バーミングハム ~民権運動の町

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バーミングハム(Birmingham)はアメリカ南東部にある、アラバマ州の最大都市です。極めて、といっていいほど日本人には馴染のない州なので、どこだか見当がつかない、という人もいるでしょうが、位置的には、フロリダのすぐ左上になります。

写真は、この町におけるメッセンジャーボーイの写真です。きりりとしたまなざしをしており、いかにも機敏そうです。服装からおそらくは、警察関連の仕事をしていたのではないかと考えられます。撮影は1914年、この町の人口が急激に減ったころのものです。

市名はイギリスのバーミンガム市にちなんで名付けられましたが、バーミンハムと呼ばれることのほうが多いようです。

南北戦争が終結して6年後の1871年、鉄道路線が交差する場所に町がつくられたのがはじまりです。しかしその後、アラバマ州では、南北戦争後も、継続する人種差別、農業不況、ワタミゾウムシの蔓延による綿花収量の低下などで、何万人ものアフリカ系アメリカ人が職を求めて北部の工業都市へ移住しました。

これが、グレートマイグレーションと呼ばれるものです。20世紀前半に、製造業の仕事やより良い暮らしを求めてアラバマを離れていき、1910年から1920年のアラバマ州人口成長率は半分近くになりました。

しかしその後、アパラチア山系の豊富な石炭や鉄鉱石を利用し鉄鋼業がさかんになると、田園部の白人や黒人は、新しい工業都市であるバーミングハム市で働くために移住しました。

この結果、バーミングハム市は「魔法の都市」と渾名されるほど人口が急増するとともに、「南部のピッツバーグ」と呼ばれました。しかし、1930年代の大不況では深刻な打撃を受けました。ただ、その後は持ち直し、第二次大戦が始まると、バーミングハムが属する、ジェファーソン郡には軍需産業の拠点が築かれたことから、この町にも再び活気がでました。

戦後は、製造業とサービス産業が隆盛するようになりましたが、片や綿花など換金作物はその重要性を失っていきました。

市民のマジョリティはこの当時から黒人であり、現在でも市人口の70%以上が黒人です。かつてはアメリカで一番人種差別がひどい町とまで言われた。そのため1950年代から1960年代にかけては黒人の公民権運動のひとつ、「バーミングハム運動」の舞台となりました。

バーミングハム運動は、黒人解放運動で高名な、マーティン・ルーサー・キング・ジュニアと南部キリスト教指導者会議 (SCLC)が組織し展開したもので、この当時アメリカ各地で活発化した公民権運動のひとつです。バーミングハムにおける、主としてアフリカ系アメリカ人に対する不平等を正そうとする運動でもあります。

この運動は1963年春に行なわれ、黒人の若者と白人側の市当局との対立を広く知らしめることになり、最終的には市政府に差別的な法律を変えさせる圧力となりました。キング牧師率いる運動家らは、不公正と考えられる法律に対して、非暴力による直接行動の戦術を用いました。

1960年代初め、バーミングハムは米国でも最も人種分離の激しい都市のひとつで、黒人市民らは暴力による報復と同様に、法的および経済的な格差に直面していました。これに講義したキング牧師は、1963年4月にバーミングハム市警に逮捕され、また同年9月にはクー・クラックス・クランにより教会が爆破され犠牲者が出るようになりました。

このため、全ての人種に雇用機会を与え、公共施設やレストラン、店舗における人種差別を終わらせるという目標のため、企業家に圧力を与える不買運動などのボイコットを行おうと、黒人たちは立ち上がりました。

企業家らがボイコットに抵抗すると、SCLCの運動家ワイアット・ティー・ウォーカーとバーミングハム住人のフレッド・シャトルワース牧師は、Confrontation(対立)の頭文字Cをとって「プロジェクトC」と名付けた一連のシットインとデモ行進を開始し、大量逮捕の誘発を目論みました。

シットインとは、「座り込み」のことで、文字通り座りこむだけの抗議行動です。公道や自治体の施設前などで座り込むことによって、公的機能を麻痺さえるため、大量逮捕につながりやすくなります。

しかし、あまりにもたくさんの運動者が逮捕されたため、これによって運動に参加する大人のボランティアが足りなくなると、SCLCの指導者たちに訓練された高校生、大学生、さらには小学生らがデモ行進に参加し、数百名の逮捕者を出すようになりました。

抗議活動をやめさせるために、ユージーン・”ブル”・コナー署長が率いるバーミングハム警察は、子供たちや無関係の見物人に対しても消防用の高圧放水と警察犬を用いました。これらの出来事を伝えるマスコミ報道によって、南部の人種差別は非常に強く注目されるようになっていきました。

運動で繰り広げられた暴力的なシーンには世界から抗議の声が上がり、ついには、この当時の大統領、ジョン・F・ケネディ政権による連邦政府の介入まで引き起こしました。運動の終結までにキングの名声は高まり、コナーは失職しました。

黒人の一般公共施設の利用を禁止制限した法律、「ジム・クロウ法」を示す標識は取り外され、公共の場所は黒人にとってよりオープンになりました。こうして、多くの犠牲者を出すことなく、効果的に抗議運動を展開できたことで、バーミングハム運動はその後、全米中の直接行動の抗議の手本となっていきました。

さらには、黒人のアメリカ人への不当な扱いにマスコミの注目を引きつけることとなり、運動は人種差別の問題において全国的な力を生み出しました。その後人種差別撤廃が急速に進むことはありませんでしたが、徐々にこうした動きは全米に広まったきっかけとなり、この運動は1964年の公民権法の成立に向けて国を後押しする重要な要因となりました。

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こうして、バーミングハムは、アパラチア山脈の豊富な石炭や鉄鉱石を利用した鉄鋼都市としてますます栄えるようになりました。現在では鉄鋼、金属関連の企業が多く本社を置いており、金属製品製造大手のAmerican Cast Iron Pipe Company (ACIPCO)、 水道管大手のMcWaneなどは特にバーミングハムを代表する大企業です。

また、1970年代~1980年代に、同市の経済は転換期を迎え、医療やバイオケミカルの分野も発展するようになりました。されに現在では、バーミングハムは金融の分野で全米に知られるようになっています。

現在では、アメリカ南東部における最も重要なビジネスセンターの一つであり、同時にアメリカ最大の銀行業の中心地のひとつとして発展しています。銀行業のRegions Financial Corporationを初めとする全米屈指の銀行や保険業者もここに拠点を置くようになっているほか、AT&Tグループに属する電話が会社の拠点もあります。

バーミングハムには、これといって観光の名所というところはありません。が、アラバマはソウル・ミュージック、カントリー・ミュージック、ブルース、ブルーグラスなどルーツ・ミュージックの発展に大きな役割を果たしてきた州であり、州内にはあちこちにそうした音楽関連の施設があるようです。

また、最南部にはモービルの町があり、ここにはメキシコ湾に面したビーチを持っており、この海浜は州経済の大きな収入源です。モービル近郊のガルフコースト一帯は白砂の海岸が広がり、穴場のビーチリゾートにもなっています。

