写真のビンガムキャニオン鉱山のある、ユタ州は、19世紀後半から、鉱業が盛んであり、多くの会社が職を求める移住者を惹きつけてきました。今日でも鉱業はユタ経済にとって主要産業であり続けています。産出される鉱物は、銅、銀、モリブデン、亜鉛、鉛、ベリリウムなどであり、化石燃料として石炭、石油、天然ガスなども産出されています。
その代表的存在とされるのが、ビンガムキャニオン鉱山であり、ここには、世界最大の露天掘り鉱山です。世界最大といわれる採掘穴もあり、この穴での採掘は、1863年から発掘が始まって以後現在も続けられており、穴もどんどん大きくなっていて、現在直径4キロほどもあるそうです。
「ユタ」の名は、この地に先住するインディアン部族、にちなみます。ユテ族といい、ユテの意味は、「山の民」です。
州都および最大都市はソルトレイクシティであり、州人口およそ280万人の約80%はソルトレイクシティ市を中心とするワサッチフロントと呼ばれる地域に住んでいます。このために州内の大半の地域にはほとんど人が住んでおらず、ユタ州は国内で6番目に都市集中が進んだ州となっています。
前史時代からインディアンが住んでいましたが、ヨーロッパ人によって19世紀後半に始まった探検時代には、ナヴァホ族など5部族のインディアンが住んでいました。
ユタ州南部のザイオン国立公園、州内には5つの国立公園がある
そこへ、「末日聖徒イエス・キリスト教会」すなわち、モルモン教の信者たちが入植してきました。彼等は当初、教団の創始者、ジョセフ・スミス・ジュニアの指導を受けて五大湖南部のイリノイ州で生活していましたが周辺住民から迫害を受け、信者11,000人以上は、近隣との争いが絶えず、宗祖のジョセフ・スミスも殺害されました。
それを引き継いだのが、教会の大官長ブリガム・ヤングで、ヤングとモルモン開拓者の最初の集団は1847年にソルトレイク・バレーに移住し、その後の22年間、7万人以上の開拓者が平原を横切り、ユタに入ってきました。
1847年に最初の開拓者が到着した時のユタはメキシコ領でした。しかし、1846年から1848年の間にアメリカ合衆国とメキシコ合衆国(墨西哥)の間で勃発し、これは米墨戦争と呼ばれましたが、アメリカが勝利しました。
この結果、現在のアメリカ合衆国南西部がメキシコから委譲され、その中に含まれていたユタは、「ユタ準州」として1850年に創設されました。知事は、無論、指導者のブリガム・ヤングです。ユテ族インディアンに因んで、州名はユタとされ、1856年にはソルトレイクシティ市に準州都が移りました。
ブリガム・ヤング
市民のほとんどは、当然モルモン教徒でした。彼等がイリノイ州でも嫌われた理由のひとつは、その教会員の中で複婚すなわち一夫多妻制を実行していることであり、このため、準州に昇格したあとも、モルモン教徒と周囲の州、あるいはアメリカ合衆国政府との間に軋轢が絶えませんでした。
モルモン教徒が一夫多妻制を実行しているという話が広まると、彼等は非アメリカ人であり、反逆者と見なされるようになります。1857年、モルモン教徒であった元陪席判事が、職務放棄をするとともに不道徳な行為を行っているという、悪質な告発があったのを受け、時のジェームズ・ブキャナン大統領は、ユタに軍事遠征隊を派遣しました。
この2500人の派兵に対し、教団側はそれに勝る3000人の兵を集め、政府と対決する姿勢を示し、一触即発の事態となりました。
そんな中、1857年9月11日、アメリカ東南部のアーカンソー州からカリフォルニア州を目指し移動していた開拓団がソルトレイク郊外に滞留しました。このとき、これを耳にしたモルモン教徒の中に、この開拓者一行の中に初代教祖を殺害した者がいるというデマが流れました。
このため、教団の一部の急進派が武装蜂起し、この開拓民を襲撃して虐殺しました。これが世に言う「マウンテンメドウの虐殺」と呼ばれるものです。彼等は、この武装集団の指導者、ジョン・D・リーという人物の指令のまま、7歳以下の18人の子供を除く、約120人の男性、女性、およびティーンエイジャーのすべてを殺害しました。
大統領の命により派遣されてきていたアメリカ陸軍はこれをうけて、教団に対して攻撃を開始、戦闘状態に陥りましたが、この交戦を「ユタ戦争」と呼びます。政府軍とモルモン軍との戦争は、モルモン軍が政府軍の物資基地を焼き討ちにすることに成功し、彼等に有利に動きました。
