ニューヨーク港 1901年

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「ニュ-ヨーク港」とよく一口に言いますが、かなり広範囲に広がる港湾区域を指し、ぱっとすぐにその位置が言えるような単純なものではありません。

東京湾にある「東京港」は、湾岸一帯の地区をさしますが、ニューヨーク港の場合は、川やラグーンが複雑に入り組んでいて、その港湾空域は、ハドソン川河口近くにある川、湾および干満のある入り江などを指し、これらを集合的に「ニューヨーク港」と呼んでいます。しかし、アメリカ合衆国地理命名局では「ニューヨーク港」という言葉はありません。

とはいえ、歴史的、政治的、商業的にも「ニューヨーク港」と一括して使われることも多い呼称であり、一般に、ニューヨーク港という場合、主に以下の7つのエリアを指します。

1.ハドソン川
2.イースト川
3.ロングアイランド湾
4.ニューアーク湾
5.アッパー・ニューヨーク湾
6.ローワー・ニューヨーク湾
7.ジャマイカ湾

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ローワー・ニューヨーク湾の外には広い海原が広がり、これは大西洋です。その先およそ3000海里、5600kmの海路を経て、ヨーロッパ大陸に至ります。

逆に外海から湾内に入ってくるとそこには複雑な港湾区域が広がっており、これらの各地区には「水路」がめぐらされていて、ニューヨーク港はこれによって成り立っているといっても過言ではありません。その水路面積は、現時点で約1200平方マイル (3100 km2)に及び、また海岸(河岸)線の総延長は、1000マイル (1600 km)以上に及びます。

ニューヨーク市のすぐ西隣はニュージャージー州となっていて、その港湾区域の一部は同州の一部にもなっており、ニューヨーク市5区とニュージャージー州近郷都市の岸辺を含んだものがニューヨーク港であり、時には「ニューヨーク&ニュージャージー港」といった表現もされることもあるようです。

このため、ニューヨーク港には12の個別に活動する港湾施設がありますが、これはニューヨーク州とニュージャージー合同で創設された港湾公社の港湾施設として管理運営されています。

合衆国では最大の石油輸入量と2番目のコンテナ取扱量を誇っています。しかし、近代における航空機の発達により、ニューヨーク港は旅客輸送の点では重要性を失ってきました。

このため、かつてのように大西洋を渡ってヨーロッパへ船出する旅客船などはめっきり減りましたが、それでも今なお、ニューヨーク市域を巡る幾つかの定期航路が生き残っています。

このほか、通勤用フェリーおよび観光客用周遊船もニューヨーク港内を巡っており、最近、ブルックリンのレッドフックには新しい旅客施設も開館しました。これらのフェリーは大半が私企業によって運営されています。(但し、スタテンアイランド・フェリーはニューヨーク市運輸局が運航)。

なお、ニューヨーク港を管理する港湾公社は、ニューヨーク市にある、ラガーディア空港とジョン・F・ケネディ国際空港、とニュージャージー州川のニューアーク・リバティー国際空港の主要3空港を運営しており、現在では船による旅客収入よりもこちらの空の港から得る収入のほうが多くなっているようです。

このニューヨーク港の歴史ですが、その昔、17世紀には先住民族であるレナペ族とう部族が住みついており、彼らが漁労や移動のために築いた、小さな水路がありました。これを港といえるかどうかはわかりませんが、ここを最初に訪れたと記録があるのが、現在ハドソン川にその名を残すヘンリー・ハドソンです。

イングランドの航海士、探検家で、北アメリカ東海岸やカナダ北東部を探検しました。ハドソン湾、ハドソン海峡、ハドソン川は彼の名にちなみますが、ハドソン湾発見後に、乗組員の反乱に巻き込まれ、そのまま消息不明となりました。

ハドソンがニューヨークを発見したのは1609年のことで、その後15年経た1624年から本格的な恒久的開拓地が始められました。間もなくこれらの場所の間を渡し舟が結ぶようになり、イーストリバー下流のマンハッタンの岸に風や氷から守るために桟橋が築かれました。

