ビロクシ ~ミシシッピ州

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ミシシッピ州は、アメリカ合衆国南部に位置する州です。州都および最大都市は内陸部にあるジャクソン市で、州名はインディアン部族オジブワ族の部族語で、「大きな川」を意味するミシシッピ川から取られています。

ミシシッピは、1817年12月10日、アメリカ合衆国20番目の州に昇格しました。州の大半が湿地帯であり、川が主要な輸送路だったので、川に沿った地域に数多くのプランテーションが開発されました。初期の町々もこれらの場所に発展し、商品や作物を市場に運ぶ蒸気船で結ばれました。

1850年代における産業においては綿花が王様でした。右隣のアラバマ州中央部からミシシッピ州北東部にかけて広がる黒土のと湿草原で形成される地域、これは「ブラックベルト」と呼ばれますが、ここのプランテーション所有者はその土壌の肥沃さ、国際市場での綿花の高値、さらに奴隷という資産で裕福になりました。

そこから得られる利潤を使ってさらに綿花栽培用の土地と奴隷を購入した結果、プランテーション所有者は数十万人の奴隷労働者を擁するようになり、白人富裕層を生み出しました。

一方では、豊かな白人に雇われるだけの貧しい白人も多く、白人の中においても貧富の差が大きくなりました。とはいえ、綿花によって全米でも一二を争うほど豊かな州となったため、その後ミシシッピ州がアメリカ合衆国からの脱退を支持したときにはアメリカ全体の経済や政治にも大きな影響を及ぼしました。

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その富を生み出す原動力となった奴隷労働者の多くはアフリカから連れてきた黒人です。1860年時点で奴隷人口は436,631人であり、州人口791,305人の55%になっていました。

しかし、南北戦争前は、彼等を合わせてもミシシッピの労働者人口は総じて少ないほうであり、このため土地と村の開発は主要輸送路となるミシシッピ川などの川沿いのみに限られました。ミシシッピデルタと呼ばれる沿岸部の低地の90%は未開であり、このため19世紀までのミシシッピの大部分は依然フロンティアでした。

州は開発のためにさらにより多くの入植者を必要としており、奴隷制度はその成長のためには必須の制度でした。が、やがてこの撤廃を掲げる北部の諸州とは次第に反目するようになります。

こうして、1861年、ミシシッピ州はアメリカ合衆国からの脱退を宣言した2番目の州となり、新たに設立された「アメリカ連合国」の一員になりました。その後とうとう南北戦争が勃発、この中、ミシシッピ州を含む南軍は重要な補給路であるミシシッピ川の支配権を巡って北軍と激しく戦いました。

しかし、北軍のユリシーズ・グラント将軍が、ミシシッピ川沿岸の戦略上の最重要地、蒸気船の主要港のある、ビックスバーグを長期間包囲するようになります。このため、北軍は1864年までにはミシシッピ川を完全に支配するところとなり、これが結局南軍が敗れる大きな要因となりました。

戦後のミシシッピは、北軍で組織された連邦政府が南部諸州の合衆国への復帰と、元連合国の指導者たちの地位の回復に取り組みました。これを「レコンストラクション」と呼びます。議会は、普通選挙を採択し、選挙権や被選挙権に対する資産資格を排除し、また州初の公共教育体系を作り、資産の所有と継承では人種差別を禁じました。

こうして、ミシシッピ州は1870年2月23日に合衆国に復帰します。しかし、解放されたはずのアフリカ系アメリカ人(自由黒人)の法的、政治的、経済的、社会的なシステムでの、恒久的な平等の実現には失敗します。

白人議員が1890年に新憲法を作り、実質的に大半の黒人と貧乏白人の多くから選挙権を取り上げる有権者制限条項を設けたためです。このため、その後数年間で推計10万人の黒人と5万人の白人が有権者名簿から外されるという事態に発展します。

1900年時点で黒人人口は州人口の50%以上でしたが、これが1910年には、黒人農夫の過半数がデルタの土地を失い、小作農になりました。1920年では、奴隷解放後の第3世代となったアフリカ系アメリカ人の大半が、再度貧乏に直面する土地無し労働者になっていきました。

286px-Map_of_USA_MSミシシッピ州の位置

20世紀初期以降、州内では綿工業以外の幾つかの産業が興りましたが、職は概して白人に限られ、労働者には白人の児童も含まれていたため、なおさら黒人には職が回ってきませんでした。しかし、州内の工業は未だ発展途上であり、このため職が無い白人も多く、彼等はシカゴのような都市に移住し雇用機会を求めるようになります。

その後、農業に依存していたミシシッピ州でも機械化が進むようになりましたが、これが逆に農業労働者を失わせる結果ともなり、多くの白人が失業するようになります。

こうして、白人も黒人も仕事がない、という時代が長く続いたことから、南部からは他州に移住する、いわゆる「マイグレーション」がさかんとなり、その規模も大きかったことから、「グレートマイグレーション」と呼ばれるようになります。

この大規模な民族移動は1940年代に始まり、1970年まで続きました。この時代にほぼ50万人がミシシッピ州を離れ、その4分の3は黒人でした。20世紀前半のこの時代、アメリカ全国でこうしたミシシッピなどからのアフリカ系アメリカ人が急速に都会に入るようになり、その多くは移住した先の都市にある工場で働くようになりました。

このグレートマイグレーションの主な行き先としては、とくにアメリカ合衆国西部が多くなかでもカリフォルニア州に集中しました。このころまでにカリフォルニア州では防衛産業が発展しており、アフリカ系アメリカ人に対しても高い賃金を払うことができたためです。

一方、グレートマイグレーションの間に多くのアフリカ系アメリカ人が離れていったので、1930年代以降ミシシッピ州では、黒人はむしろ少数派に変わっていきました。そして、1960年までには、その構成比は42%にまで落ち込みました。

しかも依然として1890年に定められた憲法の条項に従い、白人が管理し、差別する有権者登録は継続しており、アフリカ系アメリカ人の大半は投票できず、これがまた州外への黒人流出を助長しました。

しかしその一方で、グレートマイグレーションのあとに残されたアフリカ系アメリカ人と白人は、豊かで真にアメリカ的な音楽の伝統を築き上げました。ゴスペル音楽、カントリー・ミュージック、ジャズ、ブルース、ロックンロールは、この時代に生まれたものです。

そのほとんど全てがミシシッピ州のミュージシャンによって創成され、広められ、大きく発展したと言っても過言ではありません。ミュージシャンの多くはアフリカ系アメリカ人であり、ミシシッピ・デルタ低地の出身でした。こうした多くのミュージシャンは、のちにシカゴなど北部にも音楽を伝え、シカゴのジャズやブルースの中心を作り上げました。

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しかし、1960年代に入って、公民権運動が活発な時代に入り、ミシシッピ州では黒人教会が中心となって黒人に有権者登録を行わせる教育活動などもさかんに行われるようになりました。全国の学生や社会組織者がミシシッピ州に来て公民権運動をするようになり、彼等は黒人の有権者登録を支援し、自由の学校を設立しました。

ところが、白人政治家の大半はこうした運動に抵抗しようとし、白人によって構成されたミシシッピ州主権委員会の創設など、厳しい対応をとりました。多くの州民が白人市民の委員会に参加しましたが、とくに「白人至上主義」を掲げる「クー・クラックス・クラン」と呼ばれる過激集団なども形成されました。

彼等に同調する者たちの暴力戦術は次第にエスカレートし、暴動が頻繁に起こるようになると、1960年代のミシシッピ州は「反動の州」という評判が立つようになります。

しかし、これが逆に功を奏し、州内のアフリカ系アメリカ人たちはふるいたち、1960年代半ばにはその選挙権の行使を強力に推進し始めました。さらに連邦政府は1964年と1965年に公民権法を成立させ、人種差別と憲法による選挙権規制を止めさせました。

その後も州内では白人と黒人の長い闘争の時代がつづきましたが、1987年になってようやく、ミシシッピ州では、人種間結婚の禁止法を撤廃しました。これは1967年に既にアメリカ合衆国最高裁判所がに違憲と裁定していたものですが、これでようやくミシシッピにも黒人復権の時代が訪れました。

1989年には人種差別時代の人頭税も撤廃するところとなり、1995年には、1865年に奴隷制度を廃止したアメリカ合衆国憲法修正第13条を象徴的に批准しました。さらに州議会は2009年、1967年にアメリカ合衆国最高裁判所が違憲と裁定していた人種差別的公民権法を撤廃する法案を可決。共和党知事ヘイリー・バーバーがこの法に署名して成立しました。

それにしても、わずか6年ほど前のことであり、ごくごく近代までこうした黒人差別が続いていたことは我々日本人にとっては驚きです。

さて、冒頭の写真ですが、撮影地は「ビロクシ」とされています。陶器店のオヤジが天上にまでびっしりと居並ぶ壺や色々な容器に囲まれて新聞を読んでいますが、どうやら白人のようです。陶器の多くはどうみてもアメリカ原産のものではなく、アラブや南米からきたもののようであり、エスニックの臭いがします。

