テキサス~ 竜巻通り

AM-47

テキサス州はそのサイズが大きいことと多くの気候帯が交差する場所にあるために非常に変化しやすい気象です。州西北部のパンハンドル地域の冬は州北部よりも寒く、メキシコ湾岸では温暖です。

降水量についても地域での変化が大きく、州最西端のエル・パソでは年間降水量が年間200 mm にしかならなりませんが、南東部のヒューストンでは1,370 mm)にも達します。

雷雨は特に州東部と北部で多く、テキサス州北部を「竜巻道」が通っています。アメリカ合衆国内でも竜巻の発生回数が多い州であり、年平均139回となっており、竜巻は北部とパンハンドル地域で多く発生しています。年間では春先の4月、5月および6月に発生回数が多くなっています。

写真はテキサス州のどこだかわかりませんが、パンハンドルか、やはりこうしたテキサス州北部の地域でしょう。1936年の3月に撮影されたものです。

さらにテキサス州はハリケーンの来襲も多い州です。アメリカ合衆国史の中でも破壊度の大きいハリケーンが過去に何度もテキサスを襲っています。1875年のハリケーンではメキシコ湾岸インディアノーラで約400人が死亡し、1886年にもう一度インディアノーラを襲ったハリケーンは町全体を破壊し、現在はゴーストタウンになっています。

1900年のガルベストン・ハリケーンでは、ガルベストン市民約8,000人(12,000人の可能性もある)が死亡し、アメリカ合衆国史で最大の自然災害になっています。その他大きな被害を出したハリケーンとしては、1957年に死者600人以上を出したハリケーン・オードリーなどもあります。

このように気候の厳しい場所ですが、実は人口はカリフォルニア州、面積はアラスカ州に次いで全米第2位の州です。「テキサス州は南にメキシコを接しており、ここからの越境者が多いためと考えられます。

「シックス・フラッグス・オーバー・テキサス」という言葉はテキサスを支配したことのある6つの国を表している。テキサスの地域を最初に領有権主張したヨーロッパの国はスペインでした。フランスが短期間の植民地を保持した。続いてメキシコが領有しましたが、1835年に独立してテキサス共和国となりました。

1845年にアメリカ合衆国28番目の州として併合され、それが1846年に米墨戦争を引き起こす一連の出来事となりました。奴隷州だったテキサス州は1861年初期にアメリカ合衆国からの脱退を宣言し、南北戦争の間はアメリカ連合国に加盟していました。戦後は合衆国に復帰したものの、長い経済不況の期間を過ごしています。

南北戦争後のテキサス州を繁栄させた産業は牛の牧畜でした。牧畜業の長い歴史があるためにテキサスはカウボーイのイメージと結び付けられることが多いものですが、1900年代初期に油田が発見されて州の経済が成長し、経済構造が変わりました。

20世紀半ばには大学に大きな投資をしたこともあり、多くのハイテク企業を含む多様な経済に発展した。今日、フォーチュン500に入る企業の数では全米のどの州よりも多くなっています。

各産業は成長を続けており、農業、石油化学、エネルギー、コンピュータと電子工学、宇宙工学およびバイオテクノロジーの分野で先頭を走っている。2002年以来輸出高でも国内をリードしており、州総生産(Gross state product)は国内第2位です。

歴史的にテキサス共和国として独立していた事もあり、テキサスでは州に対して強い愛着を持っている人々が多いようです。現在の州旗になっているテキサス共和国時代の旗は、学校や店、ピックアップトラックのリアウインドウなど、至る所で見かけることができます。また、「NATIVE TEXAN」というステッカーを張り付けている車も見かけることができます。

観光名所というのはあまりありませんが、州南部のサンアントニオは、テキサスの心、「アラモ砦」があります。ここは、元々1700年代にキリスト教の伝道所ミッションとして建てられました。

1836年のテキサス軍とメキシコ軍が戦ったアラモの戦いで舞台になり、テキサス軍がメキシコ軍を圧勝。テキサスはテキサス帝国としてメキシコから独立しました。1845年にテキサス帝国がアメリカ合衆国に合併された後、南北戦争までアメリカ軍の施設として使われ、現在はアメリカの史跡として残されています。

また、サンアントニオは、テキサス第2の都市であり、カリフォルニアがゴールドラッシュで湧いた1800年代後半、東海岸から一攫千金を目指した人々の宿場町となり、栄えました。かつてここがメキシコだった時、テキサス軍が政府と戦い独立を勝ち取ったテキサスの人々にとってとても思い入れのある場所であり、そうした史跡があちこちにあります。

このほか、牛の放牧業が重要な産業の一つであることから牛肉の消費が盛んであり、ステーキ、バーベキュー、ビーフジャーキーなどが大人気です。タコスやブリート、ナチョス、チリコンカーン、フリホレスをはじめとしたテクス・メクス料理は郷土料理の一つです。

テクス・メクス料理専門のレストランもとても多く、州東部の食文化は南部料理との共通点が多く、ルイジアナ州と接する地域はケイジャン料理の影響を受けます。

西海岸までいったら、ぜひテキサスまで足を延ばしてみてください。

陸軍記念日に議事堂前を走行するM2軽戦車

AM-20

M2軽戦車とは、1935年にその最初のタイプが開発されたアメリカ陸軍の「軽戦車」です。

軽戦車とは、戦車の種別の一つです。小型軽量のもので、第一次世界大戦後の戦間期から第二次世界大戦中ごろまでは比較的広範囲に使用されました。この下に更に「豆戦車」と呼ばれるクラスがあり、両者とも安価であることが戦間期の軍縮ムードの中で重用されました。

写真が撮影された1939年というのは、ドイツ軍がポーランドへ侵攻して第二次世界大戦が始まった年ですが、このときはまだアメリカは参戦しておらず、その参加は2年後の1941年に日本が真珠湾攻撃をしてからのことになります。

アメリカでは戦前の陸軍記念日は4月6日であったことから(現在は5月の第3土曜日)、この写真もその当日のパレードと思われます。ちなみに、4月6日に制定されたのは、この日に南北戦争時にテネシー州南西部で行われた大きな戦い、「シャイローの戦い」にちなんでいるものと思われます。

これは、1862年4月6日から7日の間に起こった戦闘であり、それまでのアメリカ史で最も流血の多い戦闘だったといわれています。このときは北軍が勝利し、南軍は退却を強いられ、ミシシッピ州北部への北軍侵入を食い止めるという望みが絶たれました。この北軍の流れを汲む現在のアメリカ陸軍にとっては記念すべき日というわけです。

