陸軍記念日に議事堂前を走行するM2軽戦車

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M2軽戦車とは、1935年にその最初のタイプが開発されたアメリカ陸軍の「軽戦車」です。

軽戦車とは、戦車の種別の一つです。小型軽量のもので、第一次世界大戦後の戦間期から第二次世界大戦中ごろまでは比較的広範囲に使用されました。この下に更に「豆戦車」と呼ばれるクラスがあり、両者とも安価であることが戦間期の軍縮ムードの中で重用されました。

写真が撮影された1939年というのは、ドイツ軍がポーランドへ侵攻して第二次世界大戦が始まった年ですが、このときはまだアメリカは参戦しておらず、その参加は2年後の1941年に日本が真珠湾攻撃をしてからのことになります。

アメリカでは戦前の陸軍記念日は4月6日であったことから(現在は5月の第3土曜日)、この写真もその当日のパレードと思われます。ちなみに、4月6日に制定されたのは、この日に南北戦争時にテネシー州南西部で行われた大きな戦い、「シャイローの戦い」にちなんでいるものと思われます。

これは、1862年4月6日から7日の間に起こった戦闘であり、それまでのアメリカ史で最も流血の多い戦闘だったといわれています。このときは北軍が勝利し、南軍は退却を強いられ、ミシシッピ州北部への北軍侵入を食い止めるという望みが絶たれました。この北軍の流れを汲む現在のアメリカ陸軍にとっては記念すべき日というわけです。

無論、この戦争当時は戦車などはなく、主に鉄砲と大砲によって両軍の戦いが行われたわけですが、戦車がこうした戦争に登場するのは、第一次大戦中の1904年にアメリカのホルト社、現在のキャタピラー社が世界で最初に実用化した履帯式(キャタピラー式)のトラックが初めてだといわれているようです。

西部戦線での資材運搬や火砲の牽引に利用されていたものがその嚆矢だとされ、これは「ホルトトラクター」と呼ばれていました。悪路を踏破できるその利便性が認められ、その後イギリス、フランスなどがさらに履帯の開発を進め、不整地機動性をより増した装軌式装甲車両、すなわち戦車の開発がはじまりました。

その後アメリカも更に戦車の性能アップに努めますが、その中で豆戦車、軽戦車、戦車、重戦車のような区分ができてきました。上述のとおりこのうちの豆戦車や軽戦車は安価に大量に生産できるため、植民地警備用にも多用されました。

また、戦間期のドイツでは戦車開発が抑制される中、戦車開発能力を身に付ける習作用や、運用技術を磨く訓練用として生産されました。

アメリカ陸軍の戦車には代々“M”のコードナンバーがつけられることから、写真のM2型戦車は、こうした戦車の開発の中においてもかなり初期のものであり、おそらくは2番目に開発されたものと解釈できます。

ただ、生産されたのは一種類だけでなく、初期型のM2A1からM2A2、M2A3、そして最終型のM2A4まで4種類が開発されました。写真の戦車は、砲塔の形状などからこのうちのM2A2と思われます。一番最初のM2A1が単砲塔であったのに対し、M2A2ではこれが双砲塔型に改められています。

このM2軽戦車が一番最初に産声をあげたのは、1935年末のことです。アメリカ陸軍の歩兵科用戦車として、イリノイ州のロックアイランド工廠にて開発されました。試作車のT2E1軽戦車が制式化され、M2A1軽戦車となったものが最初のものです。

それまでに開発されたT1E4、T1E6、T2、各軽戦車は、イギリスの「ヴィッカース 6トン戦車」の設計の影響を受けていました。戦間期にイギリスのヴィッカース・アームストロング社が開発した戦車で、1928年に完成、イギリス陸軍には採用されず海外輸出用として生産され、その後多くの国で開発された戦車の基礎となりました。

Vickers_Eヴィッカース 6トン戦車

アメリカもこれを参考として戦車を作り、その改良発展型としてM2戦車を完成させました。しかし初期型は、車体と砲塔の装甲は溶接技術が未熟であったためにリベット留めであり、しかも砲塔は人力旋回方式でした。

最初の生産型M2A1では、主武装として砲塔前面左側には口径12.7 mm 機銃1門を備えてこれを主砲として、また砲塔の右側には7.62 mmの口径の機銃1挺を備えていました。また、エンジンはコンチネンタル社製の空冷星型7気筒ガソリン・エンジン(出力262hp)でした。しかし、この軽戦車はわずか10輌で生産終了となりました。