沿岸は新鮮な海の幸が豊富で、シュリンプを始め、クラブ、オイスターなどの料理が名物。映画、「フォレスト・ガンプ」の舞台となったことでも知られ、以後は観光都市として注目を浴びるようになっています。一度お出かけになってみてはいかがでしょうか。

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キャンベル・キッド

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写真は、”Campbell Kid”と呼ばれるこの当時流行した人形で遊ぶ少女たちです。ニューヨークで1912年3月に撮影されました。

Campbell(キャンベル)といえば「スープ」、というぐらい、スープ缶詰を売りにした会社です。起業当時以来、広告に多額の投資をしており、最もよく知られているのが、この「キャンベル・キッズ」スープシリーズの広告です。

この人形には名前があり、「ドリーディングル」といいます。そのもととなったのは、人気コミック作家だった「グレース・ドレイトン」の作品で、「ピクトリアル・レヴィー」という女性誌の中に描かれていました。

写真で少女たちが遊んでいるような人形もこのコミックとのコラボで発売されたようですが、なにぶん100年以上も前の話であり、おそらく現存していたとしても非常に希少なものでしょう。下のイラストがこのドリーディングルであり、冒頭の写真と見比べてみると、写真のほうは横向きに寝せてありますが、同一のものであることがわかります。

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キャンベルの最もよく知られた製品といえば、その濃縮スープでしょう。近年では非濃縮の特製スープ、乾燥スープミックス、グレイビー(肉汁ソース)を始めとするその取扱濃縮食品に加えて、より広範囲の食品全般を包括するまでに成長しています。

キャンベルは1869年に青果商のジョセフ・A・キャンベルとアイスボックスメーカーのエイブラハム・アンダーソンの手によって設立されました。設立当初の社名は「ジョセフ・A・キャンベル保存加工会社」と呼ばれ、缶・瓶詰めのトマト、野菜、ゼリー、スープ、薬味や挽肉を製造・販売していました。

1896年になる頃、アンダーソンは共同事業を退き、新会社「ジョセフ・キャンベル株式会社」を再建・組織するために最初の会社をあとにしました。1897年、新しいキャンベル社の協力者となる、ジョン・T・ドーランス博士が、週給僅か7ドル50セントの賃金で働き始めます。

マサチューセッツ工科大学とドイツのゲッティンゲン大学で学位を取得する程の才能に溢れる化学者であったドーランスは、最も割合の大きい材料である水の量を半分に減らすことにより、スープを濃縮する商業的に実現可能な製法を開発しました。

世紀が20世紀へと変わる頃、当時アメリカの食生活においてスープは必需食料品ではありませんでしたが、ヨーロッパではよく食べられていたものでした。しかし、ドーランスの開発した濃縮スープは、1缶10セントという手ごろな値段とその利便性がすぐに大衆の間で大人気となりました。

1900年にはパリ万国博覧会にこの濃縮スープ缶製品が出品され、現在もそのラベルには、このとき受賞したゴールドメダルがあしらわれています。

その赤と白のデザインは、1898年、キャンベルズの重役の一人であったハーバートン・ウィリアムズが、自身も参加していたコーネル大学のアメリカン・フットボールチームで使用されていたユニフォームの爽やかな色彩に感化されて採用されたものです。

ウィリアムズが重役会にこの赤と白のラベルデザイン案の採用を打診した結果採用となりましたが、そのデザインと上述の1900年パリ万国博覧会で獲得したゴールドメダルの組み合わせは、今日までほとんど変わっていません。

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キャンベル・スープ社は、冒頭のキャンベル・キッズなどの広告キャンペーンを初めとして他にも多数の広告を出しており、過去にその販売推進キャンペーンに使用されたデザインの多くは、現在でもアメリカの収集用広告市場でも価値のあるものとなっています。

1916年に出版された「ヘルプ・フォー・ザ・ホステス」の中でキャセロール料理のつなぎとして手作りしたクリームソースの代わりに濃縮クリームスープの缶詰を使うことが提案され、北米の家庭料理から手作りのクリームソースが駆逐されるきっかけとなりました。

野菜ジュースである「V8」が発売された1933年以降、この当時の映画俳優で、のちにアメリカ合衆国第40代大統領となる、ロナルド・レーガンに依頼し、彼の姿が宣伝用ポスターなどに使われました。

1949年には「”Easy Ways to Good Meals”(簡単にできる美味しい食事)」というレシピ小冊子の中でスープの缶詰を2、3種類混ぜ合わせて新しい味を作り出す提案をしています。ただし、缶詰のスープを混ぜ合わせること自体は1930年代にすでに行われており、キャンベル・スープ社の発案ではありません。

1968年には、1960年代に流行していたペーパードレスにスープ缶が描かれた「スーパー(Souper)ドレス」を、スープ缶を2缶購入した消費者に1ドルで提供しました。

このほか、キャンベルズ製品のメニューブックや、料理本シリーズである「ヘルプ・フォー・ザ・ホステス」なども製作しています。この中でこの当時とくに親しまれたレシピの一つには、現代人の味覚としては少々へんな感じがしますが、「トマトスープ・ケーキ」などでした。

同社は著名な商業用公演施設も所有しています。主なものに、以前はアメリカ人俳優のオーソン・ウェルズがニューヨークに設立したマーキュリー劇場があります。現在では、キャンベル・プレイハウスに名称を変更しています。キャンベルズはまた1938年の12月に、この劇場が運営するラジオ劇場番組のスポンサーを引き受け、現在でも続けています。

1994年時点での売り上げ上位3製品はチキン・ヌードル、クリーム・オブ・マッシュルーム、トマトでした。消費者は一年毎におよそ25億個ものスープ缶を購入しているといい、最新のデータはよくわかりませんが、おそらくこれ以上の売り上げがあるのではないでしょうか。

至る所で目にするその赤と白の缶のデザインは、1960年代のアメリカを代表するポップアートの芸術家・アンディー・ウォーホルの作品「キャンベルのスープ缶」の素材となったことでも有名です。

この缶を題材とし、1962年から1968年にかけて描かれた因習打破的な一連の絵画は、その多くがペンシルベニア州にあるアンディー・ウォーホル美術館(ピッツバーグカーネギー美術館)に展示されています。

ウォーホルの作品として取り上げられたことを祝すキャンペーンとして、2004年に同社は、通常の赤と白のデザインとは異なるラベルの全4種の限定デザイン缶を公表しました。これら新しいラベルはウォーホルの絵画を模してシルクスクリーンの色調を使用し、上半分が影部分で底側半分は違うデザインといったものです。

その一つにはオレンジ色とピンク色を基調とした部分のものがあり、別の影部分は青色である。通常の缶のデザインラベルから逸脱したこのキャンペーンは、同社の100年を越える歴史の中でも数少ない珍しい事例となりました。

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これら限定デザイン缶の販売はアメリカ合衆国東海岸を中心に展開され、アメリカの大手スーパーの一つであるジャイアント・イーグルを通じて西海岸側でもゆっくりと流通の幅を広げています。

