チェサピーク&オハイオ運河

SH-48

18世紀末から19世紀始めにかけて、アメリカでも産業革命が起き、その進展のためには物資を生産地から消費地に運ぶ大量輸送システムが必要となりました。このため鉄道がアメリカ全土に敷設されるようになりましたが、それ以前には「運河」がその役割を担っており、全米でおよそ3000マイル(約4800km)以上の運河網が形成されていました。

これらの運河が形成される前、米東部と中央部の間には、ワシントンD.C.あたりから南西方向へ横たわる険しいアパラチア山脈が連なり、この山を越えての大量輸送や西部への移住のためには大きな障害になっていました。

鉄道が普及する以前の話であり、そこで、より速くより遠くへより大量に東西を結ぶ輸送路として、まずポトマック川が注目されました。ワシントンDCの北東へ向かった流れ、ウェスト・ヴァージニア州では東西に流れを変えてアパラチア山脈に至るこの川は、早くから東西を結ぶ水路として注目されていました。

そして、1785年には早くもパトーマック会社(Patowmack Company)という運河会社が設立され、この会社がポトマック川の急流部分を回避するための運河を掘削を始めました。この当時の大統領だったワシントンも、このプロジェクトの重要性を認識し、ポトマック会社の大投資家として名を連ねています。

さらにこれより北側では、五大湖とニューヨークを結ぶ水路であるエリー運河の建設が進められました。しかし、これにより産業が全てこの運河沿いに移動するとの危機感を抱いた人々がおり、彼等は五大湖の南を東西に流れるオハイオ川とバージニア州に湾口を開くチェサピーク湾を結ぶ運河を作ろうと考えました。

そして設立されたのが、「チェサピーク&オハイオ運河会社」であり、この会社は上述の
パトーマック会社の資産を譲り受け、1828年にチェサピーク湾とオハイオ川を結ぶ運河の建設を開始しました。

この工事は、Great National Project(偉大な国家的プロジェクト)とも呼ばれ、予定では工事期間10年、建設費300万ドルを投下し、ワシントンDCのジョージタウンとペンシルベニアのピッツバーグを結ぼうというものでした。

運河は既にポトマック川沿いにあった既存の運河をも利用しながら建設されましたが、オハイオ川に接続するため新たな運河やトンネルも掘られ、支流をまたがる際には運河橋が建設された。写真にあるのがその一つの運河です(場所不明)。

しかし、この時代になると既に鉄道が普及し始めており、建設中の運河と並行に走る「オハイオ・ボルティモア鉄道」の建設が進められたことから資金がこちらへ流れ、このため資金調達、労働争議、疫病の流行などで工事は遅れに遅れました。

建設費と時間の浪費ばかりが進み、1828年に建設が始まってから27年経った1855年に完成したときには、1300万ドルにまで建設費が膨らんでいました。しかも、当初の予定より大幅に短くなり、当初の計画ではピッツバーグまで運河を走らせる予定でしたが、途中のメリーランドのカンバーランドまでしか開通できませんでした。

しかも、オハイオ・ボルティモア鉄道の完成をはじめとする鉄道網の進展は著しく、チェサピーク・オハイオ運河は完成したときには既に時代遅れのものとなっていました。このため、1889年にはついに、チェサピーク・オハイオ運河はライバルのオハイオ・ボルティモア鉄道に買収されるところとなりました。

それでも完成した運河では、アパラチアの石炭や干草などをカンバーランドからジョージタウンまで運び、1924年に運営を終了するまで78年間米国の産業・暮らしを支え続けました。

その総延長は185マイル(300km)に及び、途中75の水門が設置され、すべての閘門の合計で、605フィート(184m)もの高低差を調節しました。

現在でもその閘門の多くが残っており、いくつかの閘門では、既に壊されていた水門管理所なども再建され、公園として使われています。

運河に沿って引き舟道が整備されているところもあり、こうした閘門公園は、今日ではよいバイク、ジョギング、犬の散歩コースとなっているほか、運河跡は水流が安定しているため、カヤックやボートなどの良き練習場にもなっています。

客船オリンピック

SH--24

オリンピックは、1900年代にイギリスのホワイトスターライン社が、イギリスやアイルランドなどヨーロッパ各地とアメリカ東海岸のニューヨークなどを結ぶ大西洋航路に就航させた客船です。

姉妹船に、タイタニックとブリタニックがありますが、タイタニックはご存知のとおり氷山にぶつかって沈没し、ブリタニックは第一次世界大戦中にドイツ軍の敷設した機雷に接触して浸水、こちらも沈没しました。

不幸で短命だったこれら姉妹船と異なり、オリンピックは24年におよぶ長い就航期間と、逆に軍艦を沈める戦果を上げるなどの活躍ぶりから「Old Reliable(頼もしいおばあちゃん)」の愛称を持ちます。

オリンピックの名はギリシャ神話のオリュンポスからとられています。イギリスの造船業のハーランド・アンド・ウルフ社の会長が、ホワイトスターライン社のイズメイ社長に、3隻の大型客船造船を発案したのがその建造の発端です。

その3隻の船の先駆けとしてアイルランド、ベルファストのハーランド・アンド・ウルフで起工され、その直後にに2番船タイタニックが造船され、少し遅れて3番船のブリタニックの造船が開始、という順番です。

冒頭の写真が撮影されたのは、1911年6月21日となっています。オリンピックの就航はこの一週間前の1911年6月14日ですから、この写真は処女航海で大西洋を渡り、ニューヨーク港についたばかり、あるいはニューヨーク港から逆にイギリスに向けて出立する前の写真ということになります。

背後に似たような4本マストの客船が停泊していますが、このころにはまだ姉妹船のタイタニックやブリタニックは就航していませんから、これはホワイトスターライン社と同じく多数の客船を保有していたイギリスのキュナード社のルシタニアかモーリタニアのどちらかと思われます。

いずれもオリンピック級とは一回り小さい(オリンピック級が排水量52000トンに対して44000トン程度)ものの、遠目ですからそれほどの差異は感じられません。

この当時、ホワイトスターライン社とキュナード社は、大西洋路線をめぐって激しい建造合戦を繰り返しており、両社はライバル関係にありました。ルシタニア・モーリタニアの姉妹船はオリンピック級よりも5年早く就航していますが、アメリカへの移民は急増しており、この2船の就航によりキュナード社は大きな利益をあげていました。

ホワイトスターライン社は、それまでもアラビック(1903年就航、15,801 トン)アドリアティック(1907年就航、24,541トン)などを保有していましたが、老朽化が進んでおり、乗客数も速度もキュナード社の船よりも劣っていました。オリンピック級3船の建造は、その巻き返しを一気に図るためのものでした。

当時は世界で最も巨大な船で、今でいう巨大クルーズ船といえるほどの規模です。それに加え“絶対に沈没しない”という不沈伝説まで生まれましたが、処女航海でタグボート「O・L・ハーレンベック」を巻き込みそうになったり、1911年9月20日にはイギリス海軍のエドガー級防護巡洋艦「ホーク」と衝突事故を起したりと、当初は何かとトラブルが多い船でした。

その先行きは、翌年その処女航海で沈没したタイタニックと似たような悲劇を暗示しているようにも思われました。が、幸いにもその後の運行は安定し、タイタニックの沈没後、未だブリタニックの造船も進んでいない中、オリンピックは1船体制で大西洋を駆け巡りました。

Olympic_ggbain_09366オリンピック(冒頭の写真と同じころ)

実はオリンピックは、タイタニックからSOSを受信し救難に向かった船の1隻でした。しかし、このとき両船は800kmも離れていました。

沈没現場に到着したのは約107km離れた地点にいた、ライバル会社のキュナード社の客船、カルパチアであったということは皮肉です。オリンピックがタイタニックの沈没地点に到着したのは、カルパチアが残る遭難者を救助した後でした。

SH-27B8出航直前のタイタニック

オリンピックとタイタニックの両船の建造は、オリンピックのほうが、1908年12月16日起工、タイタニックのほうが3ヵ月後の1909年3月31日起工とほぼ同時期であり、設計も同じであったことから、見た目には瓜二つでした。このため、タイタニックの写真としてオリンピックの写真を使われる例がよくあったといいます。

しかし一番船として先に竣工したオリンピックの改善点を受けて、タイタニックの設計は多少変更され、外観も二つの姉妹船は多少異なっていました。

例えばAデッキ(最上階のデッキ)の一等専用プロムナード(遊歩道)の窓が、オリンピックは全体が海に対しベランダ状に吹きさらしになっていたのに対し、タイタニックは前半部がガラス窓が取り付けられた半室内状に変更されました。これは北太平洋の寒い強風から乗客を守るためでした。

