ライトグライダー

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着陸直後のライトグライダー1901

世界初の動力式飛行機である、ライトフライヤー号が飛んだのは、1903年12月17日ですが、この有人動力飛行を目指したライト兄弟は、実はこれに先行して3機の「グライダー」を開発していました。

兄弟は動力機開発の前に、まずグライダーでの操縦系統と操縦方法の開発をしようとしており、予備試験機として凧も1機作りました。この「ライトグライダーシリーズ」の開発中に既存の航空力学の知見では不十分であることを悟り、風洞実験を開始しましたが、その実験結果が、生かされた結果がライトフライヤー号の成功にもつながりました。

兄弟が一番最初に製作したのは、翼長たったの1.5mの凧でした。パイロットを乗せるには小さすぎましたが、飛行制御に関する問題を解決する上で不可欠な「たわみ翼」のテストを行うには十分であり、このテストの結果は、グライダーの開発に役立つことになりました。

こうして、1900年に、最初の機体「1900グライダー」が完成します。その最初の飛行試験は、ノースカロライナ州キティホーク近郊のキルデビルヒルズの砂丘地で、1900年10月5日から18日にかけて行われました。

彼等の家は、内陸のオハイオ州デイトンにありましたが、壊れやすい飛行機を安全に着地させるためには、長い砂浜がある大西洋沿岸のこの地が最適と考えたためです。キルデルヒルズには大砂丘があり、ライト兄弟は気象観測のデータを参照してデイトン (オハイオ州)からはるばる遠路旅行してきて飛行実験を行うことにしたのでした。

しかしこのときの試験では、その時間の大半をグライダーとしてではなく凧としてテストを行い、万全を期しました。このため、グライダーの試験は数回しか行われませんでしたが、その結果、たわみ翼による機体の反応は良かったものの、事前に計算していた揚力は得られないことなどがわかりました。

このため、人を乗せて自由に滑空させることができたのは一日だけ、僅か十数回に過ぎなかったと伝えられており、彼らは最後の飛行が終わると着陸地点にそのまま機体を放棄してしました。兄弟は10月23日に当地を去り、放棄された機体の布地は協力者であったキティホークの郵便局長ビル・テイトの娘の服地となったといいます。

その翌年の1901年には二度目の試験が同じキティホークで行われました。前年に引き続き「1901グライダー」と名付けられたこの2番機は、1900グライダーに類似していましたが、翼は大きくなっていました。この年の7月27日に初飛行を行いましたが、見事それに成功します。

以後8月17日に至るまで、凧のテストも加え、50から100回にも及ぶ有人飛行が行われました。しかしこの機体には、パイロットの重さでリブが曲がり、翼型が変化してしまうという問題があり、兄弟は問題の修正を行いました。が、それでもまだ揚力は不足しており、たわみ翼はグライダーを意図した方向と逆の方向に向けてしまうことが何度もありました。

テスト終了後はキルデビルヒルズに自作した格納庫にこのグライダー1901を保管しましたが、後日建物が暴風によって深刻な被害を受けてしまいました。このとき主翼の支柱部分は1902グライダーに再利用できたものの、残りの部分は廃棄するしかありませんでした。

しかしライト兄弟はグライダーの飛行に執念を燃やし、翌1902年にも「1902グライダー」を飛ばしました。3番目の試験機であり、このグライダーでは初めてヨー・コントロール(左右の首振り運動の制御)を採用した機体で、この設計はそのままその後のライトフライヤー号に引き継がれることになります。

その機体の設計は、1901年の年末から1902年の年始にかけて、同じオハイオ州デイトンの自宅で行われましたが、ディテールの造作は自作の風洞を用いた詳細なテストデータを基にして行われました。多くの部品を自宅で自作し、1902年9月にキルデビルヒルズで組み立てが完了します。

そして、9月19日にテストが始まり、それから5週間の間に700回から1,000回の有人飛行テストが行われました。このときの飛行試験の詳細な記録は残されていませんが、テスト中の最長飛行距離は189.7m、飛行時間は26秒であったことがわかっています。

1903年、いよいよ動力飛行機であるライトフライヤー号を飛ばす時が来ます。兄弟はそのテストのためにキルデビルヒルズを再び訪れ、操縦技術を磨くためにまず、前年製作した1902グライダーを格納庫から出して飛行させました。

そしてそれに慣れると、ライトフライヤー号を飛ばしました。歴史的な初の動力飛行は1903年12月17日で、計4回の飛行を行い4回目の飛行では59秒間で260mの飛行をしました。が、その際着陸に失敗し前方の昇降舵が壊れ、その後停止中の機体が強風で転倒して大きく損傷しました。

一方の1902グライダーは、彼らがクリスマスで家に帰る際に再び格納庫に収納されました。その後兄弟は飛行をデイトンのハフマンプレーリーで行うようになったため、次に兄弟がキルデビルヒルズを訪れたのは1908年、改良されたライトフライヤー3号のテストの時でした。

しかし、格納庫は既に崩壊しており中にあったグライダーも破壊されていたといいます。1902グライダーはいくつかレプリカが作られており、1934年にはオーヴィル・ライトの協力を得てアメリカ陸軍航空隊が2機製造しています。このうち1機はライト兄弟メモリアルのビジターセンターに保存され、もう1機は事故により失われています。

