宇宙戦争

最近、ニュースといえば、北朝鮮のミサイルや核開発の話題ばかりです。

少々うんざり気味ではあるのですが、わが国、いや全世界を滅ぼしかねない最終兵器を持つ暴走国家の動向から目が離せないのはあたりまえであり、いたしかたないこととは思っています。

それにしても、かつては夢物語と思っていた核戦争や宇宙戦争といったものが現実的になりつつある時代なのかな… と夏バテで少々ふやけ気味の頭でぼんやりと考えていたりもしています。

ところで、宇宙戦争といえば、やはり巨匠ジョージ・ルーカスの大作、スターウォーズがまっ先に思い浮かびます。しかし、イギリスの作家H・G・ウェルズが1898年に発表した小説にも同名のものがあり、SFの古典として今も高く評価されています。

原題は、”The War of the Worlds” となっており、“wolds”は直訳すれば「世界同士」となります。「地球人の世界」と「火星人の世界」の2つの「世界」が争いを描いた話であり、その後こうした架空の宇宙人とのあいだで戦闘が勃発する、といったモチーフを用いた小説や映画が繰り返し創作されてきました。

映画として中でも有名なのは、戦後の1953年9月に公開された「宇宙戦争」で、製作はSF映画の製作者として名高いジョージ・パル。H・G・ウェルズ作の翻案で、舞台は20世紀半ばのカリフォルニア。映画の中で登場する火星人の戦闘機はエイのような形をしており、1本の触角を生やしていました。

また、1996年に7月に公開された「インデペンデンス・デイ(ローランド・エメリッヒ監督、ウィル・スミス主演)」。こちらはかなり原作とは異なったものとなりましたが、多数のCGを駆使し、ジョージ・パル版同様、非常に凝った爆発シーンやアクションが多数あったことが受け、大ヒットました。

一番最近では、2005年、巨匠スティーヴン・スピルバーグ監督により再び映画化された「宇宙戦争」があります。巨大なマシンを操り地球を攻撃する宇宙人に対して、必死の抵抗を試みる人々を描いた映画で、トム・クルーズとダコタ・ファニングという人気の俳優の主演ということもあり、そこそこヒットしたようです。

未知との遭遇」「E.T.」と過去に人類に友好的な異星人との交流を扱った作品を手掛けてきたスピルバーグが、一転して宇宙侵略物の古典の映画化に挑んだ本作は、2001年9月11日に起きた同時多発テロ事件で受けたアメリカに住む人々の衝撃・思いを反映して製作された、といいます。

映画には墜落したジャンボ旅客機、掲示板に貼られた無数の人探しの張り紙、といった舞台装置が登場していますが、映画のメイキングでスピルバーグも公言している通り、これらは9.11のテロを連想させるため、あえて描いたものだそうです。

本作もH・G・ウェルズの小説を原作としていますが、それだけではなく、1938年にオーソン・ウェルズの演出で発表され、一世を風靡したラジオドラマ版の要素をも引用して製作されたといいます。




そのH.G.ウェルズのオリジナルの「宇宙戦争」のあらすじを少し書いておきましょう。

9世紀6月の金曜日の未明、イギリスは、ウィンチェスター上空で緑色の流れ星が観測され、天文学者のオーグルビーは、この流れ星がロンドン南西ウォーキング付近に落ちているのを発見。それは直径およそ30mほどもある巨大な円筒形をした宇宙船でした。

見物人が群がる中、円筒の蓋が開いて醜悪な火星人が現れ、彼らが円筒に近づいた途端、目に見えない熱線が人々を焼き払います。熱線は恐るべき威力で、人間や動物を含め、周囲の木々や茂み、木造家屋などが一瞬で炎に包まれました。

その夜、英国軍が出動しますが、十分に攻撃体制が整わないうちに、火星人の第二、第三の円筒が落下(着陸)します。翌日・土曜の午後にようやく軍隊の攻撃が始まりますが、今度は円筒の中から屋根よりも高い3本脚の戦闘機械(トライポッド)が登場し、あたりの街の破壊の限りを尽くし始めます。

これに対して出動した英国軍は全滅。さらに翌日の午後には、テムズ河畔に火星人の戦闘機械5体が現れますが、英国軍の砲撃で戦闘機械の1体を撃破。一旦は撃退に成功します。しかし、火星人はその夜から、さらに新兵器を投入。液体のような黒い毒ガスと熱線を使う攻撃に戦法を変更し、軍を撃破してロンドンへと向かいます。

月曜日の未明になるとさらに火星人の進撃は続き、ロンドン市民はパニック状態で逃げ惑います。軍隊は総崩れ。英国政府は「もはや火星人の侵攻を阻止し、ロンドンを防衛するのは不可能である。黒い毒ガスからは逃げるより他にない」と避難勧告を出しました。

その日英仏海峡に現れた火星人の戦闘機械3体に対し、沖にいた駆逐艦サンダーチャイルドは、戦闘機械目がけて突進し、砲撃で撃破。2体目に迫る途中、熱線を受けて大爆発するも、体当たりで2体目も撃破するなど善戦をしました。3体目の戦闘機械は逃げ去りますが、その後もイギリス本土への火星人の円筒の落下は続きます。

ところが15日目の朝、突然火星人の進撃が止まります。火星人に襲撃され、あと一歩で捕まりそうになり、廃屋に閉じこもっていた主人公、オーグルビーが思い切って外に出ると、火星人らは姿を消していました。

静寂に包まれたロンドンに入った彼は、そこで戦闘機械を見つけます。死を決意し近づいていきますが、そこで見たものは火星人の死体でした。のちに判明したのは、彼らを倒したのは人間の武器や策略ではなく、太古に造物主が創造した微生物ということでした。

微生物に対する免疫がない火星人は地球に襲来し、呼吸し、飲食し始めた時から死にゆく運命だったのです。やがて人々は破壊された街へ舞い戻り、今度こそは宇宙人に負けない国づくり、いや星づくりをと、復興が始まりました…

原作は、1890年代後半にイギリスの雑誌や新聞に連載されていましたが、1898年に最終版が出版され、それ以来、現在に至るまで重版が続いています。この初版本の公表に先立ち、アメリカでは2回の無許可の連載が新聞に出されました。

最初は1897年12月から1898年1月までニューヨーク・イブニング・ジャーナルに掲載されたもので、物語の舞台はニューヨークに変えられていました。また第二の連載では、火星人が現れたのがボストン近郊になっていました。

その後、アメリカでも正式に出版されて人気を博しましたが、1938年10月30日には、ハロウィン特別番組として、アメリカCBSのラジオ番組「マーキュリー放送劇場(The Mercury Theatre on the Air)」の中で放送されました。

番組は、音楽中継の途中に突如として臨時ニュースとして火星人の侵略が報じられるという体裁になっており、物語の舞台は、先の新聞連載と同じく、アメリカ合衆国に実在する各地の地名に改変されていました。

ところが、この生放送を多くの人が本物だと信じました。侵略がフィクションである旨を告げる「お断り」が何度もあったと言われますが、そのうちの1度は放送開始直後、残り2度は終了間際でした。このため、聴取者の多くが話に夢中で、この「お断り」を聞きのがしたと考えられています。結果として多くの聴取者を混乱と恐怖に落としめ、実際の火星人侵略が進行中であると信じさせました。

無論、原作本を読んでいた人も多くいて、すぐにおかしいなと感じた人も多かったようです。番組の内容がウェルズの「宇宙戦争」であることに気がついた人や、番組内容の非現実的なディテールに気がついた人などは、他のラジオ局で同様の放送をやっているか確認したり、新聞の番組表を見直すなどして事実を掴みました。

しかし、同じように番組を聴いていてパニックに襲われ、混乱していた人に確認の電話をかけてしまい、逆に感化されてしまった人も多かったようです。こうして、正確な知識や情報を得られず、明確な根拠も無い人が増え、そのままに広まる、いわゆる「デマゴーグ」が全米中に連鎖的に広まりました。

「マーキュリー劇場」は、もともと聴取率が非常に低い不人気番組であり、「宇宙戦争」の前週の聴取率はわずか3.6%でした。しかし、たまたまこのとき、裏番組では当時アメリカ国民の3人に1人以上が聴取していたという“The Chase and Sanborn Hour(チェースとサンボーンの時間)”というコメディ番組をやっていました。

ちょうど宇宙戦争のほうがが始まったとき、この国民的人気を誇る裏番組に、なぜか超不人気の歌手が登場したといい、多くの人が局を変えた瞬間、たまたま火星人によるニュージャージー州襲撃のくだりが放送されました。その迫真のナレーションが、パニックに拍車を掛けたもうひとつの原因といわれています。

さらに1938年といえば、ちょうどこのころヨーロッパでは、チェコスロヴァキアのズデーテン地方帰属問題をめぐってナチス・ドイツと欧米列強が緊張関係にありました。アメリカ国民の間でもヨーロッパで戦争が勃発して自国も巻き込まれるかもしれないという懸念が膨らみつつあった時期であり、このため、火星人による襲撃をドイツ軍による攻撃と勘違いした住民も多かったようです。

ナチス・ドイツの台頭により、開戦への緊張感が高まっている時代であったことも関係したわけですが、さらに混乱に拍車をかけたのは、この作品をプロデュースしたのが、天才脚本家といわれたオーソン・ウェルズであったことです。

子供のころから、詩、漫画、演劇に才能を発揮する天才児といわれたウェルズですが、このころは人気俳優として人気絶頂でした。劇団「マーキュリー劇場」を主宰し、シェークスピアを斬新に解釈するなどさまざまな実験的な公演を行って高く評価され、1936年、ラジオにも進出し、CBSのラジオドラマのディレクターも始めていました。

オリジナルの「宇宙戦争」の舞台はイギリスでしたが、これを放送する際には、舞台を現代アメリカに変え、またその出だしもヒンデンブルク号炎上を彷彿とさせるような臨時ニュースで始めました。そしてウェルズ自らが演じる「目撃者」による回想を元にしたドキュメンタリー形式のドラマとして番組をスタートさせしました。

この前例のない構成や演出と迫真の演技は、生放送のニュースと間違うほどの出来であり、結果として聴取者から本物のニュースと間違われ、パニックを引き起こすに至ります。おそらく歴史上最も成功したラジオドラマ作品だったといえるでしょう。



この事件でウェルズは全米に名を知られるようになり、それまでスポンサーの付かなかったこの番組は、その後キャンベル・スープ社の提供による“The Campbell Playhouse”に改題して1940年3月まで継続しました。その後も1950年代半ばまで、ウェルズはラジオ番組に関わり続け、多くの印象的な番組を残しています。

しかし、オーソン・ウェルズの演出が素晴らしかったにせよ、H.G.ウェルズの原作はそれ以上に説得力のあるものでした。臨場感あふれる描写にあふれていたことが人を惑わせた理由と考えられます。原作本の作者もウェルズなら、ラジオ演出もウェルズであり、この名前の人には天才的なストーリーテラーがが多いのかもしれません。

それにしても原作が発表された1898年といえば、日本はまだ明治31年であり、3年前の1895年(明治28年)には、日清戦争が終了したばかりのころです。この戦争の勝利によって軽工業を中心とする産業革命が本格化、1901年(明治34年)には、日本初の西洋式製鉄所である官営八幡製鉄所が開業したばかりです。こうしたことなどで、ようやく日本においても重工業とよばれるべき産業の端緒が形成されはじめた、といった時代です。

もっともイギリスはこの時期、パクス・ブリタニカ(Pax Britanica:イギリスの平和)と呼ばれた時代を迎えており、この時期のイギリス帝国はまさに最盛期を迎えていました。ヴィクトリア女王の統治の下、科学技術は発展し、選挙法改正により労働者は国民となり、世界中から資本が集まっていました。

産業革命による卓抜した経済力と軍事力を背景に、自由貿易や植民地化を情勢に応じて使い分け覇権国家として栄えた時代であり、H.G.ウェルズのような想像力のある人間が書いたSFを人々が単なる夢物語と受け取らず、将来的な自分の国の姿としても十分にありうる、と考えうる下地が整っていた、ということでしょう。

ただ、H.G.ウェルズという人(正確にはハーバート・ジョージ・ウェルズ(Herbert George Wells))は科学者でも研究者でもなく、単なる文筆業家、つまり作家にすぎませんでした。作家になる以前は、呉服商や薬局の徒弟奉公、見習い教師などを経験していますが、いずれも長く続かなかったといいます。

子供の頃から教員を目指していたようですが、このころのイギリスの教育界は、極めて保守的だったといわれており、丁稚奉公をしていたような青年を受け入れるような寛容さは持ち合わせていませんでした。また、父は商人でしたが、家庭は下層中流階級に属しており、けっして裕福ではありませんでした。

このため、奨学金でサウス・ケンジントンの科学師範学校(現インペリアル・カレッジ)に入学。このころ「ダーウィンの番犬(ブルドッグ)」の異名で知られ、チャールズ・ダーウィンの進化論を弁護したことで知られる生物学者、トマス・ヘンリー・ハクスリーの下で生物学を学び、進化論には生涯を通じて影響を受けることになります。

これをきっかけに学生誌「サイエンス・スクールズ・ジャーナル」に寄稿し、22歳のときに掲載された「時の探検家たち」は、のちの「タイム・マシン」の原型となりました。また、25歳のときには、四次元の世界について述べた論文「単一性の再発見」がイギリスの評論雑誌「フォート・ナイトリ・レヴュー」に掲載されたりしました。

師範学校を卒業後、ヘンリー・ハウス・スクール(高校?)で教職に就きます。このころ、ウェルズは彼のいとこイザベル・メアリー・ウェルズと結婚しますが、3年後には離婚し、肺をわずらったこともあり、教師の道はあきらめ、文筆活動へ進むことを決意します。

その後、エイミー・キャサリンと再婚。このころから「アーティスト」としての活動にも取り組んでおり、かなりの枚数の絵を描いています。日記で自己表現をすることも多く、このころは政治的解説から現代文学への彼の気持ち、現在のロマンチックな興味に至るまで幅広い話題を取り上げています。

多数の絵やスケッチを残しており、彼はこれらの写真を “picshuas”(ピシャウス)と呼んでいますが、今風の漫画とスケッチを足して二で割ったような絵です。これらのpicshuasは、長年にわたってウェルズの学者による研究の話題となっているとともに、骨董の世界ではかなりの高額で取引されているようです。

その後ウェルズはジャーナリストとなり、「ペルル・メル・ガゼット」といった保守層を対象とした新聞にのちのSFの元になるような幻想小説を書いたり、総合科学技術誌「ネイチャー」に寄稿したりするようになります。

1890年代から1900年代初頭にかけて、「タイム・マシン」(1895年)をはじめ、「モロー博士の島」、「透明人間」、そして「宇宙戦争」など現在に至るまでも名作といわれるような有名作品の数々を発表しました。これら初期の作品には、科学知識に裏打ちされた空想小説が多く、ウェルズ自身は「科学ロマンス」と呼んでいました。

晩年は、人権家としての社会活動に携わり、歴史家としても多くの業績を遺しました。が、生涯を通して糖尿病、腎臓病、神経炎などさまざまな疾患と戦いながら仕事を続けたといいます。

満79歳のとき肝臓ガンが悪化して逝去。ロンドンの友人のフラットで亡くなったといい、直接的な死因は臓発作だったようです。

その生涯における創作活動の結果は膨大で、とくに後世でもよく扱われるSF的題材を数多く生み出し、また発展させた事で評価を得ており、小説家としてはジュール・ヴェルヌとともに「SFの父」と呼ばれます。

社会活動家としては、50~60代に「新百科全書運動」を展開しています。世界平和の基盤となる新世界秩序のための知識と思想を集大成させる、としたもので、これに関する著書「世界の頭脳」を執筆。この中では、書籍の形態をとらない世界規模の百科事典を構想しており、これは現在のウィキペディアの構造を予言していたとも言われます。

また、自らが糖尿病を患っていたこともあり、1934年、糖尿病患者協会の設立を「タイムズ」紙上で国民に呼びかけました。これにより、国家規模での糖尿病患者協会が初めて設立されました。

ウェルズが書いた小説のひとつ、「解放された世界」は、SFでもありましたが、原子核反応による強力な爆弾を用いた世界戦争と、戦後の世界政府誕生を描いた社会小説の面もありました。核反応による爆弾は、原子爆弾を予見したとされ、ハンガリー出身の科学者レオ・シラードは、この小説に触発されて核連鎖反応の可能性を予期し、実際にマンハッタン計画につながるアメリカの原子爆弾開発に影響を与えたといいます。

また、ウェルズは、第一次世界大戦中に論文「戦争を終わらせる戦争」を執筆。大戦後に戦争と主権国家の根絶を考え、国際連盟を樹立すべく尽力しました。しかし、結果的に発足した国際連盟はウェルズの構想とは異なり国家主権を残す様相を示すようになったため、彼はその後「瓶の中の小人」という論文で国際連盟を批判しています。のちに発足した「国際連合」も同様に批判していました。

第一次大戦と二次大戦の二つの大戦を経験した彼は、戦争に翻弄される多くの人々をみて、「人権」にも言及しました。1939年には「人権宣言」についての書簡を「タイムズ」とルーズベルトに送るととともに、これを世界中の指導者に送っています。

知る権利、思想と信仰の自由、働く権利、暴力からの自由などを示したもので、これをもとに、1940年には、イギリスの貴族院議員所属の裁判官、ジョン・サンキーが議長を務める「サンキー委員会」にちなんで「サンキー権利章典」が創られました。11の基本的人権を含んでおり、これは以下の通りです。

人生への権利
未成年者の保護
コミュニティに対する義務
知識の権利
思考と崇拝の自由
仕事の権利
個人所有権
動きの自由
個人的自由
暴力からの自由
法の制定の権利

この権利宣言は、1941年1月6日に公表されたアメリカ大統領、ルーズベルトの一般教書の中の「四つの自由」を包含しています。さらにのちの1948年12月10日の第3回国際連合総会で採択された「世界人権宣言」などに影響を与えたとされ、さらには戦後の新日本国憲法の原案作成に大きな影響を与えたとされます。

特に日本国憲法9条の平和主義と戦力の不保持は、ウェルズの人権思想が色濃く反映されている、といいます。原案では、全ての国に「戦争放棄」を適用して初めて自由が得られる、といったことが記されていようです。しかし、結果として日本のみにしか実現しなかったことで世界平和の達成は遠い先の話になった、といったことが言われているようです。

また、ウェルズの原案から日本国憲法の制定までに様々な改変が行われた結果が、現状の憲法9条だといいます。そして、このあたりのことが、現在活発に議論されるようになった改正議論の原因のひとつにもなっているともいわれているようです。

ウェルズが、晩年にこうした人権運動に走るようになったのは、自らが創作したSFの世界での世界平和の延長線上の行為であったことは想像に難くありません。

また、「戦争を終わらせる戦争」とは人類世界のためだけのものではなく、今後実際にありうるかもしれない宇宙人の世界との戦いの中で必要になってくるものなのかもしれません。

2017年も暮れに近づいてきました。残る時間の中、宇宙人との接触はあるでしょうか。




赤とんぼの色は?

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9月になりました。

まだまだ秋本番にはほど遠いようですが、朝晩かなり冷え込むようになり、日が短くなってきました。私の大嫌いな夏も遠からず終わりを告げるのは確かであり、いずれ、そこここを赤とんぼが飛び回るようになるのでしょう。

トンボは漢字で「蜻蛉」と書くようですが、この赤とんぼは、「赤卒」とも書くようです。

中国語でもこれで通じるようですが、なぜ「卒」の字をあてるのか調べてみたところ、この文字には「にわかに」、「急に死ぬ」、「終える」、という意味があるようです。なので、秋の終焉を迎える虫ということで使うのかもしれません。赤とんぼが終わるころには、秋が終わり、冬がやってきます。

赤卒は「せきそつ」と読む一方で、「あかえんば」とも読むようです。こちらも由来を調べてみたのですがよくわかりません。飛騨地方の方言で「えんば」とは、もうじき、もうすぐ、という意味のようなので、こちらもやがてやってくる冬を意味するのかもしれません。

昆虫の分類上、赤とんぼといえば、普通「アキアカネ」を指すようです。こちらは「秋茜」と書き、秋にふさわしく、哀愁を感じさせるネーミングです。トンボ科アカネ属に分類される日本特産種で、日本では小笠原諸島、沖縄県を除き各地で普通に見られる種です。

平地から山地にかけて、水田、池、沼、湿地などにヤゴとして生育します。孵化した未熟な成虫は夏に涼しい山地へ移動し、成熟し秋になると平地に戻る、という習性があります。他の多くのトンボも未成熟成虫が水辺を離れて生活しますが、アキアカネの場合この移動が極端に長距離なのが特徴です。

5月末から6月下旬にかけての日中の気温が20-25℃程度のとき夜間に羽化します。まれに標高2000m代の高所からの羽化記録もあります。成虫となったアキアカネは朝になると飛び立って水辺を離れ、1週間ほどを摂餌に費やします。

様々な小昆虫を空中で捕食し、長距離飛翔に必要なエネルギーの蓄積を行います。十分に体力がついた段階で3000mぐらいまでの高標高の高原や山岳地帯へ移動して、7~8月の盛夏を過ごします。そして、夏が終わるころ、通常は秋雨前線の通過を契機に大群を成して山を降り、ふたたび平地や丘陵地、低山地へと戻ってきます。

なぜ移動するか、ですが最も大きな理由は暑さが苦手なためです。アキアカネが活動中の体温は外気温より10~15℃も上昇するそうです。にもかかわらず排熱能力が低いため、気温が高い場合は簡単にバテてしまいます。30℃を超えると生存が難しくなるといい、このあたり、25℃を超えると生息が危うくなる私とよく似ています。前世は赤とんぼだったか?

逆に低温時におけるアキアカネの生理的な熱保持能力は高く、秋の終わりごろになり、大半の虫が死に絶えるころになっても平気です。ただ、ちょっと残暑が厳しくなると涼しい環境をみつけて移動します。酷暑の年には移動先はより高い標高の地域となり、冷夏の年にはそれほど高いところまでは移動しないこともわかっています。

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普通にじっとしているときも何気に暑さ対策をしています。夏の昼間の日差しが強い時間帯に、止まっているアキアカネが逆立ちをしているのをよくみかけますが、これは、日光が当たる面積を減らし体温の上昇を抑えるためと考えられています。

赤い色をしているためか、危害を加えると罰が当たるとする言い伝えもあるようです。東北地方では、捕まえると雷に打たれるとして「かみなりとんぼ」と呼びます。また、東海地方では目が赤くなったり腹が痛くなったり、瘧(おこり・マラリア)などの発熱発作を起こすとする伝承があります。

アキアカネに限らず多くのトンボは害虫を食べてくれるので、むやみに殺生することを戒めため、こうした伝承がうまれたのでしょう。あるいは、秋に真っ赤になるほどの大群で出現するため、その姿に何らかの霊性を認めたためかもしれません。同じく秋の赤い色の風物詩といえばヒガンバナがあり、こちらは“あの世”である「彼岸」にちなんでいます。




赤い色をしたトンボにはこのほか、「ナツアカネ」と呼ばれる種があり、アキアカネは夏に一旦低地から姿を消し、秋に出現するのに対して、こちらは一夏中低地から姿を消しません。「ナツ」の和名が与えられたのはこのためのようです。ただ、アキアカネに比べ、相対的に数は少なく、夏の間でもほとんどみかけない地方も多いようです。

いずれも同じアカネ属に分類される近縁種ですが、高地と平地でそれぞれ棲み分けがなされているのは、おそらくその生活史の中での食餌環境をシェアするためでしょう。ナツアカネのほうが少ないのは、同じ平地においては競争相手として他のトンボもいるためと考えられます。

なぜ赤い色をしているのか、ですが、これは彼らの生殖行動に関係があるようです。通常アキアカネもナツアカネもオスはメスに比べて赤色が濃いようで、これは交尾のためによりメスにアピールするため、といわれています。メスが性的に成熟したオスを識別しやすくするためでもあります。

また、赤く見えるということはその色をはね返しているということでもあり、青や紫、さらに紫外線などの波長の短い光を吸収しやすいということです。紫外線などの波長の短い光は、高いエネルギーを持っています。それを吸収しやすいということは、晩秋のよう寒い時期になっても体温を暖かく保てる、ということになります。

暑さに弱いという特徴があるのに矛盾しますが、寒い季節になっても保温能力が高いということは、摂餌においてはそれだけ他の昆虫に比べて有利になります。また、とくにオスが日なたにとどまって縄張りを守る際には役立つ、といったこともあるようです。

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この「赤」という色名ですが、あらゆる文化には、それぞれ化特有の特徴を持った色があり、呼び方はさまざまです。文化の背骨となっている言語の中で生まれてきたものであり、日本語では「赤」ですが、中国語で赤という場合は「紅」になります。こうしたある文化で生まれた固有の色名を「基本色名」と呼びます。

日本のJIS規格での基本色は、無彩色としては白・灰色・黒の3種類であり、有彩色では赤を含めて10種類が採用されています。アメリカでは13種あります。

ところが、色というのは、そんな単純なものではなく、特別な名前が付けられた色や、また名前の付けられていないような色が、それぞれの国でゴマンとあります。ただ、それらは全て基本色名で言い換える事ができます。

例えば、日本では黒みがかったシブい赤色で「蘇芳色(すおういろ)」というのがありますが、これも基本色名である「赤」と言い代ることができますし、空の色や海の色などをまとめて「青」と呼んでいます。

同様に、基本色である赤にはほかにも、朱(シュ)、丹(タン)、緋(ヒ)、紅(コウ)などがあり、それぞれが日本の長い歴史のなかで文化的な意味を保ってきました。

基本色名である「赤」の語源は「明(アカ)るい」に通じるとされます。「赤恥」、「赤裸(赤裸裸)」などの用例のように、「明らかな」、「全くの」という意味を持つとともに、暗黒の世界の象徴である悪霊や病気に対する効果がある色とされてきました。

古来日本では、疱瘡(天然痘)をもたらす疫病神(疱瘡神)が赤色を嫌うと信じられており、患者の周囲を赤で満たす風習がありました。また沖縄では病人に赤を着せ、痘瘡神を喜ばせるために歌、三味線で、痘瘡神をほめたたえ、夜伽をしたといわれます。

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そのほかにも、赤系の色はさまざまな文化的意味を持って使われてきました。中でも特筆すべきなのは、朱色です。

朱は、硫化水銀(HgS)からなる鉱物から採れる「辰砂」から作られます。平安時代には既に人造朱の製造法が知られており、16世紀中期以後、天然・人工の朱が中国から輸入されるようになり、中国の辰州(現在の湖南省近辺)で多く産出したことから、「辰砂」と呼ばれるようになりました。中国では古くから錬丹術などでの水銀の精製の他に、顔料や漢方薬の原料として珍重されていました。

日本では弥生時代から産出が知られ、古墳の内壁や石棺の彩色や壁画に使用されていました。漢方薬や漆器に施す朱漆や赤色の墨である朱墨の原料としても用いられ、古くは伊勢国丹生(現在の三重県多気町)、大和水銀鉱山(奈良県宇陀市菟田野町)、吉野川上流などが特産地として知られていました。

色料としての朱の範囲は比較的幅があり、例えば「黄口」や「青口」といったものがあります。赭土(三酸化二鉄)、鉛丹(四酸化三鉛)、鶏冠石(硫化砒素)を加えるか、それ以外の顔料や染料、或いは他の朱色の発光物の混合に基づいて、いろいろなバリエーションがあり、これらの混合の度合いで朱の色合いが定まります。

この朱を作る材料のひとつ、赭土(しゃど)は、別の赤色である「丹(タン)」を生み出します。発色成分の三酸化二鉄は、いわゆる赤土に多数含まれているものです。要は鉄が錆びたものであり、古来から日本国中どこでも容易に入手できる顔料のひとつです。鶴の一種タンチョウの和名は、頭頂部(頂)が赤い(丹)ことに由来し、“丹鳥”の意です。

朱や丹が鉱物から生み出される赤色であるのに対し、緋(ヒ)は、植物性由来の色で、「アカネ」の根を原料とします。「茜染」といわれる染物に古来から使われてきており、濃く暗い赤色を「茜色」というのに対して、最も明るい茜色を「緋色」といいます。

日本では大和朝廷時代より緋色が官人の服装の色として用いられ、紫に次ぐ高貴な色と位置づけられました。また江戸時代には庶民の衣装にも広く用いられていました。ちなみに、緋色は英語圏の色、scarlet(スカーレット)とほぼ同じ色と言われています。

紅(コウ)は、くれない、べに、とも呼ばれ、こちらも植物性です。キク科の紅花の汁で染めた赤色で、鮮やかですが、やや紫を帯びており、中国に由来するとされることからで「唐紅(からくれない)」とも言います。ほかに古来から染料として利用してきた色に「藍」があり、“くれない”は「呉の藍」(くれのあい)から来ている、という説もあります。

