客船オリンピック

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オリンピックは、1900年代にイギリスのホワイトスターライン社が、イギリスやアイルランドなどヨーロッパ各地とアメリカ東海岸のニューヨークなどを結ぶ大西洋航路に就航させた客船です。

姉妹船に、タイタニックとブリタニックがありますが、タイタニックはご存知のとおり氷山にぶつかって沈没し、ブリタニックは第一次世界大戦中にドイツ軍の敷設した機雷に接触して浸水、こちらも沈没しました。

不幸で短命だったこれら姉妹船と異なり、オリンピックは24年におよぶ長い就航期間と、逆に軍艦を沈める戦果を上げるなどの活躍ぶりから「Old Reliable(頼もしいおばあちゃん)」の愛称を持ちます。

オリンピックの名はギリシャ神話のオリュンポスからとられています。イギリスの造船業のハーランド・アンド・ウルフ社の会長が、ホワイトスターライン社のイズメイ社長に、3隻の大型客船造船を発案したのがその建造の発端です。

その3隻の船の先駆けとしてアイルランド、ベルファストのハーランド・アンド・ウルフで起工され、その直後にに2番船タイタニックが造船され、少し遅れて3番船のブリタニックの造船が開始、という順番です。

冒頭の写真が撮影されたのは、1911年6月21日となっています。オリンピックの就航はこの一週間前の1911年6月14日ですから、この写真は処女航海で大西洋を渡り、ニューヨーク港についたばかり、あるいはニューヨーク港から逆にイギリスに向けて出立する前の写真ということになります。

背後に似たような4本マストの客船が停泊していますが、このころにはまだ姉妹船のタイタニックやブリタニックは就航していませんから、これはホワイトスターライン社と同じく多数の客船を保有していたイギリスのキュナード社のルシタニアかモーリタニアのどちらかと思われます。

いずれもオリンピック級とは一回り小さい(オリンピック級が排水量52000トンに対して44000トン程度)ものの、遠目ですからそれほどの差異は感じられません。

この当時、ホワイトスターライン社とキュナード社は、大西洋路線をめぐって激しい建造合戦を繰り返しており、両社はライバル関係にありました。ルシタニア・モーリタニアの姉妹船はオリンピック級よりも5年早く就航していますが、アメリカへの移民は急増しており、この2船の就航によりキュナード社は大きな利益をあげていました。

ホワイトスターライン社は、それまでもアラビック(1903年就航、15,801 トン)アドリアティック(1907年就航、24,541トン)などを保有していましたが、老朽化が進んでおり、乗客数も速度もキュナード社の船よりも劣っていました。オリンピック級3船の建造は、その巻き返しを一気に図るためのものでした。

当時は世界で最も巨大な船で、今でいう巨大クルーズ船といえるほどの規模です。それに加え“絶対に沈没しない”という不沈伝説まで生まれましたが、処女航海でタグボート「O・L・ハーレンベック」を巻き込みそうになったり、1911年9月20日にはイギリス海軍のエドガー級防護巡洋艦「ホーク」と衝突事故を起したりと、当初は何かとトラブルが多い船でした。

その先行きは、翌年その処女航海で沈没したタイタニックと似たような悲劇を暗示しているようにも思われました。が、幸いにもその後の運行は安定し、タイタニックの沈没後、未だブリタニックの造船も進んでいない中、オリンピックは1船体制で大西洋を駆け巡りました。

Olympic_ggbain_09366オリンピック(冒頭の写真と同じころ)

実はオリンピックは、タイタニックからSOSを受信し救難に向かった船の1隻でした。しかし、このとき両船は800kmも離れていました。

沈没現場に到着したのは約107km離れた地点にいた、ライバル会社のキュナード社の客船、カルパチアであったということは皮肉です。オリンピックがタイタニックの沈没地点に到着したのは、カルパチアが残る遭難者を救助した後でした。

SH-27B8出航直前のタイタニック

オリンピックとタイタニックの両船の建造は、オリンピックのほうが、1908年12月16日起工、タイタニックのほうが3ヵ月後の1909年3月31日起工とほぼ同時期であり、設計も同じであったことから、見た目には瓜二つでした。このため、タイタニックの写真としてオリンピックの写真を使われる例がよくあったといいます。