また、1980年、熱心なファンの手で1902グライダーの飛行可能なレプリカが作られ、多くの映画やテレビドキュメンタリーに出演、1986年にはオムニマックスにも登場しました。また、ニューヨーク州エルミラのナショナル・ソアリング博物館にも1902と、後述する「1911グライダー」のレプリカが展示されています。

2015-1-飛行するライトグライダー1911

有人動力飛行機、ライトフライヤー号の初飛行成功のあと、ライト兄弟は、既に動力機として完成していた機体からエンジンを撤去してグライダー化をしました。

そして、1911年、弟のオーヴィルは友人のアレク・オグリビーを伴って、この新たなグライダーと共にキルデビルヒルズへやってきました。このグライダーには、昇降舵と言うよりもむしろ現代からの視点で言う所の「従来型の水平尾翼」が装備されていました。

また、パイロットも、旧型のグライダーのようにうつ伏せで架台に横たわるのではなく、座席に座って「手で」操作するスタイルとなっていました。

1911年10月24日、オーヴィルは合成風力65km/hでキルデビルヒル砂丘上空を9分45秒にわたって滑翔、1903年1月に1902グライダーで達成した1分12秒の記録を破ることに成功しグライダーの滞空時間世界記録を樹立しました。

現在、グライダーは実用機として空を飛ぶことはありませんが、エアー・スポーツとして世界中の愛好家に親しまれています。欧米では6月を中心にグライダー競技会が盛んに開かれており、200~1,000km程度の指定コースの平均速度を主に競います。

2年に1度の世界選手権には日本人も出場しているようですが、成績上位者は英仏独に多い。ようです。ドイツにはグライダーパイロットが数万人いるといいますが、本国内では定期的なグライダーの日本選手権は開催されていません。若い世代によるこれからのチャレンジが期待されています。

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議事堂前を飛行するオートジャイロ

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オートジャイロとは航空機の一種で、ジャイロコプター、あるいはジャイロプレーンとも呼ばれます。

上部に回転翼(ローター)を装備し、見た目はヘリコプターにも似ています。しかしヘリコプターは動力によってローターを直接回転させますが、オートジャイロの場合ローターは駆動されておらず、飛行時には機体の前などについているプロペラなどのほかの動力によって前進します。

ローターの役割は、機体を前に押し出すことではなく、このプロペラの前進によってローターに下側から揚力、つまり強い上向きの強い気流が生み出されます。ローターの一枚一枚には角度がついていて、この下側からの気流を受けることによってローターが回ります。このことによりさらに強い揚力が生み出されるため、機体が持ち上がります。

従って通常の飛行機では揚力を受けるための巨大な翼がありますが、オートジャイロには進行方向の制御を行うためのほんの小さな翼があるだけです。つまりは、飛行機の翼の役割を回転翼が担うわけです。

飛行に必要な揚力は上部にある回転翼によって生み出し、前進するための動力はプロペラが行います。ローターには動力はないので、ヘリコプターのようなホバリングは出来ず、無風状態では原理上垂直離陸はできません。ただし、プロペラとの併用により、固定翼機に比べればかなり短い距離での離着陸が可能です。

なお、ヘリコプターには、万一のエンジンの呼称の際に、電動でプロペラを回すオートローテーションという機能があり、エンジントラブルがあった場合には、この機能によって墜落することなく、無事地上に降りることができます。オートジャイロのローターの機能はこれと同じといえ、滑走距離ほぼゼロの実質的な垂直着陸は可能というわけです。

オートジャイロは、1923年にスペインのフアン・デ・ラ・シェルヴァという技術者により実用化されました。1923年1月17日に初飛行を成功させました。1930年代当時、世界各国で軍事利用が行われていたことは意外に知られていません。

アメリカ海軍では1931年(昭和6年)にピトケアンPCA-2というオートじジャイロを開発し、その改良型のXOP-1試作観測機を、世界で初めて空母ラングレーからで離発着させることに成功しています。これは史上初の艦載回転翼機ということになります。が、これは実用化は見送られています。製造費用などの面で問題があったのでしょう。

これより少し遅れてアメリカ陸軍とアメリカ海兵隊が、開発したのが、冒頭の写真のKD-1です。こちらは少量ですが生産ベースに乗り、シリーズ化されました。

このKD-1では、ローターの付け根には蝶番がとりつけられ、回転中の揚力の急な変化や揚力のムラを防ぎ、安定した飛行が実現されました。

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また、シェルヴァらが発明してすぐのころは補助翼、方向舵、昇降舵の三舵がとりつけられ、これにより機体の制御がされていましたが、KD-1以降は翼の回転面を左右に傾けることが可能になり、より旋回が容易になり、回転面の迎え角を増減させることによって上昇と降下も簡単にできるようになりました。

またKD-1ではありませんが、後に日本などによって改良された機種では、動力でローターを回す機構を備えている機体も出現し、この機種ではエンジンからローターへ動力を伝える機構にクラッチが追加されました。

離陸時に、クラッチを繋いでローターを回し、回転数が充分に上がった時点でクラッチを切れば、ローターに急激に揚力が発生し、機体がより簡単に空中に持ち上げられます。

同時に前進用プロペラの回転数を上げれば、そのまま水平飛行に移ることが出来るので、より垂直離陸機としての機能は増します。このオートジャイロ特有の離陸方式を跳躍離陸(ジャンプ・テイクオフ)と呼び、現代のオートジャイロの多くがこの機能を備えています。

