トニー・ジャナスと旅客便黎明期

PL-12

米国フロリダ州の西海岸、セント・ピーターズバーグ国際空港の入口銘板に「定期航空便の発祥地」という表示がなされています

これは、同じくフロリダ州西海岸にある、タンパ港とセント・ピーターズバーグ間の35kmを22分で結ぶ航空路が1914年に開かれたことを記念して設置されたものです。

この航空路は、1日2便で週6日間の定期運航路でしたが、用いられた機材は飛行艇でした。「ベノイスト14」という飛行艇で、これはさながらモーターボートに翼とプロペラ推進器を取り付けたような構造をしているので通称は、「エア・ボート」と呼ばれました。

セントルイスにあったベノイスト社という会社の工場で製作された飛行機で、トウヒマツと羽布、そして針金で構成され、複葉でエンジンを胴体の中に装備しており、胴体の上にある推進式プロペラをチェーンで駆動する方式でした。

開発者は社主のトーマス・ベノイスト(Thomas W. Benoist)という人で、そして開かれたこの定期航路もこのベイノスタ社が運航しました。

定期旅客便の最初の3か月間は順調で、50日間の定期飛行日程のうち7日間が悪天候と機体整備のために運航を中止にしましたが、この間、172便を定期運航し旅客1205人を運ぶ実績を残しました。

img_1

「旅客便」といいながら、ベノイスト14飛行艇は、操縦士1人のほか、横に乗客1人を乗せて飛行するだけのものでした。また搭乗できる人の体重も200lbが限度とされ、キロ換算するとこれは90.7kgになります。運賃は1人5ドルでしたが、体重や手荷物が200lbを越えた場合には100lbごとにさらに5ドルの追加料金を徴収していたといいます。

また、この飛行艇は離水すると高度5フィート(1.5m)から20フィート(6.1m)と、水面すれすれを飛行するので、エンジン・オイルと水飛沫を避けるためのゴグルと寒さを凌ぐためのマフラーが乗員と乗客には必需品でした。

1914年当時のフロリダ沿岸域では、上記航空路刊を蒸気船で航行すると21時間程度もかかっており、汽車を利用しても12時間もかかりました。

さらに、このころまだ実用化されてまもない未完成な自動車の場合には、乗り心地の悪いソリッド・タイヤで未舗装の道を走らなければならず、このため飛行機による移動経路のショート・カットは大変魅力的な旅行手段でした。

このため、この人を運ぶ定期運航便もおおむね好評を博したほか、新聞輸送、切り花の空輸、食料品の輸送などを行うために100件ほどのチャータ便が運用され、さらに遊覧飛行が2機のベノイスト14飛行艇によって行なわれました。

セント・ピーターズバーグ市もこの定期便の就航に好意を寄せており、ベノイスト社が1日2便で週6日間の定期運航を3か月続けたら、現金2400ドルの補助金を支出する契約をしていたといいます。

定期航空便の運航は1914年1月1日から開始され、市との補助金契約が終了した3月31日以降も5週間にわたり運行が続けられましたが、乗客の減少により5月5日の定期便が最後となってしまいました。しかし、安全第一で営業したため,定期運航中に乗客に怪我や死亡につながるといった事故は一切ありませんでした。

この定期航空路において最初の飛行が行われた際、飛行士となったのが、冒頭の写真にある「トニー・ジャナス」です。

アメリカ航空機史上初期の数少ないパイロットのひとりであり、主に第一次世界大戦までの黎明期に活躍しました。彼は1912年に、世界で初めてのパラシュートジャンプが行われた際の飛行パイロットしても知られるとともに、上記のようなアメリカ初の定期航空路を開拓したパイロットして高名です。

のちに創設された、「トニー・ジャナス賞」は、彼の功績を永遠に伝えるためのものであり、その後開拓された民間航空による定期航空路などで、優れた個人成果をあげたパイロットに、アメリカ産業界が毎年授与しているものです。

Tony_Jannus

ジャナスはその後、ベノイスト社を辞めて、飛行機メーカーのカーチス社のテストパイロットに就任しました。同社でも飛行艇を中心にして飛行機を生産していましたが、名機といわれるその多くの飛行機のテストパイロットを勤めるなど活躍しました。

その後、この当時の帝政ロシアの政府から、飛行機開発のためにカーチス社への協力が求められたことから、その開発とかの国におけるパイロットの養成のために、彼がロシアへ派遣されることになりました。

ロシアでは、主にカーチスH-7という機体を使い、黒海に面したセヴァストポリ近郊を中心に、ロシア軍のパイロットを養成するため、彼等に訓練を施していました。ところが、1916年に10月12日、彼が搭乗していたH-7ha、エンジンに問題を抱えていらしく、その日の訓練の際、海に墜落し、彼は彼とともに搭乗していた若い訓練生とともに死亡しました。享年27歳。その後彼の遺体は発見されていません。

ベノアモデル14は高性能の機体でしたが、長い年月を経て、その後、すべて失われていました。が、近年、残っていた部品などからレプリカが作成され、上述のタンパ・セントピーターズバーグ間の定期航路が開設されてから75周年を迎えた1989年に、再びタンパベイを飛びました。

PL-11
テスト飛行に挑むトニー・ジャナス