ロッキー山脈の麓で ~コロラド

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写真は、オリジナルのデータをみると、コロラド州のシマロン川で撮影されたとなっています。

シマロンというのは、コロラド州の南側のニューメキシコ州の最北部あたりにある町で、ロッキー山脈のほぼ南端にあたる場所にあります。アメリカ人でも知らないような小さな町ですが、ちょうどこの町あたりを源流として北アメリカ大陸中央の大平原、グレートプレーンズへ向かって流れ落ちる川が、シマロン川です。

グーグルマップをみると、正確には「ドライ・シマロン川 ”Dry Chimarron River”」となっており、ニューメキシコ州からさらに東のオクラホマ州で他の河川と合流し、ここで初めて「シマロン川」と呼ばれる川になるようです。

また、冒頭の写真はコロラド州のシマロン川で撮影されたとされていますが、地図で確認したところこの川はコロラド州を流れていません。従って、もしコロラド州というのが正しければ、シマロン川というよりも、ニューメキシコ州とコロラド州の州堺のすぐ北にある、「トリニダード」の町付近で、この写真は撮影されたものと推定されます。

トリニダードトリニダードの位置

これはロッキー山脈を西に仰ぐ、人口9000人ほどのこちらも本当に小さな町です。こんな山深いところに、鉄道なんてあるのかな、といろいろ調べてみたところ、「デンバー・アンド・リオグランデ・ウェスタン鉄道」というのがあり、これは一般には単に「リオグランデ鉄道」と呼ばれているもののようです。

当初コロラド州デンバーから、その西側のユタ州ソルトレイクシティまで主に大陸横断鉄道の接続鉄道として建設されたものですが、このソルトレイクシティで」大陸横断鉄道に乗り換えればさらにカリフォルニア州のサンフランシスコまで行くことができます。

またデンバーからは、下の図にもあるようにコロラド州を南北に貫く支線も造られており、沿線の地域からデンバーへ石炭や鉱石類の輸送するのに使われていたようです。その南北線の最南端がトリニダードです。

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往時のリオグランデ鉄道の路線図(右端がデンバー~トリニダード間の南北線)

山合いにある高原地帯であり、写真が撮影された1940年頃もそうでしょうが、おそらくは現在も牧畜などがさかんな地域と思われます。詳しいデータがみつからないので規模のほどはよくわかりませんが、地元の農民たちはここで育てた羊や牛を昔からこうして列車に積み込んではデンバーまで運び売りさばいるのでしょう。

コロラド州の州都および人口最大都市は、ロッキー山脈の東側にあるこの「デンバー市」です。この州名はスペイン人探検家が名付けたコロラド川に因んでいます。「コロラド」という言葉は「赤みをおびた」を意味するスペイン語で、コロラド川が山岳部から運ぶ赤い沈泥を表しています。

面積では50州の中で第8位ですが、人口では第22位であり、それほど大きな産業がある州ではありません。1875年に州に昇格したあと、銀や金の鉱脈が見つかり、19世紀中ごろはこうした金銀の産出を中心とした鉱業がさかんでした。

19世紀後半、牧畜業もさかんとなり、その後は鉱物の掘削と加工、及び農業生産品を基礎に州経済が成り立っていました。20世紀後半になると、工業及びサービス業が大きく拡大しました。州全体の経済は多様化されるようになり、現在においては全米の中でも科学研究及びハイテク産業が同州に集中するなど、産業形態もかなり様変わりしています。

アメリカの中でも重要な金融センターにもなりつつあり、アメリカの大手テレビネットワークNBCのニュース専門放送局CNBCが作成した「2010年事業に適した州のリスト」では、コロラド州がテキサス州とバージニア州に次いで第3位にランクされています。

2006-07-14-Denver_Skyline_Midnight州都デンバーの夜景

連邦政府の機関も大きな経済推進力であり、コロラドス・プリングスにある北アメリカ航空宇宙防衛司令部、アメリカ空軍士官学校とピーターソン空軍基地をはじめとして、州内には多数の連邦政府機関があります。

ちなみに、筆者の先妻(11年前に逝去)の叔父は、このコロラドスプリグスにあるアメリカ空軍の関連施設に勤めるエンジニアであり、私も一度日本で会ったことがあります。奥さんが先妻の実の叔母さんにあたり、いわば遠い親戚でした。