この桟橋は1648年に完成しており、ここはその後1783年にアメリカ合衆国が独立したあとに本格的に拡張されるようになり、現在のニューヨーク港の礎となりました。

1824年、アメリカでは初めての乾ドックがイーストリバーに完成し、ここで外洋にも出ることのできるような高性能の蒸気船が建造されるようになると、急速にニューヨーク港は発展していきました。続いて1825年のエリー運河の完成で、ニューヨークはアメリカ内陸部とヨーロッパおよびアメリカ東海岸を結ぶ最も重要な中継港にもなります。

1840年頃までに、ニューヨーク港を経由する旅客と貨物量はアメリカ全土の他の主要港を合わせたよりも多くなり、1900年までに世界でも最大級の港となりました。

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冒頭の写真は、ちょうどそのころのものであり、手前右側に停泊している2隻は帆船です。が、その後ろの倉庫群の合間には、蒸気船の煙突が数多く見て取れるほか、湾岸道路沿いに古式ゆかしい荷馬車が多数行き来しています。

その向こうに見えるのはイースト川に架かる1883年に完成したブルックリン大橋のようであり、その位置関係からこの写真は、ニューヨーク港南側のアッパー・ニューヨーク湾付近から北西側に向けて撮影されたものと推定されます。

このころニューヨーク港が急速に発展していったことを想像できる活気のある写真であり、これが撮影されたとされる1900年を挟み、1892年から1956年の間にはヨーロッパから1200万人もの移民がニューヨークに到着したとされています。

その後、ニューヨーク市内には次々と道路がつくられましたが、こうした主要道路の建設によって効率的な輸送が行われる前には、外部から着た貨物は水路を通って渡し舟で市内各地に運ばれていました。

これと同時にアメリカ大陸内には東部を中心に鉄道網が張り巡らされるようになってきており、内陸から運ばれてきた綿花や麦といった農作物はこれらを輸出するために列車を使ってニューヨーク港に集積されました。

こうした列車から積み出された貨物を転がして効率的に船積みできるよう甲板にレールを敷いた「列車いかだ」といった、小さな船が考案され、これを湾上に並べて船までリレーする「小船隊」などが開発されました。

また、大きな船は水路を鋭角に回る時に小型船の助力を必要としたため、これを助ける「タグボート」が考案され、さらには河川や運河などの内陸水路や港湾内で重い貨物を積んで航行するため平底の船舶がつくられるようになりました。これは現在「艀、(はしけ)」として知られているものです。

さらに、総計240マイル (380 km)にも及ぶ狭い水路を通り、ニューヨーク港内の奥にまで大型船舶を航行させるためには、水先案内人が必要となります。

多数の船舶が行き交う港や海峡、内海において、それらの環境に精通することが困難な外航船や内航船の船長を補助し、船舶を安全かつ効率的に導く専門家のことで、現在では国家資格である、水先人免許の取得が義務付けられている職人です。

現在における水先人は、港や狭い水路に近付いてきた大型船か、またはこれから離岸する大型船に直接乗り込み、船橋に立ってその船の行先を誘導することが職務です。このためには、小型船で目的の船まで移動しなければならず、この行き帰りに使用する小型船を「水先案内船」(パイロット・ボート)と呼びます。

しかし、この時代にはまだこうしたパイロット・ボートは自らが先を航行し、大型船を先導して安全な航路に誘導していました。その多くは下の写真のように帆船であり、この写真でもわかるように、ひと目でどこの所属かわかるように番号や記号などがその帆に描かれていました。

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パイロット・ボート

その後ニューヨーク港は、第一次、第二次大戦を経て、大西洋を横断する物資の集積地として発達していきましたが、港の活動はこの第二次大戦のころがピークであり、750の桟橋に425隻の外洋型船舶が横付けし、500隻以上が港内に停泊して係船への割付を待っていました。

港内各所には1100の倉庫と1.5平方マイル (3.8 km2)という広大な荷捌きヤードを擁し、575隻のタグボートと39箇所の造船所があったと、記録にはあります。また、1801年にはニューヨーク海軍造船所が建造されており、ここで生み出された数々の軍艦もニューヨーク港内にその威容を示していました。