無論、この戦争当時は戦車などはなく、主に鉄砲と大砲によって両軍の戦いが行われたわけですが、戦車がこうした戦争に登場するのは、第一次大戦中の1904年にアメリカのホルト社、現在のキャタピラー社が世界で最初に実用化した履帯式(キャタピラー式)のトラックが初めてだといわれているようです。

西部戦線での資材運搬や火砲の牽引に利用されていたものがその嚆矢だとされ、これは「ホルトトラクター」と呼ばれていました。悪路を踏破できるその利便性が認められ、その後イギリス、フランスなどがさらに履帯の開発を進め、不整地機動性をより増した装軌式装甲車両、すなわち戦車の開発がはじまりました。

その後アメリカも更に戦車の性能アップに努めますが、その中で豆戦車、軽戦車、戦車、重戦車のような区分ができてきました。上述のとおりこのうちの豆戦車や軽戦車は安価に大量に生産できるため、植民地警備用にも多用されました。

また、戦間期のドイツでは戦車開発が抑制される中、戦車開発能力を身に付ける習作用や、運用技術を磨く訓練用として生産されました。

アメリカ陸軍の戦車には代々“M”のコードナンバーがつけられることから、写真のM2型戦車は、こうした戦車の開発の中においてもかなり初期のものであり、おそらくは2番目に開発されたものと解釈できます。

ただ、生産されたのは一種類だけでなく、初期型のM2A1からM2A2、M2A3、そして最終型のM2A4まで4種類が開発されました。写真の戦車は、砲塔の形状などからこのうちのM2A2と思われます。一番最初のM2A1が単砲塔であったのに対し、M2A2ではこれが双砲塔型に改められています。

このM2軽戦車が一番最初に産声をあげたのは、1935年末のことです。アメリカ陸軍の歩兵科用戦車として、イリノイ州のロックアイランド工廠にて開発されました。試作車のT2E1軽戦車が制式化され、M2A1軽戦車となったものが最初のものです。

それまでに開発されたT1E4、T1E6、T2、各軽戦車は、イギリスの「ヴィッカース 6トン戦車」の設計の影響を受けていました。戦間期にイギリスのヴィッカース・アームストロング社が開発した戦車で、1928年に完成、イギリス陸軍には採用されず海外輸出用として生産され、その後多くの国で開発された戦車の基礎となりました。

Vickers_Eヴィッカース 6トン戦車

アメリカもこれを参考として戦車を作り、その改良発展型としてM2戦車を完成させました。しかし初期型は、車体と砲塔の装甲は溶接技術が未熟であったためにリベット留めであり、しかも砲塔は人力旋回方式でした。

最初の生産型M2A1では、主武装として砲塔前面左側には口径12.7 mm 機銃1門を備えてこれを主砲として、また砲塔の右側には7.62 mmの口径の機銃1挺を備えていました。また、エンジンはコンチネンタル社製の空冷星型7気筒ガソリン・エンジン(出力262hp)でした。しかし、この軽戦車はわずか10輌で生産終了となりました。

代わって、上述の二つの機銃を左右並列に配置したのが、冒頭の写真のM2A2であり、アメリカ陸軍はこの仕様に満足したのか、この型の量産に入りました。同様の双砲塔の軽戦車は、オリジナルのヴィッカース 6トン戦車などのほかに、ソ連のT-26やポーランドの7TPなどがありましたが、米陸軍は同程度の性能を獲得したと判断したのでしょう。

M2_Light.Fort_Knox.0007zza0アメリカ、ケンタッキー州のパットン戦車博物館に展示されているM2A2

同時期に存在していた。左右並列配置された2基の銃塔を持つ外観から、当時有名だった巨乳の女優にちなんで「メイ・ウエスト」と兵士たちには呼ばれたそうです。ニューヨーク州ブルックリン出身の女優で、1980年に87歳で死没するまで約70年にわたり、アメリカのエンターテイメント業界で活躍した人です。

日本ではあまり知名度はありませんが、「アメリカン・フィルム・インスティチュート(AFI)」の「100年映画スターベスト100(女優部門)」では第15位に選ばれています。

代表的な出演作は、「わたしは別よ(She Done Him Wrong)」「美しき野獣(Klondike Annie)」「妾は天使ぢゃない(I’m No Angel)」などで、どちらかといえばマリリンモンローのようなおバカなお色気路線の演技が得意だったようです。

名言をいろいろ吐いており、それらは、「私が出会うすべての男性は、私のことを守りたいと言う。でも一体何から守ろうというのかしら」とか、「いい子は天国に行ける。でも悪女はどこへでも行ける」とか、「私がいい子してるとはとてもすてきよ。でも私が悪い子のときは、もっとすてき」といったかんじです。

「愛は鼻くそみたいなもの。あなたはどうにかしてほじくり出そうとする。でもようやく手に取ると、あなたはその処分に困ってしまう」てのもあります。

……さて、その後、スペイン内戦の戦訓から、アメリカ陸軍はより強力な装甲と武装の必要を認識するようになりました。1938年には、装甲強化と車体延長とサスペンションの改良をし、M2A3が開発されました。従って冒頭の写真のM2A2は撮影された時すでに旧式になっていたことになります。

ただ、この新型での改良点はエンジンが刷新されたことと、銃塔の形状が四角から六角形に改められたことだけです。あまり性能差がないと判断されたのか、M2A2は239輌が完成しましたが、M2A3はその半分以下の72輌しか生産されていません。

その後1940年には、双砲塔をやめて2人用の大型砲塔にし、主武装として初めての53.5口径の大砲を備えたM2A4が完成しました。M2A4では装甲もさらに強化されており、その厚さはもっとも厚いところで最大25.4 mm(1インチ)ありました。機銃の数も車体左右の2挺に増設されています。

このM2A4は、シリーズで最も多い、375輌が完成しました。しかし、このころヨーロッパでドイツと戦いを繰り広げていたフランス陸軍からの情報により、なお一段と強力な戦車が必要であると考えられ、1940年7月にはM2軽戦車をベースとした新型軽戦車の開発が始まっています。

