ビンガムキャニオン鉱山 ~ユタ州

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写真のビンガムキャニオン鉱山のある、ユタ州は、19世紀後半から、鉱業が盛んであり、多くの会社が職を求める移住者を惹きつけてきました。今日でも鉱業はユタ経済にとって主要産業であり続けています。産出される鉱物は、銅、銀、モリブデン、亜鉛、鉛、ベリリウムなどであり、化石燃料として石炭、石油、天然ガスなども産出されています。

その代表的存在とされるのが、ビンガムキャニオン鉱山であり、ここには、世界最大の露天掘り鉱山です。世界最大といわれる採掘穴もあり、この穴での採掘は、1863年から発掘が始まって以後現在も続けられており、穴もどんどん大きくなっていて、現在直径4キロほどもあるそうです。

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「ユタ」の名は、この地に先住するインディアン部族、にちなみます。ユテ族といい、ユテの意味は、「山の民」です。

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州都および最大都市はソルトレイクシティであり、州人口およそ280万人の約80%はソルトレイクシティ市を中心とするワサッチフロントと呼ばれる地域に住んでいます。このために州内の大半の地域にはほとんど人が住んでおらず、ユタ州は国内で6番目に都市集中が進んだ州となっています。

前史時代からインディアンが住んでいましたが、ヨーロッパ人によって19世紀後半に始まった探検時代には、ナヴァホ族など5部族のインディアンが住んでいました。

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 ユタ州南部のザイオン国立公園、州内には5つの国立公園がある

そこへ、「末日聖徒イエス・キリスト教会」すなわち、モルモン教の信者たちが入植してきました。彼等は当初、教団の創始者、ジョセフ・スミス・ジュニアの指導を受けて五大湖南部のイリノイ州で生活していましたが周辺住民から迫害を受け、信者11,000人以上は、近隣との争いが絶えず、宗祖のジョセフ・スミスも殺害されました。

それを引き継いだのが、教会の大官長ブリガム・ヤングで、ヤングとモルモン開拓者の最初の集団は1847年にソルトレイク・バレーに移住し、その後の22年間、7万人以上の開拓者が平原を横切り、ユタに入ってきました。

1847年に最初の開拓者が到着した時のユタはメキシコ領でした。しかし、1846年から1848年の間にアメリカ合衆国とメキシコ合衆国(墨西哥)の間で勃発し、これは米墨戦争と呼ばれましたが、アメリカが勝利しました。

この結果、現在のアメリカ合衆国南西部がメキシコから委譲され、その中に含まれていたユタは、「ユタ準州」として1850年に創設されました。知事は、無論、指導者のブリガム・ヤングです。ユテ族インディアンに因んで、州名はユタとされ、1856年にはソルトレイクシティ市に準州都が移りました。

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 ブリガム・ヤング

市民のほとんどは、当然モルモン教徒でした。彼等がイリノイ州でも嫌われた理由のひとつは、その教会員の中で複婚すなわち一夫多妻制を実行していることであり、このため、準州に昇格したあとも、モルモン教徒と周囲の州、あるいはアメリカ合衆国政府との間に軋轢が絶えませんでした。

モルモン教徒が一夫多妻制を実行しているという話が広まると、彼等は非アメリカ人であり、反逆者と見なされるようになります。1857年、モルモン教徒であった元陪席判事が、職務放棄をするとともに不道徳な行為を行っているという、悪質な告発があったのを受け、時のジェームズ・ブキャナン大統領は、ユタに軍事遠征隊を派遣しました。

この2500人の派兵に対し、教団側はそれに勝る3000人の兵を集め、政府と対決する姿勢を示し、一触即発の事態となりました。

そんな中、1857年9月11日、アメリカ東南部のアーカンソー州からカリフォルニア州を目指し移動していた開拓団がソルトレイク郊外に滞留しました。このとき、これを耳にしたモルモン教徒の中に、この開拓者一行の中に初代教祖を殺害した者がいるというデマが流れました。

このため、教団の一部の急進派が武装蜂起し、この開拓民を襲撃して虐殺しました。これが世に言う「マウンテンメドウの虐殺」と呼ばれるものです。彼等は、この武装集団の指導者、ジョン・D・リーという人物の指令のまま、7歳以下の18人の子供を除く、約120人の男性、女性、およびティーンエイジャーのすべてを殺害しました。

大統領の命により派遣されてきていたアメリカ陸軍はこれをうけて、教団に対して攻撃を開始、戦闘状態に陥りましたが、この交戦を「ユタ戦争」と呼びます。政府軍とモルモン軍との戦争は、モルモン軍が政府軍の物資基地を焼き討ちにすることに成功し、彼等に有利に動きました。

このため、政府軍は冬の到来とともに11月には北東のワイオミングに撤退を余儀なくされます。その後も戦意が下がる一方の政府軍でしたが、そんな中、首都ワシントンでは、非モルモン教徒で、指導者のヤングにもコネクションを持つトーマス・ケインという人物が和平交渉を買って出ました。

紛争の長期化を恐れていた、ブキャナン大統領は、この申し出を渡りに船とばかりに喜び、彼をユタ準州との仲介者に立てることを了承します。

こうして、1858年の2月にケインがソルトレークに到着し、ヤング知事らとの交渉の末、秋には和平が成立しました。事後処理としては、政府はモルモン教徒を処罰しない、その代わりに政府はユタを占拠しない、そして、ヤングに代わり政府からの知事を受け入れるといったことが決まりました。

こうして、戦争は終結したものの、連邦政府によりマウンテンメドウの虐殺の徹底解明と責任が問題として残されました。虐殺の主導者、ジョン・リーは、長らく教団に匿われていましたが、教団と政府の和解が進む中、全ての責任を負わされる形で逮捕され、虐殺事件の発生地で銃殺刑にされました。

また、教団側は、その後連邦政府との軋轢の解消に努めるようになり、およそ30年後の1890年には、軋轢の主因となっていた一夫多妻制を自主的に中断しました。

ユタ戦争の終結後、ブリガム・ヤングに代わってアルフレッド・カミングが準州知事に就任し、ヤングは準州政府の実権をカミングに渡しました。が、その後もヤングが準州の実権を持ち続けたといわれています。大統領が指名した知事が辞任することが続き、これが準州政府の伝統になっていきました。

その後、南北戦争が始まり、1861年には連邦政府軍がユタ準州内から撤退する、という事態も発生しましたが、翌年には、北軍将軍であるパトリック・コナーがカリフォルニアの志願兵連隊を率いて到着しました。

コナーは、非モルモン教徒を準州内に誘致することを奨励しましたが、こうして入植してきた移民が、準州内のトゥーイル郡で鉱物が発見しため、他州から多数の坑夫達が集まり始めました。

1869年には、グレートソルト湖の北、プロモントリー・サミットで最初の大陸横断鉄道が開通し、この鉄道開通によって次第に州内に入る移民の数はさらに増え、そのうちの一部は影響力ある事業家となり、資産を築くようになりました。

1870年代と1880年代に一夫多妻制を違法とする法律が成立し、モルモン教会は1890年の綱領で一夫多妻を禁止しました。これを受けて、ユタが州昇格を連邦政府に申請したところ、これが認められましたが、このとき州昇格を認める条件の1つとして、州憲法に一夫多妻制の禁止が盛り込まれました。州昇格は1896年1月4日に正式のものとなりました。