現在の中国や旧ソビエト連邦をはじめ、共産主義のシンボルとしても使われています。紅花の原産地はエジプトとアナトリア半島といわれており、このためか、どちらかというと他の赤い色よりもエキゾチックなイメージがあります。

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このように、日本における赤色は、他の基本色と比較すると、かなりバラエティーに富んでいます。以上は代表的なものにすぎず、いわゆる赤系の「和色」と呼ばれるものは、分類法にもよりますが、だいたい90種類ほどもあるようです。日本の国旗の色でもあることを考えると、日本人というのは赤という色に相当のこだわりがある国民のようです。

ちなみに、日章の色に定められているのは、輸入色ともいえる「紅色」で、マンセル色体系(色を定量的に表す国際的体系)で 3R 4/14 です。ただ、より明色に見える朱色系の「金赤(同 9R 5.5/14)」が使われることも実際には多いようです。いずれにせよ、より日本的な色である朱や丹が使われていない、というのは不思議なことではあります。

この赤色に限らず、一般に色は、生活や文化、産業や商業、デザインや視覚芸術の重要な要素であるため、多種多様なものが生み出されてきました。「様式」「作風」「文化」の特徴の一つとして、特定の色の使用、特定の色の組み合わせ、色と結び付いた意味などが含まれている場合も多く、色に関していえば、広辞苑や国語辞典のような一般的な辞書というものは存在しません。

また、色は様々な感情を表現したり、事物を連想させることがあり、時代や文化による影響も大きいといえます。たとえば今日では喪服は黒が一般的ですが、江戸時代までは白が一般的でした。

ただ、「赤」 ついていえば、太古の昔からおおむねその意味は変わっていないと思われます。日の丸の赤は太陽を表しており、すなわち日本そのものですし、このほか血や生命、火に関するものも赤、女性も赤です。現代的なものとしては、左翼、革命、力、愛、情熱、危険、熱暑、勇気、攻撃、敵、といったものも赤で示されることが多く、電気や信号も赤で表現されることがあります。

交通信号などでは、赤色が停止や危険を示す表示として使われるほか、日本の消防車の車体色は運輸省令「道路運送車両の保安基準(昭和26年号)」で朱色と規定されています。フランス、イギリス、スイス、オーストリア、アメリカの一部の州等でも消防車の色に赤を用いています(ドイツでは赤または紫)。

このような場合に赤が使われる理由としては、人間には感知し易い色と知覚し難い色があるためです。色が人の注意を引きやすく目立つ度合いを、色の「誘目性」と呼び、無彩色よりも有彩色、寒色系よりも暖色系のほうが誘目性が高く、赤は暖色系です。

また、赤や黄などの暖色系の色および白色は実寸より物が大きく近くに見える膨張色で、他の色より知覚し易くなります。日本の児童の帽子やランドセルカバーが黄色なのは、知覚し易く、大きく見える色を採用する事で自動車事故を減らす狙いがあるからです。

ちなみに、青や黒等の寒色系の色は実寸より物が小さく遠くに見える収縮色です。誘目性も低く小さく見えるため、実際に黒色の自動車は他の色に比べて事故が多く、バスやタクシーが黒色を避けているものが多いのはこのためです。また、囲碁の碁石も黒石と白石が同じ大きさだと黒石の方が小さく見えてしまうので、黒石を一回り大きく作っています。

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また、赤を多用するのは人間の生理にも基づいているためともいわれます。乳幼児は赤色を強く認識するので、乳幼児の玩具は赤色を基調に作られています。また、子供部屋を黄色や赤の暖色を基調に作ると、知能指数が高い子供が育つという説があります。

さらに、年齢を重ねると波長の短い青色緑色系統の色は黒っぽく見えるようになりますが、波長の長い赤色は比較的年長の方でもよく見えます。ちなみに、老人性白内障に罹ると水晶体が黄色く濁り、より青色緑色系統の色が見えにくくなります。このため、老人はガスコンロの青い炎が見えにくく、火傷や火事を起こし易いといわれます。




生理学的に言うと、人間の目は、赤、緑、青の光を感知する「錐体」によって様々な色の視覚情報を知覚していますが、このうちL錐体は「赤錐体」と呼ばれ、赤色を感知する錐体です。その分布密度はM錐体(緑)の2倍、S錐体(青)の40倍もあり、他の色に比べて赤色光に対する感度が高いということがいえます。

これをもう少し詳しく説明すると、ヒトの目の網膜内には、L錐体・M錐体・S錐体と呼ばれる3種類の「錐体細胞」があり、これらが吸収する可視光線の割合が色の感覚を生んでいます。

これらの錐体細胞は、それぞれ長波長・中波長・短波長に最も反応するタンパク質(オプシンタンパク質)を含んでいます。錐体が3種類あることはそのまま3種の波長特性を構成する元となるので、L , M , S の各錐体を赤・緑・青でなぞらえることもあります。

ところが、人や猿などの霊長類における錐体はかつて2種類だったそうです。色刺激の受容器である目の進化の過程で、2種から3種に分岐したとされており、ヒトを含む旧世界の霊長類の祖先は、約3000万年前、3色型色覚を有するようになったといわれています。

これに対して、ヒトと同じ哺乳類の多くは2色型色覚か、色覚を持ちません(実は色覚を持っているがその感度が低い)。目の進化の過程で取り残されたかたちです。

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ところが、さらに、です。この哺乳類のさらに祖先である古代の爬虫類は、もともと4色型(4色型色覚)だったそうです。上のL、M、Sに加えて4つ目の色覚がありました。

この4番目の色覚とは、波長300~330ナノメートルの紫外線光を感知できる錐体網膜細胞のことで、これによってこれらの生物は長波長域から短波長域である近紫外線までの色を認識できるものと考えられています。

哺乳類の祖先ももともとこの4つ目の色覚を加えて4錐体細胞を持っていましたが、これがある過程で2種類になりました。

その理由としては、哺乳類だけは他の種類からの捕食を恐れて、夜や暗い所で活動することが主となったためです。わずかな光でも見えるよう桿体細胞(光の刺激を受容する細胞)が発達し、その代わりに2色型色覚になり、色覚そのものを失ったとされます。

夜行性となったため、色覚は生存に必須ではなく、結果、M錐体(緑)と紫外線感知錐体の2タイプの錐体細胞を失い、青を感知するSと赤を感知するLの2錐体のみを保有するに至りました。これは赤と緑を十分に区別できないいわゆる「赤緑色盲」の状態です。

変わらず昼夜ともに活動が活発だった魚類、両生類、爬虫類、鳥類はそのまま4色型色覚にとどまり、この名残で現在でもこれらの種のほとんどは4タイプの錐体細胞を持っています。

一方、2錐体のみを保有するに至った哺乳類のうち、ヒトを含む旧世界の霊長類の祖先は、上述のとおり、約3000万年前、突然3色型色覚を有するようになりました。3000万年前といえば、氷河期が終わり、ようやく地球全体が緑に包まれるようになった時代であり、このころ2色型色覚(赤緑色盲)に退化した哺乳類から、人や猿の先祖である霊長類が分科しました。

その理由としては、ビタミンCを豊富に含む色鮮やかな果実等の獲得と生存に有利だったためと考えられ、霊長類が暮らすようになった「森の環境」がその原因です。

森の中というのは、うっそうと木々が生え、緑と緑陰に囲まれた場所です。こうした環境では、果実が熟した時などに、葉の緑の中から赤を識別できるかというと、2色型色覚ではそれができません。

明度(明暗)が違えば識別できますが、常時ほぼ同じ明度の森の中では、色度だけをたよりに果実を区別しようとしても周囲の緑に完全に埋もれてしまいます。ところが、3色型の色覚なら、緑の背景から黄色やオレンジや赤っぽい果実がポップアップして見えます。

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これが、ヒトや猿が現在のように3つの錐体を持つに至った理由と考えられています。ただ、ヒトに関して言えば、その他の猿とは違って、その後狩猟生活をするようになりました。このため、果物などの植物に依存して生活する必要がなくなり、若干この3色型色覚の優位性が低くなったといわれており、それは他の霊長類に比べて色盲が多いことからもわかります。

色盲の出現頻度は狭鼻下目のカニクイザルで0.4%、チンパンジーで1.7%です。これに対し、日本人では男性の4.5%、女性の0.165%が先天赤緑色覚異常で、白人男性では約8%が先天赤緑色覚異常であるとされます。またニホンザルもヒトよりも色盲の数が非常に少ないことがわかっており、3色型色覚という点では人はやや退化した状態ということになります。

イギリスのロマン主義の画家、ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー(1775~1851)は、黄色を好んで使用したといわれています。彼の絵具箱では色の大半が黄色系統の色で占められていたといい、逆に嫌いな色は緑色で、緑を極力使わないよう苦心したそうです。このことから色覚異常ではなかったかと言われており、同様にやゴッホ、ピカソやシャガールなど著名な画家達も色覚異常であったのでは、との説があります。

ターナーは知人の1人に対して「木を描かずに済めばありがたい」と語っており、また別の知人からヤシの木を黄色く描いているところを注意された時には、激しく動揺していたといいます。近代社会においても、とくにアニメなどのように、生理的な識別が容易で単純な色を多用する分野・領域では、色覚異常者はとかく肩身が狭い思いをしています。

しかし、色覚異常といわれているのは、あくまで標準的な色覚を持っている人に対しての評価であり、一般に普通と言われている人であっても、色覚に関しては大小の差異があります。人が色として感じる感覚には非常に多くのものがあるといわれており、赤色の和色が90種あるように、他の国の基準を入れればもっと多くの赤色の分類ができるでしょう。

こうした色覚の違いが表面化するのは、同じように見えるもののその見え方の違いが微妙であるため、お互いの意見に疑義が生じるなどの場合です。大多数の人がはっきりと同じものだ、あるいは異なる、といった判断をしているのにそれは違う、という人はその生理については色覚異常、機能については色覚障害というレッテルを張られてしまいます。

ところが、色覚が正常といわれている普通の人々の生活の上においても、印刷や塗装の過程において、いつもとは異なり、明るく鮮やかな色を多用するとか、色素の濃度を高くしたり塗料を厚く塗ったりすることはママあります。色の飽和度を高くしたり、色素の存在比を大きくして生理的な弁別の容易さを高めるなどした結果、結局はオリジナルとはかなり変わった色になってしまった、というのはよくあることです。

上で色覚異常が疑われている画家たちに関しても、彼らが生きていた時代には用いる絵具などの画材の消費量は少なく、また使用法も厳密ではありませんでした。一般に原料の品質も低く、このため発色が良くないものも少なくなく、より古い時代はなおさらです。従って、上の有名画家たちが本当に色覚異常だったかどうかはわかりません。

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さらに、同じ組成の光を受けた場合でも、それをどのように知覚するかは人それぞれの目と脳の相関関係によって異なるので、複数の人間が全く同一の色覚を共有しているわけではありません。同様に、ある人が同じ物を見ても右目と左目では角度や距離が異なり、見えた色も一致しないことがわかっています。他者の色知覚を経験する手段は存在せず、同一の色知覚を共有することも不可能です。

また、知覚した色をどのような色名で呼ぶかは学習によって決定される事柄であり、例えば赤色を見て二人の人間が異なる知覚を得たとしても、二人ともそれを「赤」と呼ぶので、色覚の違いは表面化しませんが、実際にはイチゴ色とサンゴ色ほどに違っていたりします。

近年、人間以外の様々な生物の色覚を知ろうとする試みがあり、色覚の有無や性質が研究されていますが、こうした研究もはたして人間が感じるのと同様な色を感じているのかどうかを確認することでその生活史を探るためです。違った色の見え方をする人を比較してみた場合、その世界は青と赤ほども違っている可能性もあるわけです。

もっとも、文明が発達した人間社会ではそれでも共同生活は可能です。複数の個体間で知覚される色がどのような色であるかを直接すり合わせることは出来ませんが、人間同士であれば言語やカラーチャートを用いて情報交換することが可能だからです。色の違いで混乱がおきないのは、人間がこうした高度な科学力を持っているからです。

なので、この項で強く言いたいのは色覚に「異常」というものはなく、それは個性だということです。

ヒトも生物である以上、色覚の個体差があるのはあたりまえであり、このように色の認識の上において違いがあるのは、色覚を感知する目の機能がひとりひとり微妙に違うためです。目は色刺激に由来する知覚である「色知覚」を司りますが、色知覚は、質量や体積のような機械的な物理量ではなく、音の大きさのような「心理物理量」であるといわれています。

同一の色刺激であっても同一の色知覚が成立するとは限らず、直前に起こった事象による知覚や体調・心理状態によって、それをその人がどう感じるか結果はかなり異なります。たとえば、対象物が白や灰色・黒といった無彩色なのに、色を知覚する場合があり、その例えとして良く使われるものに「ベンハムの独楽(こま)」というのがあります。

イギリスのおもちゃ製造業者である「チャールス・ベンハム」の名に由来する独楽です。視覚に関する錯覚、「錯視」の実験として良く知られており、ベンハムは、1895年に下図に示したように上面を塗り分けた独楽を発売しました。

Benham's_disc_(animated)ベンハムの独楽

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回転していないオリジナルは白と黒の図形にすぎない

見るとわかると思いますが、ベンハムの独楽を回すと、何等かの色のついた弧があちこちに見えるはずです。この弧の色は、刺激に関する感覚の定式を“ヴェーバー‐フェヒナーの法則”として定式化したドイツの物理学者、グスタフ・フェヒナーによって、「フェフナーの色」と呼ばれています。

誰が見るかによって異なる色となりますが、なぜこのような現象が起こるのか完全には理解されていません。ただ、赤(正確には黄色からオレンジ)、緑、青に感受性が高い網膜内の光受容体(錐体)が応答する光の変化率がそれぞれ異なっているからではないかとも考えられています。

このベンハムの独楽は、単色光の下で回してもやはり色感覚が生まれます。さらに左目と右目別々に、独楽の模様の一部分ずつを見せるように工夫しても色感覚が生まれます。日本では、あるテレビ局がこの錯視を応用してモノクロテレビ放送で擬似的な色を発生させる試みが行われ、テレビCMでの映像効果に使用した事もあったそうです。

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このベンハムの独楽の現代版ともいえるようなおもちゃが最近流行しているようです。

ベンハムの独楽と違って色の変化をみるためのものではなく、ストレス解消等が目的で、「ハンドスピナー」といい、アメリカ生まれの手慰み玩具です。英語ではフィジェットスピナー(fidget spinner)とも呼ばれており、あちらではこのほうが一般的な呼び名です。

考案者はアメリカフロリダ州のキャサリン・ヘティンガー(Catherine Hettinger)という女性で、重症の筋無力症を負った彼女が、娘と遊べる玩具として考案しました。特許も保有していたそうですが、特許更新料の支払いができずに2005年に特許が切れています。

本来はただ単に、「回すだけの玩具」でしたが、回転速度や回転時間を向上させるなどの改造を加えた遊び方が受け、全米で広まりました。実際は一方方向に回っているにすぎませんが、ストロボ効果で逆回転しているようにみえるものもあり、このほか5枚羽のハンドスピナーやLED付きハンドスピナー、いろいろなものがあります。

一般には手のひらに乗るサイズであり、ボールベアリングと、その外輪から放射状に伸びるように付くプラスチックや金属等で出来たプレート部分、内輪を軸方向から挟むホールド用の部分とで出来ています。手や指でプレート部分を回転させることで一定時間プレート部分が回り続けます。

製品によっては5分以上回転し続けることを謳った商品もあるそうで、 基本的には指の間や机の上などで回転する様子を眺めたり、ジャイロ効果を感じたりして遊びます。動画サイトYoutubeなどでは「トリック(技)」を組み合わせてパフォーマンスを行う動画も個人などによって公開されています。

ただ、アメリカでは流行の拡大とともに遊んでいた子供が眼を怪我する事故や、幼児の誤嚥、子供たちが熱中するあまり学業の妨げになる問題も起きたため、一部の学校で使用を禁止するなどの混乱も起きたようです。しかし、その後改良は進み、日本にも輸入されるとともに、日本独自のオリジナル商品も出始めました。

アメリカでは昨年暮れぐらいから流行し始め、今年の4月あたりから「fidget spinner」の検索数が急激に伸びたといいますが、日本でも先日NHKのニュースなどで取り上げられたことから、これから話題になりそうです。

米CNNはADHD(注意欠陥・多動性障害)のカウンセリングにも有用であると報道したといい、もともとは筋無力症という重度の病を負った女性が生み出したものであることから、精神医学的にも着目されそうです。

暑かった夏がそろそろ終わり放心状態のあなた、夏バテで最近集中力が途切れがちな貴兄。飛び回り始めた赤とんぼを指先をクルクル回して捕まえてみるのも一興ですが、ここはひとつ、長い秋の手慰み。こちらをスピンさせてみてはいかがでしょうか。

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ああ広陵

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この夏の高校野球では、地元広島の高校が大活躍したので我が家でも大盛り上がりでした。

普段はあまり見ない高校野球ですが、今年は2回戦から決勝戦までほぼすべてのイニングを鑑賞しました。

この広陵高校の怪物球児、中村奨成君の活躍もさることながら、広島勢が決勝戦まで行ったのは、10年ぶりのことであり、これは久々の快挙です。同じく地元といえる山口の決勝進出となると、32年前の1985年に遡り、このときは宇部商業がPL学園に敗れています。

なかなか郷里の球児たちが活躍する場を見る機会もない中で、今年は5試合も応援できたということで、骨折療養中の私としては大きな慰みになりました。

残念ながら、10年前と同じく今年も優勝はできませんでしたが、プロ野球の広島カープのほうは、どうやらぶっちぎりでペナントレースを制しそうな勢いなので、優勝の美酒を味わうのはこちらで、ということにしましょう。もっとも主砲の鈴木誠也外野手が右足の骨折とのことで、今シーズン終盤での活躍が見れそうもないのが残念ですが。



ところで、この広陵高校ですが、広島では一二を争うほど古い歴史を持つ学校です。明治40年(1907年)、呉服商・石田米助が出資して自らが校主となり、校長に鶴虎太郎を迎えて、旧制中学校として認可されました。

この二人、地元でもあまり知られていないようですが、教育者として広島の街に大きな貢献をした人物です。石田米助のほうは、このほか広島山陽高校、広島経済大学などを設立。一方の鶴虎太郎も。広陵高校、広島国際学院、鶴学園でといった学園を次々に創設したほか、他にも小中学校などの教育分野で多大な足跡を残しています。

広陵高校は正式には広陵学園広陵高等学校といい、現在は広島市の北西部、安佐南区にあります。大正期には現在の修道中学校・修道高等学校の前身である修道中学、明道中学(1923年廃校)とともに私立の中では広島三中と呼ばれていた程の名門校でした。

しかし、1945年8月6日、原子爆弾の投下により講堂及び教室一棟が倒壊。戦後しばらくは休校していたようですが、1948年5月の学制改革により広陵高等学校(全日制普通科)として改めて開校。1950年には定時制(普通科)を併設するとともに、1953年には 全日制・定時制とも商業科を併設するなど、規模を拡大しました。

1960年代までは、広島南部、海にも近い宇品というところに立地していましたが、1971年に安佐南区に広陵幼稚園を開園したのを契機に、翌々年の1973年、現在の安佐南区に全面移転。翌年には理数科を新設しました。

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実は80年代までは男子校でした。が、1998年4月 男女共学に移行、2000年頃までに定時制の普通科と商業科を廃止し、現在に至っています。そして校訓「質実剛健」のとおり、中身のぎっしり詰まった多数の良質な卒業生を世に送り出し、野球界だけでなく今の広島の街を支えています。

「広陵高校野球部 有志の会」のHPによれば、広陵高校野球部の歴史の始まりは、旧制中学として発足した明治40年からすぐの明治44年(1911年)のことで、「庭球部と合体し“球術部”として誕生」とあります。翌年球術部が解体して野球部と庭球部に分離しており、「野球部」の名称でのスタートは明治45年(1912年)になるようです。

大正5年(1916年)8月の第2回山陽大会への出場が公式戦への初参加で、大正12年(1923年)の第1回夏の全国大会に初出場、翌年の第2回 センバツ大会にも初出場して以来、何度も甲子園に行っています。日本の高校野球では広島商業ともども、広島県のみならず全国的にも有名で、1926年、1991年、2003年といずれも春の選抜大会で3回優勝しており、「春の広陵」の異名があります。

夏の選手権大会では1927年、1967年、2007年と、これまでも40年おきに3度決勝へ進出していますが、いずれも準優勝に終わっています。準優勝は春夏合計6回で、今回を入れれば7回にもなります。

卒業生としては、漫才師の島田洋七や演歌歌手の角川博、マジシャンのふじいあきら、などがいるほか、プロ野球界にはそれこそゴマンといった卒業生がいます。

野球界において、おそらく最も有名な選手は金本知憲、現阪神タイガース監督(第33代)でしょう。南区青崎出身で、中学校はその近くにある大洲中学校を卒業しています。実はどちらも私の母校であり、少々くち幅ったい感じもしますが。後輩ということになります。

広島市立青崎小学校4年時にリトルリーグ「広島中央リトル」で野球を始めましたが、練習についていけず、また体育の授業で手を骨折して練習が出来なくなったこともあり、それを口実に1年で退部したそうです。一学年下に、1990年代の大洋・横浜で主力投手として活躍した野村弘樹がおり、同チームのエースで四番打者でした。

その後は町内会のソフトボールや広島市立大州中学校の軟式野球部でプレー。広陵高校に入学して硬式野球部に入部したあと頭角を現しました。広陵では2年生からレギュラーとなり、左翼手として1985年の広島大会決勝に進出しましたが、広島工業に敗退。翌年も広島大会で敗れ、全国選手権出場はありませんでした。

高校では通算20本塁打を打ち、東北福祉大学に入学。大学野球で活躍したあと、広島カープにドラフト4位指名で入団していますが、その後の活躍はご存知のとおりです。

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このほか、広陵出身のプロ野球選手としては、長年、阪神タイガースで投手として活躍した福原忍、巨人・日ハムの二岡智宏、阪神タイガースに現役で所属する新井良太などがいます。ちなみに、この新井選手は広島東洋カープの新井貴浩の実弟です。

このほか現役では、カープのエースピッチャー、野村祐輔や中継ぎや抑えで活躍中の中田廉、巨人の小林誠司捕手などがおり、プロ野球だけでなくアマチュアや野球界にも多数の人材を輩出しています。野球以外では、日本初の柔道五輪メダリスト、かつ1964年東京五輪金メダリスト、中谷雄英も広陵高校の出身です。

この広陵高校野球部の歴史が長いことは前述のとおりですが、戦前の1936年にプロ野球連盟(日本職業野球連盟)が発足した当時から既にここに多数の名選手を送り出しています。

広陵中学(現・広陵高校)を経て慶応大学卒業後、八幡製鐵所野球部など社会人野球で活躍していた「加藤喜作」は、1940年、創設三年目のプロ野球南海軍に助監督兼選手として入団。戦時下の1942年、南海三代目の監督に就任し、終戦前年の1944年まで指揮を執りました。

また、広陵中学時代から捕手として活躍した、「小川年安」はおそらく、広島出身の選手として初めてプロ野球登録をした選手です。慶応大学に入学し、水原茂や宮武三郎といったその後の草創期の日本プロ野球の人気を支えた投手とバッテリーを組みました。また強打の4番としてスター選手となり、2度目の慶應義塾大学野球部の優勝に貢献しました。

慶応卒業後の1935年、この年創設された大阪タイガースと契約、入団。背番号2。翌1936年、プロ野球リーグが開幕すると、この年は主に3番を任され、チームトップの打率.342を記録。誰も打てなかった巨人沢村栄治のホップする剛速球を、「大根切り打法」で攻略するなど活躍しました。しかし、その後招集され、1937年(昭和12年)、東京中野の第一電信連隊へ入隊。惜しむらく1944年に中国で戦死した、とされます。

正確な没日、没地などの詳細は不明で、出征後帰還しないため戦死として記録されたものです。享年33。タイガースの初代主将で、現役時代には名選手、監督時代にも名監督と謳われた松木謙治郎は、その著書の中で「復員していれば、人柄からみて必ずタイガースの監督になっていた」と述べています。

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この小川年安とともに広陵時代にバッテリーを組んでいた選手に「田部武雄」という人がいます。その実力は小川に勝るとも劣らないといわれたほどの選手でした。東京巨人軍創成期の1番打者、主将として活躍し、巨人で最初に背番号3を着けた選手で、現在永久欠番となっている1と3を両方着けた唯一の選手でもあります。

戦時中に亡くなった巨人軍の名選手といえば沢村栄治が真っ先に思い起こされますが、1936年に日本職業野球連盟が結成され、アメリカへ遠征壮行会が行われたとき、巨人の選手の中でアメリカ大リーグが最もマークしていたのが沢村とこの田部だったといわれます。沢村の影に隠れてしまっていますが、もっと評価されてもいいのに、と思わせる人物です。

なので、今少し詳しくこの人物について書いてみたいと思います。

田部武雄は1906年3月28日、広島県広島市袋町(現在の中区)に生まれました。8人兄弟の5番目で早くに父を亡くし、家庭の事情は苦しかったようですが、お母さんは苦労してこの子供たちを逞しく育てたようです。

その甲斐あってか、次兄・謙二は、1915年に初開催された全国中等学校優勝野球大会(のちの夏の高校野球選手権)、第1回大会の第1試合に、広島一中(現・広島国泰寺高校)の6番・捕手として出場しました。実はこれも私の母校になります。どうも今日はそういう日のようです。

この試合で指を痛め付近の病院に担ぎ込まれたため、これをきっかけに各種スポーツ大会に救護班が設けられるようになったという逸話が残っています。ちなみ広島一中(国泰寺高校)はその後サッカーの名門になりましたが、野球部は現在に至るまで二度目の全国大会出場は成し遂げていません。

この兄はその後、毎日新聞広島支局の記者となり、セミプロ野球団「大阪毎日野球団」の結成にコーチ兼任格として参加。田部武雄もこの兄の影響で野球を始めました。上述の加藤喜作と同じ袋町小学校出身で、少年野球チーム・旭ボーイズに所属していたといいます。

袋町小学校高等科を経て1920年、旧制広陵中学(現・広陵高校)に入学しますが、1年で退学。理由は先の次兄・謙二がこの頃亡くなったことです。そのころ長兄と三兄は満州に渡って職についており、その仕送りもあったでしょうが生活は苦しかったと考えられます。兄の死を契機にこのとき16歳だった武雄は、自らも収入を得るため単身満州に渡ることを決心します。

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1924年、大陸に渡り、奉天でサラリーマンとなり、大連実業団に参加し野球を続けました。大連実業は、当時、人気絶頂だった東京六大学のスタープレーヤーがこぞって海を渡って結成されたチームで、満鉄中心の「大連満洲倶楽部)」と並んで社会人野球の都市対抗戦では、ぶっちぎりの強さを誇っていました。

武雄が満州に渡った理由としては家計の問題以外にも複雑な家庭環境があったこと(親戚か他の兄弟との確執?)が取り沙汰されており、学校あげての野球部満州遠征のメンバーに加えられなかった不満があったことなども理由ではなかったかと言われています。

他に彼の野球に関する天才的素質に好意を寄せた大連実業の実力者に迎えられた、といった説もありますが、はっきりしたことはわかっていません。とまれ六大学出身の花形選手ばかりだというのに、いきなりレギュラーポジションを掴み、再三戦った「満州倶楽部」との“実満戦”は「大連の早慶戦」と呼ばれ、人気を博したといいます。

この当時の田部の勤務先は「銭荘」だったようで、これは、中国における旧式の金融機関のことです。この当時、事実上の本位通貨として通用していた銀の固形体である銀錠(馬の蹄の形をしており、馬蹄銀と呼ばれ広く用いられていた銀貨)と銅銭の両替を行い、その際に手数料を得ることが主業務であり、比較的お気軽な職業だったようです。

こうして満州で職業人野球を満喫していた田部ですが、1926年からは、内地の実業団と戦うために内地に戻り、逆に国内各地を転戦するようになります。大連実業の1番二塁手として内地を転戦していたころ、そのころの監督で明治大学OBだった中島謙などから、明治大学への進学を勧められました。これを受けて帰国し広陵中学4年に復学(このころの中学は5年生で現在の高1に相当)。

この当時は広陵から多くのOBが明大野球部に進んでおり、進学しやすくするための措置だったようです。当時の広陵の学籍簿には「中学四年生として編入試験に合格」「1927年復学」と書かれています。当時中学は5年が修了期限でしたが、4年修了と同時に大学に進学することも可能であり、大学へ行く資格を取るための一時編入だったのでしょう。

この内地で暮らした短い期間にも彼は野球に没頭しています。この頃既に21歳になっていた田部は、この年の春の選抜大会で「中学生」として甲子園に出場。この当時の選抜には年齢・学年とも制限が無かったためです。広陵はその前年度に初優勝しており、この満州がえりの剛腕投手の加入をチームは諸手を挙げて歓迎しました。

