リンカーン・パーク1905年 ~シカゴ

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リンカーン・パーク(Lincoln Park)は、アメリカ合衆国イリノイ州シカゴのミシガン湖に面した総面積4.9平方キロの公園です。

写真が撮影された1905年は、1893年にシカゴ万国博覧会が開催されて、12年後の年です。このころのシカゴは、国際的な地位を高めるとともに文化都市として脚光を浴び成功を収めたころであり、同博覧会の開催後は、オーケストラホール、図書館、博物館、公園などの文化施設の建設ラッシュとなっていました。

1882年から1905年にかけては、アメリカ全土で電力産業が乱立するようになり、公益事業の価格統制制度が導入され、低料金の電気が普及してきた時期でもあり、シカゴの人口は1900年に170万人に達し、ニューヨークに次ぐアメリカ第二の大都市になりました。

このリンカーン・パークは、1843年に設置されたシカゴ市営の墓地がその前身です。1859年までシカゴ地区唯一の墓地でしたが、1864年に、シカゴ市議会は現在と同じ範囲の全墓地を公園に変更することを決定しました。

ところが、その造成を始めようとした矢先の1872年10月8日、のちに「シカゴ大火(Great Chicago Fire)と呼ばれるほどの大火災が発生しました。出火原因は不明とされていますが、よく知られる伝説として、シカゴ市南西部の牛舎で、一家の主婦が牛の搾乳をしようとしていたところ、灯り取りのランタンが牛に蹴られて倒れ出火したという話があります。

しかし、これは当時の新聞、シカゴ・リパブリカン紙の記者による捏造であったことがわかっており、真の原因は不明です。ともあれ、この火災によって、鎮火した10月10日早朝までには2,000エーカー(約800ヘクタール)以上を焼き尽くし、このときその炎はこの市営墓地こと、リンカーン・パークにまで及びました。

この火災による死者は250人以上で、17,400以上の建造物が全焼し、被害額は当時にして約2億ドル、家を失った人は10万人に上ったといいます。被害拡大の理由としては、異常乾燥、強風のほか、消防機関の連絡ミスなどが重なったためと見られています。

19世紀を通してアメリカ史上最大の災害であり、多くの被害を出したと同時に、シカゴ市の再開発を進展させた契機として知られています。古い建物が軒並み焼け落ちたため、大規模な建築を可能とする広い空間が出来、また被災後、市は木造住宅を禁止し、煉瓦、石造、鉄製を推奨したため、多くの建築家の手により新たな街づくりが始まりました。

後に摩天楼といわれる高層建築物の建設が始まり、1885年には、鋼鉄製の鉄骨による荷重支持構造の骨組を初めて採用し、世界初の高層ビと呼ばれたホーム・インシュアランス・ビルが建設されました。

また1887年にはのちに「シカゴ派」と称されるようになる近代的な建築様式によって建てられたタマコビルディングが竣工、これ以降は、このシカゴ派を主体とする摩天楼設立ラッシュが巻き起こりました。

写真が撮影された1905年というのは、そうしたシカゴの上り調子に勢いがつきかけた頃であるといえます。また1901年にはテキサスで油田が発見されてガソリンの供給が安定したため、モータリゼーションが一気に加速した時代です。

さらに1908年発売されたT型フォードの流れ作業による大量生産方式は自動車の価格を引き下げを実現し、これによってアメリカはクルマ社会に変貌することで、経済にもカツが入り、文字通り時代が変わりました。

以後、そうした全米の好景気の流れにも乗ったシカゴは急成長を続け、と同時に流入人口も増え、ピーク時1950年には人口362万人にまで膨れ上がりました。

このリンカーン・パークはこの急成長の間も、忙しく働き続ける人々の休息の場となっていました。1872年の大火以降、暫時整備が進められ、南はノース・アベニューから、北はフォスター・アベニューを越え、ウエスト・ハリウッド・アベニューにあるレイクショア・ドライブの終点まで広がるおよそ8kmにもわたる公園緑地が形成されました。

シカゴ最大の公共公園であり、現在では、レクリエーション施設として15面の野球場、6面のバスケットボールコート、2面のソフトボール場、35面のテニスコート、163面のバレーボールコート、付属建物、および1つのゴルフコースがあります。

