの施設も備えているのは7施設(24%)にとどまっています。

しかし、こうしたスピリチュアル・ケア人材の充実を目指す動きも加速しています。2004年にはスピリチュアル・ケア研究会が愛知県(中部地方)で立ち上がり、2007年には関西を拠点として日本スピリチュアル・ケア学会が設立されました。

理事長は3年前に亡くなった日野原重明氏でした。日野原さんは、「ありのまま舎」という難病のケアを行うホスピス施設を開設するなど、スピリチュアル・ケアに熱心な人でした。また自らが院長だった聖路加国際病院には礼拝堂を設けるなどホスピス施設の充実にも力を入れていました。

東京大空襲の際に満足な医療ができなかった経験から、「過剰投資ではないか」という批判を抑えて、大災害や戦争の際など大量被災者発生時にも機能できる病棟として、広大なロビーや礼拝堂施設を備えた新病棟を1992年(平成4年)に建設しました。

この備えの効果はその3年後の1995年(平成7年)の地下鉄サリン事件の際に遺憾なく発揮され、通常時の機能に対して広大すぎると非難もされていたロビー・礼拝堂施設は、緊急応急処置場として機能しました。事件後直ちに当日の全ての外来受診を休診にして被害者の受け入れを無制限に実施し、同病院は被害者治療の拠点となりました。

また78歳の時から始めた「いのちの大切さ」や「いのちの器」を伝えるために全国の小学校に出向き実施する「いのちの授業」は、多くの人々の共感を呼び、2016年までに全国合計200以上の小学校で実施されました。

「いのちの器」について日野さんはこう説明しています。「命は私に与えられた時間です。それを何の為に使うのか、もし助けを求めている者の為に有効に使うのなら、自分達の生き方は、これからの時代を生きる子供たちの手本になる」。自らの命の意味を知らしめることがスピリチュアル・ケアの拡散に繋がると考えておられたのでしょう。

それを喧伝するかのように105歳という長寿で亡くなりましたが、日野原さんが設立した日本スピリチュアル・ケア学会は最近も活発に活動を続けています。東大や京大のほか聖トマス大学、高野山大学、龍谷大学などの宗教関連の大学が参加して学術大会が開かれ、また関連書籍が多数出版されるなど、日本のスピリチュアル・ケアの発展の源泉になっています。

「なぜ生きているのか」「何のために生きているのか」「死んだあとどうなるのか」といった問いを人間誰しも抱えていますが、誰しもがその答えを持っているわけではありません。またこうした問いかけと探究の奥は深く、生半可な知識では対応できるものではありません。

1950年にドイツから来日し、長年臨床パストラルケア教育の指導に携わってきたウァルデマール・キッペス博士はこう述べています。

「スピリチュアル・ケアを行うためには、全人的な基盤、すなわち哲学的・宗教的基盤の上に立ったしっかりとした教育を受ける必要がある」

「老齢」という域に入ってきた昨今、私の死も遠い未来の話ではありません。残る人生、そうした向きの勉強もしっかりとやり、願わくば自らも人さまをケアできようになっていきたいと考えています。

自然に還る

伊豆での暮らしも、来年でもう9年になります。

しかし、ここよりもさらに長く住んでいたところもあり、これまで一番長く住んだのは、東京西部の町で、20年と少しそこで暮らしました。

そこに住もうと思ったきっかけは、そのころ勤めていた会社から近かったということもありますが、東京の西の端にあって山が近いというのがもう一つの理由でした。

昔から山登りが好きで、といってもアルプスといわれるような難所に行くでもなく、近場の比較的登りやすい、しかし眺めのよい山を選んでは、仕事が休みの週末ごとに踏破する、ということを若いころには繰り返していたものです。

山が好きというよりも、自然と触れ合うのが好きだったといったほうがいいでしょう。齢を重ねた現在では、さすがに毎週山へ行くといったことはしませんが、それでも週末には近所の山野を歩き回ることが半ば習慣化しています。

「自然霊」というものがあるそうで、大地や空気、緑といった自然現象をつかさどる働きをもっているといいます。この世に一度も姿を持ったことのないので目には見えませんが、大なり小なり私たちの生活に影響を与えているようです。時折、無性に山の中や川近くを歩きたくなるのは、そうした霊たちが私に囁きかけているのかもしれません。

古代日本の人々は自然物には生物にも無生物にも精霊(spirit) が宿っていると信じ、それを「チ」と呼んでその名前の語尾につけました。

古事記や風土記などの古代の文献にそれらがみられます。葉の精は「ハツチ(葉槌)」、岩の精は「イワツチ(磐土)」、野の精は「ノツチ(野椎)」、木の精は「ククノチ(久久能智)」です。また水の精を「ミツチ(水虬)」と呼び、火の精は「カグツチ(軻遇突智)」、潮の精を「シオツチ(塩椎)」などと呼んでいました。

