C&NW ツイン・シティー400

SL-41C&NWは、シカゴ・アンド・ノース・ウェスタン・トランスポーテーション・カンパニー(Chicago and North Western Transportation Company、)の略で、かつてアメリカ合衆国中西部に展開した一級鉄道です。

C&NWの創業は、1848年であり、その後買収により路線の拡大を続け、20世紀初頭に同社が運営していた路線は5,000マイル(8,000キロメートル)を超え、1970年代後半に経営規模を縮小する直前には1万2,000マイル(1万9,000キロメートル)ほどもありました。

そして、そのC&NWの長い歴史において、この写真にある列車はもっとも有名な列車のひとつといわれており、1935年から運転された、五大湖西側の州イリノイ州の最大の都市シカゴと同じく五大湖南側に広がるミネソタ州ツイン・シティズとを結んでいたものです。

そして、この列車名は同区間の距離が約400マイル(640キロメートル)を400分で結ぶことにちなんで ”400”と名付けられました。この距離を400分で走るということは、時速に換算すれば96km/hほどにもなり、80年も前のこの時代にこのスピードを出せる列車があったということは、考えてみればすごいことです。

ちなみに、ツイン・シティズというのは、一つの町ではなく、イリノイ州の州都ミネアポリスと同州最大の都市、セントポールの二都市を中心とした大都市圏の通称です。この街とイリノイ州シカゴは、ともに工商業都市として発展し、お互い切磋琢磨して成長してきました。

ただ、シカゴ、およびツイン・シティーズの双方とも、アメリカ東海岸のニューヨークやボストンからは遠く離れており、東部からの移動には鉄道は欠かせませんでした。かつここを起点にして、さらにアメリカ中央部や南部に開拓を進める上でもやはり鉄道は必須のものでした。

SL-42C&NWのシカゴの操車場 1942年12月。

そして、この二都市及び、東部の大都市との間を鉄道で結ぶことは、アメリカの国策の上でも極めて重要であり、このために民間企業の進出もこれらの地域に著しく、それゆえに、鉄道路線も一社ではなく、数社がしのぎを削るようになっていきました。

そして、C&NWと同じく、アメリカ北東部で運営をしていた鉄道会社としては、シカゴ・バーリントン・アンド・クインシー鉄道(CB&Q)と、ミルウォーキー鉄道(MILW)という鉄道会社などが次々と設立されていきました。

三社は、当然のことながら客の奪い合いを始めるようになり、その中でも他社を出し抜くためにはとくに高速化を目につけ、CB&Qは、「ツインゼファー」という高速列車をつくり、またMILW「ハイアワサ」という急行列車を出し、C&NW もまた”400”というこれらに対抗しうる列車を開発しました。

しかし、両都市間を高速で連絡するというシステムを最初に確立したのは、これら各社のうちのC&NWでした。ただし、当初は従来のいわゆる「蒸気機関車」といわれるような旧式の車両の性能をアップしたものにすぎず、写真のような流線型の新型機関車が牽引する列車が投入されたのは1939年になってからのことです。

この“400”という名称は、牽引する機関車と客車を含む、列車全体の呼称です。先頭の機関車は、”EMD Eシリーズ”と呼ばれるもので、ディーゼルエンジンと発電機を2組も搭載している強力な機関車で、1937年5月から1963年12月にかけて10種類もの基本シリーズと、3つの派生形などが製造されました。

シリーズ名のEは、初期の形式の出力1,800馬力(Eighteen hundred HP)の頭文字に由来したものでしたが、のちに改良されてそれ以上の出力となっても「Eシリーズ」の名は引き継がれました。

写真に写っているのは、このうちのEMD E-4 とされているディーゼル機関車のようです。その運用においてはこの強力なE-4を2両も使って一セットとして使用するとともに、軽量客車を導入し、列車の近代化・高速化を図ったとされます。なお、この400の左側に停車しているのは、蒸気機関を利用した旧式の機関車です。

下の写真は、その後量産型となり、主に旅客車両を牽引した機関車のひとつ、E9の写真ですが、1954~1963年の製造であり、E-4よりは後年のものです。

車両の形そのものも洗練されているとともに、E-4ではむき出しになっていた車輪の外にカバーが取り付けられて流線型化が進み、またヘッドランプなども大型化されるなどかなり改良されているのがわかります。