日本においては、キャンベル・ジャパンとSSKセールスを通して日本向けに味を調整した製品が数種類発売されているほか、都市部の輸入食料品店ではオリジナルの各種スープが販売されています。

また、沖縄県では米軍統治時代から家庭の常備食として広く親しまれており、特定の銘柄については米国とほとんど変わらない価格(1缶数十円程度)で購入することが可能だということです。

アイダホ ~宝石の州

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写真が撮影されたのは、1941年。太平洋戦争の真っただ中でありますが、少女たちの表情には戦争の影などみじんも感じられず、明るい笑顔です。

場所は、コールドウェル(caldwell)となっており、アメリカ西北部の州、アイダホ州の州都、ボイシ(Boise)の都市圏内にある、人口46000人ほどの中都市です。

町の中央部に colledge of Idaho という全米でもかなり古い創設になる私立大学があり、この写真はその学校関係者の子息か、あるいは、この町が20世紀中に主に農産物加工などで発展してきたことから、そういった商工業者の子供なのかもしれません。が、いずれにせよ想像の域を出ません。

このアイダホ州というのは、実に日本人には馴染のない州であり、何を探しても日本との接点が出てきません。

ただ、州北部にサンバレーというリゾート市があり、スキーなどの冬季スポーツがさかんな関係からか、ここと長野県山ノ内町が姉妹都市になっているほか、同じような理由からか北部のポカテロ市が北海道の岩見沢市と姉妹都市になっているようです。

が、アメリカ西岸部のカリフォルニアやオレゴン、ワシントンといった各州よりも更にアメリカ内部に入り込んだ場所にあるという地理条件からか、あまりアイダホにまで行ったという日本人の話は聞いたことがなく、私自身、ワシントン州とアイダホ州の境界近くまで行ったことがあるものの、州内に足を踏み入れたことはありません。

が、せっかくなので、どういう州なのかさっとおさらいしてみようと思います。

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まず、「アイダホ」という名前ですが、アメリカの他の州が、ヨーロッパの地名由来のものが多いのに対して、これはネイティブアメリカンに由来する名前のようです。

一説によれば、かなり適当につけられたという話もあるようです。これは、1860年代の初めごろに、この地域の名前を決めようとしたとき、ある政治家がこの地に住むショショーニ・インディアンの言葉で「山から昇る太陽」あるいは「山々の宝石」の意味である、としてこの「アイダホ」という名前を提案した、といういわれに発します。

しかしこれの意味づけは後にこの政治家が自作したということが明らかになっており、インディアンの言葉には違いないものの、意味が果たしてそうであるのかは誰も証明できなかったようです。

連邦議会もそのあたりを察していたのか、1861年には一旦、この地域の名前を「コロラド準州」とすることに決めました。現在のコロラド州は全く別のところにありますが、このときはアイダホもまたコロラドと呼ばれようとしていたわけです。

ちなみに、このコロラドという名前は、「赤みをおびた」を意味するスペイン語に由来しており、このあたりには鉄分を多く含んだ赤い色をしている川が多かったため、地域を表すには適当と考えられたのでしょう。

ところが結局、現在のコロラド州のほうで、この名が採用されるころとなり、コロラド準州が誕生しました。アイダホに州としてその名をつける案はどこかへ行ってしまい、結局はワシントン州の一部に「郡」として取り込まれることになりました。

640px-Idaho_nedアイダホの地形 ほとんどが山岳地帯

こうして、このとき改めてこの郡名を決めることになりましたが、このころコロンビア川で進水した蒸気船に「アイダホ」の名を冠したものがありました。この蒸気船名が上述と同じインディアンの用語なのか、何を意味するのかは不明でしたが、ともかくこれにより「アイダホ」という名前が人々に知られるようになっていました。

このため、この新しい郡の名前も同じくアイダホでいいじゃないか、ということになり、この郡名を「アイダホ郡」とすることが決まりました。さらにその後これを準州に昇格させようということになり、こうして1863年にアイダホ準州が創設される運びとなりました。

しかし、本当にこのアイダホという呼称がインディアン由来のものであるのかどうかという証拠はないままに現在まで来ているということで、これではまずい、とアイダホ州の人は思ったのでしょう。

20世紀以降の多くの文献では、一応、インディアンの言葉から派生したということになっており、どうやら後付でその由来を考え出したようなフシがあります。

アイダホの小中学校の歴史教科書にはこう書いてあるそうです。「ショショーニ・インディアンには “ee-da-how” という用語があり、その意味は “Ee”が、「降りてくる」 “dah” は「太陽」と「山」のふたつを表しており、3つめの “how” は驚きを意味し、つまり、「注意せよ!太陽が山から降りてくる」ということになる」、と。

しかし、「アイダホ」という名前は平原アパッチ族の「敵」を意味する “ídaahę́” から出てきたという説もあり、いずれにせよ、インディアン語らしい、というところは共通していますが、「アイダホ」の本当のところの意味は誰にもわからない、というのが事実のようです。

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州南部のショショーニ滝

まあもっとも、地名の由来などはいい加減なものも多く、日本でも例えば山梨県の「やまなし」の由来は、くだもののヤマナシがたくさんとれたからとか、山をならして平地にした「山ならし」からきているなどたくさんの説があるものの、定説はないようです。

さて、アイダホ州のことです。州の大部分が山岳地帯の州です。面積では全米50州の中で14位。農業と共に林業、鉱業が盛んです。農産物の中でもとくにジャガイモの出荷額が多いので、「ジャガイモの州」と呼ばれることもあります。

その自然を活かした観光業なども最近は州の大きな収入源になっています。州都および最大都市は、州南西部にある上述の「ボイシ」です。これも日本人には馴染のない都市名です。

人口約16万。海抜は2,842フィート(864m)の高地にあり、全米指折りの治安が良好な都市としても知られていて、治安の良い都市として上位100位以内に入ります。また、良好な自然環境、温暖な気候などから最も生活しやすい都市の一つに挙げられています。

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Boise_Idahoボイシにあるアイダホ州会議事堂

このボイシを州都とするアイダホ州全体の人口はおよそ157万であり、これは日本の神戸の154万人とほぼ同じです。州の愛称は「宝石の州」であり、ほとんどあらゆる種類の宝石が州内で見つかっています(この辺のところ山梨県に似ており、地名の由来がよくわからんところは、宝石が見つかりやすいのでしょうか)。

ヨーロッパ人の入植がある前はそのほとんどの部分を複数のインディアン部族が支配していましたが、アメリカ合衆国陸軍大尉メリウェザー・ルイスと少尉ウィリアム・クラークによって率いられた、「ルイス・クラーク探検隊」がこの地を発見したことで、入植が行われるようになり、先住民以外で最初の集落は1809年にできました。

法人化された最初の町は、ワシントン州との州境にあるルイストンであり、最初の州都となりました。その創立は1861年とされます。このルイストンには、太平洋岸に注ぐコロンビア川の支流のスネーク川という川があり、太平洋側からコロンビア川を遡っていくとこの地に達することができたという点は、この地域の発展にとって大きかったようです。