後に竣工したブリタニックのプロムナードの窓もタイタニックと同じ作りです。またオリンピックはBデッキ全体にもプロムナードデッキが設けられていましたが、タイタニックではBデッキのプロムナードデッキが廃止され、窓際全体が1等客室に変更されました。

このため、1等客室の数はタイタニックのほうが多く、総トン数もタイタニックのほうがわずかに重くなりました。そのタイタニックの沈没を受けて、ホワイトスターライン社はその後、オリンピックの船体側面を2重構造化、救命ボートの数を倍以上に増やしました。

Olympic_and_Titanic姉妹船タイタニック(右)と並ぶオリンピック(左)

タイタニックの沈没により、ホワイトスターライン社の評判はガタ落ちとなり、多くの乗客をキュナード社に奪われる状況となったためで、同社は乗客の信頼を取り戻すのに必死でした。しかし、タイタニックの就航・沈没から2年後の、1914年にブリタニックがようやく進水式を迎えました。

これにより、それまでオリンピックただ1船だけ運営されていた大西洋路線にカツが入るところとなり、ホワイトスターライン社の幹部は喜びました。しかし、それもつかのまのことで、それから時間をおかずして、第一次世界大戦が勃発します。

進水式を迎えたばかりだったブリタニックは、第一次世界大戦勃発により竣工が翌年に延ばされ、さらには竣工直後の1915年12月12日、イギリス海軍省の命により病院船として徴用されてしまいます。船体は純白に塗られ、船体には緑のラインと赤十字が描かれました。

オリンピックのほうも当初徴用を免れていたものの、これに先立つ1915年9月に軍事物質輸送船として徴用されることになります。戦局はこのころかなり進んでおり、1914年10月27日にオリンピックは、アイルランド北方で触雷したイギリスの戦艦オーディシャスの曳航を要請されました。

このときオリンピックは現場へ急行し、沈没船の乗員の救助にあたり、オーディシャスをロープで牽引して本国に向かいましたが、途中荒天のために曳航綱が切れ、オーディシャスは沈没しました。

その後も、イギリス海軍省の命を受けて軍用輸送船として徴用されましたが、このころ大西洋に神出鬼没で連合国軍を脅かしていたドイツの艦船などに対抗するため、12ポンド砲と4.7インチ機関銃が取り付けられました。

こうした武器の艤装を終え、1915年9月24日には新たに「輸送船2410」として、リバプールからガリポリに向けて部隊を輸送する任務につき、その後も主として、東地中海において人員の輸送任務を続けました。

このころ、姉妹船のブリタニックも病院船として活躍しており、1916年11月半ばにエーゲ海のムノス島へ向けてサウサンプトンから出航しました。11月15日夜中にジブラルタル海峡を通過し、11月17日朝に石炭と水の補給のためナポリに到着しました。

嵐のため、ブリタニックは19日午後までナポリに滞在していましたが、天候が回復した隙にブリタニックは出航します。11月21日の早い時間にギリシャ南部のケア海峡に入りました。しかしその直後、ブリタニックは同海峡に敷設してあった機雷に触雷します。船長は機関を停止して防水扉を閉じるよう命じましたが、なぜか浸水は止まりません。

しかたなくエンジンを再起動して近くの島に船体を乗り上げようと試みましたが、船体に穴が開いたにもかかわらず航行したので、結果的にタイタニックの3分の1の50分で沈没することとなりました。

病院船として運用されていたため多数の病傷者がいましたが、幸いにもその多くは救助され、死者は21名で済みました。その大半は、船尾が持ち上がり始めた際にスクリューに巻き込まれた2隻のボートに乗っていた人員でした。

HMHS_Britannic徴用され塗装が変更されたブリタニック

Britannic_sinking
沈没するブリタニック

こうしてオリンピック級の姉妹船のなかで唯一生き残ることになったオリンピックは、1916年から1917年にかけて、同じ連合国であるカナダ政府に徴用されるところとなり、カナダの東部のハリファクスからイギリスへの部隊輸送を行う任務につきました。1917年には、従来の装備に加えてさらに6インチ機関銃を装備し、迷彩塗装を施されました。

RMTOlympic
迷彩塗装を施されたオリンピック

翌年の1917年にはアメリカがこの戦争に参戦しました。このため、アメリカからイギリスへの大量の部隊輸送が必要となり、オリンピックはそのためにニューヨークなどの東海岸の港とイギリスを結ぶ大西洋路線に就航することになりました。

そうした中、1918年5月12日に、オリンピックは中央同盟国側のドイツの潜水艦U-ボートから突如雷撃を受けます。

このとき、オリンピックはアメリカ兵を多数乗船させてフランスに近づきつつありましたが、この日の早朝、見張りが500メートル先に浮上したUボートを発見。すぐさま乗船していた砲手によって12ポンド砲が火を噴きました。これに驚いたUボートはすぐさま潜航を始め、30mほどの水深を保ちつつ、その艦尾をオリンピックに向けました。

オリンピックの船長バートラム・フォックス・ヘイズは、このとき魚雷を避けようと転舵を命じていますが、Uボート(U-103)の艦尾発射管から放たれた魚雷は航跡を描きつつオリンピックの船底に命中します。

しかし、この魚雷は不発弾でした。ヘイズ船長はこの雷撃を回避した直後にさらに回頭し、このとき魚雷の成果を見届けようと浮上しつつあったUボートに体当たりを喰らわせました。

U-ボートは、大きくカーブを描いて体当たりしてきたオリンピックのちょうど船尾付近で強打され、この衝撃で、司令塔のあたりが破壊され、そこへ続いてオリンピックの左舷側が直撃し、そこにあったプロペラが気密室を切り裂きながら進みました。

これにより沈没を免れないと悟ったUボートのクルーは、船体ごと拿捕されることを恐れ、バラストタンクを解放して、潜水艦を自沈させました。

このとき、オリンピックも少なくとも2か所がへこみ、船首部分の衝角がねじまげられるほどの損傷を受けましたが、もともと頑丈な水密隔壁で守られている部分であったため、事なきを得ました。

このとき、オリンピックは、U-ボートの生存者を救うために機関を停止し、その結果31名の敵兵を助けました。のちにこのU-ボートクルーは、オリンピックを発見したとき、2つの船尾魚雷を用意していたことを明らかにしました。

そのうち一発は実際に発射されましたが、上述のとおり不発であり、もうひとつは魚雷管に注水される間もなくオリンピックの体当たりを受けたために、発射されなかったことがわかりました。それにしても、巨大な船体を体当たりさせて潜水艦を撃沈したという例は稀で、これは第一次世界大戦中においても商船が軍艦を撃沈した唯一の事例となりました。

のちに、この船長のヘイズの行動には批判も集まりましたが、彼はアメリカ政府から殊勲十字勲章を授与されています。

その後、第一次世界大戦を通して、オリンピックは34万7千トンの石炭を消費して、12万人の兵員を輸送し、18万4千マイルを走りました。戦後、客船となり点検を受けた際に、喫水線の下にへこみが見つかり、調査の結果、これが上述の不発の魚雷の衝突痕と確認されました。もし爆発していれば、沈没は免れなかったと考えられています。

オリンピックは第一次世界大戦終結後に再び客船として就役し、その後20年近く現役の客船として栄光を保ち続けました。500回もの大西洋横断をこなし、晩年には「Old Reliable(頼もしいおばあちゃん)」という愛称で親しまれ、1935年に引退しました。

引退後のオリンピックは解体される予定でしたが、豪華な内装を持つこの船を廃棄するのは惜しいという声があがり、内装の一部がオークションにかけられました。そしてダイニングの内装をイギリスの夫人が買い取り、屋敷として使用しました。

Grand_staircase

オリンピックの内装 映画タイタニックでも再現された

夫人の死後、その屋敷もまたオークションに出されていましたが、世界有数の船会社であるロイヤル・カリビアン社が落札。自社の船である2000年竣工のミレニアムのレストランに使用することが決定しました。

そのレストランは「オリンピック・レストラン」という名で現在も営業されており、室内はオリンピックのダイニングがそのまま利用されているとのことです。オリンピックで使われていた食器類も飾られており、タイタニックとほとんど同じ内装であることからその後放映された映画「タイタニック」の影響もあり、連日の大盛況だそうです。

Olympic_and_Mauretania
解体ドックに移されたモーリタニア(右)とオリンピック(左)

