写真は、アメリカ東部、5大湖の一番南にあるエリー湖のほとりにある、オハイオ州の町、クリーブランド(Cleveland)で1900年代初頭に撮影されたものです。
クリーブランドは、大西洋岸からはおよそ700~800キロ離れた内陸にありますが、エリー湖からその北東側にあるオンタリオ湖、さらにここからカナダ側へ抜け、セントローレンス川を北東へ進むと大西洋へ出ることができます。
またオハイオ州を南東部へと南下するオハイオ川は、その先でミシシッピ川と合流しており、ルイジアナ州まで続くこの川をたどれば、メキシコ湾へ抜けることも可能です。
こうした位置関係から、早くから北米のあちこちにめぐらされた運河や鉄道の起点となり、豊富な水もあることから、工業都市として発展しました。かつてはオハイオ州最大の都市であり、全米でも上位10位以内に入る大都市でした。
冒頭の写真は、市の中央部を南北に流れエリー湖に注ぐ「カヤホガ川」という川の河口付近です。これが撮影された1900~1920年頃には既に川の両岸に工場が建ち並び、工業地帯を形成していました。
写っている船は、賑やかだったころのこの街から別の町へ旅立つフェリーと思われ、その右手に長々とあるのはそのターミナルを兼ねた鉄道駅でしょう。同じ場所を別の角度から撮影した航空写真が以下のものです。この写真の右端に橋のようなものが写っていますが、冒頭の写真はおそらくここから撮影したものと考えられます。
クリーブランドは1776年のアメリカ独立から20年を経た1796年に、オハイオ州北東部のコネチカット州の「西部保留地」として建設されました。「保留地」というのは、このころのアメリカではまだ各州毎に自治権が確立しておらず、立場の強い州は他の州に利便の良い土地などの貸借を要求し、これを自州の都合の良いように使っていました。
コネチカット州というのは、ニューヨークの北に広がる大西洋に面する州ですが、なぜそんな州がクリーブランドのような内陸の地を所望したかといえば、コネチカット州のすぐ西側にはペンシルバニア州があり、これはもともとコネチカット州の一部でした。
しかし、広大すぎるためにこれを連邦政府が手放すように命じましたが、コネチカットの住民にとっては領地の削減になるわけで、大きな権益を失うことにもなります。このため、その見返りとして、エリー湖のほとりの交通や利水の良い便利な場所の租借を求めたもので、これが西部保留地です。
この権利はその後1803年にオハイオ州が独立した州として認められるまでは永続しましたが、とまれこの西部保留地は当初、コネチカット州所有の飛び地における中心地として発展することになります。
クリーブランドという地名はこのコネチカット西部保留地の管理会社として設立された「コネチカット土地会社」を率いていたモーゼス・クリーブランド将軍からつけられたものです。
その後この保留地はたいした開発もされず、10数年が過ぎていきました。しかし、1810年代初頭か入植者が住居を建て始め、1814年には正式な村になりました。
近隣が湿地性の低地で、冬の寒さが厳しいにもかかわらず、湖岸に位置するクリーブランド一帯は将来有望な土地であったため、1832年にオハイオ川とエリー湖を結ぶ運河が完成すると、急成長を遂げていくようになります。
上述のとおり、これにより、オハイオ川・ミシシッピ川を通ってメキシコ湾へ抜けることができるようになり、また、エリー湖・オンタリオ湖・セントローレンス川を通って大西洋へ抜ける航路が確立され、加えて鉄道が開通すると、クリーブランドの成長はさらに進んでいき、1836年にクリーブランドは市に昇格しました。
クリーブランドは、五大湖西に広がるミネソタ州で産出される鉄鉱石が、五大湖を航行する貨物船で運ばれてきた際の積み下ろし地でもありました。また、オハイオ州南部にはアパラチア山脈があり、ここでは鉄鉱石が採れたため、これが鉄道で運ばれ、同じくクリーブランドに集積されました。
そしてクリーブランドからはさらにボストン、シカゴやデトロイトへとこれらの物資が出荷されましたが、こうした好立地条件からクリーブランドでも次第に鉄鋼産業や自動車産業などの重工業が発達するようになり、アメリカ北東部における、工業の中心地のひとつになっていきました。
