操車場とは、鉄道における「停車場」の一種で、貨物列車などの組成・入れ替えなどをおこなう場所です。英語では、「ヤード」といいます。
なぜ、組成の変更や入れ替えが必要か。これは、例えば旅客列車のことを考えてみてください。あなたが行きたいと考えている目的地までの直行列車がない場合に、どうするかといえば複数の列車を乗り継いでいくことになるでしょう。
同様に、貨物も目的地までの直通列車がない場合、複数の列車のリレーによって輸送されますが、これを「継送」といいます。ところが、この継送において、ある駅からさらに複数の目的地を目指してその貨物が分配される場合は、その駅で貨車を複数の別の機関車につなぎかえる必要が生じます。
こうした操作を行う駅のことを、「組成駅」といいますが、この組成駅から分岐する先の目的地の数が多くなればなるほど、車扱貨物の継送のための貨車の組みかえは大変になり、大規模な操作が必要になります。
すなわち、この駅では、異なる方面から到着した複数の貨物車両を「分解」し、行き先の方面を同じくする貨車ごとに「仕分け」し、異なる方面に向かう複数の列車を「組成」するわけです。これを行うのが、「操車場」です。
長い鉄道の歴史においては、初期のころにはそうしたものは必要ありませんでしたが、のちに貨物量が著しく増え、従来の「組成駅」の機能がこうした大量の輸送量の増加に対応できなくなっため、一連の作業を専門におこなう施設として、より大規模な「操車場」が設けられるようになりました。
この操車場においては、到着線についた貨物列車から切り離された貨車は、まず「転送線」という線路に送られます。この「転送線」には、多数の分岐器が供えられており、これによって、貨車はそれぞれの目的の「仕分線」に送られ、これらの貨車はそこから目的別に別れていく、という仕組みです。
操車場には、大きく分けて3つのタイプがあります。平面ヤード、ハンプヤード、重力ヤードの3種類です。
平面ヤードというのは文字通り、平面上に貨車を集めるタイプであり、どちらかといえば小規模な操車場です。また、ハンプヤードというのは、操車場の真ん中に小高い丘を設け、ここに集めた貨車をその周囲の平坦地にころがり落として分配する、というタイプで比較的大きな操車場です。
ハンプヤードは、通常広大で平坦な場所ある場合に造られ、これはアメリカのように国土が広いところではいくらでも作ることができます。
ところが、ドイツやイギリスのように国土が狭い国では、地形の問題からハンプヤードを設けることが困難なところも多く、ハンプヤード周辺に平坦地は設けることができません。従って操車場全体がハンプだけ、というのが重力ヤードです。
順を追って、その「仕分け」の特徴をもう少し詳しく見ていきましょう。まず、平面ヤード。これは、平面上に並んだ仕分線を備え、重力による貨車の転走を行なわない操車場です。
まず専用の機関車によって転送線に押し込まれた貨車は、次に分岐器(スイッチャー)によって目的の仕分線に押し込まれます。この「分岐器」は分解を目的の仕分線に導くように、レールの向かう方向を切り替えることができる装置です。
転送線に入った貨車は、「突放入換(つきはなしいれかえ)」によって仕分が行なわれることもあります。この方法ではまず、居並ぶ貨車の列の間に入換を行うための機関車が入り、その前後を連結器でつないで、徐々にスピードをあげて列車全体の速度を加速します。
そして、一定の速度に達したら、機関車とその前を走る貨車の間の連結器を解放し、その直後に機関車は急ブレーキをかけます。これを「突放(つきはなし)」といいます。その名の通り、解放された連結器より先頭の貨車の一群は、慣性で走り続けます。そしてスイッチャーによって、所定の仕分線に入ります。
一方、この突き離された貨車には作業係(連結手)が添乗しており、彼は突放された貨車のブレーキを操作し、貨車を仕分線内の目的の位置に停止させます。
これを繰り返すことで、順番に貨車を仕分けしていくわけであり、多少の手間はかかりますが、単純な作業で仕分けができます。が、貨車の数が増えると手間が膨大になるため、比較的小規模な操車場に向いている方法です。
アメリカにはこうした中規模な平面ヤードが多数つくられましたが、大規模な操車場でも平面のものもあり、現在も使われています。
ヨーロッパでも比較的大規模な平面ヤード我を持っている国があり、これらはイタリア、スイス、ルーマニア、といった国々です。なお、南米のアルゼンチンではほとんどすべて平面ヤードであり、中には30以上の仕分線を持つものもあるといいます。
ついで、ハンプヤード。これは前述のとおり、人工の丘「ハンプ」を備え、ハンプから貨車を転がし落として仕分線まで動かす操車場です。機関車による突き放しが必要な平面ヤードと異なり、重力落下で転送させるため、より効率的に作業が行えます。
ハンプの造成も含め、大規模な操車場となりがちですが、その分、仕分の効率は最も高く、操車場によっては一日数千両におよぶ貨車を仕分けすることもできます。