U.S._Highway_93_bridge_from_within_Snake_River_Canyonスネーク川

1863年に、このルイストンでアイダホ準州が設立されるまでの間、現在のアイダホ州の部分はオレゴン、ワシントンおよびダコタの各準州に含まれていました。その後準州となって以降は、1865年に州都がルイストンからボイシに移されました。

これは、ボイシで1862年に金鉱が発見されたためです。スネーク川支流の河谷に位置するという位置関係は交通上も有利で、いわゆる「オレゴン街道」の沿線都市として栄えるようになりました。

この「オレゴン街道」というのは、19世紀の西部開拓時代にアメリカ合衆国の開拓者達が通った主要道の一つであり、大西洋から太平洋まで交通網を拡げるという目標の達成に貢献しました。

その道程は、オレゴン州に端を発し、アイダホ州、ワイオミング州、ネブラスカ州、カンザス州、ミズーリ州の6州にまたがり、五大湖の南に至ります。五大湖からは舟運で太平洋に出ることができ、これにより北アメリカ大陸の横断が実現しました。

1841年から1869年の間、オレゴン・トレイルは東部から太平洋岸北西部に移住する開拓者で賑わいましたが、1869年に大陸横断鉄道が開通すると、この道を長距離で旅する人は減少し、徐々に鉄道に置き換わっていきました。

しかし、その通過点であるアイダホ州では、この間繁栄が続き、20世紀の灌漑事業によって食品、食肉加工業が発達しました。また金鉱から産出される金にも支えられたことから、1890年には州に昇格することができました。その後の州の経済は鉱業が主体でしたが、後には農業、林業および観光業に移っていきました。

近年のアイダホ州は観光業と農業の州としての基盤に加え、科学技術産業を奨励して産業の拡大を図っており、今やこの科学技術産業は州内の産業の中で最大(州の所得の25%以上)となり、農業、林業、鉱業を合わせたよりも大きくなっています。

上述のとおり、アイダホ州からは、スネーク川とコロンビア川を下って船で太平洋まで下ることができます。両河川にあるダムや堰にはすべて閘門が整備されており、アイダホ州東端にあるルイストン市には大陸アメリカ合衆国の太平洋岸から最も内陸にある「海港」があります。

csr-mapコロンビア川とスネーク川

この「閘門(こうもん)」というのは、急こう配な川の箇所や、ダムや滝などの落差を克服して船を通航させるために用いられる装置です。

船の通行に障害がある場所では、人工的に水流を一部堰き止めて「プール」を複数作ります。このプールは川の上下流に連続しており、船が通行する場合は、下流、もしくは上流から順番にこのプールに船を入れ、水位差を調整しながら少しずつ上下流に船を移動させます。

これにより、急激な落差によって船が損傷することを防げるわけです。場合によってはこのプールをすべて繋ぎ、勾配の緩い長い水路にすることもあり、この場合でも安全に船を通すことができますが、建設費用がかかりすぎることが多いため、一般には閘門にすることのほうが多いようです。

こうした閘門がコロンビア川やスネーク川に多数設置されたことで、ルイストンには外洋船で来ることができるようになりました。

オレゴン州アストリアで太平洋に注ぐコロンビア川河口から、アイダホ州のルイストン港までは、465マイル (750 km) ありますが、これを仮に10ノット(約19 km/h) で航行すると、およそ40時間かかります。

時間はかかるものの、その分大量の物資を運ぶことができ、これによりアイダホ州は太平洋沿岸の諸州の開発からも取り残されることはありませんでした。逆に材木や穀物などの商品がルイストンから太平洋まで積み出されるとともに、ルイストンの主要産業であった製紙業や木工製品も太平洋岸の諸州に届けられるようになりました。

ちなみに、筆者はこのコロンビア川の各所にあるダムの視察のため、この川を訪れたことがあります。

この川にはかつて大量のサケが遡上しており、これを捕獲することでネイティブインディアンの生活が成り立っていましたが、多数のダム群ができたことで、彼等の生活は成り立たなくなってしまいました。

このため莫大な補償金が払われましたが、と同時に、ダムには「魚道」をつけるなどして、サケが上下流を行き来できるような工夫がなされるようになりました。

私が訪れたのはそうした魚道の見学や、サケの保護の実体を把握するためでしたが、このとき見たコロンビア川は確かに大きな川で、河口部では幅が2km以上もあり、これは海か、と見まがうほどでした。

が、川は上流へ行けば行くほど狭くなるもので、アイダホ州のルイストンあたりでは800m程度にまで細くなっているようです。細くなるだけでなく、深くなり、このあたりの渓谷美は写真を見る限りにおいては一見に値するほどのもののようです。

main_imageスネーク川

このほかアイダホ州には、アメリカ国内でも有数の自然地域が残されており、例えば、州都ボイスの北側に広がる原生地域は広さが230万エーカー (92,000 km²) もあって、大陸の中でも最大級の保護原生地です。マリリンモンロー主演の「帰らざる河」の舞台ともなった地でもあります。

また州東部は、実質ロッキー山脈の一部であり、豊富な天然資源と美しい景観があります。
雪を抱いた山脈、急流、広大な湖および急峻な峡谷などなどは、アメリカ切っての観光資源ともいえますが、他に十分に紹介されているとはいえず、手つかずのままといった状態のようです。

Redfish_lake州中部にあるレッドフィッシュ湖

日本人にもまだ十分に紹介されているとはいえない地域であり、ネットで調べてみてもあまりこの地を訪れるツアーなどは企画されていないようです。

それだけに「秘境」を訪れたいと考えている人にとっては、十分な魅力のある土地柄といえるでしょう。ご興味のある方は、一度検討されてみてはいかがでしょうか。

ちなみに、現代のアイダホ州は大統領選挙なども共和党寄りが続いているようで、1964年を最後に民主党大統領候補がアイダホ州を制したことはありません。

先日大統領候補として民主党から立候補した、ヒラリー・クリントン氏はアメリカ中で大人気のようですが、ここアイダホでの票の行方が、アメリカ初の女性大統領誕生になるかどうかのバロメータにもなるような気もします。注意深く見守りましょう。

Idaho_USA12 州北部のパルース地形(パルース川を中心とする肥沃な丘とプレーリー(草原))

万次郎のいた町 ~フェアヘイブン

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写真は、アメリカ東部、マサチューセッツ州のニューベッドフォードという町の、ある朝の光景です。

撮影された1912年というのは、この街の基幹産業だった「捕鯨」に変わって、石油燃料の精製や繊維産業が盛んになった時代であり、こうした工場や学校に通う子供たちは、冬の間、休みになると、こうした凍った池の公園でつどい、ホッケーなどに興じていたのでしょう。

捕鯨の町ということで、どことなくこの少年たちも漁師の子供のような風情があるような気がするのですが、気のせいでしょうか。

このニューベッドフォードという町は、その東側を流れるアクシネット川を隔てた対岸にある「フェアヘーブン」と結びつきが強く、もともとは一つでした。

このフェアヘーブンは実は日本人には大変縁がある場所です。土佐の国の漁師だった中浜万次郎が、嵐で遭難した際、救ってくれたアメリカの捕鯨船の船長が住んでいた町であり、万次郎はこの船長に引き取られ、ここで育ったという話は有名です。