操縦の感覚はヘリコプターよりも飛行機に似ているといわれますが、方式は上述のように根本的に違っています。また、翼がないので、飛行機のようなアクロバット飛行ができません。その代わりに、飛行姿勢がそれほど変化せず、安定して飛行できるというメリットがあります。

また、ローターの回転面すべてで姿勢を制御しているので、三舵で制御する飛行機より強力な旋回が可能です。ただし、上下を軸とした水平方向の回転、これをヨーイングといいますが、これを固定した方向舵で行っているので、これを尾部のローターで行っている、ヘリコプターのような、空中で停止しながらの方向転換(ホバリングターン)はできません。

上述のとおり、アメリカ海兵隊などが少数ながらケレット KD-1シリーズを採用しましたが、一方ではオートジャイロの発明者、シェルヴァはその後、イギリスでシェルヴァ社を設立し、多くの成功機を生み出しました。

さらに開発を進め、シェルヴァC.30という実用機を開発しました。スペイン海軍は、これを1934年に水上機母艦デダロに搭載しており、イギリス海軍も1935年には空母カレイジャスでのシエルバC.30の離発着に成功しています。のちにはイタリア海軍の重巡洋艦フィウメでの発着艦実験にも成功しています。

Cierva-Duxford

シェルヴァ社が開発してイギリス軍に納入したオートジャイロ

日本でもこうした潮流に乗り遅れまいと、1932年(昭和7年)イギリスからシェルヴァC.19が2機輸入され、内1機は海軍で研究用に、もう1機は朝日新聞社が購入しました。

翌1933年(昭和8年)には陸軍が学芸技術奨励寄付金でアメリカから、上述のKD-1の試験機である、ケレット K-3を2機(愛国第81号と第82号)購入しましたが、その後この海軍のC.19と陸軍のK-3は事故で失われました。

1939年(昭和14年)、陸軍航空本部はアメリカから、当時最新型のケレット KD-1A(KD-1の改良型)を1機購入しますが、これも1940年(昭和15年)に事故で中破しました。このように、日本は輸入したオートジャイロをことごとく落しており、おそらくこのころはまだ機体の制御がかなり困難な代物だったのでしょう。

ところが、ちょうどこのころ陸軍技術本部は、気球の替わりとなる弾着観測機の開発を模索しており、このオートジャイロに目をつけました。その背景には前年のノモンハン事件において、日本陸軍砲兵の揚げた弾着観測用係留気球がソ連軍戦闘機に撃墜され役目を果たせなかったという事由がありました。

このため、航空本部から破損したKD-1Aを譲り受け、萱場製作所という会社に修理を依頼しました。

この会社は、航空機用油圧緩衝脚(オレオ)や、航空母艦のカタパルトなどを製作していた会社でしたが、戦後70年を経た現在では、「カヤバ工業株式会社(KYB)」という大会社になっています。現在では航空機部品だけでなく、自動車部品•鉄道車両部品•建設機械部品•などのほか各種油圧システム製品を製造する世界的メーカーです。

萱場製作所の創業者、萱場資郎は、ジェット機時代の到来を予測し無尾翼ジェット機の試作に関心を寄せていました。この修理依頼は、ジェット機研究を初めた矢先のことであり、渡りに船とばかりこの依頼を受け、これを独自の国産技術として昇華させるべく、「萱場式オートジャイロ」の開発にとりかかります。

1941年(昭和16年)4月に修理の終わった試作機(KD-1A復元機、萱場式オートジャイロ原型一号機)は、同年5月26日に玉川飛行場にて初飛行しました。試験結果は良好で、同年5月、陸軍技術本部はこれを原型とした国産型2機(原型二号機と三号機)の製作を、萱場製作所(現KYB)と神戸製鋼所に依頼しました。

こうして、1943年(昭和18年)始めに国産初の初号機が完成します。国産型の胴体は萱場製作所製で、エンジンと駆動装置は神戸製鋼所製でした。無論、この完成した国産型も多摩川河畔での飛行試験で成功を収めました。

本機が離陸する際には、エンジンを始動し、クラッチを引きエンジンをローターに接続し、ローターをあらかじめ回転させる、という上述の機構が取り入れらました。回転数が毎分180回転に達したらローターのクラッチを切り、機首のプロペラで前進、ローターが自然回転により毎分220~240回転に達し、発生する揚力で自然に離陸できましした。

本機はまた動力でローターを駆動する機構を備えていましたが、ローターのピッチ(進行方向に対する上下動)の変更機能を持たなかったため、現代のオートジャイロのように、まったくの無滑走で離陸する跳躍離陸の機能は備えていません。

しかし、向かい風なら数mの滑走で離陸でき、無風状態でも30~50mほどで充分だったため、実用上は必要無かったと思われます。空中でエンジンを全開すれば、15度の仰角姿勢でほとんど空中で静止状態でいることができ(ホバリング)、その姿勢で空中でゆっくりではあるものの、360度方向転換することも可能でした。

操縦はローターの回転面を傾ける事で、揚力の分力により行われ、また着陸はほとんど滑走せずに行う事が可能でした。さらに上述のとおり、万が一エンジンが停止したとしてもオートローテーションで安全に着陸できるという機能も既に兼ねそろえていました。