古代人はまた、自然界の中でも「力」を持つものの発現はその精霊の働きと信じていました。雷は「イカツヂ」であり、毒によって他の生き物を死に至らしめることもある蛇は「オロチ」です。

こうした精霊の働きは人工物や人間の操作にも宿るとされ、刀の力は「タチ」、手の力は「テナツチ(手那豆智)」と呼ばれ、足の力は「アシナツチ(足那豆智)」、幸福をもたらす力は「サチ(狭知)」です。

それにしても、なぜ「チ」なのかですが、人間の生命や力の源が「血」にあると信じられたところに起源していると言われています。父(チチ)も同じ考えが表現されたものと見ることができ、さらに人の生活に密接な道(ミチ)や家を建てる場所である土(ツチ)もまたそこからきているといわれています。

さらに、神話に出てくる国津神(くにつかみ、地上の神。対するのは天津神)系の神様には「チ」が名称の語尾につけているものがあります。「オオナムチ(意富阿那母知)」や「オオヒルメムチ(大日孁貴)」などがそれです。

また人間でも大きな勢力を持った一族には「チ」を付けた別名で呼ばれていました。物部氏の「ウマシマチ(宇摩志麻治)」や小椋氏の「トヨハチ(止与波知)」がそれらです。

こうした「チ」がつく名前は最も古い名前のタイプで、草木が喋るといった自然主義的な観念を人々が普通に持ち、信じていた時代を反映しているものと考えられています。




生物・無機物を問わないすべてのものの中に霊魂、もしくは霊が宿っているという考え方を「アミニズム」といいます。ラテン語のアニマ(anima)に由来し、気息・霊魂・生命といった意味です。

霊的存在が肉体や物体を支配するという精神観、霊魂観であり、日本だけでなく世界中で宗教や習俗として定着しています。原始的な宗教観であることから、未開社会の未開人の宗教であるとする見方もあります。とくにキリスト教を先進的なものだと信じるヨーロッパの人々にとってはこうした古い考え方は時に蔑視の対象になっているようです。

しかし、自然物・自然現象に宿る霊魂をストレートに崇拝するというのは、きわめてシンプルな営みです。近代宗教の多くがそうであるように、改めて神をしつらえてそれを崇拝するというのは、神聖なものと何か直接向き合えていないような感じがしないでもありません。

朝日が昇ったら自然にそれに手を合わせたくなる、きれいな景色を見たら自然と涙が流れる、といった感覚は人間にとってごく自然なものであり、蔑むどころかより崇高なものであるという気がするのです。

人間が自然の中に神秘性を感じて自然崇拝の場としているところは世界中にあります。ユネスコの自然遺産に指定されているものの中にそれらは多く、例えば、アメリカのイエローストーン国立公園がそれであり、インディアン達はここを“Mitzi-a-dazi”(「黄色い石のある川」)として崇敬してきました。

オーストラリアのグレート・バリア・リーフもそうで、オーストラリア先住民のアボリジニやトレス海峡諸島民たちは1万5千年前から、グレート・バリア・リーフと共生を続け、彼らの文化や精神に多大な影響を与えてきました。

日本の白神山地もまたユネスコの自然遺産に登録されており、古くから地元の人々の崇拝の対象になってきた場所です。青森県の南西部から秋田県北西部にかけて広がっている標高1,000m級の山岳地帯で、世界遺産登録以前には弘西山地(こうせいさんち)とも呼ばれていました。

世界遺産登録地域の外側にも広大な山林を持ち、通常は、登録地域外も含めて白神山地と呼ばれますが、その中でも特に林道などの整備がまったく行われていない中心地域だけが世界遺産登録の対象です。

山地全体が神聖なものとされていますが、中でも「白神岳」は地元大間越の人たちが祈りをささげてきた、信仰の山でもあります。白上山とも呼ばれることがあり、これは秋田県側から春に見える山頂の雪形が「上」の字に見えるためだといいます。

白神山地は、他の名勝地のような美しい高山植物や雄大な景色を眺められる場所はあまり多くはありません。ここが世界遺産に登録されたのは、意外にもブナの原生林が広大に広がっていることが評価されたものです。

ここのブナは人為の影響をほとんど受けていません。ブナはあまり人間の生活には役にたたず、薪のほかでは椎茸の栽培以外にはあまり使い道はありません。そのために伐採を免れてきたのです。

小さな実をたくさん付けるために果樹と同様に寿命が短く、寿命は200年ほどであると言われています。自然に放置して倒れたブナは他の樹木や生物の生存に欠かせない栄養分を供給しています。