ルイジアナ ~ミシシッピ川とともに

SH--14

写真は、ルイジアナ州のアンゴラという町にある、ルイジアナ州立刑務所(The Louisiana State Penitentiary)における、およそ100年以上前の光景です。

港に積み上げられた建築資材を作業員や船員たちが蒸気船に積み込んでいるように見えますが、よくみると左下のほうには、白黒の縞模様の服を着た囚人たちが、列を作ってこの場を立ち去ろうとしているのが見えます。

おそらくこの資材を港まで運んできたのは彼等であり、その作業を終えて収監先の刑務所内に戻るところなのでしょう。

このルイジアナ州刑務所は、現在までも存続しており、これが位置する町の名前から、「アンゴラ(”Angola”)と呼ばれています。南部のアルカトラス(Alcatraz of the South)というニックネームもあり、また”Firm(農場)”などとも呼ばれているようです。

ルイジアナ州公安/矯正局(Louisiana Department of Public Safety & Corrections)が運営している刑務所であり、ルイジアナ州の中部、隣のミシシッピ州との州境付近を流れるミシシッピ川のほとりに位置します。

286px-Map_of_USA_LA

canvas

南のアルカトラス、の異名をとるくらいですから、監視厳重度で最高ランクに属する刑務所であり、かつ合衆国でも最大のものであり、1,800人の職員で5,000人の囚人を収容しています。

この刑務所のあるルイジアナ州は、アメリカの南部の州です。アメリカ合衆国50州の中で、陸地面積では第31位、人口では第25位であり、州都はバトンルージュ市ですが、最大の都市はニューオーリンズ市です。

元フランス領でしたが、1812年、アメリカ合衆国の州になりました。しかしフランス統治時代の名残で現在で、現在でも民法はナポレオン法典が用いられます。アメリカの他州では行政区画として一般にカウンティ(county、郡)が用いられますが、この州ではこれがパリッシュ(parish)と呼ばれます。

キリスト教の小教区を意味するものですが、これもフランス時代の名残です。パリッシュがカウンティの代わりに使われるのはアメリカではルイジアナ州のみとなります。

刑務所の多い州です。ルイジアナ州には12の州立刑務所(長期受刑者用)と160もの郡立刑務所(保安官所有刑務所)が多くあり、「世界の刑務所首都」ともいわれるほどです。

ルイジアナ州では、「倒産犯罪」といった比較的軽い犯罪でも、10年の禁固刑が維持されていて、強盗罪の再犯にはいまだに24年以上の刑が科されています。このため、受刑者の人口比は過去20年で倍増し、地球上のどこにも見られないほどの水準に到達しています。

現在4万4,000人強の受刑者が刑務所に収監されていますが、これは人口86人に1人に相当し、この数字は、全米平均の約2倍、イランの5倍、中国の13倍と、ドイツの20倍にもなります。

このように収監率が高いのは、郡刑務所の多くが、「営利目的」で運営されているからです。地域全体の経済が、この高い収監率に支えられて存続しているということであり、これは州政府の方針でもあります。

ルイジアナ州政府は、1990年代初頭に著しく経済が悪化し、と同時に刑務所の収監人員も限界に達していました。このとき、刑期を短縮するか刑務所を増設するかという二つの選択肢がありましたが、ルイジアナは後者の解決策が選びました。刑務所を増設すれば連邦政府からの補助金が増えると同時に、大量の雇用が創出されるためです。

しかし、そのためにはまず刑務所を建てなければなりません。ところが慢性的な財政赤字を抱える州政府は建設費用を負担することができず、このため、農村部のパリッシュ(郡)の保安官に対して、郡立刑務所、すなわちパリッシュ・ジェイルと呼ばれる地方刑務所を建設・運営するよう奨励することとなりました。

田舎のパリッシュにとっては大きな負担となるであろうこのような投資に対して、州政府は、収監費用として受刑者1人1日当たり24ドルほどを郡保安官に支払うこととし、これによって郡立刑務所は人を雇うことができるようになります。

こうして生み出された雇用は郡の経済をも潤わせるだろう、というわけで、綿産業の不況に直面していた各地方のパリッシュでは競うようにしてこの州政府の申し出を受け入れ、これによって経済が持ち直すようになりました。が、一方ではこうした雇用創出に完全に依存するような経済社会を生み出すことになりました。

ルイジアナ州は、全米の中でもかなり貧しい州です。ルイジアナ州の総生産高は全米で第24位ですが、一人当たりの収入に換算すると41番目にすぎず、またその収入減の大半は綿大豆、牛、サトウキビ、家禽及び鶏卵、乳製品、米などの農業生産品であり、このほか海産物などが主な産物です。

海産物としては、とくに約90%を供給する最大のザリガニ産地であることで有名です。この地では石油・石炭が出ることから、こうした石油及び石炭製品のほかその関連の化学製品なども主たる産業です。その他の産業としては、食品加工、輸送設備、紙製品もありますが、こうした製造業の規模も大きくありません。

ただ、ニューオーリンズを中心とする地域では、観光業が重要な経済要素であり、州経済はこの観光業にも多く依存している現状です。

AngolaLAPrisonルイジアナ州立刑務所 全米一の規模を誇る

このように景気の悪い辺ぴな場所では、刑務所がビジネスとしては一番効率が良いというわけであり、多くの住民にとって、最善の職業選択は看守になることだそうです。とはいえ、給料は安く、時給8ドル程度であり、これは1ドル120円とすれば、960円に過ぎません。

しかし、それでも看守になりたい人が多いのは、退職後にはかなりの年金が保証されるからです。

なお、同じ看守でも、郡刑務所よりも州立刑務所のほうが人気があるようです。郡刑務所では州政府から、囚人ひとりあたり24ドル程度しか収監費用が払われないのに対し、州立刑務所に収監する場合は、連邦政府からその倍以上の55ドルもの費用が払われます。

このように刑務所が多いことから、犯罪者の方も何かと軽い罪を犯して刑務所に入りたがるようです。仕事を探しても良いものがみつからず、刑務所の中のほうが、食っていけるからです。

少し古い統計ですが、2010年にはルイジアナ州内の殺人犯罪率が国内最大となっており、これは人口10万人あたりに換算すると11.2件となり、これで1989年から22年連続第1位となりました。

1989年から2010年までの平均にならすと人口10万人あたり14.5件にもなるそうで、これは全米平均の6.9件の2倍以上になっています。

一方、ルイジアナ州の住民、すなわち納税者は全国平均よりも多くの補助金を受け取っています。これは何も刑務所が多いからではなく、2005年のハリケーン・カトリーナからの復興のためです。8月29日に上陸したこのハリケーンのカテゴリーは最悪の3であり、州南東部を襲い、ニューオーリンズの堤防を破壊し、市の80%が浸水しました。

大半の市民は脱出していていましたが、その多くは家屋を失い、市は実質的に10月まで閉鎖されました。ルイジアナ州全体では1,500人以上が死亡し、湾岸地域で200万人以上が避難するという大災害でした。

このため、ルイジアナ州では、住民が合衆国政府に納税した1ドルにつき1,78ドルが州のために還元されるという措置が取られ、2005年当時これは国内第4位の高さでした。

隣接州では、ルイジアナ州以上に被害の大きかったミシシッピ州にも2.02ドルが還元されましたが、この2州に比べてテキサス州は0.94ドル、アーカンソー州が1.41ドルであり、この2州の補助金の多さは際立っています。

しかし、こうして多額の復興資金が投入された結果、官公庁では不正が大っぴらに行われるようになりました。具体的な統計データはありませんが、「シカゴ・トリビューン」は、ルイジアナ州が最も汚職の多い州だと報告しています。

このように何かと印象の悪いルイジアナ州ですが、フランス、スペイン、アフリカおよび先住民文化から色々な要素を取り入れた「クレオール文化」ともいわれる、独特な融合文化がある地域としても知られます。こうした背景をもとに発展したニュー・オーリンズは、全米でも有数の観光都市であり、多くの見どころ、観光名所が存在します。

もっとも有名なのは、フランス、スペインの植民地時代の街並みを残すフレンチ・クオーターであり、カナル・ストリート、エスプラネード・アベニュー、ランパート・ストリートの3つの通りとミシシッピ川で区切られたこの地域の中には、世界的に有名な名所が数多く存在します。

また、ニューオリンズといえば、ジャズ発祥の地としてよく知られており、ディキシー・ランド・ジャズやブルース、カントリー、ロックなどのさまざまな音楽の発信地でもあり、世界の音楽ファンに親しまれています。