この新型軽戦車はM3軽戦車として完成し、こうして1941年3月にM2軽戦車の生産は打ち切られました。

日本との太平洋戦争が始まったのは、この年の12月からであり、従って、アメリカ陸軍に配備されたM2軽戦車はほとんどが実践には投入されず、大半が訓練に使用されました。少数のM2A4だけが、太平洋戦争中にガダルカナル島の戦いで海兵隊により実戦使用され、その後も1942年中は太平洋戦線の一部に配備されただけでした。

ただ、1941年初頭にイギリスから100輌のM2A4の供与が依頼されており、うち36輌が実際に輸出され、イギリスに到着した36輌は、4輌がエジプトに送られ、残りはイギリス本土の部隊に配備されました。

このM2A2がその後どの程度活躍したかは明らかになっていませんが、おそらくはM3に比べて性能が低かったため、あまり前線には出なかったのではないかと思われます。

M2-tank-englandイギリスに到着して整備中のM2A4

大量生産されたM3軽戦車は他の多くのアメリカ製兵器と同じく、同盟国イギリスを始めとしてソ連、フランス、オーストラリア、中国などに供与されました。イギリス軍は本車を北アフリカでの戦いに投入され、この戦車は信頼性の高さから親しみを込めて「ハニー(可愛いヤツ)」という愛称で呼ばれました。

日本軍との戦いでも使用されており、1941年12月22日に日本軍がルソン島に上陸した際、これを迎撃に出たM3軽戦車15輌は日本軍所属の九五式軽戦車と戦闘を行っています。

このときM3の正面装甲はの37 mm 砲を全て跳ね返したといい、また九五式軽戦車の戦車砲の装甲貫徹力は一般的な37 mm クラスの対戦車砲と比較にならないほど貧弱でした。

ただ、日本側の体当たり攻撃や履帯切断などで5輌が行動不能になり撃退されたといいます。なおこれが日米初の戦車戦だそうです。

M3A3_Stuart_001M-3軽戦車

その後も、M3戦車は米英軍の主力戦車として日本と砲火を交えており、ビルマのラングーンをめぐる戦いではイギリス第7機甲旅団所属のM3軽戦、約150輌)が活躍しました。非力な日本軍の九四式37 mm 速射砲や戦車砲ではM3軽戦車の正面装甲は貫通できず、逆にM3の37 mm 砲はすべての日本戦車の装甲を遠距離から貫通できました。

M3はその後もガダルカナル島の戦いやニューギニアの戦いなどで活躍しましたが、これらの地域で新型のM5軽戦車やより強力なM4中戦車が配備されるようになると次第に前線から引き上げられ、予備兵器となりました。

ただ、予備となったM3の有効活用策として火炎放射器を搭載した火炎放射戦車「サタン」が作られ、マリアナ諸島をめぐる戦いで実戦に投入されました。これが相応に日本軍を苦しめたことは想像に難くありません。

なお、当時の日本軍は戦車開発において列強から取り残されつつあり、上述の九五式軽戦車に代表されるように性能が低いものばかりでした。このため、「日本が実戦に投入した最強の戦車は鹵獲したM3軽戦車」などというジョークが存在するほどです。

太平洋戦線で日本軍によって捕獲されたM3軽戦車は日本軍戦車より機動力・防御力が優れ、37mm戦車砲M6の攻撃力も九七式中戦車改の一式47mm戦車砲と変わらなかったために重宝されたといいます。

このように第二次大戦中はそれなりにその効果が認められた軽戦車ですが、戦争末期になると、より重厚な戦車が登場し、これらが飛躍的な進化を遂げると、火力が低く装甲も脆弱な軽戦車は次第に活動の場を狭めていきました。

それでも第二次大戦末期にはアメリカのM24のように以前の中戦車並みの火力を持つものが現れ、戦後もM41やAMX-13などの強力な火力を誇る軽戦車が開発され使用されました。また、緊急展開部隊用に空輸可能な軽戦車も開発されており、これらは再度起こった戦後の軍縮ムードの中で主力戦車の代替として配備されるようになりました。

ところが、その後に起こった朝鮮戦争やベトナム戦争ではその能力不足が再度露呈し、主力戦車に対抗できないのはもちろん、歩兵の携帯火器に対しても脆弱さが明らかとなり、攻勢な任務に投入することはできないことがわかりました。

火力不足から歩兵支援任務も向かないことから、次第に歩兵戦闘車などの、いわゆる今日では「装甲車」といわれるようなものに代替されていきました。そのため軽戦車は退役もしくは偵察など補助的な任務に専念することになっていきます。

戦後には後継車が開発されること無くなりましたが、ただ現在でも一部の国では、主力戦車より取得コストが低い、装輪装甲車より悪路での運用性が良いなどの理由により運用が続いているところもあるようです。

ただ、こうした古い軽戦車を使う場合でも、現在は砲塔を換装したものが多く、同様に砲塔を換装した装輪装甲車もあり、こちらは装輪戦闘車、装輪戦車ともよばれ、両方が混在する状況のようです。

ちなみに、現在の日本の自衛隊には軽戦車はありません。が、戦後まもなくの間、警察予備隊/保安隊と呼ばれていた時代には、アメリカ軍より供与されたM24軽戦車が配備されており、また、1961年になってからは、M41軽戦車が配備されました。しかしこれもまた、老朽化や性能の低さにより1983年までに現役引退しています。

M24-Chaffee-latrun-1M-24

現在、防衛省となった旧自衛隊では、こうした有人戦闘車両の無人化を進めているといわれ、こうした戦争兵器の姿もかわりつつあるようです。将来的には無人の戦車同士が戦う、といった様子も見ることができる時代が来るのかもしれませんが、それ以前の問題として、戦争のない世の中になっていることを望みたいものです。

M41-walker-bulldog-tankM-41

100年の時を超え~マーモンモーター社

AM-19

マーモンモーター社は、インディアナ州のインディアナポリスで1902年に創業し、1933年まで続いた会社です。

このインディアナポリスという町はあまり日本人には馴染のない街かもしれません。場所は五大湖のうちのミシガン湖のすぐ真南に位置し、アメリカ中東部の中規模都市といったところです。最近では外資系を含めた自動車工業の成長によって、五大湖周辺の都市にしては人口増加を続けている珍しいケースの都市です。

マーモンの親会社は、1851年の製造に設立された小麦粉を製造する器械を製造する会社でしたが、その技術を応用して自動車生産に乗り出しました。マーモンの名は、その初代社長であるハワード・マーモンの名を冠したものです。

