明治天皇の崩御

Title: Funeral, Japanese Emperor
Creator(s): Bain News Service, publisher
Date Created/Published: [1912 Sept]
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明治天皇が崩御されたとされる公式の日時は、1912年(明治45年)7月30日午前0時43分です。

今から105年前のことであり、満59歳の御年でした。昭和天皇がかなりご長命であったことや、今上天皇も長生きをされていることを考えると、かなりの若さで亡くなられた感があります。

「明治天皇記」には、持病の糖尿病が悪化し、尿毒症を併発して崩御されたとあります。

この年の7月11日の東京大学卒業式に出席した時からもう既にご気分は悪かったようです。

侍医では対応できなくなり、大学医らが診療にあたりました。森鴎外とも親交があり、森がその才能を高く評価した樋口一葉の診察も行ったことで知られる医学博士、青山胤通(たねみち)らが診察し、得られた診断結果が尿毒症でした。




28日に痙攣が始まり、初めてカンフル、食塩水の注射が始まりました。皇室内には病や死などの「穢れ」を日常生活に持ち込まないという古い宮中の慣習により、天皇の寝室に入れるのは基本的に皇后と御后女官(典待)だけでした。

このほか、特別に侍医は入れましたが、限られた女官だけでは看病が行き届かないということで、それまで病室であったご自分の寝室から居間であった「御座所」が臨時の病室ということになり、ここで一般看護婦がお世話をしました。ただ、この看護婦も勲5等以上でなくてはならないきまりで、5位以上の女官が看護をしたといいます。

宮内省は崩御日時を7月30日の午前0時過ぎの上の時刻を公表しましたが、当時宮内書記官であった栗原広太は、その後の回想録で、本当の崩御日時は前日の7月29日22時43分であった、と記しています。

これは、29日に亡くなったとき、その日が終わるまで1時間程度しか残されていなかったためであり、践祚の儀式を崩御当日に行うことできなくなったためです。皇室の規定上、践祚の儀式を崩御当日に行わなければなりません。

皇太子嘉仁親王(昭和天皇)が新帝になるための色々な手続きが必要であり、その時間を確保するため、様々に評議した上で、崩御時刻を2時間遅らせることになり、翌日午前0時43分と発表されました。



天皇崩御に際してその側にいた皇族の「梨本宮妃伊都子」は、この間の様子を日記に克明に記しています。彼女の日記によれば、伊都子ら皇族は38日に危篤の報を聞き、宮中に参内し待機していました。

29日午後10時半ごろ、奥(後宮)より、「一同御そばに参れ」と召されたため、伊都子らが部屋に入ると、皇后、皇太子、同妃、各内親王が病床を囲み、侍医らが手当てをしていました。

天皇は漸次、呼吸弱まり、のどに痰が罹ったらしく咳払いをしましたが、時計が10時半を打つ頃には、声も途絶え、周囲の涙のむせぶ音だけとなりました。2~3分すると、にわかに天皇が低い声で「オホンオホン」と呼び、皇后が「何にてあらせらるるやら。」と返事をしましたが、そのまま音もなく眠るように亡くなったといいます。

その最晩年は、持病の糖尿病のために体調も悪く歩行に困難をきたすようになっておられました。天皇自身、身体の衰えに不安を持っていて、「朕が死んだら世の中はどうなるのか。もう死にたい」「朕が死んだら御内儀(昭憲皇太后)がめちゃめちゃになる」と弱音を吐かれていたといいます。

また、糖尿病の進行に伴う強い眠気から枢密院会議の最中に寝てしまう、ということもあたといい、「坐睡三度に及べり」と侍従に愚痴られています。この時期にはそれまでの壮健だった天皇に見られなかったことがいくつも起こり、周囲を心配させたといいます。




その葬儀、「大喪の礼」は、同年(大正元年)9月13日午後8時、東京・青山の大日本帝国陸軍練兵場(現在の神宮外苑)において執り行われました。このほか、崩御からこの日までの約1ヶ月半の間、宮中ではこれ以外の様々な儀式が執り行われていました。