このビロクシの歴史は300年以上に及んでいます。1699年にフランス人入植者によってフロリダのペンサコーラに近いペルディド川という場所で、スペイン領フロリダとルイジアナが分けられました。

ビロクシという名前はフランス語で、綴りが”Bilocci”ですが、現在の英語表記では、Biloxiが正式となっています。1720年、フランス領ルイジアナの行政上の首都が右隣のアラバマ州のモービルからビロクシに遷されました。従って、ビロクシは初期のころには南部でも有数な都市でした。

biloxiビロクシの位置 左下がニューオリンズ

しかし、植民地総督のディベアビルは高潮やハリケーンを恐れたので、1718年から1720年に掛けて首都を遷す目的で「ル・ヌーベル・オーリアン」と名付けられた新しい内陸港湾町を建設し、1723年にはここにビロクシから首都を移しました。これが現在のニューオーリンズであり、ビロクシからは西方におよそ100kmのところにあります。

その後、プロイセン(ドイツ)及びそれを支援するイギリスと、オーストリア・ロシア・フランスなどのヨーロッパ諸国との間で行われた七年戦争においてはイギリスが勝利したため、1763年のパリ条約では、フランスはミシシッピ川より東の地でニューオーリンズを除くルイジアナをイギリスに割譲しました。

これにより、この地域はイギリスが1763年から1779年が支配しましたが、その後アメリカの独立戦争の緒戦でスペインがイギリスに勝利したため、1798年まではスペインが支配するところとなりました。

このように、フランスからイギリスへ、さらにはスペインへと主権が渡ったという事実にも関わらず、ビロクシの特性にはフランス的なものが残りました。その後アメリカはスペイン人も駆逐したため、1811年、ビロクシはミシシッピ準州の一部としてアメリカ合衆国の支配下に入り、1817年には州に昇格しました。

この頃からビロクシは成長を始めました。上述のように、ミシシッピ州全土でアフリカ系の黒人を多数奴隷として連れてきては綿花のプランテーションを作って行った結果、多くの白人富裕層が生まれましたが、ビロクシもまた例外ではありませんでした。

ビロクシではしかも、ニューオーリンズに近いことと、海に接していることを利点として夏のリゾート地になり、羽振りの良い白人農夫や商人が夏の家を建てるようになりました。自分の家を建てられない者のためにはホテルや賃貸コテージが建設されるなど、一躍観光地として飛躍するようになります。

しかし、その後南北戦争が勃発します。ビロクシ沖合いには、シップ島という横に細長い島がありますが、ミシシッピ州はここに灯台とともに要塞を築き、戦略上の拠点としていました。ところが、戦争の初期の段階で北軍がここを落しとしたため情勢は南軍にとって不利なものとなり、実質的にビロクシも北軍の手に落ちることになりました。

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シップ島の要塞

BiloxiMS_Lighthouse観光名所でもある灯台

あまりにもあっさりとビロクシは落ち、またこの周辺では大きな戦闘も無かったので、ビロクシはこの戦争から直接の被害を受けることもありませんでした。こうして南北戦争が終わり、戦後、ビロクシは再度観光地として発展しました。

その後は鉄道の開通と共に再びリゾート地としての人気も高まっていき、さらには1881年、町では初の缶詰工場が建てられ、その後その他の食品工場の造成が続きました。こうした食品工場で働くために様々な民族の集団が町に来るようになり、ビロクシは異文化の集まる性格を持つようになりました。

ビロクシ中心部にはフランス統治時代の名残の建物が多く残っていましたが、こうした異文化がこの町に流れ込んだことが、冒頭の写真からもうかがわれます。おそらくはフランス人が建てた住宅の一部を改装して作られた店なのでしょうが、そこに持ち込まれたのもこうした異文化から持ち込まれた陶器の数々というわけです。

Howard_Street_Biloxi_Mississippi_19061906年のビロクシ

その後第二次世界大戦のとき、ビロクシには、アメリカ陸軍航空軍の空軍基地が建設され、ここが主要訓練施設と航空機の修理施設になりました。その結果としてビロクシの経済はさらに急成長し、再度様々な民族の集団が集まるようになりました。

1940年代までには、ミシシッピ州のメキシコ湾岸は「貧乏人のリビエラ」として知られるようになり、ビロクシにも夏の間釣りに興味がある南部の家族連れが多く訪れるようになり、また漁業者も増え、エビ釣りボートやカキ採りをする者も多くなりました。

1960年代初期までには、さらに観光地としてメキシコ湾岸は発展していきます。北部住人にとってのフロリダに代わる南部保養地とし発展するようになり、ビロクシはその中心になりました。

それまでもあったフランス風のホテルはその快適さを増すために改修され、かつての地権者フランス本国やスイスからシェフを雇い入れ、国内でも最高級のシーフード料理を出すようになりました。

1990年代はミシシッピ州で合法ギャンブルが導入されたため、ビロクシは州内におけるカジノの中心地となり、ホテルなどの施設が市に何百万ドルもの観光歳入をもたらしました。こうしてビロクシを中心とするメキシコ湾岸地域はアメリカ合衆国南部でも先進的ギャンブル中心地と考えられるようになっていきます。

Biloxi_Casinos

 ビロクシカジノ

ちなみに筆者は1980年代の後半にこのビロクシを通過しています。このときの目的地はニューオリンズだったため、じっくりは見ることはありませんでしたが、海辺の瀟洒なりリゾート地といった風情でした。もっと時間があれば、市内に残るフランス時代の遺物なども見れたのに、と残念です。

こうして発展していったビロクシには、2000年代初期までにシーフード、観光およびギャンブルという経済上の3つの柱ができました。2000年には初めて人口が5万人を超え、ますますリゾート地としての名声が高くなってきました。

ところが、2005年8月29日、ハリケーン・カトリーナがミシシッピ州のメキシコ湾岸を襲います。ビロクシを含む多くの沿岸地域が、暴風、大雨に襲われ、高さ27フィート (8.2 m) にも達する高潮に見舞われて大きな被害を出しました。

ビロクシと隣接するガルフポートの町の海岸沿いにある建物の90%はハリケーンで破壊され、ビロクシにおいても海岸に浮かべられていた浮遊型のカジノの幾つかが岸に持ち上げられ、損傷しました。

海岸にある教会も全て破壊されるか損傷を受け、ビロクシ公共図書館も高潮が浸水して修理不可能としなり、全面的な建て替えが必要になりました。その他の市中の民家の被害も大きく、人的には市内だけで53人の命が失われました。

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このハリケーンから早10年が経ちます。この間、人口の減少が続き、2010年には、2000年比でマイナス13%の減少があり、人口は44000人にまで落ち込みました。

しかし、その後ビロクシのウォータフロントを再建する多くのプランが立てられ、ビロクシにあるカジノの中で8軒は営業を再開しました。連邦政府は最近ミシシッピ海岸の家屋所有者17,000人にその資産を売却すれば援助を惜しまない、という選択肢を与えています。彼等を転居させ、遠大なハリケーン防護ゾーンを建設することを検討しているためです。

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ビロクシ湾を跨ぐビロクシ・オーシャンスプリングス橋はハリケーン・カトリーナの後に再建され、2008年4月に全線開通しました。復活したカジノのほか、公園や美術館を整備し、再びホテルも帰ってきているといい、その復興は徐々に進行しています。

私が訪ねたときは、穏やかな天気に恵まれていて、ほんとうに静かなビーチリゾートでしたが、その以前と同じように美しく復活したそのリゾート地を再び見る日が来ることを祈りたいと思います。

ニュージャージー州 アズベリー・パーク

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アズベリー・パークは、米ニューヨークの南約70キロ・メートルにある町で、ニュージャージー州に位置しますが、ニューヨークのメトロポリタンエリアの範疇にも入る場所です。

もともと自治区の法律によって、1874年に公園として開発された場所で、その後人口が増えると同時に都市に昇格しました。現在の人口は16000人あまりです。

アズベリーの名前は、1871年にこの地に入植したメソジスト監督教会の司教、フランシス·アズベリーにちなんでいます。19世紀の終わりころには、ジャージーセントラル·パワー&ライト社がこの地に電気を配電するサービスを開始し、海岸一帯のリゾート地としての開発が始まりました。

遊歩道に沿ってボードウォークが設置され、オーケストラが演奏できるパビリオンが建設され活気を呈してきたころから、他地域からビジネスマンが集まり始めました。その後観光地としてさらに開発が加速し、20世紀初頭のある夏のシーズン最盛期には、20万人もの観光客がニューヨークやフィラデルフィアからやってきました。