Kayaba_ka-1萱場式 カ号

こうした優れた機能を持っていた国産型は、1942年(昭和17年)「カ号一型観測機(カ-1)」と名付けられて陸軍に正式採用されました。“カ号”の名前は、「萱場製作所」や「観測機」のカではなく、「回転翼」の頭文字をとったものです。

また、のちに“オ号”(オ-1、オ-2)とも呼ばれましたが、これはオートジャイロの頭文字に由来します。ソロモン群島要地奪回の作戦名である「カ号作戦」との混同を避けるため1944年以降に改称されたものです。本機のバリエーションは数種の改造試作型を含めこの「オ号」のオ-6まで存在します。

太平洋戦争へ突入する1942年12月には萱場製作所の仙台製造所において実用機の生産がはじまりました。1943年には60機、1944年(昭和19年)に毎月20機の量産が行われました。これらの多くは「カ号観測機」として実践投入され、陸軍の訓練における弾着観測や、海軍の対潜哨戒にも充てられました。

無論、日本で実戦配備されたものとしては唯一のオートジャイロです。試作機(原型一号機)はアメリカ製のジャコブスL-4MA-7 空冷星形7気筒エンジンを搭載していましたが、敵国のものを使うわけにはいかないため、実用機ではこれを国産型ではドイツ製のアルグス As 10C 空冷倒立V型8気筒エンジンを使用しました。

このエンジンは、のちに神戸製鋼所で国産化されましたが、しかしアルグスエンジンはトラブルが多く、このエンジンを使った機体の生産は約20機で打ち切られました。以後は試作機と同じジャコブスエンジンを神戸製鋼所で国産化したものを搭載し、この機体は「カ号二型観測機(カ-2)」と発展しました。

このころの機体構造は、胴体と垂直尾翼と方向舵は鋼管骨組でしたが、これに貼るのは金属ではなく、羽布張りでした。水平尾翼も木製のうえにこれも羽布張りで昇降舵はありませんでした。さらに機体前部に取り付けられるプロペラは木製固定ピッチ2翅でした。

ローターも鋼管桁に合板を貼ったものにすぎず、3枚のローターを有していましたが、これは後方に折りたたむことができました。こうしたペラペラな機体であったため、ほとんどが戦闘には投入されず、戦中に使われたものの多くは観測、探索用でした。

機体の生産は、上述の萱場製作所仙台工場で行われ、エンジンは神戸製鋼所大垣工場にて行われました。しかし戦争が進むにつれて物資が枯渇するようになり、エンジンやプロペラなど重要部品の供給の遅れから、生産は遅々として進みませんでした。このため、終戦までには生産予定を大きく下回る合計98機しか軍に納入されませんでした。

しかもその内、完成していた10数機は被爆によって破壊され、約30機はエンジンがついていない状態でした。このため、実質、実用となり空を飛ぶことが可能だったのは50機前後とされます。実戦配備されたのはその内の約30機で、そのうちの20機が対潜哨戒機としての使用でした。

使用された場所ですが、これは当初予定された中国大陸での弾着観測任務にはほとんど使用されず、その後の戦局の変化から、多くがフィリピンに送られました。実践に投入された対潜哨戒機などにもかろうじて攻撃能力を持たせるため、前席の観測員席を改造して胴体下に小さなドラム缶のような60 kg爆雷1発懸吊されました。

その重量分を観測員を降ろして確保し、後席の操縦士のみの単座機として運用されましたが、爆雷を積載していない時は通常の複座機として運用できました。この場合の使用目的は主に偵察、連絡任務でした。

1943年、陸軍はカ号を空母に艦載して対潜哨戒機として使うことを考えました。現在でいうところのヘリコプター空母に近いものです。母船としては、この目的のために従来船の飛行甲板の拡幅と航空艤装などが施された特殊舟艇も用意され、これは「あきつ丸」と「熊野丸」でした。

同年6月には、本格的な空母に生まれ変わった。あきつ丸においてカ号の発着艦実験が行われ成功しており、7月には、オートジャイロ搭乗員10名が選抜され、愛知県豊橋市郊外大清水村の、老津陸軍飛行場にて教育訓練を受けました。翌、1944年9月に第1期生が卒業しましたが、しかしカ号が艦載されることはありませんでした。

この役目は、このころちょうど開発された国産初の垂直離発着固定翼機(STOL)とも呼ばれる「三式指揮連絡機」にとって代わられました。カ号や現在のオスプレイのようなローターは持っていませんが、固定翼の後ろに巨大なフラップが取り付けられ、これにより離発着距離、離陸58m、着陸62mを実現しました。

風速5m程度の向かい風があれば30m前後での離着陸も可能であり、こちらが採用された理由は、カ号の生産が遅々として進まなかったことと、本格的な空母で運用するならば固定翼機のほうがオートジャイロより搭載量などの面で総合的な能力で勝ると判断されたためです。

Kokusai_Ki-76三式指揮連絡機

三式指揮連絡機は1944年8月から11月まであきつ丸に艦載され対潜哨戒任務に就きました。一方、老津陸軍飛行場で訓練を受けた第1期生と第2期生の計50名は、教育訓練終了と共に、同年10月、広島市宇品の陸軍船舶司令部本部内に「船舶飛行第2中隊」が編成され、ここに所属する兵士としてあきつ丸に配属されました。

これは日本初の回転翼機部隊でしたが、彼等を乗せてフィリピン方面に向かっていたあきつ丸は1944年11月に米軍の潜水艦攻撃により沈没しました。この時、ごく少数のカ号が「貨物として」積載されていましたが、あきつ丸とともに失われました。