一度コロラドへ遊びに来いよ、といわれ、私も行ってみたかったのですが、先妻の死後、その希望は未だ果たせていません。

アメリカ中部にあるため、アクセスしにくそうですが、アメリカ国道や州道のネットワークがあり、州内の大半を縦横に繋いでいて、カリフォルニアなどからの陸路でのアクセスは意外に容易です。またデンバー国際空港は世界でも5番目に利用されている空港であり、非軍事、商業便が大量にここから離発着しています。

とはいえ、これといった観光地はあまりなく、観光で行くとすれば強いていえば、ロッキー山脈などの雄大な自然でしょうか。コロラド州内には北アメリカの高峰30位までの山が全て入っているほか、4つの国立公園を初めとして、多数の国立保護区があります。

Mountains_of_Coloradoコロラドスプリングスの西のベルフォード山からグレートプレーンズ方面を望む

しかし、この広い土地もかつてはすべてここに住まうインディアン部族のものでした。同州には全米でも屈指の9つものインディアン部族が先住しており、彼等はティーピーと呼ばれる三角錐型のテントで移動生活をし、農耕を行わない狩猟民族でした。

ところが、19世紀の半ばよりアメリカ東部から西進してきた白人たちがここに入植するようになりました。当然、インディアンと白人の土地を巡る抗争が始まり、時代を経るにつれてその戦いは拡大の一途をたどっていきました。

結果、多くのインディアンが駆逐され、残った者たちは隣のワイオミング州の保留地などに強制移住させられました。全米では、45,000人のインディアンが虐殺され、また白人のほうにも19,000人の犠牲が出たという推定もあるようですが、このコロラド州で起こったインディアンとの抗争は一連の戦いの中でもかなり血なまぐさいものだったようです。

1864年には「サンドクリークの虐殺」と呼ばれる悪名高いインディアン虐殺がコロラドで起こっており、これはコロラド州南東部のシャイアン族とアラパホ族のティーピーのキャンプを土地の白人民兵が襲撃した際に起こった悲劇です。

およそ150名の男女、子供が殺され、白人兵士たちは男女の性器や頭の皮をすべからく剥いだといいます。また、この時期、コロラド州では白人の市民集会が開かれ、インディアンの頭の皮の買い取り資金として5000ドルの募金が集められていたそうです。

虐殺を指導したチビントン大佐という陸軍士官に率いられた騎兵隊は、殺したインディアンたちの男女の性器や頭の皮を剥ぎ取り、これを戦利品として軍帽に飾り、デンバーでパレードを行って見せたそうで、これ以後、同州に先住するインディアン部族はすべて他州へ強制移住させられました。

この虐殺における、チビントンの鬼畜ともいえるような行動はのちに痛烈に非難されましたが、一般的な南北戦争後の恩赦制度では、彼の刑事責任を問うことができませんでした。

が、軍からは強制辞職させられ、晩年は郷里のオハイオに戻り、農業をしたり地方紙の編集者に甘んじるなど身の不遇をかこちつつ、71歳で亡くなりました。

Chiving1虐殺を指揮したチビントン大佐

コロラドにおいては、現在ではこうして虐げられたインディアンも復権し、アメリカ連邦政府から保留地(Reservation)をもらって領有していますが、残ったインディアン部族はわずかの二つの支族のみになっているといいます。

かつて存在した多くの部族がアメリカ連邦政府によって「絶滅部族」として認定を打ち切られ、保留地を没収されており、部族として存在しないことになっており、現在、領土と自治権を求め、部族再認定を要求だといいますが、先行きは暗いようです。

このように少々暗い過去を持つコロラドですが、意外なことに日本及び日本人とはすくなからぬ縁がある州です。

ご存知のとおり、カリフォルニアにはその昔多数の日本人が移住し、ロサンゼルスやサンフランシスコに日系人のコロニーができましたが、1906年にはこの地で大地震が起き、このとき経済的地盤を失った日系人の一部がコロラド州に移住しています。

1910年には1,000人を超えた時期もあったといいます。しかしその後、1941年12月に真珠湾攻撃が起こり、第二次世界大戦が勃発するとその多くが強制収容所に入れられることになりました。

また、日本人や米国市民権を拒否され続けている永住者は無論のこと、アメリカの市民権を持つ日系アメリカ人などに対してもアメリカ人の恐れや嫌悪が広まったことから、他州からこうした日本人や日系人がコロラド州に移転してきました。