冒頭の写真が撮影された1900年代初頭のクリーブランドは80万人近い人口を抱え、560万のニューヨーク、270万のシカゴ、180万のフィラデルフィア、100万のデトロイトに次いで全米第5の都市になりました。
1936年と翌1937年の夏には、クリーブランド市制施行100年を記念して、エリー湖畔でグレート・レイクス博覧会が開催され、世界恐慌のすぐあとにもかかわらず、この博覧会は1936年の第1シーズンには400万人を、1937年の第2シーズンには700万人を動員しました。
第二次世界大戦の終戦後も発展が続きましたが、この時代では文化の面での成長も著しく、スポーツにおいては、アメリカMLBのクリーブランド・インディアンスが1948年のワールドシリーズで28年ぶり2度目のワールドチャンピオンに輝いたほか、1949年には、オール・アメリカ・シティ賞の第1回受賞都市に選ばれました。
実業界においてもクリーブランドは「全米で最も元気な土地」とされ、1950年には市の人口は90万人のピークに達し、全米でも第7の規模でした。しかし、1960年代に入ると市の経済を支えていた重工業は衰退し始めていきました。
他州の著しい技術開発についていけず、それまで市の経済を支えてきた製造業の地位が相対的に低下してきたためで、このため従来工業が市の基盤を支えていたものが、商業や金融業、サービス業が市の経済の主体となっていきました。
ところが、その後さらに悪いことに、連邦最高裁判所がクリーブランドの学校に差別撤廃のためにバス通学を義務付けました。黒人と白人を同じバスに乗せて学校へ行かせることが平等だとする命令であり、これが市の衰退をさらに加速させていく要因となりました。
元よりオハイオ州は南北戦争でも北軍側についた州であり、後にオハイオ州出身の退役軍人から5人のアメリカ合衆国大統領が出たほどですが、従来の繁栄は白人が築いたものだとする気風が強く、黒人蔑視の風潮は根強く残っていました。
この「強制バス通学」に反発した白人住民は、次々と郊外へと移り住んでいくようになり、これはいわゆるホワイト・フライトと呼ばれる現象です。このころ全米の多くの主要都市で見られたもので、クリーブランドでも例外ではありませんでした。
一方では、都市が“無秩序に拡大”していく「スプロール現象」も顕著になり、1960年代には暴動が頻繁に起こるようになり、1968年には白人と黒人の間で銃撃戦まで起こりました。こうした暴動はいずれも市の東側に位置し、アフリカ系の住民が多い地域で発生しました。
1969年には、カヤホガ川の水面に流されていた産業廃棄物のオイルに引火したことが原因で大規模な火災も発生し、このころまでには財政も逼迫し、さらには地元スポーツチームも不振といった具合に、クリーブランドはボロボロでした。やがてメディアはこのまちをThe Mistake on the Lake(湖岸の落ちこぼれ)と呼ぶようになっていきます。
しかし、それ以後、市はその汚名を雪ぐために手を尽くし、近年では官民共同でダウンタウンの再建にあたり、都市再生が進みました。都市圏全体の見直しが進められ、とりわけダウンタウンの再生は目覚しいものがあり、1994年には大規模な競技場が完成しました。
かつては港湾施設で占められていたエリー湖岸の地区には「ロックの殿堂」や科学センターといった娯楽施設・文化施設が建つようになり、こうした復活をみたメディアは、いつしかクリーブランドをComeback City(復活の街)と呼ぶようになりました。
2005年のエコノミスト紙の調査では、クリーブランドはピッツバーグと並んで、全米で最も住みやすい都市の1つに挙げられており、また同年の別の号では、同誌はクリーブランドをアメリカ合衆国本土48州で最もビジネスミーティングに適した都市として挙げられるまでになりました。
現在もその復興は続いています。が、その一方で、ダウンタウン近隣の住宅街、インナーシティの治安は依然として軒並み悪く、また市内の公立学校システムは重大な問題を抱えたままのようです。
とはいえ、市では、経済成長、若いプロフェッショナル層の確保、ウォーターフロント地区の有効活用による収益向上の3つを優先度の高い事項として挙げ、さらなる発展を目指した改革を進めています。
ところで、クリーブランドと言えば、アメリカのレジェンドともいわれ、スタンダード・オイルを創設して億万長者になった「ジョン・ロックフェラー」は、この街で成功し、富を築き上げました。