その後のユタ州は、平和のまま推移しました。1953年、ネバダ州にあるネバダ核実験場においてなされた核兵器の核実験による「死の灰」が、南部のセントジョージ市などに到達し多数の住民が被曝する、という事件などがありましたが、1978年よりサンダンス映画祭が毎年にパークシティにおいて開催されるようになるなど、文化的な活動も増えました。

20世紀の初期から州内にブライスキャニオン国立公園やザイオン国立公園などの国立公園が設立され、ユタ州は自然の景観美で知られるようになり、観光客も増えました。1950年代、1960年代、1970年代と州間高速道路が整備され、とくに州南部の景観が良い地域へアクセスしやすくなりました。

1939年にアルタ・スキー場が開設されてからは、世界でも名高いスキー・リゾートとなり、ワサッチ山脈の乾燥しパウダー状の雪は世界でも最もスキーに適していると考えられています。ユタ州の車のナンバープレートには、「地球上でも最も偉大な雪」という表示があります。

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冬季のグレートソルト湖

こうした全米でも有数の冬季のリゾート地という評価を受けるようになった結果、ソルトレイクシティ市は1995年に2002年冬季オリンピック開催地に選ばれ、この大会は地域経済に大きな好況をもたらしました。スキー場の人気が高まり、オリンピックに使われたワサッチフロントに散らばる多くの会場は、現在でもスポーツイベントに使われています。

さらにこのオリンピックは、UTA TRAXと呼ばれる軽鉄道(ライト・レール)が、ソルトレイク・バレー内に造られ、これは市周辺の高規格道路の再整備に繋がりました。

20世紀後半にユタ州は急速に成長し、今日でも州内のあちこちで、人口増加が起こっています。全米でも成長率の高い州です。ただ、開発のために農業用地や原生地がなくなっていくので、交通と都市集中が大きな悩みのタネとなっているようです。

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 モルモン教のソルトレイク神殿、主要な観光地となっている

 

ロッキー山脈の麓で ~コロラド

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写真は、オリジナルのデータをみると、コロラド州のシマロン川で撮影されたとなっています。

シマロンというのは、コロラド州の南側のニューメキシコ州の最北部あたりにある町で、ロッキー山脈のほぼ南端にあたる場所にあります。アメリカ人でも知らないような小さな町ですが、ちょうどこの町あたりを源流として北アメリカ大陸中央の大平原、グレートプレーンズへ向かって流れ落ちる川が、シマロン川です。

グーグルマップをみると、正確には「ドライ・シマロン川 ”Dry Chimarron River”」となっており、ニューメキシコ州からさらに東のオクラホマ州で他の河川と合流し、ここで初めて「シマロン川」と呼ばれる川になるようです。

また、冒頭の写真はコロラド州のシマロン川で撮影されたとされていますが、地図で確認したところこの川はコロラド州を流れていません。従って、もしコロラド州というのが正しければ、シマロン川というよりも、ニューメキシコ州とコロラド州の州堺のすぐ北にある、「トリニダード」の町付近で、この写真は撮影されたものと推定されます。

トリニダードトリニダードの位置

これはロッキー山脈を西に仰ぐ、人口9000人ほどのこちらも本当に小さな町です。こんな山深いところに、鉄道なんてあるのかな、といろいろ調べてみたところ、「デンバー・アンド・リオグランデ・ウェスタン鉄道」というのがあり、これは一般には単に「リオグランデ鉄道」と呼ばれているもののようです。

当初コロラド州デンバーから、その西側のユタ州ソルトレイクシティまで主に大陸横断鉄道の接続鉄道として建設されたものですが、このソルトレイクシティで」大陸横断鉄道に乗り換えればさらにカリフォルニア州のサンフランシスコまで行くことができます。

またデンバーからは、下の図にもあるようにコロラド州を南北に貫く支線も造られており、沿線の地域からデンバーへ石炭や鉱石類の輸送するのに使われていたようです。その南北線の最南端がトリニダードです。

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往時のリオグランデ鉄道の路線図(右端がデンバー~トリニダード間の南北線)

山合いにある高原地帯であり、写真が撮影された1940年頃もそうでしょうが、おそらくは現在も牧畜などがさかんな地域と思われます。詳しいデータがみつからないので規模のほどはよくわかりませんが、地元の農民たちはここで育てた羊や牛を昔からこうして列車に積み込んではデンバーまで運び売りさばいるのでしょう。

コロラド州の州都および人口最大都市は、ロッキー山脈の東側にあるこの「デンバー市」です。この州名はスペイン人探検家が名付けたコロラド川に因んでいます。「コロラド」という言葉は「赤みをおびた」を意味するスペイン語で、コロラド川が山岳部から運ぶ赤い沈泥を表しています。

面積では50州の中で第8位ですが、人口では第22位であり、それほど大きな産業がある州ではありません。1875年に州に昇格したあと、銀や金の鉱脈が見つかり、19世紀中ごろはこうした金銀の産出を中心とした鉱業がさかんでした。

19世紀後半、牧畜業もさかんとなり、その後は鉱物の掘削と加工、及び農業生産品を基礎に州経済が成り立っていました。20世紀後半になると、工業及びサービス業が大きく拡大しました。州全体の経済は多様化されるようになり、現在においては全米の中でも科学研究及びハイテク産業が同州に集中するなど、産業形態もかなり様変わりしています。

アメリカの中でも重要な金融センターにもなりつつあり、アメリカの大手テレビネットワークNBCのニュース専門放送局CNBCが作成した「2010年事業に適した州のリスト」では、コロラド州がテキサス州とバージニア州に次いで第3位にランクされています。

2006-07-14-Denver_Skyline_Midnight州都デンバーの夜景

連邦政府の機関も大きな経済推進力であり、コロラドス・プリングスにある北アメリカ航空宇宙防衛司令部、アメリカ空軍士官学校とピーターソン空軍基地をはじめとして、州内には多数の連邦政府機関があります。

ちなみに、筆者の先妻(11年前に逝去)の叔父は、このコロラドスプリグスにあるアメリカ空軍の関連施設に勤めるエンジニアであり、私も一度日本で会ったことがあります。奥さんが先妻の実の叔母さんにあたり、いわば遠い親戚でした。

一度コロラドへ遊びに来いよ、といわれ、私も行ってみたかったのですが、先妻の死後、その希望は未だ果たせていません。

アメリカ中部にあるため、アクセスしにくそうですが、アメリカ国道や州道のネットワークがあり、州内の大半を縦横に繋いでいて、カリフォルニアなどからの陸路でのアクセスは意外に容易です。またデンバー国際空港は世界でも5番目に利用されている空港であり、非軍事、商業便が大量にここから離発着しています。

とはいえ、これといった観光地はあまりなく、観光で行くとすれば強いていえば、ロッキー山脈などの雄大な自然でしょうか。コロラド州内には北アメリカの高峰30位までの山が全て入っているほか、4つの国立公園を初めとして、多数の国立保護区があります。

