ルイジアナ ~ミシシッピ川とともに

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写真は、ルイジアナ州のアンゴラという町にある、ルイジアナ州立刑務所(The Louisiana State Penitentiary)における、およそ100年以上前の光景です。

港に積み上げられた建築資材を作業員や船員たちが蒸気船に積み込んでいるように見えますが、よくみると左下のほうには、白黒の縞模様の服を着た囚人たちが、列を作ってこの場を立ち去ろうとしているのが見えます。

おそらくこの資材を港まで運んできたのは彼等であり、その作業を終えて収監先の刑務所内に戻るところなのでしょう。

このルイジアナ州刑務所は、現在までも存続しており、これが位置する町の名前から、「アンゴラ(”Angola”)と呼ばれています。南部のアルカトラス(Alcatraz of the South)というニックネームもあり、また”Firm(農場)”などとも呼ばれているようです。

ルイジアナ州公安/矯正局(Louisiana Department of Public Safety & Corrections)が運営している刑務所であり、ルイジアナ州の中部、隣のミシシッピ州との州境付近を流れるミシシッピ川のほとりに位置します。

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南のアルカトラス、の異名をとるくらいですから、監視厳重度で最高ランクに属する刑務所であり、かつ合衆国でも最大のものであり、1,800人の職員で5,000人の囚人を収容しています。

この刑務所のあるルイジアナ州は、アメリカの南部の州です。アメリカ合衆国50州の中で、陸地面積では第31位、人口では第25位であり、州都はバトンルージュ市ですが、最大の都市はニューオーリンズ市です。

元フランス領でしたが、1812年、アメリカ合衆国の州になりました。しかしフランス統治時代の名残で現在で、現在でも民法はナポレオン法典が用いられます。アメリカの他州では行政区画として一般にカウンティ(county、郡)が用いられますが、この州ではこれがパリッシュ(parish)と呼ばれます。

キリスト教の小教区を意味するものですが、これもフランス時代の名残です。パリッシュがカウンティの代わりに使われるのはアメリカではルイジアナ州のみとなります。

刑務所の多い州です。ルイジアナ州には12の州立刑務所(長期受刑者用)と160もの郡立刑務所(保安官所有刑務所)が多くあり、「世界の刑務所首都」ともいわれるほどです。

ルイジアナ州では、「倒産犯罪」といった比較的軽い犯罪でも、10年の禁固刑が維持されていて、強盗罪の再犯にはいまだに24年以上の刑が科されています。このため、受刑者の人口比は過去20年で倍増し、地球上のどこにも見られないほどの水準に到達しています。

現在4万4,000人強の受刑者が刑務所に収監されていますが、これは人口86人に1人に相当し、この数字は、全米平均の約2倍、イランの5倍、中国の13倍と、ドイツの20倍にもなります。

このように収監率が高いのは、郡刑務所の多くが、「営利目的」で運営されているからです。地域全体の経済が、この高い収監率に支えられて存続しているということであり、これは州政府の方針でもあります。

ルイジアナ州政府は、1990年代初頭に著しく経済が悪化し、と同時に刑務所の収監人員も限界に達していました。このとき、刑期を短縮するか刑務所を増設するかという二つの選択肢がありましたが、ルイジアナは後者の解決策が選びました。刑務所を増設すれば連邦政府からの補助金が増えると同時に、大量の雇用が創出されるためです。

しかし、そのためにはまず刑務所を建てなければなりません。ところが慢性的な財政赤字を抱える州政府は建設費用を負担することができず、このため、農村部のパリッシュ(郡)の保安官に対して、郡立刑務所、すなわちパリッシュ・ジェイルと呼ばれる地方刑務所を建設・運営するよう奨励することとなりました。

田舎のパリッシュにとっては大きな負担となるであろうこのような投資に対して、州政府は、収監費用として受刑者1人1日当たり24ドルほどを郡保安官に支払うこととし、これによって郡立刑務所は人を雇うことができるようになります。

こうして生み出された雇用は郡の経済をも潤わせるだろう、というわけで、綿産業の不況に直面していた各地方のパリッシュでは競うようにしてこの州政府の申し出を受け入れ、これによって経済が持ち直すようになりました。が、一方ではこうした雇用創出に完全に依存するような経済社会を生み出すことになりました。

ルイジアナ州は、全米の中でもかなり貧しい州です。ルイジアナ州の総生産高は全米で第24位ですが、一人当たりの収入に換算すると41番目にすぎず、またその収入減の大半は綿大豆、牛、サトウキビ、家禽及び鶏卵、乳製品、米などの農業生産品であり、このほか海産物などが主な産物です。