スタンダード・オイル社はアメリカ初のトラスト(企業合同体・財閥のようなもので、現在は違法とされる)を結成することで、石油市場を独占し、これを率いたロックフェラーはアメリカ人初の10億ドルを越える資産を持つ人物となりました。インフレーションを考慮すると、史上最高の富豪とされています。
引退後も40年間生き続け、その間資産の大部分を慈善活動の現代的かつ体系的アプローチの構築に費やし、医療・教育・科学研究促進などを目的とした「ロックフェラー財団」を創設したことでも有名です。
彼が創設した財団は医学研究を推進し、鉤虫症(こうちゅうしょう・寄生虫病の一種)や黄熱病の根絶に貢献しましたが、その研究所で日本の野口英世が働いていたことは有名な話です。また彼は、シカゴ大学とロックフェラー大学を創設し、フィリピンにセントラル・フィリピン大学の創設資金を提供するなど、教育の普及の上でも多大な貢献をしました。
ただ彼と競合した人々の中には破産に追い込まれた者も少なくなく、寡占もしくは不公正な商習慣の追求の直接の結果として、石油産業を支配して莫大な私財を蓄えた実業家、というレッテルも常について回ります。こうした実業家や銀行家のことをアメリカでは軽蔑的な意味合いをこめて「泥棒男爵」と呼びます。
伝記作家のロン・チャーナウという人は、「彼の良い面はとことん良く、悪い面はそれと同じくらい悪かった」と述べており、また「史上これほど矛盾した人物は他にいない」とも書いており、後世の評価はさまざまです。
これだけいろいろ慈善事業を行っておきながら、このように批評が分かれる理由は、ひとつは彼が容赦ない方法で「商敵」を潰していったこともありますが、その蓄えた資産の大きさが膨大なものであることによる、ひがみややっかみもあるでしょう。
例えば1902年のアメリカのGDPは240億ドルでしたが、同年のロックフェラーの資産は約2億ドルに達していたといい、彼が1937年に亡くなった時点で、当時のアメリカのGDPが920億ドルだったのに対し、ロックフェラーが家族へ残した遺産は14億ドルと見積もられています。
この額は現在の価値に換算しても、近現代史上最も大きな額であり、ビル・ゲイツもサム・ウォルトンも遠く及ばないものです。
その長い一生(満97歳没)を追うことは簡単ではないのですが、今日のテーマであるクリーブランドに関連したことを中心になるべく簡潔にまとめておきましょう。
ロックフェラーは、ニューヨーク州リッチフォードで、1839年7月8日に生まれました。父のウィリアムはかつて林業を営んでいましたが、巡回セールスマンとなり「植物の医師」を名乗って白樺から抽出した健康飲料のようなものを売り歩いていたようです。
家には闖入者のように時折帰ってくるだけで、生涯に亘って真面目に働こうとせず、常に一山当てようと目論んでいるような男だったといいます。しかし、母のイライザは信心深いバプテストであり、夫が不在の間家庭を維持するため奮闘しました。
夫は頻繁に外に女を作り、時には重婚していたこともあったといい、家に十分な金を入れるでもなく、母子は常に貧乏でした。自然に倹約が常となり、息子には「故意の浪費は悲惨な欠乏を招く」と教え込んだといい、若きロックフェラーも家事を手伝い、七面鳥を育てて金を稼ぎ、ジャガイモや飴を売ったり、近所に金を貸すなどして家計を助けました。
奔放な父の性格のため、一家はあちこちを転々としましたが、ロックフェラーが14歳のとき、彼等はクリーブランド近郊のストロングスビルに移りました。
彼はここのクリーブランド中央高校で学びましたが、その後商業専門学校でも10週間のビジネスコースを受講しました。ここで簿記を学んだことが、その後の商売に生かされるようになりましたが、早くから算術と経理の才能を持っていたようです。
ロックフェラーは父に似ず、行儀がよく、真面目で勉強や仕事に熱心な少年だったといい、さらに信心深く几帳面で分別があったと、当時の彼を知る人は評しています。議論がうまく、正確に自分の考えを表現できたともいい、また音楽好きで、将来それで身を立てたいという夢を持っていました。
16歳のとき、クリーブランドの製造委託会社で簿記助手の職を得ると、長時間働き、すぐにそのオフィスの仕事の全てに精通するようになりました。このころから既に対価として得た給料の約6%を寄付を始めており、20歳のころまでにはその額も増し、10%をバプテスト教会に寄付するようになっていたといいます。