Mountains_of_Coloradoコロラドスプリングスの西のベルフォード山からグレートプレーンズ方面を望む

しかし、この広い土地もかつてはすべてここに住まうインディアン部族のものでした。同州には全米でも屈指の9つものインディアン部族が先住しており、彼等はティーピーと呼ばれる三角錐型のテントで移動生活をし、農耕を行わない狩猟民族でした。

ところが、19世紀の半ばよりアメリカ東部から西進してきた白人たちがここに入植するようになりました。当然、インディアンと白人の土地を巡る抗争が始まり、時代を経るにつれてその戦いは拡大の一途をたどっていきました。

結果、多くのインディアンが駆逐され、残った者たちは隣のワイオミング州の保留地などに強制移住させられました。全米では、45,000人のインディアンが虐殺され、また白人のほうにも19,000人の犠牲が出たという推定もあるようですが、このコロラド州で起こったインディアンとの抗争は一連の戦いの中でもかなり血なまぐさいものだったようです。

1864年には「サンドクリークの虐殺」と呼ばれる悪名高いインディアン虐殺がコロラドで起こっており、これはコロラド州南東部のシャイアン族とアラパホ族のティーピーのキャンプを土地の白人民兵が襲撃した際に起こった悲劇です。

およそ150名の男女、子供が殺され、白人兵士たちは男女の性器や頭の皮をすべからく剥いだといいます。また、この時期、コロラド州では白人の市民集会が開かれ、インディアンの頭の皮の買い取り資金として5000ドルの募金が集められていたそうです。

虐殺を指導したチビントン大佐という陸軍士官に率いられた騎兵隊は、殺したインディアンたちの男女の性器や頭の皮を剥ぎ取り、これを戦利品として軍帽に飾り、デンバーでパレードを行って見せたそうで、これ以後、同州に先住するインディアン部族はすべて他州へ強制移住させられました。

この虐殺における、チビントンの鬼畜ともいえるような行動はのちに痛烈に非難されましたが、一般的な南北戦争後の恩赦制度では、彼の刑事責任を問うことができませんでした。

が、軍からは強制辞職させられ、晩年は郷里のオハイオに戻り、農業をしたり地方紙の編集者に甘んじるなど身の不遇をかこちつつ、71歳で亡くなりました。

Chiving1虐殺を指揮したチビントン大佐

コロラドにおいては、現在ではこうして虐げられたインディアンも復権し、アメリカ連邦政府から保留地(Reservation)をもらって領有していますが、残ったインディアン部族はわずかの二つの支族のみになっているといいます。

かつて存在した多くの部族がアメリカ連邦政府によって「絶滅部族」として認定を打ち切られ、保留地を没収されており、部族として存在しないことになっており、現在、領土と自治権を求め、部族再認定を要求だといいますが、先行きは暗いようです。

このように少々暗い過去を持つコロラドですが、意外なことに日本及び日本人とはすくなからぬ縁がある州です。

ご存知のとおり、カリフォルニアにはその昔多数の日本人が移住し、ロサンゼルスやサンフランシスコに日系人のコロニーができましたが、1906年にはこの地で大地震が起き、このとき経済的地盤を失った日系人の一部がコロラド州に移住しています。

1910年には1,000人を超えた時期もあったといいます。しかしその後、1941年12月に真珠湾攻撃が起こり、第二次世界大戦が勃発するとその多くが強制収容所に入れられることになりました。

また、日本人や米国市民権を拒否され続けている永住者は無論のこと、アメリカの市民権を持つ日系アメリカ人などに対してもアメリカ人の恐れや嫌悪が広まったことから、他州からこうした日本人や日系人がコロラド州に移転してきました。

カリフォルニアなどの沿岸諸州では、日系人により港湾などの重要拠点を奪われると懸念し、これらの地に居住していた日本人および日系人を強制退去させましたが、このときコロラドなどの内陸の州に大量の日系アメリカ人たちが振り分けられました。

このとき、開戦時のコロラド州知事であったラルフ・ローレンス・カーは敵性外国人となったこれら日系人を擁護する側に立ちました。ラジオ放送で人々に沈着冷静に対処するよう呼びかけるともに、彼等のアメリカへの忠誠心を疑ってはならない、という主旨の演説まで行い、日系人を助けようとしました。

コロラド州では、プロワーズ郡グラナダに近い場所に「アマチ収容所」という収容所がつくられ、ここに日系人たちは押し込まれようとしましたが、その開設の約2ヶ月前にあたる6月頃に、カーは法務省宛てに反対意見を述べた書簡を送っています。

そこには、多数の日本人・日系人転入に対してコロラドの住宅・雇用・住民の保護に連邦政府の早急な対応が必要であること、一方で日系アメリカ人や合法でアメリカに入国した日本人もコロラドに住む権利を持ち安全を保障されるべきであることなどが、書かれていたといいます。

結局は日系人たちはアマチに強制移住させることになりましたが、終始日系人の強制収容所案には強く反対するとともに、世間の反日運動という風潮に逆らって、日本人と日系アメリカ人達を歓迎するようコロラド州民に呼びかけました。

さらに日系人たちのつらい立場を代弁し、州民に対して彼等に人道的親切や住む権利を与えることを求め、この戦争におけるコロラド州の役目が日系人10万人を受け入れることであるなら、コロラドは彼らの面倒を見る、とまで表明しました。

3000人の日本人と日系アメリカ人がアマチ収容所に到着したとき、地元の暴徒の群が脅しに現れましたが、カーは飛行機で現地に飛び、この暴力を止めています。また、この時カーの生涯で最も有名だといわれる、次のような演説を行っています。

「彼ら(日系人)に危害を与えるのなら、私に与えなさい。小さな町で育った私は、人種差別による恥辱や不名誉を知り、それを軽蔑するようになった。なぜならそのような行為は、幸せな生活を脅かすものだからだ。」

戦争が継続されている間も、カーは収容されている日系人たちに敬意を持って接し、彼らがアメリカ市民権を失わないよう支援を行ったといいます。

ralphcarr日本人及び日系人の恩人、ラルフ・ローレンス・カー

戦後においても、収容所生活からの日系人の早期解放を訴えた結果、彼等はようやく収容所から出ることができましたが、こうした一連の州知事の擁護は当然彼等も知っており、多くの日系人が彼に感謝の意を示しました。

その後、解放された日系人のうち、およそ5,000名がデンバーに移住し、日本人街が形成されることになりましたが、これはひとえにカー州知事の善意のたまものといえるでしょう。

ただ、1950年代に入ると、一部はカリフォルニアに戻ったり、新たな土地を求めて流出しコロラド州における日系人の数は2,500人ほどに減少しました。現在では、高齢化した日系人は農場を手放し、デンバーなど都会に戻り生活を送っているものもいるようです。

が、デンバーでは日本人街が再開発され、高齢者用のアパートが建築されたりもしています。また、デンバーで、西海岸やハワイ以外で日系新聞が発行されている唯一の町です。

「ロッキー時報」というのがそれで、公称1,200部を発行するだけの小さな新聞ですが、それでもアメリカの奥地で現在でもこうした日本語新聞が発行されているというのは驚きです。