白神山地のブナの原生林は樹齢の若いもの、大木、老木、倒壊し朽ちたものまであらゆる世代が見られます。もちろんブナだけでなく、カツラ、ハリギリ、アサダなどの大木も見られ、そうした木(言い換えれば森)のみで形成された環境が評価された世界的にもめずらしい世界遺産だといえます。

世界遺産に登録されている地域は、中央部の核心地域とその周辺の緩衝地域であり、これらの地域の開発は原則禁じられています。このため、核心地域には道らしい道はなく、遺産登録以前からあった登山道があるだけで、新しいものは今後も恒久的に整備されない予定です。

秋田県側の核心地区は原則的に入山禁止です。また、青森県側の核心地域に入るには、事前、あるいは当日までに森林管理署長に報告をする必要があります。ただし林道がないので、仮にここを踏破する場合でも高度な技術が必要であり、世界遺産に登録されて以降、遭難事故もあって死亡者も出ています。

禁猟区にも指定されており、このため川で漁を行うには漁業協同組合と森林管理署長の許可が必要です。また動物の猟もできないわけで、このため自然の資源を利用してきたマタギによる狩猟も禁止されており、マタギ文化が消失するのではといいう懸念を持つ人もいます。

マタギの立ち入りを許可して文化を保つことが重要か、自然保護のために核心地域への立ち入りを全面的に禁止すべきかどうかについては現在も議論が続いています。しかし、ほとんどの場所が開発され尽くされている日本においては、少しくらい全く人が足を踏み入れることのない場所があってもいいのではないでしょうか。




この白神山地と同様に日本でユネスコの自然遺産に登録されている場所は、ほかに3つあります。屋久島、知床、小笠原諸島がそれらであり、登録年は白神山地と屋久島が1993年で元も古く、知床が2005年、小笠原諸島が2011年です。

いずれもその地理的自然、生物的自然が高く評価されたもので、私もいつかは行ってみたいと思うのですが、どれを選ぶにしても甲乙つけがたいものがあります。

もっとも、こんな有名な場所に行かなくても、美しい自然というものは日本中至る所にあります。これを書いている部屋の窓の外に見える富士山もその一つであり、晴れた日などには輝かんばかりの光彩を放つ最も身近な自然美です。

富士山の場合は自然遺産ではなく、「信仰の対象と芸術の源泉」として世界遺産に登録されました。同じく山岳信仰が理由として世界遺産に登録されているのは、高野山や熊野三山があり、ほかにも、平泉の金鶏山(浄土を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群)や、長崎の安満岳(天草地方の潜伏キリシタン関連遺産)などがあります。

これらはいずれも、その山の持つ水源・狩猟の場・鉱山・森林などから得られる恵み、あるいは雄大な容姿や火山などに対する畏怖・畏敬の念から崇敬されてきたものです。神や御霊が宿る、あるいは降臨する(神降ろし)場所と信じられ、「神奈備(かんなび)」という神が鎮座するとされました。

神道において、神霊(神や御霊)が宿る御霊代(みたましろ)・依り代(よりしろ)を擁した領域であり、これが「カンナビ」です。古くは、その山に付けられている一般名とは別にそう称されて敬われていました。語源は「神並び」の「カンナラビ」が「カンナビ」となったとする説や、「ナビ」は「隠れる」を意味し「神が隠れ籠れる」場所とする説があります。

カンナビの崇拝は、自然への感謝や畏敬や畏怖の表れですが、ここは常世(とこよ)と現世(うつしよ)の端境とされています。常世とはつまりあの世のことで、神の住まう神域とみなされることもあります。常世と現世を分かつ「結界」や「禁足地」としての意味もあり、現世の端境として、現在でもここで祭祀が行われる地域も多く残っています。

富士山だけでなく石鎚山や諏訪大社、三輪山のように、山そのものを信仰している例は多く、麓の農村部においてはその山が水源でもあることから、春になると山の神が里に降りて田の神となり、秋の収穫を終えると山に帰るという言い伝えを残すところも多くなっています。

古くから手付かずで残すべき自然として重視されてきた経緯から開発を免れてきたものも多く、山そのものだけでなく里山やその周囲にも文化的にも貴重なものが残っており、世界中の自然環境学の研究者などが、研究に訪れる場所でもあります。過去にはその土地特有の土壌細菌の発見が新薬開発のきっかけとなったといったこともありました。



現世と常世の境界であることから、死者の魂(祖霊)が山に帰る場所であるという言い伝えもあり、これは「山上他界」といいます。古くには、亡くなった人の魂は山の上の遥か彼方に行ってしまうと信じている人が多く、葬儀の際の野辺送りは「山送り」とも呼ばれていました。