このころの広陵野球部は、田部を加えて史上最強チームと言われ、八十川胖(のち明大)、小川年安(慶大、阪神)、山城健三(立大)、三浦芳郎(明大)、中尾長(明大、セネタース)などの名選手がそろっており、その後の「野球王国」の礎を築きつつありました。

田部は、春連覇を狙いエース3番として勝ち進み決勝までいきますが、快速球左腕小川正太郎(のちに早慶戦など大学野球で活躍)を擁する和歌山中学(和中)の前に惜しくも敗退しました。この大会で田部はピッチャーとして奮闘しましたが、バッターとしてもランニングホームランを打つなど走攻守に渡って活躍しました。

しかし、決勝はクタクタでピッチングは本調子ではなかったといいます。この年の優勝チームはアメリカ遠征の褒美が付いていましたがそれも叶わず、試合後、「オレは、それだけが目的だった」と身を震わせて残念がっていたといいます。

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このころ田部はまだ大連実業に籍を置いており、この年の夏の選手権は出場できませんでした。その理由は、毎日新聞が主催する春の「選抜」と異なり、夏の大会では主催者である朝日新聞が他チームから移籍してきたメンバーの出場を制限していたためです。

この当時、田部のように実力十分な選手が加わることで、チーム力がすぐに上昇する現実が、中学校の選手争奪戦を激しくしていました。田部のように「放浪生活」を続けて各チームを渡り歩くといったやり方は中等野球選抜でも問題となっており、夏の選手権大会ではその後1932年には、「在学一年以上」「落第生の出場禁止」など出場資格についての制限が加えられました。

夏の選手権に出場できなかった田部は、その後広陵中を後にして大連実業に復帰したようです。が、その後、大学にも進学しており、進学に必要な卒業資格は得ていたようです。推論ばかりですが、これはちょうどこの時期の田部の行動に関する資料が欠落しているためです。おそらく、いろいろと波風の立つことのあった広陵での野球生活は早めに切り上げ、進学までの短い時間を住み慣れた大連で過ごしたい、といったことだったでしょう。

1928年9月、鮮満遠征にやってきた明治大学との試合では、大連実業の1番遊撃手として登場。ピッチャーが一塁に山なりの牽制球を投げるのを見てとると、三塁から脱兎の如く本塁を駆け抜け見事ホームスチールを成功させました。逆に田部のいた大連実業が東京に遠征して早稲田大学、慶應義塾大学、明治大学と対戦する、ということもあったようです。

同じ年の1928年、時期はよくわかりませんが4月以外の季節に、22歳で明治大学の3年に進学。「広陵学園野球クラブ会員名簿」には昭和4年(1929年)広陵を卒業と明記されているため、広陵中に籍を置いたまま明治大学に進学したことになります。

現在なら、二重学歴となり、決して認められることはありませんが、この当時は明治大正のおおらかな雰囲気がまだ残っている時代です。個人の才能を十分に伸ばすことができるのならば、といった緩やかな教育条件が整っていたものと推察されます。ただ、この入学問題のため「明大は田部を買った」「球界の不祥事」などと大きく批判されました。

明治入りした田部はすぐにレギュラーを確保、主に二塁と遊撃を守りましたが、捕手以外のポジションなら全てこなし、命ぜられればマウンドに上がり強打者を手玉に取りました。現在の日ハムの二刀流、大谷翔平ばりの活躍ですが、この当時の大学野球はプロのレベルに限りなく近かったようで、現在の大谷選手と比較しても遜色はなかったかもしれません。

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投手としては、踏み出した左足を地面に付けて、やや遅らせて球を投げるというボークすれすれの新しいモーションを編み出し、この投げ方は田部以外のピッチャーも真似し、当時流行したといいます。三塁にけん制球を投げるふりをし、反転、一塁へ牽制球を投げるという戦法も田部が編み出したものだそうです。

またランナーとしても優秀でした。塁に出ると飛び跳ねて、スパイクをカチッカチッと鳴らし、片足を突き出してピッチャーを挑発。観客の大歓声が沸き起こるなか、まるで隣の家に行くようにやすやすと盗塁やってのけたといいます。

さらに俊足強肩の外野手としても知られ、慶明戦でセンターを守っていた田部は、ランナー三塁で大きなセンターフライを背走して好捕。100m近い距離からバックホームをしてランナーを刺したこともあったといいます。

全てを兼ね備えた天才選手といわれ、この当時の明大の黄金時代に大いに貢献しました。リーグ通算67試合出場の間、22打点で36盗塁を記録しましたが259打数56安打で打率.216、本塁打は0本で、大砲というよりもマシンガンといったところでしょうか。

ただ、東京六大学を代表する美男子ともいわれ、明治の練習に女性がくれば九割が田部のファンだったといい、野球部の同僚たちは田部のファンからの差し入れのケーキや寿司をよく回してもらったといいます。

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1931年、読売新聞社主催の「日米野球」では日本選抜チームの外野手としてファン投票で選ばれ、右翼手3回と投手2回で4試合出場、初来日した鉄人ルー・ゲーリッグや剛腕レフティ・グローブら大物ら米大リーグ選手と対戦しました。もっともこの交流戦では、日本は初めてオールスターチームを結成して挑んだものの、17戦全敗に終わっっています。

1932年明治大学を卒業後、東京市の深川にあった藤倉電線に入社。このころはまだプロ野球は発足しておらず、田部の野球選手としての活躍の場は、アマか社会人野球だけでした。東京市に本拠地を置くクラブチーム、「東京倶楽部」の一員として第6回全日本都市対抗野球大会に出場。開幕第1戦に三塁手兼投手として出場しましたが、この大会優勝した全神戸に田部の三塁への暴走等で敗れました。

このころ、明治在学中から日活のトップ女優であった伏見信子・直江姉妹と付き合っていたといわれマスコミを賑わせました。父・伏見三郎が新派の俳優で、信子は早くから姉の直江と共に舞台の子役などで新派の舞台に出演し、1933年(昭和8年)、松竹蒲田に入社。五所平之助監督「十九の春」主演をキッカケに人気女優となり、小津安二郎監督の「出来ごころ」に人気男優の大日方伝(おびなたでん)と共演し、人気を不動のものとしました。

しかし騒いでいたのはマスコミだけで、その実は深いつきあいではなかったようです。田部の本命は東京日本橋の老舗乾物問屋のお嬢さんだったそうで、彼女との恋愛を周囲に反対され、すべてが嫌になり忽然と姿を消しました。

日本を去って南洋ジャワ島の開拓に行ったと当時の雑誌に書き立たれましたが、実際は山口県の小さな鉄道会社の身を落ち着けた後、1934年に福岡県の九州電気軌道(西日本鉄道の前身)に転職し、車掌をしていました。

しかし彼ほどの逸材を野球界が放っておくはずもなく、1934年の日米野球のアメリカ遠征チームで監督を務めていた「三宅大輔」が彼を勧誘します。三宅は慶應で名捕手として鳴らし、卒業後は1927年(昭和2年)から始まった第1回全日本都市対抗野球大会に出場し大会第1号本塁打を放ったことで知られています。壮年のこのころ日米親善野球の日本選抜チームの選手を中心にした「大日本東京野球倶楽部」の結成を画策していました。

その初代監督に就任すると田部を東京に呼び戻し、3年ぶりに上京した田部はこうして大日本東京野球倶楽部(後の東京巨人軍)の結成に参加し入団。結成時の背番号は3でした。

仲立ちしたのは大学の先輩の小西得郎で、都市対抗野球大会に審判員として出場し、第1回大会では、開幕戦の球審を務めていました。大日本東京野球倶楽部に入団した田部は、1935年の内地巡業時に背番号が1となり、初代主将二出川延明の退団に伴い、2代目主将となりました。

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東京六大学出身で端整なマスクに、ショーマンシップ溢れたプレースタイルは、男女問わず非常に人気が高く、また伝説的な韋駄天選手と持ち上げられました。ただ、それなりの実力は持ち合わせており、1935年の同チームの第一次アメリカ遠征では、主にトップバッターとして109試合で105盗塁という驚異的な数字を記録しました。

また本場アメリカ野球相手にホームスチールを成功させ「田部がスチールできないのは一塁だけだ」と、アメリカ人を驚かせるとともに「タビー」の愛称を獲得しました。

1936年、大日本東京野球倶楽部は、ジャイアンツを巨人と訳した「東京巨人軍」に正式改称。このころの国内の巡業試合での巨人のライバルの一つは、東京鉄道局野球部(のちの国鉄スワローズの前身)でしたが、この東京鉄道局がマークしたのが田部と沢村栄治であり、田部対策として内野安打での出塁を防ぐ前進守備の田部シフトを敷いたといいます。

同年2月5日、日本職業野球連盟(プロ野球)が結成され、直後の2月14日からの第2次アメリカ遠征では、全75試合でチーム17本の本塁打中、2本を放ち、投手としても5試合登板しました。沢村と二人だけ写真入りで取り上げられ、共にメジャーリーグから勧誘を受けたのはこのときです。

この1936年という年は、翌年の1937年(昭和12年)に勃発した日中戦争の前年であり、その後太平洋戦争に突入するきっかけとなるこの戦争を境に日米関係は急速に悪化していきます。そうした雰囲気の中、さすがにメジャーへの参加もままならなかったでしょう。

沢村も同様であり、無論日本初のメジャーリーガーは実現していません。ちなみに、日本人初のメジャーリーガーは、1964年にサンフランシスコ・ジャイアンツに投手として入団した村上雅則が初めてになります(通算成績:54試合5勝1敗9S 防御率3.43)。

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帰国後、主将としての役目上、選手の不満を代弁して球団上層部と衝突、これが原因で巨人軍を退団します。この当時、沢村を先頭として選手たちのあいだにチーム内の学閥に対する不公平などへの不満があり、また渡米前に阪急へ移籍させられた恩人、三宅大輔と仲の良かった内野手、苅田久徳(東京セネタース(現日ハム)へ移籍)が火種となりました。

この年、巨人は77試合を43勝33敗1分の成績で大阪タイガース(現阪神)を破って初優勝を飾りましたが、浅沼誉夫新監督と選手の間では軋轢が多く、勇退を要求する声も高くなりました。主将の田部主将と水原茂副将を中心に、メンバーから署名捺印を集めて正力松太郎に直訴しましたが、結局受け入れられませんでした。

田部は三宅が監督となった阪急軍に転じるつもりでしたが、移籍は認めないという規定が契約書に含まれていたことから進退を迫られることになります。結局、日本初のプロ野球リーグが開幕したというのに、退団を選択。同年秋、田部を筆頭に関西鵜軍(コーモラント、鵜飼の鵜の意)なる新球団の設立も画策されたようですが、これも頓挫。

こうして田部は日本を去り再び満州大連に戻りました。当時の大連は日本からの資本が続々と投入された時期で活気にあふれており、田部もトラック運送業を始め事業も成功しました。元々大連でサラリーマンとして勤めていた田部は、実業野球に復帰し「もうややこしいことを考えて野球をするのがイヤになった」「実業野球を楽しみたい」と話していたといわれます。

その言葉通り、1940年第14回都市対抗野球大会には、大連実業のエースとして出場、準優勝するなど、古巣での嬉々としたプレーが目立っていました。この大会でもポジションをころころ代えたり、1番投手で出場するなどで観客を沸かせ、また1942年、戦前最後の大会となった第16回都市対抗野球大会にも出場しています。

しかし、米軍相手の泥沼戦争はこのころ最終局面に向かっていました。戦争末期の1944年、ついに田部も大連で現地召集されます。すぐに戦況悪化の激戦地、沖縄に送られましたが、1945年、地上戦最中の6月、消息を絶ちました。沖縄摩文仁海岸で機関銃の乱射を受け死亡した、と推測されています。没日ほか詳細は不明。満39歳没。

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広陵時代、バッテリーを組んでいた小川年安が入団したタイガースの初代主将・松木謙治郎は田部とともに明治大学を卒業しており、親交も深かったようで、その著書の中で田部の事にも触れています。それによれば田部は、同年ロサンゼルスオリンピックに出場し、東洋人として初めて陸上短距離で入賞した「吉岡隆徳」と競争したことがあったそうです。

どちらが速いか、とこの当時“暁の超特急”といわれた吉岡に挑戦したといいますが、神宮球場でのこの勝負において、田部は馴れない陸上用のスパイクを履きながら後半までリードしたといいます。吉岡は当時世界で一番速いとも言われていたので、これが本当なら50mなら田部が世界一速かったという事になります。

ちなみに、吉岡は現役を退いたあと1941年には広島高等師範学校に招かれ教授に就任、戦後は広島県庁教育委員会保健体育課長に職を移り、1950年の国民体育大会広島開催に尽力するなど戦後の約10年間、陸上の現場から離れ体育行政に携わりました。また、1952年には広島カープの初代トレーナーを勤めるなど当地のスポーツ界に功績を残しています。

田部はその生涯独身ではなく、大連に戻った1942年、結婚して子供を設けました。男の子だったそうで、明大中野高校を卒業しましたが、父と同じ明治大学には進学しなかったようです。戦後の1950年から1952年ころ東映フライヤーズでバットボーイをしていたようで、そのころはまだ母親は息災だったようです。

田部親子はその後、野球関係者に連絡を取ることはなかったといいます。しかし、松木謙治郎が1957年に大映スターズの監督として沖縄へ行った時、田部親子を見たと話しています。沖縄摩文仁海岸の崖の上でひっそりと祈る二人を見たといいますが、その後、メディア等の表に出ることはなかったようです。

東京ドーム敷地内にある鎮魂の碑に、彼の名前が刻まれています。1969年、野球殿堂入り。

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まだまだ今も左利き

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前回のブログを読まれた方は、ある疑問を持たれたことでしょう。

それは、右手が不自由なくせに、いったいどうやってブログを書いているの? ということ。

たしかに右手の骨折によりギブスをはめてはいるのですが、私の場合、医者先生に強くお願いをして、右手の指の先端と他の4本の指の第一関節の部分だけはフリーになるようしてもらっています。

そのおかげで、なんとかパソコンのキーボードだけは叩ける、というわけなのですが、それでも文字をつづるのに、ふだんの5割増し以上時間がかかるのに加え、パソコンの操作以外の右手の操作はほとんどできません。服のボタンをはめるのも一苦労といったありさまで、その他食事も入浴もほとんどを左手で行う毎日が続いています。

かくして、大部分の人が右利きのこの世において、左利きの人の不便さ、あるいは障害があって左手しか使えない方の不自由さを、まざまざと感じているわけなのです。

それならばそれで、ということで、では左手利きであることについて、スポーツ以外ではどんなメリットがあるのだろうと思いつき、調べてみることにしました。

すると、主として人文科学的な理由により、少数派である左利きにとってのほうが有利になっていることもいくつかあるようです。

たとえば、文字を縦書きするときに手が汚れない、ということがあります。但し、これは日本語や中国語の・韓国語などのように右から左に縦書きする言語の場合であって、英語やモンゴル語のように行を左から右に書く言語の場合は当てはまりません。ただ、アラビア語のように横書きではあるものの、右から左に書く言語の場合は、左利きの方が手を汚さずに済むようです。



このほか、現代に住む我々にとって不可欠な道具となっているコンピュータにおいては、これを扱うためのメインの入力機器となるキーボードの配列が左利きにとって有利な配列だといいます。

例えば、もっとも一般的なQWERTY配列は、左手の使用頻度のほうがわずかながら右手より多いのだそうで、限られた時間内に数多く文章を書かなければならない、といったシチュエーションでは、左利きのほうが多少なりとも有利になる、ということになるようです。

このほか、ビデオゲームのコントローラは、業務用ゲーム・家庭用ゲームを問わず、方向キーやジョイスティックを左手で操作するものが標準となっているそうです。

ゲームの種類にもよりますが、多くの場合、複雑・微妙な操作を要求されるのは左手のほうだといいます。ほとんどコンピュータゲームをやらない私にはよくわかりませんが、ゲーマーの中にはなるほど、と思う人も多いのかもしれません。ゲームダコが左手指にできることが多いことも、ビデオゲームのコントローラが左手偏重である証です。

なぜ左手のほうを難しくしているのかはよくわかりませんが、こうした風習は初期の業務用ゲームの時代からの慣習のようです。推測ですが、簡単にゲームをクリアしてしまうと面白くないので、利き手の多い右手よりも左手のほうに重要な操作を多くしたのかもしれません。

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ほかにも、世界における左利きの割合は約10%なのに対し、MENSA(知能指数130以上の人しか入れない団体)の会員の2割は左利きだそうです。また左利きのほうが頭脳明晰な人が多いということを反映してか、平均的に左利きの男性は右利きの男性よりも15パーセント収入が多いのだそうです。

さらに、これは必ずしも左利きの人だけが有利とはいえませんが、一般に左手を使用している時は、左の耳はゆっくりとした音の変化に敏感になるといわれているようです。つまり、どちらの手を使っているかによって音の聴こえ方が変わってくる、というわけで、左手を多用する左利きの人は右利きの人とはまた違った音感を持っている可能性があります。音楽の世界などではよりクリエイティブな活動ができるのかもしれません。

以上、私が調べた限りの左利きであるメリットですが、たかがそんなもんかい、と思われる方もいるでしょう。ただ、前回のブログでも書いたように、とくにスポーツの世界において、左利きはサウスポートして歓迎されていますし、一般には左利きのほうが脳が活性化されやすく、とくに芸術的な才能に恵まれることが多い、といったことが言われているようです。

さらに左利きにとってうれしいのは、最近ではユニバーサルデザインの視点から、右利き左利きどちらでも快適に暮らせる社会にしようとの動きも出始めていることです。

例えば、マウスにも左利き専用のものがあり、左利き専用マウスを発売する会社も増えています。

そのひとつ、ロジテック社のCEOのゲリーノ・デルーカは左利きだそうで、マイクロソフトのビル・ゲイツも左利きであり、そうしたトップの意向もあるのかもしれません。もっともマイクロソフトは左利き専用のマウスは発売していません。ただ、左右対称のマウスを基本形としているため、どちらの手でも同じように使えるのだそうです。

このほか、大手民鉄、JRが導入している一部の自動改札は、左手で使う場面も考え、券投入口が左に5度傾いており、これで投入がしやすくなるといいます(ただし、小児検知センサーを付ける支柱がない“バーレススタイル”と呼ばれる機種のみ)。

他にも左右両開きの冷蔵庫など家電製品にも対応品があり、左利き用のはさみなどの文房具は多くの文具店にみられるほか、最近では左利き文具の専門店も増えているといいます。

そんな少数派のための商品を作っていて儲かるのかしらん、と思うわけですが、社会的に左利きのような少数派に迎合できる企業というのは、ボランティア精神に富んでいるということでそれだけ信用も高くなります。株価などにも反映するため結果的には利益につながる、ということなのでしょう。

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ところで、社会的といえば、現在欧米を中心に世界中の道路に「右側通行」が多いのは、ナポレンオの影響だ、といわれているようです。

フランス皇帝ナポレオンが登場する前、ヨーロッパのほとんどの国は左側通行でした。しかし左側通行で馬に乗っていると、左利きのナポレオンは戦闘になった時に右側から向かってくる敵を切り付けにくい、ということがあったようです。このため、自分が統治している国々の道をすべて右側通行にしてしまったのだそうです。

かくして、その後ナポレオンに占領された国々でも次々に右側通行が導入されるようになっていき、現在でも右側通行の国が多いのはその名残りなのだとか。ところが、ヨーロッパ諸国ではイギリスだけが左側通行であり、これはこの国が唯一フランスの手に落ちなかったからだといわれています。

他にはオーストラリア、ニュージーランド、パプアニューギニア、インド、香港、ケニア、南アフリカ共和国などが左側通行ですが、これらの国はかつてイギリスの植民地であった地域です。タイのように植民地になっていない国でも、近代になってイギリスの制度や技術等を取り入れた際に、影響を受けて左側通行となった場合もあるようです。

では、日本も同じ理由で左側通行になったのでしょうか?

答えはノーです。その理由は日本独自のものであり、江戸時代より以前の武士の時代の名残だといわれています。

日本の路地は大変狭い場所が多く、対面で右側通行になったときに、左腰に差している刀の鞘(さや)同士がぶつかってしまうので、「武士の喧嘩の種」によくなっていたようです。この無用な争いを避けるために、侍のルールとして左側通行が定着していったという説が有力です。

やがて、江戸幕府が終わり、明治時代に入った際、鉄道や道路などの交通における新しい技術の導入にあたってはフランスよりもイギリスをお手本にすることが多く、同じく左側通行の英国と友好を深めるためもあって、左側通行を正式に交通法とし定めたそうです。

このように、右か左かといった社会的な風習は、文化的・軍事的な理由のほか、驚くべきことにその時代の統治者が右利きか左利きかという事実に、文字通り「左右」されてきました。

こうした中、世界中、のみならず日本における文化・軍事面にも大きな影響を与えているアメリカ合衆国のリーダーについても、近年、左利きが多くなっている、ということが話題になっているようです。

実は、2017年の現在に至るまでの、直近の8人の大統領のうち5人が左利きだ、という事実をご存知でしょうか。トルーマンの時代まで戻れば、13人のうち5人(あるいは6人)が左利きだといい、1992年の大統領選挙では、有力候補であったジョージ・H・W・ブッシュ、ビル・クリントン、そしてロス・ペローの3人は全員左利きでした。

1996年の大統領選挙でも左利きに関係の深い候補が3人登場します。左利きのクリントンとペロー、そして第二次世界大戦中の怪我がもとで右手が麻痺してしまったことにより左手を使うようになったボブ・ドールです。加えて、2008年の大統領選挙においても、二大政党の候補者であったバラク・オバマとジョン・マケインの両方が左利きでした。

アメリカにおける左利きの人口比率は、他国と同様に約10%でしかありません。にもかかわらず、このように近年の大統領、大統領候補者に左利きの比率が高いように見えることについては、単なる偶然であるとする見方がある一方で、科学的な説明を考察する研究者も現れています。

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例えばカリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)の教授で、神経遺伝学の権威として知られるダニエル・ゲシュビン(Daniel Geschwind)博士は、このように近年の大統領に左利きが多いことには何らかの意味がある、と言っています。

ゲシュビンは、人間の利き手に影響を与える要因と、左利き人と右利き人の脳構造の違いに関する研究で知られており、過去12人の大統領のうち6人が左利きであるということは統計的にも有意であるとし、研究の対象に値する、と述べました。

また、今年3月に亡くなった、遺伝子研究の第一人者で、インド系アメリカ人のアマル・クラー(Amar Klar)博士は、利き手の研究でも良く知られており、左利きの人たちは広範囲に物を考え、多くのノーベル賞受賞者や作家、画家が左利きに偏っていると指摘していました。クラーは、左利き、そして両利きは、両方の半球において言語を処理することができ、それにより、さらなる複雑な論理的思考が可能である、とも示唆していました。

さらに、米オンタリオ州、グェルフ大学の神経心理学者、マイケル・ピーターズ(Michael Peters)が20万人以上の被験者を対象にアンケート調査を行った結果、左利きの人の多くが、識字障害、喘息、注意欠陥多動性障害、同性愛になりにくいという結果が得られたといいます。これらは、「一般的な」生活を送る上においては障害になりうる可能性がある因子ばかりです(同性愛の場合は「障害」という表現は適当ではありませんが)。

ピーターズ博士は、左利きの人は右利きに適している世界でうまく暮らしていかなければならず、そのことが右利きよりも優位な「精神的回復力」を生みだすのではないかと指摘しました。つまり、左利きであることが、もともとのハンディである左利きということを十分に補うだけの新たな能力を逆に与える、ということのようです。

脳、特に大脳皮質が部分ごとに違う機能を担っているとする理論を、「脳機能局在論」といいます。これによれば、左側の大脳半球は通常、言語を司りますが、左利きの人の場合、この区分はそれほど明確になっていないことがわかっています。これについては、前回のブログでも少し述べましたが、左利きの人の脳は、何かに集中するときに使う脳の部分が右利きの人よりもより分散しているようです。

左利きの人のうち7人に一人は、言葉を使っているとき、脳の左だけでなく左右両方を使って処理していることもわかっており、一般的な右利きの人々の場合、こうしたことができるのは20人に一人にすぎません。

このことは、左利きであることと、言語を操る上での器用さの間には深い相関があることを示しており、左利きの場合、脳内で言語に割り当てられる場所が増加するため、高いコミュニケーション能力が得られている可能性があります。

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本題に戻りましょう。近年の大統領、中でもとくにレーガン、クリントン、そしてオバマ元大統領はとくに演説が上手だった、と記憶しているのは私だけではないと思います。左利きの彼らは、その高い言語能力を駆使して、合衆国トップに登り詰めた、といえるのかもしれません。

ところが、アメリカ合衆国大統領の利き手に関しては、彼らより以前の大統領、ここ数十年より以前のリーダーに関しては確実に特定することは、極めて困難だといいます。なぜかといえば、アメリカ合衆国が建国された18世紀から19世紀にかけて、左利きの人は障害者と見做され、教師の多くは左利きの生徒に対してこれをやめさせるように努力したためです。

2017年現在、データ上では、アメリカの左利きの人の割合はわずか2%になっています。ただしその代わり、両利きの人の割合が約28%もあり、これは実は、アメリカで左利きに生まれた人の多くは、右手も使える様にして、後天的に両利きになった人が多いためです。

伝統的に左利きを矯正して両利きにすることが行われてきたという経緯があり、その結果、左利きの人の割合が少なく見えてしまっていますが、平均的には他国と同じ10%前後と考えられています。

こうした理由のため、20世紀初期より前の大統領に関しては、利き手を確実に決定できるような出典はほとんど存在していません。左利きであった最初の大統領は、第31代のハーバート・フーヴァー(任期1929 – 1933年)であったとされていますが、これについても議論が存在します。

ましてや、これより前に左利きの大統領がいたという証拠はありませんが、第20代大統領の、ジェームズ・ガーフィールド(任期1881年の6か月間、同年7月暗殺により死去)は右手でラテン語を、そして左手で古代ギリシア語を同時に書くことができたと言われています。つまり両利きです。

また、第40代のロナルド・レーガンも、必ずしも左利きだったと確認されているわけではありません。左のほうが利き手として優勢と噂されることが多かっただけで、学校の教師や両親に強制的に右利きにされたのではないか、といわれています。もし事実であれば、レーガンも元は左利き由来の両利き、ということになります。

二度のピューリッツァー賞を受けた有名な伝記作家、デビッド・マッカロウの研究によれば、第33代大統領のハリー・S・トルーマンも同様に左利きである、と噂された人物だったようです。

トルーマンといえば、日本への原子爆弾投下を指示したとされ、アメリカでは未だに「戦争を早期終結に導き兵士の命を救った大統領」という評価が定着している指導者です。また、全米有色人種地位向上協会で演説を行い、公民権運動を支援した初めての大統領であり、この人もまた演説が上手なことで定評がありました。

1940年から1941年にかけ、アメリカでは、NTSC(National Television System Committee)が白黒テレビの標準方式を走査線525本、60フィールド方式に決定し、世界に先駆けて白黒テレビの放送が開始されました。1945年4月に大統領に就任したトルーマン大統領は、このテレビを高く評価し、その前年の大統領選における主な演説のすべてにおいて、このテレビを最大限に活用するよう、部下たちに指示していたそうです。

現在でも、アメリカでは政争となると、テレビ討論がよく行われていますが、こうした場合にも、左利きの政治家は有利なのだそうです。

テレビの討論会においては、左利きの政治家は、利き手である左手をジェスチャーでよく動かします。すると、テレビスクリーンを見ている右利きの視聴者によりアピールでき、優位に立てるのだといい、そういわれてみれば、オバマ大統領が大統領選を戦っていたときのスピーチでもよく左手を使っていたような記憶があります。

現職のトランプ大統領はどうやら右利きのようです。だから頭が悪い、演説も下手、というわけではないでしょうが、世界の中でも卓越した国力を持つアメリカという国を牽引してきた指導者の多くが左利きであり、それがこの国の魅力を作ってきたと考えるとすれば、この大統領にはあまり多くは期待できないのかな、とついつい思ってしまいます。

しかし、こうしたアメリカのような傾向は他国では見られていません。イギリスでは戦後、左利きの首相はジェームズ・キャラハンとデーヴィッド・キャメロンの二人しかいませんし、またカナダでも、少なくとも1980年以降、左利きの首相はいません。かといってこれらの国に魅力がないとはいえず、美しく逞しい世界に誇れる国づくりを行ってきています。

お隣、北朝鮮の歴代の指導者にも左利きはいないようです。金正恩(キム・ジョンウン)総書記やその父の金正日(キム・ジョンイル)、祖父の金日成(キム・イルソン)がそうだったという情報はないようなので、彼の国に関してだけは、指導者にも恵まれてこなかったばかりか、右利きの指導者がもたらした弊害が最も色濃く残った失敗作ということがいえるのかもしれません。