このため、政府軍は冬の到来とともに11月には北東のワイオミングに撤退を余儀なくされます。その後も戦意が下がる一方の政府軍でしたが、そんな中、首都ワシントンでは、非モルモン教徒で、指導者のヤングにもコネクションを持つトーマス・ケインという人物が和平交渉を買って出ました。
紛争の長期化を恐れていた、ブキャナン大統領は、この申し出を渡りに船とばかりに喜び、彼をユタ準州との仲介者に立てることを了承します。
こうして、1858年の2月にケインがソルトレークに到着し、ヤング知事らとの交渉の末、秋には和平が成立しました。事後処理としては、政府はモルモン教徒を処罰しない、その代わりに政府はユタを占拠しない、そして、ヤングに代わり政府からの知事を受け入れるといったことが決まりました。
こうして、戦争は終結したものの、連邦政府によりマウンテンメドウの虐殺の徹底解明と責任が問題として残されました。虐殺の主導者、ジョン・リーは、長らく教団に匿われていましたが、教団と政府の和解が進む中、全ての責任を負わされる形で逮捕され、虐殺事件の発生地で銃殺刑にされました。
また、教団側は、その後連邦政府との軋轢の解消に努めるようになり、およそ30年後の1890年には、軋轢の主因となっていた一夫多妻制を自主的に中断しました。
ユタ戦争の終結後、ブリガム・ヤングに代わってアルフレッド・カミングが準州知事に就任し、ヤングは準州政府の実権をカミングに渡しました。が、その後もヤングが準州の実権を持ち続けたといわれています。大統領が指名した知事が辞任することが続き、これが準州政府の伝統になっていきました。
その後、南北戦争が始まり、1861年には連邦政府軍がユタ準州内から撤退する、という事態も発生しましたが、翌年には、北軍将軍であるパトリック・コナーがカリフォルニアの志願兵連隊を率いて到着しました。
コナーは、非モルモン教徒を準州内に誘致することを奨励しましたが、こうして入植してきた移民が、準州内のトゥーイル郡で鉱物が発見しため、他州から多数の坑夫達が集まり始めました。
1869年には、グレートソルト湖の北、プロモントリー・サミットで最初の大陸横断鉄道が開通し、この鉄道開通によって次第に州内に入る移民の数はさらに増え、そのうちの一部は影響力ある事業家となり、資産を築くようになりました。
1870年代と1880年代に一夫多妻制を違法とする法律が成立し、モルモン教会は1890年の綱領で一夫多妻を禁止しました。これを受けて、ユタが州昇格を連邦政府に申請したところ、これが認められましたが、このとき州昇格を認める条件の1つとして、州憲法に一夫多妻制の禁止が盛り込まれました。州昇格は1896年1月4日に正式のものとなりました。
その後のユタ州は、平和のまま推移しました。1953年、ネバダ州にあるネバダ核実験場においてなされた核兵器の核実験による「死の灰」が、南部のセントジョージ市などに到達し多数の住民が被曝する、という事件などがありましたが、1978年よりサンダンス映画祭が毎年にパークシティにおいて開催されるようになるなど、文化的な活動も増えました。
20世紀の初期から州内にブライスキャニオン国立公園やザイオン国立公園などの国立公園が設立され、ユタ州は自然の景観美で知られるようになり、観光客も増えました。1950年代、1960年代、1970年代と州間高速道路が整備され、とくに州南部の景観が良い地域へアクセスしやすくなりました。
1939年にアルタ・スキー場が開設されてからは、世界でも名高いスキー・リゾートとなり、ワサッチ山脈の乾燥しパウダー状の雪は世界でも最もスキーに適していると考えられています。ユタ州の車のナンバープレートには、「地球上でも最も偉大な雪」という表示があります。
冬季のグレートソルト湖
こうした全米でも有数の冬季のリゾート地という評価を受けるようになった結果、ソルトレイクシティ市は1995年に2002年冬季オリンピック開催地に選ばれ、この大会は地域経済に大きな好況をもたらしました。スキー場の人気が高まり、オリンピックに使われたワサッチフロントに散らばる多くの会場は、現在でもスポーツイベントに使われています。
さらにこのオリンピックは、UTA TRAXと呼ばれる軽鉄道(ライト・レール)が、ソルトレイク・バレー内に造られ、これは市周辺の高規格道路の再整備に繋がりました。
20世紀後半にユタ州は急速に成長し、今日でも州内のあちこちで、人口増加が起こっています。全米でも成長率の高い州です。ただ、開発のために農業用地や原生地がなくなっていくので、交通と都市集中が大きな悩みのタネとなっているようです。
モルモン教のソルトレイク神殿、主要な観光地となっている