山上他界をよく表しているのが「修験道」であり、これを体現する人たちは修験道者といいます。他界あるいは死の世界で修行を積み、現世に帰還することで常人の持てない力を身に付けることを目指す人々です。山へ籠もって厳しい修行を行うことで悟りを得る日本古来の山岳信仰であり、のちには仏教に取り入れられて発展した日本独特の宗教といえます。

海上他界というのもあり、これは人は亡くなったら海の彼方に行ってしまうと信じられていたものです。九州や南方の島々、或いは瀬戸内地方に多く、竜宮伝説はこの海洋信仰の延長線上にあるとも言われています。

沖縄や奄美群島に伝わる他界概念のひとつ、「ニカライナ」も海上他界の思想です。生者の魂はニライカナイより来て、死者の魂はニライカナイに去ると考えられています。沖縄では海へ帰った死者の魂は死後7代して親族の守護神になるという考えが信仰されていました。

ほかに「地中他界」というのもあり、こちらは地の下はるかに死者の霊魂の眠る国があるという考え方です。いわゆる「黄泉(よみ)」と言われる世界がそれであり、日本神話のイザナギとイザナミの話が有名です。

死者の魂を他界へと運ぶとされるものとしては、馬や鳥といったものがあります。馬は、ケルト神話の死の女神エポナなどが有名であり、ヨーロッパで信仰が衰えた後も、ケルピーといった命を奪う妖精伝承の形で残っています。また、鳥は、葬儀に鳥葬といった形式があり、また霊魂の表象とされる地域が世界中にあります。

船もまた、あの世へ導いてくれる象徴として昔話によく出ていきます。北欧のヴァイキングの風習には「船葬墓」というものがあり、副葬品として船を死者に添える風習もヨーロッパ各地で見られるものです。

以下のアイヌの物語にもあの世への乗り物として船が出てきます。今宵、皆さんが眠る前のおとぎ話として、それを紹介してこの稿を終わりにしたいと思います。

ある酋長の夫婦が和人の国へ交易へ出かけた。その帰りに嵐に遭遇した二人は、小舟でつたいづたいで海岸を移動して、寝泊りを続け、故郷の村に帰ろうとしていた。その日は夜になってしまったので、崖山の下の浜に舟を置いて一休みしていると、大津波が寄せて来た。夫はとっさに妻の手をとり、崖を上って避難すると、そこにひとつの洞窟をみつけた。

中に入ってみると意外にも奥は深く、さらに歩き進むと暗くなるどころか逆にどんどんと明るくなっていった。歩き続けた二人がその先で見つけたのは、綺麗な村で、そこでは何人かの村人が畑仕事をしていた。

夫がそのうちのひとりに自分たちが津波に遭って逃げてきたことを話すと、その男はここは死者の国であり、けっしてここの食物を口にしてはいけない、と教えてくれた。

ここの物を食べると人間界に戻れなくなるとも言われたが、またここは死者の国ではあるものの、人間以外にもクマもシカもいる。このため、狩りで食べていける上、生前に使っていた道具も持って来れる場所だとも言われた。

いかんせん、ここはあの世である。何も食べず、急いで帰るようにとこの男の忠告を受けた二人は引き返そうとすると、男はさらに、お前たちが見つけた浜は悪魔が住んでいるところで、津波もその悪魔が見せた幻であるから、舟も無事であるはずだと教えてくれた。

二人が洞窟を引き返す途中、見知った老人と見知らぬ老人とすれ違ったが、2人ともこちらの姿は見えない様子だった。夫婦が元いた浜に帰ると朝になっていた。悪魔がいると言われた二人はあわてて小舟に乗り、さらに何日もかけてようやく生まれた村に帰ることができた。

夫婦はその後末永く幸せに暮らしたが、時折思い出すのがあの洞窟の奥にあった美しい村だった。いつか自分たちも死んだらまたあそこへ行こう、そのときは今この家にある道具を持って行き、クマやシカを狩って静かに暮らそう、そう話す二人なのであった。

流刑地紀行

我が家のある町は、麓から車で5分ほど山道を登ったところにあり、標高200mほどであることから、いつも麓より涼しく、通常は2~3℃、時には4~5℃ほども気温が下がります。

このため、暑い夏でも快適に過ごすことができ、暑さが苦手な我々夫婦にとってはありがたい環境です。その麓の修善寺温泉街は観光地でもあります。伊豆で最も古い温泉と言われており、古刹もいくつかあることから、いつも観光客が絶えません。

最も人で賑わうのが曹洞宗の寺院、修禅寺です。源頼朝の弟の源範頼と、頼朝の息子で鎌倉幕府2代将軍の源頼家が当寺に幽閉され、その後ここで殺害されたとされており、二人の墓があります。