到着線に入った列車は、まず貨車をそれまで引っ張ってきた機関車が切り離されます。その後、入換用の機関車が推進運転して2km/hという微速で貨車をハンプに押し上げます。
貨車がハンプ上のヤードに達すると、その編成は目的地別に切り離され、それぞれ機関車に押され、スイッチャーを使って、目的の仕分線までハンプの下り勾配を重力でもって滑り落ちていきます。
このように、ハンプの上で貨車を目的地別に仕分線まで切り離して、目的の仕分線に押しこむこの作業を「分解」と呼びます。こうして分解され、ハンプの上から下の平坦ヤードにある仕分線に落ちた貨車は、そこで機関車に連結され、それぞれの目的地へ向かう長い旅に出る、というわけです。
と、このように言葉にすれば簡単ですが、この分解作業においては、仕分線に送り込まれるそれぞれの貨車が既に仕分け線に入って停止している貨車に激突したり、仕分線の先にある端までオーバーランしたりすることのないように細心の注意を払った制御が行われなければなりません。
かつて日本に操車場が存在していたころは、その安全連結速度は7km/h以下と厳密に規定されており、現在のアメリカにおいても同等の基準があります。日本やアメリカ合衆国の旧式な操車場においては、熟練した連結手が貨車に搭乗しており、手ブレーキや足ブレーキを操作することで、これらを微妙にコントロールしていたといいます。
その昔、ヨーロッパの操車場においては、鉄道員が「制動靴」なるものを履き、これで貨車にブレーキをかけていたそうですが、想像するにこれは、この靴の裏やかかとで直接レールを押さえ、制動をかけていたのでしょう。
ただし、最近のハンプヤード式の操車場には「カーリターダー」というものが備えられています。これは、ハンプから仕分線に向かう途中の軌道に設置されているもので、油圧または空気圧によって車輪の側面にシューを押し付けて貨車を減速させます。
自動車やバイクのディスクブレーキと同じシステムであり、空気圧で操作するものはアメリカ合衆国、フランス、ベルギー、ロシア、中国などの国で多く、油圧で操作するものはドイツ、イタリア、オランダなどだそうです。
初期のカーリターダーは、鉄道員が操作する弁によって調節されましたが、最新のカーリターダーは、コンピュータによって自動制御されます。
このコンピュータは、貨車と積荷の重量、貨車の進行方向投影面積、仕分線までの距離、風向、風速などの条件に応じて、貨車が仕分線まで転走するのに必要十分な初期速度を計算し、カーリターダーを制御できるといいます。
最後の重力ヤードですが、上述の通りこれはハンプヤードを設けるほどの場所がない、比較的土地が狭い場所に設けられます。ほとんどの重力ヤードはドイツとイギリスにあり、他のヨーロッパの国にも少数があります。アメリカ合衆国では重力ヤードは古いものがごく少数あるのみであり、現在使用されているものはないようです。
その仕分け方法はハンプヤードと同じですが、ハンプの勾配が急になるのと、その先の平坦地がないため、連結手にはより高い技量が必要になるとともに、カーリターダーにもより高い性能が期待されます。
重力ヤードの仕分け能力はハンプヤードと同等といえますが、その作業において、多くの人員が必要となるため経済性で劣る、といわれているようです。現在使用されている重力ヤードのうち最大のものはドイツのニュルンベルク貨物駅です。
さらに、平面ヤード、ハンプ、重力も含めた上で世界最大の操車場はアメリカ合衆国ネブラスカ州ノースプラットのベイリー操車場です。これはユニオン・パシフィック鉄道が有するハンプヤードです。その他のアメリカ合衆国の大規模な操車場もほとんどがハンプヤードのようです。
冒頭の写真は、おそらくはシカゴのClearing(クラーニング)操車場と思われ、これもハンプヤードです。何台もの機関車が蒸気を上げて居並ぶ貨車連を運ぶ際中の様子です。さらにこの写真の外側には、ハンプの周辺の坂があり、その先には目的とする仕分線があるはずです。
なかなか壮大な光景ですが、現在のように蒸気機関車そのものが姿を消している時代ではこうした光景はもう見ることはできません。
ヨーロッパ、ロシアおよび中国などでも、重要な操車場は、すべてハンプヤードです。ヨーロッパ最大のハンプヤードはドイツ、ハンブルク近郊のマッヘンであり、これはアメリカのベイリー操車場よりわずかに小さいのみです。
しかしながら、貨物輸送の鉄道から道路への移行や、鉄道貨物のコンテナ化により、ハンプヤードは減少傾向にあるようです。例えばイギリス、デンマーク、ノルウェー、日本およびオーストラリアでは、すでにすべてのハンプヤードが閉鎖されています。
貨物輸送における操車場中継方式の欠点はその仕分け作業にかかる時間が不確定なことです。発駅と着駅が異なる貨車を操車場で仕分ける作業には時間がかかることも多く、操車場に入れることのできる貨車の数が許容量を越えれば、貨車を牽引した次の列車が操車場に入ることができません。
