100年の時を超え~マーモンモーター社

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マーモンモーター社は、インディアナ州のインディアナポリスで1902年に創業し、1933年まで続いた会社です。

このインディアナポリスという町はあまり日本人には馴染のない街かもしれません。場所は五大湖のうちのミシガン湖のすぐ真南に位置し、アメリカ中東部の中規模都市といったところです。最近では外資系を含めた自動車工業の成長によって、五大湖周辺の都市にしては人口増加を続けている珍しいケースの都市です。

マーモンの親会社は、1851年の製造に設立された小麦粉を製造する器械を製造する会社でしたが、その技術を応用して自動車生産に乗り出しました。マーモンの名は、その初代社長であるハワード・マーモンの名を冠したものです。

この会社で1902年から製造された空冷式V4エンジンは、この時代にあってかなり先駆的なものであり、翌年からはさらにV6とV8エンジンも生産するようになり、これを搭載した車両は信頼性が高く、すぐにスピード感あふれる高級車としての評判を得るようになりました。

1911年には、モーターレースの最高峰、インディアナポリス500で入賞するなど、その後も実力を蓄えつづけていきました。次々と新車を製造していきましたが、中でもとくに軽量化のためにアルミニウムを多用したボディを持つクルマの製造で定評がありました。

また、多数の人が乗れる高級リムジンも製造していましたが、7人乗りのモデルで、6350ドルもし、これは現在の価格に換算すると、1ドル120円として、およそ1900万円にもなります。

冒頭の写真は、コンバーチブルであり、乗車できるのは4~5人ですから、これよりは安かったでしょうが、少なくとも4000ドル以上、現在の日本円では、1200万円以上はしたでしょう。撮影年度は不詳であり、このクルマの車種も不明ですが、デザイン的な完成度からみて、同社の全盛期のものと思われ、おそらくは1920年代のものと推定されます。

しかし、この1920年代後半ごろから、市場の成熟化により、次第にこうした高級車は売れなくなっていったため、同社の収益も悪化。そこで、1929年にはより安価な1000ドル台の乗用車を売り出しましたが、このころにはフォードがもっと安価なT型フォードなどを売り出しており、その価格は半値以下の300~500ドルという安さでした。

このため、この新型車「ルーズベルト」は、まったく売れず、業績はさらに悪化。そこへ追い打ちをかけるように、1929にはウォール街で大暴落が起き、時代は大恐慌の悪夢の中に入っていきました。

同社は1927年に世界に先駆けてシリンダーの数が16気筒もあるV16エンジンの開発なども手掛けていましたが、これは完成できず、1933年にはついに、全車種の自動車生産を中止しました。

しかし、これより少し前の1931年、マーモン・ヘリントン社は、ハワードの息子であるウォルター・C・マーモンの呼びかけに応じた、アーサー・W・ヘリントンとの共同で、新しい会社を設立していました。

これが、マーモン・ヘリントン社であり、同社はそれまでの高級自動車における優れたエンジンの製造技術を生かした、トラックの製造を中心にした企業でした。軍用の航空機用給油トラックや軽火砲牽引用の4輪駆動車のシャーシ、民間航空機用給油トラックなどを製造しましたが、軍などから発注も多く、順風満帆な操業を開始しました。

その後、4輪駆動車の製造だけでなく、既存の2輪駆動車の4輪駆動車への改装もまた同社の事業の一部であり、このほか商用の配送用バンや乗用車も製造するようになり、その延長で同社は商業トラック用シャーシの上に架装可能な軍用装甲車の設計を行うようになりました。

この技術は1938年に南アフリカ共和国に採用されましたが、これを生かして製造された車両は「マーモン・ヘリントン装甲車」として知られ、北アフリカ戦線でイギリス陸軍やイギリス連邦諸国の陸軍で活躍しました。

また、戦車も製造するようになり、1940年には、オランダ領東インド陸軍からの発注を受け、「マーモン・ヘリントン CTL」という戦車も開発、製造しました。

輸送中にインド陸軍が日本軍に降伏したために配備が間に合いませんでしたが、残りの生産分はオーストラリアに訓練用戦車として配備されたほか、アメリカ陸軍が引き取って運用し、北方アメリカ領であるアリューシャン列島やアラスカに配備されました。

その貧弱な武装と装甲から、アメリカ兵からは軽蔑されましたが、インド陸軍からは、この車両が搭載していたハーキュリーズエンジンの高い信頼性を評価しました。

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1942年 アラスカの山岳地帯で行動中の2両のマーモン・ヘリントン CTL