代わって、上述の二つの機銃を左右並列に配置したのが、冒頭の写真のM2A2であり、アメリカ陸軍はこの仕様に満足したのか、この型の量産に入りました。同様の双砲塔の軽戦車は、オリジナルのヴィッカース 6トン戦車などのほかに、ソ連のT-26やポーランドの7TPなどがありましたが、米陸軍は同程度の性能を獲得したと判断したのでしょう。

M2_Light.Fort_Knox.0007zza0アメリカ、ケンタッキー州のパットン戦車博物館に展示されているM2A2

同時期に存在していた。左右並列配置された2基の銃塔を持つ外観から、当時有名だった巨乳の女優にちなんで「メイ・ウエスト」と兵士たちには呼ばれたそうです。ニューヨーク州ブルックリン出身の女優で、1980年に87歳で死没するまで約70年にわたり、アメリカのエンターテイメント業界で活躍した人です。

日本ではあまり知名度はありませんが、「アメリカン・フィルム・インスティチュート(AFI)」の「100年映画スターベスト100(女優部門)」では第15位に選ばれています。

代表的な出演作は、「わたしは別よ(She Done Him Wrong)」「美しき野獣(Klondike Annie)」「妾は天使ぢゃない(I’m No Angel)」などで、どちらかといえばマリリンモンローのようなおバカなお色気路線の演技が得意だったようです。

名言をいろいろ吐いており、それらは、「私が出会うすべての男性は、私のことを守りたいと言う。でも一体何から守ろうというのかしら」とか、「いい子は天国に行ける。でも悪女はどこへでも行ける」とか、「私がいい子してるとはとてもすてきよ。でも私が悪い子のときは、もっとすてき」といったかんじです。

「愛は鼻くそみたいなもの。あなたはどうにかしてほじくり出そうとする。でもようやく手に取ると、あなたはその処分に困ってしまう」てのもあります。

……さて、その後、スペイン内戦の戦訓から、アメリカ陸軍はより強力な装甲と武装の必要を認識するようになりました。1938年には、装甲強化と車体延長とサスペンションの改良をし、M2A3が開発されました。従って冒頭の写真のM2A2は撮影された時すでに旧式になっていたことになります。

ただ、この新型での改良点はエンジンが刷新されたことと、銃塔の形状が四角から六角形に改められたことだけです。あまり性能差がないと判断されたのか、M2A2は239輌が完成しましたが、M2A3はその半分以下の72輌しか生産されていません。

その後1940年には、双砲塔をやめて2人用の大型砲塔にし、主武装として初めての53.5口径の大砲を備えたM2A4が完成しました。M2A4では装甲もさらに強化されており、その厚さはもっとも厚いところで最大25.4 mm(1インチ)ありました。機銃の数も車体左右の2挺に増設されています。

このM2A4は、シリーズで最も多い、375輌が完成しました。しかし、このころヨーロッパでドイツと戦いを繰り広げていたフランス陸軍からの情報により、なお一段と強力な戦車が必要であると考えられ、1940年7月にはM2軽戦車をベースとした新型軽戦車の開発が始まっています。

この新型軽戦車はM3軽戦車として完成し、こうして1941年3月にM2軽戦車の生産は打ち切られました。

日本との太平洋戦争が始まったのは、この年の12月からであり、従って、アメリカ陸軍に配備されたM2軽戦車はほとんどが実践には投入されず、大半が訓練に使用されました。少数のM2A4だけが、太平洋戦争中にガダルカナル島の戦いで海兵隊により実戦使用され、その後も1942年中は太平洋戦線の一部に配備されただけでした。

ただ、1941年初頭にイギリスから100輌のM2A4の供与が依頼されており、うち36輌が実際に輸出され、イギリスに到着した36輌は、4輌がエジプトに送られ、残りはイギリス本土の部隊に配備されました。

このM2A2がその後どの程度活躍したかは明らかになっていませんが、おそらくはM3に比べて性能が低かったため、あまり前線には出なかったのではないかと思われます。

M2-tank-englandイギリスに到着して整備中のM2A4

大量生産されたM3軽戦車は他の多くのアメリカ製兵器と同じく、同盟国イギリスを始めとしてソ連、フランス、オーストラリア、中国などに供与されました。イギリス軍は本車を北アフリカでの戦いに投入され、この戦車は信頼性の高さから親しみを込めて「ハニー(可愛いヤツ)」という愛称で呼ばれました。