また、この頃レイテ島が陥落し南方航路は事実上閉鎖され、南方航路での船団護衛任務自体が無くなった為、カ号は日本本土の陸上基地で運用されることになりました。

その後、残された船舶飛行第2中隊の面々は、福岡の雁ノ巣(がんのす)飛行場に移動し、壱岐水道などの索敵・哨戒・警護飛行の任務に就きました。1944年秋頃から壱岐に筒城浜(つつきはま)基地の建設が始められ、1944年末にほぼ完成。

草地を平坦にしただけの未舗装の滑走路は、長さ約200m足らず、幅約40mであり、屋根をシートや竹や藁などで擬装した、半地下壕式格納庫が十数ヶ所構築されたこの基地に、
船舶飛行第2中隊がやってきました。1945年(昭和20年)1月始め頃のことで、搭乗員と整備兵、合わせて約200名、雁ノ巣飛行場から移動してきました。

運用されるカ号は約20機であり、すぐに壱岐水道の索敵・哨戒・護衛飛行が開始されました。5月からは対馬の厳原(いづはら)飛行場にも分遣され、最後に残された大陸とのシーレーンである博多~釜山間での対潜哨戒や船団直衛任務に従事しました。

しかしこのころから、米艦載機が頻繁に出現するようになったため、6月に能登半島方面に移動し、石川県の七尾(ななお)基地でこれまでと同様に索敵などの任務を行いました。しかし、8月15日にここで終戦を迎えます。

本来の目的であるシーレーン防衛の任務はきわめて小規模ながら一応果たしましたが、結局、潜水艦撃沈などの当初目標としたような具体的な戦果を上げることはできませんでした。

日本を破り勝利したアメリカでは、ちょうどこのころシコルスキー R-4やR-6などのヘリコプターが実用化・大量生産されるようになっていました。沿岸警備隊や陸軍が対潜哨戒や輸送任務に艦載して使用されるなど既に実用化されており、カ号のような古い時代のオートジャイロの時代は終焉の時を迎えました。

日本でカ号を生産した萱場製作所の手本となった、イギリスのシェルバ社やアヴロ社、アメリカのケレット社などでもその後オートジャイロの開発が続けられましたが、市場は収束の方向に向かい、やがてこれらの会社もヘリコプターなどの生産に移っていきました。

一時は軍用や商業用にまで使用されていオートジャイロは現在ではほとんどがヘリコプターに取って代わられてしまい、オートジャイロといえば、スポーツ用のものがほとんどとなっています。

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007の映画で使用されたスポーツ用オートジャイロ

リンク・フライト・トレーナー

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写真のフライトシュミレーターには、正式名称があり、これは「リンク・フライト・トレーナー(Link Flight Trainer)」とよばれます。

また、開発されたのちに青色で塗装された物が多かったことから、「ブルーボックス(Blue box)」と呼ばれることもあり、「パイロットトレーナー(Pilot Trainer)」としても知られています。

エドウィン・リンクという人が開発したもので、リンクは、ニューヨーク州 ビンガムトンで営んでいた家業に従事しているあいだにその開発を思い立ち、1929年にリンクトレーナーの基となる技術を完成させました。

エドウィン・リンクは1904年にインディアナ州に生まれました。16歳のとき飛行免許を受け、21歳のときに最初に取得したセスナによって、新聞などの配信事業を始め、飛行機によって生活を営むようになりました。

その後、彼の父が経営していた自動ピアノやオルガンなどの製造工場の装置を利用して、シミュレーターの開発を始め、最初のパイロットトレーナーを完成させました。これは、外観上は短い木製の主翼とユニバーサルジョイント上に載った胴体を持つ、まるでおもちゃのような飛行機でした。

しかし、オルガン用フイゴが電気ポンプで駆動され、パイロットが操縦桿を動かす通りにトレーナーのピッチとロールの姿勢を制御するという、かなり凝ったものであり、実際に飛行機を飛ばしているときの動きを再現でき、まるで本物のコックピットにいて飛行機をコントロールしているような感覚を養うことができました。

この装置の完成に気をよくした彼は、このトレーナーを増産するため、1929年に「リンク航空会社」を設立。その販売ターゲットとして軍を想定しました。このころ、アメリカ陸軍航空隊は、航空便による郵便配達事業である、「U.S.エアメール」の事業を引き継いでいましたが、その事業の継続で多数のパイロットを失っていました。

しかし、その事実を秘匿していたことから、これは、後世に「エアメール・スキャンダル」と呼ばれるようになりました。計器飛行方式に習熟していないことが原因でわずか78日間で12名のパイロットが死亡した、と言われており、この事実がメディアに漏れて大騒ぎになってきたことから、ようやく陸軍航空隊は問題解決に乗り出しました。

Edwin_Linkエドウィン・リンク(77歳没)

そこにちょうど現れたのがリンクであり、陸軍は彼の会社にパイロットトレーナーの導入を含む多種の問題解決手法の検討を依頼します。

こうして、彼も含めた評価チームは調査を開始し、何度も会合を重ねるようになりましたが、あるとき、評価チームの面々が飛行不能と判定するような濃い霧の立ち込める気象条件下に、リンクが自分のセスナに乗って会合に出席したことに一同は驚きます。