ニューベッドフォードとフェアヘーブンは、ボストンから車で約1時間南へ走ったところにあります。しばらく西へ走ればそこはもうロード・アイランド州という位置関係であり、ここにはペリー総督が日本へと船出したニューポートの港もあり、こうしてみるとこの一帯は日本と実に縁が深いところです。

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東へ走れば1620年メイフラワー号が到着したことで有名なケープコッド半島があります。メイフラワー号は、ヨーロッパからの移民が初めてアメリカに渡った移民船であり、アメリカ植民地化のシンボルとされている船です。

同船に乗っていた船客102名のうち、およそ3分の1がイギリス国教会の迫害を受けた分離派で、信教の自由を求めてこの船に乗りました。このため、アメリカ合衆国にとってメイフラワー号は信教の自由の象徴であり、歴史の教科書でも必ず触れられている船です。

このニューベッドフォード一帯の土地を最初にインディアンから買い求めたのは、イギリス人36人のグループでした。1652年のことであり、そのうちの1人ジョン・クックはメイフラワー号に乗ってアメリカへ渡った約100人の1人でもありました。

クックはこの土地をダートマスと名づけ、家を建てて実際に住みつきましたが、この植民地は次第に発展し、やがて議会ができるようになると、クックはダートマスを代表する議長に選ばれました。1695年にこの土地で息を引き取りましたが、メイフラワー号でアメリカに渡った男性のなかで最後まで生き残った人物として知られています。

アクシュネット川西岸に近い旧ダートマスの部分は、当初ベッドフォード村と呼ばれており、1787年に正式にニューベッドフォード町として法人化されました。このとき川向うのフェアヘイブンも合わせて同じ行政区に組み込まれ、1796年には両街の間に橋が建設され、ともに成長していきました。

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しかし、フェアヘイブンは1812年にニューベッドフォードから分離して独立した町となりました。この間、移民はどんどん増えていきましたが、1800年まではまだ、ニューベッドフォードとその周辺社会は、大部分がイングランド、スコットランド、ウェールズ出身のプロテスタントで構成されていました。

19世紀前半にはポルトガルからの移民が捕鯨業に関連してニューベッドフォードとその周辺地域に入ってくるようになり、同様に20世紀に入るとポーランド系移民やユダヤ系移民も入ってくるようになりました。

ジョン万次郎がこの街で暮らすようになるころには、街の人々の多くは捕鯨業で活動し、物資を売り、船の艤装を行っていました。

ジョン万次郎を救い、フェアヘイブンの街に連れてきた人物は、「ウィリアム・ホイットフィールド」といいました。1804年にこの街で生まれましたが、両親を幼くしてなくしており、祖母に育てられました。

叔父ジョージ·ウィットフィールドは捕鯨船の船長であり、彼はその成長過程でこの叔父に大きな影響を受け、のちに自らも捕鯨船を操るようになります。

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北米大陸東岸では17世紀中頃、マッコウクジラから良質の鯨油が採れることがわかりました。1785年に独立戦争に勝利したアメリカは、セミクジラと並びこれを捕獲対象とした捕鯨に積極的に参入していきました。

当初は北米沿岸だけで捕鯨行為が行われていたましたが、資源の枯渇から18世紀には大型の帆走捕鯨船を本船とした、いわゆる「アメリカ式捕鯨」へと発展しました。

これ以前に北大西洋で行われていたヨーロッパ式の捕鯨では、その猟場は、グリーンランド西部のデイディス海峡からノルウェー沖に至る海域でした。このころの漁法は小さな漁船が多数集合で動くというもので、1650年頃以降にその出船数はピークに達し、毎年250~300隻の捕鯨船を含む船団が出漁していました。

この捕鯨は主に油を採取し肉等は殆ど捨てるという商業捕鯨であり、その後の日本捕鯨のようにクジラ全てを用いるものではありません。ヨーロッパ諸国の中では一時オランダが優位であり、オランダの捕鯨会社はヨーロッパの鯨油市場を独占し、その利益はアジアとの香辛料取引を上回るまでになりました。

しかし、その後18世紀後半には、イギリスも捕鯨に参入し、世界の海上覇権を握っていたイギリスの捕鯨船は瞬く間に勢力を広げました。ところがこのころから、大西洋ではクジラ資源の枯渇が目立つようになってきました、このため、その操業海域も太平洋へと移っていきました。

多くの捕鯨船が太平洋全域へ活動を拡大していきましたが、北ではベーリング海峡を抜けて北極海にまで進出してホッキョククジラを捕獲し、南ではオーストラリア大陸周辺や南大西洋のサウス・ジョージア諸島まで活動しました。

ヨーロッパから出航した船団は、大型のカッターでクジラを追い込み、銛で捕獲しますが、捕獲用器具としては手投げ式の銛に加え、1840年代に炸薬付の銛を発射するボムランス銃と呼ばれる捕鯨銃が開発されました。捕殺したクジラは船の脇で解体されます。船上に据えた炉と釜で皮などを煮て採油し、採油した油は船内で制作した樽に保存しました。

そして、帰国後はノルウェー北部のスピッツベルゲン島などに設けられた捕鯨基地にこれらの油が集められましたが、ここの港は樽で埋め尽くされ、数千人の労働者が昼夜製油作業に従事していたといいます。

4 T UMAX     PL-II            V1.5 [6]ニュー・ベッドフォード湾

日本周辺にも1820年代に到達し、極めて資源豊富な漁場であるとして多数の捕鯨船が集まりました。操業海域の拡大にあわせて捕鯨船は排水量300トン以上に大型化しており、多くの薪水を出先で補給しながら、母港帰港まで最長4年以上の航海を続けるようになりました。

このような事情が日米和親条約締結へのアメリカの最初の動機でした。鯨をもとめて日本近海に現れる捕鯨船の捕獲対象種はコククジラやセミクジラ、ザトウクジラなどであり、鯨油と鯨ひげの需要に応じて捕獲対象種の重点が決定されました。19世紀中頃には最盛期を迎え、イギリス船などもあわせ太平洋で操業する捕鯨船の数は500~700隻に達しました。

このころには、アメリカもまたかなりの捕鯨船を保有するようになっており、マッコウクジラとセミクジラ各5千頭をも捕獲し、イギリス船などを合わせるとマッコウクジラだけでも7千~1万頭を1年に捕獲していたといいます。

南大西洋ではアザラシ猟も副業として行い、アフリカから奴隷を運んではアザラシ猟に従事させ、その間に捕鯨をしていましたが、こうした捕鯨船の母港となったニュー・ベッドフォードは大いに繁栄しました。

そんな中、土佐に生まれた万次郎は、手伝いで漁に出て嵐に遭い、漁師仲間4人と共に遭難、5日半の漂流後奇跡的に伊豆諸島の無人島鳥島に漂着し143日間生活していました。そこへたまたま通りがかったのが、アメリカの捕鯨船ジョン・ハウランド号であり、その船長こそがホイットフィールドでした。