海産物としては、とくに約90%を供給する最大のザリガニ産地であることで有名です。この地では石油・石炭が出ることから、こうした石油及び石炭製品のほかその関連の化学製品なども主たる産業です。その他の産業としては、食品加工、輸送設備、紙製品もありますが、こうした製造業の規模も大きくありません。

ただ、ニューオーリンズを中心とする地域では、観光業が重要な経済要素であり、州経済はこの観光業にも多く依存している現状です。

AngolaLAPrisonルイジアナ州立刑務所 全米一の規模を誇る

このように景気の悪い辺ぴな場所では、刑務所がビジネスとしては一番効率が良いというわけであり、多くの住民にとって、最善の職業選択は看守になることだそうです。とはいえ、給料は安く、時給8ドル程度であり、これは1ドル120円とすれば、960円に過ぎません。

しかし、それでも看守になりたい人が多いのは、退職後にはかなりの年金が保証されるからです。

なお、同じ看守でも、郡刑務所よりも州立刑務所のほうが人気があるようです。郡刑務所では州政府から、囚人ひとりあたり24ドル程度しか収監費用が払われないのに対し、州立刑務所に収監する場合は、連邦政府からその倍以上の55ドルもの費用が払われます。

このように刑務所が多いことから、犯罪者の方も何かと軽い罪を犯して刑務所に入りたがるようです。仕事を探しても良いものがみつからず、刑務所の中のほうが、食っていけるからです。

少し古い統計ですが、2010年にはルイジアナ州内の殺人犯罪率が国内最大となっており、これは人口10万人あたりに換算すると11.2件となり、これで1989年から22年連続第1位となりました。

1989年から2010年までの平均にならすと人口10万人あたり14.5件にもなるそうで、これは全米平均の6.9件の2倍以上になっています。

一方、ルイジアナ州の住民、すなわち納税者は全国平均よりも多くの補助金を受け取っています。これは何も刑務所が多いからではなく、2005年のハリケーン・カトリーナからの復興のためです。8月29日に上陸したこのハリケーンのカテゴリーは最悪の3であり、州南東部を襲い、ニューオーリンズの堤防を破壊し、市の80%が浸水しました。

大半の市民は脱出していていましたが、その多くは家屋を失い、市は実質的に10月まで閉鎖されました。ルイジアナ州全体では1,500人以上が死亡し、湾岸地域で200万人以上が避難するという大災害でした。

このため、ルイジアナ州では、住民が合衆国政府に納税した1ドルにつき1,78ドルが州のために還元されるという措置が取られ、2005年当時これは国内第4位の高さでした。

隣接州では、ルイジアナ州以上に被害の大きかったミシシッピ州にも2.02ドルが還元されましたが、この2州に比べてテキサス州は0.94ドル、アーカンソー州が1.41ドルであり、この2州の補助金の多さは際立っています。

しかし、こうして多額の復興資金が投入された結果、官公庁では不正が大っぴらに行われるようになりました。具体的な統計データはありませんが、「シカゴ・トリビューン」は、ルイジアナ州が最も汚職の多い州だと報告しています。

このように何かと印象の悪いルイジアナ州ですが、フランス、スペイン、アフリカおよび先住民文化から色々な要素を取り入れた「クレオール文化」ともいわれる、独特な融合文化がある地域としても知られます。こうした背景をもとに発展したニュー・オーリンズは、全米でも有数の観光都市であり、多くの見どころ、観光名所が存在します。

もっとも有名なのは、フランス、スペインの植民地時代の街並みを残すフレンチ・クオーターであり、カナル・ストリート、エスプラネード・アベニュー、ランパート・ストリートの3つの通りとミシシッピ川で区切られたこの地域の中には、世界的に有名な名所が数多く存在します。

また、ニューオリンズといえば、ジャズ発祥の地としてよく知られており、ディキシー・ランド・ジャズやブルース、カントリー、ロックなどのさまざまな音楽の発信地でもあり、世界の音楽ファンに親しまれています。

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世界最古と言われる古風な路面電車が走り、19世紀の豪邸が建ち並ぶ美しい街並みが広がり、美術館としては、コンテンポラリー・アーツ・センター(CAC)、ニューオーリンズ・ミュージアム・オブ・アート(NOMA)などがあります。またこの町はミシシッピ川に裳面しており、復元された蒸気船でミシシッピ川のクルーズが楽しめます。