早速彼を問いただしたところ、彼自身が開発したトレーナーにより計器飛行訓練をしていたことがわかり、その潜在能力を目の当たりに突きつけられることになります。この結果、陸軍航空隊は最初のパイロットトレーナーを$3,500で6基発注しました。

1934年以降、こうしてリンク社から納入された数機種のリンクトレーナーが陸軍航空隊の中に増えていきます。これらのトレーナーはその時代時代で増加する航空機の計器類や飛行特性に応じて改良が加えられていきましたが、基本的には最初の製品で開発された電気と油圧系統などの構造は踏襲されていきました。

1940年代初めまでに製造されたトレーナーは胴体を明るい青色をしており、主翼と尾翼を黄色に塗装されていました。これが冒頭で述べたようにこのトレーナーがブルーボックスと呼ばれる理由です。冒頭の写真は白黒のために青色かどうかはよくわかりませんが、おそらくはブルーだと思われます。

その後突入することになる太平洋戦争におけるパイロットを養成するため、リンクのトレーナーはその後も量産が続けられました。

パイロットの操作するラダーペダルと操縦桿の動きに応じて実際に主翼と尾翼は動翼部が動く形式でしたが、大戦中期から後期にかけてはより大量のトレーナーが必要となり、生産時間短縮のためにこの主翼と尾翼は取り付けられなくなるほどでした。

最も多数生産されたのは、ANT-18というパイロットトレーナーで、これもリンクが1929年に最初に製品したものの発展版でした。その後も計器盤に幾らか改造を施されましたが、基本形は変わらず、その後アメリカ軍だけでなく、カナダ空軍とイギリス空軍向けのトレーナーも主にカナダ国内で生産されました。

これらは第二次世界大戦前と中に数多くの国々でパイロット訓練に使用され、特にイギリス連邦航空訓練計画において多用されました。

ANT-18は全3軸の回転機構を有し、全ての飛行計器を効果的に再現していました。失速 兆候の振動、引き込み式降着装置の速度超過、スピンといったものの条件を作り出せ、取り外し可能な不透明のキャノピーを取り付けることができ、これを使用することにより盲目飛行の状態を再現し、特に計器飛行と航法の訓練に有用でした。

Edlink_pt1930リンクが開発したトレーナーの設計図(1930年)

こうしてリンク社は急速に成長し、二次大戦に参戦したほぼ全ての国がパイロッの操縦訓練の補助器具としてこの装置を使用し、数万名の未熟なパイロット達に「ブルーボックス」の名は轟くようになりました。しかし、実際には他の国々で用いられたANT-18は別の色で塗装されていたようです。

アメリカでは50万人以上のパイロットがリンクトレーナーで訓練を受けたとされ、オーストラリア、カナダ、イギリス、イスラエルなどの連合国だけでなく、ドイツや、日本でも使用されました。しかしアメリカ製であったため、旧日本軍において「地上演習機」と呼称され、日本海軍予科練では「ハトポッポ」とも呼ばれていました。

さらに、戦後はパキスタン、ソビエト連邦といった数多くの国のパイロット訓練にも使用されました。あらゆる飛行学校の標準装備品となりましたが、太平洋戦争中だけに限れば、その期間中に1万基以上のブルーボックスが製造され、これは換算すると45分に1台のもの数が生産されたことになります。

その後、このフライトトレーナーは正式に「リンク・フライト・トレーナー」と呼称されるところとなり、リンクの名は、アメリカ機械工学会により「歴史的機械技術遺産」(A Historic Mechanical Engineering Landmark)に残されるところとなりました。

現在でも、数多くのANT-18リンクトレーナーが世界中に残っており、米国とオーストラリアには特に多数が現存しています。

リンク社も健在で、この会社は、現在命令・指揮・通信・諜報活動・監視偵察(C3ISR)システムと装置、アビオニクス、海洋機器、訓練装置、航法装置を供給するアメリカの総合企業、「L-3 コミュニケーションズ社」の一部となり、現在では、宇宙船用のシミュレータを造り続けているということです。

OLYMPUS DIGITAL CAMERA現存するANT-18

トニー・ジャナスと旅客便黎明期

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米国フロリダ州の西海岸、セント・ピーターズバーグ国際空港の入口銘板に「定期航空便の発祥地」という表示がなされています

これは、同じくフロリダ州西海岸にある、タンパ港とセント・ピーターズバーグ間の35kmを22分で結ぶ航空路が1914年に開かれたことを記念して設置されたものです。

この航空路は、1日2便で週6日間の定期運航路でしたが、用いられた機材は飛行艇でした。「ベノイスト14」という飛行艇で、これはさながらモーターボートに翼とプロペラ推進器を取り付けたような構造をしているので通称は、「エア・ボート」と呼ばれました。

セントルイスにあったベノイスト社という会社の工場で製作された飛行機で、トウヒマツと羽布、そして針金で構成され、複葉でエンジンを胴体の中に装備しており、胴体の上にある推進式プロペラをチェーンで駆動する方式でした。

開発者は社主のトーマス・ベノイスト(Thomas W. Benoist)という人で、そして開かれたこの定期航路もこのベイノスタ社が運航しました。

定期旅客便の最初の3か月間は順調で、50日間の定期飛行日程のうち7日間が悪天候と機体整備のために運航を中止にしましたが、この間、172便を定期運航し旅客1205人を運ぶ実績を残しました。

