合衆国初の戦艦、”モニター”

SH-39モニター(Monitor)とは、英語で「監視」や「監査」の意味ですが、「指導をおこなう」という意味もあります。

転じて「指導者」というふうに使われることもあり、アメリカ合衆国海軍の最初の装甲艦にもこの名が与えられ、”USS Monitor”と呼ばれました。本艦は1862年3月9日に、装甲艦同士で行われた、「ハンプトン・ローズ海戦」でアメリカ連合国海軍の装甲艦「バージニア”CSS Virginia”」 と交戦したことで有名です。

といっても、日本ではほとんど知られていない事実であり、その姿すら見たこともない、という人が多いでしょうが、冒頭の写真は、この初代モニターの改良型とされるものです。

モニターは一隻作られただけではなく、この海戦によって一定の能力が期待できることがわかったことから、のちに「モニター艦」として量産されるようになったものであり、上の写真もその一隻ということになります。

この「ハンプトン・ローズ海戦」は、主として奴隷制度を廃止しようとするアメリカ北部の諸州とこれを維持したい南部の諸州が争い、いわゆる「南北戦争」に発展したものの中のひとつとして戦われたものです。

そして「モニター」は、この南北戦争に対応すべく、合衆国海軍によって発注された3隻の装甲艦の内の一隻でした。

残りの2隻は「ガリーナ」 (USS Galena) 、「ニュー・アイアンサイズ」 (USS New Ironsides) といいましたが、「モニター」は、スウェーデン系のエンジニアの「ジョン・エリクソン」によって設計され、他とは一線を画す最新式の機能を持っていました。

例えば、「ダールグレン砲」という、砲身内に施条(ライフリング)を持つ最新式の砲2門を納めた円筒形の砲塔で武装されていました。この当時、チーズを入れて販売される容器は円筒形をしており、このため、この大砲が搭載された様子は敵の南軍からは “筏の上のチーズボックス” cheesebox on a raft ”と揶揄されました。

SH-32”チーズボックス”

また、後世、我々が良く知るところとなる戦艦のように喫水線から上に高々とそびえるような形はしていませんでした。鋼板で装甲された上甲板は水面ぎりぎりの高さしかなく、砲塔と小さな矩形の操舵室、分離可能な煙突および少数の取り付け器具を除いて、艦の大部分は吃水線下にありました。

敵の砲撃からの損害を最小限に抑えるためであり、また南北戦争は主に内陸河川で繰り広げられたことから、外洋の高波によって艦上部が覆われることなどはあまり想定されていなかったため、こうした形状が実現したのでした。

こうして「モニター」の船体部分は、ニューヨークのブルックリンにあったコンチネンタル鉄工所グリーンポイント・セクションで建造され、1862年1月30日に進水しました。

写真にあるように、その完成形はほとんどが水面下に没していて、その性能をうかがい知ることができません。しかし、「モニター」は設計においても建造技術においても革新的でした。艦の部品は9カ所の鋳造所で鍛造され、1カ所に集められて建造されたといい、完成するまでの全工程には約120日がかかったといいます。

さらに「モニター」はこの “チーズボックス”に加え、「スクリュー」が装備された初の海軍艦艇でした。それまでのアメリカの軍艦は、外装が木であった上に、その動力には主として「外輪」が用いられていました。開国日本が目にした、あの「黒船」と同じであり、外板には鉄が用いられてはいましたが、その内側は木製でした。

これに対して、「モニター」には全面的に鉄板が使用され、近代的な戦艦の要素を兼ねそろえていました。その大部分が水中に没していることから、近代潜水艦の走りともいわれ、最初の「半潜水艦」ともいわれます。

対照的に、後に仇敵となる南軍の「バージニア」などは装甲で覆われてはいたものの中味は従来の木造船であり、既存の艦の延長に過ぎませんでした。しかも、バージニアは撤退の際に焼却処分になりかけた、敵艦のメリマック (USS Merrimack)を鹵獲し、その焼け残った船体を、上部構造を減らして再建し、鉄板で覆ったものでした。