源頼朝自身も罪人として囚われていた時期があり、その幽閉地は修善寺温泉から北西へ8kmほど離れた韮山の地にあったとされます。蛭ヶ小島という場所で、その昔は見渡す限り芦原が広がる沼地だったようです。

伊豆にはほかにもあちこちに罪人を配流した土地があり、これは平安時代に成立した「律令法」において、ここが遠流の対象地と定められたからです。重罪犯は、さらに伊豆諸島に流されましたが、伊豆半島はその入り口で比較的罪の軽い罪人がここへ追いやられました。

頼朝以前にも伊豆に流罪になった人は多数おり、能書家の橘逸勢(たちばなのはやなり)は、謀反を企てたとして流罪になりました。また、応天門への放火犯、伴善男(とものよしお)もここで亡くなっており、後白河天皇と対立した文覚上人も伊豆へ流されました。このほか、修験道の開祖、役行者(えんのぎょうじゃ)も伊豆を経て伊豆大島へ流されています。

このように罪人を辺境や島に送る追放刑のことを「流罪」といいます。流刑、配流ともいい、特に流刑地が島の場合には島流しとも呼ばれることもあります。都会に造られた獄舎に入れられるより、遠いところに取り残されるほうが生活は過酷です。生きていくための糧の少ない中一人だけで生きていかなければならず、苦痛がより大きい刑罰とされていました。

流罪は主として政治犯に適用されましたが、戦争・政争に敗れた貴人に対し、死刑にすると反発が大きいと予想されたり、助命を嘆願されたりした場合にも流罪が適用されました。

配流先で独り生涯を終えた流刑者は多数に上りますが、中にはそこで子孫を残したり、赦免されたりした例もあります。西郷隆盛は2度目に奄美大島に流されたとき、島の名家の娘・愛加那(あいがな)と結婚して一児を設け、その子菊次郎は後に京都市長になりました。

脱走を企てて成功した流刑者も多く、後醍醐天皇は元弘の乱で敵対勢力に捕らえられ隠岐の島に流されました。しかし脱出して建武の新政を打ち立て鎌倉幕府を滅亡に追い込みました。その鎌倉幕府を創設した源頼朝もまた伊豆で再起して新政権を打ち立てています。

平安から鎌倉期にかけてのこの時代、流刑が宣告された受刑者には、居住地から遠隔地への強制移住と、1年間の徒罪(ずざい)が課されました。徒罪とは徒刑(ずけい)ともいい、律令法・五刑のうち、3番目に重い刑罰です。受刑者を一定期間獄に拘禁して、強制的に労役に服させる刑で今日の懲役と似た自由刑です。

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五刑のうち、最も重いのが死罪であり、次いで流罪、続いて徒罪、その次は杖罪(じょうざい)です。木製の杖をもって背中又は臀部を打つというもので、最も軽い刑が来て笞罪(ちざい)と呼ばれ、これはいわゆる鞭打ちです。

流刑対象者の中でも、特に悪質なものに対しては3年間の徒役も加えて課されました。妻妾は基本的には連座して強制的に同行させられましたが、他の家族は希望者のみが同道しました。配所への護送は季節毎に1回行われ、流刑地到着後は現地の戸籍に編入され、1年間の徒罪服役後に口分田(律令制において民衆へ一律に支給された農地)が与えられました。

現地の民として租税も課されましたが、現地民とみなされるようになったことから、原則的に恩赦等による帰国もありませんでした。もっとも、時には全ての罪人が赦免される「非常赦」が行われて帰国が許されることもありました。

同じ流罪でも、その境遇は受刑者を監視する監督官の匙加減で大きく変わります。源頼朝は縁者から仕送りを受けていたほか、本来禁じられている若干の側近まで置いてもらっており、ぎりぎり貴族の体面を保つ暮らしをしていました。

一方では、鹿ケ谷の陰謀で鬼界ヶ島に流された藤原成経・平康頼、俊寛のように、かなり悲惨な生活を強いられることもありました。鹿ヶ谷の陰謀とは、平安時代の安元3(1177)年に京都で起こった、平家打倒のクーデター未遂事件です。

このころ、清盛を筆頭とする平家は全盛を誇っていましたが、これに対して後白河天皇は公家勢力を復権させて平家にとって代わろうと画策していました。これに加担する形で多くの反対勢力が京都、東山は鹿ヶ谷(現京都市左京区)に結集し、謀議が持たれました。

しかし、これをいち早く察知した清盛によって一味は捕らえられ、関係者全員およびその近親が処分されるところとなり、首謀者と目された後白河院の近臣、西光は斬罪、同側近の成親は備前国に流罪となり、後に謀殺されました。