このため、発駅から着駅まで直行する列車と異なり到達時間が予測できにくく、これが操車場が減っている理由です。日本と同様な貨物輸送の条件下にある外国と比較した場合、操車場中継方式を続けている国では貨物輸送量は確実に下降線をたどっているそうです。操車場形式はもはや大量の貨物輸送には向いていない形式とみなされているわけです。
日本においてもかつて多数の操車場がそれも各地に存在しました。ただ、1872年(明治5年)に開業した当時の日本の鉄道では、官設鉄道と私鉄はそれぞれの線区でのみ貨車を運用しており、各鉄道間をまたいで貨車を分岐させる必要はありませんでした。
ところが、1907年(明治40年)に私鉄が国有化されたことを機に貨物輸送体系の見直しが行われ、官設鉄道から私鉄へ、またその逆のルートで貨車がやりとりされるようになったため、大正期までには各地に操車場が設置されるようになりました。
それまで駅構内の付属施設(仕分線)にて行われていた貨車の入換および貨物列車の組成作業を専門に行い、かつ広大な作業場を備えた操車場の建設が行われるようになり、稲沢操車場(愛知県)や吹田操車場(大阪府)、田端操車場・品川操車場(東京)などが造られましたが、これらはいずれもハンプ式でした。
その後、日中戦争や、太平洋戦争などにも軍事物資輸送のために貨物量が増大したため、多数の操車場が各地に造られ、戦後も、1970年代まではこうしたヤード継走式の貨物輸送が中心でした。
ところが、1960年代以降、日本国内でもモータリゼーションが進むとともに、高速フェリーの就航、さらには航空機の普及に伴い、特に貨物における鉄道輸送量は大きく減少していきました。
自動車に比べ小回りが利かず、駅で積荷の積替えを要すること、その上操車場での入換作業を要するがために到着までに時間がかかることや、いつ到着するかが極めて不明確であること、さらに度重なる運賃の値上げ、労組間の対立に伴い頻発するストライキによる信頼低下などがシェア低下の要因でした。
さらに1959年(昭和34年)からはコンテナ専用列車が定期的に走り始め、それまでは鉱山から工場、工場から港湾などに限られていた直行輸送がコンテナによってあらゆる貨物輸送の主流となることが明らかになると、操車場系輸送の落日は目に見えてきました。
JRの前身である旧国鉄は、コンテナ輸送の拡大と並んで、操車場の近代化・効率化も同時に推進し、コンピューターによる貨車仕分けの自動化や、無線操縦機関車、上述のカーリターダーなどの最新式の装置を導入しました。
しかしそれでも貨物輸送が減少し続け、国鉄全体の収支も悪化したため全国の操車場を近代化する計画は頓挫してしまいました。こうして1978年や1980年の国鉄ダイヤ改正では、大幅に貨物列車が削減され、そして1984年のダイヤ改正には、ついにヤード継走式輸送は全廃されました。
以後、国鉄そしてJRの貨物輸送はコンテナや企業の私有貨車による直行輸送のみとなり、今日に至っています。不要になったこれらの操車場の多くは、都市中心部もしくは都市近郊にあったため、その後はそれぞれの年の駅周辺再整備計画などによって商業施設や公園、はたまたスポーツ施設として活用されるようになっています。
各地にあったこうした操車場には、「貨物ターミナル駅」という名称の貨物専門の駅も存在しましたが、その一つに「広島貨物ターミナル駅」というのがありました。
これは、現在の広島駅の東側にあった、東広島操車場の名残であり、この操車場は1916年(大正5年)に開業しました。しかし、この操車場も貨物減少によってその必要性が問われ、1984年2月1日に機能停止、1995年に跡地に東広島駅の貨物設備が移転、広島貨物ターミナル駅となりました。しかし、現在では当駅への出入りはできず、運行時刻表にも当駅の欄はありません。
つまり、全貨物列車がここを通過するだけであり、この駅からは芸備線というローカル線が分岐していますが、現在はこの路線と山陽本線の単なる分岐、という扱いだけになっています。
そして今や有名無実となったこの駅の隣に広がる旧東広島操車場の跡地には「MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島」が建設され、2009年にオープンしました。日本プロ野球・セントラル・リーグの広島東洋カープの本拠地球場として、使用されている球場であり、その昔、これより西側の広島中心部にあった旧球場から移転してきたものです。
私もまだこの新球場に行ったことがありませんが、子供のころによく見た、この球場ができる前の広々とした操車場の跡地の様子だけは覚えており、今にして思えばあぁあれがかつては操車場というものだったのか、と少々の驚きを持って思い出したりしています。
今年はその広島に大リーグから戻ってきた大物選手も加わり、カープファンにとっては久々の優勝に向かって夢が膨らむ一年になりそうです。
無論、私もカープファンであり、応援したいと思います。みなさんもぜひ、このブログを見た機会にカープファンになってやってください。