New-orleans10

世界最古と言われる古風な路面電車が走り、19世紀の豪邸が建ち並ぶ美しい街並みが広がり、美術館としては、コンテンポラリー・アーツ・センター(CAC)、ニューオーリンズ・ミュージアム・オブ・アート(NOMA)などがあります。またこの町はミシシッピ川に裳面しており、復元された蒸気船でミシシッピ川のクルーズが楽しめます。

VipersAngelie

このニューオリンズだけでなく、このルイジアナ州の歴史は、このミシシッピ川と切っても切り離せないものがあります。

ミシシッピ川に到達した記録が残っている最初のヨーロッパ人はスペイン人のコンキスタドールであるエルナンド・デ・ソトで、彼は1541年5月8日に、アメリカ南部の征服行中にミシシッピ川に到達しました。その後ミシシッピ河畔で亡くなりましたが、生き残りの隊員たちはミシシッピ川を下ってメキシコ湾に出、スペイン領にたどり着いています。

このデ・ソトの探検隊ののち、100年以上の間ミシシッピ川流域にはほとんどヨーロッパ人はやってきませんでしたが、その後ミシシッピ流域へと足を延ばしてきたのは、北の五大湖水系を制したフランス人でした。

1670年代にはフランス人は五大湖沿岸の探検をほぼ終え、ミシシッピを下ってメキシコ湾にまで到達しました。これにより北アメリカ大陸中央部を南北に貫く幹線水路が開通し、この水系を拠点としてフランスは広大な「ヌーベルフランス」と呼ばれる植民地を建設しました。

ミシシッピ川水系の多くはヌーベルフランス内のフランス領ルイジアナ植民地となり、1718年には河口に「ヌーヴェル・オルレアン」の街が建設され、1722年にはフランス領ルイジアナの首都となりました。これが現在のニューオーリンズになります。

以後、この町はミシシッピ川交易とメキシコ湾海運の結節点として栄えるようになり、フランスはミズーリ川やオハイオ川などを含めたミシシッピ川水系全域の領有権を主張するようになりました。

ところが、このフランスによる支配は北アメリカ大陸東岸のイギリス植民地の発展方向をふさぐ形となり、このため両国間には小競り合いが絶えず、北米植民地戦争と呼ばれる戦争を断続的に100年以上続けることになりました。

しかし、結局最後の北米植民地戦争であるフレンチ・インディアン戦争においてフランスは大敗しました。1763年のパリ条約でフランスはミシシッピ川の東側とカナダをイギリスに割譲、ミシシッピ川の西側をスペインに割譲し、北米大陸の領土を完全に喪失しました。

なお、「インディアン戦争」と呼ばれたのは、イギリス側が原住民であるインディアンと同盟していたためで、このため彼等の代理戦争をやっているのだ、との主張に基づき、フランスと戦かったためです。

こうしてミシシッピ川はイギリス植民地とスペイン植民地の境界となりましたが、1775年に始まったアメリカ独立戦争においてイギリスは敗北し、1783年にミシシッピ川東岸は独立したアメリカ合衆国へと譲渡されることとなりました。

これにより、1792年には、バージニア州のアパラチア山脈以西がケンタッキー州として分離し、アメリカ第15番目の州となりましたが、これはミシシッピ川流域における初めての州の新設であり、ついで1796年には同じくミシシッピ東岸の南西部領土が州に昇格してテネシー州となりました。

しかし、アメリカ合衆国にとっては、スペインというヨーロッパの強国がいまだミシシッピ川の西側に君臨しているのが邪魔で仕方がありません。西部への開拓をさらに進めるためには、ミシシッピ川を下ってメキシコ湾に至る河口まで無制限に渡航できるようにする必要性がありました。

というのも、アメリカ人開拓者たちは西に進むにつれて、ここで産出した農産物や鉱物を東部に運ぶ際、ミシシッピ川を北上してオハイオ川経由で五大湖を通るというルートは複雑なうえ、所詮は川であるため、大型船が使えない、という点がネックになっていたためです。

また、アメリカ東部にはアパラチア山脈という南北に細長い山脈があり、これが西部からの品物を東に品物を運ぶときの障害になることが分かってきました。

このため、西部での産出品を運ぶ最も容易な方法としては、平底船でいったんミシシッピ川を下ってニューオーリンズ港まで運ぶのが良いと考えらました。そこから大洋航行可能な船に積み替え高速船で運搬するほうがより効率的で、かつ大型の外洋船を使えるからです。

一方、ミシシッピ川の西岸は1800年にスペインからフランスに再び割譲され、フランス領ルイジアナが復活していました。ナポレオンによってヨーロッパ全土が蹂躙され、スペインの相対的な国力が落ちたためです。

これによりルイジアナは1762年から1800年までのスペイン領統治を終えることになりましたが、この間の行政官はスペイン人であったにも関わらず新規のスペイン人入植者はほとんどなく、フランス系社会が存続しました。つまりルイジアナ州はフランス系植民社会としての歴史を100年以上もっていたことになります。

Louisiane_18001800年のルイジアナの範囲

しかしその後の1803年、ヨーロッパで侵略を続けるナポレオンは、その戦費獲得のためなどの財政上の必要性などからアメリカ合衆国に売却しました。アメリカはフランスからルイジアナを1500万ドルで購入し、こうしてミシシッピ川の両岸はアメリカ合衆国の領土となりました。

このルイジアナ買収によってアメリカの領土は2倍となり、また西方への道が開けたことでアメリカの西部開拓に一層拍車がかかることとなりました。

また、ミシシッピ川を使った舟運がさかんになったことは言うまでありません。フルトンが、ハドソン川で蒸気船(Steamboat)の商業航行を始めたのは1807年、これによりニューヨーク-アルバニー間の240㎞(150マイル)が32時間で結ばれました。

それから、たった4年後の1811年にはピッツバーグからニューオリンズまでの定期航路が開かれました。当時の蒸気船は、冒頭の写真や下の写真にもみられるように、水車のような櫂(かい)で水をかき分けて進む外輪船(Paddle Wheeler)です。

BelleOfLouisville

外輪船は推進力で劣り、外洋の激しい波や、戦争時には敵の攻撃に弱い欠点があり、9世紀の半ば頃から外洋では次第にスクリュー式蒸気船(Steamship)が活躍するようにになっていきます。が、川底の浅いミシシッピー川には外輪船が引き続き有利で、その後も20世紀初頭まで流域の貨物輸送の主役を果たし続けました。

Mississippirivermapnew

 ミシシッピ川の流域 途中からオハイオ川に入れば五大湖まで行ける。

1812年、アメリカ合衆国の州としてのルイジアナ州が成立し、1849年に州都がニューオーリンズ市からバトンルージュ市に移されました。豊饒なルイジアナの大地に綿花と砂糖のプランテーションが形成され、非常に豊かな州となりましたが、1861年に勃発した南北戦争では南部連合に加盟して合衆国から脱退しました。

この戦争では南軍が敗れ、ルイジアナ州は1862年から北軍に占領されるようになり、このとき州都がいったんニューオリンズに戻されましたが、1868には合衆国への復帰が認められると、もとのバトンルージュに戻りました。

その後、1901年には州内で石油が発見され、ルイジアナ州は一時重要な産油地帯となりました。が、戦争に敗れた南部の州であり、連邦政府からの援助もなにかと滞りがちになります。

また、こののちに発達した鉄道よって交通革命が起き、さらに巻き起こったモータリゼーションの中においては、ニューヨークなどの東部の中心部から遠く離れた辺境の地、という負い目はぬぐえず、著しい経済発展もままなりませんでした。

しかしそのためもあり、逆に古き良き時代のアメリカがこの地には残されました。豊かな自然も手つかずで昔さながらです。ルイジアナ州はその位置や地形の故に多様な生物が生息しており、アメリカ合衆国国立公園局や国有林局の管轄する場所や地域に加えて、州立公園、州立保存地域、多くの野生生物管理地域などが州政府などにより管理されています。

ただ、近年は州南部の海岸の侵食が著しく問題になっています。世界でも最大級の速度で消失を続けている地帯とされており、これはミシシッピ川流域各所に多数の堤防や護岸などが造られたために、本来ルイジアナへ堆積するはずの土砂が減ったことなどが原因とされます。