冒頭の写真はそのころのものであり(1903年撮影)、写りこんでいる船は何かよくわかりませんが、状況から観光船のようなものかと思われます。浜辺で見送っている人達の服装も如何にもレトロですが、比較的裕福な層の人々と思われ、クルーズ船による沿岸航行は、こうした人達に人気だったのでしょう。

AsburyBeach同じく20世紀初頭の写真

1920年代には、地域一帯の開発はさらに加速し、沿岸地域には、パラマウントシアターやコンベンションホール、カジノアリーナ、カルーセルハウス、おしゃれな赤レンガ造りのパビリオンなどなどの数々が建設されました。

Postcard_of_Asbury_Park_and_Ocean_Grove_Railroad_Station,_NJ_19081908年のポストカード 画面に映っている建物は鉄道の駅舎

こうした繁栄は、戦後も長く続き、人口を倍増させていきました。とくに1960年代には、ニューヨーカーや観光客が訪れる人気スポットとなり、海岸の遊歩道には家族連れがあふれていました。

しかし、70年代に入り、道路網が整備されると、観光客は、ここからさらに約100キロほど南にできたより大型リゾート地アトランティックシティーを好むようになりました。

80年代以降、観光地のにぎわいが消え失せ、地域の経済は大きく落ち込んでいき、地元の若者は将来を悲観し、夢を失いかけていました。

一方、このころまでに、アズベリー・パークは、ミュージシャンのための聖地と目されるようになっていました。多くの歌手をこの地から出し、その後、ロックンロールとして知られるようになるジャージー・ショア・サウンドの発祥の地となりました。

とくに、1974年に建てられた「ストーンポニー」というライブハウスは、多くのパフォーマーのための出発点となりました。

ここで唄った数ある歌手の中から排出された、ブルース・スプリングスティーンもこのアズベリー・パークを原点とする一人です。現在では米ロック界の大御所と目されていますが、その無名時代、出生地に近いこの海辺の町で音楽活動を始め、毎日のように曲を作り、ここで熱唱し、わずかのギャラで食いつなぎました。

悲願のデビューアルバムのデザインには、町の風景を描いた絵はがきを使ったといい、そして、愛して止まないこの町に起きた凋落は、しがないギター青年だった彼が希代のロックスターに跳躍するための原動力の一つとなっていきました。

駆け出しのスプリングスティーンが見たのは、この衰退の過程であり、廃れゆく町での悶々もんもんとした思いを歌詞につづりました。68年から6年間、一緒にバンドを組んだビメンバーは、のちに「俺たちは、ロックで有名になり、この町から出たかった」と思い出を語っています。

スプリングスティーン自身はその思いを歌に込め、「見つからないアメリカン・ドリームを追いかけて、俺たちは厳しい生活を送っている」、としゃがれ声で歌う「明日なき暴走」の一節は、明日のない社会の中で必死にもがくこの当時のアメリカの若者の琴線に触れ、大きな共感を呼びました。

1975年にリリースされたこの曲は自身初の全米トップ10入り(ビルボード誌のアルバム・チャートで3位)を果たした名盤ですが、この1975年というのはベトナム戦争の終結した年になります。

スプリングスティーンが作ったこの歌は長引く戦争への厭戦気分によって退廃気味の世相に一石を投じたものであり、彼自身の友人でベトナム戦争に招集された仲間への賛歌であり、また不景気で荒廃する都市、といった社会問題にも向けられたものでもありました。

Deserted_Ocean_Avenue_in_Asbury_Park,_NJ荒廃した町 1980~1990年ころ

スプリングスティーンの歌にはこの時代のアメリカが投影されているといえ、最近では、2008年の金融危機以降、貧富の差が拡大した米社会を批判する曲も発表しており、彼自身、自らの音楽活動について、「アメリカの現実とアメリカン・ドリームがいかに懸け離れているのかに対する疑念を込めてきた」と語っています。

社会の繁栄と一部地域の退廃、自らが体験したこうしたジレンマこそが彼の原点であり、そこから彼の音楽を通じたメッセージが生まれてきたわけです。

アズベリー・パークの寂しさは現在までも続いており、町の人口は横ばいのまま推移しています。青く美しい海とは対照的に、海辺を離れると、人通りが少ない地区が目立つといい、貧困層の割合は3割を超え、住民の生活苦は変わらないままです。

しかし、スプリングスティーンは今もこの町を訪れ、昔の仲間とビールを飲み、「ストーンポニー」でライブを行っているそうです。

あなたがここを訪れた時もひょっこりとその姿を見せるかもしれません。ニューヨークまで行く機会があれば、ぜひこの退廃の町、アズベリーまで足を延ばしてみてください。

Asbury_Park_Boardwalk海岸沿いは、最近かなり再開発され、きれいになっている

リンカーン・パーク1905年 ~シカゴ

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リンカーン・パーク(Lincoln Park)は、アメリカ合衆国イリノイ州シカゴのミシガン湖に面した総面積4.9平方キロの公園です。

写真が撮影された1905年は、1893年にシカゴ万国博覧会が開催されて、12年後の年です。このころのシカゴは、国際的な地位を高めるとともに文化都市として脚光を浴び成功を収めたころであり、同博覧会の開催後は、オーケストラホール、図書館、博物館、公園などの文化施設の建設ラッシュとなっていました。

1882年から1905年にかけては、アメリカ全土で電力産業が乱立するようになり、公益事業の価格統制制度が導入され、低料金の電気が普及してきた時期でもあり、シカゴの人口は1900年に170万人に達し、ニューヨークに次ぐアメリカ第二の大都市になりました。

このリンカーン・パークは、1843年に設置されたシカゴ市営の墓地がその前身です。1859年までシカゴ地区唯一の墓地でしたが、1864年に、シカゴ市議会は現在と同じ範囲の全墓地を公園に変更することを決定しました。

ところが、その造成を始めようとした矢先の1872年10月8日、のちに「シカゴ大火(Great Chicago Fire)と呼ばれるほどの大火災が発生しました。出火原因は不明とされていますが、よく知られる伝説として、シカゴ市南西部の牛舎で、一家の主婦が牛の搾乳をしようとしていたところ、灯り取りのランタンが牛に蹴られて倒れ出火したという話があります。

しかし、これは当時の新聞、シカゴ・リパブリカン紙の記者による捏造であったことがわかっており、真の原因は不明です。ともあれ、この火災によって、鎮火した10月10日早朝までには2,000エーカー(約800ヘクタール)以上を焼き尽くし、このときその炎はこの市営墓地こと、リンカーン・パークにまで及びました。

この火災による死者は250人以上で、17,400以上の建造物が全焼し、被害額は当時にして約2億ドル、家を失った人は10万人に上ったといいます。被害拡大の理由としては、異常乾燥、強風のほか、消防機関の連絡ミスなどが重なったためと見られています。

19世紀を通してアメリカ史上最大の災害であり、多くの被害を出したと同時に、シカゴ市の再開発を進展させた契機として知られています。古い建物が軒並み焼け落ちたため、大規模な建築を可能とする広い空間が出来、また被災後、市は木造住宅を禁止し、煉瓦、石造、鉄製を推奨したため、多くの建築家の手により新たな街づくりが始まりました。

後に摩天楼といわれる高層建築物の建設が始まり、1885年には、鋼鉄製の鉄骨による荷重支持構造の骨組を初めて採用し、世界初の高層ビと呼ばれたホーム・インシュアランス・ビルが建設されました。

また1887年にはのちに「シカゴ派」と称されるようになる近代的な建築様式によって建てられたタマコビルディングが竣工、これ以降は、このシカゴ派を主体とする摩天楼設立ラッシュが巻き起こりました。

写真が撮影された1905年というのは、そうしたシカゴの上り調子に勢いがつきかけた頃であるといえます。また1901年にはテキサスで油田が発見されてガソリンの供給が安定したため、モータリゼーションが一気に加速した時代です。

さらに1908年発売されたT型フォードの流れ作業による大量生産方式は自動車の価格を引き下げを実現し、これによってアメリカはクルマ社会に変貌することで、経済にもカツが入り、文字通り時代が変わりました。

以後、そうした全米の好景気の流れにも乗ったシカゴは急成長を続け、と同時に流入人口も増え、ピーク時1950年には人口362万人にまで膨れ上がりました。

このリンカーン・パークはこの急成長の間も、忙しく働き続ける人々の休息の場となっていました。1872年の大火以降、暫時整備が進められ、南はノース・アベニューから、北はフォスター・アベニューを越え、ウエスト・ハリウッド・アベニューにあるレイクショア・ドライブの終点まで広がるおよそ8kmにもわたる公園緑地が形成されました。

シカゴ最大の公共公園であり、現在では、レクリエーション施設として15面の野球場、6面のバスケットボールコート、2面のソフトボール場、35面のテニスコート、163面のバレーボールコート、付属建物、および1つのゴルフコースがあります。