EMD_E-9A_Danbury_2

C&NWはさらにこの後、車両名も変更し、単なる“400”から“ツイン・シティ400”と改名しました。この改名の理由は、C&NWはほかの区間にも同様の高速列車を導入し、これらをロチェスター400、ケイト・シェリー400などと同じく400を冠したため、紛らわしさを咲避けるための措置でした。

こうして、シカゴ~ツイン・シティズ間に高速列車が投入されたことから、物流と人の交流がこの地域において著しく向上していったのは言うまでもありません。引き続き他社との競合も活発であり、アメリカ北東部、五大湖周辺地域における戦前戦後のおよそ数十年間は、鉄道全盛の時代だったといっていいでしょう。

しかし、やがて時代が変わり、このツイン・シティ400も1963年には、運行が停止され、その他の旅客列車もまた1971年までには廃止されていきました。

これらの路線が廃止されたのは、モータリゼーションの普及もありますが、航空機の発達に押されたためでもあります。が、もうひとつ、1971年に、「アムトラック」が設立されたこともその要因となりました。

このアムトラックというのは、全米をネットワークする鉄道旅客輸送を運営する公共企業体で、アメリカ連邦政府出資の株式会社という形態をとっており、その名称は、”America”と”Track”(線路、軌道などの意)の二つの語から合成されたものです。

現在も北米の幹線貨物鉄道は民間によって運営されていますが、都市鉄道の運営には必ず地域自治体が関与している他、都市間旅客鉄道の運営は公社形態のこのアムトラックによって行われています。

アメリカの鉄道の歴史においては、その当初から国有鉄道が存在した時代がなく、全土の鉄道ネットワークは私鉄の集合体でした。第二次世界大戦後、航空や自動車輸送の台頭により、アメリカの鉄道旅客輸送量は減少の一途をたどっていましたが、その傾向は1960年代に加速し、この時期、多くの鉄道会社が旅客営業の廃止に踏み切りました。

そして、残存するわずかな旅客列車についてもその存続が危ぶまれたことから、鉄道旅客輸送を維持するために、各地域の鉄道会社の旅客輸送部門を統合した全国一元的な組織として設立されたのがアムトラックです。

このとき、C&NWも400シリーズを含め、「Eシリーズ」の機関車の一部などをアムトラックなどに移譲しました。その後400シリーズはアムトラック運営の旅客列車に改変されたようですが、その後さらに高速の新型車両が製造されるにつけ、暫時引退していったようです。

一方、C&NWのほうですが、旅客部門からは撤退したものの、貨物事業などを主体としてその後も存続することが決定されました。1972年には、C&NWの社長であるベンジャミン・W・ハインマンはC&NWを従業員に売却することに決め、こうしてC&NWは従業員保有会社制度に基づく、組合による管理運営会社になりました。

その後20年余りもの間、さらに他社の路線なども買収して活性化を図りつつ営業を続けましたが、1995年、ユニオン・パシフィック鉄道(UP)に吸収合併される形でその長い歴史を閉じました。

ユニオン・パシフィック鉄道は、現在でもアメリカ合衆国最大規模の鉄道会社であり、1862年設立の老舗ですが、1848年創業のC&NWよりも少々新しい企業です。ユニオン・パシフィック鉄道(以下、略称UPで統一)の線路網は、アメリカ合衆国の西部から中部の多くをカバーし、シカゴ西部やニューオーリンズにまで達する大規模なものです。

航空機によって鉄道会社各社が規模を縮小し、吸収合併によって淘汰されていくなか、UPはこれら営業を停止する会社の受け皿のようになってきており、C&NWもそうした新しい時代の波についてに飲み込まれてしまった格好です。

しかし、C&NWが保有していた車両の多くは、UPに引き継がれ、とくに機関車群は、C&NW時代の塗装のままに数年間運用されました。

現在もこれらのうち約40両がその状態でUPその他の鉄道で使用されているといい、C&NW時代の外装をそのまま維持している車両としては、イリノイ鉄道博物館で保存されているものが3両ほどあるそうです。

Chicago_and_Northwestern_locomotive_8540

UPに引き継がれた、C&NWの機関車 #8540 ワイオミング州シャウニーにて

いずれこのC&NW保有の機関車、列車たちも消えていく運命にあると思われ、現在も現役であるこうした鉄道車両の雄姿をキャブチャーできる年月もあと残り少ないかもしれません。

失われつつある古き鉄道遺産の写真を撮り貯めている「鉄ちゃん」は我が国にも多いものですが、我が国の者だけでなく、アメリカのものもそれが失われる前に渡米したいただき、いまのうちにその雄姿を写真に収めていただきたいものです。