それにしても、米朝の緊張が続く中、両国のリーダーとも右利きということで、この先の事態がどうなっていくのか不安でしかたありませんが…

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それでは我が国はどうか?戦時下の首相、東条英機は左利きだったそうで、上述のトルーマンとともに、太平洋を隔てて左利きのリーダーを持った両国が戦っていた、というのは、こちらもまた不思議なかんじがします。

最近の首相では、安倍晋三氏や野田佳彦氏、菅直人氏は箸やフォークを右手で持っており、右利きと思われます。また都知事経験者では、石原慎太郎氏が左利きだそうですが、現職の小池百合子氏が左利きという話はないようです。そのほかにも、私が調べた限りでは、目ぼしい?日本の政治家に左利きはいないようです。

ただ、小池氏と同じくニュースキャスターだった故筑紫哲也氏は左利きだったそうで、現役の小宮悦子さんも左利きです。また、解剖学者の養老孟司氏や宇宙飛行士の野口聡一氏、新進作家の綿矢りささんが左利きだそうですが、こうした異分野の中から、新しい時代を形成する政権政党の左利きリーダーが出てくることを期待したいものです。

戦時下の東条内閣は別とし、日本においては、アメリカのようにリーダーが左利きだった、という歴史があるのかどうかは明らかではありません。戦国の武将、松永久秀や上杉謙信、宮本武蔵や新選組の斎藤一などが左利きだったという説がありますが、我が国でも左利きは差別対象ともなり、あまり公表せず矯正させていたりするので、確証は難しそうです。

箸の国日本では、食事の時に隣の人の邪魔になるからという理由で左利きが少ないという俗説もあるようですが、それではいったい、現在の日本人の左利きの割合はどのくらいでしょうか。

これは、「約11%」と言われています。日本人の総人口が、”1億2695万人(平成27年7月1日現在)”ですので、数にすると「約1397万人」の方が左利きという事になります。

政治家だけでなく、天才肌や芸術肌などと言われる事が多いこうした「左利き」の人たち。近代日本を代表する文豪・夏目漱石、同じく俳人・正岡子規も左利きだったと伝わっています。

現在の芸能界をみただけでも、男性では、坂本龍一、鹿賀丈史、ガクト、玉木宏、小栗旬、女性では、倍賞美津子、川原亜矢子、増田惠子、斉藤由貴、そして先日亡くなった小林麻央といった、魅力あふれる方々が実は全員左利きという事を考えると、やはりちょっと彼らに憧れてしまう部分はあります。

しかし、近年の研究により、左利きは右利きよりも酒を頻繁に飲み、飲酒量も多いのだとか。1970年代に、左利きはアルコール依存症になりやすいとの研究結果が発表されたこともあり、現在ではこれは間違いだとは判明しているものの、やはり左利きの酒量は多くなる傾向にあるそうです。

現在、左利き状態である私も酒を飲みすぎないように気を付けなくてはいけません。しかし最近、以前にも増してインスピレーションが鋭くなっているように感じるのは、やはり左利きになってから、全脳を使用する度合いが増えているからかもしれません。

左利きとしての一時期の間、その個性を存分に楽しむとともに、右利きに戻ってからもその能力が維持されることを期待したいものです。

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わたしのいまは左利き

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前回のブログで少し触れたとおり、およそ2週間、約半月にわたって、手術入院しておりました。

原因は右手の骨折です。

「舟状骨」といい、手の関節8つある「手根骨」という骨の1つで母指(親指)側にあり、手根骨の中でも重要なものの1つです。船底のように彎曲をしており、船のような恰好の骨ということで舟状骨と言います。

舟状骨は、母指の列にあるため他の指の列とは45度傾いて存在します。そのため、通常のX線(レントゲン)写真の撮り方では骨折箇所が見えにくく、見逃されてしまうこともあります。事実、私の場合も、初診ではただの脱臼と判断され、整形外科では対処の余地なしと判断されました。

それなら整骨院でみてもらおうとしたところ、病院での診断書が必要といわれ、再度同じ病院を受診したところ、たまたま手が専門の先生がおられ、骨折と告げられました。

舟状骨の骨折は、放置すると偽関節になりやすいのだとか。偽関節とは、骨折した骨がつかず、関節のように動くものをいいます。私の場合もここの部分がぶらぶらした状態で痛みを伴うので、いったいなんだろうと思っていました。

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https://www.joa.or.jp/public/sick/condition/scaphoid_fracture.html
公益社団法人日本整形外科学会HPより

スポーツや交通事故などで手首を背屈して手をついたときによく起こるといいい、私の場合、いつの日だか野外で樹木の伐採をしていたとき、切り株につまづいて右手をひどく地面に突いたような記憶があります。

数か月前のことだったようですが、そのときは骨折しているとは思わず、捻挫したと思ったまま放置したため、偽関節になってしまったようです。

急性期では、手首の母指側が腫れ、痛みがある、といいますが、あまりその記憶もありません。急性期を過ぎると一時軽快しますが、放置して骨折部がつかずに偽関節になると、手首の関節の変形が進行し、手首に痛みが生じて、力が入らなくなり、また動きにくくなっていくといいます。

なので、みつかったのは手が動かなくなる直前で、もしかしたらこのあとさらに手が不自由になっていくタイミングだったかもしれません。

初期には普通のX線写真でも発見されにくいことが多く、これが偽関節になる原因の1つです。私の場合、さいわいにも発見され、CTやMRIをとってさらに詳しい検査をしたところ、骨折部分の壊死もなく、手術をすれば完治する、という判断がなされました。

ただ、舟状骨は血行が悪いため、非常に治りにくい骨折の1つです。早期に発見された場合、ギプス固定で治療することになりますが、この固定は長期になることが多いため、最近では特殊なネジによる固定を行って治療期間を短縮することが積極的に行われており、私の場合もそれです。

折れてしまった部分は削除することになりますが、それでは短くなってしまうので、自分の腰骨を削って移植する「骨移植」が必要といわれました。単に手だけの手術かとおもっていたら、だんだんと大がかりになってくるのをみて、あー、これはこういう機会に自分の体のメンテナンスをしろ、というメッセージなのだと思ってあきらめました。

骨移植に使用する骨は、亡くなられたドナー、または組織バンクで無菌化・保管されている提供者の体から利用される場合もありますが、患者自身の骨、または人工の骨が利用される場合のほうが多いようです。骨移植によって、新しい生きた骨が成長する骨格ができますが、「自家骨移植」の場合、患者自身の内部の骨から作られた移植片を使いますから、くっつきやすく、合併症などが起こりにくいといわれます。

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手術は全身麻酔で行われます。麻酔の状態と患者の回復は、麻酔科医によってモニタリングされます。次に執刀医が、骨移植が必要な部位の皮膚を切開します。その後、移植する骨を移植部位にあわせて整形します。ピンやプレート、ねじなどを使用して、移植する骨が固定されます。移植骨がしっかり固定されたら、切開部は縫合で閉じられ、包帯で傷口が覆われます。

と、いえば簡単に聞こえますが、私の場合、偽関節部分を削ってフレッシュ化した部分に腰骨からとった移植骨をあて嵌め、固定する作業にかなり手間取ったそうです。通常のピンだけでは足りず、もう一本固定のためのワイヤーが必要になったとのことで、通常なら2~3時間で終わる手術が4時間もかかりました。

手術後の一夜は経過観察室で過ごしましたが、翌日には大部屋に移り、傷が治癒するまでおよそ2週間の入院を余儀なくされました。骨移植からの回復は、移植の規模やそのほかの条件によって決まります。通常、回復には2週間から3ヶ月を要します。この間、右手はギブスで固定されていますが、2週間後にいったん抜糸のためにギブスを外します。

抜糸後あらためて新しいギブスをはめ、退院しましたが、ギブスが完全にとれるまでにはさらに4週間かかるそうで、さらに最大半年間、激しい運動を避ける必要がある、と医者先生にはいわれました。

回復を待つ間、手術を行っていない部位の筋肉を運動させることで、体を良好に保つことができます。また回復プロセスを促すために、健康的な食事を心がけることが必要とされますが、いかんせん、手術したのが利き手の右手だったために、現在は食事をはじめとして多くの日常的作業を左手で行う、ということになっています。

いわば、にわか左利きであり、いまのわたしは「左ギッチョ」です。

この何気なく使っている「ギッチョ」ということばですが、調べてみると「毬杖(ぎっちょう)」からきています。これは、先端に槌がついた木製の杖を振るい、木製の毬を相手陣に打ち込む、平安時代の童子の遊びが起源です。左利きの人が毬杖を左手に持ったことから、ひだりぎっちょう、左ギッチョといわれるようになった、といわれているようです。

毬杖はその後形骸化し、江戸時代頃までは正月儀式として残っていましたが、無論現在はほとんど行われていません。

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英語では「サウスポー(southpaw)」です。野球やボクシングなどスポーツ競技の左利き選手や、楽器などの左利き演奏者のことをさします。英語でサウス(south)は南を、ポー(paw)は動物の前足を意味します。

その昔、野球場は、午後の日差しが観戦の妨げにならぬよう、バッターからピッチャーを向く方向がやや東向きになるよう設計されるのが一般的でした。このため、右投手が投げる球はほぼ北側から飛んでくることになりますが、左投手の投げる球は南側に近い方角から飛んでくることになります。

投手のその手を動物の前足に例えたことから、南(south)から左手(paw)で玉を投げる投手のことをサウスポーと呼ぶようになったようです。

が、アメリカ南部出身のピッチャーに左腕投手が多かったためサウスポーと呼ばれ始めたという説もあるようです。200年以上も歴史があるといわれる野球のことであり、そのはじめのころに使われるようになった用語のようですから、どちらがほんとうなのかよくわかりませんが。

それはともかく、野球では左利きの人は重宝がられます。スポーツにおいては、左利きであることが有利に働く場合が多く、野球だけでなく、ボクシング、相撲、柔道など直接人と勝負するスポーツや一対一で必ず対戦するようなスポーツにおいては左利きであることが有利に作用します。

これは、右利きと左利きの人口比から左利きが右利きと対戦する機会が多いのに対して右利きは左利きと対戦する機会が少ないからです。右利きにとっては慣れないフォームの相手と戦う不利に加え、左利きが逆方向・逆回転の攻撃をしてきます。このため、多くのスポーツで左利きを利点として戦う選手がトップクラスにいます。

一対一競技だけでなく、サッカーやアイスホッケーといった相手側と対称のコートで行う団体球技の場合、右側には右利きの選手、左側には左利きの選手を配置するのが有利であるとされるようです。

統計では成人人口の8%から15%が左利きであり、また、わずかながら女性よりも男性の方が左利きが多いという統計結果もあります。この割合は古今東西を問わずほぼ一定だといいます。

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左利きは全ての動作を左手で行うと思われがちですが、文字を書くのは右でも、ボールを投げたりするのは左を使うなど、動作によって使う手が異なる場合もあるため、実際には右手で行う動作をすべて左手で行う「完全な左利き」は少ないそうです。

古代の壁画や石像を見ても右利きの方が圧倒的に多かったことが確認されており、このため左利きが生まれるのは文化・教育・食事など後天的要因によるものではないことが分かっています。しかし、なぜ左利きが少数なのか、なぜ10%前後で変動がないのかについては、これほど科学技術や医学が発達した現在でもはっきりとした理由が分かっていません。

左利きが発生する要因とされている説のなかには「自然選択説」があります。これは、人類の長い「戦い」の歴史の中で、左利きの戦士は左手に剣を持ち右手に盾を持って戦うため、心臓を危険にさらし致命傷を負う確率が高くなり、従って右利きの人間より生き残る率が低くなった、という説です。

しかしこの説では、利き腕が遺伝することを前提としていますが、利き腕に関わる遺伝子の存在は確認されていません。また盾を使ったとされる年代や地域は限定されるほか、盾がまだない石器時代から左利きが少数であったこと、盾が廃れた近代になっても左利きが増えないことなどを説明できません。

このほか、DNAや染色体異常などの突然変異により左利きが生まれるとする「突然変異説」もありましたが、右利きと左利きでDNAや染色体に変化がないことは証明されています。

また、左利きが生まれることによって、人間は生物の「種」として多用化することになり、未知の環境変化対して「種の自己防衛」になる、という説もあります。が、利き腕の差異があるだけで、はたして種が守れるのか、という点において議論が分かれるようです。

このほかにもいろいろ説がある中で、もっともらしいのが「脳の半球説」です。ご存知の通り、脳の右側は左半身を、左側は右半身を制御していますが、脳の左側は人間が持つ特有の能力「言語」も制御しています。このため、脳の左側が制御する右半身の方が発達しやすくなる、という説です。

他の霊長類のなかには人間のような話し言葉を使うものはおらず、利き腕の偏りが見られないこともこの説を後押ししています。また、90%前後の右利きの人は言語を制御するのに脳の左半球を使っていますが、左利きの人は左半球の場合と右半球の場合があり可変であることが多いといいます。

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左利きの人が脳卒中の発作に見舞われた場合、右利きの脳卒中患者よりも復帰が早いそうで、左利きの人のほうが左右の脳を有効に使っている可能性があります。

この説を裏付けるため、右利きの脳と左利きの脳の基本的な違いを脳スキャンで確認するいくつかの研究が行われています。その結果、通常の脳の特定部位が各作業に使われている状態で、右利きの人の脳は非常に集中的に使われていましたが、こうした集中化は左利きの人の脳ではあまりみられなかったといいます。

このことから、左利きの人の脳は、脳の各所に機能を分散する度合いのほうが高く、一点に集中させる度合いが低いらしい、ということがわかっています。

これに関連してか、利き腕と脳についてよく言われる説で右利きは理論に優れ、左利きは芸術など感性に優れるとよくいわれます。

前述のとおり人間の左脳は言語野など理論的なものがあります。対して、右脳には感性を司る部位があります。利き腕と脳はクロスした太いつながりがあることが考えられ、左利きの人は、感性が優れているのかもしれません。もっとも、左利きの人は理論的ではない、ということもなさそうですが。

ちなみに、人の言葉を巧みに真似することのできるオウムの90%は、左足利きだそうです。このことからも、ことばを操るということと、脳の働きには何等かの関係がある可能性がうかがわれます。

2004年、英ベルファストのクイーンズ大学博士・ピーター・ホッパーが行った研究によると、人間が右利きになるか左利きになるかは妊娠10週間目の頃に決定しているとされ、これは新発見である、といわれました。

ホッパー教授が、妊娠中の女性1000人に超音波走査を実施した結果、例えば10週間目から12週間目の頃に胎児が左手の親指よりも右手の親指を頻繁に吸っていた場合、子供はほぼ確実に右利きとして生まれてくるという関係性が明らかになったといいます。

スピリチュアル的には、ちょうどこうした胎児の発生の時期、生まれ変わる魂は地上にいる父母を選んでその胎児の中に「滑り込んでくる」といい、この時点で親子関係が決まるといいます。同時に、その後この世に生を受けて一生を送る間の利き腕についての選択肢もこの時期に与えられるのかもしれません。

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しかし、右利きの多い中、左利きで生まれてくるということは、多くの試練にさらされることになります。道具や機械、楽器など、世の中の製品のほとんどは、右利き用に設計されている、といってよく、これは左利きにとって不便なだけでなく、生きていく上においては危険性が高くなる、といってもよいかもしれません。

また一般に左利き用の製品は右利き用に比べ割高であり、生涯にわたって経済的負担を強いられる、ということもあるしょう。

個人差は多く見られますが、大人になるほど利き手の変更は困難です。このため、こうしたビハインドを補うため、日本を始めとする世界の多くの国で、「利き手の変更」を行なわせようとすることが多いようです。

幼少時に周囲の人物が、箸や鉛筆を右手で使うように強いるわけですが、しかしこの「矯正」は本人が望んだものではありません。「矯正」の指導をする親が激しく叱ることも多く、このため、うまく腕を動かせないストレスが加わるなど、心理的な悪影響が少なくないようです。

洋の東西を問わず、かつては左利きを身体障害者と考える人・地域は多く、さらには知的障害の一種のように扱われることもありました。西欧では20世紀前半までは、利き手の矯正はかなり高い比率で行われており、時には厳しい体罰を伴ってでも矯正されていました。

近年、左利きは障害ではないことが広く知れ渡ると同時に個性のひとつとして考えられるようになったため、矯正する親の割合は減ってきました。しかし、現在においても文字筆記上の不便さから学校受験などで不利になると考え、また生活上の不便を考えて、子供に矯正を促す親も多いようです。

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一方では、上の「脳の半球説」を信じ、我が子をクリエイティブな能力のある子供に育てようと、右利きの子供をわざわざ左利きにしようとする一部の親もいます。その効果?のほどはよくわかっていませんが、「変更しようとする」ということは、つまりその子は既に右を多用しているわけです。

心身共に著しい成長を遂げつつあるこうした幼少期に、強い影響力をもって親がその成長に関与することがはたしてその子にとって良いのかどうか、いずれどういう影響を与えることになるのか、という面を理解した上で矯正にのぞんでいるのでしょうか。

ただ、子供のころからそうした「試練」を克服することこそがその子の人生にとってはプラスになる、という考え方もしかりであり、その良否のジャッジはそれぞれの家庭で考えるべき問題なのでしょう。もっとも、そうした是非をそれぞれでよくよく考える、ということが大前提なように思いますが。

一方では、「右」と「左」とにそれぞれ意味をもつ文化では、右手左手を使い分けが定められている場面もあり、それを無視すれば礼儀やマナーに反することにもなるため、子供が左利きの場合、あえて利き手を右にしようとする場合もあります。

時と場所によっては、利き手にかかわらず右手でなければならないことがある場合もあり、例えばインドでは左手は一般的に排便の処理をする「不浄の手」であり、食べ物を左手で食するのは多くの場合マナー違反です。

また、日本の多くの「道」や文化では利き手に関わらず、右優位のしきたりが決まっている事があります。書道・茶道・花道・剣道・弓道等や日本料理等においては、時に左手を使うことがルール違反やマナー違反になることもあるようです。

とくに武道の場合には、右手を優先することが時には危険回避の為に有効な場合もあるようです。敵としての相手には圧倒的に右手使いが多いわけであり、これに対して左手で対処すると命を落としかねない、というケースもあるのかもしれません。

もっとも、日本の場合、利き手の概念に囚われず、”「道」としての心を培う” ことが大事、とする分野も多いようです。そのあたりの文化的な違いについては、他の国との比較において研究してみると面白そうです。

さて、病後はあまり手を使わない方がよさそうなので、今日はこれくらいで。

このテーマ、少し面白そうなので、次回気が向けばまた続編を書いてみるカモ、です。

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輪が三つ

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しばらくぶりです。

実はこの半月ほど、入院していました。

その詳細はまた別の機会に改めて書くとして、今日は先日、そうめんについて書いたので、その続編を。

この「素麺」の起源ですが、古代中国の後漢の「釈名(後漢末の劉熙が著した辞典)」や唐の文献に度々出てくる「索餅(さくべい)」とする説が有力です。

日本では天武天皇の孫、長屋王邸宅跡(奈良市)から出土した木簡が最も古い「索餅」の記録となっています。奈良時代には索餅は米の端境期を乗り越える夏の保存食であり、「正倉院文書」にも平城京での索餅の取引きの記録が残っているそうです。

原形はもち米と小麦粉を細長く練り2本を索状によりあわせて油で揚げたもの、とされており、現在も中国で食される「油条(ヤウティウ)」に似たものだったのではなかったか、という説があります。

油条は、油で揚げたパンで、食塩、重炭酸アンモニウムを水で混ぜたものに小麦粉(薄力粉)を少しずつ加えながらこねて生地を作ります。中国や香港、台湾などでの朝食に、豆腐脳、粥や豆乳の添え物としてよく食べられますが、横浜の中華街などで食べたことがある人も多いでしょう。

奈良時代に日本へ唐から伝来したのが、この油条そのものだったのかどうかはわかりませんが、いずれにせよ唐菓子の1つではないかといわれています。一般に唐菓子といえば、米粉や小麦粉などの粉類に甘葛(あまずら)の汁など甘味料を加えてこね、果物の形を造った後、最後に油で揚げた製菓をさしますから、油状にも似ています。

日本では、神社や神棚に供える供物のことを「神饌(しんせん」といいますが、これが日本に当初伝わった当時の「索餅」に近いのではないか、といわれています。この神饌が、一般生活に浸透し、別の形に変わったものが、「鏡餅」です。

ただ、当初中国から入ってきて、日本風に変化していった索餅の材料・分量、作るための道具についてはあまり詳しいことはわかっていません。

日本では、まず奈良時代に上の索餅が輸入されました。

その原型については諸説あるようですが、小麦粉と米粉を水で練り、塩を加え縄状にした食品だったらしく、このため、索餅は、「麦縄」とも書くことがあります。乾燥させて保存し、茹でて醤・未醤・酢付けて食べたとみられており、他にごま油を和えたり、ゆでアズキに付けて食べたとみられています。

平安時代中期の「延喜式」にも一部その製法についての記述があります。こちらにも、小麦粉と米粉に塩を加えて作る、といった記述がありますが、形状については言及がなく、そもそも麺だったのかどうかもわかりません。一説によれば、現在の素麺やうどんよりもかなり太く、ちぎって食べたのではないか、ともいわれています。

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ところが、本場の中国では日本よりもはるかに早く、「麺」として成立していたそうです。日本の平安時代とほぼ時期を同じくする、北宋時代(960~1127年)の書物に既に「索麺」の表記が出てきます。「居家必要事類全集」という百科全書に出ている索麺の作り方には「表面に油を塗りながら延ばしていくことで、最後に棒に掛けてさらに細くする」といった近年の手延素麺の製法と酷似した特徴が書いてあります。

この製法がなぜそのまま日本に上陸しなかったのかはよくわかりませんが、現在のそうめんにかなり近いものは、鎌倉時代には既に作られていたようです。後追いで古代中国の「策麺」の製造方法が伝わり、既に輸入済みだった「索餅」の製法のひとつとして発展したのではないでしょうか。

そして、室町時代になると「索麺」や「素麺」の文字が使われるようになりました。 このころからそうめんは、寺院の間食(点心)として広がり、この時代に現在のそうめんの形、作り方、料理方法がほとんど形成されたと考えられています。

文献にもよく登場するようになりますが、主な舞台は寺院や宮中の宴会などで、まだ庶民が気軽に食べられるものではなかったようです。奈良期以降、この時代までに「索餅」「索麺」「素麺」の名称が混じって用いられていましたが、やがて「素麺」として統一して呼ばれるようになっていきました。

室町時代には、茄でて洗ってから、再度蒸して温める、という食べ方が主流だったことがわかっており、その調理法から、「蒸麦」や「熱蒸」とも呼ばれていたようです。

この時代の文献に、「梶の葉に盛った索麺は七夕の風流」という文章も残されており、七夕ごろの夏の風物詩であったことがわかります。この時代の宮廷の女房言葉(朝廷や貴顕の人々に仕えた奥向きの女性使用人が使うことば)では、素麺を「おぞろ」と呼び、七夕の行事に饗せられていました。

その後、戦国時代までには、そうめんが庶民の口にも入るようにもなっていたようです。安土桃山時代に豊臣秀吉が、本拠地として姫路城に居城することとなり、入城したときには、「播州名産の煮麺の饗応を受けた」と伝えられています。

江戸時代に入ると、素麺作りはさらに栄え、庶民の間で素麺が食べられるようになり、元禄の頃には、現在のような醤油ベースのつゆが誕生しました。七夕にそうめんを供え物とする習俗が広まり、これは、細く長いそうめんを糸に見立てて裁縫の上達を祈願したものです。

素麺作りが急激に発展したのには、飢饉の影響もあるといわれています。米は雨が降らないと作れませんが、小麦は多少の水不足でも育ちます。さらに、乾麵である素麺は数年日持ちがするため飢饉食として使えます。このため、幕府もその製造を推奨していました。

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先日のブログでも触れましたが、現在、「日本三大そうめん」といわれているのは、①三輪素麺(奈良県)、②播州素麺(兵庫県)、③小豆島(香川県)です。このうち、三輪素麺は、最も「素麺つくり」の歴史が長く、全国に分布する素麺産地の源流でもあり、全国的にも有名な、奈良の特産品です。

この地で、中国から入ってきた索餅が派生変化した、との説があり、奈良時代の遣唐使により、小麦栽培・製粉技術、製麺方法が伝えられたとされています。

ただ、上で述べたとおり、鎌倉時代以前では、まだ現在と同じような麺の形の完成形はなかったというのが通説です。この地方だけに、素麺の製法が中国から伝来した、という話には、何やらうさんくさい臭いがします。おそらくは、これを売らんがするために作られた創作話でしょう。

とはいえ、それだけ他に比べれば長い歴史を持っており、それなりのこだわりを持って長年の生産が続けられてきました。そのこだわりのひとつの表れが、三輪産のそうめん製品に取りつけられている「鳥居のマーク」です。

この鳥居のマークこそが、大和三輪においてそうめんが発祥したとされる、「大神神社(おおみわじんじゃ)」の鳥居です。大神神社は、奈良県桜井市三輪にある神社で、別称を「三輪明神」・「三輪神社」ともいい、祭神は大物主(おおものぬし)、または大物主大神(おおものぬしのおおかみ)です。

その拝殿は、国指定の重要文化財になっており、日本でも古い神社の一つです。皇室の尊厳も篤く、進んで外戚を結んだ、といわれていることから神聖な信仰の場であったと考えられます。

伝説によれば、紀元前91年(崇神天皇7年)、五代目の「大物主」の孫(または子)である、「大田子根子命(おおたたねこのみこと)」が大神神社の大神主に任ぜられたことに、その起源があるとされます。

さらに、奈良時代の宝亀年間(770~781年)のころ、その十二世の孫である「大神朝臣(おおみわのあそん)・狭井久佐(さいくさ)」の次男、穀主(たねぬし)なる人物が、本殿に飢饉と疫病に苦しむ民の救済を祈願しました。そうしたところ、三輪の地で小麦をつくるようにと神からの啓示を賜ったといいます。

穀主は常日頃から農事をもっぱらにして、穀物の栽培にこころをくだいていましたが、三輪の地に適した小麦の栽培を行い、小麦と三輪山の清流で素麺作りを始めたとされます。ちなみに、「朝臣」とは、皇族以外の臣下の中では事実上一番上の地位にあたるため、狭井穀主は、かなり位の高い人物であったと推定されます。

この縁で、大神神社の祭神、「大物主」は素麺作りの守護神とされ、毎年2月5日には、その年の三輪の生産者と卸業者の初取引の際、卸値の参考価格を神前で占う「卜定祭」が営まれるようになりました。また、大物主は、別名、三輪明神とも呼ばれるようになりました。

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この大物主は、蛇神であり水神または雷神としての性格を持ち、稲作豊穣、疫病除け、酒造り(醸造)などの神として、現在でも篤い信仰を集めています。

また国の守護神である一方で、祟りをなす強力な神ともされます。ネズミを捕食する蛇は太古の昔より五穀豊穣の象徴とされてきており、このことから、最も古き神々の一柱とも考えられます。古事記によれば、日本の初代天皇とされる神武天皇の岳父(義親)、綏靖天皇(すいぜいてんのう)の外祖父にあたる、とされているようです。

国造りの神であり、神様の中の神様、大国主(おおくにぬし)の分霊でもあるといわれるため、大国主と同じく大黒様(大黒天)として祀られることも多いようです。

大物主にまつわる神話は数多くあります。

そのひとつ、古事記・神武紀に書かれているものによれば、古代の三島地方(現 大阪府茨木市 及び 高槻市) を統率していた豪族 の三島溝咋(ミシマノミゾクヒ)の娘の玉櫛媛(たまくしひめ)が美人であるという噂を耳にした大物主は、彼女に一目惚れしました。

大物主は玉櫛媛に何とか声をかけようと、赤い矢に姿を変え、勢夜陀多良比売が用を足しに来る頃を見計らって川の上流から流れて行き、その娘の富登(ほと)をつき刺しました。

ほと、とは「陰所」のことであり、姫は驚いて「イススキ」と叫びながら走り去ったといいます。イススキとは、「狼狽」の意味の古語ですから、ここでは「ぎゃあ゛~」といったかんじでしょうか。

彼女がその矢を自分の部屋に持ち帰ると、ポンッと大物主は元の姿に戻り、二人は結ばれました。こうして生れた子が富登多多良伊須須岐比売命(ホトタタライススキヒメ)であり、後に「ホト」を嫌い比売多多良伊須気余理比売(ヒメタタライスケヨリヒメ)と名を変え、神武天皇の后となったといいます。初代皇后ということになります。