ジョン・ハウランド号は、上述のメイフラワー号に乗ってアメリカに渡り、のちにマサチューセッツ州知事なども務めたジョン・ハウランドにちなんでく名づけられた三本マストの帆船でした。大きさは377トン、長さ34メートル、幅8.3メートル深さ4.2メートルであっという記録が残っています。無論、万次郎が見た事もない大きさの船でした。

万次郎は、この船に仲間と共に救助されましたが、これが天保12年(1841年)のことで、万次郎はまだ14歳でした。このころまだ日本は鎖国していたため、ホイットフィールド船長一行は、漂流者たちを日本に送り届けることを断念し、彼等とともにアメリカに帰港することにしました。

その途中立ち寄ったハワイでは、漂流者たち全員を下す予定でしたが、船長のホイットフィールドに最年少の万次郎の利発さに気付き、彼に本国に一緒に来ないか、と誘いました。万次郎は迷いますが、元より好奇心の強い子だったことから、渡米を決意します。

こうして、万次郎は、ホイットフィールド船長とともに、ニューベッドフォード港に入りました。その後、船長の家のあるフェアヘイブンに住むようになり、ここでは、船名にちなみジョン・マン(John Mung)の愛称をアメリカ人からつけられました。

その後、万次郎は、ホイットフィールド船長の養子となり、この地にあったールド・ストーン・スクールという、現在では高校にあたる公立校に通うようになります。船長からの期待に応えるべく必死に勉強したといい、わずか数年で英語もマスターし、この学校は首席に近い成績で卒業したようです。

1844年(弘化元年)、17歳で入った、私立のルイス・バートレット・スクールは、船員育成のための商船学校のようなところで、ここで万次郎は、英語は無論のこと、数学・測量・航海術・造船技術などを幅広く学びます。寝る間を惜しんで熱心に勉強し、ここでも首席となった彼は、同時に民主主義や男女平等などのアメリカの進取的な概念をも学びました。

その後ここで得た経験が、幕末から明治維新にかけて生かされ、時代の寵児になったことは言うまでもありません。その帰国の試みは2度行われました。最初上陸した琉球では、官吏に入国を拒否されましたが、二度目は役人に見つからないように入国に成功しました。

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こうして約10年ぶりに帰国した万次郎は、その後薩摩を経て土佐藩に身を移され、すぐに士分に取り立てられました。さらには徳川幕府に徴用され、咸臨丸に乗って勝海舟とともにアメリカに「里帰り」もしました。

が、このときの寄港地はサンフランシスコだったため、フェアヘイブンには戻っていません。帰国後は、幕府の軍艦操練所教授となり、帆船「一番丸」の船長に任命され、翌年には同船で小笠原諸島近海に向い、洋式船で日本初となる捕鯨なども行っています。

幕末の動乱時には、戦闘などには参加せず、翻訳をしたり、士民に英語の教示を行っていますが、土佐藩にできた「開成館」という学校でも教授となって英語、航海術、測量術などを教えていたほか、かつて世話になった薩摩藩の招きをも受け、ここでも航海術や英語を教授していました。

明治維新後の明治2年(1869年)、明治政府により開成学校(現・東京大学)の英語教授に任命されましたが、その翌年の明治3年(1870年)、普仏戦争視察団として大山巌らと共に欧州へ派遣されました。

その帰国は大西洋経由であったことから、このとき万次郎は第二の故郷、フェアヘイブンに立ち寄っています。恩人のホイットフィールドとも再会し、このとき、身に着けていた日本刀を贈りました。

この刀は後にアメリカの図書館に寄贈され、第二次世界大戦の最中にあっても展示されていたが、後に何者かに盗難され行方不明になり、現在はレプリカが展示されているそうです。

このホイットフィールド船長の家が建っていたのは、フェアヘイブンの北側の一角だといい、ここはこの地へ最初に入植したジョン・クックらも始めに住みついたところだといいます。渡し船の船着場がおかれ、ニューベッドフォードと呼ばれるようになる前には、町の中心として栄えていたそうです。

今でもこの地区には1742年に建てられた家を筆頭に、十八世紀の家が十軒以上並んでいるといい、他の家もほとんどが十九世紀はじめに建てられたものです。1796年に最初の橋が川にかかったときには、フェリーが廃止されると同時に活動の中心が橋のある南へ移り、発展からとりのこされました。

以後、もともとオックスフォード・ヴィレッジと呼ばれていたこの一角を現地の人は、ポヴァティー・ポイント(povety pointo)と呼ぶようになりました。これは直訳すれば「貧しい街」という意味です。が、貧民街であったわけではなくこれは愛称にすぎず、昔から現在に至るまで綺麗に整備されたまちです。

万次郎がこの町に来た頃にはこの二つの町だけで200隻以上の捕鯨船を有しており、捕鯨で大いに町が潤っていたころです。このポヴァティー・ポイントにも世界の海で活躍する船乗りが何人か家をかまえ、静かな住宅街であり、その雰囲気は、万次郎がいた頃からその後ほとんど変わっていないようです。

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フェアヘイブンの街並み

万次郎を伴ってこの街に帰って来たとき、ホイットフィールド船長は37~38歳だったようですが、まだ子供はいなかったようです。が、その後、万次郎が在米中及び帰国してからは、妻のアルベルティーナとの中に4人の子供を設けました。

ホイットフィールドは、その後フェアヘイブンの都市行政委員などを勤めるなど政治家としても活躍し、のちにマサチューセッツ州選出の議員なども勤めたようです。が、1886年に82歳で亡くなっています。

その墓は、フェアヘイブン北西部のアクシネット川の河岸にある「リバーサイド墓地」にあり、この墓は、昭和天皇や多くの日本人高官によって訪問されたそうです。彼の孫トーマス·ウィットフィールドもまた、政治家の道を進み、1944に62歳で亡くなるまでは、歴史の中でも二番目に長いフェアヘブン市選出議員の地位にあったといいます。

ちなみに、万次郎は明治3年の渡米後、帰国してからすぐに軽い脳溢血を起こしますが回復しました。しかしその後は表立った活動はせず、時の政治家たちとも親交を深め、政治家になるよう誘われたものの断り、最後は土佐へ戻り、ここで一教育者としての道を選んで余生を過ごしました。

明治31年(1898年)、72歳で死去。現在は雑司ヶ谷霊園に葬られています。その故郷である、土佐清水市は、この万次郎との縁で、1987年からフェアヘイブンとニューベッドフォードの姉妹都市となっています。

その二つの町は、現在でも漁業と製造業がさかんです。が、最近では観光業も成長産業になっているといい、芸術祭的なものやポルトガル移民を中心とした祭りなど目当ての観光客が増えているといいます。

歴史ある捕鯨産業も観光ネタであり、ニューベッドフォード捕鯨国立歴史公園はアメリカ合衆国の歴史における捕鯨産業の影響に焦点を当てた唯一の国立公園だそうで、その中心にはニューベッドフォード捕鯨博物館という、捕鯨の歴史を紹介する博物館もあるようです。