また、船舶施設を備えたハーバーやパブリックビーチもあり、手入れされた庭園、動物園、温室植物園、ペギー・ノートバート自然博物館等が所在し、夏季には湖上シアターで野外パフォーマンスが催されます。

park冒頭写真とほぼ同位置から撮影した現在のリンカーン・パーク(google map)

シカゴにはこうした公園が多く、とくにミシガン湖沿いにはこのほかにも、グラント・パーク、パーナム・パークといった、やはり南北に細長い湖岸公園が整備されています。またこのほかにも市域の他地域に非常にたくさんの公園があって、全体として想像していたよりもかなり緑豊かな印象があります。

無論、市街中心部は上述のような摩天楼が集中していますが、その中心部にあっても、ミシガン湖に面しているためか、都市全体からみるとニューヨークやロサンゼルスのような殺伐した感じはなく、うるおいに満ちているかんじがします。

まるで見てきたようだな、といわれそうですが、筆者はこの町を訪れたことがあります。フロリダでの語学留学から、一旦日本へ帰国する際に乗った大陸横断鉄道のアムトラックの停車駅のひとつがこの町であり、接続時間がほぼ1日あったため、主に町の中心部をじっくり見学しました。

シカゴは、「文化都市」の名に恥じないほど、摩天楼に象徴される美麗な建築のほか、数多くの美術館や博物館、公園が存在しますが、これらは富裕層が築いた文化といえます。一方では貧困層が築いた文化もあり、これはブルースやジャズ、ハウス・ミュージック、シカゴ文学(一種のプロレタリア文学)などの無形のものです。

ジャズの分野では、1920年代にはルイ・アームストロング等多くのミュージシャンが、活動の拠点をニューオーリンズからシカゴに移しました。さらには、アメリカ南部のミシシッピ川流域で発生したアコースティックなデルタ・ブルースにエレクトリック・ギターなどを導入したシカゴ・ブルースと呼ばれる音楽もあります。

一方で、1920年代以降に蔓延した、いわゆるマフィアやギャングが暗躍した町としても知られています。上述の文化都市としての側面は、いわゆる富裕層によって生み出された文化であり、この時代、肥大する経済発展とは裏腹に新たな社会問題も生まれ、それがこうした暗黒面を生み出しました。

その社会問題とは、いわゆる貧富の差の拡大であり、このため20世紀に入ると、シカゴではとくにウェストサイドでスラム化が進行しました。またかつて奴隷として、アメリカ建国時に農業などの労働を担っていたアフリカ系アメリカ人が、1914年から1950年にかけてアメリカ南部から次々に移入してきました。

彼らは法律上・表面的には奴隷の身分を解かれてシカゴにやって来たわけですが、人種差別などから低賃金重労働以外に就くことはほぼ不可能であり、新天地での生活も相変わらず苦しいものでした。このため暴動は日常茶飯事のものとなり、とりわけ1919年の暴動は過去最悪となりました。

更に腐敗政治の蔓延などで市街は無法地帯となり、その時多くの住人が市街地を去り、1927年の市長選挙でウィリアム・ヘイル・トンプソンが勝利すると、トンプソンはナイトクラブの常連となってギャングと癒着するようになり、こうした中でアル・カポネのような大物ギャングが裏社会を支配するようになりました。

1929年の世界恐慌の影響で、市の財政も大幅な赤字となり、同年には、「聖バレンタインデーの虐殺」と呼ばれる事件も発生しました。2月14日に起きたギャングの抗争事件であり、別名、聖バレンタインデーの悲劇、血のバレンタインとも呼ばれるものです。

事件はアル・カポネが指揮していたと言われ、カポネと抗争を繰り広げていたバッグズ・モラン一家のヒットマン6人及び通行人1人の計7人が殺害されました。この事件は犯人たちがパトカーを使い警官に扮していたこともあり、全米中のマスコミの注目を集めました。

この虐殺を契機に、トニー・アッカルドやサム・ジアンカーナ等、1940年代から1960年代の次世代を担うギャングが台頭するようになり、トンプソン政権は、1931年市長選で敗北するまで続きました。

しかし、こうした間にも町は発展を続き、建築ラッシュもあいかわらずでした。トリビューン・タワーやリグリー・ビル、戦後すぐのころには世界一の高さを誇っていたシアーズ・タワー(現ウィリス・タワー)などが建設され、今日見るような壮麗な摩天楼が立ち並ぶダウンタウンが形成されていきました。

一方では、その裏側で、あいかわらずギャングやマフィアが暗躍し、シカゴはアメリカ一危険な都市と目されるようにすらなっていました。

そこへ、新たに市長として登場したのが、民主党のリチャード・J・デイリーでした。1955年に市長に当選すると、デイリーは様々な有力者の支持を受け、市街地の再開発と治安の改善、賃金格差の是正などに努め、市政を建て直しはじめました。

また、上述のシアーズタワーの建設のほか、オヘア国際空港、マコーミックプレイス(大規模商取引施設)などの建設を牽引し、このほかにもイリノイ大学のキャンパス整備や数多くの高速道路や地下鉄の建設プロジェクトにも関与し、彼の市政の間には、のちにシカゴの主要なランドマークとされるものが多数建設されました。

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また、一時は全盛を誇ったマフィアも、1957年にアメリカ各都市の幹部がニューヨーク州アパラチンに集合した際、FBIによる大量検挙されたことを契機に、その犯罪歴が徹底的に暴かれるようになり、自身の内部抗争なども手伝って徐々に衰退していきました。

シカゴ市も同様にマフィア撲滅に乗り出した結果、徐々に彼等は駆逐されはじめ、またニューヨークやボストンなどが経済発展に陰りが見え始めた頃に、シカゴは比較的堅調な経済情勢を維持できました。こうした成果はすべてデイリー市長の善政のおかげだったといわれています。

しかし、1960年から始まったベトナム戦争を契機にアメリカ経済は全体として少しずつ後退し始めており、これを反映してシカゴの景気も徐々に減速していきました。

1950年代から徐々に人口が減りはじめ、1960年代半ばには人口は350万人を割り込みました。1970年代にはピーク時の7%以上も人口が少なくなり、このころにはシカゴだけでなく、アメリカ全体がインフレに悩まされていました。

1980年代、レーガノミックスによって減税と軍拡が行なわれた結果、財政赤字は膨張し経常赤字と併せて双子の赤字と呼ばれるようになり、アメリカ全体の経済不振による影響もあって、五大湖近辺では市街地老朽化と製造業衰退が進みました。

シカゴでは毎年のように人口流出が続き、人口ではついにロサンゼルスに追い抜かれ全米3位となりました。

しかし、1992年をピークに財政赤字は縮小し始め、1998年にはついに黒字化を達成しました。これは、民間投資を刺激し税制を改革した結果であり、これに伴いシカゴの経済も最近かなり盛り返してきました。

近年では、シカゴ近郊で半導体や電子機器、輸送機械などの産業が発展してきており、中心部も相変わらず全米における商業、金融、流通の中心地としての地位を保っており、ひところほどの元気はないにせよまだまだ、アメリカを代表する都市であり続けています。

2000年には人口もプラスに転じ、2012年、2013年とも人口は前年比よりも増えており、本格的な復活を印象付けています。再びここを訪れ、その元気さを確認したいところです。

しかし、どうせ行くならやはり風光明媚なところへ行ってみたいもの。シカゴ観光の目玉はやはりなんといっても、摩天楼そびえるモダンなダウンタウンであり、また24㎞もビーチが続くミシガン湖岸には、本日のテーマであるリンカーン・パークを初めとする美しい公園の数々があり、これらの公園内には歴史的な建造物も多数あります。

また、シカゴといえば、ニューヨークのメトロポリタン美術館、ボストン市にあるボストン美術館とともにアメリカの三大美術館の1つに数えられる、シカゴ美術館があり、レンブラントやゴーギャン、ゴッホといった有名画家の絵がほとんどかぶりつきで見ることができます。

筆者もここへ行きましたが、一日中いても飽きないほどでした。さらに、1998年には、グラント・パーク南部、ミシガン湖岸の約23万平米(57エーカー)の広さの緑地の中に、シカゴ有数の3つの自然博物館を有する文化施設、ミュージアム・キャンパスも完成しています。

近接した文化施設を徒歩で回れる景観地区として整備されており、緑地の中にジョギングコースや歩道が設けられ、施設のひとつである、アドラー・プラネタリウムが所在する小島、ノーサリー・アイランドと本土を繋ぐ道路沿いの遊歩道も美しいそうです。

すぐ近くにはシカゴ美術館のあるグランド・パークもあり、もし再度私がシカゴへ行く機会があればこの地域へ直行することでしょう。

ニューヨークやロサンゼルスの町とはまた違った魅力のあるこの町を、みなさんもぜひ一度は訪れてみてください。

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クリーブランドとロックフェラー

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写真は、アメリカ東部、5大湖の一番南にあるエリー湖のほとりにある、オハイオ州の町、クリーブランド(Cleveland)で1900年代初頭に撮影されたものです。