カリフォルニアなどの沿岸諸州では、日系人により港湾などの重要拠点を奪われると懸念し、これらの地に居住していた日本人および日系人を強制退去させましたが、このときコロラドなどの内陸の州に大量の日系アメリカ人たちが振り分けられました。

このとき、開戦時のコロラド州知事であったラルフ・ローレンス・カーは敵性外国人となったこれら日系人を擁護する側に立ちました。ラジオ放送で人々に沈着冷静に対処するよう呼びかけるともに、彼等のアメリカへの忠誠心を疑ってはならない、という主旨の演説まで行い、日系人を助けようとしました。

コロラド州では、プロワーズ郡グラナダに近い場所に「アマチ収容所」という収容所がつくられ、ここに日系人たちは押し込まれようとしましたが、その開設の約2ヶ月前にあたる6月頃に、カーは法務省宛てに反対意見を述べた書簡を送っています。

そこには、多数の日本人・日系人転入に対してコロラドの住宅・雇用・住民の保護に連邦政府の早急な対応が必要であること、一方で日系アメリカ人や合法でアメリカに入国した日本人もコロラドに住む権利を持ち安全を保障されるべきであることなどが、書かれていたといいます。

結局は日系人たちはアマチに強制移住させることになりましたが、終始日系人の強制収容所案には強く反対するとともに、世間の反日運動という風潮に逆らって、日本人と日系アメリカ人達を歓迎するようコロラド州民に呼びかけました。

さらに日系人たちのつらい立場を代弁し、州民に対して彼等に人道的親切や住む権利を与えることを求め、この戦争におけるコロラド州の役目が日系人10万人を受け入れることであるなら、コロラドは彼らの面倒を見る、とまで表明しました。

3000人の日本人と日系アメリカ人がアマチ収容所に到着したとき、地元の暴徒の群が脅しに現れましたが、カーは飛行機で現地に飛び、この暴力を止めています。また、この時カーの生涯で最も有名だといわれる、次のような演説を行っています。

「彼ら(日系人)に危害を与えるのなら、私に与えなさい。小さな町で育った私は、人種差別による恥辱や不名誉を知り、それを軽蔑するようになった。なぜならそのような行為は、幸せな生活を脅かすものだからだ。」

戦争が継続されている間も、カーは収容されている日系人たちに敬意を持って接し、彼らがアメリカ市民権を失わないよう支援を行ったといいます。

ralphcarr日本人及び日系人の恩人、ラルフ・ローレンス・カー

戦後においても、収容所生活からの日系人の早期解放を訴えた結果、彼等はようやく収容所から出ることができましたが、こうした一連の州知事の擁護は当然彼等も知っており、多くの日系人が彼に感謝の意を示しました。

その後、解放された日系人のうち、およそ5,000名がデンバーに移住し、日本人街が形成されることになりましたが、これはひとえにカー州知事の善意のたまものといえるでしょう。

ただ、1950年代に入ると、一部はカリフォルニアに戻ったり、新たな土地を求めて流出しコロラド州における日系人の数は2,500人ほどに減少しました。現在では、高齢化した日系人は農場を手放し、デンバーなど都会に戻り生活を送っているものもいるようです。

が、デンバーでは日本人街が再開発され、高齢者用のアパートが建築されたりもしています。また、デンバーで、西海岸やハワイ以外で日系新聞が発行されている唯一の町です。

「ロッキー時報」というのがそれで、公称1,200部を発行するだけの小さな新聞ですが、それでもアメリカの奥地で現在でもこうした日本語新聞が発行されているというのは驚きです。

さらに最近でコロラド州内ではあちこちに日系人向けの補習校や、日系大学のキャンパスも進出してきているとのことで、こうした日本とのつながりの深さから、多数の日本国内の都市とコロラドの町が姉妹都市の提携を結んでいます。

以下がそれらの姉妹都市です。あなたの町も含まれているのではないでしょうか。確認してみてください。

山形県 – コロラド州、1986年
北海道占冠村 – アスペン市、1991年
山形県山形市 – ボルダー市、1994年
山形県西川町 – フリスコ町、1990年
山形県河北町 – キャニオンシティ、1993年
茨城県守谷市 – グリーリー市、1993年
埼玉県東秩父村 – スターリング、1993年友好都市
山梨県富士吉田市 – コロラド・スプリングス市、1962年
長野県上田市 – ブルームフィールド市、2006年
岐阜県高山市 – デンバー市、1960年
福井県勝山市 – アスペン市、1994年友好都市
長野県茅野市 – ロングモント市、1990年