アナポリス 1937

School’s out. Annapolis, MD. June 3. School’s out for the graduating class at the Naval Academy at Annapolis, after receiving their diplomas the midshipmen are shown getting rid of their midshipmens caps for the headgear of an ensign. 6/3/37
Creator(s): Harris & Ewing, photographer
Date Created/Published: [19]37 June 3.
Medium: 1 negative : glass ; 4 x 5 in. or smaller

写真は、1937年6月3日、メリーランド州アナポリスにある、アナポリスの海軍アカデミーの卒業式の模様です。海軍の士官学校であるこの学校では、卒業式で在学中にかぶっていた帽子を投げ上げる風習があり、長年の伝統になっています。

首都ワシントンから東へ車で1時間ほどの距離にあるアメリカ合衆国の海軍兵学校(United States Naval Academy )は、1845年同じメリーランド州のフォートセヴァン創設で、1850年にアナポリスに移ってきて以後、長年この地にあることから、「アナポリス」の通称で呼ばれることも多い学校です。

従来、海軍士官の養成は艦艇乗り組みの洋上勤務を通じて行われており、陸上に学校を設けて士官教育をするようになったのは、世界でも本校が最初であり、文武両道に秀でた全米選りすぐりのエリートが集まります。

入学可能年齢は17歳から23歳までで、未婚者であること等の条件があります。設立当初は男性のみでしたが、1976年以降は女性の入校も認めています。兵学校の学生はMidshipman(士官候補生)と呼ばれ、4年間の教育課程を経て卒業すると少尉に任します。

卒業後、その大半はアメリカ海軍または海兵隊で少なくとも5年間勤務しますが、文字通りエリートであり、その後はアメリカ海軍の中枢を担います。

同じく国立大学である米海軍兵学校は数々のリーダーを世に送り出してきた米屈指のエリート校として名高いこの学校からの卒業生の中には、のちに政治家に転身する者も多く、有名な卒業生としては、元大統領のジミー・カーター、国務副長官だったリチャード・アーミテージなどがいます。

米海軍兵学校の教育方針は、「知育」「体育」「徳育」の3つです。知育は勉学、体育はスポーツや格闘技ですが、これに「徳育」が加わっているところが、過去に数多くのリーダーを生み出してきたこの学校の特色かもしれません。

徳育とは、人間としての心情や道徳的な意識を養うための教育であり、知育・体育と並び、教育の重要な一側面を成すものです。道徳教育と同義に用いられることもありますが、徳育の場合は、知識の習得よりは実践的な性格形成に重点を置いたものといえます。

同校には兵器・工学部、数理学部、人文・社会科学部の3学部があり、全部で25の専攻があります。

海軍の学校だけに、工学・兵器部には「海洋工学」の分野もあり、ほかに「原子力工学」などもあります。こちらは原子力潜水艦や空母といった船舶の搭乗員を養成することを目的としています。

また、数理学部には「サイバー軍事学」といった専攻もあり、近年の戦争がウェブ空間に移行しつつある現状も反映しています。さらに、人文・社会科学では、アラビア語や中国語といった米国と緊張関係にある国の言語も学ぶことができるといい、アメリカが置かれている国際情勢を物語っています。

全候補生に義務づけられている必修科目もあり、船舶操縦術や航行術などがそれです。下の写真は、1930年代のものですが、戦前から既にこうした教育が行われ、伝統となっていることがわかります。ていることを示しています。

将来の海軍を担うことになることから、海軍史やリーダーシップ論なども学びますが、無論、基礎的な学問はおろそかにしないようなカリキュラムになっており、すべての候補生が基礎的な数学や物理を学ばなくてはなりません。

人文・社会科学部を擁していますが、アナポリスでは文系専攻の候補生も「理学士」として同校を卒業します。元々は海軍の学校ですから、卒業生が派遣される職場のほとんどが文筆を生業にするものではなく、理系の分野の専門知識が必要とされる職場がほとんどのためです。




「「愛と青春の旅立ち」で有名になったアナポリスですが、そうしたイメージもあって、始終過酷な訓練ばかりしているという印象を持つ人も多いでしょう。「兵学校」ということで、かなり厳しい校風なのか、と思いがちですが、意外と校風は自由だといいます。