ところが、この隆盛を極めていたニューヨーク港は、二次世界中、ドイツのUボートによる度々の攻撃を受け、大きな被害を出しました。1942年の1月から8月にかけ、ドイツ側の作戦名「ドラムビート」作戦においては、明確な総数はわかりませんが、おそらくは20隻以上のUボートが、3度にわたって、ニューヨーク港を襲いました。

これに先立つ1940年から41年にかけて、Uボートはイギリスやフランスの港湾を襲撃し、多数の商船を沈没させており、ドイツ海軍には大きな被害もなく、極めて戦果が大きかったことから、この作戦は連合国側からは「第一次ハッピータイム」と呼ばれました。

これに次ぎ、大西洋を渡ってニューヨーク港を襲撃し、第一次以上の戦果をあげたこの作戦は、「第二次ハッピータイム」と呼ばれました。Uボートの艦長はニューヨークの町の灯りを背景にして浮かび上がる標的船に容易に狙いを付けることができ、港内にアメリカ海軍の艦船が集中していたにも拘らず、少ない損失で攻撃を実行することができました。

この三波に渡る攻撃による被害は膨大のものとなり、この間に失われた貨物量は、第二次世界大戦を通じてニューヨーク港で扱われた総貨物量のおよそ4分の1にも達しました。最初の攻撃だけでも、3~4万トンクラスの貨物船が4隻、7000トンクラスが1隻沈められ、ほかにも10に上る船舶が炎上しました。

この最初の攻撃は、「2番目の真珠湾」とも呼ばれ、このときの合衆国艦隊司令長官、アーネストJ·キングには大きなが批判の声が寄せられました。

しかし、それにもかかわらず効果的な対策はとられず、その後、二波、三波の攻撃も行われましたが、その度に損害は増し、結局8月までの7か月間に大小合わせて609隻もの船が沈められ、310万トンの貨物と数千人の命が失われました。

事態を重く見た合衆国政府は、ヨーロッパの他の連合国とも連携してこのUボート掃討作戦を開始し、その後アメリカ海軍自らの手で確実に海底に葬ったとされるものが9隻、これを含めておそらく撃沈されたとするものの総数は22隻に上ったとされています。

しかし、失われた貨物や人命に比べればドイツ軍側に与えた損害はあまりにも寡少であり、それだけドイツ側にとってはおいしい作戦であったために「ハッピータイム」と呼ばれたわけです。

この当時のニューヨーク港は、ヨーロッパの連合国側へ送る物資が集中しており、主要積み出し点であったためにドイツ側には効率良い攻撃ができたわけです。また合衆国政府は、戦禍の中心地はヨーロッパであって、アメリカ本土は大丈夫、と踏んでいたきらいがあり、適切な護衛船が配備されていなかったことも被害を大きくした要因でした。

さらに、多数の貨物船を護衛の軍艦で守りながら集団で移動させる、護送船団方式という方式にも問題があり、船団を形成するために一度に多数の船舶をニューヨーク港に停泊させたことも被害を拡大させた原因でした。

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このように第二次世界大戦当時のニューヨーク港は、ドイツに狙いうちされるほど世界でも有数な港であったわけですが、戦後は航空や自動車に押され、現在はさすがにそのころの隆盛ぶりはありません。しかし、なおも多数の船舶が出入りする世界的にも大きな港であるには変わりはなく、その維持管理も欠かせません。

とくに、港というものは、潮汐の干満や海流などによって外海から土砂が流れ込むものであり、また、ハドソン川のような大きな川からは川砂が流入してきます。このため、これらの土砂が徐々に堆積していくため、港内の水路や航路は、常に浚渫によりその深さを一定に保つ必要があります。

こうした港内の水深管理は、アメリカでは、「陸軍工兵隊」という特殊部隊の管轄とされており、この工兵隊は、日本でいうところの国土交通省の工事事務所のような役割を担っています。こうした港湾整備だけでなく、アメリカ全土の道路やダム、河川などの洪水対策をも受け持っている総合技術部隊でもあります。

ニューヨーク港の元々の自然の水深は約17フィート (5 m)ほどでしたが、1880年にこの工兵隊が水深を管理するようになってからは、約24フィート (7 m)まで掘り下げられ、さらに1891年までには、主要船舶航路はその水深が30フィート (9 m)にまでなりました。