この会社で1902年から製造された空冷式V4エンジンは、この時代にあってかなり先駆的なものであり、翌年からはさらにV6とV8エンジンも生産するようになり、これを搭載した車両は信頼性が高く、すぐにスピード感あふれる高級車としての評判を得るようになりました。

1911年には、モーターレースの最高峰、インディアナポリス500で入賞するなど、その後も実力を蓄えつづけていきました。次々と新車を製造していきましたが、中でもとくに軽量化のためにアルミニウムを多用したボディを持つクルマの製造で定評がありました。

また、多数の人が乗れる高級リムジンも製造していましたが、7人乗りのモデルで、6350ドルもし、これは現在の価格に換算すると、1ドル120円として、およそ1900万円にもなります。

冒頭の写真は、コンバーチブルであり、乗車できるのは4~5人ですから、これよりは安かったでしょうが、少なくとも4000ドル以上、現在の日本円では、1200万円以上はしたでしょう。撮影年度は不詳であり、このクルマの車種も不明ですが、デザイン的な完成度からみて、同社の全盛期のものと思われ、おそらくは1920年代のものと推定されます。

しかし、この1920年代後半ごろから、市場の成熟化により、次第にこうした高級車は売れなくなっていったため、同社の収益も悪化。そこで、1929年にはより安価な1000ドル台の乗用車を売り出しましたが、このころにはフォードがもっと安価なT型フォードなどを売り出しており、その価格は半値以下の300~500ドルという安さでした。

このため、この新型車「ルーズベルト」は、まったく売れず、業績はさらに悪化。そこへ追い打ちをかけるように、1929にはウォール街で大暴落が起き、時代は大恐慌の悪夢の中に入っていきました。

同社は1927年に世界に先駆けてシリンダーの数が16気筒もあるV16エンジンの開発なども手掛けていましたが、これは完成できず、1933年にはついに、全車種の自動車生産を中止しました。

しかし、これより少し前の1931年、マーモン・ヘリントン社は、ハワードの息子であるウォルター・C・マーモンの呼びかけに応じた、アーサー・W・ヘリントンとの共同で、新しい会社を設立していました。

これが、マーモン・ヘリントン社であり、同社はそれまでの高級自動車における優れたエンジンの製造技術を生かした、トラックの製造を中心にした企業でした。軍用の航空機用給油トラックや軽火砲牽引用の4輪駆動車のシャーシ、民間航空機用給油トラックなどを製造しましたが、軍などから発注も多く、順風満帆な操業を開始しました。

その後、4輪駆動車の製造だけでなく、既存の2輪駆動車の4輪駆動車への改装もまた同社の事業の一部であり、このほか商用の配送用バンや乗用車も製造するようになり、その延長で同社は商業トラック用シャーシの上に架装可能な軍用装甲車の設計を行うようになりました。

この技術は1938年に南アフリカ共和国に採用されましたが、これを生かして製造された車両は「マーモン・ヘリントン装甲車」として知られ、北アフリカ戦線でイギリス陸軍やイギリス連邦諸国の陸軍で活躍しました。

また、戦車も製造するようになり、1940年には、オランダ領東インド陸軍からの発注を受け、「マーモン・ヘリントン CTL」という戦車も開発、製造しました。

輸送中にインド陸軍が日本軍に降伏したために配備が間に合いませんでしたが、残りの生産分はオーストラリアに訓練用戦車として配備されたほか、アメリカ陸軍が引き取って運用し、北方アメリカ領であるアリューシャン列島やアラスカに配備されました。

その貧弱な武装と装甲から、アメリカ兵からは軽蔑されましたが、インド陸軍からは、この車両が搭載していたハーキュリーズエンジンの高い信頼性を評価しました。

Marmon_Herrington_Tanks_LOC_fsa_8e09169u

1942年 アラスカの山岳地帯で行動中の2両のマーモン・ヘリントン CTL

ちょうどこのころ、第二次世界大戦中にイギリスは、それまでの主力戦車のひとつ、「テトラーク軽戦車」の代替となる空挺作戦専用の軽戦車の開発を模索していましたが、航空機その他の開発製造に忙しく開発は進んでいませんでした。

しかも、戦争に突入して軍の工場の生産能力は著しく低下しており、ついには新型戦車をイギリス国内では生産しないことに決めました。

その代わりに、ということで同盟国であるアメリカ政府にテトラークの代替戦車の開発と生産を要請しましたが、これは重量9~10トンという軽量の戦車の開発を求めるものでした。この重量はこの時代の軍用グライダーに搭載できる程度のものとして決められたものです。

さっそく、アメリカ合衆国の武器省は、この戦車の開発を任せる会社の選定に入り、この中で、ゼネラルモーターズ、ジョン・W・クリスティー、マーモン・ヘリントン社の3社を選び、それぞれに設計を依頼するという、コンペティション方式を採用しました。

こうして選定された各社はそれぞれの持ち味を生かした新型戦車の設計に入りましたが、1941年5月に開催された会議で武器省はマーモン・ヘリントン社の設計案を採択し、同社に試作車を完成するよう要請しました。同社の前身であるマーモン社時代に開発した車両の軽量化技術が高い評価を得たようです。

そして、この戦車は、武器省により「Light Tank T9 (Airborne)」と名付けられました。日本語にすると「軽戦車T9(空挺型))とうことになりますが、後に「M22」と改称されます。

しかし、このイギリスから開発を依頼された戦車は、この当時アメリカ軍がこのような車両を搭載できる大型の輸送機を保有していなかったため、そのままでは使うことができませんでした。

このため、輸送時には砲塔を取り外して車体を機体の下に吊り下げる方式とし、軽量化のため車体前面の固定式機関銃や砲塔の旋回装置、主砲のジャイロスタビライザー(砲安定装置)などが取り外されたT9E1として改良されました。

砲塔を取り外す形式としたことで、着陸した輸送機から下ろした後に組立作業を行う必要が生じ、このためアメリカ軍では本車は空挺降下させて運用することができません。このため、「輸送機で空輸することが可能」という程度の「空挺戦車」となってしまい、空挺部隊の持つ「奇襲性」を発揮できないことは本車の重大な欠点となりました。

しかし、アメリカ軍はせっかく開発したからということで、T9E1が完成する前の1942年4月に早くも500輌の量産命令を出し、試作車の性能も満足のいくものだったことから、更に1400輌の追加発注が行われました。