規律を厳しく叩き込まれる入学年を除き、意外にも全般は、ほぼ他の大学とは大きな違いはないといいます。

入学すると、4年間の寮生活を送ることになり、この時点で「米海軍の軍人」となりますが、実際は考えられているよりもかなり自由な私の時間を与えられており、休日ともなれば、でバスケットボールの試合を観戦したり、ダウンタウンへ繰り出して女の子をナンパする学生もいたりします。

しかも入学すると給与をもらうことができ、このあたりは日本の防衛大学校と同じです。ただ、7月の入寮日から8月の終わりまでは、「入校訓練期間」があり、ここはまさに、「愛と青春の旅立ち」の世界です。厳しい新兵教育があり、実際、脱落者もいるようです。

どこへ行くにも号令がかかり、新入生はあらゆる建物を直角に曲がりますが、急ぎ駆け足で向かわなければペナルティを課されます。食事にさえ規則があり、食事中は腕を直角にしていなければならず、また朝昼晩の食事のメニューを記憶しておくことが強いられます。

ただ、この新兵教育期間が終われば、後の大学生活は普通の大学生と同じであり、また、卒業後も必ずしも軍に入らなくてもよいきまりです。

もとより全米中から選りすぐりの優秀な学生が集まっているアナポリスですから、彼らは転職してもキャリアアップしていけます。なので、海軍に入ることをあきらめ、他大学へ移る学生もおり、また海軍に入ってからも辞めていく士官もいます。

自分に自信がない学生は脱落することが許されており、逆に、自律心があり、自ら考えて行動し、決断できるリーダーを育てるのがアナポリスの教育といえます。

そうしたこともあり、無事卒業できた人材はたとえ上級士官にならなくても、かなり優れた軍人になる可能性があります。それらの中でも特に優秀な上位10%ほどの卒業生が将来の海軍を担っていきます。毎年およそ250人ほどもいるこれらの卒業生の中から、カーターやアーミテージのような優れた指揮官が生まれてくるわけです。

また、卒業後は海軍に所属する者が他大多数ですが、陸軍、空軍、沿岸警備隊に入隊することも可能であり、全アメリカ軍のリーダーの養成校という一面もあります。

日本の自衛隊とも縁が深く、海上自衛隊からも、将来の幹部候補生として、一等海佐や三等海佐クラスが連絡官として派遣されており、現在も2名ほどがアナポリスで教官として赴任しているといいます。

逆にアメリカ海軍からも大尉クラスの教官が赴任し、広島県江田島にある海上自衛隊幹部候補生学校で教鞭をとっているそうです。



ちなみに日本人がアナポリスに入学できるか、といえばこれは難しそうです。というのも、米海軍兵学校では、入学を許可してもらうために特別な推薦状の提出が求められます。それは、連邦議会議員からの推薦状、あるいは米大統領、もしくは副大統領による指名推薦状です。

アメリカ連邦議会は、上院と下院に分かれており、上院議員は各州に2名、下院議員は州の人口比率に応じてその定員が決まります。選出された議員は各自5名の推薦枠を持っています。つまり、各州の人口比率に応じて士官候補生が推薦される仕組です。

上院か下院の議員、そのいずれから推薦状をもらえばいいわけですが、将来にわたってよほどアメリカという国に寄与するであろうと期待されるような人物でなければこの推薦状はもらえないでしょう。ましてや、大統領や副大統領から推薦状をもらうのはかなりハードルが高そうです。

それでもアナポリスに入りたい、という人は若いころからアメリカで就労し、グリーンカードを入手して帰化する、ということも考えられなくもありませんが、そこまでして海軍兵学校へ入りたいという人がはたしているかどうか…

アナポリスも優れた学校でしょうが、アメリカにはもっとたくさんの魅力的な学校があります。おそらく日本以上に。おそらくアナポリス以上に自由な校風と厳しさを持ち、あなたを育ててくれる学校もきっと見つかるに違いありません。世界に羽ばたきたいと考えている方は、アメリカ行をぜひ検討してみてください。




ビキニ環礁 1946

Title: [Mushroom cloud with ships below during Operation Crossroads nuclear weapons test on Bikini Atoll]
Date Created/Published: [1946 July]
Medium: 1 photographic print.
Reproduction Number: LC-DIG-ds-02944 (digital file from original item)