クリーブランドは、大西洋岸からはおよそ700~800キロ離れた内陸にありますが、エリー湖からその北東側にあるオンタリオ湖、さらにここからカナダ側へ抜け、セントローレンス川を北東へ進むと大西洋へ出ることができます。

またオハイオ州を南東部へと南下するオハイオ川は、その先でミシシッピ川と合流しており、ルイジアナ州まで続くこの川をたどれば、メキシコ湾へ抜けることも可能です。

クリーブランド

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こうした位置関係から、早くから北米のあちこちにめぐらされた運河や鉄道の起点となり、豊富な水もあることから、工業都市として発展しました。かつてはオハイオ州最大の都市であり、全米でも上位10位以内に入る大都市でした。

冒頭の写真は、市の中央部を南北に流れエリー湖に注ぐ「カヤホガ川」という川の河口付近です。これが撮影された1900~1920年頃には既に川の両岸に工場が建ち並び、工業地帯を形成していました。

写っている船は、賑やかだったころのこの街から別の町へ旅立つフェリーと思われ、その右手に長々とあるのはそのターミナルを兼ねた鉄道駅でしょう。同じ場所を別の角度から撮影した航空写真が以下のものです。この写真の右端に橋のようなものが写っていますが、冒頭の写真はおそらくここから撮影したものと考えられます。

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クリーブランドは1776年のアメリカ独立から20年を経た1796年に、オハイオ州北東部のコネチカット州の「西部保留地」として建設されました。「保留地」というのは、このころのアメリカではまだ各州毎に自治権が確立しておらず、立場の強い州は他の州に利便の良い土地などの貸借を要求し、これを自州の都合の良いように使っていました。

コネチカット州というのは、ニューヨークの北に広がる大西洋に面する州ですが、なぜそんな州がクリーブランドのような内陸の地を所望したかといえば、コネチカット州のすぐ西側にはペンシルバニア州があり、これはもともとコネチカット州の一部でした。

しかし、広大すぎるためにこれを連邦政府が手放すように命じましたが、コネチカットの住民にとっては領地の削減になるわけで、大きな権益を失うことにもなります。このため、その見返りとして、エリー湖のほとりの交通や利水の良い便利な場所の租借を求めたもので、これが西部保留地です。

この権利はその後1803年にオハイオ州が独立した州として認められるまでは永続しましたが、とまれこの西部保留地は当初、コネチカット州所有の飛び地における中心地として発展することになります。

クリーブランドという地名はこのコネチカット西部保留地の管理会社として設立された「コネチカット土地会社」を率いていたモーゼス・クリーブランド将軍からつけられたものです。

その後この保留地はたいした開発もされず、10数年が過ぎていきました。しかし、1810年代初頭か入植者が住居を建て始め、1814年には正式な村になりました。

近隣が湿地性の低地で、冬の寒さが厳しいにもかかわらず、湖岸に位置するクリーブランド一帯は将来有望な土地であったため、1832年にオハイオ川とエリー湖を結ぶ運河が完成すると、急成長を遂げていくようになります。

上述のとおり、これにより、オハイオ川・ミシシッピ川を通ってメキシコ湾へ抜けることができるようになり、また、エリー湖・オンタリオ湖・セントローレンス川を通って大西洋へ抜ける航路が確立され、加えて鉄道が開通すると、クリーブランドの成長はさらに進んでいき、1836年にクリーブランドは市に昇格しました。

クリーブランドは、五大湖西に広がるミネソタ州で産出される鉄鉱石が、五大湖を航行する貨物船で運ばれてきた際の積み下ろし地でもありました。また、オハイオ州南部にはアパラチア山脈があり、ここでは鉄鉱石が採れたため、これが鉄道で運ばれ、同じくクリーブランドに集積されました。

そしてクリーブランドからはさらにボストン、シカゴやデトロイトへとこれらの物資が出荷されましたが、こうした好立地条件からクリーブランドでも次第に鉄鋼産業や自動車産業などの重工業が発達するようになり、アメリカ北東部における、工業の中心地のひとつになっていきました。

冒頭の写真が撮影された1900年代初頭のクリーブランドは80万人近い人口を抱え、560万のニューヨーク、270万のシカゴ、180万のフィラデルフィア、100万のデトロイトに次いで全米第5の都市になりました。

1936年と翌1937年の夏には、クリーブランド市制施行100年を記念して、エリー湖畔でグレート・レイクス博覧会が開催され、世界恐慌のすぐあとにもかかわらず、この博覧会は1936年の第1シーズンには400万人を、1937年の第2シーズンには700万人を動員しました。

第二次世界大戦の終戦後も発展が続きましたが、この時代では文化の面での成長も著しく、スポーツにおいては、アメリカMLBのクリーブランド・インディアンスが1948年のワールドシリーズで28年ぶり2度目のワールドチャンピオンに輝いたほか、1949年には、オール・アメリカ・シティ賞の第1回受賞都市に選ばれました。

実業界においてもクリーブランドは「全米で最も元気な土地」とされ、1950年には市の人口は90万人のピークに達し、全米でも第7の規模でした。しかし、1960年代に入ると市の経済を支えていた重工業は衰退し始めていきました。

他州の著しい技術開発についていけず、それまで市の経済を支えてきた製造業の地位が相対的に低下してきたためで、このため従来工業が市の基盤を支えていたものが、商業や金融業、サービス業が市の経済の主体となっていきました。

ところが、その後さらに悪いことに、連邦最高裁判所がクリーブランドの学校に差別撤廃のためにバス通学を義務付けました。黒人と白人を同じバスに乗せて学校へ行かせることが平等だとする命令であり、これが市の衰退をさらに加速させていく要因となりました。

元よりオハイオ州は南北戦争でも北軍側についた州であり、後にオハイオ州出身の退役軍人から5人のアメリカ合衆国大統領が出たほどですが、従来の繁栄は白人が築いたものだとする気風が強く、黒人蔑視の風潮は根強く残っていました。

この「強制バス通学」に反発した白人住民は、次々と郊外へと移り住んでいくようになり、これはいわゆるホワイト・フライトと呼ばれる現象です。このころ全米の多くの主要都市で見られたもので、クリーブランドでも例外ではありませんでした。

一方では、都市が“無秩序に拡大”していく「スプロール現象」も顕著になり、1960年代には暴動が頻繁に起こるようになり、1968年には白人と黒人の間で銃撃戦まで起こりました。こうした暴動はいずれも市の東側に位置し、アフリカ系の住民が多い地域で発生しました。

1969年には、カヤホガ川の水面に流されていた産業廃棄物のオイルに引火したことが原因で大規模な火災も発生し、このころまでには財政も逼迫し、さらには地元スポーツチームも不振といった具合に、クリーブランドはボロボロでした。やがてメディアはこのまちをThe Mistake on the Lake(湖岸の落ちこぼれ)と呼ぶようになっていきます。

しかし、それ以後、市はその汚名を雪ぐために手を尽くし、近年では官民共同でダウンタウンの再建にあたり、都市再生が進みました。都市圏全体の見直しが進められ、とりわけダウンタウンの再生は目覚しいものがあり、1994年には大規模な競技場が完成しました。

かつては港湾施設で占められていたエリー湖岸の地区には「ロックの殿堂」や科学センターといった娯楽施設・文化施設が建つようになり、こうした復活をみたメディアは、いつしかクリーブランドをComeback City(復活の街)と呼ぶようになりました。

2005年のエコノミスト紙の調査では、クリーブランドはピッツバーグと並んで、全米で最も住みやすい都市の1つに挙げられており、また同年の別の号では、同誌はクリーブランドをアメリカ合衆国本土48州で最もビジネスミーティングに適した都市として挙げられるまでになりました。

現在もその復興は続いています。が、その一方で、ダウンタウン近隣の住宅街、インナーシティの治安は依然として軒並み悪く、また市内の公立学校システムは重大な問題を抱えたままのようです。

とはいえ、市では、経済成長、若いプロフェッショナル層の確保、ウォーターフロント地区の有効活用による収益向上の3つを優先度の高い事項として挙げ、さらなる発展を目指した改革を進めています。

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ところで、クリーブランドと言えば、アメリカのレジェンドともいわれ、スタンダード・オイルを創設して億万長者になった「ジョン・ロックフェラー」は、この街で成功し、富を築き上げました。

スタンダード・オイル社はアメリカ初のトラスト(企業合同体・財閥のようなもので、現在は違法とされる)を結成することで、石油市場を独占し、これを率いたロックフェラーはアメリカ人初の10億ドルを越える資産を持つ人物となりました。インフレーションを考慮すると、史上最高の富豪とされています。

引退後も40年間生き続け、その間資産の大部分を慈善活動の現代的かつ体系的アプローチの構築に費やし、医療・教育・科学研究促進などを目的とした「ロックフェラー財団」を創設したことでも有名です。