ただ、ちょうどこのころ、敵国であるドイツや日本軍の衰弱ぶりが顕著となってきたため、1944年2月に830輌が完成した時点で生産は打ち切られました。そして、結局アメリカ軍が実戦でこの車両を使うことなく、戦争は終了しました。

一方、この戦車の開発を依頼したイギリスには、このうちの280輌が送られ、実戦に投入されました。イギリスは既に大型のグライダーであるGAL49“ハミルカー”を保有していたため、1945年3月に行われたライン川渡河作戦、ヴァーシティー作戦にこのうちの12輌が参加しました。

M22_locust_06ハミルカー グライダーより降車するM22“ローカスト”

イギリス軍第6空挺師団所属で、愛称に「ローカスト(Locust)」の名が与えられました。ワタリバッタのことで、これは日本語では「いなご」に近い種類ですが、やや日本のものより大きいバッタです。

こうして実践配備されたローカストでしたが、この頃にはもうすでにドイツ側の抵抗力は落ちており、戦闘も散発的なものだったこともあり、本車の真価を問うことはできなかったようです。そして、これが第二次世界大戦におけるM22の唯一の実戦使用例となりました。

M22_Locust_light_tank_at_Bovingtonボービントン戦車博物館(イギリス)のM22

しかし、こうした戦争にも使える頑丈な車両を作る技術を蓄えたことはその後のマーモン・ヘリントン社の運営においては強みとなりました。戦後もこうした特殊車両の製造技術を生かし、戦前からのお付き合いのあったアメリカ空軍やアメリカ海軍の空港に空港用消防車などを納入しました。

ただ、戦争は終結し、その後の軍需目的の車両の販売は目に見えて落ち込むことは容易に予想されたことから、同社は民間市場への復帰を目指します。そして1946年には、「トロリーバス」を製作して路線バスの市場に参入することを目論みます。

第二次世界大戦の終結は、既に軍用車両需要の急激な低下を招いていましたが、既に民間の乗用車製造には多数の会社がぶら下がっており、同社としては他社も参入し得ない車両製造の分野を模索していました。

そこで同社は、トロリーバスならば、マーモン社時代に蓄えていたアルミボディなどによる軽量化技術が生かせると考えたわけです。なお、この当時は「トロリーバス」よりも「トロリーコーチ」(trolley coaches) という呼び方のほうが一般的でした。

こうして、軽量なモノコック構造ボディや強靭なダブルガーダー式側板といった革新的な技術の採用が取り入れられたトロリーコーチが完成しました。そして市場に出された、この車両は、戦後の市場でベストセラーとなり、北米の多くの都市のバス会社で採用されるようになりました。

知られているなかでも特に多数を購入したのが、シカゴとサンフランシスコであり、シカゴでは、1951年から52年にかけて1度に349台もの大量の車両が納入されました。

そのほかにも米国内16都市にトロリーバスを供給し、ブラジルの2都市へも販売するまでになり、トロリーコーチといえば、マーモン・ヘリントン社と言われるまでになりました。こうした同社によるトロリーバスの製造は1946年から1959年まで続き、総計1624台の車両が生産されました。

米国内の路線から退役したマーモン・ヘリントン社製のトロリーバスの中には、中古車としてメキシコに販売されるものもあり、これらは1960年代末から1970年代末にかけて同国内のあちこちで使われていました。

Dayton 515 (1949 Marmon-Herrington). Photo by Steve Morgan.1949年製 マーモン・ヘリントン TC48 トロリーバス

しかしトロリーバスは、架線下においてしか走れないため、道路交通量の増加とともに走行に困難をきたすようになり、また性能の良いエンジンを持った大型のバスの開発が進んだことなどから、順次廃止されていきました。

こうして最初は高級車、次に軍事用車両、そしてトロリーバスと、製造車種を次々と変えて生き残ってきた同社は、また苦境に立たされるようになりました。

このため、1960年代初めには、ついにハイアット・ホテル・グループの経営者一族である、プリツカー家に買収されてしまいました。間もなく完成車製造の分野から撤退し、それまでも継続していたトラック製造における設計部門は「マーモン」ブランドを使用する新会社、マーモン・モーター・カンパニーへと売却されました。

奇しくもこれは、創業当初の会社名と同じ、ということになります。一方のマーモン・ヘリントン社は、1964年にマーモン・グループという、グループ企業の一員となりましたが、同社は現在でも2輪駆動の商用トラックを4輪駆動に改装する、という同社が創業当時にやっていたような事業を継続しています。

しかし、それと並行して重量車両用のアクセルを製造するなど多角化も進めており、長年軍部に車両を提供したこともあり、同社製のアクセルは最新の軍用車両や商用トラックにも使用されているということです。

このほか、4輪駆動用改造キットの製造に加えて、中型や大型トラック市場向けの前輪駆動用アクセルやトランスファーケースを製造するようにもなりました。トランスファーケースは、4四輪駆動車にみられる部品であり、トランスミッションに接続され、エンジン出力をドライブシャフト(プロペラシャフト)を介して前後軸に分配するための機構です。

まさに老兵は死なず、といった具合で、同社は今も健在ですが、2008年には、アメリカ合衆国ネブラスカ州オマハに本部を置く世界最大の投資持株会社、バークシャー・ハサウェイが、マーモン・グループやマーモン・ヘリントン社を擁するマーモン・ホールディングスの過半数の株式を取得しました。このため、同社は現在このハサウェイの傘下にあります。

今日ご紹介したマーモン社は、アルミを用いた車両の製造技術や4輪駆動車の製造といった、時代を経ても褪せない技術の開発における先駆者ともいえる会社であり、こうした優れた技術を持った会社というものは、時代を超えて生き残るだけのバイタリティを常に持っている、ということがおわかりいただけたでしょう。

同じ自動車といえども、その時代時代のニーズをうまく読み取り、工夫をこらして新たな需要を生み出すような製品を創っていく、というのはどこの国のメーカーでもやっていることではありますが、100年以上の時間を経てなお生き残るというのはなかなかできることではありません。