また、船舶施設を備えたハーバーやパブリックビーチもあり、手入れされた庭園、動物園、温室植物園、ペギー・ノートバート自然博物館等が所在し、夏季には湖上シアターで野外パフォーマンスが催されます。

park冒頭写真とほぼ同位置から撮影した現在のリンカーン・パーク(google map)

シカゴにはこうした公園が多く、とくにミシガン湖沿いにはこのほかにも、グラント・パーク、パーナム・パークといった、やはり南北に細長い湖岸公園が整備されています。またこのほかにも市域の他地域に非常にたくさんの公園があって、全体として想像していたよりもかなり緑豊かな印象があります。

無論、市街中心部は上述のような摩天楼が集中していますが、その中心部にあっても、ミシガン湖に面しているためか、都市全体からみるとニューヨークやロサンゼルスのような殺伐した感じはなく、うるおいに満ちているかんじがします。

まるで見てきたようだな、といわれそうですが、筆者はこの町を訪れたことがあります。フロリダでの語学留学から、一旦日本へ帰国する際に乗った大陸横断鉄道のアムトラックの停車駅のひとつがこの町であり、接続時間がほぼ1日あったため、主に町の中心部をじっくり見学しました。

シカゴは、「文化都市」の名に恥じないほど、摩天楼に象徴される美麗な建築のほか、数多くの美術館や博物館、公園が存在しますが、これらは富裕層が築いた文化といえます。一方では貧困層が築いた文化もあり、これはブルースやジャズ、ハウス・ミュージック、シカゴ文学(一種のプロレタリア文学)などの無形のものです。

ジャズの分野では、1920年代にはルイ・アームストロング等多くのミュージシャンが、活動の拠点をニューオーリンズからシカゴに移しました。さらには、アメリカ南部のミシシッピ川流域で発生したアコースティックなデルタ・ブルースにエレクトリック・ギターなどを導入したシカゴ・ブルースと呼ばれる音楽もあります。

一方で、1920年代以降に蔓延した、いわゆるマフィアやギャングが暗躍した町としても知られています。上述の文化都市としての側面は、いわゆる富裕層によって生み出された文化であり、この時代、肥大する経済発展とは裏腹に新たな社会問題も生まれ、それがこうした暗黒面を生み出しました。

その社会問題とは、いわゆる貧富の差の拡大であり、このため20世紀に入ると、シカゴではとくにウェストサイドでスラム化が進行しました。またかつて奴隷として、アメリカ建国時に農業などの労働を担っていたアフリカ系アメリカ人が、1914年から1950年にかけてアメリカ南部から次々に移入してきました。

彼らは法律上・表面的には奴隷の身分を解かれてシカゴにやって来たわけですが、人種差別などから低賃金重労働以外に就くことはほぼ不可能であり、新天地での生活も相変わらず苦しいものでした。このため暴動は日常茶飯事のものとなり、とりわけ1919年の暴動は過去最悪となりました。

更に腐敗政治の蔓延などで市街は無法地帯となり、その時多くの住人が市街地を去り、1927年の市長選挙でウィリアム・ヘイル・トンプソンが勝利すると、トンプソンはナイトクラブの常連となってギャングと癒着するようになり、こうした中でアル・カポネのような大物ギャングが裏社会を支配するようになりました。

1929年の世界恐慌の影響で、市の財政も大幅な赤字となり、同年には、「聖バレンタインデーの虐殺」と呼ばれる事件も発生しました。2月14日に起きたギャングの抗争事件であり、別名、聖バレンタインデーの悲劇、血のバレンタインとも呼ばれるものです。

事件はアル・カポネが指揮していたと言われ、カポネと抗争を繰り広げていたバッグズ・モラン一家のヒットマン6人及び通行人1人の計7人が殺害されました。この事件は犯人たちがパトカーを使い警官に扮していたこともあり、全米中のマスコミの注目を集めました。

この虐殺を契機に、トニー・アッカルドやサム・ジアンカーナ等、1940年代から1960年代の次世代を担うギャングが台頭するようになり、トンプソン政権は、1931年市長選で敗北するまで続きました。

しかし、こうした間にも町は発展を続き、建築ラッシュもあいかわらずでした。トリビューン・タワーやリグリー・ビル、戦後すぐのころには世界一の高さを誇っていたシアーズ・タワー(現ウィリス・タワー)などが建設され、今日見るような壮麗な摩天楼が立ち並ぶダウンタウンが形成されていきました。