また、地球温暖化による海面の上昇がこの問題をさらに悪化させているようで、毎日球技場30面に相当する陸地が失われているという推計もあるようです。

National-atlas-louisiana

海岸部はほとんどが湿地帯

さらには、湿地では広い範囲で樹木が伐採され、石油・ガス産業のために掘られた運河や溝を通じて塩水が内陸まで運ばれるようになっており、毎年のように発生するハリケーンもまた海水を内陸に運ぶようになっており、沼地や湿地に被害を与えています。

こうした土地の消失、湖沼の塩水化とともに、より多くの人々が地域を離れるようになっているといい、とくに海岸の湿地は経済的に重要な漁業も支えているので、湿地が失われ、淡水魚が減ることは漁業にも打撃となります。

湿地を生息域とする魚以外の野生生物種にも悪影響があり、シシッピ川の河口地帯はルイジアナ州の広大な湿地や沼地の森林を支え続けていることに疑いはありません。

ミシシッピ川からの自然の溢水を復活させるなど、人間による被害を減らして海岸地域を保護するための提案も多いようですが、それらの救済策が打たれなければ、海岸の地域社会は消失し続けることになります。

なんとか侵食を防ぎ、その美しい自然なんとか維持していってほしいと思う次第です。

Wetlands

 

装甲フリゲート艦・アドミラル・ナヒモフ

SH--8アドミラル・ナヒモフは、帝政ロシア時代の、ロシア帝国海軍の装甲フリゲート艦です。

フリゲート艦とは、小型・高速・軽武装で、戦闘のほか哨戒、護衛などの任務に使用された艦船で、「フリゲート」の語源となったのは、「フレガータ」と呼ばれる小型のガレー船です。人力で櫂(かい、オール)を漕いで進む軍艦で、古代から19世紀初頭まで地中海やバルト海などで使われていました。

手漕ぎであるため長距離の航行には限界があるものの、微風時や逆風に見舞われた場合もある程度自由に航行することが可能であり、急な加速・減速・回頭を行なうような運動性においては帆船に優っています。このため海上での戦闘に有利で、古くからガレー船のほとんどは軍船として用いられていました。

17世紀のイギリスでは、この「フレガータ」をもとにした小型高速の軍艦が登場し、「フリゲート」と呼ばれるようになりました。主な任務は、哨戒、連絡、通商破壊であり、戦列を組むような大きな海戦では、戦列艦の補助を主に行いました。

戦列艦というのは、単縦陣の戦列を作って砲撃戦を行うことを主目的としていたもので、現在の戦艦の走りと目されるものです。大砲の発達により、多数の砲を並べた戦列艦は当然大型となり、防御に致命的な欠陥をさらす事になります。

そこでフリゲートに装甲を施す事により、新たに「装甲フリゲート艦」が登場し、戦列艦の弱点を補うようになりました。アドミラル・ナヒモフはまさにこの装甲フリゲートです。

装甲フリゲートはその後徐々に大型化していき、中にはかつての戦列艦を超える大型艦も現れ、戦艦および装甲巡洋艦へと発展していくことになります。その一方で装甲防御を施さず、装甲艦の補助に回ったフリゲートは「巡航船」と呼ばれるようになり、こは「防護巡洋艦」などの小型艦の系列となりました。

第二次世界大戦で船団護衛や対潜戦闘の主力として大量生産された駆逐艦より小型・低速のこうした防護巡洋艦が、戦後、イギリスにならって「フリゲート」の名称で呼ばれるようになりました。

しかし戦後は再び大型化・高速化していき、かつての駆逐艦と同程度ないし上回るほどにまで発展していきました。一方で駆逐艦も大型化していき、かつての軽巡洋艦を上回るサイズにまで拡大します。

近年の潜水艦技術の発達にともなって、それに対抗する対潜作戦を担うフリゲートの価値も大きく上昇しました。そして駆逐艦ですら大型、かつ高価な艦となった今では、小型の割には潜在能力が高くその割には安価に建造できるフリゲート艦は、多くの国で水上戦力の主役の座を占めています。

なお、現在における「フリゲート」の定義としては、一般的には駆逐艦より小型のものを指します。戦後の一時期は駆逐艦以上の艦がミサイルを搭載し、ミサイル未搭載のフリゲートとの区分とみなされていた頃もありました。

しかし、上述の通り大型化して旧式で現役の駆逐艦すら上回ってしまっており、現在ではフリゲートもミサイルを搭載し、駆逐艦との区別は次第に曖昧になってきています。フリゲートという艦種の明確な定義はなく、各国が独自に分類しているのが実情といえます。

さて、前置きが長くなりました。装甲フリゲートのナヒモフのことです。

艦名は帝政ロシアの提督パーヴェル・ナヒモフに因みます。ロシア海軍の提督で、サンクトペテルブルクの海軍幼年学校卒業後、数々の戦闘に参加して実績をあげ、1853年には、クリミア戦争中、シノープの海戦でトルコ艦隊を殲滅。翌1854年には、黒海艦隊司令長官に就任しています。

黒海に面するクリミア半島では、現在もロシアとウクライナの紛争が起こっていますが、この当時もその帰属を巡ってロシアと英仏・オスマン帝国などが戦っていました。この半島の先端には、黒海に面したセヴァストーポリという要衝があり、ロシアはここに要塞を築いて英仏軍と対峙していました。

セヴァストポリは黒海艦隊の根拠地であったため高度に要塞化されていました。このため、英仏軍はなかなかロシア側の補給を絶つことができず、1854年の10月に始まったこの戦いは長引いていました。しかし、その後戦況はロシア側に徐々に不利になっていったため、翌1855年にはナヒモフ自らが防衛を指揮するため要塞に入りました。

Naval-brigade-batteryセヴァストーポリの戦い

その後も、激しい戦闘が続きましたが、そんなさなか、あろうことか司令長官のナヒモフが7月12日に頭に銃弾を受け戦死。しかし、ロシア側は、黒海艦隊の艦艇の艦砲を要塞防衛に転用し、水兵も要塞防衛に利用するなどして、徹底抗戦を試みました。

しかし、ナヒモフの死後2ヶ月経った9月に連合軍の突撃によって要塞は陥落。ほぼ1年にわたって続いたこの戦争では、戦病者も含め両軍で20万人以上の死者を出しました。ロシア軍はセヴァストポリから撤退して黒海艦隊は無力化し、その後は連合軍が黒海の制海権を得るようになりました。

ちなみにこの地は、その後の第二次世界大戦時にドイツ軍によって攻略されて占領されましたが、その後ドイツが敗戦したことから、旧ソ連へと引き渡され、その後ソ連が瓦解したあとはウクライナに編入されて、現在に至っているわけです。

このセヴァストーポリの戦いで戦死したナヒモフは、その後、名前を冠したナヒモフ勲章や、ヒーモフ・メダルが制定されるほどロシア国内では英雄視されており、この勲章は現在の連邦政府でも継承されているほか、ロシア連邦の海軍幼年学校は、「ナヒモフ海軍学校」と名付けられています。

Pavel_Nakhimovパーヴェル・ナヒモフ提督

装甲フリゲート艦アドミラル・ナヒモフもまた、その栄誉を称えてそう名付けられたものであり、ナヒモフ提督がセヴァストポリの防衛の指揮にあたったのと同様、ロシア帝国海軍が自国の沿岸防衛のために建造した艦です。

セント・ペテルブルク造船所で1884年7月に起工され、翌年10月に進水、就役は1888年10月です。

本艦はイギリス海軍の巡洋艦「インペリウス級」を参考にして設計されました。この英船は23.4cm砲を4門搭載していましたが、本艦ではやや小ぶりの20.3cmと小さくなりました。ただ、この主砲は新開発の20.3 cm(35口径)高性能ライフル砲であり、90kgの主砲弾を9,150mまで届かせる性能があり、発射速度は毎分1発という優れたものでした。

また、副砲は新設計の15.2 cm(35口径)単装」で、舷側部に5か所ずつ砲門を開けて片舷5基ずつ計10基を配置されました。こちらも41.5kgの砲弾を最大7,470mまで届かせることができ、発射速度も主砲と同じ毎分1発でした。

このほかにも、10cm単装砲を6基、近接戦闘用に3.7cm(23口径)機砲を10基、対地攻撃用に6.4cm(19口径)野砲片舷1基ずつ計2基を配置し、さらに対艦攻撃用に38.1cm水上魚雷発射管単装3基、水路封鎖用に機雷40発を搭載していました。この他、ロシア海軍において魚雷防御網を導入した最初の艦でした。

この当時のフリゲート艦は既にレシプロエンジンを積み、スクリューを持っていましたが、前時代の名残で帆走用のマストを持っているものも多く、本艦も2本の帆走用マストを持っていました。これと併せて1本の煙突がその特徴であり、また、水面下に衝角を持つ垂直に切り立った艦首も特徴的でした。

