Title: [Automobile with ad for Oppenheimer’s shop, 800 E St., N.W., Washington, D.C.]
Date Created/Published: [between 1910 and 1920]
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写真は、」1910年から1920年(明治43年~大正9年)の間に、ワシントンD.C.の一角で撮影されたものです。
現在の地図でみると、ワシントン特別区の中心部にあるホワイトハウスの東側約500mほどの至近距離にあり、街の中心部にあたります。
ホワイト・ハウスは2001年9月の同時多発テロ以降、一般観光客の見学はできなくなっていますが、現在も観光名所として人気がある場所です。その東側から北側にはダウンタウンが広がり、D.C.の中でも最も賑わう繁華街のひとつです。
周辺には、多くの観光スポットが集中しており、アメリカ合衆国議会議事堂、ワシントン記念塔、リンカーン記念館などのモニュメントのほか、スミソニアン博物館、ナショナル・ギャラリーなどをはじめとする、多数の博物館・美術館があります。
おそらく当時も高級商店街であったであろうこの場所に停車している車には、「OPPENHEIMER SHOP(オッペンハイマー商店)UNIQUE」の文字があります。UNIQUEは、「変わった、独特の、珍しい」の意で、その根本にあるのは「並ぶもののない、比類のない、他に存在しない」といったイメージです。
アパレルメーカーのユニクロも、「UNIQUE CLOTHING WAREHOUSE」の略であり、「ちょっといいもの」を置いているお店、といったニュアンスでしょうか。
ほかに、“SEWING MACHINES DRESSMAKERS SUPPLIES”の文字が見て取れ、ミシンや衣装生地などの卸問屋を経営していた商店のようです。車種はおそらく、このころのベストセラー、フォードT型と思われます。
1908年に発売され、以後1927年まで基本的なモデルチェンジのないまま、1,500万7,033台が生産されました。4輪自動車でこれを凌いだのは、唯一2,100万台以上を生産されたフォルクスワーゲン・タイプ1が存在するのみです。その廉価さから、アメリカをはじめとする世界各国に広く普及しました。
「オッペンハイマー商店」と同名の会社をネットで調べてみましたが、ヒットしないところを見ると、その後名前を変えたか、現在までには店をたたみ、存在しなくなっているのでしょう。
ただ、オッペンハイマー(Oppenheimer)を冠する企業は現在も多数存在します。ドイツにいたユダヤ人に多い姓の一つで、ドイツ連邦共和国 ラインラント=プファルツ州マインツ=ビンゲン郡にある「オッペンハイム」出身者に多い名前です。隣国のオーストリア・ウィーンやチェコのプラハのユダヤ人からは最上流階級として尊敬を受けていた人種です。
オッペンハイマー姓を名乗る有名人としては、ダイヤモンドや金の採掘で富を築いたドイツ出身で南アフリカの鉱山事業家「アーネスト・オッペンハイマー(1880~1957年)がいます。このオッペンハイマー家はその息子と孫の代かけて大いに繁栄し、巨万の富を築いたことで知られます。
そして、オッペンハイマーの名で、おそらくもっとも有名なのは、ジュリアス・ロバート・オッペンハイマー(1904~1967年)です。
この人はユダヤ系アメリカ人の物理学者で、実は日本との縁が深い人物です。
というのも、彼は第二次世界大戦当時ロスアラモス国立研究所の所長としてマンハッタン計画を主導し、広島と長崎に落とされた原爆を開発した中心人物だったからです。卓抜なリーダーシップで原子爆弾開発プロジェクトの指導者的役割を果たし、「原爆の父」と呼ばれました。
ドイツからの移民の子としてニューヨークで生まれました。父はドイツで生まれ、17歳でアメリカに渡ったジュリアス・オッペンハイマー、母は東欧ユダヤ人の画家エラ・フリードマンです。
非常に早熟だったといわれ、子供の頃から鉱物や地質学に興味を持ち、数学や化学、18世紀の詩や数ヶ国の言語(最終的には6カ国語を操った)を学んでいました。一方で運動神経にはあまり優れず、同世代の子供たちと駆け回って遊ぶことはほとんどなかったようです。ただし、セーリングと乗馬は得意だったそうです。
ハーバード大学に入学し、化学を専攻しましたが、1925年に最優等の成績を修めて卒業。しかも3年次に飛び級で卒業するという秀才でした。その後、イギリスのケンブリッジ大学に留学し、核物理学のメッカとも呼ばれる「キャヴェンディッシュ研究所」で物理学や化学を学びました。
オッペンハイマーはここでニールス・ボーアと出会い、実験を伴う化学から理論中心の物理学の世界へと入っていくことになります。ボーアはデンマーク出身の理論物理学者で、量子論の育ての親として、前期量子論の展開を指導、量子力学の確立に大いに貢献した人物です。
しかし彼は実験物理学が発展していたケンブリッジから、理論物理学が発展していたゲッティンゲン大学へ移籍して、博士号を取得しました。