なお、この大喪の日には、陸軍大将・乃木希典夫妻をはじめ、多くの人が殉死し、社会的影響を与えました。

大葬終了後、明治天皇の柩は遺言に従い御霊柩列車に乗せられ、東海道本線等を経由して京都南郊の伏見桃山陵に運ばれましたが、冒頭の写真はそれ以前に行われた東京での大喪の礼の際の行列かと思われます。京都での埋葬は翌日の9月14日になされています。

ちなみに、この大喪のためにしつらえられた東京の葬場殿の跡地には「聖徳記念絵画館」が建てられました。今、おそらくは銀杏の紅葉でまっ黄色に染まっている、神宮外苑のあの場所です。

大喪の礼で屠られた牛

Title: Sacred oxen for funeral, Emperor Japan
Creator(s): Bain News Service, publisher
Date Created/Published: 1912 Sept. 9 (date created or published later by Bain)
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この明治天皇の崩御は世界各国で報道されました。天皇崩御に関するこれらの記事は、衆議院議員(7期)でジャーナリストでもあった、望月小太郎が、明治天皇の一年祭に際して編纂刊行された「世界に於ける明治天皇」にまとめました。

各国(20余)別全28章からなり、そこには、イギリス、フランス、ドイツ、アメリカはもとより、中国、インド、ベルギー、スウェーデン、ペルーなど世界各国をはじめ、ハワイ、ブラジルなど日系移民と関わりの深い国の新聞の論調がまとめられ、このほか在中国外国人が書いた記事まで掲載されていました。



この望月がまとめた論評によれば、日露戦争を戦ったロシアは「沈痛懐疑の口調の中にも能く先帝陛下が常に恋々として平和を愛したる御真情を解得」したと書いています。ロシアもそれなりに明治天皇を評価していたようです。

このほか、日本が影響力を増していたフィリピンでは、明治天皇のために挽歌が創られたことなどが書かれています。さらに南米諸国では、「我が国体の崇高さ」や「先帝陛下の叡聖」などを「憧憬仰慕」として感心しているといった記事が書かれていたそうです。

そして、トルコ、インド、ペルシャ、アフリカなどのいわゆる「有色人種」の間では、「明治大帝は亜細亜全州の覚醒を促し給いたる救世主」と賞賛し、「侵略に対してきことして之を防遏」、「土民に事由制度を許した」と彼らが明治天皇を高く評価していたことを報じています。

明治天皇が写真嫌いであったことは有名です。現在最も有名になっている若い頃の明治天皇の肖像は、エドアルド・キヨッソーネ(お雇い外国人の一人)によるものです。

最も有名な御真影
(エドアルド・キヨッソーネによって描かれたコンテ画を丸木利陽が写真撮影したもの(明治21年(1888年)1月・36歳頃))

これは、ご本人は写真嫌いだったものの、この時代、国の最高指揮官が天皇であったこともあり、政治的にも何かとその「御真影」が必要となることも多く、苦心の末に作成されたものです。明治天皇ご自身の注文もあったためか、かなり若々しく描かれています。

一方、下の肖像画はその2年後に書かれたものですが(作者不詳)、上のものと比べてかなり年上に見えます。

1890年38歳頃の明治天皇

明治29年(1896年)に、当時の東京府南葛飾郡(現在の東京都墨田区)に存在した水戸徳川家の私邸を訪問した際に、邸内を散策する明治天皇が隠し撮りされた写真が平成29年(2017年)に発見されており、こちらは上の肖像画に似ているといいます。

また最晩年の明治44年(1911年)、福岡県八女郡下広川村において陸軍軍事演習閲兵中の姿を遠くから隠し撮りした写真が残っており、この写真が生前の明治天皇が最後に撮影された姿といわれています。上の写真と異なり、髭を蓄えられており、なかなかの風貌です。これが撮影された、わずか2年後に亡くなっています。

栃木県那須村演習統監時の写真
(1909年〔明治42年〕11月、最晩年の57歳

陵(みささぎ)は、京都府京都市伏見区桃山町にある伏見桃山陵(ふしみのももやまのみささぎ)です。公式形式は上円下方。京都(畿内)に葬られた、最後の天皇でもあります。

伏見桃山陵