大物主に関しては、またこんな神話もあります。

第7代孝霊天皇皇女、倭迹迹日百襲姫(ヤマトトトヒモモソヒメ)= 百襲姫(もそひめのみこと)は、奈良県桜井市に今も残る、箸墓古墳((はしはかこふん)に葬られている実在したとされる人物です。

大物主神の妻となりましたが、大物主神は夜にしかやって来ず、昼に姿は見せなかったといいます。そこで、夜ごと訪ねてくるこの夫に、「ぜひ顔をみたい」と頼みますが、大物主神は、これを拒否しました。しかし、何度も頼まれるうちに断りきれず、「絶対に驚いてはいけない」という条件つきで、朝になってから小物入れをのぞくように、と妻に言いました。

朝になって百襲姫が小物入れをのぞくと、なんとそこには小さな黒蛇の姿がありました。驚いた百襲姫が、悲鳴を上げたため、大物主神はこれを恥じて御諸山(三輪山・後述)に登ってしまいました。

百襲姫がこれを後悔し、がっくりと腰を落とした瞬間、そこに立ててあった箸が陰部(ほと)を突いたため、百襲姫は死んでしまいました。こうして、大市(現在の奈良県桜井市箸中)に墓が創られ、葬られました。以後、人々はこの墓を「箸墓」と呼びました。

この墓の造営にあたっては、昼は人が墓を作り、夜は神が作ったと伝えられており、また墓には大坂山(現・奈良県香芝市西部の丘陵)の石が築造のため運ばれたといいます。

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さらに、大物主にはこんな伝説もあります。

海神である、綿津見大神(ワダツミノオオカミ)には、活玉依比売(イクタマヨリビメ)、通称、玉依姫(タマヨリビメ)という娘がいました。「タマヨリ」という神名は「神霊の依り代」を意味し、タマヨリビメは神霊の依り代となる女、すなわち巫女を指します。

ある日、玉依姫の前に突然立派な男が現われて、二人は結婚しました。しかも彼女はそれからすぐに身篭ってしまいます。不審に思った父母が問いつめたところ、姫は名前も知らない立派な男が夜毎にやって来ることを両親に告白しました。

父母はその男の正体を知りたいと思い、糸巻きに巻いた麻糸を針に通し、針をその男の衣の裾に通すように教えました。翌朝、針につけた糸は戸の鍵穴から抜け出ており、糸をたどると近くの山の社まで続いていました。糸巻きには糸が3回りだけ残っていたので、以後、その山を「三輪山」と呼ぶようになったといいます。

この山こそが、三輪山(みわやま)です。上述の、大神神社の東方にそびえる標高467.1m、周囲16kmの山で、位置的には、奈良県北部奈良盆地の南東部になります。三諸山(みもろやま)とも呼ばれ、なだらかな円錐形の山です。

「古事記」によれば、大国主神とともに国造りを行っていた少彦名神(スクナビコナ)が常世の国(死後の世界)へ去り、大国主神がこれからどうやってこの国を造って行けば良いのかと思い悩んでいた時に、海の向こうから光り輝く神様が現れて、大和国にある、この三輪山に自分を祭るよう進言しました。

この神様こそが大物主であり、「日本書紀」の一書では大国主神の別名としています。大神神社の由緒では、大国主神が自らの和魂を大物主として祀った、とあります。

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古墳時代に入ると、山麓地帯には次々と大きな古墳が築造されました。この一帯を中心にして強力な政治的勢力が発展したと考えられており、これこそがヤマト政権の初期政権(王朝)である、という説が有力です。

200~300mの大きな古墳が並び、そのうちには第10代の崇神天皇(行灯山古墳)、第12代の景行天皇(渋谷向山古墳)の陵があるとされます。また、上で述べた、百襲姫の陵墓、箸墓古墳(はしはかこふん)は、この山の西に位置する大神神社から北北西へ約1.5kmの位置にあり、実は、近年の調査から、「魏志」倭人伝に現れる邪馬台国の女王、かの有名な「卑弥呼」の墓ではないかと取り沙汰されています。

つまり、上の百襲姫こそが卑弥呼、ということになります。この三輪山を中心とした一帯は大物主に関わりのあるこうした神様の「居住団地」といってもよく、三輪山は古くから「神宿る山」とされ、山そのものが御神体であると考えられてきました。

このことから、神官や僧侶以外は足を踏み入れることのできない、禁足の山とされていますが、飛鳥時代には山内に大三輪寺が建てられ、平安時代には空海によって遍照院が建てられました。

鎌倉時代に入ってからは神仏両部思想(日本土着の神道と仏教信仰をひとつ信仰体系として再構成(習合)する思想)を確立したことで知られる僧侶、慶円(けいえん)が三輪氏の氏神であった三輪神社を拡大し、本地垂迹説によって三輪明神と改め、別当寺三輪山「平等寺」を建立しました。

本地垂迹(ほんじすいじゃく)とは、仏教が興隆した時代に発生した神仏習合思想の一つで、日本の八百万の神々は、実は様々な仏(菩薩や天部なども含む)が化身として日本の地に現れたもの、とする考えです。

中世以降は長らく神仏習合の影響が色濃く、神宮寺も数多く建立され、徳川将軍家などに「三輪明神」として篤く信仰されました。

三輪山そのものが、大神神社の御神体として正式に記録されたのは、1871年(明治4年)に神社が奈良県にあてた口上書に、神山とは「三輪山を指す」と使ったのが初めてです

江戸時代には徳川幕府より厳しい政令が設けられ、平等寺の許可がないと入山できませんでしたが、明治以降はこの伝統に基づき、「入山者の心得」なるものが定められ、現在においてはこの規則を遵守すれば誰でも入山できるようになりました。

三輪山の祭祀遺跡としては、下方から辺津磐座(へついわくら)、半ほどの中津磐座(なかついわくら)、頂上付近の奥津磐座(おきついわくら)、山ノ神(やまのかみ)岩陰祭祀遺跡、大神神社・拝殿裏の禁足地遺跡、狭井神社西方の新境内地遺跡などがあります。

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これらは、いわゆる「巨石群」であり、「磐座(いわくら)」とは、天然現象である岩石・巨石、またはその集群を神座と考え、神を招き奉ってはじめて祭祀を行ない、崇拝をしたものです。

けっして驚くほど大きいものばかりではなく、中には一個のみで威厳を備えているもの、巨石群、重なり合っているものなど、いろいろです。そしてこれらの磐座も自然のものと、人工的な仕組みのものとがあり、人間の生活が山麓から低地へ移っていく過程で、平野部で造られるものほど、人為が入っているものが多くなるといいます。

頂上には高宮神社が祀られていますが、この神社は、古代には、太陽祭祀に深く関わっていた神坐日向神社(みわにますひむかいじんじゃ)であったと推測されています。同名の神社が、麓の大神神社の南にあり、古い時代に山頂からここに移されたものと考えられます。

頂上付近はかなり広い平地です。この神社の東方に東西約30m、南北10mの広場に高さ約2mの岩がたくさんあります。これが奥津磐座です。

現在、この山中で見学できるのはこの磐座だけです。奥津磐座や、中津磐座には巨石群の周囲を広く環状に石を据えた形跡があり、「日本書紀」巻二の天孫降臨に際しての高皇産霊尊の勅に「天津神籬および天津磐境を起こしたて」とある磐境にあてる、といった考証もあるようです。

山ノ神遺跡に関しては大正7年に偶然発見されたものです。古墳時代中期以降の岩陰祭祀遺跡で、発見当初は古墳と思われました。磐座とされる石と5個の石がこれを取り囲むような状態で見つかり、さらにその下には割石を敷きつめて地固めがされていました。

調査に入るまでの3ヶ月の間に盗掘を受けてしまったとされますが、残った遺物には、おびただしい数の宝物が残されていました。

小形の素文鏡3、碧玉製勾玉5、水晶製勾玉1、滑石製模造品の子持勾玉1、勾玉約100、管玉約100、数百個の有孔円板と剣形製品、無数の臼玉、高坏、盤、坏、臼、杵、杓、匙、箕、案、鏡の形を模した土製模造品、それに剣形鉄製品と考えられる鉄片などなどであり、本来はさらにおびただしい量の遺物が埋納されていたことが知られています。

その遺物を見ると、鏡・玉・剣のセット、いわゆる三種の神器の形式をとっているものが多いほか、三輪山の神が農耕神としての一面を持つ宝物が多いようです。臼、杵、杓、匙、箕といったものがそれらです。

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入山する際は、後述の規則(掟)を遵守する必要があります。入山せずに参拝する際には、大神神社の拝殿から直接、神体である三輪山を仰ぎ拝むといった手法を採ります。したがって、大神神社には本殿がなく、そこには自然そのものを崇拝する古神道が息づいています。

さらに登山を希望する場合は、大神神社から北北東250m辺りに位置する境内の摂社・狭井神社の社務所で許可を得なければいけません。そこで氏名・住所・電話番号を記入し300円を納めます。そして参拝証の白いたすきを受け取り御祓いを済ませます。道中このたすきを外すことは禁止されています。

行程は上り下り約4kmで、通例2時間ほどで登下山できますが、3時間以内に登下山しなければならないという規則が定められています。また山中では、飲食、喫煙、写真撮影の一切が禁止され(水分補給のためのミネラルウォーターやスポーツドリンクの飲用は可能)、下山以降も山中での情報を他人に話すことを慎むのがマナーでもあります。

午後4時までに下山しないといけないため、午後2時以降は入山が許可されない場合があります。雷雨などの荒天の際は入山禁止となることもありますが、禁止とならない場合であっても万一の事故に備えて電話番号の記入が求められます。また、大神神社で祭祀が行われる日は入山ができません。

原則として、数多く散在する巨石遺構や祭祀遺跡に対しても許可なく撮影はできません。さらに、山内の一木一葉に至るまで神宿るものとし、それに斧を入れることは許されておらず、山は松、檜などのほか、杉の大樹に覆われています。

日本酒の造り酒屋ではこの杉を使い、風習として「杉玉」を軒先に吊るすことがあります。これは一つには、酒造りの神でもある大物主の神力が古来スギに宿るとされていたためといわれます。

スギの葉(穂先)を集めてボール状にした造形物。酒林(さかばやし)とも呼ばれます。日本酒の造り酒屋などの軒先に緑の杉玉を吊すことで、新酒が出来たことを知らせる役割を果たします。「搾りを始めました」という意味です。

吊るされたばかりの杉玉はまだ蒼々としていますが、やがて枯れて茶色がかってきます。この色の変化がまた人々に、新酒の熟成の具合を物語っています。今日では、酒屋の看板のように受け取られがちですが、元々は酒の神様に感謝を捧げるものであったわけです。

俗に一休の作とされる句、「極楽は何処の里と思ひしに杉葉立てたる又六が門」は、杉玉をうたったものです。

又六は一休和尚のいた大徳寺の門前の酒屋の名です。

極楽は遠くにあるのではなく、案外近くにあるものですよ。例えばほら、そこの杉玉を吊るした酒屋さんとかね、といった意味かと思われます。

さて、人生初の入院も終わりました。まだまだ極楽に行くわけにはいきません。

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そうめん雑学

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梅雨が明けました。

今年もうあと一ヵ月、いや、それ以上の長きにわたって、暑い日々が続ことになるのでしょう。

暑さに弱く、蝋細工のような私にとっては、一年で一番辛い時期でもあります。

そんな中、多少なりともその暑気を和らげてくれるのが、冷たい食べ物。

とりわけ、毎年お世話になるのが、そばや冷麦(ひやむぎ)、冷やし中華といった冷麺ですが、中でもやはり食する頻度がダントツに高いのは素麺(そうめん)です。

清涼感を求めて食する夏の麺料理として代表的なものといえますが、その消費比率はどのくらいなのか、調べてみました。

すると、日本で生産されている冷麺用の乾麺の生産量は、そうめん類がだいたい44%、うどん類が23%、日本そば19%、ひやむぎ類10%、干し中華(インスタントラーメン除く)4%、となっているようです。

やはり素麺はダントツに人気なのがわかります。

夏の間、広く日本中で食される代表的な食べ物であるわけですが、日本各地にあるそうめんの生産地のうち、奈良県の三輪地方を本拠とする「三輪素麺」は、最も素麺つくりの歴史が長く、全国に分布する素麺産地の源流でもあります。かつては、全国の素麺の相場は、三輪で決められていたといいます。

その味といい、のどごしといい、日本を代表するそうめんであることには疑いの余地はありません。原料に良質の小麦粉を使い、極寒期に手延べ法により精製する、といったこだわりにより、腰のしっかりした煮くずれしにくい独特の歯ごたえと舌ざわりの良さを実現しています。

かつては、製造から1年以上寝かしたものは「古物(ひねもの)」、2年以上は「大古(おおひね)」と呼ばれ珍重されました。また、麺が細いほど高級とされ、そうめんのランク(細さ)を上から、次の大きく4つに区分していました。

神杉(かみすぎ)…極細の最高級品
緒環(おだまき)・・・神杉より少々太い高級品
瑞垣(みずがき)・・・誉より少し細い高級品
誉(ほまれ)・・・通常の三輪そうめん

ところが、本来国内産の麦はグルテン量が少なく、細く作ることには不適なのだそうです。グルテンは、小麦、ライ麦などの穀物の胚乳から生成されるタンパク質の一種です。小麦加工品を作る上で弾性や柔軟性を決定し、膨張を助ける重要な要素です。

麦が生育する環境の違いもあり、国産小麦は輸入ものに比べてグルテンの量が少なく、「ねばり」が弱い傾向にあります。しなやか、かつ、弾力のある麺を作るには、しっかりしたグルテン膜が必要です。

このため、三輪そうめんだけでなく、国内の各生産者とも独自の外国産小麦の輸入ルートを確立し、製造法も工夫して、極細の麺でも弾性や柔軟性を確保できる麺を製造できるよう、努力してきました。

ただ、現代では、お中元などで高級品を贈る以外には、それほど高級品にはこだわりがない向きも多く、三輪そうめんでも、従来の4ランクから、瑞垣(鳥居の金帯)、誉(鳥居の黒帯)の2ランクといった、大まかな区分けがされる程度となっているようです。

また、そうめんといえば、「三輪」と呼ばれるほど、かつては品質が突出していたようですが、近年では他の地域でも製造技術が向上し、大きな品質差はなくなり、どれを食べても十分に満足できるレベルになってきています。

とはいえ、長い歴史に基づいた確かな品質を重んじる消費者も多く、一般には、「日本三大そうめん」といわれるブランドがあり、これが珍重される傾向は今も続いています。その3つとは、三輪素麺(奈良県)と、播州素麺(兵庫県)、小豆島素麺(香川県)になります。

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これに加え、近年では、長崎の「島原素麺」、が第四のそうめんとしてクローズアップされてきています。なぜ長崎なのか、ですが、一説によれば、これは香川県の小豆島の素麺職人が移住し、島原でそうめん作りを始めたのが起源といわれます。

島原そうめんのはっきりとした産地形成は、文化年間(1804~1818年)ごろといわれますが、昭和初期までは数えるぐらいの業者数であり、近隣諸県に行商する程度であったようです。戦後、経済統制もようやく平静を取り戻しつつある昭和28年、島原地区で初の製麺業者組織「長崎県手延素麺製粉協同組合」が設立され、本格的に地場産品としての生産に乗り出しました。

昭和29年〜47年の高度経済成長期になると、高級志向・贈答がもてはやされるようになりました。手延素麺の老舗ブランドとして一足早く全国へ名を馳せていた「三輪素麺」の問屋は大いに活気づき、その供給量の不足を島原に求めるようになりました。

一方で日本の最西端にあるためもあり、販路不足に悩んでいた島原は、これを機に一気に他有名産地の委託下請け生産地として生産量を増大させ、製造者戸数も増加の一途をたどりました。現在にいたるまで、島原半島の南側にある、南島原市・西有家地区を中心にした地域は、およそ400軒が軒を並べる全国第二位の一大生産地となっています。

そうした中、2002年、三輪の大手のそうめん販売業者3社が、突如、長崎県産の素麺を「三輪そうめん」として販売していたとして告発を受け、その結果、農水省の立入検査と改善の指導を受けるという事態に発展しました。

「三輪素麺」とされるものには、大きく分けて、三輪に本社を置く大手企業が作るそうめんと、小口の生産者の団体「奈良県三輪素麺工業協同組合」が取り仕切って作るそうめんの2つがあります。

工業組合は、三輪市内の工業組合員が生産するそうめんこそが「三輪そうめん」である、と、長年主張を続けていました。これに対して、三輪に本社を置く大手そうめん業者たちは、工業組合を通したそうめんも販売する一方で、長崎県産(島原産)を仕入れながら「三輪」の表示を使用して販売を行っていました。

これは、長崎県産の素麺の市場価格が三輪と比較してずっと安価であったためだったようです。年々そうめんの需要が伸びえていく中で、長崎産のものも「三輪素麺」ブランドで売れば安定供給もでき、かつ安価で販売できるため、常習的に長崎産を使うようになっていったようです。

これに対して、工業協同組合側は、三輪で作られたものでしか「三輪そうめん」と呼べない、と主張しました。これは当然のことであり、地場産品の均一された品質は、その土地ならではの環境や風土に基づいて形成されることが多いのも事実です。また、長年、三輪という土地に住まう人々が育んできた技術によって生産されてきたものが、新興の他地域での産物と同一視される、ということは悔しいことに違いはありません。

その、強い地元意識を農水省にぶつけた結果、国もこれを受け入れ、立入検査、という結論になったのでしょう。

これを受けて、大手メーカーは、これ以降、自社販売品のうち三輪での生産ではない場合は、「三輪そうめん」とは表示しなくなりました。

この件により、長い歴史を持つ「三輪ブランド」は、三輪で生産したものに限られることになりました。しかし、長年この地で製造に励んできた、三輪のはえぬきの業者たちは、今回のことを教訓として、より三輪素麺のブランド力を高めていくことの必要性を痛感しました。

以後、三輪素麺の品質や歴史性の宣伝を内外に行うようになり、行政への働きかけも行い始めました。

そうした努力の結果、今年の6月、桜井市は「そうめん条例」を制定しました。これは、三輪素麺の普及のために、三輪素麺を食べる習慣を広め、伝統文化への理解の促進を目的に、市が、三輪素麺の普及を促進するために必要な措置を講じるよう努める、というものです。

三輪ブランドを守るため、市がその普及促進のための措置を講じ、生産業者の主体的取り組みを援助するしくみで、その活動に市民も協力してよ、というわけです。市をあげて地元産のそうめん作りを全国にアピールしていこう、という意気込みの表れともいえます。

こうした取り組みにより、三輪のそうめんは、日本におけるトップブランドとして、ゆるぎない地位を保ち続けており、現在でも桜井市三輪は日本のそうめんの生産の中心地と目されているわけです。

ただ、三輪では、そうめんだけでなく、もうひとつの雄、「ひやむぎ」も生産しており、こちらも全国トップクラスの生産をあげています。三輪の手延べひやむぎ、手延べ三輪うどんといった商品は、いま手延べそうめんに次ぐ、大きな収入源になりつつあります。

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そこで、ひとつ疑問が浮き上がるのですが、この、ひやむぎ(冷麦)とそうめん(素麺)はいったい何が違うのでしょうか?

多くの人が、単に太さが違うんだ、と思っているでしょう。

これは当たってもおり、当たっていなくもありです。実はこの二つ、製法が違う、ということをご存知でしょうか。

一般に出回っているひやむぎの多くは、細打ちにした「うどん」と同じで、小麦粉と塩と水を混ぜたものを練って延ばし、切って作ります。

一方のそうめんは、小麦粉と塩と水を練るところまでは同じですが、ひやむぎのように切らず、練ったものに植物油又はでんぷんを塗り、よりをかけて引き延ばし、細く仕上げて、天日干しにして作ります。

素麺は「索麺」とも書き、これは、糸やひもを引き出す、という意味です。ひもをたぐって中の物を引き出すように、手づるによってさがしもとめる、という意味があり、つまり、「手延べ索麺」=「手延べそうめん」です。

ひやむぎの方は、小麦が原料の「小麦粉」を練り、うどんよりもやや細めに切ります。これを「切り麦」といい、熱して食べるものを「熱麦」、冷やして食べるものを「冷麦」と呼んだことから、「ひやむぎ」の名があります。

「索麺」と「冷麦」、この文字そのものが、如実に製法の違いを表しており、原料は同じ小麦であるものの、仕上がりは別のものであるわけです。

昔ながらの手延べで作る「索麺」は、人力が入るために作るのにそれなりに手間暇がかかりますが、「冷麦」は、今日では機械でもってかなり簡単に作ることができます。今日では機械製麺が主流であり、上で述べたとおり、うどんと製法が同じです。

そして、うどん業界では、細切りのものを「ひやむぎ」、さらに細いものを「そうめん」と呼んで売り出しています。ところが、手間のかかる「手延べそうめん」のほうは製法が違うのに、こちらも普通は「そうめん」と呼ばれます。ここに、混乱があります。

これに関して、JAS規格(日本農林規格)の「乾めん類品質表示基準」では、機械製法によって小麦粉由来の麺を作る場合、麺の太さが1.7mm以上を「うどん」、長径1.3mm以上1.7mm未満を「ひやむぎ」、長径1.3mm未満を「そうめん」と分類しており、基本的には麺の太さで区別します。

太さを基準に「うどん」のほか「ひやむぎ」と「そうめん」としたのは、製麺機で作られる麺の種類が増え、商品の流通上、都合がよいからです。

極太麺の「うどん」、やや太麺の「ひやむぎ」、そして細麺の「そうめん」とバラエティを変えれば、料理法もさまざまになり、消費者に喜ばれます。また、うどん業者などから税金を取る役人にとっても、いろんなバリエーションを作ってくれるほうが税金を取りやすくなり、税収が多くなる、というわけです。

これに対して、昔ながらの手作業で、そうめんを作る場合は、単に小麦粉と水と塩を混ぜて練るだけでなく、もうひと手間、難しい工程加わります。機械によってつくられる麺と異なり、油を加えてさらに細くする、という手間が加わっており、これが「手延べ」の意味するところです。

この「手延べそうめん」は、太さに関しては、機械麺ほど厳しい農林規格はありません。人力により手延べ麺にする場合の呼称は、「そうめん」でも「ひやむぎ」でも良いことになっています。そして、農林規格上、その太さについては、1.7mm以下ならばどちらでも良い、とされています。

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ところが、それでは機械でつくる「うどんそうめん」や「うどんひやむぎ」と違いがわからなくなってしまい、買ってもらえなくなる可能性があります。このため、その頭に「手延べ」をつけることで、差別化を図ることが許されています。

江戸時代から続く、人の手によってつくる「正統派」の手延べめんは、「手延べそうめん」あるいは、「手延べひやむぎ」と表示されています。がしかし実質この二者に違いはなく、太さが違うだけです。従って、かなり太くても「そうめん」という場合さえあり、実際、徳島県の手延べの名産品「半田そうめん」は太く、1.7mm前後あります。

ただし、「手延べ」と呼称する場合は、「手延べ干しめんの日本農林規格」というのが農林水産省で決められています。この規格の中には手延べの細かい製造方法が定められており、ある程度これに書かれているレシピに準じて作られたものでなくては「手延べ」を名乗ることはできません。

そのレシピは、上でも述べましたが、練ったものに植物油又はでんぷんを塗り、よりをかけて引き延ばし、細く仕上げて、常温で一定期間放置することにより熟成させ、さらには天日干しにする、といったものです。ここでは単に2~3行で書いていますが、ほかにも長年蓄積された、細かいノウハウが必要になります。

一方、機械で作った麺は、「ひやむぎ」「そうめん」と商標表示することはできますが、製法が違うため、あたまに「手延べ」をつけることは許されません。手延べの工程がないぶん、仕上がりはかなり異なったものになります。

従って、万一お店で売られている冷麦や素麺が、手延べの工程を経ていないのに「手延べ」と表示されていたら、それは法律を犯して販売されている、ということになります。

なので、お店でそうめんやひやむぎを買う場合には、「手延べ」なのかそうでないのかを見分けましょう。

まず、表面を見て、「手延べ」でのことばが書いてあるかどうかを確認します。さらに裏面を見れば、小麦や水のほかに「油」が入っている旨の成分表示があるはずであり、これで手延べ麺であるかどうかを確認できます。単に機械で作られたものには、「手延べ」の表示はないばかりか、成分表示にも何ら油成分は記載されていないはずです。

これで、冷麦と素麺の違い、そして手延べ麺とそうでないものの違いについての疑問が解決しました。このブログを見て勉強すれば、もう素麺と冷麦の違いについて迷うことはないわけです。

ところで冷麺に関するまた別の疑問。こちらも、日ごろから不思議に思っておられる方も多いと思のですが、麺に赤や緑の彩色麺が何本か入っている、アレです。理由はいったいなんなのでしょうか。

実はこれ、揖保乃糸など一部の「手延べ麺」の製造業者が、製麺所において、そうめんとひやむぎを区別するため、ひやむぎの麺束のほうに、これらの彩色麺を混入していたのがはじまりです。

揖保乃糸(いぼのいと)は、兵庫県手延素麺協同組合が有する手延素麺の商標です。その歴史は三輪そうめんほど古くはなく、とはいえ、15世紀前半に最古の記録が残るなど、日本を代表する手延べ素麺のひとつです。

この彩色麺を混入する、という風習を他の業者も真似し、1980年代後半までは関東地方(東京)などを中心に多く見られましたが、1990年代には徐々に縮小していき、揖保乃糸以外の大多数が白一色のひやむぎになってしまいました。

しかしその一方で、一部の製造業者が現在でもこの風習を続けており、中には子供が喜ぶから、という理由で、機械そうめんなどにも入れられていることがあります。

もっともこれに関しては色麺が入っていいたからといって農林規格に反するわけでもなく、罰則規定などもありません。白い冷麦の中に交じって、赤や緑の素麺が入っているのをみると涼しげで、いかにも夏を感じさせます。

と、同時に色つき麺が入っていると何やら楽しい気分にさせてくれます。子供時代にひやむぎを食べたとき、争うようにして、色のついた麺を取り合った、という経験をした人も多いのではないでしょうか。

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さて、こうしたいろいろな違いがあるにしても、そうめんもひやむぎも、その食べ方はほぼ同じです。湯を沸かしてゆでてから、氷水や流水で冷し、ぬめりを取るためのもみ洗いをした後、めんつゆにつけて食べるのが最も一般的です。

無論、ゆがいたあと、温かいままでいただく場合もあります。そうめんの場合、熱いツユで食べるものを、「にゅうめん」などと呼ぶようです。夏が過ぎ、涼しくなってから食べるにゅうめんは、冷やしそうめんとはまた違った魅力があります。

いずれの場合も、ゆでる水には塩を入れないのが普通です。これは逆に麺に含まれている塩分を出すためでもあります。冷やしそうめんの場合、茹で上がったらできるだけよい水で洗ってぬめりをとりますが、とくに手延べの場合、製造時に混入した油をとりのぞく効果があります。

そうめんつゆは醤油、出汁、みりんあるいは砂糖などからなる甘辛いもので、また、そばつゆよりは砂糖やみりんが多く添加され、甘味が勝るものが多いようです。出汁の材料は地域によってさまざまですが、鰹節、干しエビ、干し椎茸などが一般的です。付け合わせに煮込んだシイタケ、茄子、錦糸卵、トマト、蒲鉾、海老、缶詰のみかん等がつく場合もあるようです。

夏季には各醤油メーカーや食品メーカーから、「そうめんつゆ」と呼ばれる調味済みのめんつゆが販売されます。また、ごまだれをめんつゆに入れたりつけ汁として用いる、というご家庭も多いのではないでしょうか。

関西地方では冷やし中華(冷麺)のようにハム、キュウリなども添えるのが一般的で、薬味としては、刻み葱、おろし生姜、胡麻、ミョウガ、山椒、海苔、鰹節、大葉、おろし山葵などが用いられます。我が家も家内とともに広島・山口の出自なので、この手の薬味を入れることが多いようです。

そうめんに、焼いた鯖の身を入れる、という独特のレシピもあります。滋賀県長浜市周辺の湖北地方に伝わるそうめん料理で、焼鯖素麺、または鯖素麺とも呼ばれています。農繁期である5月に、農家へ嫁いだ娘を持つ親が忙しい娘を気遣い、実家から嫁ぎ先に焼鯖を届ける「五月見舞い」という湖北地方独特の習慣に由来するそうです。

農繁期に気軽に作って食べられる料理として、また客をもてなす際などのハレの料理としても伝えられてきたといいます。湖北地方は内陸に位置しますが、比較的近い地域に若狭湾という鯖の産地があるため、鯖は一般的な食材でした。

この伝統が伝わったのかどうかは定かではありませんが、東北地方の山形県では、たれと薬味に加え、サバの水煮缶を汁ごと、どんと中に入れるのが普通のようです。テレビのバラエティ番組で紹介されていたのを見て、我が家でも試してみましたが、確かにおいしいと思いました。無論、お好みもあると思いますが、みなさんも試してみてください。