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「旅客便」といいながら、ベノイスト14飛行艇は、操縦士1人のほか、横に乗客1人を乗せて飛行するだけのものでした。また搭乗できる人の体重も200lbが限度とされ、キロ換算するとこれは90.7kgになります。運賃は1人5ドルでしたが、体重や手荷物が200lbを越えた場合には100lbごとにさらに5ドルの追加料金を徴収していたといいます。

また、この飛行艇は離水すると高度5フィート(1.5m)から20フィート(6.1m)と、水面すれすれを飛行するので、エンジン・オイルと水飛沫を避けるためのゴグルと寒さを凌ぐためのマフラーが乗員と乗客には必需品でした。

1914年当時のフロリダ沿岸域では、上記航空路刊を蒸気船で航行すると21時間程度もかかっており、汽車を利用しても12時間もかかりました。

さらに、このころまだ実用化されてまもない未完成な自動車の場合には、乗り心地の悪いソリッド・タイヤで未舗装の道を走らなければならず、このため飛行機による移動経路のショート・カットは大変魅力的な旅行手段でした。

このため、この人を運ぶ定期運航便もおおむね好評を博したほか、新聞輸送、切り花の空輸、食料品の輸送などを行うために100件ほどのチャータ便が運用され、さらに遊覧飛行が2機のベノイスト14飛行艇によって行なわれました。

セント・ピーターズバーグ市もこの定期便の就航に好意を寄せており、ベノイスト社が1日2便で週6日間の定期運航を3か月続けたら、現金2400ドルの補助金を支出する契約をしていたといいます。

定期航空便の運航は1914年1月1日から開始され、市との補助金契約が終了した3月31日以降も5週間にわたり運行が続けられましたが、乗客の減少により5月5日の定期便が最後となってしまいました。しかし、安全第一で営業したため,定期運航中に乗客に怪我や死亡につながるといった事故は一切ありませんでした。

この定期航空路において最初の飛行が行われた際、飛行士となったのが、冒頭の写真にある「トニー・ジャナス」です。

アメリカ航空機史上初期の数少ないパイロットのひとりであり、主に第一次世界大戦までの黎明期に活躍しました。彼は1912年に、世界で初めてのパラシュートジャンプが行われた際の飛行パイロットしても知られるとともに、上記のようなアメリカ初の定期航空路を開拓したパイロットして高名です。

のちに創設された、「トニー・ジャナス賞」は、彼の功績を永遠に伝えるためのものであり、その後開拓された民間航空による定期航空路などで、優れた個人成果をあげたパイロットに、アメリカ産業界が毎年授与しているものです。

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ジャナスはその後、ベノイスト社を辞めて、飛行機メーカーのカーチス社のテストパイロットに就任しました。同社でも飛行艇を中心にして飛行機を生産していましたが、名機といわれるその多くの飛行機のテストパイロットを勤めるなど活躍しました。

その後、この当時の帝政ロシアの政府から、飛行機開発のためにカーチス社への協力が求められたことから、その開発とかの国におけるパイロットの養成のために、彼がロシアへ派遣されることになりました。

ロシアでは、主にカーチスH-7という機体を使い、黒海に面したセヴァストポリ近郊を中心に、ロシア軍のパイロットを養成するため、彼等に訓練を施していました。ところが、1916年に10月12日、彼が搭乗していたH-7ha、エンジンに問題を抱えていらしく、その日の訓練の際、海に墜落し、彼は彼とともに搭乗していた若い訓練生とともに死亡しました。享年27歳。その後彼の遺体は発見されていません。

ベノアモデル14は高性能の機体でしたが、長い年月を経て、その後、すべて失われていました。が、近年、残っていた部品などからレプリカが作成され、上述のタンパ・セントピーターズバーグ間の定期航路が開設されてから75周年を迎えた1989年に、再びタンパベイを飛びました。

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テスト飛行に挑むトニー・ジャナス

シコルスキー~ヘリコプターのパイオニア

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写真は、シコルスキーS-29Aという、双発複葉の大型旅客機です。

初フライトは、1924年。開発したのは、アメリカに亡命してきたウクライナ出身のロシア人、イゴール・シコルスキーでした。S-29のあとに“A“の文字が入っているのは、彼がアメリカに来て初めて開発した飛行機であり、その特別な思いから、「America(アメリカ)」の「A」をつけたといわれています。

航空業界の黎明期だったこの頃、最高16人の乗客乗れる流線形のこの飛行機はしかし、シコルスキーが期待したほどは顧客を引きつける魅力がなく、結局、わずか1機しか作られませんでした。その後アメリカ国内で煙草を巡回販売するために用いられたあと、映画会社に買われ、ある映画の撮影時のスタント飛行で墜落してその一生を終えました。

S29A

S-29A

この飛行機を作ったシコルスキーは、正確にはイーゴリ・イヴァーノヴィチ・シコールスキイといい、1889年5月25日にロシア帝国のキエフ(現ウクライナ)に生まれました。

父イヴァン・アレクセーエヴィチは心理学の教授、母マリーヤ・ステファーノヴナはロシア人とウクライナ人のハーフで医師でしたが、こうした父母の仕事には興味を示さず、少年時代から航空機に親しみ、模型飛行機の作成に熱中しました。

その飛行機好きが高じて、その後サンクトペテルブルクの海軍兵学校に入り、ここで航空機の研究をしたいと願い出ます。これが許され、軍はこの当時の航空機研究の最先端の地であったフランスに渡って研究を重ねるよう、彼に命じました。