さらに最近でコロラド州内ではあちこちに日系人向けの補習校や、日系大学のキャンパスも進出してきているとのことで、こうした日本とのつながりの深さから、多数の日本国内の都市とコロラドの町が姉妹都市の提携を結んでいます。

以下がそれらの姉妹都市です。あなたの町も含まれているのではないでしょうか。確認してみてください。

山形県 – コロラド州、1986年
北海道占冠村 – アスペン市、1991年
山形県山形市 – ボルダー市、1994年
山形県西川町 – フリスコ町、1990年
山形県河北町 – キャニオンシティ、1993年
茨城県守谷市 – グリーリー市、1993年
埼玉県東秩父村 – スターリング、1993年友好都市
山梨県富士吉田市 – コロラド・スプリングス市、1962年
長野県上田市 – ブルームフィールド市、2006年
岐阜県高山市 – デンバー市、1960年
福井県勝山市 – アスペン市、1994年友好都市
長野県茅野市 – ロングモント市、1990年

パイクス・ピーク・コグ鉄道

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パイクス・ピーク・コグ鉄道は、パイクスピーク(Pikes Peak)という山の斜面を登る鉄道です。1890年に開業した当時は、写真のように蒸気機関車が牽引車でしたが、現在はディーゼル車両になっているようです。

この山は北米でも最も著名な山の1つであり、1806年に探検家のゼブロン・パイクによって紹介されたためにPike’s Peak (パイクの頂)と名づけられました。

パイクス・ピークを含むロッキー山脈は、昔から風光明媚な場所と知られ、現在では毎年数百万人単位の観光客が訪れる人気観光地です。ハイキングやキャンプ、その他の野外スポーツなども人気であり、日本人にとっては新婚旅行の人気旅行先のひとつでもあるようです。

このパイクスピークでは、以前のこのブログ、「レキシントン・モデル ”パイクスピーク”」でも紹介したように、アメリカのモータースポーツの著名なレースの一つ、「パイクスピーク・インターナショナル・ヒルクライム」が行われることで知られています。

パイクス・ピークの東側の裾野には、コロラド州東部の主要都市であるコロラドスプリングスが広がっていますが、この街の中心部から8~9km西にいったところに、この鉄道の起点であるマニトウ・スプリングスの町があります。

炭酸泉が多数あり、飲泉が結核に効くとされたことから19世紀には保養地が出来始め、マニトウ・スプリングスという町もできました。“マニトウ”というのは、インディアンに伝わる精霊のことで、その昔同名のホラー映画があったのを覚えている方も多いでしょう。

このマニトウ・スプリングスからパイクスピークの頂上まではトレイルも整備されているようですが、その標高4301mの頂きに達するためには、マニトウ・スプリングスから2300mもの標高差を克服しなければならず、このため、この登山鉄道が敷設されました。

10.11_pikespeak_01始点のマニトウドスプリングス駅

パイクス・ピーク・コグ鉄道の「コグ(Cog)」とは、車輪にとりつけられている歯車のことで、この鉄道では2本のレールの間に設置されたラックレールをこの歯車で噛み合わせて勾配を上ります。「ラック式鉄道」という種類の鉄道であり、この派生形の鉄道に「アプト式」鉄道というのもあります。

日本でも信越本線の碓氷峠の一部区間でこの方式を用いていました(信越本線横川駅~軽井沢駅間1893年~1963年)。現在でも、静岡の大井川鐵道井川線などで同様の形式が使われています。

なぜこうしたものを使うかと言えば、それは急こう配の山を安全に登るためであり、またレールの距離は短ければ短いほどコストが安くなるためです。綴れ折りの長い登山鉄道を作るよりも、車両のほうに工夫を加えた直登方式のほうが安上がりになります。

それにしても、このピーク鉄道の麓と頂上の高度差は、他を断トツに引き離すほど大きく、また、到達点も4000mを超えており、「世界一高い登山鉄道」と言われます。頂上までの道のり約14キロメートルを1時間15分ほどかけて登るそうですが、頂上にはなんとギフトショップもあって、ここで食べる名物ドーナッツはおいしいそうです。

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パイクス・ピーク・コグ鉄道

このラック式鉄道は、1812年にイギリスのマシュー・マレーによって開発され、ミドルトン鉄道という鉄道の機関車で初めて採用されました。マレーは蒸気機関や工作機械、紡績機械など多くの分野で活躍し、革新的な技術者として評価の高かった人です。

ただ、彼が開発した車両は当時は急勾配を登るためではなく、平地における機関車の空転を防止することが目的でした。重い貨車を牽引しているとき、鉄の車輪では鉄のレールに対して十分な粘着を確保できないと考えられたため、ラックレールと歯車式の車輪を組み合わせたラック式鉄道が考え出されたのです。

世界初の登山用ラック式鉄道は、1868年アメリカで完成しましたが、これはパイクスピークではなく、同国北東部のニューハンプシャー州のワシントン山における鉄道でした。この山は標高1917mとそれほど高い山ではありませんが、アメリカ国内でも最初期の観光地として開発さました。

592A0533ワシントン山におけるラック式鉄道

1852年には麓に石造りの重厚なホテルも建設され、多くの観光客を呼び寄せましたが、1908年に火事で焼失しました。しかしその後再建され、州の歴史史跡に指定されており、現在でも人気観光スポットのようです。今もこのホテル付近からワシントン山頂に至るラック式鉄道が残っており、現役で使用されています。

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マウントワシントンホテル

こうした成功例から、19世紀末から20世紀初頭にかけて世界各地で多数のラック式鉄道が相次いで建設されるようになりました。しかしその後ケーブルカーやロープウェイが発明されるようになると、こちらのほうが多くなり、ラック式はほとんど使われなくなっていきました。

ところが、20世紀末に山岳観光地における環境負荷の少ない交通機関として見直す動きが起こり、オーストラリアで久々に新しいラック式鉄道が開業しました。日本でも上述の大井川鐵道井川線において1990年にラック式鉄道が完成しました。

これは大井川の流れに沿って山間を縫うようにゆっくりと走る鉄道で、大井川上流に建設されていた長島ダム建設の建設に伴い、資材の運搬などに使われていましたが、奥地の住民の足としても使われていました。

しかし、ダム完成に伴い、一部区間が水没することになったため廃止が予定されていました。ところが、ダム湖によって水没する地域住民の家の代替補償金でその再興が図られることになり、湖岸に新線を建設することが決まりました。日本においては、最も新しいラック式鉄道ということになります。

愛称に「南アルプスあぷとライン」と名付けられたこの鉄道の沿線に民家は非常に少なく、利用者は大半が観光客であり、駅の半数がいわゆる秘境駅です。ダム湖がある終点駅の井川駅は静岡市内ですが、南アルプスのふもとにあり、文字通りド田舎です。

が、その渓谷美は見るべきものがあり、私も学生のころにここに行きました。その当時はまだこのラック式鉄道はありませんでしたが。

榛原郡川根本町の「千頭(せんず)」が始点で、全列車がDD20形ディーゼル機関車が推進・牽引する客車列車によって運行されています。ちなみに、千頭からは「大井川本線」という鉄道が出ており、これは、静岡市西部にある街、島田市の金谷駅で東海道線と接続しています。