いわばスクラップ利用の戦艦でしたが、鉄板の装甲が敵の砲火の威力を無効化すると考えて、バージニアの設計者は艦首に「衝角」という突起物を装備させ、敵に体当たりさせる、という秘密兵器を装備していました。

また、外装は厚い鉄板で覆われており、これはモニターのダールグレン砲の弾を貫通させることのできないほど、頑丈なものでした、しかし、モニターなどの合衆国側の備えに急追するために急いで建造されたため、出航時にはまだ艤装員を乗せていたといい、そして通例の海上公試または航海訓練をしないまま、大急ぎで軍務に付きました。

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戦艦、”CSS バージニア”

この両者が会いまみえることになるのが、前述のハンプトン・ローズ海戦ですが、これは、1862年3月8日から9日にかけて、バージニア州ハンプトン・ローズ河口付近のシーウェルズ・ポイント (Sewell’s Point) 沖で行なわれた、両者による一連の砲戦のことをさします。

南北戦争の勃発当初から、合衆国大統領エイブラハム・リンカーンは合衆国を脱退した南部の州を合衆国に戻す計画を実行しはじめました。彼は強力な合衆国の海軍を用い、アメリカ連合国の大西洋とメキシコ湾沿岸への進出を防ごうとし、戦争が激化すると彼等の内陸部への封鎖を命じました。

1861年春、地上兵力主体の南軍はバージニア州ノーフォークに迫り、ハンプトン・ローズの南側の地域を包囲しました。これを見た合衆国海軍は、3月8日、逆にこの南軍を艦隊で大包囲し、海上封鎖によって、外海に脱出させまいとしました。

この封鎖部隊に対して連合国海軍装甲艦バージニアは攻撃を行い、秘密兵器である衝角などを駆使して、合衆国側の旧式の「カンバーランド」 (USS Cumberland) および「コングレス」 (USS Congress) を撃沈し、「ミネソタ」 (USS Minnesota) を座礁させました。

2-4-3コングレスを攻撃するバージニア

バージニアの艦長は、衝角攻撃以外にも通常砲弾や焼夷弾でコングレスに砲撃を加えるよう命令しましたが、この砲火が弾薬庫に着弾したことから、コングレスは大爆発を起こして爆沈されたのでした。

その夜、最新鋭艦「モニター」が、いよいよはジョン・L・ウォーデン中尉の指揮下にブルックリンから曳航されて現地に到着しました。翌3月9日、「バージニア」は「ミネソタ」および他の合衆国海軍艦艇へ攻撃を行うため再度出撃し、これを迎え撃つべく、「モニター」もまた出撃しました。

こうして両者の戦闘が始まりました。戦闘後1時間が経過し、主に至近距離で砲弾のやりとりが行われましたが、なかなか決着はつきませんでした。小型で敏捷なモニターはバージニアを翻弄できましたが、バージニアの装甲は厚く、モニターの最新式の砲によってもこれを貫くことができなかったためでです。

また、バージニアも同じであり、モニターの厚い鋼板を破壊できませんでした。

結局、どちらの艦も相手に致命傷を与えることができず、最終的には、モニターが「戦場を占有した」形となり、バージニアのほうが退却する形でこの戦闘は終結しました。そして、比較的大きな被害もどちらかといえばバージニアの方に顕著でした。

モニターの砲はバージニアの砲と比べてかなり強力であり、バージニアが辛うじてモニターの装甲をへこませただけなのに対して、モニターはバージニアの装甲板に数ヶ所のひびを入れていました。

2-4-4モニターとバージニアの激闘

ただ、結果的には、モニターはバージニアを撃沈できませんでした。攻撃の際、モニターの砲術員は主に徹甲弾を使ってバージニアの上部構造を狙いました。設計者エリクソンは、それを聞いた時に激怒して叫んだといいます。もし彼らが榴弾を使い吃水線を狙ったならば、バージニアは容易に沈んでいただろうに、と。

