ゴーストシップ 1916

まるで幽霊船のように見えるこの写真の船は、ドイツの元客船、クロムプリンツ・ウィルヘルム号といいます。ドイツのブレーメンなどの港とアメリカのニューヨークを結ぶ北大西洋航路に就航し、この当時は最速かつ最も豪華なライナーの一つでした。




しかし、1914年に第一次大戦が勃発したことから、「補助巡洋艦(仮装巡洋艦)」として改装されることが決まり、大小の機関銃や小砲などを装備され、ドイツ海軍の兵員が乗船してきました。その運用の目的は、主に大西洋上を運行する連合国軍の民間船を見つけては拿捕、または破壊する(沈没させる)ことでした。

1914年9月までのおよそ一年の間にウィルヘルム号によって拿捕または沈められた船は、13隻にのぼり、これらにはイギリス、ノルウェー、フランスが主なものでしたが、ロシア船などの国籍の船もあります(ロシア船はのちに開放)。

しかしその後戦況はドイツにとって不利なものになっていき、ドイツに比較的友好的であったブラジルなどで石炭を補給したりしながら活動を続けていました。制海権は次第に連合国が握るようになり、イギリス海軍ほかの連合国軍に発見される恐れがあることから、なかなか補給のために南米の友好国などにも近づくことできなくなりました。

次第に石炭の供給が減少するとともに、長い航海を続けていたことから、船員の中に病気を発する者が急増しました。病気の原因は、主に牛肉やパン、野菜といって新鮮な食物の不足による壊血病などが主で、それ以外にも多くの船員が、肺炎、胸膜炎、リウマチなどの多くの症例を発するようになりました。

また、連合国軍との戦闘で負傷した船員も多く、出血や骨折や脱臼などを抱える患者もおり、次第に船全体が病院船のような様相を示すまでになりました。



結果として船長はこれ以上の後悔は無理と判断し、アメリカ南部のバージニア州、ヘンリー岬沖に向かい、そこでアメリカ海軍に拿捕される道を選びました。乗組員は全員拘留され、船はポーツマスのノーフォーク海軍造船所に曳航。乗組員およそ1000人は近くのキャンプに捕虜として収容され、ここは「ドイツ村」と呼ばれました。

冒頭の写真は、ウィルヘルム号がこのあとノーフォークからフィラデルフィアまで牽引されていく様子を撮影したものです。長い航海であちこちが錆びつき、またところどころには連合国軍からの攻撃を受けて損傷したと思われるような箇所もあり、ほとんど幽霊船のように見えます。



ノーフォーク沖を曳航されるクロムプリンツ・ウィルヘルム号

同船は、その後改装を受け、「フォン・ストゥーベン」と改名され、アメリカ海軍の元で、再度、補助巡洋艦として運用されるようになり、主に武器・兵器の輸送などに供用されました。1918年に世界大戦が終了するまでは、幾度かUボートに遭遇し、撃沈される瀬戸際まで行ったこともありましたが、無事戦火を切り抜けています。

戦後は、バロン・フォン・スチューベンと船名を変え、およそ5年の間、貨物船として運用されましたが、1923年に退役し、ボストンでスクラップとなりました。



ちなみに、この船には「カイザー・ヴィルヘルム・デア・グローセ」という姉妹船があり、その名の由来は「偉大なる皇帝ヴィルヘルム」の意でした。クロムプリンツ・ウィルヘルムと同様に快速を誇り、初めてドイツの船舶でブルーリボン賞を受賞しています。

こちらも、第一次世界大戦では補助巡洋艦として運用され、イギリスの貨物船などを襲撃して、3隻を沈没させるなどの戦果をあげました。しかし就航後わずか一ヶ月後でイギリス巡洋艦からの攻撃を受け、逃走中に浅瀬に入り込んだため、自沈しています。

カイザー・ヴィルヘルム・デア・グローセ

ドイツはUボートをはじめとして高い造船技術を持つ国ですが、ふたつの大戦をはさんで数多くの艦船を失いました。日本も同様ですが、それらが現在も残っていれば、もっと世界の海は賑やかだろうと残念に思うのは、船フェチの私だけでしょうか。