写真は、シコルスキーS-29Aという、双発複葉の大型旅客機です。
初フライトは、1924年。開発したのは、アメリカに亡命してきたウクライナ出身のロシア人、イゴール・シコルスキーでした。S-29のあとに“A“の文字が入っているのは、彼がアメリカに来て初めて開発した飛行機であり、その特別な思いから、「America(アメリカ)」の「A」をつけたといわれています。
航空業界の黎明期だったこの頃、最高16人の乗客乗れる流線形のこの飛行機はしかし、シコルスキーが期待したほどは顧客を引きつける魅力がなく、結局、わずか1機しか作られませんでした。その後アメリカ国内で煙草を巡回販売するために用いられたあと、映画会社に買われ、ある映画の撮影時のスタント飛行で墜落してその一生を終えました。
S-29A
この飛行機を作ったシコルスキーは、正確にはイーゴリ・イヴァーノヴィチ・シコールスキイといい、1889年5月25日にロシア帝国のキエフ(現ウクライナ)に生まれました。
父イヴァン・アレクセーエヴィチは心理学の教授、母マリーヤ・ステファーノヴナはロシア人とウクライナ人のハーフで医師でしたが、こうした父母の仕事には興味を示さず、少年時代から航空機に親しみ、模型飛行機の作成に熱中しました。
その飛行機好きが高じて、その後サンクトペテルブルクの海軍兵学校に入り、ここで航空機の研究をしたいと願い出ます。これが許され、軍はこの当時の航空機研究の最先端の地であったフランスに渡って研究を重ねるよう、彼に命じました。
フランス国内では、あちこちの研究機関を訪れて航空機に関する新知識を吸収しましたが、その学求の旅を終え、1909年のとき20歳でロシアに戻ったシコルスキーは、このフランス留学時代に始めて知った「ヘリコプター」の魅力に取りつかれていました。
帰国後早速その研究を始めましたが、思うように成果を出せず、しかしその過程では優れた航空機の開発技術を次々と生み出し、大きな成果をあげるようになります。
1913年には、世界初の4発機S-21 ルースキイ・ヴィーチャシを初飛行させることに成功し、続いて開発した4発旅客機S-22 イリヤー・ムーロメツは、世界初の量産型大型機となり、これはその後勃発した第一次世界大戦においては爆撃機として使用されました。
自身飛行家でもあったイーゴリは、こうした4発の大型機の開発をはじめ、多くの新型機を工業後進国であったロシア帝国で生産しましたが、そんななか1917年にはロシア革命が始まりました。
ロシア全土が争乱の渦に巻き込まれ中の1919年、学者であった父が亡くなると、これをきっかけとしてロシアを見限ることに決めたシコルスキーは、工場の技術者たちとともに母国を捨ててフランスに亡命します。
その後1922年に革命戦争が終り、ソビエト連邦が成立すると、ロシアへ帰ることはせず、そのままアメリカに渡りました。しかし、このとき妻のオリガは離婚し、娘たちとともに故国へ留まりました。しかしその翌年、この娘たちも父を追ってアメリカへ亡命してきました。
アメリカに渡った理由は、このころ既に航空機技術において世界最先端を走っていたアメリカにおいて近代的なヘリコプターの開発を行うためであり、こうして1923年、ニューヨークのロングアイランド渡った彼は、ここで「シコルスキー飛行機会社」を設立しました。
この会社を立ち上げて最初に製作した飛行機が、上述のS-29Aということになります。しかし、この飛行機は商業的には成功しなかったため、その後も研究を重ね、1928年には、水陸両用の飛行艇S-38を開発。この飛行機の性能は絶賛されてアメリカ各地で広く使われるようになり、文字通り出世作となり、彼とその会社の名を一躍有名にしました。
しかし、シコルスキーはまだヘリコプターの夢を捨てていませんでした。S-38の成功により、潤沢な資金を得るようになったことから、その開発に多額な金を投じ、1939年には、コネチカット州においてその試作機を完成させました。
これはシングルローターのヘリコプターで、VS-300と呼ばれるものでしたが、試作機をまだ自力で飛行させることに不安があったことから、飛行機にロープでつないだ状態で飛行させたのがその初飛行でした。
このフライトは成功裏に終わったことから更にチューニングを重ね、翌年の1940年5月13日にはついに、VS-300の自由飛行に初成功。
その二年後の1942年には、これをベースに量産型ヘリコプターVS-316A(開発名XR-4)を開発し、軍用ヘリとしては、はじめてアメリカ政府に納入されました。
その後も彼のヘリコプターへの情熱は衰えず、次々と名機といわれるものを開発していき、第二次世界大戦後には、S-51にはじまるシリーズがベストセラーとなり、ヘリコプターが世界各地に普及してゆくきっかけとなりました。
その後もシコルスキー社の開発、生産するヘリコプターは防衛・救難において重要な役割を果たしていき、現在でもアメリカ合衆国のみならず世界各国で広く運用されており、日本でも航空自衛隊が最初に救難ヘリとして採用しました。
これをきっかけとして、1961年(昭和36年)から1970年(昭和45年)まで三菱でS-62という機種を25機(うち民間7機)をライセンス生産するようになり、またこの機体は富士山頂レーダーのレドームを空輸したことなどでも注目を浴びました。
現在でも自衛隊や警察や消防などを中心に多数のシコルスキーが日本の空飛んでいますが、
イーゴリ・シコールスキイの設計したヘリコプターは非常に優れているといわれ、それは上昇性能の良さのほか航続距離や飛行速度といった点などですが、こうしたスペックは後に他社で開発されたヘリコプターの大部分でも模倣さました。
その後、シコルスキーはその後、同社の経営にも携わり、会社の健全化にも尽力しましたが、1972年にコネチカット州、イーストンの自宅で亡くなりました。83歳没。その亡骸は、同州の聖ヨハネ・バプテスマロシア正教会墓地に埋葬されています。
彼が育て上げたシコルスキー·エアクラフト社は、現在にまで世界有数のヘリコプターメーカーの一つとして継続し、その名はコネチカット州の名誉州民とされているほか、コネチカット州の「シコルスキーメモリアル空港」にその名をのこしています。また、1987年に彼は殿堂の全米発明協会の殿堂入りも果たしています。
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