今後日本のメーカーも見習うべきものがあるかもしれず、あまり知られていない会社ではありますが、その業態を改めて研究してみる、というのも良いのではないでしょうか。

かつてトラック製造などで不祥事を起こし、その反動で現在も低迷を続けているM自動車さんなどはとくに見習っていただきたいものです。

嗚呼 デューセンバーグ

AM-39

デューセンバーグ(Duesenberg)モーターカンパニーは、1910年代から1937年にかけて存在したアメリカの高級車メーカーです。

1913年、ドイツからの移民の息子として生まれたデューセンバーグ兄弟はスポーツカーを作る事を目的にミネソタ州セントポールでこの会社を設立しました。

兄弟の名は、フレッドとオーガストといい、1885年にドイツで開発されたガソリン自動車に魅せられた二人は独学で自動車設計の技術を習得、その後多くの実験的な機構を備えた世界有数の高性能車を手造りで送り出していく事になります。
1

 デューセンバーグ兄弟

1914年、デューセンバーグはエディ・リッケンバッカーというドライバーを擁して、ル・マン24時間レースと並び世界3大レースのひとつに数えられるインディ500に初参戦。この時は10位に終わったものの、1924年、1925年そして1927年にこのレースを制覇しています。

1923年にはデューセンバーグがインディ500のセーフティカーに指定されました。セーフティカーとは、モータースポーツにおいて、マシンがコース上でクラッシュし、路面に脱落したパーツやその破片が散乱、またはマシン本体がコース上に止まっている場合、散乱したパーツによる損傷や二次クラッシュを防ぐ目的でレースを先導する車のことです。

大雨などの荒天のときなどにもレースを先導することがありますが、このセーフティカーは安全にレースを先導するという役目を持つことから完全な全開走行をする機会はありません。

とはいえ、先導する隊列が競技車両であるため、性能的に余裕を持った高性能な車両であることが求められ、そうした先導車の製作オフィシャルメーカーに選ばれたということは、それだけデューセンバーグのクルマが高い評価を得たということになります。

しかし、こうしたセーフティカーだけでなく、レース車の製造においても無論その技術は高く、その後もデューセンバーグは躍進を続け、1921年にはル・マンで開かれたフランスグランプリでジミー・マーフィーをドライバーとしたデューセンバーグが優勝しました。この優勝はアメリカ勢としては初の優勝となるものでした。

アメリカが第一次世界大戦に参戦する前年にあたる1916年にデューセンバーグ社はニュージャージー州エリザベスに移転。合衆国政府と航空機の練習機用エンジン納入の契約を交わします。その翌年に合衆国が大戦に参戦すると、この練習機エンジン製造の実績を買われたデューセンバーグ社には更にハイレベルな依頼が飛び込んできました。

フランスのブガッティ社が開発したV型16気筒・900馬力の航空機用エンジンを、アメリカ国内でも生産し、国産化するという難しい依頼であり、注文者は無論、アメリカ空軍です。

ブガッティ社は、イタリア出身の自動車技術者、エットーレ・ブガッティがアルザス(当時ドイツ領)に設立した自動車会社で、主に高性能スポーツカーやレースカーを製造していましたが、このころには飛行機用のエンジンも製作していました。

デューセンバーグ社は、このブガッティエンジンを分解して研究し、苦労の末その国産化を成し遂げましたが、ようやくその生産が軌道に乗ったころに戦争が終り、苦労して国産化したエンジンも、わずか40ほどが生産されたのみに終わりました。

しかし、この高性能エンジンの開発に携わったことでその技術力はさらに厚みが増し、1922年、同社がインディアナポリスに移転後に開発した、直列8気筒のSOHCエンジンもまた素晴らしい性能を持っていました。

さっそく、このエンジンを積み、世界初の油圧ブレーキ導入といった数々の新機軸を盛り込んだ「モデルA」を発売しました。冒頭の写真がその歴史的な一台となります(1923年撮影)。

ところが、このクルマは当時アメリカで2番目に高価とされるほどの高級車であったため、思ったほど売れ行きが伸びず、このクルマに社運を賭けていたデューセンバーグ社は窮地に立たされます。

結局、1926年に、コード社、オーバーン社など複数の自動車メーカーを経営していた実業家エレット・ロバン・コードに買収されるところとなり、コードグループの傘下に入ることになりました。

このコードグループの中で、デューセンバーグ社は「モデルJ」を開発し、1928年のニューヨーク自動車ショーでこの新車を発表しました。コードに買収される以前、「モデルA」が失敗に終わって以降も、デューセンバーグは新車種を開発しており、これはフランスのブガッティやイギリスのベントレーの影響を受けた「モデルX」というクルマでした。

コードの傘下に入ってもこのモデルXの開発は継続されましたが、同社はその品質に満足することなく、さらに「アメリカで一番大きく、高速で、高価で、品質の良い」車を目指しました。その結果生まれたのがこの超豪華な「モデルJ」でした。

1930_Duesenberg_J

 モデルJ

この「モデルJ」の開発と発表が行われた1920年代というのは、アメリカが過去において最も力をつけたと言われる時代であり、社会、芸術および文化のあらゆる分野でアメリカはその力強さを諸外国にみせつけました。

この時代は広範な重要性を持つ幾つかの発明発見、前例の無いほどの製造業の成長と消費者需要と願望の加速、および生活様式の重大な変化で特徴付けられるものであり、「狂騒の20年代」と呼ばれました。めまぐるしい変化があり、こうした社会的変動はアメリカにとどまらず、その後ヨーロッパにも広がりました。

第一次世界大戦に参加したため、アメリカ合衆国の経済はヨーロッパの経済との結び付きが強くなっており、ドイツがもはや賠償金を払えなくなった時、ウォール街はアメリカの大量生産商品の大消費市場としてヨーロッパ経済が流動しておくようにと、こうしたヨーロッパの負債に大きな投資を行いました。

このアメリカの投資は、ヨーロッパの経済発展をも促し、ドイツ(ヴァイマル共和政)、イギリスおよびフランスを中心とするヨーロッパの20年代後半もまた「黄金の20年代」とも呼ばれるほどになりました。

無論、アメリカも「狂騒の20年代」を迎えていたわけですが、こうした新しいエイジの到来は、それまでの伝統を破壊し、あらゆるものが新たな現代技術を通じて置き換えられていく、という妄想を人々に抱かせました。

特に自動車、映画およびラジオのような新技術が、大衆の大半に「現代性」を植えつけた結果、形式的で装飾的で余分なものは実用性のために落とされていきました。

その影響は、建築や日常生活の面に及びましたが、と同時に、娯楽においても、面白みや軽快さといったものがジャズやダンスに取り込まれたため、この時代は「ジャズ・エイジ」と呼ばれることもあります。