ちょうどこのころ、第二次世界大戦中にイギリスは、それまでの主力戦車のひとつ、「テトラーク軽戦車」の代替となる空挺作戦専用の軽戦車の開発を模索していましたが、航空機その他の開発製造に忙しく開発は進んでいませんでした。

しかも、戦争に突入して軍の工場の生産能力は著しく低下しており、ついには新型戦車をイギリス国内では生産しないことに決めました。

その代わりに、ということで同盟国であるアメリカ政府にテトラークの代替戦車の開発と生産を要請しましたが、これは重量9~10トンという軽量の戦車の開発を求めるものでした。この重量はこの時代の軍用グライダーに搭載できる程度のものとして決められたものです。

さっそく、アメリカ合衆国の武器省は、この戦車の開発を任せる会社の選定に入り、この中で、ゼネラルモーターズ、ジョン・W・クリスティー、マーモン・ヘリントン社の3社を選び、それぞれに設計を依頼するという、コンペティション方式を採用しました。

こうして選定された各社はそれぞれの持ち味を生かした新型戦車の設計に入りましたが、1941年5月に開催された会議で武器省はマーモン・ヘリントン社の設計案を採択し、同社に試作車を完成するよう要請しました。同社の前身であるマーモン社時代に開発した車両の軽量化技術が高い評価を得たようです。

そして、この戦車は、武器省により「Light Tank T9 (Airborne)」と名付けられました。日本語にすると「軽戦車T9(空挺型))とうことになりますが、後に「M22」と改称されます。

しかし、このイギリスから開発を依頼された戦車は、この当時アメリカ軍がこのような車両を搭載できる大型の輸送機を保有していなかったため、そのままでは使うことができませんでした。

このため、輸送時には砲塔を取り外して車体を機体の下に吊り下げる方式とし、軽量化のため車体前面の固定式機関銃や砲塔の旋回装置、主砲のジャイロスタビライザー(砲安定装置)などが取り外されたT9E1として改良されました。

砲塔を取り外す形式としたことで、着陸した輸送機から下ろした後に組立作業を行う必要が生じ、このためアメリカ軍では本車は空挺降下させて運用することができません。このため、「輸送機で空輸することが可能」という程度の「空挺戦車」となってしまい、空挺部隊の持つ「奇襲性」を発揮できないことは本車の重大な欠点となりました。

しかし、アメリカ軍はせっかく開発したからということで、T9E1が完成する前の1942年4月に早くも500輌の量産命令を出し、試作車の性能も満足のいくものだったことから、更に1400輌の追加発注が行われました。

ただ、ちょうどこのころ、敵国であるドイツや日本軍の衰弱ぶりが顕著となってきたため、1944年2月に830輌が完成した時点で生産は打ち切られました。そして、結局アメリカ軍が実戦でこの車両を使うことなく、戦争は終了しました。

一方、この戦車の開発を依頼したイギリスには、このうちの280輌が送られ、実戦に投入されました。イギリスは既に大型のグライダーであるGAL49“ハミルカー”を保有していたため、1945年3月に行われたライン川渡河作戦、ヴァーシティー作戦にこのうちの12輌が参加しました。

M22_locust_06ハミルカー グライダーより降車するM22“ローカスト”

イギリス軍第6空挺師団所属で、愛称に「ローカスト(Locust)」の名が与えられました。ワタリバッタのことで、これは日本語では「いなご」に近い種類ですが、やや日本のものより大きいバッタです。

こうして実践配備されたローカストでしたが、この頃にはもうすでにドイツ側の抵抗力は落ちており、戦闘も散発的なものだったこともあり、本車の真価を問うことはできなかったようです。そして、これが第二次世界大戦におけるM22の唯一の実戦使用例となりました。

M22_Locust_light_tank_at_Bovingtonボービントン戦車博物館(イギリス)のM22

しかし、こうした戦争にも使える頑丈な車両を作る技術を蓄えたことはその後のマーモン・ヘリントン社の運営においては強みとなりました。戦後もこうした特殊車両の製造技術を生かし、戦前からのお付き合いのあったアメリカ空軍やアメリカ海軍の空港に空港用消防車などを納入しました。

ただ、戦争は終結し、その後の軍需目的の車両の販売は目に見えて落ち込むことは容易に予想されたことから、同社は民間市場への復帰を目指します。そして1946年には、「トロリーバス」を製作して路線バスの市場に参入することを目論みます。