一方では、その裏側で、あいかわらずギャングやマフィアが暗躍し、シカゴはアメリカ一危険な都市と目されるようにすらなっていました。

そこへ、新たに市長として登場したのが、民主党のリチャード・J・デイリーでした。1955年に市長に当選すると、デイリーは様々な有力者の支持を受け、市街地の再開発と治安の改善、賃金格差の是正などに努め、市政を建て直しはじめました。

また、上述のシアーズタワーの建設のほか、オヘア国際空港、マコーミックプレイス(大規模商取引施設)などの建設を牽引し、このほかにもイリノイ大学のキャンパス整備や数多くの高速道路や地下鉄の建設プロジェクトにも関与し、彼の市政の間には、のちにシカゴの主要なランドマークとされるものが多数建設されました。

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また、一時は全盛を誇ったマフィアも、1957年にアメリカ各都市の幹部がニューヨーク州アパラチンに集合した際、FBIによる大量検挙されたことを契機に、その犯罪歴が徹底的に暴かれるようになり、自身の内部抗争なども手伝って徐々に衰退していきました。

シカゴ市も同様にマフィア撲滅に乗り出した結果、徐々に彼等は駆逐されはじめ、またニューヨークやボストンなどが経済発展に陰りが見え始めた頃に、シカゴは比較的堅調な経済情勢を維持できました。こうした成果はすべてデイリー市長の善政のおかげだったといわれています。

しかし、1960年から始まったベトナム戦争を契機にアメリカ経済は全体として少しずつ後退し始めており、これを反映してシカゴの景気も徐々に減速していきました。

1950年代から徐々に人口が減りはじめ、1960年代半ばには人口は350万人を割り込みました。1970年代にはピーク時の7%以上も人口が少なくなり、このころにはシカゴだけでなく、アメリカ全体がインフレに悩まされていました。

1980年代、レーガノミックスによって減税と軍拡が行なわれた結果、財政赤字は膨張し経常赤字と併せて双子の赤字と呼ばれるようになり、アメリカ全体の経済不振による影響もあって、五大湖近辺では市街地老朽化と製造業衰退が進みました。

シカゴでは毎年のように人口流出が続き、人口ではついにロサンゼルスに追い抜かれ全米3位となりました。

しかし、1992年をピークに財政赤字は縮小し始め、1998年にはついに黒字化を達成しました。これは、民間投資を刺激し税制を改革した結果であり、これに伴いシカゴの経済も最近かなり盛り返してきました。

近年では、シカゴ近郊で半導体や電子機器、輸送機械などの産業が発展してきており、中心部も相変わらず全米における商業、金融、流通の中心地としての地位を保っており、ひところほどの元気はないにせよまだまだ、アメリカを代表する都市であり続けています。

2000年には人口もプラスに転じ、2012年、2013年とも人口は前年比よりも増えており、本格的な復活を印象付けています。再びここを訪れ、その元気さを確認したいところです。

しかし、どうせ行くならやはり風光明媚なところへ行ってみたいもの。シカゴ観光の目玉はやはりなんといっても、摩天楼そびえるモダンなダウンタウンであり、また24㎞もビーチが続くミシガン湖岸には、本日のテーマであるリンカーン・パークを初めとする美しい公園の数々があり、これらの公園内には歴史的な建造物も多数あります。

また、シカゴといえば、ニューヨークのメトロポリタン美術館、ボストン市にあるボストン美術館とともにアメリカの三大美術館の1つに数えられる、シカゴ美術館があり、レンブラントやゴーギャン、ゴッホといった有名画家の絵がほとんどかぶりつきで見ることができます。

筆者もここへ行きましたが、一日中いても飽きないほどでした。さらに、1998年には、グラント・パーク南部、ミシガン湖岸の約23万平米(57エーカー)の広さの緑地の中に、シカゴ有数の3つの自然博物館を有する文化施設、ミュージアム・キャンパスも完成しています。

近接した文化施設を徒歩で回れる景観地区として整備されており、緑地の中にジョギングコースや歩道が設けられ、施設のひとつである、アドラー・プラネタリウムが所在する小島、ノーサリー・アイランドと本土を繋ぐ道路沿いの遊歩道も美しいそうです。

すぐ近くにはシカゴ美術館のあるグランド・パークもあり、もし再度私がシカゴへ行く機会があればこの地域へ直行することでしょう。

ニューヨークやロサンゼルスの町とはまた違った魅力のあるこの町を、みなさんもぜひ一度は訪れてみてください。

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