フランス国内では、あちこちの研究機関を訪れて航空機に関する新知識を吸収しましたが、その学求の旅を終え、1909年のとき20歳でロシアに戻ったシコルスキーは、このフランス留学時代に始めて知った「ヘリコプター」の魅力に取りつかれていました。

帰国後早速その研究を始めましたが、思うように成果を出せず、しかしその過程では優れた航空機の開発技術を次々と生み出し、大きな成果をあげるようになります。

1913年には、世界初の4発機S-21 ルースキイ・ヴィーチャシを初飛行させることに成功し、続いて開発した4発旅客機S-22 イリヤー・ムーロメツは、世界初の量産型大型機となり、これはその後勃発した第一次世界大戦においては爆撃機として使用されました。

Sikorsky_Russky_Vityaz_(Le_Grand)ルースキイ・ヴィーチャシ
Самолет_-Илья_Муромец-イリヤー・ムーロメツ

自身飛行家でもあったイーゴリは、こうした4発の大型機の開発をはじめ、多くの新型機を工業後進国であったロシア帝国で生産しましたが、そんななか1917年にはロシア革命が始まりました。

ロシア全土が争乱の渦に巻き込まれ中の1919年、学者であった父が亡くなると、これをきっかけとしてロシアを見限ることに決めたシコルスキーは、工場の技術者たちとともに母国を捨ててフランスに亡命します。

その後1922年に革命戦争が終り、ソビエト連邦が成立すると、ロシアへ帰ることはせず、そのままアメリカに渡りました。しかし、このとき妻のオリガは離婚し、娘たちとともに故国へ留まりました。しかしその翌年、この娘たちも父を追ってアメリカへ亡命してきました。

アメリカに渡った理由は、このころ既に航空機技術において世界最先端を走っていたアメリカにおいて近代的なヘリコプターの開発を行うためであり、こうして1923年、ニューヨークのロングアイランド渡った彼は、ここで「シコルスキー飛行機会社」を設立しました。

この会社を立ち上げて最初に製作した飛行機が、上述のS-29Aということになります。しかし、この飛行機は商業的には成功しなかったため、その後も研究を重ね、1928年には、水陸両用の飛行艇S-38を開発。この飛行機の性能は絶賛されてアメリカ各地で広く使われるようになり、文字通り出世作となり、彼とその会社の名を一躍有名にしました。

00036992 SDASM S-38

しかし、シコルスキーはまだヘリコプターの夢を捨てていませんでした。S-38の成功により、潤沢な資金を得るようになったことから、その開発に多額な金を投じ、1939年には、コネチカット州においてその試作機を完成させました。

これはシングルローターのヘリコプターで、VS-300と呼ばれるものでしたが、試作機をまだ自力で飛行させることに不安があったことから、飛行機にロープでつないだ状態で飛行させたのがその初飛行でした。

Sikorsky_vs-300 VS-300

このフライトは成功裏に終わったことから更にチューニングを重ね、翌年の1940年5月13日にはついに、VS-300の自由飛行に初成功。

その二年後の1942年には、これをベースに量産型ヘリコプターVS-316A(開発名XR-4)を開発し、軍用ヘリとしては、はじめてアメリカ政府に納入されました。

316aVS-316A

その後も彼のヘリコプターへの情熱は衰えず、次々と名機といわれるものを開発していき、第二次世界大戦後には、S-51にはじまるシリーズがベストセラーとなり、ヘリコプターが世界各地に普及してゆくきっかけとなりました。

s-51-1S-51

その後もシコルスキー社の開発、生産するヘリコプターは防衛・救難において重要な役割を果たしていき、現在でもアメリカ合衆国のみならず世界各国で広く運用されており、日本でも航空自衛隊が最初に救難ヘリとして採用しました。

これをきっかけとして、1961年(昭和36年)から1970年(昭和45年)まで三菱でS-62という機種を25機(うち民間7機)をライセンス生産するようになり、またこの機体は富士山頂レーダーのレドームを空輸したことなどでも注目を浴びました。

HH-52A_PortAngelesWA_NAN6-79S-62

JASDF_S-62J(53-4775)_in_Komaki_Base_20140223航空自衛隊が使っていたS-62

現在でも自衛隊や警察や消防などを中心に多数のシコルスキーが日本の空飛んでいますが、
イーゴリ・シコールスキイの設計したヘリコプターは非常に優れているといわれ、それは上昇性能の良さのほか航続距離や飛行速度といった点などですが、こうしたスペックは後に他社で開発されたヘリコプターの大部分でも模倣さました。

その後、シコルスキーはその後、同社の経営にも携わり、会社の健全化にも尽力しましたが、1972年にコネチカット州、イーストンの自宅で亡くなりました。83歳没。その亡骸は、同州の聖ヨハネ・バプテスマロシア正教会墓地に埋葬されています。

彼が育て上げたシコルスキー·エアクラフト社は、現在にまで世界有数のヘリコプターメーカーの一つとして継続し、その名はコネチカット州の名誉州民とされているほか、コネチカット州の「シコルスキーメモリアル空港」にその名をのこしています。また、1987年に彼は殿堂の全米発明協会の殿堂入りも果たしています。

CHC_Helicopter_Scotia_Sikorsky_S-92A

最新型のシコルスキーS-92 日本も共同開発に参画