彼が創設した財団は医学研究を推進し、鉤虫症(こうちゅうしょう・寄生虫病の一種)や黄熱病の根絶に貢献しましたが、その研究所で日本の野口英世が働いていたことは有名な話です。また彼は、シカゴ大学とロックフェラー大学を創設し、フィリピンにセントラル・フィリピン大学の創設資金を提供するなど、教育の普及の上でも多大な貢献をしました。

ただ彼と競合した人々の中には破産に追い込まれた者も少なくなく、寡占もしくは不公正な商習慣の追求の直接の結果として、石油産業を支配して莫大な私財を蓄えた実業家、というレッテルも常について回ります。こうした実業家や銀行家のことをアメリカでは軽蔑的な意味合いをこめて「泥棒男爵」と呼びます。

伝記作家のロン・チャーナウという人は、「彼の良い面はとことん良く、悪い面はそれと同じくらい悪かった」と述べており、また「史上これほど矛盾した人物は他にいない」とも書いており、後世の評価はさまざまです。

これだけいろいろ慈善事業を行っておきながら、このように批評が分かれる理由は、ひとつは彼が容赦ない方法で「商敵」を潰していったこともありますが、その蓄えた資産の大きさが膨大なものであることによる、ひがみややっかみもあるでしょう。

例えば1902年のアメリカのGDPは240億ドルでしたが、同年のロックフェラーの資産は約2億ドルに達していたといい、彼が1937年に亡くなった時点で、当時のアメリカのGDPが920億ドルだったのに対し、ロックフェラーが家族へ残した遺産は14億ドルと見積もられています。

この額は現在の価値に換算しても、近現代史上最も大きな額であり、ビル・ゲイツもサム・ウォルトンも遠く及ばないものです。

その長い一生(満97歳没)を追うことは簡単ではないのですが、今日のテーマであるクリーブランドに関連したことを中心になるべく簡潔にまとめておきましょう。

ロックフェラーは、ニューヨーク州リッチフォードで、1839年7月8日に生まれました。父のウィリアムはかつて林業を営んでいましたが、巡回セールスマンとなり「植物の医師」を名乗って白樺から抽出した健康飲料のようなものを売り歩いていたようです。

家には闖入者のように時折帰ってくるだけで、生涯に亘って真面目に働こうとせず、常に一山当てようと目論んでいるような男だったといいます。しかし、母のイライザは信心深いバプテストであり、夫が不在の間家庭を維持するため奮闘しました。

夫は頻繁に外に女を作り、時には重婚していたこともあったといい、家に十分な金を入れるでもなく、母子は常に貧乏でした。自然に倹約が常となり、息子には「故意の浪費は悲惨な欠乏を招く」と教え込んだといい、若きロックフェラーも家事を手伝い、七面鳥を育てて金を稼ぎ、ジャガイモや飴を売ったり、近所に金を貸すなどして家計を助けました。

奔放な父の性格のため、一家はあちこちを転々としましたが、ロックフェラーが14歳のとき、彼等はクリーブランド近郊のストロングスビルに移りました。

彼はここのクリーブランド中央高校で学びましたが、その後商業専門学校でも10週間のビジネスコースを受講しました。ここで簿記を学んだことが、その後の商売に生かされるようになりましたが、早くから算術と経理の才能を持っていたようです。

ロックフェラーは父に似ず、行儀がよく、真面目で勉強や仕事に熱心な少年だったといい、さらに信心深く几帳面で分別があったと、当時の彼を知る人は評しています。議論がうまく、正確に自分の考えを表現できたともいい、また音楽好きで、将来それで身を立てたいという夢を持っていました。

16歳のとき、クリーブランドの製造委託会社で簿記助手の職を得ると、長時間働き、すぐにそのオフィスの仕事の全てに精通するようになりました。このころから既に対価として得た給料の約6%を寄付を始めており、20歳のころまでにはその額も増し、10%をバプテスト教会に寄付するようになっていたといいます。

おそらくは敬虔なクリスチャンであった母の影響であったと思われ、キリスト教の教えである人に分かち与える、という精神が子供のころから身についていたのでしょう。とはいえ、金銭に対する執着はそれなりにあったようで、このころ、10万ドルを貯めることと100歳まで生きることが目標だと語っていたといいます。

そしてそれはほぼ実現しました。ただ、目標をはるかに超える大きな金額を貯めることができたことと、100歳までには3歳ほど足らなかったことだけが誤算でしたが。

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18歳のロックフェラー(1857年ごろ)

こうして製造委託会社で貯めた金をもとに、20歳になったロックフェラーは、資本金4,000ドルで友人のモーリス・B・クラークとともに、自らも製造委託会社を設立しました。

食料品の卸売りからはじめましたが、やがて着実に利益を上げるようになり、4年後には新たな投資ができるまで発展し、当時クリーブランドの新興工業地域に建設された製油所にその金を投資しました。

ちょうどこのころは石油産業の勃興期であり、その背景には、それまで工業用燃料として使われていた鯨油がクジラの乱獲によって減り始め、高価すぎる燃料となってきていたことがあげられます。より安価な燃料が必要とされていた時代であり、ロックフェラーはまさに時代の潮流に乗ったわけです。

このころ、ロックフェラーは、共同経営者のクラークと対立するようになっており、製造委託会社の持ち株をクラークに売り払ってパートナーシップを解消し、それで得た金で共同で持っていた精油事業の株をクラークから改めて買収しました。

その買い取った権利を基に、別の共同経営者に今度はアンドリュースという化学者を選び、ロックフェラー・アンド・アンドリュース社を設立しました。南北戦争後、鉄道の成長と石油に支えられ西部に向かって開発が進んでいった中、この会社は順調に推移し、彼は多額の借金をしては投資し、得た利益を再投資しては資産を増やしていきました。

25歳のとき、ロックフェラーは、地元クリーヴランドで、教師のローラ・セレスティア・スペルマンと結婚しました。5人の子を授かりましたが、うち4人は娘で、末っ子だけが男でした。この1人息子ジョンは、のちにロックフェラー2世として知られるようになる人物です。

ロックフェラーは地元のバプテスト教会の熱心な会衆の1人で、日曜学校で教え、評議員や教会の事務を務め、時には門番役も買って出ていました。生涯にわたって信仰を行動指針とし、それが自身の成功の源泉だと信じていたといい、「神が私に金を与えた」とも言っており、蓄財を恥じることはありませんでした。

イングランド国教会の司祭で、その後メソジスト運動と呼ばれる信仰覚醒運動を指導したジョン・ウェスレーの格言「得られる全てを得て、可能な限り節約し、全てを与えなさい」を信条としていたともいいます。

その2年後の1866年、弟ウィリアムもまたクリーブランドに別の製油所を建てたため、ロックフェラーは、この弟ともパートーナーシップを結び、さらにその翌年には、ヘンリー・M・フラグラーがパートナーに加わりました。このため、会社は「ロックフェラー・アンド・アンドリュース・アンド・フラグラー」という長ったらしい名前になりました。

その2年後の1868年、ロックフェラー29歳のときにこの会社は、クリーブランドの2つの製油所とニューヨークの販売子会社を持つようになり、ついにこの当時世界最大の精油会社となりました。そしてこの会社こそが後のスタンダード・オイルです。

そのころまでには南北戦争が終わっており(1865年)、クリーブランドはピッツバーグ、フィラデルフィア、ニューヨーク、原油の大部分を産出していたペンシルベニア州北部と共にアメリカの石油精製拠点のひとつになっていました。

1870年、ロックフェラーらはスタンダード・オイル・オブ・オハイオを結成し、ここで初めて「スタンダード・オイル」の名が世にでました。同社はすぐにオハイオ州で最も高収益な製油所となっていき、アメリカ屈指のガソリンやケロシン(灯油、ジェット燃料などに使われる)の生産量を達成するまでに成長していくようになります。

その後、ロックフェラーは競合する製油所の買収、自社の経営効率の改善、石油輸送の運賃値引き強要、ライバルの切り崩し、秘密の取引、投資資金のプール、ライバルの買収などのあらゆる手段を駆使して事業を強化していきました。

スタンダード・オイルは徐々に水平統合を達成し、それによってアメリカでの石油の精製と販売をほぼ支配下におさめました。1882年ごろには、アメリカ国内に2万の油井、4千マイルのパイプライン、5千台のタンク車、10万人以上の従業員を抱える巨大帝国となっており、石油精製の世界シェアは絶頂期には90%に達しました。

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しかし、1880年代後半になるとその勢いにも陰りがでてきました。この当時まだ世界の原油の85%はペンシルベニア産でしたが、しだいにロシアやアジアの油田からの石油が世界市場に出回り始め、ビルマやジャワでも油田が発見されました。さらに白熱電球が発明され、照明目的で灯油を燃やすことが減っていきました。