現在、フェアヘイブンには、「万次郎トレイル」なる観光ルートがつくられています。スタート地点となるミリセント図書館には、万次郎に関する書物や日本刀などのコレクションが展示されています。

そのほか、万次郎とホイットフィールド船長が通った旧ユニタリアン教会、船長の家、万次郎が一時ホームステイしたイーベン・エイキンの家、英語を習ったアレン姉妹の家、ホイットフィールド家の墓、通ったオールド・ストーン・スクール、航海術などを学んだバートレット・スクールなどを巡るようです。

さらに船長の家は、2009年にホイットフィールド・万次郎友好記念館としてリニューアルしているそうです。

歴史好きのあなたはぜひ訪れてみたい場所なのではないでしょうか。

Whitfield-Manjiro-Friendship-House-500x525ホイットフィールド・万次郎友好記念館

軍人とダンスをする従軍看護婦

L-48写真の女性は、アメリカの従軍看護婦で、アメリカのナイチンゲールとも言われた、フランセス・ブロックという人です。

この写真が撮影された1943年当時、ワシントンD. C.の陸軍メディカルセンターの所属で、中尉の肩書を持ち、アメリカでは最も尊敬に値する、といわれるほどの高名な看護婦さんだったようです。

戦時中はアメリカ国内だけでなく、戦地である外国でも勤務が長く、氷に閉ざされた極地や熱帯の南島など、星条旗が翻るところにはどこでも出かけ、負傷者や病人のケアをしたといいます。

詳しいプロフィールはよくわかりませんが、この当時40歳くらいだったとすると、戦後70年経っているわけであり、おそらくは現在はもうお亡くなりになっているでしょう。

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こうしたアメリカ陸軍における従軍看護婦制度の歴史は古く、1775年には既に男女の従軍看護師が軍の活動に従事していたといい、米西戦争での従軍看護婦の活躍を契機に、1901年に陸軍看護軍団(Army Nurse Corps)が創設されました。

1914年に始まった第一次世界大戦では、アメリカがこの戦争に参戦した1917年時点で約4000人の従軍看護師がいたそうですが、その翌年の1918年には、これが21000人以上に膨れ上がったといい、うち約半数がフランスや病院船での海外任務に従事していました。

しかし、戦争の真っただ中に出かけていくわけであり、危険と隣合わせの命がけの勤務であり、この大戦中には約270人もの従軍看護婦が亡くなっています。

冒頭のフランセス・ブロック中尉も参加した、第二次世界大戦でも第一次大戦のときと同じように戦争始めと終わりでは著しい従軍看護婦の人数の差異があり、1941年末の参戦時には約7000人にすぎなかった従軍看護師が1945年までには57000人以上になっていたといいます。

地上にあって戦線後部で勤務するだけでなく、救護用の航空機に搭乗して最前線に出る従軍慰安婦も多数いたそうで、こうした出動は1万回ほどもあったといい、その成果として患者の死亡を5件に抑えることに成功した、と記録にはあります。

しかし、この戦争でも多くの従軍看護婦が危険にさらされ、とくに日本側が、「比島作戦」または「M作戦」と呼んだ、通称「フィリピンの戦い」では多数のアメリカ人従軍看護婦が捕虜になりました。

この戦いは、1941年12月に日本軍がアメリカに宣戦布告したのちフィリピンに攻め入り、その拠点であったコレヒドール島を攻略したときに起こったものです。

このときアメリカ極東陸軍の指揮官は、ダグラス・マッカーサー将軍であり、ちょうどこのコレヒドールに司令部を置いて防御戦闘を指揮していましたが、大統領の指令により1942年3月に家族やマニュエル・ケソンフィリピン共和政府大統領らと共にオーストラリアへと逃れました。

残されたコレヒドール島の守備隊は残って果敢に日本軍と戦い続けましたが、1942年5月になって降伏し、そのとき一緒にいた従軍看護婦67名が捕虜になりました。

その後3年間に渡り彼女たちは拘束され続けていたようですが、1945年になり戦況がアメリカを含む連合国軍に有利に逆転すると、マッカーサーはアメリカ軍やオーストラリア軍によりフィリピンの日本軍を圧倒しました。

マッカーサーもまた多数の看護婦たちが捕虜となっていたのを知っていたようで、このためコレヒドール島奪回にとくにこだわっていたといい、1945年2月に第503空挺連隊戦闘団の空挺降下作戦により再占領に成功すると、彼女たちも無事解放されました。

Army_nurses_rescued_from_Santo_Tomas_1945c太平洋戦争中のアメリカ陸軍従軍看護婦

しかし、別の戦いでは多数の犠牲者も出ました。第二次世界大戦の末期にイタリアで起こった戦いなどがそれであり、これはイタリア中西部の町アンツィオで起こったものです。

連合軍のアメリカ陸軍少将ジョン・ポーター・ルーカス司令官に指揮された連合国軍が、この当時イタリアとの同盟を口実にローマを初めとする各地を占領していたドイツを追い出すべく、その戦略的な拠点としてこの街の奪還に挑んだものですが、ここを守備していたドイツの陸空軍と激しい戦いとなりました。

のちに実施される、ノルマンディー上陸作戦に次ぐ大規模な戦いであり、1944年1月22日、36000名の兵と3200両の車両が海岸に上陸し、上陸作戦は開始されました。これに対してドイツ軍はおよそ40000人の戦闘員で対処しましたが、この戦いは天王山になると見た両軍はさらに戦闘員を増強しました。

1月29日までに、アメリカ軍第45歩兵師団と第1機甲師団を含む部隊が上陸し、海岸堡の兵力は合計で69000名にまで膨れ上がりましたが、さらに2月3日までには76400人になりました。これに対してドイツ軍も負けてはおらず、当初71500名まで戦闘員を増やしましたが、最終的にはその兵力は2個軍団およそ10万名にものぼりました。

当然激しい戦いとなり、各地の戦線において、ドイツ軍は5400名、連合軍は3500名の損害を出し、最初の上陸以来両軍の損害は20000名に達するまでになりました。

この戦いの最中、連合国側の兵士たちを背後で助けていた従軍看護婦は、自らも防空壕を掘って患者の保護にあたりましたが、激しい戦闘の中で、看護婦たちの中にも命を落とす者は次第に増え、最終的にその戦没者は215人にものぼりました。

この戦いでは、連合国軍はその後苦しみながらも各地でドイツ軍を打ち破り、最終的には占領されていたローマを解放しましたが、連合国側が行ったこの作戦は逆にドイツを奮い立たせたとのではないかという評価もあり、その犠牲者も多かったことも後世では批判の対象になりました。

このほかにも、アメリカ陸軍看護軍団の従軍看護婦たちは第二次世界大戦中に各所で活躍しましたが、この戦争が終結したあとも、その活躍は続き、朝鮮戦争やベトナム戦争、湾岸戦争などでも従軍看護婦が現地で活動しています。無論、現在までもその活動は続いており、軍事活動のほか、自然災害時の救護など人道活動にも従事しています。

