空飛ぶ要塞 B-17

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写真は、「空飛ぶ要塞(Flying Fortress)」と呼ばれた、アメリカ空軍の四発重戦略爆撃機B-17です。

1935年にアメリカ合衆国のボーイング社が開発した飛行機で、第二次世界大戦では、初期の太平洋戦域や、中期までの北アフリカ・地中海・フランスでの偵察と戦術爆撃、そして後期1943年半ばからのドイツ本土への戦略爆撃に本格的に運用されました。

特にドイツ本土爆撃でドイツの工業力を空から喪失させ、ヒトラー政権とナチスドイツを敗北へ追い込み、その高々度での優れた性能と強い防御力はドイツ空軍を大いに悩ませました。

建造が決まった1930年代初頭には、沿岸防衛用として哨戒と敵艦の攻撃用とする、より機動力のある飛行機にする予定でしたが、1934年になって計画変更となり、敵国の飛行機よりも、むしろその飛行機を製造する工業組織を目標にすることが重要視されるようになり、「護衛なしでやっていける」爆撃機をめざして開発が行なわれることになりました。

こうして1934年8月8日、アメリカ陸軍は、当時の主力爆撃機だったマーチンB-10(双発機)の後継機として、航続力と爆弾搭載量を2倍に強化した「多発爆撃機」を製造するようボーイング社に対して正式な要請が出されました。

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この当時はまだ日本やドイツとの戦争は始まっておらず、その配備の目的はアラスカ、ハワイなどアメリカの沿岸地域を防衛することでした。しかし、第二次世界大戦参戦以前のアメリカは孤立主義的傾向が強く、このような高性能の爆撃機を保有する事については議会・納税者からの反対が根強かったといいます。

そのため「敵国を攻撃するための兵器ではなく、アメリカ本土防衛のための兵器である」という名目の下、「空飛ぶ要塞」と命名されました。列車砲の代替兵器として、アメリカの長大な海岸線で敵上陸軍を阻止迎撃することがその念頭にあったといいます。

その開発にあたってボーイングの技術者たちに課されたのは、敵国の工場を目標にするにあたり、「長距離を飛ぶ」ことができ、しかも「護衛を要しない」爆撃機にする、という点でした。

まず最初の長距離を飛べる、という点をクリアーするためには、まず燃費をよくすることが必要です。このために、流体力学的に優れた突起物の無いスマートな機体を製造することなどが試みられました。

B-17の機体ラインは非常に滑らかな曲線と直線で構成されており、後には多数の機銃を装備したいかにも「要塞」らしい様相を呈するようなりますが、こうした凸凹を持たない初期の機体ラインは流麗そのものでした。

また、長距離を飛ばすための仕組みとしては、爆撃機として世界最初の「排気タービン」が採用されました。

排気タービン式過給器は、エンジン排気という余剰エネルギーを利用して、エンジン内に大量の空気と燃料を強制的に送り込む装置であり、空気の薄い高高度で飛行する際、ピストンエンジン(レシプロエンジン)の出力を確保するのに必要不可欠でした。

このエンジンを採用することで、ドイツや日本が保有する航空機よりもより高い高度を飛ぶことができるようになり、その後の開戦において、日独の空軍は、高高度から侵入するこうしたアメリカ軍の爆撃機の迎撃に非常に苦労しました。

この過給機を装備したことにより、B-17の高空性能は従来機に比べて大幅に改善されました。この技術は、後に自動車においても、いわゆる「ターボ」として応用されるに至っています。しかし、課題である燃料消費量は十分に克服することができず、このため重くなることを覚悟で大容量の燃料タンクを備えることでこれに対処しました。

次いでの「護衛を要しない」については、まず試作機では機銃が5丁も搭載されました。しかしこれでも足りないと判断され、後期型のG型では実に13丁の12.7 mm M2機関銃を装備するようになっていました。

護衛機にその防御を期待しない航空機を目指したため、機体主要部には重厚な防弾板が施され、これにより優秀な防弾能力・耐久力を持つようになり、その能力は敵の戦闘機の小火器程度での撃墜を困難にしました。

ただ、当初の防弾処理はまだ未熟であり、初期の開発段階ではイギリス空軍のハンドレページ ハリファックス爆撃機と比較して劣るような内容でした。このため改良に改良を重ね、太平洋戦争突入直前にはより重厚な防備がなされるようになりました。