清盛の弟の教盛の叔父、成経もこれに連座して備中国へ流されました。更に御白河院側近の俊寛が、同じく後白河院近習の平康頼とともに薩摩国にあったとされる「鬼界ヶ島」へ流されることになりました。そしてその後、平成経もまた同島への移送が決まりました。

「鬼界ヶ島」とはすなわち「鬼が棲む世界と人の住む世界の境界」という意味です。「平家物語」によると、島の様子は次の通りです。

舟はめったに通わず、人も希である。住民は色黒で、話す言葉も理解できず、男は烏帽子をかぶらず、女は髪を下げない。農夫はおらず穀物の類はなく、衣料品もない。島の中には高い山があり、常時火が燃えており、硫黄がたくさんあるので、この島を硫黄島ともいう。

美しい堤の上の林、紅錦刺繍の敷物のような風景、雲のかかった神秘的な高嶺、綾絹のような緑などの見える場所がある。山上からの景色は素晴らしい。南を望めば海は果てしなく、雲の波・煙の波が遠くへ延び、北に目をやれば険しい山々から百尺の滝がみなぎり落ちる。

後段の記述をみると、その恐ろしげな名前とは裏腹に、まるでパラダイスのような場所にさえ思えます。古代以降、日本の南端の地とされていましたが、それがどこにあったのかははっきりしません。ただ、以下の薩南諸島のふたつのいずれかではないかとする説が有力です。

硫黄島 –俊寛の銅像と俊寛堂がある。俊寛の死を哀しんだ島民が俊寛の墓を移したと場所に建てられたとされ、毎年盆には送り火を焚いて悼む行事も行われてきた。火山の硫黄によって海が黄色に染まっていることから、「黄海ヶ島」と名付けられたとの説がある。

喜界島 – 俊寛の墓と銅像がある。骨が出土しており、これは面長の貴族型の頭骨で、島外の相当身分の高い人物であると推測された。しかし、喜界島には硫黄が取れる火山はおろか、高い山もなく、高い滝ができるほどの川も見られず、「平家物語」の記述とは大きく異なる。

これを見る限りでは鬼界ヶ島は硫黄島ではないか、と私には思えます。薩南諸島北部に位置する島で、人口は120人ほど、世帯数は60ほどです。薩摩硫黄島とも呼ばれますが、これは小笠原諸島に同名の島があり、日米両軍が激戦を交わしたこの島と区別するためです。

「吾妻鏡(正嘉2(1258)年)には、2人の武士がこの硫黄島に流刑にされたとする記述があり、その内の1人の祖父も硫黄島に流刑にされたと記録されています。このことから、平安時代末期から既にこの島が流刑地として使われていたことがわかります。

東西5.5km、南北4.0kmで、主峰の硫黄岳(703.7m)は常時噴煙を上げており、亜硫酸ガスによってしばしば農作物に被害が発生します。また、周辺の海は硫黄が沈殿して黄色く見えることから「黄海ヶ島」と呼ばれ、これが「鬼界ヶ島」に書き換えられたとされます。

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この島に流罪となった俊寛を題材にした「平家女護島」(へいけにょごしま)という浄瑠璃があります。俊寛を題材にして近松門左衛門が人形浄瑠璃に仕立てたもので、享保4(1719)年に大坂竹本座で初演されてヒットしましたが、そのストーリーは以下のようなものです。

平家転覆を企んだ俊寛、平成経、平康頼の三人が鬼界ヶ島に流され、早三年が過ぎようとしていた。彼らの流罪には刑期がなく、死ぬまでこの島にいなければならない。食べることもままならず、時たまやって来る船に硫黄売って食いつないだり、海草を食べ暮らしていた。

あるとき、三人の一人、成経がここに住む海女で千鳥という女と結婚することを他の二人に打ち明けた。絶望的な状況の中で起こった数少ない慶事であり、これを三人は歓びあった。そして形ばかりのこととはいえ、成経と千鳥は俊寛と康頼の前で祝言の杯を交わした。

するとそこへ、大きな船が島を目指してやってくるのが見えた。何事かと皆は驚くがそれは都からの船であった。船が浜辺に着くと中から使者の妹尾太郎兼康が降りてきた。妹尾は早くから平氏に仕え、鳥羽上皇とその官女との間に生まれた高級官僚である。

妹尾は、建礼門院(平清盛の娘)が懐妊したため、彼らの流罪を恩赦にする、という清盛の赦免状を持っていた。それを読んで夢かと喜びあう三人だったが、その中にはなぜか俊寛の名前だけない。何度も内容を確認するが、やはり俊寛の名だけが見当たらない。