このため、1890年代に入るとロックフェラーは鉄鉱山と鉄鉱石の輸送などの事業に事業拡大の矛先を向けるようになります。このため鉄鋼王アンドリュー・カーネギーと衝突するようになり、新聞などで彼らの対立がよく報道されるようになりました。

この時期に、ロックフェラーは引退を考え始めていたようで、日常の経営は側近に任せ、ニューヨーク市の北に新たな邸宅を購入し、自転車やゴルフなどに興じる悠々自適な生活を送るようになりました。

1911年、72歳になったロックフェラーは、まだ名目上とはいえ、社長の肩書きを保っていました。しかし、このころにはアメリカも、自由競争の結果発展した大企業を放任することが、むしろ逆に自由競争を阻害するという考え方が主流を占めるようになっていました。

そしてこの年ついにアメリカ合衆国最高裁判所は、スタンダード・オイルをシャーマン法(アメリカの独占禁止法)に違反しているとの判決を下します。

最高裁は同社が形成したトラストが不法に市場を独占しているとして解体命令を下し、同社はおよそ37の新会社に分割されることとなりました。解体された時点でロックフェラーはスタンダード・オイルの25%以上の株式を所有していましたが、彼も含め株主は分離後の各社の株式を元々の株式の割合のぶんだけ得るところとなりました。

こうしてロックフェラーの石油業界への影響力は減退しましたが、その後10年間で分割された各社も大きな利益を上げ続けたため、その株式から多大な利益を得ることができました。それらの価値の合計は解体前の5倍に膨れ上がったため、ロックフェラーの個人資産は会社分離前より更に大きい9億ドルにまで膨れ上がりました。

上で述べたとおりそうした膨大な資産はかなりの額が慈善事業として医学研究や教育に費やされましたが、多くは内部留保され、のちに遺族に受け継がれました。晩年のロックフェラーは、どこへ行っても大人には10セント硬貨、子どもには5セント硬貨をあげることで知られるようになったといい、時にはふざけて友人の富豪にも硬貨を与えたといいます。

しかし、ついにその人生の最後を迎えることになります。最晩年は動脈硬化を起こしていたといい、それが原因で、1937年5月23日、98歳の誕生日の2カ月前に、フロリダ州オーモンド・ビーチの自宅で亡くなりました。

ロックフェラーは自らの一族に莫大な生前贈与を行っており、とりわけ息子のジョン・D・ロックフェラー・ジュニアには多くを与えました。結果、一族は20世紀のアメリカで最も豊かで最も影響力を持つ一家となりました。

ロックフェラーの孫デイヴィッド・ロックフェラーはチェース・マンハッタン銀行のCEOを20年間務めました。同じくロックフェラーの孫ネルソン・ロックフェラーは、ジェラルド・フォード大統領の下で副大統領に就任し、もう一人の孫ウィンスロップ・ロックフェラーはアーカンソー州知事に就任しました。

彼の遺体は、その後、オハイオ州クリーブランドのレイクビュー墓地に埋葬されました。市の東側に位置している墓地であり、クリーブランドの屋外博物館と見なされています。無宗派墓地として全ての人種、宗教、生き方の区別無しに開かれており、これまでに合わせて107,000人以上が埋葬されています。

エリー湖が北側にあり、名前通りに湖を眺望する事ができます。1881年に暗殺された第20代アメリカ合衆国大統領、ジェームズ・ガーフィールドの記念館は墓地内で最も有名な記念碑であり、そのすぐ近くには、大理石でできたロックフェラー家の記念碑も建っています。

クリーブランドを興したロックフェラーとの強い結びつきを示す記念碑でもあります。

Garfield_Memorial_2013-09-14_17-58-11ガーフィールド記念館

OLYMPUS DIGITAL CAMERAロックフェラー家の記念碑

フォート・マクヘンリーの夕暮れ

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フォートマクヘンリー(Fort McHenry)は、アメリカ合衆国の首都であるワシントンD.C.の北東部に広がるメリーランド州、ボルティモアにあります。

Fortとは要塞の意味で、Fort McHenryは、マクヘンリー要塞ということになります。

函館の五稜郭と同じ星形要塞です。マクヘンリーの名は、スコットランド=アイルランド移民で軍医、かつジョージ・ワシントン大統領の下で陸軍長官を務めたジェイムズ・マクヘンリーに因んで名付けられました。

このジェイムズ・マクヘンリーの息子は、後述するこの要塞を舞台において戦われた「ボルティモアの戦い」では、その守備隊に入っていたそうです。

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冒頭の写真ですが、これがこの要塞から撮影したものであるのか、対岸から要塞を撮影したものかは判別できません。が、グーグルマップで地形を確認したところ、この要塞の周囲には護岸が張り巡らせられていて船は着岸できないようなので、おそらくは後者でしょう。

だとすると写真右手奥に見えるのがおそらくこの要塞と思われます。もともとここには、1776年ころに建設された古い要塞があったようで、これを1798年にフランス人技術者がデザインし直し、現在のような五角形のものにしました。

1798年から2年かけて建築され、完成したのは1800年です。アメリカ合衆国の独立確定後に、将来侵入してくるかもしれない敵の攻撃からルティモアの町と港に守るために造られました。

ボルティモア港入り口に突き出た「ローカスト・ポイント」という半島の先端に位置し、五稜星の外形の周りに深く広い空堀が設けられるという構造であり、函館のものとほぼ同じ構造です。この五稜郭もまたフランスからその設計技術を学んだものであり、もしかしたらこのフォートマクヘンリーの設計図を写し取ったものだったかもしれません。

ただ、五稜郭が完成したのは1856年ですから、フォートマクヘンリーよりも半世紀も後ということになりますから、築造技術としてはかなり古臭いものになっていた可能性があります。

とはいえ、フォートマクヘンリーが完成したころはおそらくはまだ最新技術だったと思われます。深く掘られた堀は陸上から砦を攻撃された時に、銃兵が掩蔽物として使う目的で設けられたものであり、城を包囲され、万一この第一防衛戦が突破された場合には、その内側の星形の稜堡で敵の侵入を防ぐことができます。

複雑に入り組んだ五角形という形のため、この稜堡の奥深くまで進入してきた敵は、場内にある大砲とマスケット銃からの集中攻撃を受けるということになります。

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しかし、後年の函館戦争もそうだったように、この要塞に直接兵隊が近づき、白兵戦になるといった形の戦いは行われませんでした。この砦が受けた唯一の攻撃は、その後勃発した米英戦争の時の英軍艦隊による艦砲射撃でした。

この戦いは、1783年に終結した独立戦争から29年後に勃発し、2年後の1814年まで続いた「米英戦争」の一環として戦われ、「ボルティモアの戦い」と呼ばれています。

アメリカはイギリスから独立後もその植民地を巡って争いを続けており、イギリスはその植民地であるカナダ及びイギリスと同盟を結んだインディアン諸部族が所有する土地をめぐってアメリカとそれまでもしばしば紛争を起こしていました。

それが戦争にまで発展した要因はいろいろあるようですが、この当時のアメリカ国内において、入植白人はインディアンの土地を狙っており、激しく抵抗するインディアンたちに手を焼いていたことがその一因といわれています。

ヨーロッパから入植し、この地に居を構えるようになっていた白人たちはころのこまでには、「アメリカ人」としての自覚を持つようになっていましたが、これら白人に抵抗するインディアンの背後では、とくにイギリスがこれを扇動していると考えていました。

そのため反英感情が高まっており、根本的解決のためにはイギリスと戦争するしかないと考えられたわけです。

たしかに、この戦争において一部のインディアン達はアメリカ人の侵略活動による西進を防ぐ為、イギリスと手を組んでいました。ところが、また別のインディアンたちはアメリカ人の助けを得ていたため、この戦争は、やがてインディアンによる「代理戦争」の様相も呈してきました。

このため、「インディアン戦争」とも呼ばれるものでしたが一方では、米英が争う、「アメリカ=イギリス戦争」でもあるわけであり、米英がカナダ、アメリカ東海岸、アメリカ南部、大西洋、エリー湖、オンタリオ湖の領土を奪い合い、また両陣営がインディアンに代理戦争をさせるという複雑なものでした。

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この戦争ではアメリカは常に劣勢でした。しかし幸いなことに、イギリスはナポレオン戦争で軍事的、経済的に疲弊しきっており、ウィーン会議の下で、新秩序を早く確立したい意向もあって停戦を望みました。

その結果、1814年12月に南ネーデルラント(ベルギー)のヘント(ガン)で「ガン条約(Treaty of Ghent)」という停戦条約が結ばれる運びとなり、この条約で米英間の北東部国境が確定し、アメリカのカナダへの野心は潰えました。しかし、一方イギリスも得たものは特になく、両者ほぼ痛みわけに終わりました。