こうした開戦直前から生産が開始されるようになったB-17・E型の防備能力は、戦争を通じてさらに大幅に強化され、また多数の同機を密集させ、編隊飛行させることでより防御火力の濃密化が図ることができました。
かなりの重装備が施されたことから、その総重量は25~29 tにも達しましたが、そのかわり最大速度は従来機のB-10の343km/hを大幅に超える426 km/hを達成し、2700 kg以上の爆弾を満載しての航続距離3219 kmを実現しました。

なお、B-17では従来型の照準器に改良を加え、新たな爆撃照準器も開発されましたが、この照準器は補正外の風や敵の投弾妨害によってあまり命中精度は良くなかったとも言われています。

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こうして次々とドイツ上空や太平洋上に向かってB-17は飛び立っていいきましたが、第二次大戦の開戦後に使用されたのは、「フォートレスII型」とされる上述のE型や、さらにこれを改良したF型こと、「フォートレスIII型」などでした。

アメリカの参戦後は主力爆撃機として活躍。主にイギリスを基地とした対ドイツへの昼間爆撃に従事しました。当初は、北アフリカに進出したドイツ軍の掃討などに兵力が分散されたため、ヨーロッパ内での本格的な爆撃作戦には参加しませんでしたが、1943年ごろからは、欧州内の昼間爆撃が本格化しはじめました。

フランスへの近距離爆撃で経験を積んでから、次第にドイツ本土への爆撃にも出撃するようになっていきましたが、その後戦闘を重ねるにつけ、いくら防御性能に関する改良を重ねても「護衛なし」という点だけは達成できないことが判ってきました。

このため、出撃にあたっては護衛戦闘機をつけることが多くなりました。ところがこのころ護衛戦闘機の多くはB-17に比べて航続距離が充分ではなかったため、やむを得ず爆撃機だけで編隊を組んで出撃することも多く、このためドイツ迎撃戦闘機により多数の損害を受けました。

1943年ころには10%を越える損害を出ていたといいます。しかし、B-17の編隊は密集隊形で濃密な防御砲火の弾幕を張り、ドイツ戦闘機隊の攻撃を妨害し、ときには逆に戦闘機を撃墜することもありました。

また、B-17は頑丈で優れた安定性を持つ機体であるため、エンジンがひとつや二つが止まっても、機体や翼が穴だらけになっても母基地のあったイギリスまで帰ってきたものが多数ありました。

撃墜されるということは、それだけ多くの搭乗員を失ってしまうことになり、たとえボロボロになっても搭乗員を連れ帰ることができるということは非常に重要でした。また、傷だらけになったB-17も補修をすれば再飛行が可能になるものも多く、戦力の消耗を防ぐことができるという意味でも非常に優秀な飛行機だったといえます。

しかも、1944年以降は、より長距離を飛ぶことができるP-51マスタングのような優秀な戦闘機が護衛として随伴するようになり、これによってB-17の損害は一気に減少していきました。

こうして、B-17は次第に多くの戦果をあげるようになり、都市への夜間爆撃を担当したイギリス軍のランカスター爆撃機以上に、ドイツの継戦能力を削ぐ立役者となりました。しかもその都度乗員たちを無事に基地に連れ帰ってくれるB-17は多くの搭乗員に愛され、「空の女王」という異名をも授かるようになりました。

このアメリカのB-17とイギリスのランカスターだけで、第二次世界大戦中に実に約60万トンの爆弾を投下したといわれており、これによってヨーロッパ戦線での形勢は次第に連合国側に有利になっていきました。

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一方、太平洋では日本軍との戦いが始まっており、ここにもB-17が投入されるようになりました。主にアメリカの植民地のフィリピンや、同じ連合国軍のオーストラリアに配備され、太平洋戦争中期まで活動しました。

ただ、太平洋戦線が始まった1941年当時は、アメリカ軍をはじめとする連合国軍は日本軍に押されっぱなしで劣勢だったこともあり、B-17もヨーロッパ戦線のような活躍は出来ませんでした。

このため、フィリピン、マニラ近郊のコレヒドール島などでB-17CやB-17Dなど複数の機体が日本陸軍に完全な形で鹵獲される、といったことも起きました。鹵獲(ろかく)とは、敵から奪った兵器をそのまま自軍の兵器にしたり、改良や改造を施して使用することです。

P-40ウォーホークやハリケーン、バッファロー、ロッキード・ハドソンなどの戦闘機も多数鹵獲されており、こうした機体は、日本軍によって南方で対大型重爆戦の攻撃訓練に使用されたほか、内地の陸軍飛行実験部に送られ研究対象にされました。