写真は、1946年にビキニ環礁で行われた核実験を撮影したものです。使用された爆弾は、21キロトン級原子爆弾とされ、広島型、長崎型とほぼ同サイズです。

ビキニ環礁(Bikini Atoll)は、南太平洋のマーシャル諸島共和国に属する環礁で、位置的にはオーストラリアの北東約4,000kmにあります。ビキニ島とも呼ばれ、第二次世界大戦前の日本の海図にはピキンニ島と記述されていました。アメリカ軍による核実験で有名になり、その派生で、のちには水着のビキニという言葉も生まれました。




実験が行われた礁湖の面積は594.1平方キロメートルで、これは半径約13kmの円形ほどの大きさです。実験は、1946年から1958年にかけて行われ、その実験の数は奇しくもマーシャル諸島共和国に属する島の数、23と同じでした。

当実験が行われたことで、ビキニ環礁は、世界遺産にも登録されています。2010年、第34回世界遺産委員会において、ユネスコの世界遺産リストに登録され、マーシャル諸島共和国初の世界遺産となりました。

1946年、アメリカ合衆国は、当時信託統治領であったこのビキニ環礁を核実験場に選びました。選んだ理由は無論、他の大陸から遠く離れた場所にあり、核の影響が及びにくいからと考えたためですが、ここには先住民が住んでいました。

170人ほどの住人がいましたが、核実験を行うということで、強制的に近くのロンゲリック環礁という別の島に強制移住させられました。しかしこの新しい住処は漁業資源にも乏しく、移住させられた住民たちはその後、飢餓に直面したといいます。

ビキニ環礁で行われた最初の核実験は、1946年7月1日と7月25日の2回であり、それぞれ21キロトン級原子爆弾を用い、エイブル 実験(Able)とベーカー実験(Baker)と呼ばれました。

7月1日のエイブル実験では、核爆弾がB-29スーパーフォートレスの「ビッグ・スティンク」によって高度158mから投下され、7月25日のベーカー実験では、艦船群の中心に停泊した上陸用舟艇LSM-60から吊り下げられ、水深27mの海中で核爆弾が爆発しました。

3番目としてチャーリー実験(Charlie)が予定されていましたが、ベーカー実験において生じた放射能が予想よりも激しかったため中止されました。

なお、エイブル(Able)、ベイカー(Baker)、チャーリー(Charlie)は、米軍が使っていた識別暗号によるA、B、Cを示しています。また、実験全体は、「クロスロード作戦」と命名されました。「交差点」の意味ですが、こちらについては、どうしてこういう名前にしたのかは不明です。

この実験は、1945年のニューメキシコ州アラモゴードでの核実験および、同年、広島、長崎で実施された実弾投下に続く、史上4番目と5番目の核爆発であり、その目的は、海上の艦艇や部隊など海上戦力への被害を計測することでした。

大小71隻の艦艇を標的とする原子爆弾の実験であり、主要標的艦はアメリカ海軍の戦艦「ネバダ」、「アーカンソー」、「ニューヨーク」、「ペンシルベニア」、空母「サラトガ」などのほか、第二次世界大戦で接収した日本海軍の戦艦「長門」、ドイツ海軍の重巡洋艦「プリンツ・オイゲン」などの接収艦も標的となりました。

そのほか、駆逐艦、潜水艦、上陸用輸送船・艦艇・舟艇なども含め、大小合わせておよそ100隻に上る艦艇が標的としてビキニ諸島に集められました。また、核爆発現象を研究するための技術的な実験も行われ、生きている実験用動物も使用されたといいます。


長門
プリンツ・オイゲン

サラトガ



この実験のために、第一統合任務部隊(Joint Task Force 1)が編成され、隊員の宿舎や実験施設として150隻以上の実験支援艦艇が利用されました。動員された人員は42,000人(このうち37,000以上は海軍の人員)にも上りました。

この他の人員は、エニウェトクやクェゼリンなどの近くの環礁に滞在し、実験前のビキニ環礁もまた、リクリエーション用途や計測所として用いられていました。

しかし、当然のことながら、最初の実験の前に全ての人員はビキニ環礁と標的艦隊から退避しました。彼らは実験支援艦隊に乗り、ビキニ環礁から東に少なくとも18.5km以上離れた安全地帯で待機していました。

上述のとおり、二回目のベーカー実験は、ビキニ環礁付近に激し汚染をもたらしました。大部分の艦で予定されていた影響確認検査が行われなくなるほどであり、このため、標的艦隊の除染作業が一週間後の8月1日から実施されました。