AdmiralNakhimov1890Yaponiya

建造後ちょうど10年たった1898には近代化改装され、機関を強化して帆走設備を全て撤去し、帆走用だったマストはミリタリー・マストに一新されました。ミリタリーマストというのはマストの上部あるいは中段に軽防御の見張り台を配置し、そこに37mm~47mmクラスの機関砲(速射砲)を配置したものです。

これは、当時は水雷艇による奇襲攻撃を迎撃するために遠くまで見張らせる高所に対水雷撃退用の速射砲あるいは機関砲を置いたのが始まりです。形状の違いはあれどこの時代の列強各国の大型艦には必須の装備でした。

ナヒモフでも、その見張り所に3.7cm~4.7cmクラスの速射砲を配置し、一部の4.7cm単装砲は主砲からの爆風を避けるためにマストの前の見張り所の上に並列で前後2基ずつ配置されました。またこの改装では、船体中央部にあった操舵艦橋は前部マストの背後に移動されました。

本艦は就役後の1889年5月にウラジオストクに到着し、そこで太平洋艦隊の旗艦となりましたが、1891年に修理のために本国に帰還し、修理後の1893年7月にニューヨーク市を訪問しています。冒頭の写真も1893年撮影とされていることから、このニューヨーク寄港の際に、アメリカ人によって撮影されたものでしょう。

その後は再びウラジオストクへ派遣されました。1898年本国に帰還後に、上述の近代化改装が行われ、これが完工した1899年には、再び太平洋艦隊に派遣され、さらにその4年後の1903年にバルト海に戻るという、めまぐるしい運用がなされました。

AdmiralNakhimov19031898~99年の改修後のアドミラル・ナヒモフ

1904年の日露戦争の勃発の後、本艦は、このとき所属していたバルト海艦隊より抽出されて極東へ赴きました。バルト海艦隊、もしくはバルト艦隊が正式呼称ですが、日本においては「バルチック艦隊」という呼び名が広く定着しています。

日露戦争の折にロシアが編成した「第二・第三太平洋艦隊」のことであり、旅順港に封じ込められた極東の太平洋艦隊を増援するためにバルト海艦隊から戦力を引き抜いて新たに編成された艦隊を指します。

ナヒモフは、このとき第二太平洋艦隊に配属され、1904年10月に極東へと出航しました。本艦は他の巡洋艦よりも強力であったために3隻の旧式戦艦(オスリャービャ、シソイ・ヴェリキー 、ナヴァリン)とともにこの艦隊の主力級としてその能力が期待されました。

その後、1905年5月27日には、対馬沖で、日本の連合艦隊と曹禺。のちに「日本海海戦」と称されるようになるこの海戦でナヒモフは、日本海軍の装甲巡洋艦に30発以上の命中弾を与えられて中破し、25名の死者と51名の怪我人が出しました。

しかし、反撃も行っており、日本海軍の装甲巡洋艦「磐手」に20.3cm主砲弾3発を命中させ小破させたりもしています。

この海戦はご存知のとおり、午前中に始まった戦闘により、バルチック艦隊の戦艦や主力の巡洋艦がほとんど壊滅し、日本海軍の圧勝に終わりました。しかし、夜になっても日本海軍はその追撃の手を緩めず、残存艦隊に夜襲をかけています。

このときこの夜間攻撃における日本軍の主なターゲットは、残存の巡洋艦、フリゲート艦といった小艦でしたが、ナヒモフもまた日本海軍の駆逐艦と水雷艇に攻撃を受けました。ところが、敵を探そうとサーチライトを点灯させ、探照を行ったことがかえって目立つところとなり、さらに水雷艇からと思われる魚雷を複数受けるに至ります。

大破炎上しながらも応急処置によりしばらくは浮いていたようですが、被雷時の浸水と消火のために使用した海水で浮力を維持できなくなったために対馬沖まで向かい、そこで翌朝未明に自沈処分にされました。

乗員のうち103名は艦載艇で脱出し、僚艦に救助されて帰国しましたが、523名は仮装巡洋艦「佐渡丸」に捕えられ、このとき重症だった18名はその後死亡しました。日本側の戦史では佐渡丸が退艦作業中の本艦を発見し、捕獲のため作業員を送りましたが、この時既に浸水がひどくこれを断念した、とあります。

しかし、このときの調べでは砲弾による被害は極めて軽微であり、まだかなりの戦闘能力は持っていたようです。この佐渡丸で収容された523名のうち99名はその後、対馬に送られたことがわかっていますが、その他はよくわかりません。

日露戦争の時に開設された収容所は全国で29ヵ所にのぼり、その収容施設は、総数で221といわれており、その足跡すべてを探ることは難しいでしょう。

なお、このとき、多数の水兵が捕虜となる中でも、退艦を拒否した艦長と航海長は自沈のとき脱出しており、その後漁船に救助されて29日には山口県下関の彦島に到達したことなどが記録として残っています。しかしおそらくは彼等もまた上陸後どこかの収容所に送られたことでしょう。

ナヒーモフ

船の科学館に展示されていたナヒモフの主砲

こうしてナヒモフはその17年の艦歴に終止符を打ちましたが、その後、1970年代末から1980年代初頭にかけて、対馬沖の深度97mに沈んだ本艦に多数の金塊が残されているという噂が流れ、引き揚げ作業などを巡る話題がメディアをにぎわせる、といったことがありました。

この噂は事実であり、1980年には日本船舶振興会会長で大物右翼と言われ、この当時80歳を超えていた「笹川良一」氏が、その関係会社である日本海洋開発に資金提供をおこなって沈没地点とされる付近で調査をおこなう、と発表しました。

なぜ、笹川がナヒモフの引き揚げに関わったかですが、これは世界の視線を北方領土問題に集中させるためであったといわれています。ご存知のとおり、北方領土は、日本古来の領土でしたが、終戦のどさくさに紛れてソ連軍がここに上陸して占領し、その後自国の領土だと主張し続けています。

戦後70年経つ現在でもこの問題は解決していませんが、このとき笹川は、北方領土問題解決にナヒモフの引き揚げを利用しようと考えたようです。本当に財宝が引き揚げられれば、ソ連は必ず自らの所有物だと主張し、返還要求してくるに違いない、と考えたわけです。

日本側からすれば、この日露戦争の勝者は自国であり、ナヒモフは日露戦争の戦利品ともみなされるわけであり、また公海上での沈没船であるため、引き揚げた者が所有者である、という理屈です。またナヒモフの財宝が引き揚げられた場合、これをソ連にプレゼントすることで、膠着状態になっている北方領土問題の進展が図れるのではとも考えたようです。

北方領土返還に向けてソ連を話し合いの土俵に乗せるための材料、切り札としてナヒモフは使えると信じていたわけです。

昭和55年(1980年)、多数の潜水夫を投じて水中調査を行った結果、ナヒモフの沈没場所は、対馬の琴崎沖南南東9.6キロの、水深93メートルだと判明。当初は、日本の領海外の公海が沈没地点だと考えられていたようですが、この位置は完全に日本の領海内です(最大12海里(約22.2km)まで沿岸国の主権が及ぶ)。

この事前調査も含め、延べ90人といわれる潜水夫、また30億円ともいわれる費用をかけて行われた作業の結果としては、搭載していた複数の20cm砲の砲身などのほか、バラストに使われた鉛、プラチナのインゴット1個が引き揚げられました。

プラチナが発見されたと発表されたことから、すわ、その他の財宝もありか、と世間は沸きたちましたが、その後の調査でも何も出てこず、結局調査は打ち切られました。

引き揚げ物のうち、砲身のひとつは、お台場にある、船舶振興会の所有物であった「船の科学館」で展示されていました。またもうひとつは、現在でも対馬北部の茂木浜というところに今も放置同然に置かれています。

nahimof1

対馬茂木浜のナヒモフの主砲

この当時の北方領土問題の交渉相手はまだソビエト連邦でしたが、連邦政府は笹川の目論見通り、この報道にいち早く反応し、当艦とその積載物の所有権はソ連側にある、と主張したようです。しかし、その後たいしたものが引き揚げられなかったことがわかるとトーンダウンし、結局笹川が期待したような領土問題の進展もありませんでした。

こうして沈没から110年。今もナヒモフは日本海に沈んだままです。日露戦争で海の藻屑と消えた他のバルチック艦隊の船と同じくおそらく二度と海面上に現れることなく、朽ちていくことでしょう。