おそらくは敬虔なクリスチャンであった母の影響であったと思われ、キリスト教の教えである人に分かち与える、という精神が子供のころから身についていたのでしょう。とはいえ、金銭に対する執着はそれなりにあったようで、このころ、10万ドルを貯めることと100歳まで生きることが目標だと語っていたといいます。
そしてそれはほぼ実現しました。ただ、目標をはるかに超える大きな金額を貯めることができたことと、100歳までには3歳ほど足らなかったことだけが誤算でしたが。
18歳のロックフェラー(1857年ごろ)
こうして製造委託会社で貯めた金をもとに、20歳になったロックフェラーは、資本金4,000ドルで友人のモーリス・B・クラークとともに、自らも製造委託会社を設立しました。
食料品の卸売りからはじめましたが、やがて着実に利益を上げるようになり、4年後には新たな投資ができるまで発展し、当時クリーブランドの新興工業地域に建設された製油所にその金を投資しました。
ちょうどこのころは石油産業の勃興期であり、その背景には、それまで工業用燃料として使われていた鯨油がクジラの乱獲によって減り始め、高価すぎる燃料となってきていたことがあげられます。より安価な燃料が必要とされていた時代であり、ロックフェラーはまさに時代の潮流に乗ったわけです。
このころ、ロックフェラーは、共同経営者のクラークと対立するようになっており、製造委託会社の持ち株をクラークに売り払ってパートナーシップを解消し、それで得た金で共同で持っていた精油事業の株をクラークから改めて買収しました。
その買い取った権利を基に、別の共同経営者に今度はアンドリュースという化学者を選び、ロックフェラー・アンド・アンドリュース社を設立しました。南北戦争後、鉄道の成長と石油に支えられ西部に向かって開発が進んでいった中、この会社は順調に推移し、彼は多額の借金をしては投資し、得た利益を再投資しては資産を増やしていきました。
25歳のとき、ロックフェラーは、地元クリーヴランドで、教師のローラ・セレスティア・スペルマンと結婚しました。5人の子を授かりましたが、うち4人は娘で、末っ子だけが男でした。この1人息子ジョンは、のちにロックフェラー2世として知られるようになる人物です。
ロックフェラーは地元のバプテスト教会の熱心な会衆の1人で、日曜学校で教え、評議員や教会の事務を務め、時には門番役も買って出ていました。生涯にわたって信仰を行動指針とし、それが自身の成功の源泉だと信じていたといい、「神が私に金を与えた」とも言っており、蓄財を恥じることはありませんでした。
イングランド国教会の司祭で、その後メソジスト運動と呼ばれる信仰覚醒運動を指導したジョン・ウェスレーの格言「得られる全てを得て、可能な限り節約し、全てを与えなさい」を信条としていたともいいます。
その2年後の1866年、弟ウィリアムもまたクリーブランドに別の製油所を建てたため、ロックフェラーは、この弟ともパートーナーシップを結び、さらにその翌年には、ヘンリー・M・フラグラーがパートナーに加わりました。このため、会社は「ロックフェラー・アンド・アンドリュース・アンド・フラグラー」という長ったらしい名前になりました。
その2年後の1868年、ロックフェラー29歳のときにこの会社は、クリーブランドの2つの製油所とニューヨークの販売子会社を持つようになり、ついにこの当時世界最大の精油会社となりました。そしてこの会社こそが後のスタンダード・オイルです。
そのころまでには南北戦争が終わっており(1865年)、クリーブランドはピッツバーグ、フィラデルフィア、ニューヨーク、原油の大部分を産出していたペンシルベニア州北部と共にアメリカの石油精製拠点のひとつになっていました。
1870年、ロックフェラーらはスタンダード・オイル・オブ・オハイオを結成し、ここで初めて「スタンダード・オイル」の名が世にでました。同社はすぐにオハイオ州で最も高収益な製油所となっていき、アメリカ屈指のガソリンやケロシン(灯油、ジェット燃料などに使われる)の生産量を達成するまでに成長していくようになります。
その後、ロックフェラーは競合する製油所の買収、自社の経営効率の改善、石油輸送の運賃値引き強要、ライバルの切り崩し、秘密の取引、投資資金のプール、ライバルの買収などのあらゆる手段を駆使して事業を強化していきました。