しかし一番船として先に竣工したオリンピックの改善点を受けて、タイタニックの設計は多少変更され、外観も二つの姉妹船は多少異なっていました。

例えばAデッキ(最上階のデッキ)の一等専用プロムナード(遊歩道)の窓が、オリンピックは全体が海に対しベランダ状に吹きさらしになっていたのに対し、タイタニックは前半部がガラス窓が取り付けられた半室内状に変更されました。これは北太平洋の寒い強風から乗客を守るためでした。

後に竣工したブリタニックのプロムナードの窓もタイタニックと同じ作りです。またオリンピックはBデッキ全体にもプロムナードデッキが設けられていましたが、タイタニックではBデッキのプロムナードデッキが廃止され、窓際全体が1等客室に変更されました。

このため、1等客室の数はタイタニックのほうが多く、総トン数もタイタニックのほうがわずかに重くなりました。そのタイタニックの沈没を受けて、ホワイトスターライン社はその後、オリンピックの船体側面を2重構造化、救命ボートの数を倍以上に増やしました。

Olympic_and_Titanic姉妹船タイタニック(右)と並ぶオリンピック(左)

タイタニックの沈没により、ホワイトスターライン社の評判はガタ落ちとなり、多くの乗客をキュナード社に奪われる状況となったためで、同社は乗客の信頼を取り戻すのに必死でした。しかし、タイタニックの就航・沈没から2年後の、1914年にブリタニックがようやく進水式を迎えました。

これにより、それまでオリンピックただ1船だけ運営されていた大西洋路線にカツが入るところとなり、ホワイトスターライン社の幹部は喜びました。しかし、それもつかのまのことで、それから時間をおかずして、第一次世界大戦が勃発します。

進水式を迎えたばかりだったブリタニックは、第一次世界大戦勃発により竣工が翌年に延ばされ、さらには竣工直後の1915年12月12日、イギリス海軍省の命により病院船として徴用されてしまいます。船体は純白に塗られ、船体には緑のラインと赤十字が描かれました。

オリンピックのほうも当初徴用を免れていたものの、これに先立つ1915年9月に軍事物質輸送船として徴用されることになります。戦局はこのころかなり進んでおり、1914年10月27日にオリンピックは、アイルランド北方で触雷したイギリスの戦艦オーディシャスの曳航を要請されました。

このときオリンピックは現場へ急行し、沈没船の乗員の救助にあたり、オーディシャスをロープで牽引して本国に向かいましたが、途中荒天のために曳航綱が切れ、オーディシャスは沈没しました。

その後も、イギリス海軍省の命を受けて軍用輸送船として徴用されましたが、このころ大西洋に神出鬼没で連合国軍を脅かしていたドイツの艦船などに対抗するため、12ポンド砲と4.7インチ機関銃が取り付けられました。

こうした武器の艤装を終え、1915年9月24日には新たに「輸送船2410」として、リバプールからガリポリに向けて部隊を輸送する任務につき、その後も主として、東地中海において人員の輸送任務を続けました。

このころ、姉妹船のブリタニックも病院船として活躍しており、1916年11月半ばにエーゲ海のムノス島へ向けてサウサンプトンから出航しました。11月15日夜中にジブラルタル海峡を通過し、11月17日朝に石炭と水の補給のためナポリに到着しました。

嵐のため、ブリタニックは19日午後までナポリに滞在していましたが、天候が回復した隙にブリタニックは出航します。11月21日の早い時間にギリシャ南部のケア海峡に入りました。しかしその直後、ブリタニックは同海峡に敷設してあった機雷に触雷します。船長は機関を停止して防水扉を閉じるよう命じましたが、なぜか浸水は止まりません。

しかたなくエンジンを再起動して近くの島に船体を乗り上げようと試みましたが、船体に穴が開いたにもかかわらず航行したので、結果的にタイタニックの3分の1の50分で沈没することとなりました。

病院船として運用されていたため多数の病傷者がいましたが、幸いにもその多くは救助され、死者は21名で済みました。その大半は、船尾が持ち上がり始めた際にスクリューに巻き込まれた2隻のボートに乗っていた人員でした。

HMHS_Britannic徴用され塗装が変更されたブリタニック

Britannic_sinking
沈没するブリタニック

こうしてオリンピック級の姉妹船のなかで唯一生き残ることになったオリンピックは、1916年から1917年にかけて、同じ連合国であるカナダ政府に徴用されるところとなり、カナダの東部のハリファクスからイギリスへの部隊輸送を行う任務につきました。1917年には、従来の装備に加えてさらに6インチ機関銃を装備し、迷彩塗装を施されました。

