風待ち

帰国がもう目前に迫ってきた。

その中で、手足を伸ばさず、亀のようにじっとしている。

いずれ訪れるであろう解放の喜びだけを心の支えにして耐えている。

待つというのは辛いものである。

大過はない。

そのなかで、ただ時間が過ぎていくのを眺めているだけというのは辛抱が要る。

これが忙しければもっと時間の流れは速いのだが。

では、残る時間が寝る間もないほど忙しかったらどうなのだろう、と想像してみる。

残務に追われて、あくせくする自分の姿を思い浮かべてみると、ぞっとする。

そう考えると、待つだけとはいえ、安寧な時間が与えられていることをむしろ感謝しなければ、という気になってくる。

そのゆとりのある時間を使って、好きな書き物もできる。

次の住処のこともいろいろ調べられるし、これからの生きざまについてさまざまな思索も重ねられる。

ああ幸せだな、というほどの至福感はないとはいえ、ある意味贅沢な時間ともいえる。

おそらく、これからの人生でも、そうそうこういったことはないだろう。そう考えるとなおさらありがたみを感じる。

他方、これまでの人生でも、こういうことが何度かあった。

フロリダやハワイへ渡る前の時間、最初の会社を辞めて次を模索していたころ、移住先がきまらず悶々としていたひと昔前、などなど。

それぞれのシチュエーションがあって、状況も違うのだが、いずれも次のステップを踏む前の足踏みの段階だったといえる。

物は言いようで、風待ち、という表現もできる。

次に吹いてくる風の強さや方向を予想しながら、ひたすら待つ。

溜めおかれたそれが一気に吹き始めたときに満杯に膨らんだ帆を想像する。

港から出た船は、大海原に向かって順調に滑り出していく。

その先には嵐が待ち受けているかもしれないが、あるいはパラダイスがそこにあるのかもしれない。

いずれにせよ、解き放れた矢はそれが落ちるまで飛んでいく。

落ちた先にあるものが何であるかは、いまはわからない。

あるいはまたそこで風待ちになるのかもしれないが、その繰り返しが人生というものなのだろう。

たとえ風はなくとも、その無風の状態をできるだけ、楽しむ。

そういうゆとりのある心を持ちたいと願う。

いずれは、まったく次の風が期待できない日もくる。

そのときがこの長い旅路の終わりである。