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このニューオリンズだけでなく、このルイジアナ州の歴史は、このミシシッピ川と切っても切り離せないものがあります。

ミシシッピ川に到達した記録が残っている最初のヨーロッパ人はスペイン人のコンキスタドールであるエルナンド・デ・ソトで、彼は1541年5月8日に、アメリカ南部の征服行中にミシシッピ川に到達しました。その後ミシシッピ河畔で亡くなりましたが、生き残りの隊員たちはミシシッピ川を下ってメキシコ湾に出、スペイン領にたどり着いています。

このデ・ソトの探検隊ののち、100年以上の間ミシシッピ川流域にはほとんどヨーロッパ人はやってきませんでしたが、その後ミシシッピ流域へと足を延ばしてきたのは、北の五大湖水系を制したフランス人でした。

1670年代にはフランス人は五大湖沿岸の探検をほぼ終え、ミシシッピを下ってメキシコ湾にまで到達しました。これにより北アメリカ大陸中央部を南北に貫く幹線水路が開通し、この水系を拠点としてフランスは広大な「ヌーベルフランス」と呼ばれる植民地を建設しました。

ミシシッピ川水系の多くはヌーベルフランス内のフランス領ルイジアナ植民地となり、1718年には河口に「ヌーヴェル・オルレアン」の街が建設され、1722年にはフランス領ルイジアナの首都となりました。これが現在のニューオーリンズになります。

以後、この町はミシシッピ川交易とメキシコ湾海運の結節点として栄えるようになり、フランスはミズーリ川やオハイオ川などを含めたミシシッピ川水系全域の領有権を主張するようになりました。

ところが、このフランスによる支配は北アメリカ大陸東岸のイギリス植民地の発展方向をふさぐ形となり、このため両国間には小競り合いが絶えず、北米植民地戦争と呼ばれる戦争を断続的に100年以上続けることになりました。

しかし、結局最後の北米植民地戦争であるフレンチ・インディアン戦争においてフランスは大敗しました。1763年のパリ条約でフランスはミシシッピ川の東側とカナダをイギリスに割譲、ミシシッピ川の西側をスペインに割譲し、北米大陸の領土を完全に喪失しました。

なお、「インディアン戦争」と呼ばれたのは、イギリス側が原住民であるインディアンと同盟していたためで、このため彼等の代理戦争をやっているのだ、との主張に基づき、フランスと戦かったためです。

こうしてミシシッピ川はイギリス植民地とスペイン植民地の境界となりましたが、1775年に始まったアメリカ独立戦争においてイギリスは敗北し、1783年にミシシッピ川東岸は独立したアメリカ合衆国へと譲渡されることとなりました。

これにより、1792年には、バージニア州のアパラチア山脈以西がケンタッキー州として分離し、アメリカ第15番目の州となりましたが、これはミシシッピ川流域における初めての州の新設であり、ついで1796年には同じくミシシッピ東岸の南西部領土が州に昇格してテネシー州となりました。

しかし、アメリカ合衆国にとっては、スペインというヨーロッパの強国がいまだミシシッピ川の西側に君臨しているのが邪魔で仕方がありません。西部への開拓をさらに進めるためには、ミシシッピ川を下ってメキシコ湾に至る河口まで無制限に渡航できるようにする必要性がありました。

というのも、アメリカ人開拓者たちは西に進むにつれて、ここで産出した農産物や鉱物を東部に運ぶ際、ミシシッピ川を北上してオハイオ川経由で五大湖を通るというルートは複雑なうえ、所詮は川であるため、大型船が使えない、という点がネックになっていたためです。

また、アメリカ東部にはアパラチア山脈という南北に細長い山脈があり、これが西部からの品物を東に品物を運ぶときの障害になることが分かってきました。

このため、西部での産出品を運ぶ最も容易な方法としては、平底船でいったんミシシッピ川を下ってニューオーリンズ港まで運ぶのが良いと考えらました。そこから大洋航行可能な船に積み替え高速船で運搬するほうがより効率的で、かつ大型の外洋船を使えるからです。

一方、ミシシッピ川の西岸は1800年にスペインからフランスに再び割譲され、フランス領ルイジアナが復活していました。ナポレオンによってヨーロッパ全土が蹂躙され、スペインの相対的な国力が落ちたためです。

これによりルイジアナは1762年から1800年までのスペイン領統治を終えることになりましたが、この間の行政官はスペイン人であったにも関わらず新規のスペイン人入植者はほとんどなく、フランス系社会が存続しました。つまりルイジアナ州はフランス系植民社会としての歴史を100年以上もっていたことになります。