大井川本線 金谷~千頭が、39.5km、井川線 千頭~井川が 25.5kmという路程になります。

Oigawa_Ikawa_Line_ABTアプト式区間を通る井川線の列車

この大井川本線は電車であり、ワンマン運転が行われています。が、井川線のほうは、全列車が機関車牽引の客車列車であるため、ワンマン運転は行われていません。

なお、大井川本線では、SL急行の運行が行われており、「かわね路号」の名で親しまれています。臨時列車の扱いですが、原則毎日、金谷駅~千頭駅間に1日1往復運行されているようで、休日など期間によっては2往復または3往復に増便されることもあるそうです。

実は私もまだ乗ったことがなく、このSL+ラック式の鉄道、というのは鉄道ファンならずとも大いに興味がそそられるのではないでしょうか。

話しが少々逸れてしまいましたが、このほか日本にあるラック式鉄道としては、足尾銅山観光トロッコ鉄道(栃木県足尾町)、シグナス森林鉄道(兵庫~大阪)、那須りんどう湖 LAKE VIEWスイス鉄道(栃木県那須町)などがあるようです。が、いずれも「トロッコ」と呼ばれるような小規模なものであり、大井川鉄道のような本格的なものではありません。

また、これらは大井川鉄道やかつて存在した信越本線碓氷峠区間ように、営業用鉄道路線として用いられているのではなく、あくまで観光用です。さらに、足尾銅山観光トロッコ鉄道とシグナス森林鉄道がリッゲンバッハ式、那須りんどう湖スイス鉄道がフォンロール式であるなど、アプト式とは少し異なる形式です。

それぞれの急こう配に適応させるためレールと車輪の噛み合わせをよくする点は同じですが、例えばリッゲンバッハ式は、浅いコの字の形をした鋼材と台形断面のピンを使用したラックレールを用いるなど、機関車の車輪の歯車との噛みあわせをより完全にしたものであり、いわばアプト式の変形版です。

ラック式鉄道にはこのほかにも、さまざまな形式があり、それらは、はしご型、複合型、挟み込み式、単純型などなど、いちいち説明しているとキリがないくらいです。

日本では、アプト式を含めて上述のような数種類しか採用例がありませんが、こうしたすべての方式の採用例があり、ラック式鉄道が世界で最も普及している国はスイスです。

国土の2/3がアルプス山脈などに囲まれた山岳地帯である上、観光立国であることからケーブルカーやラックレールを用いた登山鉄道も多く敷設され、その中には、ヨーロッパ最高所を走る鉄道であり、世界中から多くの観光客が訪れるユングフラウ鉄道は有名です。

4158メートルの標高を誇るユングフラウの途中まで登る登山鉄道です。最大勾配250‰。路線の4分の3以上がトンネル内ですが、終点駅のユングフラウヨッホ駅はラック式鉄道でヨーロッパ最高所である標高3454mにあります。

一般人が到達できる最高地点は、エレベーターで昇る「スフィンクス展望台」ですが、十分な装備をした雪山経験者ならここからユングフラウの山頂まで登山することも可能だといいます。

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ユングフラウ鉄道

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Station_Eigergletscher_01アイガー氷河が観望できる途中駅の、アイガーグレッチャー駅

このほかのラック式鉄道としては、1000m進むと480m標高が上がるという(480パーミル)世界一の急勾配を誇るピラトス鉄道などもあり、スイス国内には内外にその名をとどろかす著名な登山鉄道が数多く存在します。

登山鉄道だけでなく、通常の鉄道の数も尋常ではありません。私鉄主導で多くの路線建設が行われた結果、現在スイスにある鉄道路線は国の面積が九州よりやや小さい程度しかないにもかかわらず、5,380kmと九州のそれの約2倍の総延長にもなっています。

当然路線密度では世界一であり、「スイス国内では、国内のどこでも16km歩くと旅客鉄道の便がある」とまでいわれているようです。従って、ラック式鉄道のような山岳鉄道だけでなく、自称他称鉄道オタクと言われるような人は、ぜひスイスを訪れるべきでしょう。

ただ、5年前の2010年7月には、マッターホルン・ゴッタルド鉄道区間内を走る「氷河急行」と呼ばれる列車の一部車両が脱線、転覆し、この事故で乗客の日本人団体観光客の1人が死亡し、他の乗客の多数が負傷したという事件がありました。

スイスを代表する山岳リゾートを、約8時間かけて結ぶ特別列車で最高地点2033mのオーバーアルプ峠を越え、7つの谷、291の橋、91のトンネルを抜けて走ります。

平均時速は約34kmになるため、「世界一遅い急行(特急)」とも呼ばれており、「スイス・グランドキャニオン」と称されるライン峡谷などの絶景をみることができる列車として人気が高いようです。

GlacierLandwasser氷河急行

この事故での負傷者の大半は日本人団体観光客であり、この当時大きく報道されたので覚えている方も多いでしょう。その後の調査の結果、事故の原因は制限時速35km/hの区間を56km/hで走行した34歳の運転手の過失ということになったようです。

あってはならない事故でしたが、スイスでこうした事故が起きるというのはむしろ珍しいようで、これは日本と同じように真面目な国民性によるものでしょう。時計を初めとする精密機械工業がさかん、時間に正確、四季折々の気候変化や食べ物を楽しむといったところは、日本人と類似性が高いとはよく言われることです。

事故後も再発防止に積極的に取り組み、安全管理システムの敷設・徹底化と運行記録のデジタル化などの改革も進めているといい、いまでは従来にも増して安全性は向上していることでしょう。

ぜひ、アメリカのパイクス・ピークとともに訪れてみたいものです。みなさんもいかがでしょうか。

操車場のこと

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操車場とは、鉄道における「停車場」の一種で、貨物列車などの組成・入れ替えなどをおこなう場所です。英語では、「ヤード」といいます。

なぜ、組成の変更や入れ替えが必要か。これは、例えば旅客列車のことを考えてみてください。あなたが行きたいと考えている目的地までの直行列車がない場合に、どうするかといえば複数の列車を乗り継いでいくことになるでしょう。

同様に、貨物も目的地までの直通列車がない場合、複数の列車のリレーによって輸送されますが、これを「継送」といいます。ところが、この継送において、ある駅からさらに複数の目的地を目指してその貨物が分配される場合は、その駅で貨車を複数の別の機関車につなぎかえる必要が生じます。

こうした操作を行う駅のことを、「組成駅」といいますが、この組成駅から分岐する先の目的地の数が多くなればなるほど、車扱貨物の継送のための貨車の組みかえは大変になり、大規模な操作が必要になります。

すなわち、この駅では、異なる方面から到着した複数の貨物車両を「分解」し、行き先の方面を同じくする貨車ごとに「仕分け」し、異なる方面に向かう複数の列車を「組成」するわけです。これを行うのが、「操車場」です。

長い鉄道の歴史においては、初期のころにはそうしたものは必要ありませんでしたが、のちに貨物量が著しく増え、従来の「組成駅」の機能がこうした大量の輸送量の増加に対応できなくなっため、一連の作業を専門におこなう施設として、より大規模な「操車場」が設けられるようになりました。

