ワシントン海軍工廠

Title: P.T. Russell of Navy Yard with ocean depth finder, 4/27/26
Date Created/Published: [19]26 April 27.
Medium: 1 negative : glass ; 4 x 5 in. or smaller(original)

写真は、1926年、アメリカの首都、ワシントンD.C.の南東部に位置する、ワシントン海軍工廠内で撮影されたものです。1872年に創刊されたアメリカの科学雑誌、「ポピュラーサイエンス“Popular Science”」 誌に掲載されたもので、アメリカ海軍の開発研究について報じた記事の一部に使われました。

写っているP.T.ラッセルなる人物は、海軍工廠に関する音響関係の技術者のようです。彼の前に置かれている装置は、左から右に、水深測定器、サウンドトランスミッター(送信機)とサウンドレシーバー(受信機)です。送信機は船底に取り付けられ、それを船上の航海士が受信し、測定器で分析します

この年の国立科学アカデミーの年次総会で展示される予定のもののようで、これをポピュラーサイエンスが取材したようです。




このワシントン海軍工廠ですが、現在はワシントンD.C.にはありません。2006年にバージニア州クアンティコある海軍海兵隊基地に移転しました。

しかし、移転後もその遺構がかなり残されています。米国海軍としては最も古い施設のひとつで、1973年にアメリカ合衆国国家歴史登録財に登録され、1976年5月11日にはアメリカ合衆国国定歴史建造物にも指定されました。

現在では、その建物の一部と跡地が現在米海軍の式典に使用されているほか、行政センター、アメリカ海軍作戦部、海軍歴史センター本部、海軍犯罪捜査局(NCIS)、海軍原子炉事務所、海兵隊学校などの各種組織が置かれています。

この「海軍工廠」とはそもそも何か、ですが、これは艦船、航空機、各種兵器、弾薬などを開発・製造する海軍直営の軍需工場(工廠)のことです。兵器の製造が主な仕事ですが、それを開発する研究部門が重要な地位を占めており、いわば軍の戦争兵器製造の中枢的機能を持っていました。

日本でも、明治時代に、海軍鎮守府の直轄組織として、横須賀・佐世保・呉などに同様のものが建設されました。第二次世界大戦期間中は軍備増強によってさらに増え、舞鶴、豊川、光、相模(寒川町)、高座(座間市、海老名市)、川棚、沼津、多賀城、鈴鹿の8ヶ所に新たな海軍工廠を設置していました。



ワシントン海軍工廠の発足は1809年にまで遡ります。工廠の北の壁は監視所と共に建てられ、現在はラトローブ・ゲートとして知られています。工廠の南側の境界にはアナコスティア川があり、西側の境界は未開発の沼という、湿地帯に作られた施設でした。後に規模が大きくなり、土地が不足してくるとアナコスティア川に沿って埋立を行い対応しました。

米西戦争中の1814年にワシントンが焼き討ちにあった後、大規模な改築が行われ、ワシントン海軍工廠は海軍最大の造船所および艤装工場となりました。その結果、小は70フィートの砲艦から、大は246フィートのフリゲート艦・ミネソタ(USS Minnesota)まで、22隻の艦艇が独立戦争までに建造されました。

イギリスとの独立戦争後も拡張が続いていき、一世紀以上をかけて、工廠の主力は兵器の生産と技術開発に移行していきました。工廠には米国の最も初期の蒸気機関が設置され、碇(いかり)、鎖といったものや、さらには船舶用蒸気機関の作製までが行われるようになりました。

南北戦争中、工廠は北軍にとってのワシントン防衛の重要地点となりました。エイブラハム・リンカーン大統領は工廠長補佐のジョン・ダールグレン(John A. Dahlgren)中佐に絶大な信頼をおいており、しばしば工廠を訪れていたといいます。

アメリカで初めて建造された装甲艦として複数製造された有名な「モニター艦」も、南軍の装甲艦バージニアとの歴史的な海戦、ハンプトン・ローズ海戦の後、このワシントン海軍工廠で修理されています。

合衆国初の戦艦、”モニター”

リンカーン大統領暗殺事件のとき、その共謀者達は、逮捕の後工廠へと連行されたといいます。また、実行犯のジョン・ウィルクス・ブースの遺体は工廠に係留されていたモニター艦モントーク(USS Montauk)上で検死され、本人確認がなされました。

1862年頃のワシントン海軍工廠

第一次世界大戦後も工廠は技術進歩の中心であり続け、1866年、ワシントン海軍工廠は、海軍の全兵器の製造工場となりました。そして、第二次世界大戦までには、ワシントン海軍工廠は世界最大の軍需工場となっていました。

ここで設計・製造された武器は米国が関与した1960年代までの各所の戦場で使用され、最盛時には、工廠の敷地は126エーカー(0.5 km2)に達し、188の建物で25000人が働いていたといいます。精密な光学装置の部品から巨大な16インチ砲まで、全てここで製造されていました。

以前のブログ “TORPEDO SHOP 1917” で紹介した魚雷製造の技術もこのワシントン海軍工廠でその技術が培われてきたものです。

ワシントン海軍工廠における魚雷製造

兵器の生産は第二次世界大戦後も1961年まで続けられましたが、3年後の1964年7月、その活動は終了しました。工場の建物は当初種々の事務所に転用されましたが、最近は再整備が進み、上述のような海軍の諸施設が運用されています。



このワシントン海軍工廠では、様々な科学技術上の発明が行われました。米英戦争中には世界で初めてとなる時限式の機雷の研究と試験が行われたほか、1822年には型艦のオーバーホールのために米国最初の曳揚装置(marine railway)が据え付けられました。

緩斜面に曳かれたレールの上を艦船を滑らすように上陸させ、陸上で船艇のチェックや牡蠣殻落とし、再塗装などができるようにしたもので、これにより頻繁に艦船のメンテナンスができるようになり、飛躍的に寿命が延びました。

最初の艦艇用カタパルトは、1912年に隣接するアナコスティア川で試験されたもので、風洞実験装置は1918年に初めて設置されました。こうした軍用機器の開発だけでなく、パナマ運河閘門用の巨大な歯車もここで鋳造されたたもので、このほか負傷した兵士のための義手、義眼、義歯の設計にも海軍工廠は関与していました。

幕末の1860年には日本からの使節団も受け入れています。目付であった小栗忠順は、その設備に感銘を受け、近代工業の象徴として工廠で生産されたネジを持ち帰ったといい、当時のニューヨークタイムズは、小栗が「近い将来、日本にこのような施設を造りたい」と語ったと報じています。これは後に横須賀造船所として実現しました。

ワシントン海軍工廠での使節団:前列右から2人目が、小栗忠順

大西洋横断飛行に成功したことで知られる有名なチャールズ・リンドバーグの1927年の帰還地地もワシントン海軍工廠でした。英国のジョージ6世もワシントン滞在中に工廠を訪問したこともあります。

現在は海軍博物館(Navy Museum)があり、またキューバ危機、ベトナム戦争などで活躍した駆逐艦バリー(USS Barry)も博物館として一般に開放されています。バリーはワシントン地区の指揮官交代式典にしばしば利用されているといいます。

USSバリー(Barry)

なお、現在アメリカには海軍工廠として存続しているものはなく、従来のその機能のほとんどは、各海軍基地内にある造船所などで賄っているようです。多くの海軍工廠が廃止されたのは、冷戦が終了し世界的に軍縮の気運が高まり、建艦のニーズも縮小したためです。