清盛から目をかけられていた俊寛は陰で密に平家打倒を企てていた。そのことは許されることではない、それゆえ恩赦を受けられなかったのだ、と妹尾は憎々しげに言い放つ。青ざめる俊寛。一時の喜びも突然のこの暗転によって消え去り、打ちひしがれて泣き崩れる。

だがそこへもう一人の使者である丹左衛門尉基康(たんさえもんのじょうもとやす)が船から降りてきて、俊寛にも赦免状が降りた、と伝える。俊寛にだけ恩赦が与えられないのを見兼ねた清盛の嫡男、平重盛が別途、俊寛にも赦免状を書いていたのだ。

これで皆が帰れる。そう安堵して三人が船に乗り込み、千鳥がそれに続こうとすると、それを妹尾が止める。またも憎々しげに言うには、重盛の赦免状には「三人を船に乗せる」としか書いておらず、そう書いてある以上、四人目の千鳥は乗せることはできないというのだ。

嘆きあう三人と千鳥に、妹尾の言葉がさらに追い撃ちをかける。俊寛の妻の東屋が亡くなったというのだ。しかも清盛の命により東屋を斬り捨てたのは妹尾自身だという。いつかきっと都で妻と再び暮らす、そんな夢さえも打ち砕かれた俊寛は、再度絶望に打ちひしがれる。

妻のない都に何の未練もなくなった俊寛は、自分は島に残るから代わりに千鳥を船に乗せてくれと訴える。しかし妹尾は拒絶し俊寛を罵倒する。思い詰めた俊寛は、妹尾の刀を奪って彼を斬り殺す。そしてその罪により自分は残るから千鳥を船に乗せるよう、基康に頼んだ。

こうして千鳥は乗船を許され、俊寛のみを残して船が出発する。しかしいざ船が動き出すと、俊寛は言い知れぬ孤独感にさいなまれ、半狂乱になる。手綱をたぐりよせ船を止めようとするが、無情にも船は遠ざかる。孤独への不安と絶望に叫び、船を追うが波に阻まれてしまう。

船が見えなくなるまで呼び続けるが、声が届かなくなると、なおも諦めずに岩山へ登り船を追い続ける。ついに船がみえなくなり、俊寛の絶望的な叫びとともに日は暮れていく…

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この物語は本来なら船が出ていくところで終わるはずですが、そこで終わりではなく、船が出るや一転して俊寛が取り乱すという結末になっています。俊寛の人としての弱さと未練を締めとしたところが高く評価されており、数多くの浄瑠璃や歌舞伎を生み出し、東洋のシェークスピアと称された劇作家、近松門左衛門の面目躍如の作品といわれています。

史実としての俊寛は、その後自ら命を絶っています。成経や康頼が島を去ったあと、俊寛の侍童だった有王が鬼界ヶ島を訪れ、その折俊寛は娘からの手紙を受け取りました。上の話では妹尾が俊寛の妻の死を語ることになっていますが、実際にはこの手紙で妻の死を知った俊寛は絶望し、食を断ってひたすら阿弥陀の名号を唱えながら37歳の生涯を終えました。

平安時代の南方方面への流刑は鬼ヶ島以外にも行われていたようで、奄美群島に位置する沖永良部島でも遠島が行われたという記録があり、おそらくここが最南端だったでしょう。

では、北端はどこだったかといえば、「外が浜」がそれであったとされます。現在の 陸奥湾西方にある津軽半島の一部を指す古来の地名で、現代の自治体としては、青森市・蓬田村、外ヶ浜町、今別町、平内町などです。これらはいずれも津軽半島の北のはずれにあたります。
地名の由来は、国土の終端を意味する「率土の浜(そっとのひん)」と考えられています。

中世には、「穢れ」の思想が強まり、「外が浜」は穢れたモノの筆頭としての鬼が棲む地と目されていました。鬼はタブーとして遠ざけられる存在であり、そんな物の怪が棲む場所へ追放されるというのは究極の流刑です。和歌においては、こうした僻地に追いやられた人々に抒情を感じるとして多くの歌人がこの辺縁の地を歌に詠みました。

「みちのくの 奥ゆかしくぞ 思ほゆる 壺の石文 外の浜風」(西行)
「みちのくの 外が浜なる 呼子鳥 鳴くなる声は うとうやすかた」(藤原定家)

定家の歌の「うとう」とは海鳥・ウトウのことですが、歌詠みの間では、外が浜と同じく、最果ての国の代名詞として使われていました。漢字では「善知鳥」と書き、別名「ウトウヤスカタ」とも呼ばれます。体長は40cmほどで、夏羽では上のくちばしのつけ根に突起ができます。アイヌ語でウトウといえば「突起」という意味があります。

長野県塩尻市にも善知鳥峠という標高889mの峠があります。北側(塩尻市側)が急で、南側(辰野市側)は緩くなっていて、その名称は以下の猟師にまつわる民話に基づいています。