ちなみにアドミラル・ナヒモフの名は、その後旧ソ連の軽巡洋艦や、ミサイル巡洋艦などに引き継がれたほか、旅客船としても同名の船がありました。現在ロシア海軍で運用中の重原子力ミサイル巡洋艦も同じであり、ナヒモフ提督はいまもロシア国民を守り続けています。

自らの名が、100年以上にもわたって使い続けれているとうことを、流れ弾に当たって亡くなった提督もさぞかし草葉の陰で喜んでいることでしょう。

ニューヨーク港 1901年

SH-35

「ニュ-ヨーク港」とよく一口に言いますが、かなり広範囲に広がる港湾区域を指し、ぱっとすぐにその位置が言えるような単純なものではありません。

東京湾にある「東京港」は、湾岸一帯の地区をさしますが、ニューヨーク港の場合は、川やラグーンが複雑に入り組んでいて、その港湾空域は、ハドソン川河口近くにある川、湾および干満のある入り江などを指し、これらを集合的に「ニューヨーク港」と呼んでいます。しかし、アメリカ合衆国地理命名局では「ニューヨーク港」という言葉はありません。

とはいえ、歴史的、政治的、商業的にも「ニューヨーク港」と一括して使われることも多い呼称であり、一般に、ニューヨーク港という場合、主に以下の7つのエリアを指します。

1.ハドソン川
2.イースト川
3.ロングアイランド湾
4.ニューアーク湾
5.アッパー・ニューヨーク湾
6.ローワー・ニューヨーク湾
7.ジャマイカ湾

Waterways_New_York_City_Map_Julius_Schorzman

ローワー・ニューヨーク湾の外には広い海原が広がり、これは大西洋です。その先およそ3000海里、5600kmの海路を経て、ヨーロッパ大陸に至ります。

逆に外海から湾内に入ってくるとそこには複雑な港湾区域が広がっており、これらの各地区には「水路」がめぐらされていて、ニューヨーク港はこれによって成り立っているといっても過言ではありません。その水路面積は、現時点で約1200平方マイル (3100 km2)に及び、また海岸(河岸)線の総延長は、1000マイル (1600 km)以上に及びます。

ニューヨーク市のすぐ西隣はニュージャージー州となっていて、その港湾区域の一部は同州の一部にもなっており、ニューヨーク市5区とニュージャージー州近郷都市の岸辺を含んだものがニューヨーク港であり、時には「ニューヨーク&ニュージャージー港」といった表現もされることもあるようです。

このため、ニューヨーク港には12の個別に活動する港湾施設がありますが、これはニューヨーク州とニュージャージー合同で創設された港湾公社の港湾施設として管理運営されています。

合衆国では最大の石油輸入量と2番目のコンテナ取扱量を誇っています。しかし、近代における航空機の発達により、ニューヨーク港は旅客輸送の点では重要性を失ってきました。

このため、かつてのように大西洋を渡ってヨーロッパへ船出する旅客船などはめっきり減りましたが、それでも今なお、ニューヨーク市域を巡る幾つかの定期航路が生き残っています。

このほか、通勤用フェリーおよび観光客用周遊船もニューヨーク港内を巡っており、最近、ブルックリンのレッドフックには新しい旅客施設も開館しました。これらのフェリーは大半が私企業によって運営されています。(但し、スタテンアイランド・フェリーはニューヨーク市運輸局が運航)。

なお、ニューヨーク港を管理する港湾公社は、ニューヨーク市にある、ラガーディア空港とジョン・F・ケネディ国際空港、とニュージャージー州川のニューアーク・リバティー国際空港の主要3空港を運営しており、現在では船による旅客収入よりもこちらの空の港から得る収入のほうが多くなっているようです。

このニューヨーク港の歴史ですが、その昔、17世紀には先住民族であるレナペ族とう部族が住みついており、彼らが漁労や移動のために築いた、小さな水路がありました。これを港といえるかどうかはわかりませんが、ここを最初に訪れたと記録があるのが、現在ハドソン川にその名を残すヘンリー・ハドソンです。

イングランドの航海士、探検家で、北アメリカ東海岸やカナダ北東部を探検しました。ハドソン湾、ハドソン海峡、ハドソン川は彼の名にちなみますが、ハドソン湾発見後に、乗組員の反乱に巻き込まれ、そのまま消息不明となりました。

ハドソンがニューヨークを発見したのは1609年のことで、その後15年経た1624年から本格的な恒久的開拓地が始められました。間もなくこれらの場所の間を渡し舟が結ぶようになり、イーストリバー下流のマンハッタンの岸に風や氷から守るために桟橋が築かれました。

この桟橋は1648年に完成しており、ここはその後1783年にアメリカ合衆国が独立したあとに本格的に拡張されるようになり、現在のニューヨーク港の礎となりました。

1824年、アメリカでは初めての乾ドックがイーストリバーに完成し、ここで外洋にも出ることのできるような高性能の蒸気船が建造されるようになると、急速にニューヨーク港は発展していきました。続いて1825年のエリー運河の完成で、ニューヨークはアメリカ内陸部とヨーロッパおよびアメリカ東海岸を結ぶ最も重要な中継港にもなります。

1840年頃までに、ニューヨーク港を経由する旅客と貨物量はアメリカ全土の他の主要港を合わせたよりも多くなり、1900年までに世界でも最大級の港となりました。

OLYMPUS DIGITAL CAMERA

冒頭の写真は、ちょうどそのころのものであり、手前右側に停泊している2隻は帆船です。が、その後ろの倉庫群の合間には、蒸気船の煙突が数多く見て取れるほか、湾岸道路沿いに古式ゆかしい荷馬車が多数行き来しています。

その向こうに見えるのはイースト川に架かる1883年に完成したブルックリン大橋のようであり、その位置関係からこの写真は、ニューヨーク港南側のアッパー・ニューヨーク湾付近から北西側に向けて撮影されたものと推定されます。

このころニューヨーク港が急速に発展していったことを想像できる活気のある写真であり、これが撮影されたとされる1900年を挟み、1892年から1956年の間にはヨーロッパから1200万人もの移民がニューヨークに到着したとされています。

その後、ニューヨーク市内には次々と道路がつくられましたが、こうした主要道路の建設によって効率的な輸送が行われる前には、外部から着た貨物は水路を通って渡し舟で市内各地に運ばれていました。

これと同時にアメリカ大陸内には東部を中心に鉄道網が張り巡らされるようになってきており、内陸から運ばれてきた綿花や麦といった農作物はこれらを輸出するために列車を使ってニューヨーク港に集積されました。

こうした列車から積み出された貨物を転がして効率的に船積みできるよう甲板にレールを敷いた「列車いかだ」といった、小さな船が考案され、これを湾上に並べて船までリレーする「小船隊」などが開発されました。

また、大きな船は水路を鋭角に回る時に小型船の助力を必要としたため、これを助ける「タグボート」が考案され、さらには河川や運河などの内陸水路や港湾内で重い貨物を積んで航行するため平底の船舶がつくられるようになりました。これは現在「艀、(はしけ)」として知られているものです。

さらに、総計240マイル (380 km)にも及ぶ狭い水路を通り、ニューヨーク港内の奥にまで大型船舶を航行させるためには、水先案内人が必要となります。

多数の船舶が行き交う港や海峡、内海において、それらの環境に精通することが困難な外航船や内航船の船長を補助し、船舶を安全かつ効率的に導く専門家のことで、現在では国家資格である、水先人免許の取得が義務付けられている職人です。

現在における水先人は、港や狭い水路に近付いてきた大型船か、またはこれから離岸する大型船に直接乗り込み、船橋に立ってその船の行先を誘導することが職務です。このためには、小型船で目的の船まで移動しなければならず、この行き帰りに使用する小型船を「水先案内船」(パイロット・ボート)と呼びます。

しかし、この時代にはまだこうしたパイロット・ボートは自らが先を航行し、大型船を先導して安全な航路に誘導していました。その多くは下の写真のように帆船であり、この写真でもわかるように、ひと目でどこの所属かわかるように番号や記号などがその帆に描かれていました。

SH-34
パイロット・ボート

その後ニューヨーク港は、第一次、第二次大戦を経て、大西洋を横断する物資の集積地として発達していきましたが、港の活動はこの第二次大戦のころがピークであり、750の桟橋に425隻の外洋型船舶が横付けし、500隻以上が港内に停泊して係船への割付を待っていました。