日本軍との戦いでも使用されており、1941年12月22日に日本軍がルソン島に上陸した際、これを迎撃に出たM3軽戦車15輌は日本軍所属の九五式軽戦車と戦闘を行っています。

このときM3の正面装甲はの37 mm 砲を全て跳ね返したといい、また九五式軽戦車の戦車砲の装甲貫徹力は一般的な37 mm クラスの対戦車砲と比較にならないほど貧弱でした。

ただ、日本側の体当たり攻撃や履帯切断などで5輌が行動不能になり撃退されたといいます。なおこれが日米初の戦車戦だそうです。

M3A3_Stuart_001M-3軽戦車

その後も、M3戦車は米英軍の主力戦車として日本と砲火を交えており、ビルマのラングーンをめぐる戦いではイギリス第7機甲旅団所属のM3軽戦、約150輌)が活躍しました。非力な日本軍の九四式37 mm 速射砲や戦車砲ではM3軽戦車の正面装甲は貫通できず、逆にM3の37 mm 砲はすべての日本戦車の装甲を遠距離から貫通できました。

M3はその後もガダルカナル島の戦いやニューギニアの戦いなどで活躍しましたが、これらの地域で新型のM5軽戦車やより強力なM4中戦車が配備されるようになると次第に前線から引き上げられ、予備兵器となりました。

ただ、予備となったM3の有効活用策として火炎放射器を搭載した火炎放射戦車「サタン」が作られ、マリアナ諸島をめぐる戦いで実戦に投入されました。これが相応に日本軍を苦しめたことは想像に難くありません。

なお、当時の日本軍は戦車開発において列強から取り残されつつあり、上述の九五式軽戦車に代表されるように性能が低いものばかりでした。このため、「日本が実戦に投入した最強の戦車は鹵獲したM3軽戦車」などというジョークが存在するほどです。

太平洋戦線で日本軍によって捕獲されたM3軽戦車は日本軍戦車より機動力・防御力が優れ、37mm戦車砲M6の攻撃力も九七式中戦車改の一式47mm戦車砲と変わらなかったために重宝されたといいます。

このように第二次大戦中はそれなりにその効果が認められた軽戦車ですが、戦争末期になると、より重厚な戦車が登場し、これらが飛躍的な進化を遂げると、火力が低く装甲も脆弱な軽戦車は次第に活動の場を狭めていきました。

それでも第二次大戦末期にはアメリカのM24のように以前の中戦車並みの火力を持つものが現れ、戦後もM41やAMX-13などの強力な火力を誇る軽戦車が開発され使用されました。また、緊急展開部隊用に空輸可能な軽戦車も開発されており、これらは再度起こった戦後の軍縮ムードの中で主力戦車の代替として配備されるようになりました。

ところが、その後に起こった朝鮮戦争やベトナム戦争ではその能力不足が再度露呈し、主力戦車に対抗できないのはもちろん、歩兵の携帯火器に対しても脆弱さが明らかとなり、攻勢な任務に投入することはできないことがわかりました。

火力不足から歩兵支援任務も向かないことから、次第に歩兵戦闘車などの、いわゆる今日では「装甲車」といわれるようなものに代替されていきました。そのため軽戦車は退役もしくは偵察など補助的な任務に専念することになっていきます。

戦後には後継車が開発されること無くなりましたが、ただ現在でも一部の国では、主力戦車より取得コストが低い、装輪装甲車より悪路での運用性が良いなどの理由により運用が続いているところもあるようです。

ただ、こうした古い軽戦車を使う場合でも、現在は砲塔を換装したものが多く、同様に砲塔を換装した装輪装甲車もあり、こちらは装輪戦闘車、装輪戦車ともよばれ、両方が混在する状況のようです。

ちなみに、現在の日本の自衛隊には軽戦車はありません。が、戦後まもなくの間、警察予備隊/保安隊と呼ばれていた時代には、アメリカ軍より供与されたM24軽戦車が配備されており、また、1961年になってからは、M41軽戦車が配備されました。しかしこれもまた、老朽化や性能の低さにより1983年までに現役引退しています。

M24-Chaffee-latrun-1M-24

現在、防衛省となった旧自衛隊では、こうした有人戦闘車両の無人化を進めているといわれ、こうした戦争兵器の姿もかわりつつあるようです。将来的には無人の戦車同士が戦う、といった様子も見ることができる時代が来るのかもしれませんが、それ以前の問題として、戦争のない世の中になっていることを望みたいものです。

M41-walker-bulldog-tankM-41