また、「敵機爆音集」と題し銃後の防空意識高揚のため高度別エンジン音と解説を収録されたり、羽田飛行場での鹵獲機展示会で展示された後、全国を巡回展示されたものもあったといいます。

このほか戦意高揚映画として製作され、1942年10月に公開された「翼の凱歌」では、映画の終盤において、鹵獲されたB-17が日本の戦闘機に攻撃される、といった戦闘シーンに使われました。

その後、戦争も中盤になるにつけ、次第に戦力を回復してきたアメリカは、日本が占領した各地にこのB-17で爆撃をしかけるようになり、日本軍もこの爆撃機に手を焼くようになります。

海軍が誇る主力戦闘機であった零式艦上戦闘機隊ですら、かなりてこずったようです。しかし、その後鹵獲された機体を飛ばし、これを教材として訓練を重ねた結果、次第に接近戦に持ち込めば撃墜する可能性もあることなどがわかってきました。

ただ、それにしても相当の反復攻撃を加えなければ落とせない爆撃機であることも判明し、その対応に日本側は苦慮したといいます。

ガダルカナル島攻防戦の第一線にあった、この当時の第六海軍航空隊の隊長は、零戦対B-17の対決を以下のように記しています。

「一般的にいってB-17とB-24は苦手であった。そのいわゆる自動閉鎖式防弾燃料タンクのため、被弾してもなかなか火災を起こさなかったことと、わが対大型機攻撃訓練の未熟のため、距離の判定になれず、遠距離から射撃する場合が多く、命中弾が得にくいからであった。」

「撃墜はしたが、それは主として零戦がしつこく、しかも寄ってたかって敵機を満身創痍という格好にしたり、またわが練達の士が十分接近して20ミリ銃弾を十分打ち込んだり、または勇敢な体当たりによるもので、尋常一様の攻撃ではなかなか落ちなかった。」

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その後、アメリカ空軍は、太平洋南東のパプアニューギニアにある「ポートモレスビー」を主たる基地として反撃をはじめ、ラバウルやブイン等の日本軍根拠地に対してB-17による爆撃を加えるようになりました。しかし、その後1942年から1943年になると、B-24がこの爆撃に参加するようになりました。

このころB-17は既にアメリカ陸軍の主力重爆撃機として定着し、その並外れた堅牢性で高い評価を受けてはいたものの、航続距離の短さが難点でした。

爆弾を満載して3200 km以上を飛べるというのはたしかに優れた性能ではありますが、行った以上は帰ってくる必要があるわけで、その半分の1600kmは太平洋のあちこちに散らばる日本軍の拠点を叩くためには不十分でした。

これに対してB-24はもともと飛行艇をベースに開発された輸送機であり、堅牢性ではB-17には劣りましたが、航続距離に優れ、その太い胴体断面を生かし、爆弾搭載量でも2300kg を積むB-17を凌ぎ、2700kgを積むことができました。それでいて航続距離およそ4200kmは大幅にB-17を超えていました。

この大きな機内容積と長い航続距離の組み合わせによって、B-24は高い汎用性を持つところとなり、このため次第にB-17装備部隊は順次B-24に改編されるようになり、より航続距離の短くて済む他方面に転出していきました。

さらに戦争後半になると、B-17の後継とみなされ、同じくボーイング社が開発し、超空の要塞(スーパーフォートレス、Superfortress)」と呼ばれたB-29が戦場に投入されるようになりました。

これにより、偵察や救難などに従事している機体を除きB-17はその姿を次第に消していき、偵察や救難などに従事していた機体もまた日本本土空襲を行うB-29の支援などを行うだけになっていきました。

しかし、第二次世界大戦を通じてのB-17はもっとも活躍した航空機のひとつといえます。戦中だけでなく、戦後も継続生産されて輸出され、こうして生産されたB-17各型の総数は12731機にのぼり、これは戦争後段で活躍したB-29の生産数3970機の3倍以上にもおよびます。

戦争中や戦争終結後も、アメリカやイギリス以外の国において配備され、これらは鹵獲に用いた日本やドイツを除いても19ヵ国にも及びます。ちなみに、この中には中華民国や
旧ソビエト連邦も含まれています。

が、戦後70年を経て現存する数は少なく、アメリカ本土では、ワシントン州の Museum of Flight に B-17F が、カリフォルニア州の Planes of Fame Air Museum に B-17G が2機展示されているのみです。

多くの日本人の命を奪ったであろう飛行機であり、爆撃機という忌まわしい戦争に使われた武器ではありますが、その美しい機体の永久保存を望みたいところです。

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