港内各所には1100の倉庫と1.5平方マイル (3.8 km2)という広大な荷捌きヤードを擁し、575隻のタグボートと39箇所の造船所があったと、記録にはあります。また、1801年にはニューヨーク海軍造船所が建造されており、ここで生み出された数々の軍艦もニューヨーク港内にその威容を示していました。

ところが、この隆盛を極めていたニューヨーク港は、二次世界中、ドイツのUボートによる度々の攻撃を受け、大きな被害を出しました。1942年の1月から8月にかけ、ドイツ側の作戦名「ドラムビート」作戦においては、明確な総数はわかりませんが、おそらくは20隻以上のUボートが、3度にわたって、ニューヨーク港を襲いました。

これに先立つ1940年から41年にかけて、Uボートはイギリスやフランスの港湾を襲撃し、多数の商船を沈没させており、ドイツ海軍には大きな被害もなく、極めて戦果が大きかったことから、この作戦は連合国側からは「第一次ハッピータイム」と呼ばれました。

これに次ぎ、大西洋を渡ってニューヨーク港を襲撃し、第一次以上の戦果をあげたこの作戦は、「第二次ハッピータイム」と呼ばれました。Uボートの艦長はニューヨークの町の灯りを背景にして浮かび上がる標的船に容易に狙いを付けることができ、港内にアメリカ海軍の艦船が集中していたにも拘らず、少ない損失で攻撃を実行することができました。

この三波に渡る攻撃による被害は膨大のものとなり、この間に失われた貨物量は、第二次世界大戦を通じてニューヨーク港で扱われた総貨物量のおよそ4分の1にも達しました。最初の攻撃だけでも、3~4万トンクラスの貨物船が4隻、7000トンクラスが1隻沈められ、ほかにも10に上る船舶が炎上しました。

この最初の攻撃は、「2番目の真珠湾」とも呼ばれ、このときの合衆国艦隊司令長官、アーネストJ·キングには大きなが批判の声が寄せられました。

しかし、それにもかかわらず効果的な対策はとられず、その後、二波、三波の攻撃も行われましたが、その度に損害は増し、結局8月までの7か月間に大小合わせて609隻もの船が沈められ、310万トンの貨物と数千人の命が失われました。

事態を重く見た合衆国政府は、ヨーロッパの他の連合国とも連携してこのUボート掃討作戦を開始し、その後アメリカ海軍自らの手で確実に海底に葬ったとされるものが9隻、これを含めておそらく撃沈されたとするものの総数は22隻に上ったとされています。

しかし、失われた貨物や人命に比べればドイツ軍側に与えた損害はあまりにも寡少であり、それだけドイツ側にとってはおいしい作戦であったために「ハッピータイム」と呼ばれたわけです。

この当時のニューヨーク港は、ヨーロッパの連合国側へ送る物資が集中しており、主要積み出し点であったためにドイツ側には効率良い攻撃ができたわけです。また合衆国政府は、戦禍の中心地はヨーロッパであって、アメリカ本土は大丈夫、と踏んでいたきらいがあり、適切な護衛船が配備されていなかったことも被害を大きくした要因でした。

さらに、多数の貨物船を護衛の軍艦で守りながら集団で移動させる、護送船団方式という方式にも問題があり、船団を形成するために一度に多数の船舶をニューヨーク港に停泊させたことも被害を拡大させた原因でした。

Staten_Island_Ferry_terminal

このように第二次世界大戦当時のニューヨーク港は、ドイツに狙いうちされるほど世界でも有数な港であったわけですが、戦後は航空や自動車に押され、現在はさすがにそのころの隆盛ぶりはありません。しかし、なおも多数の船舶が出入りする世界的にも大きな港であるには変わりはなく、その維持管理も欠かせません。

とくに、港というものは、潮汐の干満や海流などによって外海から土砂が流れ込むものであり、また、ハドソン川のような大きな川からは川砂が流入してきます。このため、これらの土砂が徐々に堆積していくため、港内の水路や航路は、常に浚渫によりその深さを一定に保つ必要があります。

こうした港内の水深管理は、アメリカでは、「陸軍工兵隊」という特殊部隊の管轄とされており、この工兵隊は、日本でいうところの国土交通省の工事事務所のような役割を担っています。こうした港湾整備だけでなく、アメリカ全土の道路やダム、河川などの洪水対策をも受け持っている総合技術部隊でもあります。

ニューヨーク港の元々の自然の水深は約17フィート (5 m)ほどでしたが、1880年にこの工兵隊が水深を管理するようになってからは、約24フィート (7 m)まで掘り下げられ、さらに1891年までには、主要船舶航路はその水深が30フィート (9 m)にまでなりました。

第二次世界大戦のときには、さらに大型の船舶に対応させるために主要水路の水深を45フィート (13.5 m)にまで掘り下げ、さらに現在はその水深を50フィート (15 m)にするべく、工事が進められているといいます。

しかしここまで掘り下げると、岩層にまで達する場所も多くなり爆破が必要になります。爆破によって出た岩石の処理も必要となり、岩を運び出して廃棄処理する特殊船舶の開発や、廃棄場所の確保も必要となり、かなり大がかりな事業となります。

それでも現時点で約70カ所でこうした掘削が続けられているといい、世界でも類例のない、大規模な浚渫船隊が形成されているとのことです。ただ、この作業は時として騒音や振動を生むため、とくに港内西部にあるスタテンアイランドなどの住人からは苦情が寄せられているといいます。

しかし、そうした騒音公害以上に、ニューヨークっ子を震撼とさせたのが2001年9月11日に発生した、同時多発テロです。このときとくにニューヨーク港の施設に被害が出たわけではありませんが、目と鼻の先のワールドトレードセンターなどが破壊されたことから、その後港内の警備も一段と厳しくなりました。

そうした矢先の、2006年、ニューヨーク港の港湾施設の管理運営を委託されていたイギリスの船会社であるP&Oが、アラブ首長国連邦の港湾管理運営会社であるドバイ・ポート・ワールド(DPW)に売却される、という事件が起きました。

P&Oはニューヨーク港だけでなく、ニューアーク港、フィラデルフィア港、ボルチモア港、ニューオーリンズ港、マイアミ港といったアメリカ東海岸の主要港でコンテナターミナルを運営しており、その運営会社がイギリスだということで、アメリカ人の誰しもが安心しきっていました。

ところが、多角化路線が祟って関連企業の売却などを余儀なくされ、最近では海運・輸送業に資源を集中する決定を行って再建を急いでいましたがやはり経営は思わしくなく、そこへその買収を申し出たのがDPWでした。

DPWの属するアラブ首長国連邦は、アメリカとは友好関係を築いており、アラブ世界の中でも最もアメリカに親密な国のひとつです。が、現在大きな問題となっているシリアやイスラム国などと同じくイスラム教を尊守する国であり、当然この買収はアメリカ合衆国で激しい反発を招きました。

P&O買収は、アメリカ政府の各省の委員で組織する委員会で審議され一旦は了解されていました。しかし港湾の運営がアラブ首長国連邦の企業に移ること、またこの国がこれまでもアルカーイダメンバーの資金集めや人材供給の舞台となってきたことなどを共和党や民主党の下院議員が問題視し、激しく反発しました。

ところが、この当時のジョージ・W・ブッシュ大統領は、この取引を無効にすることは誤ったシグナルを米国の友人に送ることになるとして議員らに拒否権を発動することを警告し、政府内からもアラブ首長国連邦は親米国家であり米軍のペルシャ湾展開の基地ともなっている、とDPWの経営取得を支持する声が上がりました。

しかし2006年2月には議会とホワイトハウスの間で緊張感が高まり、投資の自由を優先するか米国のインフラの防衛を優先するかでメディアや論者を巻き込んだ争いになりました。

3月初旬にはDPWがアメリカ国内での港湾運営を米国資本に売却すると説明したことが明らかになり、結局DPWはアメリカの港湾部門をアメリカ企業、AIG傘下の資産管理会社に売却して撤退しています。

このように世界屈指の港といわれるニューヨーク港もまた、アメリカの中にありながら、アラブ社会の影響を受けているわけであり、いわんや多数のアラブ系の移民を抱えている合衆国という国の矛盾やジレンマはそうそう簡単に解消されることはありません。

かつての第二次大戦のドイツからの攻撃のように、アラブの過激派から再びこの地が襲撃されるのではないか、という不安をニューヨークっ子は払しょくできずに今日も過ごしていることでしょう。

我々日本人としては第三の真珠湾攻撃と呼ばれるような悲劇が二度と引き起こされぬよう、祈りたいところです。

Liberty_Maersk