第二次世界大戦のときには、さらに大型の船舶に対応させるために主要水路の水深を45フィート (13.5 m)にまで掘り下げ、さらに現在はその水深を50フィート (15 m)にするべく、工事が進められているといいます。

しかしここまで掘り下げると、岩層にまで達する場所も多くなり爆破が必要になります。爆破によって出た岩石の処理も必要となり、岩を運び出して廃棄処理する特殊船舶の開発や、廃棄場所の確保も必要となり、かなり大がかりな事業となります。

それでも現時点で約70カ所でこうした掘削が続けられているといい、世界でも類例のない、大規模な浚渫船隊が形成されているとのことです。ただ、この作業は時として騒音や振動を生むため、とくに港内西部にあるスタテンアイランドなどの住人からは苦情が寄せられているといいます。

しかし、そうした騒音公害以上に、ニューヨークっ子を震撼とさせたのが2001年9月11日に発生した、同時多発テロです。このときとくにニューヨーク港の施設に被害が出たわけではありませんが、目と鼻の先のワールドトレードセンターなどが破壊されたことから、その後港内の警備も一段と厳しくなりました。

そうした矢先の、2006年、ニューヨーク港の港湾施設の管理運営を委託されていたイギリスの船会社であるP&Oが、アラブ首長国連邦の港湾管理運営会社であるドバイ・ポート・ワールド(DPW)に売却される、という事件が起きました。

P&Oはニューヨーク港だけでなく、ニューアーク港、フィラデルフィア港、ボルチモア港、ニューオーリンズ港、マイアミ港といったアメリカ東海岸の主要港でコンテナターミナルを運営しており、その運営会社がイギリスだということで、アメリカ人の誰しもが安心しきっていました。

ところが、多角化路線が祟って関連企業の売却などを余儀なくされ、最近では海運・輸送業に資源を集中する決定を行って再建を急いでいましたがやはり経営は思わしくなく、そこへその買収を申し出たのがDPWでした。

DPWの属するアラブ首長国連邦は、アメリカとは友好関係を築いており、アラブ世界の中でも最もアメリカに親密な国のひとつです。が、現在大きな問題となっているシリアやイスラム国などと同じくイスラム教を尊守する国であり、当然この買収はアメリカ合衆国で激しい反発を招きました。

P&O買収は、アメリカ政府の各省の委員で組織する委員会で審議され一旦は了解されていました。しかし港湾の運営がアラブ首長国連邦の企業に移ること、またこの国がこれまでもアルカーイダメンバーの資金集めや人材供給の舞台となってきたことなどを共和党や民主党の下院議員が問題視し、激しく反発しました。

ところが、この当時のジョージ・W・ブッシュ大統領は、この取引を無効にすることは誤ったシグナルを米国の友人に送ることになるとして議員らに拒否権を発動することを警告し、政府内からもアラブ首長国連邦は親米国家であり米軍のペルシャ湾展開の基地ともなっている、とDPWの経営取得を支持する声が上がりました。

しかし2006年2月には議会とホワイトハウスの間で緊張感が高まり、投資の自由を優先するか米国のインフラの防衛を優先するかでメディアや論者を巻き込んだ争いになりました。

3月初旬にはDPWがアメリカ国内での港湾運営を米国資本に売却すると説明したことが明らかになり、結局DPWはアメリカの港湾部門をアメリカ企業、AIG傘下の資産管理会社に売却して撤退しています。

このように世界屈指の港といわれるニューヨーク港もまた、アメリカの中にありながら、アラブ社会の影響を受けているわけであり、いわんや多数のアラブ系の移民を抱えている合衆国という国の矛盾やジレンマはそうそう簡単に解消されることはありません。

かつての第二次大戦のドイツからの攻撃のように、アラブの過激派から再びこの地が襲撃されるのではないか、という不安をニューヨークっ子は払しょくできずに今日も過ごしていることでしょう。

我々日本人としては第三の真珠湾攻撃と呼ばれるような悲劇が二度と引き起こされぬよう、祈りたいところです。

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