Title: Trans World Airlines Terminal, John F. Kennedy (originally Idlewild) Airport, New York, New York, 1956-62. Interior
Creator(s): Korab, Balthazar, photographer
Related Names:
Saarinen, Eero, 1910-1961 , architect
Date Created/Published: [between 1956 and 1962]
Medium: 1 negative : b&w ; 4 x 5 in.
写真は、ジョン・F・ケネディ国際空港(John F. Kennedy International Airport)の第5ターミナル内部で、1962年に開港される直前にメディアなどを対象に内部公開されたときの写真と推定されます。
この未来都市のような斬新なデザインは、アメリカの新進気鋭のデザイナー、エーロ・サーリネンの手によるもので、完成したターミナルは、旧トランスワールド航空(TWA)のターミナルとして長年使用されていました。
「サーリネンのターミナルビル」としても知られるこの優美なデザインは、同空港を代表する建築物となっており、また、歴史的建造物にも指定されています。
このジョン・F・ケネディ国際空港の名前を聞いたことがある人も多いでしょう。巨大都市ニューヨークの空の玄関口であるこの空港は、アメリカを代表する国際空港のひとつとしても位置付けられ、50を超える国々から100社近い航空会社の定期便が就航、1日の国際便の離着陸は400件に達します。
しかも国内線の離着陸はその2倍近くもあり、朝や夕方の繁忙期には数十機の出発待ちが発生するなど、世界でも有数の繁忙空港です。
さらにターミナル数は9つで空港施設の規模としては全米一。面積は約20平方キロメートル(成田国際空港の約2倍)で、マンハッタンの42丁目通り以南の面積に匹敵します。4本の滑走路が中央ターミナルを囲み、それぞれがペアで平行に走っており、13R-31L滑走路は商用滑走路としては北米最長の4440mです。
1942年に、ゴルフコースの一部を空港に転用して発足した当時は、4平方キロメートルしかありませんでした。その後、航空機産業の活性化に伴い後に16平方キロメートルが追加され、6年後の、1948年になって初の商業飛が行われました。そして同年、ニューヨーク港湾公社に運営が移管され、国際空港となりました。
この際、正式名称として「ニューヨーク国際空港(New York International Airport)」が,予定されていましたが、これが既存の「ニューヨークの空港(All New York Airports)」と紛らわしかったために使用が見送られ、それまで愛称だった「アイドルワイルド空港(Idlewild Airport)」が、そのまま暫定空港名として使用されるようになりました。
その後、上の第5ターミナルが完成したのとほぼ同時期の1963年に現在の名前に変えましたが、これは、同年11月22日に暗殺されたジョン・F・ケネディ大統領の栄誉を讃えたものです。
1948年から1957年まではターミナルが1つしかありませんでしたが、その後第5ターミナルを含む8つのターミナルが、1958年から1971年にかけて次々と建設されました。各ターミナルはそのターミナルのメインとなる航空会社によって設計され作られましたが、第5ターミナルは、上述のとおり、TWAの手によるものです。
設計者のエーロ・サーリネンは、家具デザイナーとしても知られるフィンランド生まれのアメリカ人建築家であり、同じくフィンランドの建築家エリエル・サーリネンの実子です。
1910年、ヘルシンキに生まれ、13歳のときアメリカ合衆国に移住。ミシガン州のクランブルック美術大学教える父の講座に学び、彫刻を学ぶためパリへ留学した後、イェール大学建築学科に入学。1934年、イェール大学で建築学の学位を取得し卒業しました。
その後現場で研鑽を積み、27歳のとき、父エリエルと共同で建築設計事務所を設立。1950年に父のエリエルが逝去するまで勤め、数々の設計を手がけました。
1940年には、ニューヨーク近代美術館開催の「オーガニック家具デザイン」コンペに応募し、成型合板を使った椅子、棚、机を出品した結果、6部門中2部門で優勝しました。1941年からは兵役に就きましたが、この間、アメリカ戦略局の建築技術者として働くようになり、このころから建築家としての実力を備えるようになっていきます。
彼が注目を浴びるようになったのは、1948年、ミズーリ州セントルイス市に建設された国立公園、ジェファーソン・ナショナル・エクスパンション・メモリアルの主要部となる記念碑のデザインが注目を浴びたことです。この公園は、西部への国土拡大と開拓を記念して建設されましたが、そのデザインコンペで優勝した案が採用されました。
「ゲートウェイ・アーチ」と呼ばれるこのモニュメントは、高さ192m、最大幅も192mあり、セントルイスでは最も高い建築物です。断面は正三角形になっており、3面の側壁は鉄筋コンクリート造り、高さ91m地点まではステンレス鋼板で、それより上では炭素鋼板で覆われています。
内部は中空になっており、展望台へは、特殊な形のエレベーターが備えられています。アーチの頂点には展望台があり、ここには地上からは見えないほどの小窓がついており、東側にはイリノイ州西部から南部、西側にはセントルイスの街並みやその背後のグレートプレーンズを望むことができます。晴れた日であれば、視界は50km近くに達するそうです。
サーリネンは、アーチの頂点に達する手段として1,000段を超える階段を上らせずに済むよう、内部に「トラム」と呼ばれる小型の軌道車を設置する計画を立てました。しかし、アーチの特殊な形状から、数社のエレベーター会社が設計を試みましたが、いずれも失敗に終わります。
そこでサーリネンは大学を中退したエレベーターデザイナー、リチャード・バウザー(Richard Bowser)に着目しました。彼は、エレベーターと観覧車の技術を組み合わせたトラムシステムを研究しており、そのアイデアを見たサーリネンは、これだ!と思ったのでしょう。彼を雇い、トラムを設計させました。
バウザーは、見事にデザインを描き上げ、観覧車のゴンドラにも似た、このエレベーターと組み合わせたトラムシステムは、アーチが完成した1965年から3年経った1968年に完成しました。しかし、残念なことに、サーリネンは、その7年前の1961年に亡くなっています。
ちなみに、トラムを設計したバウザーは、1982年に退職するまで、ワシントン地区で国立公園局の常勤職員として働いていました。このトラムの設計と永年勤続により、国立公園奉仕勲章を受けていますが、2004年に82歳で亡くなっています。
サーリネンは、その後も前衛建築家として活躍し続け、生前のもう一つの代表作が、上のジョン・F・ケネディ国際空港のTWAターミナルビルです。コンクリート・シェル構造を用いた、流れるような曲面の表現主義的なスタイルの建築で一世を風靡しました。
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彼が手がけた有名作品としては、このほか、ゼネラルモーターズの技術センター、MITクレスゲ・オーディトリアムなどがあり、生前、全部で26作品ほどを残しています。
彼は建築の中の内装や家具デザインも手がけており、チューリップチェアに代表される、その曲線を用いた未来的なデザインも20世紀中期を代表するものです。また、彼は自らが審査委員を務めたシドニー・オペラハウスの建築設計競技において、落選案の中からヨーン・ウツソンの案を強く推し、これを最終的に優勝させたことでも知られています。
サーリネンは1961年、51歳で脳腫瘍のためミシガン州アナーバーで亡くなりました。ゲートウェイ・アーチをはじめ多くの未完成のプロジェクトが残されましたが、彼の下で働いていた建築家たちが、その多くを完成させました。
作品ごとにその作風を変えることから、生存中はしばしば建築界の権威から無視され嘲笑される、といったこともあったようですが、今日では20世紀のアメリカを代表する巨匠の一人として数えられています。