ところが、両国にこき使われたインディアンはどうなったかといえば、多くのインディアン部族が消滅寸前まで虐殺され、領土を奪われて散り散りとなりました。こうしてインディアンを追いだした広大な土地は、アメリカ植民政府の植民地となっていきました。

この戦争の結果は米英のどちらが勝ったともいえないものでしたが、アメリカにとっては、強国イギリスを二度も撃退できたことが大きな自信となったことは間違いなく、大国意識を芽生えさせるに十分でした。経済的にもイギリスへの依存を脱し、その後の対外膨張政策にも一定の弾みがつくようになりました。

また、戦争中にイギリス商品の輸入がストップしたため、アメリカの経済的な自立が促され、アメリカ北部を中心に産業、工業が発展しました。このため米英戦争は、政治的な独立を果たした「独立戦争」に対して、経済的な独立を果たしたという意味で「第二次独立戦争」とも呼ばれています。

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その米英戦争の一環として戦われたボルティモアの戦いは、1814年9月13日の夜明けに始まりました。イギリス艦船による艦砲射撃により戦いの火蓋が落とされ、この砲撃は激しい雨の中を25時間も続きました。

アメリカ守備軍の大砲の射程は1.5マイル(2.4 km)でしたが、イギリス艦隊の射程は2マイル(3.2 km)であり、イギリス側のほうが有利でしたが、イギリス艦隊の砲手の錬度と大砲の制度はかなり低く、ほとんどの弾が要塞に届きませんでした。

また、イギリスの艦船は海中に張られた鎖、沈船および砦の大砲によって、この要塞の横を通り過ぎることができず、最後まで港の中に侵入できませんでした。ただ、イギリス艦船は砦に近づいて迫撃砲弾を自由に撃ち込むことができました。とはいえ、何分武器の精度の悪さと砲手の腕の悪さが災いし、アメリカ軍に決定的打撃を与えることができません。

しかし、アメリカ側も大砲の射程距離が短いため、この射程の外から砲撃を加えるイギリス艦艇にダメージを与えることができず、結局のところどちらの側も損害はほとんど出ませんでした。

この戦いはその後膠着状態となったため、イギリス艦隊がしびれを切らし、撤退しました。このため、一日足らずで終わりました。アメリカ側にとっては敵に大打撃を与えることはできなかったものの、一応イギリス海軍によるボルティモア侵攻は食い止められた格好です。

この紛争でのアメリカ軍の損失は戦死4名負傷24名でしたが、死者のうちの一人は元奴隷の黒人、もう一人は女性でした。この女性は兵士に物資を運んでいる途中で砲弾に当たり体を真っ二つにされたものでした。実質の戦闘員の死者は2名に過ぎなかったわけです。

ほかには大きな被害はありませんでしたが、ただ、飛んできた砲弾の中で1発だけが要塞の火薬庫に当たるということがありました。すわ大爆発か、と思われましたが、幸いにはこの砲弾の信管は雨で濡れていたため、不発に終わり、奇跡的に被害はありませんでした。

Ft._Henry_bombardement_1814海上から砲弾を打ち込むイギリス艦: 1814年

この紛争の際、ワシントンから着た弁護士で、フランシス・スコット・キーという人物がボルティモアに滞在していました。彼は英軍に捕虜になっていた大学教授の釈放交渉のためにボルティモアにきていたのですが、戦闘に参加していない船に乗船し、このイギリス軍からの艦砲射撃の様子を観戦していました。

このとき、要塞には、アメリカ合衆国の国旗が掲げられていましたが、このころにはまだアメリカ合衆国には15の州しかないため、この星条旗の星の数も15でした。イギリス軍の攻撃を予想して大枚の金をはたいて製作された特大サイズのものでした。

9月14日の朝、イギリス艦隊から要塞への砲撃が始まりましたが、このときフランシス・キーは、飛んでは消えていく砲弾のどれもが、城内には落ちず、また城の掲揚台に掲げられたこの旗もまた傷けられることもなく、はためいていることを目撃します。

飛び交う砲弾の中でも、無傷で翻るその旗を見たとき、キーは大きく心を動かされたといい、このとき、「フォートマクヘンリーの守り」という詩を作りました。この詩は後年「星の煌く旗」と名前を変えられましたが、この詩こそが、のちのアメリカ合衆国の国歌となりました。

キーが目撃した、このフォートマクヘンリーに翻った旗、「星の煌く旗」はこの要塞の司令官によって保管され続け、のちにワシントンD.C.のスミソニアン国立アメリカ歴史博物館に寄贈されました。

戦禍をくぐり抜けてきたことからかなり傷んでおり、脆くなっているともいいますが、アメリカ国歌の原点ともなった歴史的な史料でもあり、丹念な補修が行われているといいます。その修復の様子は一般公開もされていて、その完成も近いようです。

Fort_McHenry_flag

1814年の砲撃、中にフォートマクヘンリー要塞の上に掲げられていた星条旗

その後もこのフォートマクヘンリーは1848年頃までボルティモア港の主要な防衛拠点として機能しました。しかし、やがて要塞の南西部により強固な要塞が建設されたためにその役割を終えました。

その後の1861~1865年の南北戦争の間は軍事刑務所として使われ、南軍兵士の捕虜を収容すると共に、ここには南軍のシンパと疑われたメリーランド州の政治家も多く収監されましたが、皮肉なことに、フランシス・スコット・キーの孫もそのように囚われた政治家の一人だったといいます。

更にその後の第一次世界大戦時には、要塞内の敷地には多くの建物が建てられ、ヨーロッパの戦場から送り返されてくる負傷兵のための巨大な病院施設として使われたため、その外観は随分と変わったものになってしまいました。

しかし、1918年にこの大戦が終結すると、フォートマクヘンリーは、1925年に国定公園に指定され、さらに1939年には、改めて「アメリカ合衆国のナショナル・モニュメントと歴史的聖地」に指定されました。

第一次大戦中に建造された新しい建物は、このとき取り壊され、要塞も保存補修が行われ、米英戦争当時の姿に戻されました。その後勃発した第二次世界大戦の時はアメリカ沿岸警備隊の基地として使われましたが、ここで再び戦いが起こることはありませんでした。

さらに戦後の1966年には国家歴史登録財にも登録されていますが、これはアメリカ合衆国の文化遺産保護制度の一つであり、これに登録されたものは最も権威のある登録財ということになります。

米英戦争のあと、アメリカはめきめきと力をつけ、南北戦争という国内紛争による疲弊はありましたが、その危機を乗り越え、世界大国といわれる現在のアメリカ合衆国を築きました。

この間、毎年のように新しい州が誕生したため、当初の15星旗のデザインは次々と変更を余儀なくされました。米英戦争後、1818年に新たに州に昇格したのは、インディアナ州、ルイジアナ州、ミシシッピ州、オハイオ州、テネシー州でしたが、このとき星の数が20の新しい旗が作られました。

そして、この新しい星条旗は一番最初にフォートマクヘンリーに掲揚されたといいます。これ以降、新しい州が加わり星条旗のデザインが変わるたびに、この要塞にその新しい旗が掲揚されるのが繰り返されるようになり、伝統となりました。それらの過去の星条旗は、そのすべてこの要塞内の施設に保存されているといいます。

なお、現在のように星があしらわれた星条旗が誕生したのは、独立後の1777年のことであり、ここに15星旗が掲げられた、1814年よりも37年も前のことです。この最初の星条旗の星の数は13でした。以後、フォートマクヘンリーに新しい旗が掲揚されるたびにその星の数は増えていき、現在は50にもなっています。

この「50星」デザインはハワイが州に昇格した1959年の翌年の1960年に制定されたものです。現在まででは55年も続いているデザインであり、過去から現在に至る間で最も長い期間使われている星条旗ということになります。

現在、この要塞はボルティモア近郷市民の余暇の中心的な存在となっており、また同市を訪れる観光客のお目当てのひとつにもなっており、毎年何千もの訪問者がこのアメリカ国旗誕生の地、そして国歌の生誕地ともいえる場所を訪れています。

ボルティモア市では、往年のボルティモアの戦いが行われた9月13日を記念し、これを「守りの日」として祝うそうで、その週末には様々な催しと花火大会も開催されるということです。

このボルティモアですが、1960年代から施設の老朽化と主産業の構造不況によって中心地から人口が流出し、スラム街が発展、治安の悪化が進んだそうです。が、近年では市が中心になって再開発計画を実施しました。

これはウォーターフロント開発の先駆ともいわれているそうで、とりわけインナーハーバーの一新を図り、工業、貿易とともに多数のレジャー施設を建設しました。この結果、インナーハーバーには大型ショッピングセンターや全米屈指のボルチモア国立水族館、海洋博物館などがあり、活況を呈しているそうです。

私も訪れたことのない街なので、一度行ってみたいと思います。みなさんもフォートマクヘンリーの見学方々、お出かけになってみてはいかがでしょうか。
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