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しかしその後の1803年、ヨーロッパで侵略を続けるナポレオンは、その戦費獲得のためなどの財政上の必要性などからアメリカ合衆国に売却しました。アメリカはフランスからルイジアナを1500万ドルで購入し、こうしてミシシッピ川の両岸はアメリカ合衆国の領土となりました。

このルイジアナ買収によってアメリカの領土は2倍となり、また西方への道が開けたことでアメリカの西部開拓に一層拍車がかかることとなりました。

また、ミシシッピ川を使った舟運がさかんになったことは言うまでありません。フルトンが、ハドソン川で蒸気船(Steamboat)の商業航行を始めたのは1807年、これによりニューヨーク-アルバニー間の240㎞(150マイル)が32時間で結ばれました。

それから、たった4年後の1811年にはピッツバーグからニューオリンズまでの定期航路が開かれました。当時の蒸気船は、冒頭の写真や下の写真にもみられるように、水車のような櫂(かい)で水をかき分けて進む外輪船(Paddle Wheeler)です。

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外輪船は推進力で劣り、外洋の激しい波や、戦争時には敵の攻撃に弱い欠点があり、9世紀の半ば頃から外洋では次第にスクリュー式蒸気船(Steamship)が活躍するようにになっていきます。が、川底の浅いミシシッピー川には外輪船が引き続き有利で、その後も20世紀初頭まで流域の貨物輸送の主役を果たし続けました。

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 ミシシッピ川の流域 途中からオハイオ川に入れば五大湖まで行ける。

1812年、アメリカ合衆国の州としてのルイジアナ州が成立し、1849年に州都がニューオーリンズ市からバトンルージュ市に移されました。豊饒なルイジアナの大地に綿花と砂糖のプランテーションが形成され、非常に豊かな州となりましたが、1861年に勃発した南北戦争では南部連合に加盟して合衆国から脱退しました。

この戦争では南軍が敗れ、ルイジアナ州は1862年から北軍に占領されるようになり、このとき州都がいったんニューオリンズに戻されましたが、1868には合衆国への復帰が認められると、もとのバトンルージュに戻りました。

その後、1901年には州内で石油が発見され、ルイジアナ州は一時重要な産油地帯となりました。が、戦争に敗れた南部の州であり、連邦政府からの援助もなにかと滞りがちになります。

また、こののちに発達した鉄道よって交通革命が起き、さらに巻き起こったモータリゼーションの中においては、ニューヨークなどの東部の中心部から遠く離れた辺境の地、という負い目はぬぐえず、著しい経済発展もままなりませんでした。

しかしそのためもあり、逆に古き良き時代のアメリカがこの地には残されました。豊かな自然も手つかずで昔さながらです。ルイジアナ州はその位置や地形の故に多様な生物が生息しており、アメリカ合衆国国立公園局や国有林局の管轄する場所や地域に加えて、州立公園、州立保存地域、多くの野生生物管理地域などが州政府などにより管理されています。

ただ、近年は州南部の海岸の侵食が著しく問題になっています。世界でも最大級の速度で消失を続けている地帯とされており、これはミシシッピ川流域各所に多数の堤防や護岸などが造られたために、本来ルイジアナへ堆積するはずの土砂が減ったことなどが原因とされます。

また、地球温暖化による海面の上昇がこの問題をさらに悪化させているようで、毎日球技場30面に相当する陸地が失われているという推計もあるようです。

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海岸部はほとんどが湿地帯

さらには、湿地では広い範囲で樹木が伐採され、石油・ガス産業のために掘られた運河や溝を通じて塩水が内陸まで運ばれるようになっており、毎年のように発生するハリケーンもまた海水を内陸に運ぶようになっており、沼地や湿地に被害を与えています。

こうした土地の消失、湖沼の塩水化とともに、より多くの人々が地域を離れるようになっているといい、とくに海岸の湿地は経済的に重要な漁業も支えているので、湿地が失われ、淡水魚が減ることは漁業にも打撃となります。

湿地を生息域とする魚以外の野生生物種にも悪影響があり、シシッピ川の河口地帯はルイジアナ州の広大な湿地や沼地の森林を支え続けていることに疑いはありません。

ミシシッピ川からの自然の溢水を復活させるなど、人間による被害を減らして海岸地域を保護するための提案も多いようですが、それらの救済策が打たれなければ、海岸の地域社会は消失し続けることになります。

なんとか侵食を防ぎ、その美しい自然なんとか維持していってほしいと思う次第です。

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