モデルJは、この「狂騒の20年代」をまさに象徴する豪華車であり、そのエンジンは当時はレーシングカーにしか採用されていなかったDOHCが採用されました。給・排気ともに2つのバルブ(つまり1気筒あたり4つのバルブ)を備えるというもので、その排気量は7リッターもあり、265馬力をも誇るという、超弩級のものでした。

トップギア時には、最高時速192kmという高速で引っ張ることができるという、すさまじい加速力であり、3トンもある車体を停止状態から時速160kmに達するまでわずか21秒しかかからなかったといいます。

この時代を代表する有名人、例えばクラーク・ゲーブルやゲイリー・クーパー、グレタ・ガルボ(スウェーデン生まれのハリウッド映画女優)などのアメリカ人だけでなく、ウィンザー公こと、イギリスのエドワード八世など多くの有名人が愛用していたデューゼンバーグモデルJはこの時代の高級車の代名詞でした。

デューセンバーグ社はこのクルマをまずはシャーシーのみで顧客に提供する、という販売方法をとりました。こののち顧客は自分の好みに合わせて、「コーチビルダー」と呼ばれる車体を製造・架装する業者に好みの車体を製造させ、そのボディを架装させた上で納品されるというシステムを取りました。

Model_J_engine

 モデルJのエンジン

このため、同じ車種といえど2台と同じデューセンバーグJ型は存在しませんでした。シャシーのみの価格ですら、8,500ドルもし、これは現在の100,000ドルに相当し、日本円では1200万円以上にもなります。

ボディまで含めると20,000ドル近くの代金が必要であり、これは現在の日本円にすると、2700万円以上になります。当時の代表的大衆車フォード・モデルAの価格が500ドルだった時代の話であり、いかに高級なクルマとして扱われていたかがわかります。

1932年にはこの「モデルJ」の後継車として、エンジンにスーパーチャージャーを搭載し、馬力を2割ましの320馬力とした「モデルSJ」を発表しましたが、このクルマの最高時速はさらにアップし、208kmにまで達しました。

Duesenberg_Convertible_SJ_LA_Grand_Dual-Cowl_Phaeton_1935

モデルSJ

これより少し前より、アメリカの工業株の価格は何週間も高騰を続けるということを繰り返し、過熱した投機行動と相まって、とくに1928年から1929年の強気相場は永遠に続くとものという幻想を与えていました。

しかし、その栄光は突如として崩壊します。1929年10月29日、暗黒の火曜日とも呼ばれるこの日、ウォール街の株価が突如大暴落しますた。このウォール街の大暴落が起きると、これは連鎖のようにヨーロッパにも伝染し、世界恐慌と呼ばれる世界的な不況に繋がっていくことになりました。

こうして、モデルSJが発売されたころを境とし、その後の1930年代を通じて資本主義は著しい落ち込みを見せるようになり、世界中の何百万という人々が職を失うという事態にまで発展しました。アメリカ合衆国におけるこの暴落は、それまでもある者には不健全と見えていたその経済システムを根本から覆すほどの威力がありました。

コードグループのオーナーであるエレット・ロバン・コードもこの暴落の影響を受けた一人であり、彼が手がけていた数々の事業はたちまち行きゆかなくなり、ついには破産に追い込まれました。

コードグループの傘下にあり、その庇護を受けていたデューセンバーグもまたそのあおりを受け、1937年についにその24年の歴史に幕を降ろしました。

OLYMPUS DIGITAL CAMERAモデルA

しかし、デューセンバーグ社が倒産した後も、その名声は惜しまれました。こうした声に押され、10年後の1947年には、デューセンバーグ兄弟のひとり、オーガスト・デューセンバーグが、それまでの機械式のキャブレターではなく、燃料噴射装置を採用した大型8気筒車を設計し、復活を目指しました。

実現すれば世界初の燃料噴射装置搭載車になるはずでしたが、結局資金難などから計画倒れに終わりました。続いて名乗りを上げたのが、デューセンバーグ兄弟のもうひとり、フレッド・デューセンバーグの息子、フリッツ・デューセンバーグでした。

彼は、1966年にデューセンバーグ復活プロジェクトが立ちあげ、この時はクライスラーのチーフデザイナーだったヴァージル・エクスナーにデザインを依頼し、同社製のエンジンを搭載した試作車を作る所までこぎつけました。

しかし、本格的な生産に至る前にまたしても資金難に陥り、この新デューセンバーグ社もまた倒産しました。

さらに、2012年にはあらたな復活計画が持ち上がり、このデューセンバーグの商標権を入手した会社が設立され、デューセンバーグのレプリカの製造を再開することが発表されました。しかし、この会社もまたキャッシュ·フローの扱いに失敗し、このプロジェクトも停止に至っています。

会社そのものはまだ存続しているようですが、いまのところ製品販売のメドは全く立っていないようです。

このように、倒産してから80年近くが経つこれまでに3度も再建計画が持ち上がるなど、いかにデューセンバーグの人気がアメリカで高いかがわかります。

過去に製造されたものはビンテージカーとして、保存が続けられており、2013年にモデルSJがオークションにかけられた際には、450万ドルの値がつけられたといい、これは日本円換算で5億円以上にもなります。

これほど高価なビンテージカーは日本製にはなく、さすが自動車の発展の礎を築いた国ならではだな、と思います。

が、これからの日本の自動車メーカーが今後目指すクルマ作りの参考になるかどうか、というと、ちょっと違うような気もします。ハイブリッド車もしかり、水素自動車もしかりであり、エンジンやシャーシー開発における高いエコ化技術とコストパフォーマンスがやはり日本メーカーの持ち味です。

こういう高級車を創っていてはダメになる、と思う次第なのですが、それにしても、この名車といわれるデューセンバーグ、一度は乗ってみたいものです……

レキシントン・モデル ”パイクスピーク”

AM-15B8レキシントン社は、アメリカ東部、五大湖のすぐ南にあるインディアナ州の ”コナーズビルという町にかつてあった自動車メーカーです。

設立当初から、他社から部品を調達し、自社ではアセンブルだけをやる、というスタイルで運営を行っていた会社で、1909年に設立され、1910年から1927年までクルマを市場に出していました。

とくに人気のあったのは、サラブレッドシックスとミニットマンシックスというタイプでこられのモデルを含め、毎年のようにモデルチェンジを繰り返して新しいものを出す、というスタイルが世に受け、全盛期の1920年には6000台もの車を供給していました。