この操車場においては、到着線についた貨物列車から切り離された貨車は、まず「転送線」という線路に送られます。この「転送線」には、多数の分岐器が供えられており、これによって、貨車はそれぞれの目的の「仕分線」に送られ、これらの貨車はそこから目的別に別れていく、という仕組みです。

操車場には、大きく分けて3つのタイプがあります。平面ヤード、ハンプヤード、重力ヤードの3種類です。

平面ヤードというのは文字通り、平面上に貨車を集めるタイプであり、どちらかといえば小規模な操車場です。また、ハンプヤードというのは、操車場の真ん中に小高い丘を設け、ここに集めた貨車をその周囲の平坦地にころがり落として分配する、というタイプで比較的大きな操車場です。

ハンプヤードは、通常広大で平坦な場所ある場合に造られ、これはアメリカのように国土が広いところではいくらでも作ることができます。

ところが、ドイツやイギリスのように国土が狭い国では、地形の問題からハンプヤードを設けることが困難なところも多く、ハンプヤード周辺に平坦地は設けることができません。従って操車場全体がハンプだけ、というのが重力ヤードです。

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操車場で手信号を送る男(1943年)

順を追って、その「仕分け」の特徴をもう少し詳しく見ていきましょう。まず、平面ヤード。これは、平面上に並んだ仕分線を備え、重力による貨車の転走を行なわない操車場です。

まず専用の機関車によって転送線に押し込まれた貨車は、次に分岐器(スイッチャー)によって目的の仕分線に押し込まれます。この「分岐器」は分解を目的の仕分線に導くように、レールの向かう方向を切り替えることができる装置です。

転送線に入った貨車は、「突放入換(つきはなしいれかえ)」によって仕分が行なわれることもあります。この方法ではまず、居並ぶ貨車の列の間に入換を行うための機関車が入り、その前後を連結器でつないで、徐々にスピードをあげて列車全体の速度を加速します。

そして、一定の速度に達したら、機関車とその前を走る貨車の間の連結器を解放し、その直後に機関車は急ブレーキをかけます。これを「突放(つきはなし)」といいます。その名の通り、解放された連結器より先頭の貨車の一群は、慣性で走り続けます。そしてスイッチャーによって、所定の仕分線に入ります。

一方、この突き離された貨車には作業係(連結手)が添乗しており、彼は突放された貨車のブレーキを操作し、貨車を仕分線内の目的の位置に停止させます。

これを繰り返すことで、順番に貨車を仕分けしていくわけであり、多少の手間はかかりますが、単純な作業で仕分けができます。が、貨車の数が増えると手間が膨大になるため、比較的小規模な操車場に向いている方法です。

アメリカにはこうした中規模な平面ヤードが多数つくられましたが、大規模な操車場でも平面のものもあり、現在も使われています。

ヨーロッパでも比較的大規模な平面ヤード我を持っている国があり、これらはイタリア、スイス、ルーマニア、といった国々です。なお、南米のアルゼンチンではほとんどすべて平面ヤードであり、中には30以上の仕分線を持つものもあるといいます。

ついで、ハンプヤード。これは前述のとおり、人工の丘「ハンプ」を備え、ハンプから貨車を転がし落として仕分線まで動かす操車場です。機関車による突き放しが必要な平面ヤードと異なり、重力落下で転送させるため、より効率的に作業が行えます。

ハンプの造成も含め、大規模な操車場となりがちですが、その分、仕分の効率は最も高く、操車場によっては一日数千両におよぶ貨車を仕分けすることもできます。

到着線に入った列車は、まず貨車をそれまで引っ張ってきた機関車が切り離されます。その後、入換用の機関車が推進運転して2km/hという微速で貨車をハンプに押し上げます。

貨車がハンプ上のヤードに達すると、その編成は目的地別に切り離され、それぞれ機関車に押され、スイッチャーを使って、目的の仕分線までハンプの下り勾配を重力でもって滑り落ちていきます。

このように、ハンプの上で貨車を目的地別に仕分線まで切り離して、目的の仕分線に押しこむこの作業を「分解」と呼びます。こうして分解され、ハンプの上から下の平坦ヤードにある仕分線に落ちた貨車は、そこで機関車に連結され、それぞれの目的地へ向かう長い旅に出る、というわけです。

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夜明けの操車場(1942年)

と、このように言葉にすれば簡単ですが、この分解作業においては、仕分線に送り込まれるそれぞれの貨車が既に仕分け線に入って停止している貨車に激突したり、仕分線の先にある端までオーバーランしたりすることのないように細心の注意を払った制御が行われなければなりません。

かつて日本に操車場が存在していたころは、その安全連結速度は7km/h以下と厳密に規定されており、現在のアメリカにおいても同等の基準があります。日本やアメリカ合衆国の旧式な操車場においては、熟練した連結手が貨車に搭乗しており、手ブレーキや足ブレーキを操作することで、これらを微妙にコントロールしていたといいます。

その昔、ヨーロッパの操車場においては、鉄道員が「制動靴」なるものを履き、これで貨車にブレーキをかけていたそうですが、想像するにこれは、この靴の裏やかかとで直接レールを押さえ、制動をかけていたのでしょう。

ただし、最近のハンプヤード式の操車場には「カーリターダー」というものが備えられています。これは、ハンプから仕分線に向かう途中の軌道に設置されているもので、油圧または空気圧によって車輪の側面にシューを押し付けて貨車を減速させます。

自動車やバイクのディスクブレーキと同じシステムであり、空気圧で操作するものはアメリカ合衆国、フランス、ベルギー、ロシア、中国などの国で多く、油圧で操作するものはドイツ、イタリア、オランダなどだそうです。

初期のカーリターダーは、鉄道員が操作する弁によって調節されましたが、最新のカーリターダーは、コンピュータによって自動制御されます。

このコンピュータは、貨車と積荷の重量、貨車の進行方向投影面積、仕分線までの距離、風向、風速などの条件に応じて、貨車が仕分線まで転走するのに必要十分な初期速度を計算し、カーリターダーを制御できるといいます。

最後の重力ヤードですが、上述の通りこれはハンプヤードを設けるほどの場所がない、比較的土地が狭い場所に設けられます。ほとんどの重力ヤードはドイツとイギリスにあり、他のヨーロッパの国にも少数があります。アメリカ合衆国では重力ヤードは古いものがごく少数あるのみであり、現在使用されているものはないようです。

その仕分け方法はハンプヤードと同じですが、ハンプの勾配が急になるのと、その先の平坦地がないため、連結手にはより高い技量が必要になるとともに、カーリターダーにもより高い性能が期待されます。

重力ヤードの仕分け能力はハンプヤードと同等といえますが、その作業において、多くの人員が必要となるため経済性で劣る、といわれているようです。現在使用されている重力ヤードのうち最大のものはドイツのニュルンベルク貨物駅です。

さらに、平面ヤード、ハンプ、重力も含めた上で世界最大の操車場はアメリカ合衆国ネブラスカ州ノースプラットのベイリー操車場です。これはユニオン・パシフィック鉄道が有するハンプヤードです。その他のアメリカ合衆国の大規模な操車場もほとんどがハンプヤードのようです。