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さて、暑い夏がこれから長く続きます。

食欲のない方は、本日のレシピを見て、冷たい麺で夏場を乗り切ってください。

ただ、「夏太り」にはご注意を。

現代の日本の夏は、基礎代謝が低下しやすい環境と言われています。基礎代謝とは、何もせずじっとしていても、生命活動を維持するために自動的に行われている活動で、そのために必要なエネルギー消費のことです。

秋から冬、そして春にかけては、寒暖差がそれなりにあるので、私たちの体は、体温を一定に保とうとかなり活発に基礎代謝を行います。ところが、夏場は一日を通して温度差が少ないため、そもそも代謝を上げなくても体温調整ができてしまいます。

そこにきて、暑いからと運動量が減りますし、発汗によってエネルギー代謝を促進するビタミンBが不足します。さらには睡眠不足とエアコンの多様が自律神経の乱れを誘発します。

結果、本来、自動的に脂肪を燃焼してくれるはずの基礎代謝ががくんと落ちてしまいます。

夏太りになった人の多くは、「そんなに食べていないのに太った」と口を揃えて言いますが、
そうした人に限って、冷たい麺類やパン類ばかり摂取しているようです。そうすると、いくら小食でも、エネルギー価の高い炭水化物のオンパレードとなり、ただでさえ低下した身体の代謝が追いつかなくなってしまいます。

食欲不振で「何か食べなくては」と、冷麺ばかり食べていると、栄養の偏りで代謝低下に拍車をかけることになるわけです。

なので、そうめんを食べるなら、それなりに運動もし、規則正しい生活を送って、できることならエアコンを使わずに快適に眠れる方法を模索します。ビタミンBを多く含む、酵母やレバー、肉、魚介類、野菜などをたくさんとり、基礎代謝量を保ちましょう。

バランスよく他の食材と合わせながら素麺を食べ、暑い夏を乗りきったあとも、美しい体型を保つ。これをこの夏の目標にしてはいかがでしょうか。

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ハゲの里

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6月7日に梅雨入りしてから40日ほどが過ぎました。

今年はカラ梅雨とのことでしたが、伊豆ではそれなりに雨に恵まれ、おかげで庭木の水やりにもそれほど気を遣わなくて済んでいます。

ただ、逆にこれから梅雨末期にかけて雨が降りやすい時期であって、集中豪雨などの大雨には注意が必要です。

先日の熊本・大分の集中豪雨も、台風3号が取り込んだ湿った空気によって、積乱雲が次々と発生し、同じ場所に連続的に雨を降らせました。

いわゆる「線状降水帯」です。この九州北部を襲った降水帯は9時間以上停滞したといい、気象庁の専門官も「これほど狭い範囲に長時間停滞するのは驚きだ」と話していました。

その原因は、梅雨末期になると、梅雨前線を構成する北側のオホーツク海気団と南側の太平洋高気団のバランスが崩れ、不安定になってくることと関係があるようです。

上空では寒気や乾燥した空気が流入し、地表付近に暖かく湿った空気(暖湿流)が流入しやすくなります。そこへ、西から台風や低気圧が近づいてきたりすると、前線の活動が活発化し、積乱雲をともなった強い雨雲が発生し、時に豪雨となります。

梅雨末期のこうした大雨を荒梅雨(あらづゆ)あるいは暴れ梅雨(あばれづゆ)とも呼びます。とくに雷をともなった雨が降ることも多く、これは、送り梅雨(おくりづゆ)と呼ばれます。

その後、梅雨前線の活動が太平洋高気圧の勢力拡大によって弱まるか、各地域の北側に押し上げられ、今後前線の影響による雨が降らない状況になったとき、梅雨が終わったとみなされます。

ここ、東海地方の梅雨明けの平年値は、7月21日で、他の地域もだいたいこれに準じてこの前後の事が多いようです。

今年もまたその時期が近づいてきました。

一方では、梅雨明けした後も雨が続いたり、いったん晴れた後また雨が降ったりすることがあり、これを帰り梅雨(かえりづゆ)または戻り梅雨(もどりづゆ)と呼びます。

こうした年は冷夏となる場合も多く、冷害が発生しやすい傾向にあるといいます。昨年も結構暑い夏になりましたが、7月下旬に限っては、東日本は冷夏であり、平年より気温はかなり低くなりました。

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日本では1983年までは2年以上連続で猛暑になることはなく、1993年までは冷夏の頻度も高かったようです。しかし、かなりの酷暑となった1994年以降、猛暑となる年が急増しています。最近では、2004~- 2008年の間は、5年連続の猛暑となりました。

さらに、2010年(平成22年)は1994年を大幅に上回る、観測史上「最も暑い夏」になりました。多くの地点で平均気温の最高記録や熱帯夜などの最多日数を更新し、特に8月は平年よりも2℃以上高い所が多く、全国77の気象官署で月平均気温の最高記録を更新しました。

9月になってからも38℃以上の記録が相次ぎ、札幌市、岐阜市、名古屋市などの9地点の気象官署では9月の平均気温が過去最高になりました。

この観測史上最も暑かったといわれる2010年に匹敵するほどの暑さだったとされるのが、2013年(平成25年)の夏です。前年には記録的な高温にならなかった西日本太平洋側や南西諸島も含め、3ヶ月及び全ての地方を通して高温になりました。

特に8月中旬は暑さが厳しく、8月12日に、高知県四万十市、「江川崎(えかわさき)」で日本の最高記録41.0℃を更新し、その後も8月23日までの18日間、猛暑日が継続しました。

この、「日本で最も暑い場所」として最高気温が観測されたのは、北緯33度10.2分 東経132度47.5分、標高72mの地点にある、気象庁の観測所です。

「江川崎観測所」といい、気象庁の誇る、アメダス(地域気象観測システム)の拠点観測地のひとつです。正確な所在地は、「四万十市・西土佐用井(もちい)」で、これは四万十市立の西土佐中学校に隣接する場所になります。

付近には駐車できる場所もあることから、日本の過去最高気温を記録して以来、この観測所を一目見ようと訪れる観光客の姿も見られるようになったといいます。

また日本の最高気温記録を更新した、2013年8月12日の翌日の13日には、商工会が「日本一の暑さ江川崎」の看板を制作したほか、農産物直売所の「西土佐ふるさと市」で、気温41度にちなんだ41円のかき氷を販売するなど、以後、現在に至るまで、「暑い」をテーマとして、地域振興に結び付ける取り組みが行われてきました。

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現時点で、日本一暑い町といわれる、この江川崎ですが、高知県の南西部の山間にある地域です。私の生まれた場所、愛媛県の大洲市から直線で約40kmほどのところにありますが、無論私も、生まれてこのかた、こんな山深い土地を訪れたことがありません。

町や村ではなく「地区」として扱われていて、6つの大字で構成されています。それぞれ「西土佐」が頭に付き、西土佐「江川(えかわ)」、西土佐「長生(ながおい)」、西土佐「西ケ方(にしがほう)」、西土佐「半家(はげ)」、西土佐「用井(もちい)」、および、西土佐「江川崎(えかわさき)」になります。

このうち、西土佐江川崎(にしとさえかわさき)が中心的な地区になるようで、中世以来の地域の中心地でもあり、JR予土地線の江川崎や四万十市役所の西土佐総合支所などの役所があるのもこの場所です。

行政区分上は、これら6地区を併せて「江川崎地区」と呼び、「江川崎」の名称は、旧「江川崎村」に由来します。

1889年(明治22年)、町村制の施行により、江川・長生・西ケ方・半家・用井、および下山(川崎)・の6村が合併し、この江川崎村が成立しました。村役場は下山の「宮地」という場所に置かれていました。

大正期以降、交通の要として発達しました。1932年(昭和7年)頃の資料によると、村の総生産は、農産が最も高く特に生繭・米・桑葉・用材・木炭が主要産品でした。1953年(昭和28年)、愛媛県西方の「豊後水道」に面する町、宇和島を始発駅とする日本国有鉄道「宇和島線」が成立し、これが延長されて「江川崎駅」が開業、終着駅となりました。

1958年(昭和33年)、隣接する津大村と合併し西土佐村が発足、村名としての江川崎は失われましたが、下山が江川崎に改称となり、大字名として「江川崎」の名が残されました。

西土佐村成立後、江川崎は現在に至るまで、法務局出張所、営林署、土木出張所などの出先機関や役場・商工会・中央公民館などが設けられ、地域の拠点として発展を続けました。1978年(昭和53年)には、四万十川を横断する西土佐大橋架橋が完成し、これにより、対岸の「用井」も村の中心機能の一部を担うこととなりました。

この用井は、上で述べたとおり、2013年に国内最高気温を記録した場所です。それまでの用井は、陸の孤島状態にありましたが、西土佐大橋の架橋後、西土佐中学校や村の総合グラウンドが建設されるなどの開発が進み、江川崎の中心地と目されるようになりました。

1974年(昭和49年)には江川崎駅以東の鉄道路線が開業、宇和島線から「予土線」に改められました。ちなみに、この予土線は、終点の若井駅を経て土佐くろしお鉄道:中村線に乗り入れ、さらに四国旅客鉄道:土讃線に接続して、高知県の県庁所在地、高知に至ります。

ローカル線であるがゆえに、運行頻度は低いようで、乗り換えも必要ですが、県庁所在地まで、一本の路線で行ける安心感があります。

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江川崎は、2005年(平成17年)、平成の大合併により、隣接する中村市とともに四万十市の一部となりました。ちなみに、この中村市は、江川崎の南に位置し、昭和時代までは高知県西部(幡多郡)の中心都市でした。戦国時代には土佐一条氏の城下町であり、中心市街地は碁盤目状に区画されていました。「土佐の小京都」として知られるとともに、「土佐中村」として独自の文化を築いてきました。

人口も合併前には35,000人ほどもあり、これに比べると、同じ四万十市に属するながら、江川崎地区の世帯数は670世帯、人口は1,600人弱にすぎません。段丘上に集落を形成する山間の小さな町であり、産業の中心は農業と林業で、米・野菜・シイタケなどを産出するほか、木材が大きな収入源です。

かつて江戸時代以前に「下山郷」と呼ばれていた時代、ここから産出される木材は「黒尊材」または「下山材」として知られ、和泉国(現大阪府南西部)などへ出荷されていました。当初、木材輸送には四万十川のいかだ流しを利用していましたが、近代ではトラック輸送に取って代わられています。

1983年(昭和58年)、NHK特集「土佐四万十川〜清流と魚と人と〜」という番組が日本全国に放映されました。このとき、アナウンサーが用いた「日本最後の清流」の語は、のちに四万十川を表す語として全国に響き渡るところとなりました。

この番組は、全国的にセンセーションを巻き起こし、放映後、江川崎では四万十川を活用した観光が盛んとなっていきます。旧西土佐村の観光客は1990年(平成2年)には10万人であったものが、1997年(平成5年)には23万人へと増え、観光業が急成長しました。

江川崎の古くからの観光スポットには白綾の滝や金刀比羅宮があります。金刀比羅宮といっても香川県にあるそれと比べるとかなり規模の小さいものです。ただ、天正年間(1592~1593年)の勧請ということで、歴史は古く、ネットで調べてみると奥深い風情のある神社です。

一方の白綾の滝は落差が10mほどあり、天保8年(1837年)には宇和島藩主が訪れています。が、こちらも他地域にある滝に比べるとそれほど大きなものではないようで、観光スポットとしての集客効果は、少々弱そうです。

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これに比べ、四万十川の知名度はダントツです。この川が観光資源になるという認識は、NHKの報道により有名になるまでは、地元、江川埼住民にも高知県行政にもなかったようです。が、放送をきっかけに、この四万十川中流域にある小さな町にも一大観光ブームが訪れました。

今や全国的にも知名度の高くなった、この四万十川は、高知県の西部を流れる渡川水系の本川で全長196km、四国内で最長の川で、流域面積も吉野川に次ぎ第2位となっています。上流にダムが建設されていないことから、上のとおり「日本最後の清流」のキャッチフレーズを持つほか、柿田川・長良川とともに「日本三大清流の一つ」とされ、名水百選、日本の秘境100選にも選ばれています。

ただし、政府による科学的な水質調査では、全国の調査対象河川の中で際立って水質が良いわけではないといいます。

水質以上にその環境が評価されている川であり、その高い評価のひとつには、四万十川には支流も含めて47の沈下橋があることです。

沈下橋は、低水路・低水敷と呼ばれる普段水が流れているところに、主として鉄筋コンクリートなどにより架橋されるものです。床板も河川敷・高水敷の土地と同じ程度の高さとなっていて、低水位の状態では橋として使えるものの、増水時には水面下に沈んでしまう橋のことをいいます。

かつて架橋技術が未熟であった時代は、洪水でも壊れない橋を造ること自体が難しい、という現実がありました。このため、あえて増水時に沈む高さで橋を造って流木などが橋の上を流れていきやすいようにする、という苦肉の策が採用されるところとなり、これが、全国でも増えました。

土木用語としては「潜水橋」あるいは「潜り橋」というのが正式な名称で、その構造から建設費が安く抑えられるため山間部や過疎地などの比較的交通量の少ない地域で生活道路として多く作られ、とくに台風などの豪雨に度々見舞われる、四国をはじめとする西日本の各地で多く建設されました。

しかしその後、架橋技術が進歩するにつれ、現在では山間部でも広い道路や本格的な橋が造られるようになり、また慣れているはずの地元住民といえども転落事故が絶えない、ということもありました。こうして沈下橋は新たに建築されなくなり、永久橋に架け替えられて徐々に姿を消しつつあります。

こうした中、沈下橋を河川の文化的景観、技術的遺産、観光資源として保存する動きもあり、この四万十川流域でも、江川崎にある沈下橋も含め、重要文化的景観に選定されているものが多数あります。高知県では生活文化遺産として保存する方針を1993年に決定しています。

また、四万十川には堰がないことから、カヌーに最適とされ、日本有数のカヌーの盛んな地域となりました。拠点となる「四万十 川の駅 カヌー館」にはカヌー資料館が併設され、江川崎周辺ではカヌー教室やリバーツーリングが展開されます。

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とはいえ、これ以外にこれといって大きな観光の目玉があるわけではなく、宿泊施設もホテル星羅四万十というホテルがひとつと、西土佐山村ヘルスセンターという公営の日帰り温泉施設がひとつ、このほか旅館や民宿が5~6軒ほどもある程度です。

ただ、この地には綺麗な夜空があります。町の内外に建つ住宅は分散していることから光害が少なく、星がきれいに見えるため、この星を使った町おこしに最近取り組んでいるようです。旧環境庁から「星空の街」の認定を受けているとのことで、最近小さな天文台も作られたようです。

このほか、この地はその昔、土佐国と伊予国の境にある軍事要衝地であり、支配する権力者が次々と変わるなど、歴史的にみると、かなり面白い場所であるようです。現在の江川崎地区に相当する地域は、戦国時代に「下山郷」と呼ばれ、伊予国に占領されていましたが、文明元年8月(1469年9月)土佐国の、土佐一条氏が奪還しました。

土佐一条氏は、室町時代の公卿・古典学者であった、「一条兼良」を高祖とする一族です。

一条家は、五摂家のひとつで、摂家(せっけ)とは、鎌倉時代に成立した藤原氏嫡流です。また、五摂家とは、公家の家格の頂点に立った5家(近衛家・九条家・二条家・一条家・鷹司家)のことで、大納言・右大臣・左大臣を経て摂政・関白、太政大臣に昇任できるという家格の高い家柄です。

兼良は、その一条家の中にあっても、当時の人々からは、「日本無双の才人」と評され、兼良自身も「菅原道真以上の学者である」と豪語しただけあって、その学問の対象は幅広く、和歌・連歌・能楽などにも詳しかったといいます。

1468年(応仁2年)に、この一条兼良の子で関白の「一条教房」が、応仁の乱の混乱を避け、京都から所領であった土佐幡多荘(現在の四万十市中村)に下向したことに、一族の歴史が始まります。そしてその土地こそが、江川崎の南側にある、旧中村市になります。

鎌倉時代末期から室町時代にかけてこの地は地元の豪族の争いが絶えず、朝廷にしてみればその安定化を図る目的もあったと考えられます。教房は、この中村の前身である幡多郡(はたのしょう)を中心とした国人領主たちの支持を得ることに成功し、文明年間には拠点として「中村館」を置きました。

以後ここは「中村御所」と称され、同時にここを中心とする地域を「中村郷」と称するようになりました。また、教房とともに京にいた公家や武士、職人などもここに下向するなど、土佐一条氏繁栄の基礎が築きあげられました。

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しかし、繁栄を誇った土佐一条氏も、5代目の一条兼定の代に没落します。兼定の父の4代目房基は、伊予国南部への進出を図るなど一条氏の勢威をさらに拡大していましたが、1549年(天文18年)、突如として自殺しました(一説に暗殺説も)。

その子の一条兼定は、暗愚で遊興にふけったため信望を失い、他豪族を滅ぼして勢力を拡大しつつあった長宗我部氏(当主 長宗我部元親)が中村に侵攻してきます。このとき、一条氏の家臣は先を争って元親の軍門に降り、これにより兼定は九州豊後国に追放されました。以後、土佐一条氏は土佐を追われ、下山郷は長宗我部氏の配下となります。

長宗我部元親は、土佐の国人から戦国大名に成長し、阿波・讃岐の三好氏、伊予の西園寺氏・河野氏らと戦い、四国全土に勢力を広げたことで知られる人物です。しかし、その後織田信長が四国平定に乗り出すところとなり、信長の後継となった豊臣秀吉に敗れ土佐一国に減知となりました。

慶長4年(1599年)に元親が死ぬと、長宗我部盛親が第22代当主となります。翌慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで盛親は当初東軍につこうとしますが、家康への密使を関所で留め置かれ、西軍に組みしました。本戦では実際の戦闘に参加しないまま西軍は敗戦し、このため長宗我部氏は戦後所領を没収されて改易となり、浦戸という狭い土地に押し込まれました(浦戸藩・現在の高知県高知市浦戸)。

その後盛親は、慶長19年(1614年)から同慶長20年(1615年)の大坂の陣で豊臣方に付きましたが、この戦いでも豊臣方が敗れたため、盛親はもとより盛親の子らもすべて斬首され、直系は絶えました。

しかし、長宗我部国親の四男・親房が島氏を名乗り(島親益)、その子孫が土佐藩に下級藩士として仕え、断絶した直系に代わり、この島氏が現代の長宗我部当主家に繋がっていきます。が、土佐藩時代は長宗我部への復姓や家紋の使用は禁じられており、再び長宗我部を名乗ることができるようになったのは、明治維新後のことです。

長宗我部元親は、その全盛時代、現在の江川崎地区である下山郷で天正17年(1589年)に検地を実施しています。それまでの川埼村が下山村と呼ばれるようになったのはこの時代であり、以後江戸時代に至るまで、もっぱらこの地は下山郷、もしくは下山村と呼ばれていました。

合わせ4つの城があり、長宗我部氏が伊予国南部へ侵攻する際の入り口となるなど重要な軍事拠点でしたが、関ヶ原の戦いを経て長宗我部氏が土佐を去ると、下山郷は土佐山内氏の所領となりました。

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山内氏は、内助の功で知られる千代を妻に持つ、ご存知「山内一豊」を開祖とする一族です。千代と一豊の国盗り物語は、2006年に放送された45作目のNHK大河ドラマ「功名が辻」の中で描かれたため、ご存知の方も多いでしょう。千代役を仲間由紀恵さんが、一豊を上川隆也さんが演じ、なかなか視聴率も高かったようです。

一豊はその後、江戸期を通じて繁栄した土佐藩の初代藩主となります。高知平野内の大高坂山に統治の中心拠点として高知城を築城し、城下町の整備を行いました。領民に対して食中毒を気遣い、鰹を刺身で食べることを禁じたという話が伝わっており、それに対し、領民が鰹の表面のみをあぶり、刺身ではないと言い繕って食すようになりました。これが鰹のタタキの起源だとされています。

江戸時代を通して下山郷もまたこの一豊を初代藩主とする土佐藩の配下にありました。しかし、長宗我部時代に伊予国とのつながりが深かった下山郷は、土佐藩領になっても隣国の伊予国との交流が深く、自国よりもこちらの民との婚姻が結ばれることも多かったといいます。現在でも方言や家屋の様式に類似性が認められるようです。

下山郷のうち、町の中心である下山は舟運の拠点で、四万十川河口部の海に面する下田との物資の往来、特に下田からの食塩の輸送が盛んでした。また、現在の「西土佐江川」に相当する江川は紙や弓の生産が盛んで、文政7年(1824年)には紙の取り扱いを巡って江川一揆が発生しました。

紙漉きはまた、隣接する長生のほか、半家でも行われていました。

この半家、実は平家の落人が開いた村であった、という伝承があります。

グーグルマップをみると、予土線の「半家駅」以外にとくに目立ったランドマークのない、ひなびた山村ですが、ちょうど四万十川がうねりにうねってSの字型に蛇行した場所にあり、その左右岸の緩い山裾の斜面に家々と田畑が広がるという地形を持った山里です。

明らかに四万十川の水利を利用して生活維持をしてきた様子がうかがえ、そのために古くから、氾濫の多い万十川への架橋が試みられてきたようです。そのひとつ、「半家沈下橋」は、現在四万十川流域にある沈下橋のうちの最も古い橋になります。

と同時に、四万十川に架かる47もある沈下橋のうちの最上流の沈下橋で、四万十川における「沈下橋観光」の撮影スポットの一つです。急流に架かり、瀬音や白い水しぶき楽しめる全長約125mの橋で、普通車の通行可能が可能といいます。すぐそばに半家天満宮というひっそりと静かな古刹があり、秋祭りでは「牛鬼」と呼ばれる、中に人が入った大きな赤牛の形をした人形が、この沈下橋の上などを練り歩きます。

秋祭りには、多くのカメラ愛好家や地元住民らが訪れるといい、この牛鬼は、古くから交流が盛んだった愛媛県宇和島市から伝わったとされます。土佐国に属しながら、国境にあるがゆえの伝統であり、隣国である伊予国の影響が色濃い地域である証でもあります。牛鬼の行進のほかに、「五鹿(いつしか)踊り」や「花取り踊り」が半家天満宮で毎年行われ、五穀豊穣(ほうじょう)や魔よけを、地元の人たちが願うといいます。

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そして、その人々の先祖こそがこの地に住み着いた平家の落人だという伝承が伝わります。

実は「半家」は、「はんげ」と読むのではなく、「はげ」と読みます。ハゲというと、最近、「このハゲ~」発言でひんしゅくを買った、某女性政治家を思い出してしまいますが、なぜこういう読みになったのかは不明です。

が、漢字の由来は、そもそも平家の落人だったこの村の先祖たちが、源氏方の追討を逃れるために「平家」の「平」の字の横線を移動させて「半」にしたためと言われています。と同時に、その読みも「へいけ」では都合が悪いので、「ハゲ」ということにしたのでしょう。

この半家の村人たちは、その昔から「助け合い」の精神が強い人たちが多かったといわれ、江戸時代には、「半家義民村」と呼ばれるほどだったといいます。義民(ぎみん)とは、本来、飢饉などで人々が困窮しているときに一揆の首謀者などとなって私財や生命を賭して活躍した百姓のことで、義人とも言いますが、この場合は、命を賭すほどのこともなく、単に郷土愛にあふれた義侠民のことのようです。

日本各地にはあちこちにこうした義民伝説が残っていますが、この半家でも「半家義民録」「半家義民記」といった形でその記録が残されているそうです。

伝統的に相互扶助を行ってきたことを土佐藩主に知られ、「半家義民村(はげぎみんそん)」と呼ぶように、と8代藩主、山内豊敷(とよのぶ)から許しを得るとともに、12代藩主、山内豊資(とよすけ)から米を下賜されたりしました。戦前には、そうしたことが教科書で取り上げられる、ということもあったといいます。

この半家の義民たちが、平家の落人だった、といわれているわけですが、彼らは、平家滅亡の元となった、治承・寿永の乱(源平合戦)を生き延びた人々の可能性があります。

この乱の末期に行われた、屋島の戦い(讃岐国屋島(現高松市))や、壇ノ浦の戦い(現下関市)での生き残りと考えられ、当地は高松市と下関市を結ぶ直線のほぼ中間地点にあります。その両方からここへ命からがら逃げてきた、といわれればなるほどそんな気もしてきます。

源平合戦において敗北し、僻地に隠遁した落人としては、主に平家の一門及びその郎党、平家方に加担した者が挙げられます。連戦連敗を繰り返した中で発生した平家方のいわば「難民」であり、残党の追捕から逃れた者が各地に潜んだことから様々な伝承が伝えられるようになりました。

ただし、武士に限っては平家の「落武者」と呼ぶ場合もありますが、落ち延びたのは必ずしも平家一門の末裔であるとは限りません。「平家方に与して落ち延びた者」であり、平家の郎党の場合もあれば、平家方に味方した武士、あるいはその家族なども含まれていました。

このため、平家の「落人」という言われ方をすることの方が多いようです。そうした平家の落人が潜んだ地域は、後年、平家谷、平家塚、平家の隠れ里、平家の落人の里などと呼ばれるようになりました。

源氏に見つかることを恐れ、山の奥深くや離れ島や孤島などに存逃げ込んだといわれており、このため、人口が少ないところや山間部や谷間などが、隠れ里だと言われることが多いようです。この半家の郷も四万十川の最上流部に位置する山里であり、落人伝説が発生したとしても不思議ではない土地柄です。

落ち延びたのは必ずしも身分の高い人々だけではなかったと思われるわけですが、こうした伝説がある場所では、落ち延びたのは実は、もともと平家の中でもとくに身分が高い人たちだった、という憶測が往々にして生まれました。その理由としては、彼らがふだんから使っている食器や生活用品に高級品が多かった、とされることなどからです。

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それにしても、そうした高級品を彼らが持っていることが、どうして巷でも知られるようになったのか、ですが、こうした隠れ里の生活の中では、それらを川で洗ったりする時にうっかり流してしまった、ということがあったようです。また、隠れ家を探しての移動中、山中に落としてしまった、といったハプニングも時に起こりうります。

平家の隠れ里以外に住まう人たちにすれば、ある日見慣れない、こうした漆塗りの高級器が流れてきたり、山中の思いがけない場所でそうした「証拠」を発見して、あれっ?と思うわけです。

が、そうした異変に気づくのはごく少数にすぎません。大抵の場合、平家の落人の隠れ里の存在を知る者もごくごく限られ、たとえその存在を知っても、あえて隠れ里を探そうとしたり、公にしたりするケースも少なかった、と考えられます。

それはなぜか?ですが、そのひとつは判官贔屓(ほうがんびいき)の心理が働いたからだ、という説があります。これは平家を滅亡に追いやった源義経(九郎判官義経)が、のちに兄の頼朝から討伐を受けた際に生まれた用語です。

第一義には人々が源義経に対して抱く、客観的な視点を欠いた同情や哀惜の心情のことであり、さらには「弱い立場に置かれている者に対しては、あえて冷静に理非曲直を正そうとしないで、同情を寄せてしまう」といった心理現象を指します。

同じ感情が、平家の落人に対してもあったとしてもおかしくなく、あえて彼ら落人のことを追及したり、話題にすることすらタブーとなっていたと考えられます。かくして、長い年月のうちには、平家の隠れ里は伝説となり、やがては「桃源郷」として神秘的な存在になっていきます。

そうした中においては、ある日偶然にもそうした場所にうっかり足を踏み入れてしまった、といった話も出てきます。たとえば、貧しい家の女が小川に沿って蕗(ふき)を採っていく内に、道に迷って谷の奥深くにまで分け入り、豪勢な御殿を発見して中に入りますが、人の姿が見えないので怖くなり逃げ出した、といった類の話です。

そして、そうした話には、やがて尾ひれがつき、お伽噺の形態を帯びるようになっていきます。後日、その貧し家の女が小川で洗い物をしていると、上流から赤い椀が流れて来ます。その椀を使うと穀物をいくら使っても減らず、その家はやがて村一番の金持ちになっていく、といった具合です。

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東北、関東地方には、このように訪れた者に富をもたらすとされる山中の幻の家の話が数多く残っており、山中のこの種の家は「迷い家(まよいが)」と呼ばれ、マヨイガが転じて、マヨヒガとも呼ぶようになりました。

柳田國男が明治43年(1910年)に発表した岩手県遠野地方に伝わる逸話、「遠野物語」によれば、迷い家とは訪れた者に富貴を授ける不思議な家であり、訪れた者はその家から何か物品を持ち出してよい、というものでした。

転じて、無欲ゆえに富を授かった貧しい家の者が、迷い家を訪れることで救われることになった、という成功譚と、欲をもったせいでその富が身を滅ぼす原因になったという失敗譚のふたつが一対になってそこに描かれています。