Lexington_Model_R-19_Minute_Man_Six_Touring_1919ミニットマンシックス

しかし、20世紀前半に勃発した第一次大戦後の不景気のあおりをうけ、アメリカにおいては多くの自動車会社が撤退を余儀なくされる中、レキシントン社も姿を消しました。

冒頭の写真は、このレキシントン社の最盛期のころに製作されたショートホイールのレースカーで、”パイクスピーク“モデルと命名されたものです。強力なエンジンを搭載したこのクルマは、1920年の ”パイクスピークヒルクライム” レースで、第1位と第2位を独占し、1924年にも 18分15秒のタイムで同社にトロフィーをもたらしました。

この1924年の優勝を勝ち取ったドライバーは、オットー・ロッシュ(Otto Loesche)といいました。が、冒頭の写真に乗車しているのもその本人かどうかは確認できません。

Lexington_Motor_Company_1920 (1)レキシントン社の向上の前で

このレースは、正式には、パイクスピーク・インターナショナル・ヒルクライム(Pikes Peak International Hillclimb)といい、アメリカ、コロラド州で毎年7月4日のアメリカ独立記念日前後に行われる自動車と二輪車のレースです。

別名「雲へ向かうレース(The Race to the Clouds)」としても知られるほど高所の山岳地帯を走るレースで、初開催は1916年。アメリカではインディ500に次ぐ歴史を持つカーレースでもあり、無論、現在までも続けられています。

例年では独立記念日より少し前から、緒戦が始まり、独立記念日前後に決勝が行われ、毎年だいたい150~180のチームが競いあいます。

舞台となるパイクスピークはロッキー山脈の東端、コロラドスプリングスの西16kmに位置する山です。標高は4,301mに達し、アメリカ合衆国の天然記念物に指定されています。1806年に探検家のゼブロン・パイク(Zebulon Pike)によって初登頂が行われ、一般に紹介されたためにPike’s Peak (パイクの頂)と名づけられました。

レースは標高2,862m地点をスタート地点とし、頂上までの標高差1,439mを一気に駆け上がるというもので、距離は19.99km、コーナーの数は156、平均勾配は7%という過酷なものです。

Pike's_Peak_2006_Suzuki_Grand_Vitara2006年のパイクスピークに出場したスズキ・グランドビターラ(日本名エスクード)

この競技が始まった当初のコースの大部分は未舗装路でしたが、2012年には全コースが舗装路になりました。しかし、山肌を走るコースにはガードレールがない部分が多く、ひとつハンドルを切り損ねれば600mの急斜面を滑落するという危険が伴います。

また、スタート地点とゴール地点で大きく標高が異なるため、気圧、気温、天候といった自然条件が大きく変化します。実際、スタート地点では晴れているのに頂上付近では雪や雹が降ることがあるといい、過去にゴール地点の標高を下げて開催されたこともあったそうです。

マシンセッティングも、希薄になっていく酸素濃度や急激な気圧の変化に対応して、過剰とも思える出力を発揮するエンジンチューン、特殊なキャブレーション、低い気圧でも有効なエンジン出力を得るための巨大なエアロパーツ、エンジン・ブレーキの冷却系の強化などなどが施されます。

ライバルとの争いというよりは、むしろ頂上へ向かうにつれて刻々と変化する自然との闘いといった意味合いの強いレースであり、各ドライバーに課される技術もかなりハイレベルのものが要求されます。また、一番高いコースの標高は、富士山の頂上より高く、いかに厳しい環境であるかは容易に想像できます。

レーススケジュールは一週間となっています。過酷なレース内容とは裏腹に、その開始日となる月曜日にはドライバー達の親睦を深めるゴルフコンペが行われるそうで、火曜日から木曜日までの3日間が予備予選となります。

クラスは、四輪の場合、8つあり、これは以下です。

・オープンホイール(外観はクロスカントリーバギーカーなど)
・パイクスピークオープン(主に市販車ベースのGTカーなど)
・ロッキーマウンテンヴィンテージレーシング(1980年代以前の車両)
・スーパーストックカー(市販車ベースの車両に改造を加えたもの)
・アンリミテッド(改造無制限)
・エレクトリック(電気自動車によるクラス)、
・タイムアタック(市販車ベースの2WD、4WD車によるクラス)
・エキシビション(トレーラーヘッド車などクラス分けに収まらないその他の車両)

各クラスとも、コースを3分割してのエリア毎のタイム計測。その合計タイムで規定台数枠の振い落としが行われ、金曜日の予選へ駒を進められます。 予選はスタート順決定のためのタイム計測となり、日曜日にコースを通した決勝が行われます。なお、金曜日の夕方にダウンタウンでファンフェスタがあり、土曜日は休息日だそうです。

RandySchranz

日本勢も1988年から参戦しており、この年にスーパーストックカークラスで出場したスズキの田嶋伸博選手は、現地レンタルのマツダファミリアに乗車して初挑戦で完走しました。

また、1989年にアンリミテッドクラスにスバル・アルシオーネに乗車した小関典幸選手が、14分25秒09と3位のタイムを叩きだし、ルーキー賞を獲得しました。

日本人の中での最速タイムは、1991年に、パイクスピークオープンクラスにおいて、 NISSAN R32 GT-Rに乗って出場した、亀山晃選手の11分42秒95がトップです。

上述のオットー・ロッシュが1924年に叩き出した18分15秒よりもかなり早いわけですが、これは当時に比べて、コースが舗装されているということも関係しているでしょう。

逆に70年も経っているのに…… という見方もでき、その間、数々の技術革新がある中でそれだけしかタイムが縮まっていないのは、それだけこのレースの難しいということを物語っています。

なお、1999年にホンダが、ニッケル水素電池を搭載したレース専用の電気自動車・1997 Honda EV PLUS Type Rの記録は、15分19秒91ですから、この1924年のタイムを3分上回っています。

EVの世界の技術は、舗装路の件もありますが、既にこの当時のガソリン自動車の水準を抜き去っている、あるいは抜き去りつつある、ということがいえるかもしれません。

残念ながらまだ日本人選手による優勝はないようです。が、上述の8つあるクラスにそれぞれ毎年のように日本の自動車メーカー、あるいは個人での出場が続いており、そのうちに快挙がもたらされるかもしれません。

日本製EV車の活躍とともに、日本人選手の今後の活躍を期待しましょう。