冒頭の写真は、おそらくはシカゴのClearing(クラーニング)操車場と思われ、これもハンプヤードです。何台もの機関車が蒸気を上げて居並ぶ貨車連を運ぶ際中の様子です。さらにこの写真の外側には、ハンプの周辺の坂があり、その先には目的とする仕分線があるはずです。

なかなか壮大な光景ですが、現在のように蒸気機関車そのものが姿を消している時代ではこうした光景はもう見ることはできません。

ヨーロッパ、ロシアおよび中国などでも、重要な操車場は、すべてハンプヤードです。ヨーロッパ最大のハンプヤードはドイツ、ハンブルク近郊のマッヘンであり、これはアメリカのベイリー操車場よりわずかに小さいのみです。

しかしながら、貨物輸送の鉄道から道路への移行や、鉄道貨物のコンテナ化により、ハンプヤードは減少傾向にあるようです。例えばイギリス、デンマーク、ノルウェー、日本およびオーストラリアでは、すでにすべてのハンプヤードが閉鎖されています。

SL--5サンタフェ鉄道の操車場、ロサンゼルス、カリフォルニア州

貨物輸送における操車場中継方式の欠点はその仕分け作業にかかる時間が不確定なことです。発駅と着駅が異なる貨車を操車場で仕分ける作業には時間がかかることも多く、操車場に入れることのできる貨車の数が許容量を越えれば、貨車を牽引した次の列車が操車場に入ることができません。

このため、発駅から着駅まで直行する列車と異なり到達時間が予測できにくく、これが操車場が減っている理由です。日本と同様な貨物輸送の条件下にある外国と比較した場合、操車場中継方式を続けている国では貨物輸送量は確実に下降線をたどっているそうです。操車場形式はもはや大量の貨物輸送には向いていない形式とみなされているわけです。

日本においてもかつて多数の操車場がそれも各地に存在しました。ただ、1872年(明治5年)に開業した当時の日本の鉄道では、官設鉄道と私鉄はそれぞれの線区でのみ貨車を運用しており、各鉄道間をまたいで貨車を分岐させる必要はありませんでした。

ところが、1907年(明治40年)に私鉄が国有化されたことを機に貨物輸送体系の見直しが行われ、官設鉄道から私鉄へ、またその逆のルートで貨車がやりとりされるようになったため、大正期までには各地に操車場が設置されるようになりました。

それまで駅構内の付属施設(仕分線)にて行われていた貨車の入換および貨物列車の組成作業を専門に行い、かつ広大な作業場を備えた操車場の建設が行われるようになり、稲沢操車場(愛知県)や吹田操車場(大阪府)、田端操車場・品川操車場(東京)などが造られましたが、これらはいずれもハンプ式でした。

その後、日中戦争や、太平洋戦争などにも軍事物資輸送のために貨物量が増大したため、多数の操車場が各地に造られ、戦後も、1970年代まではこうしたヤード継走式の貨物輸送が中心でした。

ところが、1960年代以降、日本国内でもモータリゼーションが進むとともに、高速フェリーの就航、さらには航空機の普及に伴い、特に貨物における鉄道輸送量は大きく減少していきました。

自動車に比べ小回りが利かず、駅で積荷の積替えを要すること、その上操車場での入換作業を要するがために到着までに時間がかかることや、いつ到着するかが極めて不明確であること、さらに度重なる運賃の値上げ、労組間の対立に伴い頻発するストライキによる信頼低下などがシェア低下の要因でした。

さらに1959年(昭和34年)からはコンテナ専用列車が定期的に走り始め、それまでは鉱山から工場、工場から港湾などに限られていた直行輸送がコンテナによってあらゆる貨物輸送の主流となることが明らかになると、操車場系輸送の落日は目に見えてきました。

JRの前身である旧国鉄は、コンテナ輸送の拡大と並んで、操車場の近代化・効率化も同時に推進し、コンピューターによる貨車仕分けの自動化や、無線操縦機関車、上述のカーリターダーなどの最新式の装置を導入しました。

しかしそれでも貨物輸送が減少し続け、国鉄全体の収支も悪化したため全国の操車場を近代化する計画は頓挫してしまいました。こうして1978年や1980年の国鉄ダイヤ改正では、大幅に貨物列車が削減され、そして1984年のダイヤ改正には、ついにヤード継走式輸送は全廃されました。

以後、国鉄そしてJRの貨物輸送はコンテナや企業の私有貨車による直行輸送のみとなり、今日に至っています。不要になったこれらの操車場の多くは、都市中心部もしくは都市近郊にあったため、その後はそれぞれの年の駅周辺再整備計画などによって商業施設や公園、はたまたスポーツ施設として活用されるようになっています。

各地にあったこうした操車場には、「貨物ターミナル駅」という名称の貨物専門の駅も存在しましたが、その一つに「広島貨物ターミナル駅」というのがありました。

これは、現在の広島駅の東側にあった、東広島操車場の名残であり、この操車場は1916年(大正5年)に開業しました。しかし、この操車場も貨物減少によってその必要性が問われ、1984年2月1日に機能停止、1995年に跡地に東広島駅の貨物設備が移転、広島貨物ターミナル駅となりました。しかし、現在では当駅への出入りはできず、運行時刻表にも当駅の欄はありません。

つまり、全貨物列車がここを通過するだけであり、この駅からは芸備線というローカル線が分岐していますが、現在はこの路線と山陽本線の単なる分岐、という扱いだけになっています。

そして今や有名無実となったこの駅の隣に広がる旧東広島操車場の跡地には「MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島」が建設され、2009年にオープンしました。日本プロ野球・セントラル・リーグの広島東洋カープの本拠地球場として、使用されている球場であり、その昔、これより西側の広島中心部にあった旧球場から移転してきたものです。

私もまだこの新球場に行ったことがありませんが、子供のころによく見た、この球場ができる前の広々とした操車場の跡地の様子だけは覚えており、今にして思えばあぁあれがかつては操車場というものだったのか、と少々の驚きを持って思い出したりしています。

今年はその広島に大リーグから戻ってきた大物選手も加わり、カープファンにとっては久々の優勝に向かって夢が膨らむ一年になりそうです。

無論、私もカープファンであり、応援したいと思います。みなさんもぜひ、このブログを見た機会にカープファンになってやってください。

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インディアナ港湾鉄道の操車場の夜明け

ユニオン・パシフィック鉄道M-10000形

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この車両は、ユニオン・パシフィック鉄道M-10000形列車といいます。

1862年に設立され、現在もアメリカ合衆国最大規模の鉄道会社であるユニオン・パシフィック鉄道へ1934年2月に導入された流線型気動車です。

ユニオン・パシフィック鉄道のライバル会社であった、シカゴ・バーリントン・クインシー鉄道に同じく1934年に納入され、一世を風靡した高速列車「パイオニア・ゼファー」と並び、アメリカ合衆国における最初期の流線型気動車特急の一つでした。

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パイオニア・ゼファー

連接台車を使用した3両編成の流線型列車で、先頭車両が動力車です。「シティ・オブ・サライナー」と命名され、米中央部に隣合う、ミズーリ州とカンザス州間(カンザスシティ~サライナ間)の特急サービスに利用されました。