この除染作業は、放射線検知器を装備した作業員が艦船の外面を海水で洗浄する、というものでした。しかし、汚染が激しいため、作業員が標的艦に乗艦できる時間は数分しかとれず、除染作業はなかなかはかどりませんでした。このため、時が経過するにつれ、作業員自身が軽度の放射能を帯びた海水によって汚染されるようになっていきました。

そこで、ビキニ環礁での作業を中止し、汚染されていないクェゼリン環礁へ残存標的艦を移動させるという決断が8月10日までになされ、この移動は9月までに終了しました。ここでの主作業は無論、汚染除去でしたが、このほかにも標的艦に搭載されていた弾薬を抜き取りが行われました。クェゼリンでの作業は結局、翌年の1947年まで続きました。

その後、各艦艇のダメージを調べるなどの検査が行われましたが、検査にあたり、参加人員の放射線被曝量は0.1レントゲン/日(1ミリシーベルト/日)以下に抑えられました。実験当時、0.1レントゲン/日は健康に影響を及ぼすことのなく、長期にわたる被爆に耐えられる量であると考えられていたからです。

現在、人体に影響のない程度の被爆量は、1年あたり0.1レントゲン(1ミリシーベルト)とされていますから、この当時の作業員は、一日で一年分に匹敵するほどの被爆をしていたことになります。

0.1レントゲン/日を超える値を示した作業員は、1日または数日の間安全な場所に退避させ、作業を休ませる等の対策をとったといいますが、現在ならそれでも不十分であるとして、作業は中止させられていたでしょう。




しかも、こうした被爆量の測定が行われたのは、主に被爆リスクの高い場所で作業する者だけであり、その人員は全体のわずか15パーセントにすぎませんでした。この基準に基づき、放射線被曝のおそれがない、とされた人員は約6,600人もいたとされます。

ちなみに、本実験を通して記録された最大放射線蓄積量は放射線監視モニターが示した3.72レントゲン(37.2ミリシーベルト)であったといい、これはX線CTスキャンによる撮像1回分の線量7~20ミリシーベルトの2~5倍以上の値になります。

その後、被爆した艦艇の中から、12隻の艦艇と2隻の潜水艦が選ばれ、放射能の検査のためアメリカとハワイに曳航されました。この12隻の標的艦の汚染は大変軽微であったので、乗組員が乗艦して直接操船し、アメリカまで航行することができました。

残りの標的艦は1946年から1948年の間にビキニ環礁、クェゼリン環礁、ハワイ諸島近海のいずれかで撃沈処分とされました。

その後ビキニ環礁では、1954年から4度の水爆実験が実施されました。1954年3月1日のキャッスル作戦では、広島型原子爆弾約1,000個分の爆発力の水素爆弾が炸裂し、海底に直径約2キロメートル、深さ73メートルのクレーターが形成されました。

このとき、日本のマグロ漁船・第五福竜丸をはじめ約1,000隻以上の漁船が、死の灰を浴びて被曝し、無線長だった久保山愛吉さんがこの半年後の9月23日に死亡したほか、他の21名の船員が、「放射能症」を発症した、とされました。この第五福竜丸の被爆は、その後日本国内で反核運動が萌芽するきっかけとなりました。

この水爆実験ではまた、ビキニ環礁から約240km離れたロンゲラップ環礁にも死の灰が降り積もり、島民64人が被曝して避難することになり、今日に至るまで原島民は島に戻れていません。ビキニ島の半分の面積しかない、キリ島に避難・移住を余儀なくされた400人の住民は、現在も食糧難にあえいでおり、米政府から生活保障費を受け取っています。

放射能の影響が薄れ、ビキニ島に人が居住できるようになるのは、早くても2052年頃と推定されています。

ちなみに、水着の「ビキニ」の由来は、1946年7月1日の原爆実験(クロスロード作戦)の直後の1946年7月5日に、フランスのファッションデザイナー、ルイ・レアールが、その小ささと周囲に与える「破壊的威力」を原爆にたとえ、「ビキニ」と命名してこの水着を発表したためです。

今日、多くの魅惑的な女性がこの水着を着用して世の男性を悩ませていますが、その同じ名前のサンゴ礁でかつて、多くの関係者が放射能に悩まされ、今日もなお、その影響を引きずっていることをどれほどの女性たちが知っているでしょうか。