こうした桃源郷は一種の仙郷で、山奥や洞窟を抜けた先などにあると考えられ、「隠れ世」とも呼びならわされてきました。猟師が深い山中に迷い込み、偶然たどり着いたとか、山中で機織りや米をつく音が聞こえた、などという話が語り継がれています。

そこの住民は争いとは無縁の平和な暮らしを営んでおり、暄暖な気候の土地柄であり、外部からの訪問者は親切な歓待を受けて心地よい日々を過ごします。

が、いったん外部の世界に戻り、もう一度訪ねようと思っても、二度と訪ねることはできません。奥深い山中や塚穴の中、また川のはるか上流や淵の底にあると想像されている別天地はある種の「霊界」ともいえるような場所でしょう。何の憂いもなく平和な世界であり、しかも人間の世界とは違う時の流れがあります。

岩手県和賀・鬼柳村(現・東和賀郡北上市)にはこんな話があります。あるとき、「扇田甚内」という人物が、朝早く起きて沼を見ると若い女が手招きをしていました。同じことが2、3日毎朝続いたので近くへ行ってみると夫婦の約束をするため家に来てくれといいます。女はこの世に類のない艶やかさであり、甚内は一目ぼれしてしまいます。

女の後を付いていくと見たこともないような世界に着き、家に着けば美しい女達があまたいて甚内を主のように尊敬してくれます。やがて女の一人と契りを結びますが、月日が流れるにつれ、ふるさとの妻子が気にかかりはじめます。

そのこと女に話すと、家にいない間に男の家を有徳富貴にしておいたから案ずるな、といいます。それでも甚内が帰ろうとすると、女は口外してはならぬと約束させ、ここでの生活のことを外で語れば、あなたとは二度とは会われぬだろう、と泣きます。

それを振り切るようにして、男が家へ帰ると、なるほど実家は豊かになっていました。ところが、1ヶ月とばかり思っていたが三年の月日がたっており、甚内は死んだものとされ、自分の法事まで終わっていました。

家内にどこに居たと問いただされ、真実を吐くと、たちまちの内に甚内は腰を折って気絶し、そのまま不具廃人となりました。そしてそれ以前の貧乏になり、つまらぬ一生を送った、とされます。

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こうした話は、無論平家の落人伝説とは関係なく、全国に伝わる、民話、伝説にみられる一種の山仙郷のお話です。

が、このような隠れ里は地下の国や深山幽谷といった、いかにもありそうな、一応到達可能そうな場所に置いているところが特徴的であり、そこに平家の落人が住んでいてもおかしくない、と人々に思わせるところがあります。

ただ、その伝説の発展形は、かなり現実に近い話とお伽噺の類の話の大きく分けてふたつがあるようです。各地の隠れ里伝承を比較研究した柳田國男は、概して西日本の隠れ里は夢幻的で、東北地方に行くにしたがって具体性を帯びていくという指摘をしています。

とくに西日本によくある、夢幻的な話の中には、隠れ里を訪ねた者が贅沢なもてなしを受けたとか、高価な土産をもらったとかいうものが多く、また隠れ里は概ね経済的に豊かであることが多いようです。

また、隠れ里に滞在している間、外界ではそれ以上の年月が経っていたというものが多く、時間の経ち方が違っています。こうした逸話は隠れ里の異境性をよく表しており、「浦島太郎」などの説話との共通点も見られます。

一方では、同じ西日本にあって、四国にはかなり現実味を帯びた平家の隠れ里伝説も数多く残っています。

徳島県三好市東祖谷阿佐には、屋島の戦いに敗れた平国盛率いる30名の残党が讃岐山脈を経て阿波へと入り、追手に脅かされ祖谷に住んだというは話が残っています。

阿佐集落に、平家の末裔と言われる阿佐氏が居住し、平家屋敷や、平家のものと伝えられる赤旗(軍旗)が数百年前から現存します。この平家落人伝説は、遺物が残っていることから学界の注目を集めており、他の平家落人伝承より注目度が高いとしてされます。

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このほか、江川崎から、直線で50kmほど北東にある同じ高知県の越知町にある横倉山には、安徳天皇の陵墓ではないか、とされる墓があるそうです。「屋島からたどり着いた平家の人たちが分散して隠棲した」との言い伝えがあるといい、歴代皇族とそっくり同じつくりの立派な陵が、非常に険しい山中にひっそりと建立される姿は尋常ではないといわれます。

また、この地にある横倉山の前を流れる川は、仁淀川と呼ばれているほか、京都ゆかりの地名が多く存在します。北の集落は藤社と呼ばれ、これは当時京の北の守りであった藤社神社にちなむ、とされます。周辺に点在する平家一門の隠れ里では明治に入るまで墓石がなく、石に名前を書いて並べ置くだけ、といった風習があり、これは戦時の伊勢平氏一門の風習と合致します。

これらのことから、香川県の屋島から徳島県の東祖谷へと逃れた平家一門が、最後に住み着いた場所である可能性は高い、と考えられているようです。

片や、残念ながら、江川崎の半家が、平家の落人の里であるという確証データはほとんど何もありません。

が、ここからほど近い愛媛県八幡浜市の佐田岬には、壇ノ浦の戦い後、落ち延びた残党が上陸したという話があります。すぐそばの「伊方」を流れる、宮内川上流の谷、「平家谷」に隠れ住んだとの言い伝えがあり、それによれば、落人たちは8名で畑を開き暮らしていました。が、やがて源氏の追っ手の知るところとなり、6名は自害、残った2名が両家集落の祖となったといます。

平家谷には平家神社がまつられているといい、もしかしたら、この伊方の落ち武者の他の生き残りやその家族が半家に辿りつき、ここに住み着いたのやもしれません。

……想像は膨らむばかりです。

さらに想像を膨らませたいところですが、まるで私自身が、桃源郷にいたかのごとく、このブログを書いてしまっていました。そのための時間も一瞬であったように思えるものが、気が付けばかなり長い時間になってしまっているようです。

この続きは、このあとの熱帯夜の寝苦しい宵に夢としてでも見ることとし、今日の項は、そろそろここで終わりにしたいと思います。

それにしてもはてさて、梅雨は明けたのでしょうか…

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妖しい光の候

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7月になり、伊豆では、あちこちに出ていたホタルもほとんど見られなくなりました。

しかし、東北地方などではまだまだこれからが見ごろ、というところも多いようで、7月下旬までは楽しめるようです。長野県では、志賀高原など高地では10月から11月になっても見られるといいます。

この本州以南の各地でみられるホタルですが、一般には「ゲンジボタル」を指すことが多いようです。

オスは川の上空を飛び回りながら、メスは川辺の草の上などに止まって発光します。発光のパターンは西日本と東日本で違い、西日本のほうが発光のテンポが速いそうです。西日本の蛍は「2秒に1回」、 東日本の蛍は「4秒に1回」発光します。

このテンポの違いは、本州中央部、中部地方から関東地方にかけての地域を縦断するフォッサマグナが境となっているそうです。が、現段階では、このような発光周期の差がなぜ生じたかはっきりしていないといいます。東と西を分けるこの大地溝帯が、生物の生育にどんな影響を与えているというのでしょうか。

「ゲンジ」は言うまでもなく「源氏」から来ています。とくに、平家打倒の夢破れ、無念の最期を遂げた「源頼政」の思いが夜空に高く飛び舞う蛍にたとえられたといいます。

頼政は、平清盛から信頼され、晩年には武士としては破格の従三位に昇り、公卿に列しました。しかし、平家の専横に不満が高まる中で、後白河天皇の皇子である以仁王と結んで挙兵を計画し、諸国の源氏に平家打倒を呼びかけました。。

ところが、その計画が露見し、準備不足のまま挙兵を余儀なくされます。そして、そのまま平家の追討を受け、宇治平等院の戦いに敗れ自害しました。

以後、敗れた源頼政が亡霊になり蛍となって平家と戦うという話が広まり、「源氏蛍」として生まれ変わったとして全国に喧伝され、全てのホタルの代表であるかのように言われるようになりました。

が、実際にはホタルには遥かに多様な種があります。国内では約40種が知られており、熱帯に区分される南西諸島により多くの種がありますが、本土が主な分布域です。

この中に、ヘイケボタルというのもいます。こちらはとくに由来となった武将などがいるわけではありません。その命名は、ゲンジボタルより小型であるため弱い印象があるためでしょうか。源氏に駆逐され、滅亡した平家になぞらえたものと思われます。

とはいえ、生物的には、かなり逞しい存在です。環境の悪化に弱いゲンジボタルに比べ、汚れた水域にも生息することができます。時には干上がる水田のような環境でも生息できるのは、鰓呼吸だけではなく空気呼吸を併用しているからです。成虫の出現期間は長く、5月から6月には終わってしまうゲンジボタルに比べて9月頃まで発光が見られます。生存期間が長いということは、それだけ強い生物だということです。

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ゲンジボタルにせよ、ヘイケボタルにせよ、これら発光するホタルの成虫は、ほぼ全種が腹部の後方の一定の体節に発光器を持ちます。ホタルの発光物質はルシフェリンと呼ばれ、ルシフェラーゼという酵素とアデノシン三リン酸(ATP)がはたらくことで発光します。

ルシフェラーゼとはホタルなどの生物発光において、発光物質が光を放つ化学反応を触媒する作用を持つ酵素です。発光酵素 とも呼ばれます。一方、ATPは、生物の体の中でエネルギーの放出・貯蔵などの重要な役目を果たしている物質です。

ホタルの発光はこの二つの物質の化学反応によるもので、ルシフェリン – ルシフェラーゼ反応と呼ばれます。化学的エネルギーを光エネルギーに変換する化学反応の過程で、光が発生するもので、生物発光は英語ではバイオルミネセンス(Bioluminescence)と言います。

ホタルに限らず、こうした生物の発光は電気などによる光源と比較すると効率が非常に高く、熱をほとんど出しません。このため「冷光」、“冷たい発光”とも言われます。

省エネで知られる、LED 照明は消費電力効率が飛躍的に向上し、70% 以上もあり、このため省エネルギーのみならず、発熱も抑えられています。明るくても比較的熱くない、熱効率の良い照明器具としてもてはやされていますが、それでも生物発光より多くの熱を出します。

これに対してホタルの光は、放射する光の20%以下しか熱放射を起こしません。エネルギー変換効率が非常に高いため、発する熱は極めて小さく、それでいて光への変換も可能としていることは注目に値します。どんなに光っても、ホタルが熱くならないのは、この高効率な生体機能のためです。

明るさの点では、電気を利用するLEDランプなどに比べれば遥かに劣りますが、暗黒条件下でのこうした発光は、微弱な光であっても、生きるための手段としては必要十分な明るさをもたらします。

ホタルが発光する能力を獲得したのは「敵をおどかすため」という説や「食べるとまずいことを警告する警戒色である」という説があります。幼虫は、親以上に捕食者に食べられやすいため、卵の段階からもう既に発光が始まります。

一方、成虫の発光は、おもに交尾の相手を探すための交信に発光を用いられており、明らかに種族保存のための行為です。光を放つリズムやその際の飛び方などに種ごとの特徴があるのは、雌に気に入られるために、発光方法そのものに工夫が凝らされてきた結果といわれています。

ホタルだけでなく、こうした生物発光を行う生物が光るのは、夜に限られることが多く、このことから、こうした生物は「概日リズム(circadian rhythm)」を持っている、とされます。約24時間周期で変動する生理現象で、動物、植物、菌類、藻類などほとんどの生物に存在しており、一般的に体内時計とも言います。

もっとも体内時計といっても、メカニカルな時計とは異なり、生物の体内で形成されるものですから、正確とはいえず、光や温度、食事など外界からの刺激によって微妙に修正されるのが常です。光や温度は天候に左右され、かなり誤差が出ますから、このあたり、人間の「腹時計」のほうがむしろ正確かもしれません。

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このように自らの体を光らせる能力を持っているのは、無論、ホタルだけではありません。ホタルはその成虫が交尾のために光るのに対し、ホタル以外の生物の発光は、餌を呼び寄せるために使われることが多いようです。チョウチンアンコウなどの深海魚は、獲物を誘うルアーとしてこれを使います。魚の頭部に背鰭から変形し、釣竿よろしく伸びた突起の先が発光し、これを揺らすことで、小魚や甲殻類を攻撃範囲内に引きつけます。

また、水深1,000mより深い海に生息する深海魚、ダルマザメは、体全体が発光しますが、下腹部の一部のみを暗いままに残してあり、大型の捕食魚に対し、小さな魚の影に見せかけているといいます。それらが「小さな魚」を捕食しようと近寄ってきたとき、ダルマザメに体の一部分を食べられるといいます。

自身の影で大型の獲物をおびき寄せる、珍しいタイプの海洋生物で、自分の体長に匹敵する15~30cmのイカを丸ごと食べることもあり、さらに自分よりはるかに大きなイルカやイルカの一種であるゴンドウなどすら襲うといいます。

プランクトンのなかには、鞭毛を光らせるものもあります。鞭毛とは、毛状の細胞小器官で、本来は、遊泳に必要な推進力を生み出す事が主な役目です。「渦鞭毛藻類」という単細胞藻類は、2本あるこの鞭毛を発光させます。水流により捕食者(多くは自分より大きなプランクトン)を感知したとき発光します。

これにより、自分より数十倍も大きい捕食者を引きつけ、天敵である捕食者どうしが共食いするように仕向け、その間に自分は逃げおおせる、というわけです。

同様にある種のイカでは、発光する化学物質や、発光バクテリアを含む液を、普通のイカの墨のように吐き出すことで、敵を撃退します。発光する煙幕によって、捕食者を混乱させ。その混乱に乗じて安全に逃げおおせます。

このほか海中では、ミジンコによく似た「貝虫」などが発光生物として知られています。長距離の伝達にはフェロモンを使用しますが、短距離においては発光によってお相手を惹きつけているといわれています。

生物発光を、人間と同じように照明に使うものもいます。海棲生物のほとんどの発光色は青か緑ですが、深海魚の「ワニトカゲギス」などは、赤い光を放ちます。赤色光は海水中で速やかに吸収され深海にはまったく届かないため、ほとんどの深海生物の眼は赤色を認識する能力をもちません。

これに対してワニトカゲギスは赤色光を放出するとともに、自身で赤い光を認識することもできます。このため、獲物や他の捕食者に気づかれることなく周囲を探索することが可能になります。

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このように生物発光はそれを用いる生物それぞれの事情で用いられ、その多くは科学的にメカニズムが証明されています。

同様に、その昔は妖怪や物の怪の仕業ではないか、といわれていたものが、近年になって、ほぼ原因が特定され、科学的にほぼ証明された自然現象である、といわれるようになったものもあります。

そのひとつに、「不知火」があります。

九州に伝わる「怪火」の一種で、夏の日の風の弱い新月の夜などに見られると言い、代表的な発生場所は八代海や有明海などの九州沿岸です。海岸から数キロメートルの沖に、始めは一つか二つ、「親火(おやび)」と呼ばれる火が出現し、それが左右に分かれて数が増えていき、最終的には数百から数千もの火が横並びに並ぶといいます。

その距離は4〜8キロメートルにも及ぶこともあり、また引潮が最大となる午前3時から前後2時間ほどが最も不知火の見える時間帯とされます。

水面近くからは見えず、海面から10メートルほどの高さの場所から確認しやすいといい、また不知火に決して近づくことはできず、近づくと火が遠ざかって行くとされます。こうしたことから、かつては龍神の灯火といわれ、付近の漁村では不知火の見える日に漁に出ることを禁じていました。

古くは、「日本書紀」「肥前国風土記」「肥後国風土記」などに、景行天皇が九州南部の先住民を征伐するために熊本を訪れた際、不知火を目印にして船を進めたという記述があります。

江戸時代までは妖怪の仕業ではないかと言われていましたが、大正時代に入ると、不知火を科学的に解明しようという動きが始まり、その結果、蜃気楼の一種でないか、といわれるようになりました。

昭和時代に入ってからの研究では、不知火の時期には一年の内で海水の温度が最も上昇すること、干潮で水位が6メートルも下降して干潟が出来ることや急激な放射冷却、といった条件が重なり、これに干潟の魚を獲りに出港した船の灯りが屈折して生じる、と詳しく解説されました。こうした現象はとくに八代海のような遠浅の地形でしか起こらないことなども確認されました。

戦争中の1943年、広島高等工業学校、通称「広島高工」の教授、宮西道可は、「不知火の研究」という論文を発表しています。

これによれば、不知火の光源は漁火であり、旧暦八朔(旧暦の8月1日、 新暦では8月25~9月23頃)の未明に広大なる干潟が現れ、冷風と干潟の温風が渦巻きを作り、異常屈折現象を起こし、そのため漁火は燃える火のようになり、それが明滅離合して漁火が目の錯覚も手伝い、怪火に見える、としました。

また、戦後になって熊本大学教育学部の山下太利は、「不知火は気温の異なる大小の空気塊の複雑な分布の中を通り抜けてくる光が、屈折を繰り返し生ずる光学的現象である、と発表しました。そして、「その光源は民家等の灯りや漁火などであり、条件が揃えば、他の場所・他の日でも同様な現象が起こりうる。逃げ水、蜃気楼、かげろうも同種の現象である。」と論じました。

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このように近代になって蜃気楼の一種と認識されるようになった不知火ですが、無論、幻ではなく、現在でも見ることができるようです。干満の差がある海岸で起こる現象とされ、これまで目撃情報の多かった八代海やこれよりも北にある有明海以外でも類似の現象を見ることができるといいます。

旧暦8月1日前後(新暦では8月下旬)の風の弱い新月の夜に発生しやすいとされます。とはいえ必ず見ることができる現象ではなく、見ることができたら運が良い、といった頻度のようです。現在では干潟が埋め立てられたうえ、電灯の灯りで夜の闇が照らされるようになり、さらに海水が汚染されたことなどで、見ることが難しくなったようです。

熊本県宇城の不知火町では、旧暦の8月1日(昨年は9月12日)に「海の火まつり」毎年のように開催されています。地元・竜燈太鼓の演奏、松明行列、総おどり、海上花火大会とともに「不知火」観望会なども開催されますから、運がよければ花火と不知火の両方を楽しむことができるかもしれません。

一方、日本ではこの不知火以外に、やはり何等かの物理化学現象ではないか、といわれているものの、いまだに原因が特定されていないものもあります、

そのひとつが狐火(きつねび)です。

沖縄県以外の日本全域に伝わる怪火で、ヒトボス、火点し(ひともし)、燐火(りんか)とも呼ばれます。

火の気のないところに、提灯または松明のような怪火が一列になって現れ、ついたり消えたり、一度消えた火が別の場所に現れたりするもので、正体を突き止めに行っても必ず途中で消えてしまうといいます。現れる時期は春から秋にかけてで、特に蒸し暑い夏、どんよりとして天気の変わり目に現れやすいようです。

十個から数百個も行列をなして現れ、その数も次第に増えたかと思えば突然消え、また数が増えたりもするともいい、長野県では提灯のような火が一度にたくさん並んで点滅するのが目撃されたこともあるそうです。

火のなす行列の長さは一里(約4キロメートル)あるいは約500~600メートル)にもわたるといい、火の色は赤またはオレンジ色が多いとも、青みを帯びた火だともいいます。

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東京北区 王子の王子稲荷は、稲荷神の頭領として知られると同時に狐火の名所とされます。かつて王子周辺が一面の田園地帯であった頃、路傍に一本の大きなエノキの木がありました。毎年大晦日の夜になると関八州(関東全域)のキツネたちがこの木の下に集まり、正装を整えると、官位を求めて王子稲荷へ参殿したといいます。

その際に見られる狐火の行列は壮観で、近在の農民はその数を数えて翌年の豊凶を占ったと伝えられています。このことから榎の木は「装束榎」(しょうぞくえのき)と呼ばれ、よく知られるところとなり、歌川広重の「名所江戸百景」の題材にもなりました。

この木は明治時代に枯死しましたが、「装束稲荷神社」と呼ばれる小さな社が、旧王子二丁目電停(現在の「ほりぶん」前の交差点)の近傍に残っており、一帯は以前には榎町と呼ばれてもいました。地元では地域おこしの一環として、1993年より毎年大晦日の晩に、「王子狐の行列」と呼ばれるイベントを催しています

正岡子規は「狐火のちろつく晩や野辺送(のべおくり)」とうたっており、野辺送りは野焼きのことで、冬の季語です。これにより、この王子狐の行列の時期は冬とされることが推定されるわけですが、他の狐火は一般的には夏の暑い時期や秋に出没する例が多いようです。

その原因ですが、古くは元禄時代の本草書「本朝食鑑」に、キツネが地中の朽ちた木を取って火を作るという記述があります。また同書には、キツネが人間の頭蓋骨やウマの骨で光を作るという記述もあり、読本作者・高井蘭山による明和時代の「訓蒙天地弁」、江戸後期の随筆家・三好想山による「想山著聞奇集」にも同じく、キツネがウマの骨を咥えて火を灯すとの記述があります。

さらに長野県の奇談集「信州百物語」によれば、ある者が狐火に近づくと、人骨を咥えているキツネがおり、キツネが去った後には人骨が青く光っていたとあります。

これらの歴史的記述をもととに、哲学館(現:東洋大学)を設立した井上円了は、1916年(大正5年)、骨の中に含まれるリンの発光を狐火と結び付ける説を提唱しました。

土中に埋まった動物の骨や死骸は、バクテリアによって分解され、土壌の有機成分となる際にリン化合物を発生させることが知られています。リンは発火点が60度とかなり低温であり、空気中で室温でも徐々に酸化されて自然発火し、熱および青白い光を発します。

このため、土の中に大量の骨があれば、確かに狐火に見えるかもしれません。しかし伝承上の狐火はキロメートル単位の距離を経ても見えるといわれており、それほど多くの骨が広範囲に散らばっているとは考えにくく、またリンの弱々しい光が、はたして「火」のように見えるかはなはだ疑問です。

井上円了は、哲学者として著名な人物でしたが、迷信を打破する立場から妖怪を研究し、近代的な妖怪研究の創始者としても知られています。当時の科学では解明できない妖怪を「真怪」、自然現象によって実際に発生する妖怪を「仮怪」、誤認や恐怖感など心理的要因によって生まれてくる妖怪を「誤怪」、人が人為的に引き起こした妖怪を「偽怪」と分類しました。

晩年には、妖怪研究は人類の科学の発展に寄与するものという考えを持つに至り、数々の研究成果から、「お化け博士」「妖怪博士」などと呼ばれました。しかし、上のとおり、リンの光を狐火の原因とするなど少々こじつけがましい研究成果も多かったようで、発表した研究の中には科学的な根拠に乏しいものもあったようです。

このほか、1931年(昭和6年)には、生物学者の神田左京が、狐火の正体は、朽木に付着している菌糸、キノコの根が光を発しているのではないか、という内容の論文を発表しています。たしかに、日本には、関東以西の太平洋側地域に「ヤコウタケ」という光るキノコがあり、ほかにも「ツキヨタケ」といった発光キノコがあります。

しかし、こちらもかなり大量になければ狐火には見えないはずであり、また、林間にうっそうとした繁みの中で発光したものが、遠くから見えるはずはなく、こちらも説としてはかなり厳しいものがあります。

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ちなみに、この神田左京という人は、1874年(明治7年)に長崎県で生まれています。東京で英語教師をしていましたが33歳で渡米、生物学を勉強し博士号を取得して41歳で帰国。ここまで輝かしい経歴ですが、以後は「権威が嫌い」という理由で定職にも就かずホタルの研究に没頭したことで知られています。「わたしはホタルと心中する」と妻帯もしませんでしたが、業績は海外にまでとどろき、英国学会からは「ぜひ会員に」、皇室からさえ「進講を」と誘われるほどでした。

彼を理解する少数の篤志家による援助のみで暮らしを立て、赤貧洗うがごとき生活でしたが、ホタル研究に邁進した結果、「源氏ボタルの発光間隔は日本の東と西では違っている」ことを発見する、という業績をあげました。1935年(昭和10年)に自費出版した「ホタル」を出しますが、その後まもなくの1939年、65歳で没しています。

まさに「ホタルと心中」したかのような人生ですが、あちらの世では光輝いているでしょうか。

人間がともした火を狐火と見間違ったとする説もあります。先日、このブログでも紹介した「虫送り」という行事は、戦前まではさかんに行われており、これは、稲を病虫害から守るために、田植えが終わった季節に松明をともして田んぼの畦道を歩きまわる というものでした。

稲作地方の風物詩であり、遠くの町から見れば狐の嫁入りそっくりに映ったはずであり、こうしたことから、1977年には、日本民俗学会会員で「怪火研究家」の角田義氏が、狐火の正体は虫送りなど人の手による灯火の行列が、光の異常屈折によって現れる現象だと説明しました。山間部から平野部にかけての扇状地などでは、光の異常屈折が起こりやすく、虫送りの松明の火が狐火に見えたのだ、という説はなるほど納得がいくものではあります。

戦後の近年では虫送りの行事はかなり減っており、と同時に狐火もあまり見られなくなっているようなので、時期的にもあっているような気がします。

しかし、ほかにも天然の石油の発火ではないか、とする説もあり、結論が出たわけではあありません。球電現象などをその正体とする説もあって、現在なお正体不明の部分が多いようです。

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この球電(ball lightning)現象ですが、空中を発光体が浮遊する自然現象、あるいはその発光体とされるものです。目撃例の多くは、赤から黄色の暖色系の光を放つものが多いとされていますが、白色や青色、色の変化するものなどもあるとのことです。また、中には灰色や黒色の光が吸収されていると思われ、金属光沢のような色や、黒色のものもあります。

2014年の7月30日、中国南部の湖南省の養豚場で「球電」の爆発が発生、女性が負傷し170匹以上の豚が死ぬという事故がおこりました。怪我をした農夫の妻は、「それは大きな火の玉のように見え、突然爆発し、二股に分かれていった」と証言しています。10分ほど目が眩んで何も見えなくなったといい、彼女の左目は黒くなり足は出血していたそうです。

この養豚場の事件に先立つ2年前の2012年7月にも、中国中北部、海抜 1,600mにある蘭州で球電現象が目撃されています。西北師範大学の研究者は、この青海高原という場所で、分光器を設置して雷を観測していたところ、偶然にもカメラで球電現象を撮影することに成功しています。

一般的には、雷放電が激しく起きているとき発生することが多いといわれ、多くの場合には豪雨の際に現れます。大きさは10~30cmくらいのものが多く、中には1mを超えるものも存在します。数秒から数分間地表付近を動きまわって消失するといいますが、移動中の金属体を追いかける、送電線などの細い金属を蒸発させる、などの現象も確認されているといいます。

一説によれば、一つの球電が爆発した際に放出されるエネルギーは10キロ分のダイナマイトに相当し、焦げ跡や硫黄臭・オゾン臭を残すことが多いといいます。

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すさまじいエネルギーであり、この球電によって、死亡事故も起きています。

1753年7月、ロシアに在住していたドイツ人物理学者のゲオルグ・ウィルヘルム・リッヒマンはサンクトペテルブルグで針がねを用いた電気の誘導実験を行っている最中、突如発生した球電と接触し、感電死したと言われています。

彼は、自分の業績を後世に伝えるため銅像を作ろうと、たまたま彫刻師を自宅に招いていました。その直前に、あるシンポジウムに参加していた折には、外で雷鳴が轟いていたといいますが、それを退出して、自宅に彫刻家を招き、実験を行っていたようです。そのとき、突然球電が現れ、彼の額を貫きました。靴はズタズタとなり、服の部分は焦げていたといい、球電が貫通した彼の額には赤い点が残っていたといいます。

同席した彫刻家によれば、「小さな砲弾が炸裂したようだった」といい、入ってきた球電の威力は部屋のドア・フレームを叩き破り、ヒンジごと吹き飛ばすほどだったといいます。

リッヒマンはは、ロシア帝国サンクトペテルブルク科学アカデミーの会員であり、電気学、大気電気学、熱量測定などの先駆的な研究に取り組んだことで知られています。電気の専門家であった彼が、よりによって電気実験の最中に球電現象で死ぬことになるとは皮肉なことです。

1987年には、日本でも目撃されており、しかも撮影された写真が残っています。長野県黒姫で日本の学生が偶然屋外で撮影したとされる写真で、球電を収めた数少ない貴重な写真として世界的に知られています。

このほか、2004年の夏頃、福岡県久留米市上空で青系列の球電が目撃されており、当時同地で雷雨による大規模停電が発生していたといいます。

球電は非常にまれな現象で、正体については諸説ありますが、どうやら雷に伴うことが多いらしいとうこと以外発生条件がつかめていません。

自然発生したプラズマのかたまりという説が有力ですが、科学者たちの多くは、「球電」と呼ばれている目撃例のすべてが同じ原理で説明できる現象ではなく、同じような見え方をするさまざまな現象が「球電」という言葉でひとくくりにされている、と考えているようです。従って、前述の狐火もまた、球電現象のひとつなのかもしれません。