スタンダード・オイルは徐々に水平統合を達成し、それによってアメリカでの石油の精製と販売をほぼ支配下におさめました。1882年ごろには、アメリカ国内に2万の油井、4千マイルのパイプライン、5千台のタンク車、10万人以上の従業員を抱える巨大帝国となっており、石油精製の世界シェアは絶頂期には90%に達しました。
しかし、1880年代後半になるとその勢いにも陰りがでてきました。この当時まだ世界の原油の85%はペンシルベニア産でしたが、しだいにロシアやアジアの油田からの石油が世界市場に出回り始め、ビルマやジャワでも油田が発見されました。さらに白熱電球が発明され、照明目的で灯油を燃やすことが減っていきました。
このため、1890年代に入るとロックフェラーは鉄鉱山と鉄鉱石の輸送などの事業に事業拡大の矛先を向けるようになります。このため鉄鋼王アンドリュー・カーネギーと衝突するようになり、新聞などで彼らの対立がよく報道されるようになりました。
この時期に、ロックフェラーは引退を考え始めていたようで、日常の経営は側近に任せ、ニューヨーク市の北に新たな邸宅を購入し、自転車やゴルフなどに興じる悠々自適な生活を送るようになりました。
1911年、72歳になったロックフェラーは、まだ名目上とはいえ、社長の肩書きを保っていました。しかし、このころにはアメリカも、自由競争の結果発展した大企業を放任することが、むしろ逆に自由競争を阻害するという考え方が主流を占めるようになっていました。
そしてこの年ついにアメリカ合衆国最高裁判所は、スタンダード・オイルをシャーマン法(アメリカの独占禁止法)に違反しているとの判決を下します。
最高裁は同社が形成したトラストが不法に市場を独占しているとして解体命令を下し、同社はおよそ37の新会社に分割されることとなりました。解体された時点でロックフェラーはスタンダード・オイルの25%以上の株式を所有していましたが、彼も含め株主は分離後の各社の株式を元々の株式の割合のぶんだけ得るところとなりました。
こうしてロックフェラーの石油業界への影響力は減退しましたが、その後10年間で分割された各社も大きな利益を上げ続けたため、その株式から多大な利益を得ることができました。それらの価値の合計は解体前の5倍に膨れ上がったため、ロックフェラーの個人資産は会社分離前より更に大きい9億ドルにまで膨れ上がりました。
上で述べたとおりそうした膨大な資産はかなりの額が慈善事業として医学研究や教育に費やされましたが、多くは内部留保され、のちに遺族に受け継がれました。晩年のロックフェラーは、どこへ行っても大人には10セント硬貨、子どもには5セント硬貨をあげることで知られるようになったといい、時にはふざけて友人の富豪にも硬貨を与えたといいます。
しかし、ついにその人生の最後を迎えることになります。最晩年は動脈硬化を起こしていたといい、それが原因で、1937年5月23日、98歳の誕生日の2カ月前に、フロリダ州オーモンド・ビーチの自宅で亡くなりました。
ロックフェラーは自らの一族に莫大な生前贈与を行っており、とりわけ息子のジョン・D・ロックフェラー・ジュニアには多くを与えました。結果、一族は20世紀のアメリカで最も豊かで最も影響力を持つ一家となりました。
ロックフェラーの孫デイヴィッド・ロックフェラーはチェース・マンハッタン銀行のCEOを20年間務めました。同じくロックフェラーの孫ネルソン・ロックフェラーは、ジェラルド・フォード大統領の下で副大統領に就任し、もう一人の孫ウィンスロップ・ロックフェラーはアーカンソー州知事に就任しました。
彼の遺体は、その後、オハイオ州クリーブランドのレイクビュー墓地に埋葬されました。市の東側に位置している墓地であり、クリーブランドの屋外博物館と見なされています。無宗派墓地として全ての人種、宗教、生き方の区別無しに開かれており、これまでに合わせて107,000人以上が埋葬されています。
エリー湖が北側にあり、名前通りに湖を眺望する事ができます。1881年に暗殺された第20代アメリカ合衆国大統領、ジェームズ・ガーフィールドの記念館は墓地内で最も有名な記念碑であり、そのすぐ近くには、大理石でできたロックフェラー家の記念碑も建っています。
クリーブランドを興したロックフェラーとの強い結びつきを示す記念碑でもあります。