写真は、米東部、バッファローにおける1900年(明治33年)頃の写真です。
バッファローはニューヨークからおよそ西北へ500km。五大湖のひとつエリー湖の東端に接し、ナイアガラ川の始点に位置します。すぐ北側に向かってナイアガラ川が北上し、この川はナイアガラ滝を経て、カナダ側のオンタリオ湖に達します。
この地方におけるヨーロッパ人の入植は、1758年のフランス人による入植地の開基をはじめとします。バッファロー川の河口に築かれたこの入植地一帯は、1825年にエリー運河が開通すると、ニューヨーク市と直結され、その商業上の価値を増しました。
通商のための拠点となるととともに、ナイアガラ滝を利用して作られる豊富な電力によって工業が盛んとなり、20世紀初頭では鉄鋼都市として知られるまでになり、数カ所の製鉄所が煙を上げていました。
こうして、入植当初、約2400人だったバッファローの人口は急速に増加し、1832年に市に昇格した当時の人口は1万人を超えたといいます。
バッファローではまた、20世紀初頭から穀物産業もさかんとなり、アメリカ中西部の穀物が大量に運び込まれました。このため、街の中心を流れるバッファロー川沿いにはアメリカ最大規模の穀物倉庫が多数建設されました。
とくに、ビールの原料となる麦芽、それを製造するための大麦を貯蔵する大型サイロが立ち並ぶようになり、その後、穀物生産はさらに大規模になっていきます。
それにともなってサイロも大規模化すると高さ20メートル(ビルでいうと6~7階規模)直径7メートルもあるような巨大な「タワーサイロ」と呼ばれるようなものが次々と出現してきます。そしてやがてこの一帯は「サイロシティ」と呼ばれるようになりました。冒頭の写真がそれです。
下の写真の背後にそびえるのは、そのなかでも最大のサイロ、「グレートノーザンエレベーター」で、1897年に完成した当時は世界最大のサイロでした。
「エレベーター」の呼称は、この巨大なサイロに穀物を搬入するエレベーターが併設されていたからです。
このころ、米中央部のグレートプレーンズと呼ばれる穀倉地帯でも、高さが40mを超える規模の穀物倉庫が数多く建設され、「プレーリーの摩天楼」と呼ばれる特異な景観を見せました。大型化したことにより巨大なエレベーターにて搬入を行うようになり、田舎にあるエレベーターという意味で「カントリーエレベーター」呼ばれることもあります。
また、穀物集積地にあるものをターミナルエレベーターと呼び、米南部のニューオーリンズはアメリカ合衆国の穀物輸出の一大拠点で、ターミナルエレベーターが多く設置されていました。バッファローのそれもまたターミナルエレベータといわれるべきものです。
さらに20世紀後半に入ってからの米各地のサイロは、鉄筋コンクリート製、スチール製、そして強化プラスチック製と多様化していきました。サイロシティに今もそびえ立つ背高のサイロの数々は、レンガ造りのレトロなものからコンクリート製、鋼板製の巨大サイロまでさまざまです。
しかし、タワーサイロは穀物を詰め込む作業から、取り出して船に積み込む作業まで、いずれも重労働です。そのうえ修理やメンテナンス費用が大きくて、新規に建てようものなら数千万円もかかりました。
このため、やがて低コストで、しかも重機を使って作業ができる、ラップサイレージやバンカーサイロなど低型サイロに移り変わっていきました。1993年ころまでにはほぼその役目を終えましたが、使われることの少なくなった塔型サイロは、現在に至るまで放置されています。
グレートノーザンエレベーターも1980年代後半、当時の所有者ピルズベリー社によって放棄されました。この建物はバッファロー川地区でも最も古いもののひとつですが、ほとんどが現在は稼働していません。
現在のサイロシティ(一部)
バッファローでは20世紀後半からは主要産業であった鉄鋼業も衰退し、治安悪化と市街地荒廃が深刻となっていきました。
ただ、近年は市街地再開発が進み、医療、教育分野の育成が実を結び、今日では大都市でも治安はかなりいい方に数えられます。2001年にはUSAトゥデイ紙で「アメリカで最もフレンドリーな都市」であるとされました。また過去から現在に至るまで、すぐ近くにあるナイアガラ観光の基地としての役割も失ってはいません。