RMTOlympic
迷彩塗装を施されたオリンピック

翌年の1917年にはアメリカがこの戦争に参戦しました。このため、アメリカからイギリスへの大量の部隊輸送が必要となり、オリンピックはそのためにニューヨークなどの東海岸の港とイギリスを結ぶ大西洋路線に就航することになりました。

そうした中、1918年5月12日に、オリンピックは中央同盟国側のドイツの潜水艦U-ボートから突如雷撃を受けます。

このとき、オリンピックはアメリカ兵を多数乗船させてフランスに近づきつつありましたが、この日の早朝、見張りが500メートル先に浮上したUボートを発見。すぐさま乗船していた砲手によって12ポンド砲が火を噴きました。これに驚いたUボートはすぐさま潜航を始め、30mほどの水深を保ちつつ、その艦尾をオリンピックに向けました。

オリンピックの船長バートラム・フォックス・ヘイズは、このとき魚雷を避けようと転舵を命じていますが、Uボート(U-103)の艦尾発射管から放たれた魚雷は航跡を描きつつオリンピックの船底に命中します。

しかし、この魚雷は不発弾でした。ヘイズ船長はこの雷撃を回避した直後にさらに回頭し、このとき魚雷の成果を見届けようと浮上しつつあったUボートに体当たりを喰らわせました。

U-ボートは、大きくカーブを描いて体当たりしてきたオリンピックのちょうど船尾付近で強打され、この衝撃で、司令塔のあたりが破壊され、そこへ続いてオリンピックの左舷側が直撃し、そこにあったプロペラが気密室を切り裂きながら進みました。

これにより沈没を免れないと悟ったUボートのクルーは、船体ごと拿捕されることを恐れ、バラストタンクを解放して、潜水艦を自沈させました。

このとき、オリンピックも少なくとも2か所がへこみ、船首部分の衝角がねじまげられるほどの損傷を受けましたが、もともと頑丈な水密隔壁で守られている部分であったため、事なきを得ました。

このとき、オリンピックは、U-ボートの生存者を救うために機関を停止し、その結果31名の敵兵を助けました。のちにこのU-ボートクルーは、オリンピックを発見したとき、2つの船尾魚雷を用意していたことを明らかにしました。

そのうち一発は実際に発射されましたが、上述のとおり不発であり、もうひとつは魚雷管に注水される間もなくオリンピックの体当たりを受けたために、発射されなかったことがわかりました。それにしても、巨大な船体を体当たりさせて潜水艦を撃沈したという例は稀で、これは第一次世界大戦中においても商船が軍艦を撃沈した唯一の事例となりました。

のちに、この船長のヘイズの行動には批判も集まりましたが、彼はアメリカ政府から殊勲十字勲章を授与されています。

その後、第一次世界大戦を通して、オリンピックは34万7千トンの石炭を消費して、12万人の兵員を輸送し、18万4千マイルを走りました。戦後、客船となり点検を受けた際に、喫水線の下にへこみが見つかり、調査の結果、これが上述の不発の魚雷の衝突痕と確認されました。もし爆発していれば、沈没は免れなかったと考えられています。

オリンピックは第一次世界大戦終結後に再び客船として就役し、その後20年近く現役の客船として栄光を保ち続けました。500回もの大西洋横断をこなし、晩年には「Old Reliable(頼もしいおばあちゃん)」という愛称で親しまれ、1935年に引退しました。

引退後のオリンピックは解体される予定でしたが、豪華な内装を持つこの船を廃棄するのは惜しいという声があがり、内装の一部がオークションにかけられました。そしてダイニングの内装をイギリスの夫人が買い取り、屋敷として使用しました。

Grand_staircase

オリンピックの内装 映画タイタニックでも再現された

夫人の死後、その屋敷もまたオークションに出されていましたが、世界有数の船会社であるロイヤル・カリビアン社が落札。自社の船である2000年竣工のミレニアムのレストランに使用することが決定しました。

そのレストランは「オリンピック・レストラン」という名で現在も営業されており、室内はオリンピックのダイニングがそのまま利用されているとのことです。オリンピックで使われていた食器類も飾られており、タイタニックとほとんど同じ内装であることからその後放映された映画「タイタニック」の影響もあり、連日の大盛況だそうです。

Olympic_and_Mauretania
解体ドックに移されたモーリタニア(右)とオリンピック(左)