結果として、両装甲艦は約4時間の戦闘を行い、共に大きく損傷しましたが、いずれもが他を圧倒することができず、どちらの側も勝利を宣言しました。

このように戦術的には戦闘は引き分けでしたが、戦略的には「モニター」の勝利でした。というのも、「バージニア」の使命は合衆国側の海上封鎖の突破を行い、他の地域に転戦することでしたが、結局はこの封鎖を破ることはできなかったためです。

一方の「モニター」の使命は、彼等を内陸に押し込めるとともに、自艦を含め、合衆国艦隊を温存することでしたが、その目的は達成されました。

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バージニアの砲撃によって傷ついた”チーズボックス”

その後「モニター」はこの海戦での実績を認められ、モニター級、または「モニター艦」と呼ばれる形式の艦のプロトタイプとなり、その後多くの河川モニター、航洋モニターが建造されました。

それらの艦は南北戦争においてミシシッピ川やジェームズ・リバーでの戦闘で活躍し、何隻かの艦は2または3基の砲塔を装備し、後期に建造された艦はさらに航行能力が改善されました。そして、それはこののちのアメリカ海軍における艦艇建造の手本とされるようになっていきました。

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ミシシッピー川を航行する、モニター艦

ハンプトン・ローズ海戦のちょうど3か月後には、モニターはアメリカ国内だけでなく、スウェーデンへも発注されました。設計者がスウェーデン出身のエリクソンだったからにほかなりませんが、こうして1865年に最初のスウェーデン製モニターが建造され、この艦は設計者に敬意を表して「ジョン・エリクソン」と命名されました。

さらに「ジョン・エリクソン」に続いてその後も14隻のモニター艦が建造され、その内の一隻「セルヴ」は現在もスウェーデン、ヨーテボリのヨーテボリ海事博物館で保存されています。一方、アメリカ国内に廻航され、アメリカ海軍において活躍したモニター艦の最後のものは、1937年に除籍されました。

初号機の「モニター」の設計は河川など平水での戦闘には適していましたが、低い乾舷と重い砲塔は外洋での航行を困難にしました。そしてこれが災いし、「モニター」初号機は1862年12月31日、外輪式運送船「ロードアイランド」による曳航中に高波におそわれノースカロライナ州ハッテラス岬沖で沈没しました。

そして、この事故で、62名の乗組員のうち16名が行方不明となりました。

ところが、1973年になって、この「モニター」の残骸がハッテラス岬から約26マイル南東の大西洋の海底で発見されました。その結果、「モニター」の沈没現場はアメリカで最初の海洋自然保護区として指定されました。このモニター保護区は13の国立海洋自然保護区のうち、文化財を保護するために作られた唯一の自然保護区です。

2003年には「モニター」の当時革新的であった旋回砲塔が、国立海洋大気庁および合衆国海軍ダイバーチームによる41日間の作業によって引き揚げられましたが、この砲塔の浮上作業中には、潜水士が2名の乗組員の遺体を発見しています。

国のために戦死した2名の水兵は彼らの水兵仲間によって1世紀以上後に海底の墓所から救い出され、海軍による葬儀が執り行われたといいます。

引き揚げられた「モニター」の砲塔、スクリュー、錨、エンジンおよび乗組員の所持品などは現在でもバージニア州ニューポートニューズの海員博物館に展示されています。

そして、1986年に「モニター」はアメリカ合衆国国定歴史建造物に指定されましたが、これは水中にあるとはいえ、スウェーデンに保管されているものに加え、現在もアクセス可能な世界でたった2箇所のモニター艦の一つということになります。

ちなみに、この南北両軍の戦艦の戦いは、その後多くのフィクション作品で取り上げられ、日本が誇る世界的なアニメ映画監督の宮崎駿もまた、「甲鉄の意気地」という短編漫画を作成しています。

一度探してご覧になってみてはいかがでしょうか。

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