第二次世界大戦の終結は、既に軍用車両需要の急激な低下を招いていましたが、既に民間の乗用車製造には多数の会社がぶら下がっており、同社としては他社も参入し得ない車両製造の分野を模索していました。

そこで同社は、トロリーバスならば、マーモン社時代に蓄えていたアルミボディなどによる軽量化技術が生かせると考えたわけです。なお、この当時は「トロリーバス」よりも「トロリーコーチ」(trolley coaches) という呼び方のほうが一般的でした。

こうして、軽量なモノコック構造ボディや強靭なダブルガーダー式側板といった革新的な技術の採用が取り入れられたトロリーコーチが完成しました。そして市場に出された、この車両は、戦後の市場でベストセラーとなり、北米の多くの都市のバス会社で採用されるようになりました。

知られているなかでも特に多数を購入したのが、シカゴとサンフランシスコであり、シカゴでは、1951年から52年にかけて1度に349台もの大量の車両が納入されました。

そのほかにも米国内16都市にトロリーバスを供給し、ブラジルの2都市へも販売するまでになり、トロリーコーチといえば、マーモン・ヘリントン社と言われるまでになりました。こうした同社によるトロリーバスの製造は1946年から1959年まで続き、総計1624台の車両が生産されました。

米国内の路線から退役したマーモン・ヘリントン社製のトロリーバスの中には、中古車としてメキシコに販売されるものもあり、これらは1960年代末から1970年代末にかけて同国内のあちこちで使われていました。

Dayton 515 (1949 Marmon-Herrington). Photo by Steve Morgan.1949年製 マーモン・ヘリントン TC48 トロリーバス

しかしトロリーバスは、架線下においてしか走れないため、道路交通量の増加とともに走行に困難をきたすようになり、また性能の良いエンジンを持った大型のバスの開発が進んだことなどから、順次廃止されていきました。

こうして最初は高級車、次に軍事用車両、そしてトロリーバスと、製造車種を次々と変えて生き残ってきた同社は、また苦境に立たされるようになりました。

このため、1960年代初めには、ついにハイアット・ホテル・グループの経営者一族である、プリツカー家に買収されてしまいました。間もなく完成車製造の分野から撤退し、それまでも継続していたトラック製造における設計部門は「マーモン」ブランドを使用する新会社、マーモン・モーター・カンパニーへと売却されました。

奇しくもこれは、創業当初の会社名と同じ、ということになります。一方のマーモン・ヘリントン社は、1964年にマーモン・グループという、グループ企業の一員となりましたが、同社は現在でも2輪駆動の商用トラックを4輪駆動に改装する、という同社が創業当時にやっていたような事業を継続しています。

しかし、それと並行して重量車両用のアクセルを製造するなど多角化も進めており、長年軍部に車両を提供したこともあり、同社製のアクセルは最新の軍用車両や商用トラックにも使用されているということです。

このほか、4輪駆動用改造キットの製造に加えて、中型や大型トラック市場向けの前輪駆動用アクセルやトランスファーケースを製造するようにもなりました。トランスファーケースは、4四輪駆動車にみられる部品であり、トランスミッションに接続され、エンジン出力をドライブシャフト(プロペラシャフト)を介して前後軸に分配するための機構です。

まさに老兵は死なず、といった具合で、同社は今も健在ですが、2008年には、アメリカ合衆国ネブラスカ州オマハに本部を置く世界最大の投資持株会社、バークシャー・ハサウェイが、マーモン・グループやマーモン・ヘリントン社を擁するマーモン・ホールディングスの過半数の株式を取得しました。このため、同社は現在このハサウェイの傘下にあります。

今日ご紹介したマーモン社は、アルミを用いた車両の製造技術や4輪駆動車の製造といった、時代を経ても褪せない技術の開発における先駆者ともいえる会社であり、こうした優れた技術を持った会社というものは、時代を超えて生き残るだけのバイタリティを常に持っている、ということがおわかりいただけたでしょう。

同じ自動車といえども、その時代時代のニーズをうまく読み取り、工夫をこらして新たな需要を生み出すような製品を創っていく、というのはどこの国のメーカーでもやっていることではありますが、100年以上の時間を経てなお生き残るというのはなかなかできることではありません。

今後日本のメーカーも見習うべきものがあるかもしれず、あまり知られていない会社ではありますが、その業態を改めて研究してみる、というのも良いのではないでしょうか。

かつてトラック製造などで不祥事を起こし、その反動で現在も低迷を続けているM自動車さんなどはとくに見習っていただきたいものです。