こうした従軍看護婦制度は、無論、日本にもありました。日本で従軍看護制度が始まったのは明治20年代と言われ、1890年(明治23年)に設立された「日本赤十字社看護婦養成所」を卒業した10名が、その嚆矢といわれます。

一昨年の大河ドラマ、「八重の桜」で有名になった、「新島八重」も初期のころの従軍看護婦の一人であり、1891年(明治24年)、篤志看護婦になり、3年後の1894年には日赤の広島予備病院で看護婦取締を託されています。このころの篤志看護婦は、八重のような上流階級の女性が多かったといいます。

この看護婦養成所を卒業した者は、平時には日赤病院その他に勤務し、戦時招集状が届けば、いかなる家庭の事情があろうとも戦地に出動するのが原則であったといい、事実、太平洋戦争時には、産まれたばかりの乳飲み子を置いて、招集に応じた看護婦も少なくなかったといいます。

日清戦争において、はじめて日赤看護婦が陸海軍の病院に招集され、活躍をしたため、当時のマスコミは、その壮挙を大いにたたえ宣伝したため、多くの国民にその存在が認知されるところとなりました。

この戦争でも4名の看護婦が殉職していますが、戦地で亡くなったのではなく内地勤務であの死亡で、伝染病罹患による病死であったそうです。しかし、「軍務」についていたということで高く評価され、日清戦争後の論功行賞においては、亡くなった看護婦は無論のこと、招集された日赤看護婦全員が叙勲の対象になりました。

これをまたマスコミが称えたことから、このころから日本における従軍看護婦という職業は、新しい時代の女子の職業として大いにその人気が高まるようになりました。

こうした日清戦争における従軍看護婦の活躍から、日露戦争中の従軍看護婦の扱いは、格段に高くなり、とくに看護婦長や、看護人長といった彼女たちを束ねる役柄の女性たちの待遇は下士官波となり、また一般看護婦、看護人も「兵に準ずる」と規定されるに至ります。

Anita_Newcomb_McGee日露戦争中の日本の従軍看護婦

こうして日赤看護婦と陸海軍の関係は、不即不離のものとなりましたが、兵士とみなされるようになった彼女たちが参加した日露戦争においては、2160名もの日赤看護婦が従軍しました。

兵士と同じ、という処遇から当然前線に出ることも少なくなく、この戦争を通じては、看護婦長2名、看護婦37名の合計39名の犠牲者を出しました。ただし、この中にも内地勤務の病死者が含まれています。なお、この日露戦争当時も、新島八重は広島の赤十字病院の看護婦として勤務しており、その当時の写真が残されています(下の写真)。

image左側が新島八重

その後の第一次世界大戦、シベリア出兵においては、日赤の従軍看護婦に対してはじめて外地勤務が命じられ、彼女たちの病院船への乗り組みなども始まりました。1919年(大正8年)には、日赤以外の陸軍衛戍(えいじゅ)病院において看護婦を採用し、「陸軍看護婦」と称するようになりました。

衛戍とは、聞き慣れない言葉ですが、旧大日本帝国陸軍において、陸軍軍隊が永久に配備駐屯することをさし、この当時は、東京、名古屋、仙台、大阪、広島、熊本がその永久駐屯地でした。

その地の高級団隊長等が衛戍司令官となり、衛戍司令官はその衛戍地警備の責に任じ、兵力使用の権限も与えられたほか、各衛戍地には所用に応じて衛戍病院がつくられ、このほか衛戍監獄(刑務所)なども置かれていました。

従軍看護婦は、当初日赤看護婦養成所の卒業生からのみ採用していたわけですが、この衛戍病院ができるようになってからのちには、一般の看護婦資格を有するものからも採用するようになり、陸軍部内では、日赤看護婦と同様に兵員扱いされました。

婦長は「伍長相当待遇」看護婦は「二等兵相当待遇」であり、無論、戦時においては陸軍看護婦も日赤看護婦と同じく、外地での勤務も命じられるようになりました。

このように日本の従軍看護婦は徐々にその人員規模を拡大していきましたが、その後、日中戦争が勃発した際には、戦線の拡大に従い、従軍看護婦の不足が大きな問題となりました。そこで、日赤は従来3年だった救護看護婦の教育期間を2年半に短縮するとともに、採用年齢の下限を従来の18歳から16歳にまで引き下げるという対策をとりました。

こうして速成で人員増された従軍看護婦は、満州事変・日中戦争・太平洋戦争を通じて、日赤出身者だけで960班(一班は婦長1名、看護婦10名が標準)、延べにして35785名にのぼり、そのうち伍長相当の婦長は約2000名でした。

Japanische Infanterie, Schutz gegen Gas

満州事変中の日本の従軍看護婦

女性の身でありながら、出征兵士と同様、「召集状」と書かれた赤紙1枚で動員され、各地で救護班が編成されました。その派遣先は満州や中国大陸、東南アジアなど広域に及び、傷病将兵や一般人の救護まで行いましたが、戦況の悪化と共に過酷な勤務を強いられ、戦闘行為に巻き込まれたり、終戦後も抑留されたりしました。

この戦争では、多くの日本人の命が奪われましたが、従軍看護婦たちも例外ではなく、この日赤の看護婦さんたちだけでも1120名の命が奪われました。

ただ、従軍したのは日赤の看護婦だけではなく、海軍の病院船に乗っていた従軍看護婦、その他の陸軍・海軍の応召看護婦、看護活動をしていた沖縄の「ひめゆり学徒隊」等女学生などの犠牲を合わせると殉職者の数は膨大な人数に上ると思われます。

が、とくに海軍などではこれら従軍看護婦の記録が残っておらず、全体の正確な人数がどのくらいであったのかは、現在までも把握されていないようです。

熊本市の護国神社には、このうちの日赤の関係看護婦さんの慰霊碑があるそうで、ほかにも茨城県にある、日本赤十字社茨城県支部にも赤十字救護看護婦像慰霊碑「愛の灯」があるそうです。が、その他の従軍看護婦さんの慰霊のためにも、いずれは総合的な慰霊碑が創られるべきでしょう。

現在の日本の軍隊である、自衛隊においては、陸上自衛隊に看護師資格を有する自衛官が存在するそうです。自衛隊中央病院に設置された高等看護学院において、看護学生として養成が行われているそうで、在校中に看護師国家試験を受験し、合格後は二等陸曹の階級となる。平時は各地の自衛隊病院などに配置されているといいます。

このほか、看護師資格者の不足を補うため、准看護師資格を有する自衛官が陸海空の各自衛隊ごとに養成されているといい、こちらは、それぞれ三等陸曹、海士長、空士長の階級となるそうです。

願わくばこうした現代の従軍看護婦さんたちが戦地に行くことがないよう、願いたいところです。が、彼女たちの活躍場はそうした場所ばかりではなく、災害の現場などでもあるわけであり、そちらのフィールドでの活躍ばかりが今後も長く続くことを祈りたいものです。