ひとりの猟師が北の浜辺で珍しい鳥の雛を捕らえ、息子を伴って都に売りに行った。このとき、親鳥が猟師の後を追ってきて、わが子を取り戻そうと「ウトウ、ウトウ」と鳴き続けた。
親子はこれにかまわず険しい峠道に差しかかったが、このときから激しい吹雪に襲われた。

そんな中でも、親鳥はなおも「ウトウ、ウトウ」と鳴き続けながら追いかけ、その声は麓の村まで響き渡った。吹雪の収まったあと、村人たちが峠に登ってみると、猟師は吹雪のなかで力尽き、わが子に覆いかぶさるように死んでおり、息子はその下で泣きじゃくっていた。

またそのすぐ脇には、死んだ親鳥の姿もあった。同じように下に雛鳥を抱えており、雛は生きて鳴き続けていた。命を賭してわが子を吹雪から守った姿を見た村人たちは、その鳥を猟師とともに手厚く弔い、のちにこの峠を「善知鳥峠」と呼ぶようになった。

室町時代にも能の演目で善知鳥にまつわるものが作られています。旅の僧侶が途中の山で亡霊に出会うという話で、亡霊はかつて猟師で善知鳥を捕獲して生計を立てていました。

ウトウは、親が「うとう」と鳴くと、茂みに隠れていた子が「やすかた」と応えるので、猟師はそれを利用し、声真似をして雛鳥を捕まえていました。しかし死後、その悪どいやり方を咎められて地獄に落ち、そこで鬼と化したウトウに苦しめられるようになっていました。

猟師の亡霊は僧侶に地獄の辛さを話し、殺生をしたことや、そうしなくては食べていけなかった自分の哀しい人生を嘆き、助けを求めながら消えていく…という話です。別バージョンもあり、その中では猟師が雛鳥を捕獲すると、親鳥は血の雨のような涙を流していつまでも飛びまわります。猟師はその雨から逃れるため蓑笠が必要になったというオチがつきます。

実際のウトウという鳥は、その繁殖地で断崖の上の地面に穴を斜めに掘って巣にします。メスは一度に一個だけここに産卵して両親が交代で45日抱卵します。ヒナが孵化すると、今度は巣立ちまでの約50日間餌を運ぶという子煩悩な鳥です。

ウトウは水中を泳ぎまわって小魚やイカなどを捕食します。繁殖期になると親鳥はイワシやイカナゴを嘴に大量にぶらさげ、鳴き声をあげながら帰ってきます。雛はその声を聞いて出てきますが、「ヤスカタ」と鳴くかといえばそんなことはありません。親鳥は「ウウウウッブェッーッ」鳴き、雛の声はヒヨコの声をソプラノに振ったような声で鳴きます。

それにしてもなぜ、「ウトウヤスカタ」なのか調べてみたところ、これは青森市安方にある善知鳥神社の言い伝えに起因しているようです。その縁起によれば、その昔、烏頭大納言藤原安方朝臣という身分の高い人物が罪を犯し、都から流された後に、安方の浜で没しました。

すると、不思議な鳥が浜辺に降り立つようになり、雄は「ウトウ」、雌は「ヤスタカ」と鳴く事から、藤原安方にちなんでその鳥を「烏頭鳥=善知鳥」と呼ぶようになったといいます。

人々はこの鳥を安方の化身として恐れ敬いましたが、ある日猟師が誤って雄鳥を鉄砲で狙って殺してしまい、他の雄鳥達は急に凶暴化して田畑を荒らすようになりました。狙撃した猟師も変死したため、祟りを恐れた村人達は雄鳥を丁重にその霊を慰めるため、「うとう明神」として祀り、のちには雄鳥も祭るようになり、その後善知鳥神社と呼ばれるようになりました。

この善知鳥神社は、その昔青函連絡船の発着場があったところからほど近く青森市の中心部にあります。津軽藩の2代目藩主、津軽信枚がここに港を作り発展したため、青森の発祥の地ともいわれています。創建年ははっきりとわからないようですが、航海安全の神として知られる市杵島姫命・多岐津姫命・多紀理姫命の宗像三女神を主祭神として祀っています。

版画家・棟方志功は、幼少期をこの神社の近くに住んでおり、よくその境内で遊んでいたそうで、この神社界隈のスケッチを好んで描いていたといいます。昭和13(1938)年に善知鳥版画巻という版画集を帝展に出品しており、これは特選となっています。

まとまったものをどこかで展示しているかどうか調べてみましたがよくわかりません。ただその一部はネットで流通しており、高い値段で取引されているようです。

皆さんもウトウとしていないで、探してみてはいかがでしょうか。