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さて、長くなってきたのでそろそろやめようと思いますが、最後に、科学的にはまったく証明されていないものの、実際に起こったとされる不思議な現象をひとつだけ。

青森県の下北半島の突端に、尻屋埼灯台という灯台があります。「日本の灯台の父」と称されるイギリスの土木技師、リチャード・ヘンリー・ブラントンによって設計され、1876年(明治9年)に完成した白亜の灯台で、二重のレンガ壁による複層構造の美しい灯台です。

現在も運用されており、日本の灯台50選に選ばれています。周辺には寒立馬(かんだちめ)と呼ばれる馬が放牧されており、一帯は美しい景勝地となっています。

この灯台、第二次世界大戦中の1945年(昭和20年)に米軍からの射撃を受け、このとき、村尾常人という標識技手が殉職しました(享年42歳)。灯台は8月10日までの間に計14回も襲撃されましたが、ブラントンによって設計された堅牢な躯体は残りました。しかし、運用不能になり、この日から灯台の灯りは消えました。

ところが、翌1946年(昭和21年)、攻撃を受け破壊しつくされたはずの灯台が突如として光を放つようになり、その目撃が相次ぎました。

5月に灯台職員らが目撃したのが最初で、航行する漁船からも幾度か目撃情報が寄せられたため、当時の台長代理がこれを「灯台の怪火について」という異例の公文書にして横浜の灯台局に報告する騒ぎになりました。

同年8月に霧信号舎(霧や吹雪などで視界が悪いときに船舶に対し音で信号所の概位・方向を知らせる)の屋上に仮の灯りを点灯すると同時にこの現象は消えたといい、以来、人々は米軍の攻撃時に殉職した村尾標識技手の霊がおこした仕業なのではないかと噂しました。

その後修復され、銃撃の跡が今でも残る33メートルの塔は、いまも完成当時の優美な姿を保っていますが、今はもう、ここに村尾標識技手の幽霊が出る、という噂はないようです。

比叡山、高野山と並ぶ日本3大霊場のひとつ、イタコの口寄せで知られる恐山(おそれざん)はここからすぐのところにあります。死者あるいは祖霊と生きている者との交感の際の仲介者として良く知られるイタコですが、ここで呼び寄せをしたら、あるいは村尾技師に会えるかもしれません。

自分が勤務した灯台において、死後も、何故あかりを灯し続けたかったのか、その気持ちをぜひとも聞いてみたいものです。

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七夕の候

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7月になりました。

今年ももう半分が終わった、という事実に唖然とした気分になっているのは私だけでしょうか。

7月といえば、最初にやってくる行事が七夕です。

日本では古来、旧暦7月7日に行われ、15日のお盆の前に入る前の前盆行事として扱われてきましたが、明治6年(1873年)の改暦後は、月遅れの8月7日頃が旧暦の七夕となりました。

このため、今でも七夕は8月というところもあるようですが、実際には、7月に七夕を行うというところのほうが多いようです。その気分は、やっぱ、「七」のつく行事は7月にやらなけりゃ、ということでしょうか。

かくして、梅雨の真っ最中だというのに、毎年のように七夕は行われます。

笹の葉に願いを書いた短冊を垂らす、という風習は幼小学機関を中心に全国に根付いており、梅雨の間の風物詩ということで、それはそれで、風情はあります。

それにしてもなぜ「たなばた」というのか、ですが、これは古来からあった行事、「棚機津女(たなばたつめ)」に由来する、という説が有力です。

七夕の時期は稲の開花期にあたり、時期的に水害や病害が心配な頃でもあります。そこで、稲の収穫が無事に済むことを祈り、お盆を何事もなく迎えられるようにという願いを込めて、「棚機女」が始まりました。

8世紀初頭の歴史書、「古事記」には早、その記述があるそうで、ここには、乙女が水神を迎えるために、清らかな水辺に張り出した棚の上の機屋(はたや)で棚機(たなばた)と呼ばれる機織り機を使って“神衣(かむみそ)”と呼ばれる美しい衣を織ると書かれているそうです。一種の禊(みそぎ)の行事だったのでしょう。

一方、別の説もあります。日本では、古来、お盆の時に先祖や精霊を迎えるために「盆棚」という棚をしつらえます。そのための棚づくりのためには、一般的には、二~三段の本格的な祭壇を作るか、大中小の机を用意します。そしてその上に真菰(まこも)のゴザを敷いて仏壇から位牌と三具足を取り出して飾り、お供え物を置く棚とします。

お盆には、いろいろなお供えものをこの棚の上に載せますが、「幡(はた)」もそのひとつです。布などを材料として高く掲げて目印や装飾とした道具のことで、お寺に行くと、仏様の両端に掲げられているきらびやかな幡を見かけたことがある人も多いでしょう。仏や菩薩を荘厳・供養するために用いられ、また幡を立てることで福徳を得て長寿や極楽往生につながるとされるものです。

七夕は、この「棚」と「幡」から来ているといわれ、ふたつを組み合わせれば「棚幡」となります。7月7日の夕方から実施される行事なので、「七夕」と書き、これを「たなばた」と呼ばせるようになったというのがもうひとつの説です。

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現在の七夕では、短冊に願い事を書き葉竹に飾ることが一般的に行われていますが、この短冊こそが、お盆の際に使う幡に相当すると考えられます。「たなばたさま」の楽曲にある「五色の短冊」の五色は、五行説にあてはめた五色で、緑・紅・黄・白・黒をいい、五色である仏具の幡から来ています。

このお盆の際に使われる幡を笹に飾るようになったのは江戸時代のことです。夏越の大祓に設置される「茅の輪」の両脇の笹竹に因んだものといわれています。切ってきた笹に短冊をつけ、前の日の7月6日に飾り、翌7日未明に川や海に流すことが、その後現代にいたるまで一般的な風習として定着しました。

ただ、現在の「七夕まつり」は、商店街などのイベントとしての商用目的で行われることのほうが多くなってきています。昼間に華麗な七夕飾りを通りに並べ、観光客や買い物客を呼び込む装置として利用されており、上記のような風習や神事などをあまり重視していないことが多いようです。

むしろ、学校や幼稚園で子供たちが、それぞれの思いを短冊に書き、願いとして叶えてくれるよう天に祈る姿のほうが、ずっと古来からの七夕行事の形に近いように思えます。

ところで、笹の葉と短冊の組み合わせとは別に、なぜ七夕の夜には織姫と彦星がランデブーする、ということになったのでしょうか。

こちらは、中国に古くから伝わる「織女と牽牛の伝説」に基づいており、これが日本に伝わったことによります。紀元前3世紀ころの漢の時代の書物には既に、みなさんもよく知るこの話が描かれており、7~10世紀の唐の時代には、乞巧奠(きこうでん)という行事として定着しました。

7月7日の夜、織女に対して手芸上達を願う祭であり、これが輸入され、既に日本にあった上の「棚機女」の行事と融合したものと思われます。日本の棚機女の行事も乙女が機を織って神に捧げるという点で酷似しており、おそらくは中国から伝わった風習がやや形を変えたものでしょう。

日本に伝わった乞巧奠の行事は、その後、宮中や貴族の家を中心に広まりました。宮中では、清涼殿の東の庭に敷いたむしろの上に机を4脚並べて果物などを供え、ヒサギの葉1枚に金銀の針をそれぞれ7本刺して、五色の糸をより合わせたものを、その針の孔に通しました。

一晩中香をたき灯明を捧げ、詩歌管弦の遊びをする祭りであり、天皇やその側近たちは庭の倚子に出御して牽牛と織女が合うことを祈るとともに、裁縫・染織などの技芸上達が願ったといいます。

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「平家物語」によれば、貴族の邸では願い事をカジの葉に書き、短冊の代わりにしたといいます。カジノキ(梶の木)というのはあまりピンとこないかもしれませんが、山野ではよく見る木です。その葉っぱは、5葉に分かれており、割と広い面積を持つのでなるほど文字は書けたかもしれません。

神道では神聖な樹木のひとつであり、諏訪神社などの神紋や日本の家紋である梶紋の紋様としても描かれており、樹皮はコウゾと同様に製紙用の繊維原料とされました。

室町時代頃になると、紙が普及し始めたため、天皇をはじめ臣下はカジノ木に歌を書いた紙を結びつけるとともに、硯・墨・筆を飾りました。また、歌・鞠・碁・花・貝覆(かいおおい)・楊弓(ようきゅう)・香の七遊の遊びが行われたそうです。

貝覆とは、ハマグリの貝殻を左右に離し、貝殻の片方を座に並べ、他方の貝殻 と一対にして合せ取る遊びで、トランプの神経衰弱のようなものです。また、楊弓とは、ヤナギで作られた小弓のことで、弓を用いて的を当てる遊戯です。

さらに時代が下り、江戸時代になると、天皇が芋の葉の露でカジノキの葉に和歌を七首書き、カジノキの皮とそうめんでくくって屋根に投げ上げるのがならわしとなりました。

この時代、幕府は、七夕を五節供(ごせっく)の一つに定め、正式な行事としました。五節供とは、季節ごとの食物を神に供えて,節日を祝う儀式です。年に10回ほどもある五節会(ごせちえ)が朝廷の儀式であるのに対し、五節供は、公家以下庶民の行事であり、1月7日の人日(じんじつ)、3月3日の上巳(じょうし)、5月5日の端午(たんご)、7月7日の七夕(しちせき)、9月9日の重陽 (ちょうよう) の5回です。

ちなみに、宮中で行われる五節会は、上の5つに加え、正月7日の白馬節会、16日の踏歌節会ほかが加えられたものであり、一般人にはほとんどなじみのないものでした。

なお、9月9日の重陽は現在ではあまり節供として認識されていません。陽の数である奇数の極である9が2つ重なることから重陽と呼ばれ、庶民にとってはたいへんめでたい日でした。その昔は菊の花を飾ったり酒を飲んだりして祝ったようです。

7月7日の七夕では、大奥では、四隅に葉竹を立て注連縄(しめなわ)を張った台を縁側に置き、中にスイカ、ウリ、菓子などを供えました。奥女中が歌を色紙に書き、葉竹に結びつけ、翌朝供物とともに品川の海に流すのが七月七日の行事となりました。

この行事が民間にも伝わり、上述のとおり「茅の輪」の笹竹に因んだ行事として定着したのでしょう。切ってきた笹に短冊つけて飾り、海だけでなく川に流すという風習は、大奥のそれから発展したもののようです。

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このように、初めは宮中の行事であり、裁縫・染織などの上達を願うものだった「「棚機」は、やがてこれに詩歌の上達の願いが加わり、江戸時代になると民間行事から取り入れられた要素が加わりました。とくに習字の上達を願うことが流行り、その後は手習い事一般の願掛け行事として一般庶民にも広がっていきました。

江戸や大坂では、前日の六日から笹竹売りが「竹や、竹や」と売り歩き、各家では五色の短冊に願い事を喜いて笹竹に結びつけ、軒や縁側に立てました。

この竹飾りは、翌日には海や川に流されるのがならわしでしたが、現在では環境汚染につながるということであまり行われていません。私が子供のころには、七夕の翌日になると近くの川や海の岸には短冊がついたたくさんの竹笹が流れ着いていたものですが。

本来、七夕にまつわる神事は、「夜明けの晩」(7月7日午前1時頃)に行うことが常であり、祭は7月6日の夜から7月7日の早朝の間に行われます。午前1時頃には天頂付近に主要な星が上り、天の川、牽牛星、織女星の三つが最も見頃になる時間帯でもあります。

しかし、現在の新暦の7月7日は梅雨の最中なので雨の日が多く、旧暦のころのように天の川を見ことができる、ということはまずありません。ただ、統計では、旧暦7月7日においても、晴れる確率は約53%(東京)であり、晴れる確率が特別に高いというわけではなかったようです。

もっとも、旧暦では毎年必ず上弦の月となることから、月が地平線に沈む時間が早く、月明かりの影響をあまり受けません。一方、新暦7月7日は、晴れる確率は約26%(東京)と低く、そのうえ月齢が一定しないために、晴れていても月明かりの影響によって天の川が見えない年があります。

月齢は0が新月、7.5が上弦の月、14が満月、22.5が下弦の月であり、上弦や下弦の前後では天の川が見える時間は限られ、満月前後ではほとんど見えなくなります。ちなみに、今年の7月7日の月齢は13だそうで、ほぼ満月に近いため、天の川が見える地域はごくごくわずかになるでしょう。

この天の川を挟んで輝く二つの星が、織姫星と彦星です。織姫星(織女星)として知られていること座の1等星ベガは天帝の娘で、機織の上手な働き者の娘でした。一方夏彦星(彦星、牽牛星)は、わし座のアルタイルです。夏彦もまた働き者であり、天帝は二人の結婚を認めました。

めでたく夫婦となりましたが夫婦生活が楽しく、織姫は機を織らなくなり、夏彦は牛を追わなくなりました。このため天帝は怒り、二人を天の川を隔てて引き離しますが、お慈悲で年に1度、7月7日だけは会うことをゆるし、天の川にどこからかやってきたカササギが橋を架けてくれ会うことができました。

カササギ(鵲)が架けたことから鵲橋(しゃくはし、かささぎばし)ともいい、この橋は織姫と彦星が出会うためにできることから、鵲橋とは男女が良縁で結ばれる事を意味します。

また星どうしの逢引であることから、七夕には星あい(星合い、星合)という別名があります。しかし7月7日に雨が降ると天の川の水かさが増し、織姫は渡ることができず夏彦も彼女に会うことができません。

かくして、新暦になってからの星合は、梅雨の間であることからほとんど実現しせず、悲しんだ二人の涙はまた天の川に流れ込み、さらに水嵩が増して二人は永遠に会えないままなのでした…

この七夕に降る雨を「催涙雨(さいるいう)」または「洒涙雨(さいるいう)」といい、織姫と彦星が流す涙だと伝えられています。ちなみに七月六日に降る雨は「洗車雨」と呼ばれ、織姫に会うため彦星が自らの牛車を洗っている水だとされています。

なので、世のシングルの男性諸君。7月6日に降った雨で愛車を洗車すれば、翌日の7日には素敵な織姫に遭遇するかもしれません。もっとも翌日も雨だったら、会えない可能性は高いと思われますが…

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ところで、天の川に橋をかけたというカササギという鳥は、いったいどんな鳥でしょうか。調べてみると、世界的には北アメリカ西部、欧州全域、中央アジア、アラビア半島南西部、極東、オホーツク海北部沿岸など、広くに生息するようです。

日本では北海道、新潟県、長野県、福岡県、佐賀県、長崎県、熊本で「繁殖」が記録されています。一方、目撃だけの確認例としては、秋田県、山形県、神奈川県、福井県、兵庫県、鳥取県、島根県、宮崎県、鹿児島の各県などがあるようです。

カラスの仲間で、人里の大きな樹の樹上に球状の巣を作り繁殖します。ただハシブトガラスのように群れを作らず、主に番い(ツガイ)、もしくは巣立ち前の雛と少数単位で暮らします。また、ハシブトガラスよりも一回り小さく、黒地に白い羽を持ちます。

標高100m 以上の山地には生息せず人里を住みかとしています。鳥のくせに森林が覆う山地が苦手で、逆にこうした場所は分布障壁となっているようです。

全国的にみられるというわけでもないようで、しかも九州や中国地方に分布が偏っており、このため、見たことがある、という人は少ないのではないでしょうか。私も実はまだ見たことがありません。あるいは見たことはあってもカササギとして認識していなかったからかもしれませんが。

古代の日本には、もともとカササギは生息しなかったと考えられ、「魏志倭人伝」も「日本にはカササギがいない」と記述していいます。しかし、七夕の架け橋を作る伝説の鳥として、カササギの存在は日本中に知られることとなりました。

「カサ」は、朝鮮の古名「カシ」が転じた説や鵲の朝鮮の方言とする説などがあります。「サギ」は、肩羽と腹部が白いところがサギに似ていることから「鷺(サギ)」の意とする説や「鵲」の音「サク」が転じた説などがあります。

また、烏(カラス)に似て尾が長くて背が黒いことから「カラス・サギ」の略とする説もあります。鳴声が「カチカチ(勝ち勝ち)」と聞こえることから縁起が良いとされ、別名にカチガラスともいいます。現代中国語では「喜鵲」と呼ぶそうです。

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現在日本に生息するカササギは、豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に、肥前国の佐賀藩主鍋島直茂、筑後国(現福岡県)の柳川藩主立花宗茂など九州の大名らが朝鮮半島から日本に持ち帰り繁殖したものだとされる説があります。その一方で、冬に朝鮮半島から渡ってくるミヤマガラスの大群にカササギが混じっていることがあるという観察結果から、渡ってきたカササギが局地的に定着したという意見もあります。

江戸時代には「朝鮮がらす」「高麗がらす」「とうがらす」の別称があり、江戸時代の生息範囲は柳河藩(現:福岡県柳川市)と佐嘉藩(佐賀藩、現在の佐賀県、長崎県の一部)の周辺の非常に狭い地域に限られていたといいます。

また、佐嘉藩では狩猟禁止令により保護されていました。生息域が極めて狭く珍しい鳥であることから1923年(大正12年)3月7日、その生息地を定めて、カササギ生息地一帯の市町村は国の天然記念物に指定されていました。そして、佐賀県は、県民からの一般公募を行い、1965年(昭和40年)にカササギを正式に県鳥としました。

ところが、1960年代以降、カササギは電柱への営巣特性を獲得し、都市化のせいもあって分布障壁となっていた山地の森林が減少したことなどから、1970年代以降急速に生息域が拡大しました。上述のように九州以外の地域に急速に広まっていき、1980年代には、北海道の室蘭市や苫小牧市周辺でも観察され繁殖するようになりました。

九州では特に、電柱に巣を作る個体が増加しており、電柱への営巣は時として停電を招くこともあります。そのため、九州電力などでは、電柱上の変圧器付近に黄色い風杯型風車を取り付けるなどして、カササギなどの鳥に巣を作られないよう対策を講じています。

電柱巣は、ネコなどの地上の捕食者を完全に阻止出来るため、カササギにとっては都合がよく、巣立ちする雛の数が増えるという効果がありました。しかし人間様にとっては彼らと同居することはむしろ弊害となることも多く、街の中心部からの追い出しが図られる事態になっているところもあるようです。

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カササギは鳥類のなかでも大きな脳を持っており、非常に頭のいいことで知られています。哺乳類以外では初めて、ミラーテストをクリアしました。ミラーテストとは「自己鏡映像認知」ともいい、動物が鏡を見たとき「写っているのは自分」と認識できるかを確認するためのテストです。

ヒトは鏡を見たとき、そこに写っているのが自分自身であると認識することができます。鏡映認知とも呼ばれる能力ですが、これには比較的高度な認知能力が必要と考えられています。3歳前後までの小さな子供はこの能力を持ちませんし、大人でも脳の病気や障害で認知能力が低下すると、鏡の像が自分だと認識できなくなることがあります。

ヒト以外の動物でも自己鏡映像認知できるものがいるかどうかを確認する方法ですが、実はこれを判定するのは簡単ではありません。動物は言葉を話せませんから、テストの方法を工夫しなければならないのです。

そこで動物が自己鏡映像認知できるかどうかのテストとして、1970年ごろに考案されたがミラーテスト(またはマークテスト)です。これは、その動物に気づかれないよう、動物自身には見えづらい場所に「マーク」などを描く、というものです。

続いて鏡を見せて、そのマークが自分についていることを前提とした行動をとるかどうかを見ます。動物が鏡に映る像を自分だと認識できているなら、その動物は鏡像のほうのマークではなく、直接は見えない、自分自身につけられたマークを気にするでしょう。

こうしたマークテストを行ってみた結果、チンパンジーなどヒトに近い大型類人猿や、霊長類以外でもいくつかの動物については報告があり、大型類人猿のほかではイルカやシャチ、そしてゾウがテストをパスするということが分かっています。いずれも比較的知能が高いことに加えて、群れを作って社会的な行動様式をとる動物です。

カササギにもこのテストが試されました。首に赤や黄色のシールを貼ったところ、鏡に映った自分を見てシールに気づき足や嘴を使って剥がそうとしましたが、羽の色に紛れてしまう黒のシールを貼ったときはこのような反応は見られませんでした。哺乳類以外でこれを確認できたのはこれが始めてとのことでした。

自己認識能力には大脳新皮質が関わっているとされていますが、鳥類は大脳新皮質をもっていません。ただカササギは大きな脳を持っており、哺乳類とは異なる進化で高い認識能力を得た可能性があるということです。

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カササギは、もともとカラス科に分類されており、カラスの仲間です。カラスはご存知の通り頭の良い鳥であり、硬くて自分の嘴では砕けない食べ物を道路の上に置き、自動車にひかせて殻を割るという行動が各地で確認されているほか、公園の水道の蛇口をひねって水を飲む、簡単な道具を使ったり、巣作りに工業製品の廃物を利用する、といった行動が観察されています。

カラスはまた、自分を直接攻撃する人などの顔で認識し人に直接危害を加えたり、そのような人物を仲間に伝達し集団で攻撃することもあるそうで、認識、伝達を的確に行える高度な知能を持ちます。

カササギも、老人や子供は警戒しない一方で、若い男性など危害を与えようとするものには警戒して近寄らないという観察結果が出ており、ミラーテストに合格したことといい、非常に頭のいい鳥であることがうかがえます。人の顔を覚えていて、呼んだら飛んで来たり、眼が開く前の雛から育てるとよく懐くそうです。

また、カササギは嘘をつけるといいます。

それぞれ別の種の鳥達が群がって作った集団には、見張りの役割を果たすカササギの種があるといい、タカのような捕食者が現れると、大きな鳴き声で警報を鳴らします。

ところが、タカなどがいない場合でも警報を送る場合が観察されており、これはカササギ流したウソの情報です。これを聞いた他の鳥達が大急ぎで身を隠す間に、カササギ自身はのんびりと飛び回り、目に付く虫を食べてしまうといい、ある研究によればカササギの発した警報のうち、約15%ほどはこうした偽りの信号であったといいます。

カササギの食性をみてみると、基本的には、動物質を好み、主として昆虫などの無脊椎動物を食べますが、他に腐肉なども食べます。また、熟した木の実やフルーツ、穀類など、なんでも食べる雑食性です。昆虫としては、ケラやハサミムシ、コオロギなど地面に生息する虫を捕食しているようですが、秋にはイナゴなどの害虫を食べることから、益鳥とされます。

英語では、カササギ、オナガ、サンジャク、ヘキサンなどをまとめて magpie(マグパイ)と呼び、伝統的に「おしゃべり好きのキャラクター」という表象を与えられています。

また、何でも口に入れることから。ラテン語ではpicaといい、これは「異食症」を意味します。

異食症とは、栄養価の無いものを無性に食べたくなる人の病気で、食する対象は土・紙・粘土・毛・氷・木炭・チョークなどが挙げられます。小児と大人の妊婦に多いようですが、まさか鳥であるカササギが異食症のわけはありません。単に食いしん坊なだけなのか、いろんなものを食べても丈夫な胃を持っているのかよくわかりませんが、ともかなんでも口に入れてしまうようです。

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ちなみに、人間の異食症には、氷を異常な量食べてしまう氷食症や、土を食べてしまう土食症、体毛をむしりとって食べたりする食毛症などがあります。精神的ストレスと関連が深いようですが、土食症については、必ずしも病気とはいえないようです。土壌を摂食する文化は世界各地に分布しており、消化作用の促進、滋養強壮、解毒などの効果があるとされています。

妊娠した女性が土壁をかじったり、地面の土を食んだ事例は日本でも古くから知られており、亜鉛や鉄分が不足して味覚異常になった際に発症しやすい行動であることが科学的に明らかになっています。タンザニアのペンバ島では、若い女性が土を食べ始めることは妊娠の兆候として喜ばれるそうです。ただ、普段土を食さない人が上記のような症状に陥る場合は土食症と呼ばれます。

鳥類や哺乳類にも、土壌を食するものがあり、おそらくはカササギも食べていると思われます。ほかにも、オウム、ウシ、ネズミ、ゾウなどは、習性として土を摂食することが知られており、その機能としてミネラル補給説や、土壌の物理組成による毒物吸着説、胃腸障害の改善、アシドーシス改善作用説などがあります(アシドーシスとは、血液が酸性になることで、これによりさまざまな体調不良が起こります。人間にもある症状です)。

また、カササギは、昔から金属など光るものを集める習性がある、とされてきました。ヨーロッパでは「泥棒」の暗喩に用いられることすらあります。イギリスでは「不幸」や「死」「悪魔」を現すとされ、光る物を好んで集める「宝石泥棒」として欧米では何かと嫌われ者の役を演じることが多いようです。

カササギの「盗癖」とされているこの習性は、イタリアの作曲家ジョアキーノ・ロッシーニのオペラにも登場します。このオペラ「泥棒かささぎ」では銀食器を盗んだ真犯人という扱いになっています。

ところが、最近の研究では、このカササギの泥棒癖の習性は間違いであることがわかっています。あるイギリスの大学の研究チームが、キャンパス内のさまざまな場所に光る物体や光沢のない物体を並べ、野生および飼育されたカササギの反応を観察しました。

使用した物体は金属のねじやアルミホイルで作った指輪、そして細かく切ったアルミホイルなどで、半分はつや消し塗料で青く塗り、残りは光沢のある状態のままで配置ました。これら物体の間には餌となる多くの木の実が置かれましたが、カササギは光る物に引き寄せられるどころか、見慣れない物を嫌い、警戒する傾向を示しました。

光る物であれ光沢のない物であれ、木の実の近くに置かれている物体に対しては常に警戒する様子を見せた、といい、これから「カササギは宝石泥棒」は俗説であり、誤りである、ということが確認されました。

カササギにとっては長年の汚名を返上できたわけで、おおいに喜んでいる…かどうかはわかりませんが、ヨーロッパではこうした研究をきっかけとしてそのイメージが変わっていくかもしれません。

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その子育ては10月下旬頃から始まります。このころから営巣地を探しはじめ、3月中旬頃までには、電柱以外では、カキノキ、エノキ、クスノキ、ポプラなどの樹高8m以上の樹木に、木の枝や藁などを用いて直径60cm~1m程度の球状の巣を作ります。

産卵は、営巣後すぐに行なわれ、楕円形の薄い緑色をした卵を6〜7個産みます。雌が抱卵し、最終卵産卵後17~18日で孵化します。各卵は日を置いて逐次孵化するため、雛の成長度には差が生じ、遅れて孵化した雛鳥の多くは死亡するといいます。

夫婦で子育てに励み、孵化後約4週間で1〜4羽が巣立ちし、巣も放棄されます。巣立ち後の若鳥の生存率は30%程度で12月頃まで集団でねぐらにつきますが、その後ツガイを形成して分散し、個別の縄張りを持つようになります。

子育てを終えたツガイは、再び翌年の子育てに励みます。そしてこの夫婦の関係は一生続くといいます。

「オシドリ夫婦」と言われ、仲のいい夫婦の例えに良く使われるオシドリは、実は冬ごとに毎年パートナーを替えるそうです。その抱卵もメスのみが行い、育雛も夫婦で協力することはないそうで、とんでもない偽装夫婦です。

これに対して、カササギの夫婦は本当に仲がいいそうです。秋になり、庭木に柿が実る頃にはツガイで飛来し、仲良く柿を食べる姿がよくみかけられるといいます。一方では、秋になると巣立った若夫婦と古い夫婦が縄張りをめぐって騒ぎが起こり、激しく鳴き合といいます。が、これもどこかお愛嬌で、その姿もユーモラスで、カササギの生息の多い佐賀では今や風物詩となっているといいます。

さて、我々夫婦も先日の20日に9年目の結婚記念日を迎えました。これから10年目に突入していくわけですが、カササギの夫婦と同じく仲の良いツガイとして暮らしていきたいと考えています。

先日お亡くなりになった小林麻央さんと旦那さんの市川海老蔵さんも仲の良いご夫婦だったようです。芸能人であるだけに何かとセンセーショナルに取り上げられたこの話題ですが、本当につらいのはご本人と息子さんたちでしょう。同じ経験をしている私にとっては、心の内がよくわかります。

がしかし、心の痛みは長い年月うちに変わっていきます。どう変わっていくかについては、うまく書き表せませんが、ひとつはっきりと言えるのはその痛みが限りなく薄まるころには自らの一生も終わる、ということでしょうか。

せめて、たとえ夢の中でも、天の川を渡ってのお二人の星合が実現することを祈りたいと思います。一年に一度だけでなく、毎日でも会わせてあげたいと思いますが、それでは雨の降る日がなくなってしまいます。

残る梅雨の日々、しばし雨音も楽しみながら、晴れた夏の夜空に流れる美しい天の川を渡り、楽しそうに出会う二人の姿を皆さんも想像してあげてください。

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