ここでの業績には、ドイツ生まれのイギリスの理論物理学者、マックス・ボルンとの共同研究による分子を量子力学的に扱う「ボルン-オッペンハイマー近似」があります。1929年には若くして カリフォルニア大学バークレー校やカリフォルニア工科大学助教授となり、物理学の教鞭を執り、1936年には教授となりました。
1930年代末には宇宙物理学の領域で、中性子星や今日でいうブラックホールを巡る極めて先駆的な研究を行って。しかし、第二次世界大戦が勃発すると、アメリカでは1942年に原子爆弾開発を目指すマンハッタン計画が開始されました。
オッペンハイマーは1943年ロスアラモス国立研究所の初代所長に任命され、原爆製造研究チームを主導します。彼らのグループは世界で最初の原爆を開発し、これは、ニューメキシコ州アラモゴードでの核実験(「トリニティ実験」と呼ばれている)の後、広島・長崎に投下されることになりました。
後日ドキュメンタリー映画“The day after Trinity“の中で語ったところでは、彼はその開発当初、世界に使うことのできない兵器を見せて戦争を無意味にしようと考えていたそうです。
しかし、実際に原爆が投下され、その新兵器の破壊力を目の当たりにしたのちは、自分が開発した兵器が多くの人を死に追いやったことに絶望していたそうで、戦後、原爆の使用に関して「科学者(物理学者)は罪を知った」との言葉を残しています。
戦後、1947年にはアインシュタインらを擁するプリンストン高等研究所所長に任命されました。アメリカ合衆国ニュージャージー州プリンストン市にある研究所で、自然科学、数学、社会科学、歴史学の四部門を持ち、世界でももっとも優れた学術研究機関の一つとされているものです。
しかし、かれはここでの仕事の傍ら、核兵器の国際的な管理を呼びかけるようになり、第二次世界大戦直後の平穏期において原子力技術の研究と利用のために、原子力エネルギー問題をアメリカ軍から民間の手に移すために、成立sれた「原子力委員会」のアドバイザーとなりました。
そして核兵器製造反対のロビー活動を行いはじめ、その後米ソが冷戦に入ってのちは、ソ連との核兵器競争を防ぐためにも働くようになりました。
さらに、その後開発された水素爆弾などの核兵器に対しても反対するようになっていきます。このため、これを開発して「水爆の父」と呼ばれた、ハンガリー生まれでアメリカ合衆国に亡命したユダヤ人理論物理学者エドワード・テラーらと激しく対立するようになります。
1950年代のこの時期、アメリカは冷戦を背景に、マッカーシズム(McCarthyism)と呼ばれる反共産主義に基づく社会運動、政治的運動がさかんになりましたその急先鋒であった、共和党のジョセフ・マッカーシー上院議員が筆頭となり、いわゆる「赤狩り」が強行されるようになると、これがオッペンハイマーの活動にも大きな打撃を与えました。
彼の妻のキティ、実弟のフランク、フランクの妻のジャッキー、およびオッペンハイマーの大学時代の恋人ジーは、アメリカ共産党員であったためです。
彼自身も共産党系の集会に参加したことが暴露されたため、1954年4月、米原子力委員会はこれらの事実にもとづき、オッペンハイマーを機密安全保持疑惑により休職処分としました。しかし、これは事実上の公職追放でした。その後オッペンハイマーは私生活も常にFBIの監視下におかれるなど生涯に渡って抑圧され続けました。
オッペンハイマーは晩年、古代インドの聖典「バガヴァッド・ギーター」に嵌(はま)ったといいます。
その一節には、ヴィシュヌ神の化身「クリシュナ」が自らの任務を完遂すべく、闘いに消極的な王子アルジュナを説得するために恐ろしい姿に変身し「我は死神なり、世界の破壊者なり」と語るシーンがあります。
そして自分自身をこのクリシュナに重ね、人類を滅亡に導く兵器開発を主導した張本人こそ自分だと後悔していることなどをマスコミの取材などで吐露しています。
しかし、彼が開発した原爆が日本を敗戦に追い込んだことなどが評価され、1963年には、米国エネルギー省が主催する理学の賞、エンリコ・フェルミ賞受賞。これは、エネルギーの開発、使用、または生産に関する業績を対象とする賞でした。
その2年後の1965年、オッペンハイマーは咽頭がんの診断を受けます。手術を受けた後、放射線療法と化学療法を続けたが効果はありませでした。1967年2月18日、昏睡に陥ったオッペンハイマーは、ニュージャージー州プリンストンの自宅で死去。62歳でした。
原爆の開発以外では、量子力学における、上述のボルン-オッペンハイマー近似が、物理学者としての最もよく知られた業績ですが、彼はまた宇宙物理学の権威でもありました。
中性子星の研究にからんで、星の質量がある限度を超えれば、中性子にまで縮退した星がさらに圧潰する可能性を一般相対性理論の帰結として予測しました。こうしたブラックホール生成の研究の端緒を開いた研究者でもあり、彼が発表した研究は、「トルマン・オッペンハイマー・ヴォルコフ限界」の名で現在も広く知られています。
彼が取り組んだブラックホール研究は、マンハッタン計画への参画によって中断しましたが、もし原爆の開発がなければ、現在よりももっと早くにブラックホールの謎が解かれていたかもしれません。