軌間:1,435mm、全長62m、重量85tもある大型車両であり、機関には、ウィントンエンジン製191-A型 V型12気筒エンジンが積まれ、出力は600PS(馬力)ありました。

この600馬力というのは、この車両が導入されたのが1934年ということを考えるとかなり大きな動力です。

日本でも、昭和30年代から気動車は一気に活躍の場を広め、準急、急行、特急へと全国を駆け巡り、地方線区のスピードアップを実現しましたが、昭和35年(1960年)に試作されたキハ60は最高速度110km/hを誇ったものの、出力は400馬力にすぎませんでした。

これより後に開発されたキハ91系ですら500馬力程度でしたから、日本と比べて軌間が大きく車両が大型であるとはいえ、これより20年以上も前に、こうした高出力の高速列車があったことは驚きです。

気になる速度ですが、詳しいデータを探してみたものの見つかりません。ただ、この1934年当時、イリノイ州とウィスコンシン州の間を運航していた蒸気機関車が、毎時166.6km(毎時104マイル)の世界記録を樹立していることから、おそらくは速かったといっても150km/h程度が限度だったでしょう。

現在の新幹線などとは比べものにならない速度ですが、それでも、カンザスシティ~サライナ間約230kmをわずか一時間半で結べたわけであり、米中央部の中核都市であるミズーリ州カンザスシティに暮らす人々を、観光が主体で風光明媚なカンザス州に誘うためには大きな効果があったでしょう。

ちなみに、カンザスシティはミズーリ州側とカンザス州側の2つに分かれており、市名からカンザス州側がメインとなる都市であると思われがちですが、実際には人口が多いのも、超高層ビルが立ち並ぶダウンタウンが発展しているのもミズーリ州側です。そのため単に「カンザスシティ」と言った場合、ほとんどはミズーリ州側を指します。

その隣にあるカンザス州は一歩ここに足を踏み入れると広大な麦畑が広がっており、とくにサライナ周辺は世界有数の小麦の生産地帯です。

このため、昔からアメリカにおける田舎の代名詞になっており、「オズの魔法使い」でも主人公のドロシーの故郷となっており、ドロシーがカンザス出身ということで馬鹿にされる場面があります。ほかにも、スーパーマンが幼少期~青年期を過ごした「スモールビル」も、ここカンザス州にあるとされています。

冒頭の写真は白黒なので色がよくわりませんが、この車両の色は屋根とフロント部分にかけてがリーフブラウンで、写真でグレーに見える部分がそれです。フロントエアインテーク周りのエリアもこの色で塗られており、サイドには赤いラインで縁取られた黄色い塗装が施されていました。

この車両のサイドに黄色を主体に赤帯を巻く、という塗装はもともとM-10000のためにデザインされたものでしたが、ユニオン・パシフィック鉄道の他形式にも波及し、2014年現在も茶色部分を灰色に変更のうえで継続して使用されています。

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 当時の絵葉書

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 現代のユニオン・パシフィック鉄道の機関車

M-10000の開発はユニオン・パシフィック鉄道の「看板」としての意味もあり、米国全体で13000マイル(21000キロ)の展示ツアーを行いましたが、またワシントンD.C.まで運行され、ここでフランクリン・ルーズベルト大統領の試乗も実現させています。

このツアーでは、その美しい姿を見るために百万人もの見物客が押しよせたといい、1929年のウォール街で起こった大暴落を皮切りに始まった世界恐慌の中、アメリカ人に旅客列車によって旅をする、という夢を与えることに成功しました。結果としても旅客数の増加に貢献し、この厳しい時代にあってこうした長距離列車の近代化を助けました。

その後登場したパイオニアゼファーによってやや影が薄くなりましたが、これらの高速車両に触発され、他の会社も同様の高速気動車を開発するようになり、これから15年以内にほとんどの主要なアメリカの鉄道会社が同様のタイプの列車を持つようになりました。

その意味では、アメリカの高速旅客列車時代を創出した立役者といわれる地位にあるわけですが、その車体にジュラルミンが用いられていたことから、その後勃発した第二次世界大戦においては、これを金属供出することが求められ、1942年に解体されました。

製造したプルマン社も1編成のみ製造しただけで、ストックはなく、撮影された映像もあまり残されていないことから、冒頭の写真もまたかなり貴重なもののひとつといえます。

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M-10000後部

ちなみに、このプルマン社というのは、ジョージ・プルマンという実業家が1867年に設立し、19世紀中頃から20世紀半ばに掛けてアメリカ合衆国を中心に鉄道車両の製造と、寝台車の運行業務を行っていた会社です。

鉄道の客車は、当初は馬車用の客車から発達したもので、馬車時代の発想から抜け出しておらず、居住性は劣悪なものでした。これに対してジョージ・プルマンは、それまでの鉄道に無かった豪華絢爛たる車両を開発して世の中に送り出しました。

プルマンはまた、寝台車や食堂車なども設計・製造しましたが、それ以外にも列車の運行サービスをも業務とし、それまでの鉄道車両は鉄道会社が保有して自社で運行するものという常識を覆し、プルマン社から運行サービスを提供する、ということを始めました。

機関車を用意して鉄道会社に提供するだけでなく、客車と車掌、ポーター食堂車の給仕や調理人などもプルマンが用意するという方法でサービスを展開したわけですが、寝台車の需要は時期により変化があり、鉄道会社としては余剰の人員や車両を抱えるリスクを取らずに済んだことから、この方式は非常に喜ばれました。

やがて、その利点に気が付いた他者がこれに追随し、多くの同業者が生まれましたが、プルマンの運営方法は独特であり、他の追随を許しませんでした。

その一つがポーターです。ポーターとは、日本語では荷物運搬人、あるいは赤帽という名で親しまれている職業で、プルマン社ではポーターとして主にアフリカ系アメリカ人を雇いました。ポーターは単純労働ですがこの当時のアフリカ系アメリカ人にとっては高給な職であり、かつタダで旅行する機会に恵まれる、という点で人気がありました。

会社にとっては比較的安価な給料で雇うことができ、同じ人間ですから当然厳しい教育を課せれば良き客室乗務員になり得ます。

こうして次々と黒人ポーターを雇い入れたため、プルマンはこの当時、アメリカ合衆国でアフリカ系アメリカ人を雇用している最大の企業となり、このためアメリカの下部層から上層部に至るまでも絶大の信頼を受けるようになりました。それがゆえ、全てのプルマン社のポーターは、旅行者からは「ジョージ」と呼ばれていました。

黒人たちにも実際には本名があり、また呼び名も「ポーター」でもいいわけですが、会社の設立者であるジョージ・プルマンのファーストネームが彼等の呼称になったのは、それだけ彼の人気がアメリカ国内で高かったことを示しています。

プルマンはまた、ヨーロッパにも進出してこうした業務を拡大していきましたが、と同時に車両の製造も供給し続け、米国内におけるそのスタンダードを造りました。このため、プルマンが製造したような寝台車の形態のことを「プルマン客車」と呼ぶことさえあります。

戦前のアメリカやヨーロッパに急行列車による長距離旅行を定着させた立役者ともいえ、彼が創設したプルマン社のサービスと車両を代表する宣伝用デモンストレーション、M-10000とももに、長く歴史に名を留めていくでしょう。