写真の女性は、アメリカの従軍看護婦で、アメリカのナイチンゲールとも言われた、フランセス・ブロックという人です。
この写真が撮影された1943年当時、ワシントンD. C.の陸軍メディカルセンターの所属で、中尉の肩書を持ち、アメリカでは最も尊敬に値する、といわれるほどの高名な看護婦さんだったようです。
戦時中はアメリカ国内だけでなく、戦地である外国でも勤務が長く、氷に閉ざされた極地や熱帯の南島など、星条旗が翻るところにはどこでも出かけ、負傷者や病人のケアをしたといいます。
詳しいプロフィールはよくわかりませんが、この当時40歳くらいだったとすると、戦後70年経っているわけであり、おそらくは現在はもうお亡くなりになっているでしょう。
こうしたアメリカ陸軍における従軍看護婦制度の歴史は古く、1775年には既に男女の従軍看護師が軍の活動に従事していたといい、米西戦争での従軍看護婦の活躍を契機に、1901年に陸軍看護軍団(Army Nurse Corps)が創設されました。
1914年に始まった第一次世界大戦では、アメリカがこの戦争に参戦した1917年時点で約4000人の従軍看護師がいたそうですが、その翌年の1918年には、これが21000人以上に膨れ上がったといい、うち約半数がフランスや病院船での海外任務に従事していました。
しかし、戦争の真っただ中に出かけていくわけであり、危険と隣合わせの命がけの勤務であり、この大戦中には約270人もの従軍看護婦が亡くなっています。
冒頭のフランセス・ブロック中尉も参加した、第二次世界大戦でも第一次大戦のときと同じように戦争始めと終わりでは著しい従軍看護婦の人数の差異があり、1941年末の参戦時には約7000人にすぎなかった従軍看護師が1945年までには57000人以上になっていたといいます。
地上にあって戦線後部で勤務するだけでなく、救護用の航空機に搭乗して最前線に出る従軍慰安婦も多数いたそうで、こうした出動は1万回ほどもあったといい、その成果として患者の死亡を5件に抑えることに成功した、と記録にはあります。
しかし、この戦争でも多くの従軍看護婦が危険にさらされ、とくに日本側が、「比島作戦」または「M作戦」と呼んだ、通称「フィリピンの戦い」では多数のアメリカ人従軍看護婦が捕虜になりました。
この戦いは、1941年12月に日本軍がアメリカに宣戦布告したのちフィリピンに攻め入り、その拠点であったコレヒドール島を攻略したときに起こったものです。
このときアメリカ極東陸軍の指揮官は、ダグラス・マッカーサー将軍であり、ちょうどこのコレヒドールに司令部を置いて防御戦闘を指揮していましたが、大統領の指令により1942年3月に家族やマニュエル・ケソンフィリピン共和政府大統領らと共にオーストラリアへと逃れました。
残されたコレヒドール島の守備隊は残って果敢に日本軍と戦い続けましたが、1942年5月になって降伏し、そのとき一緒にいた従軍看護婦67名が捕虜になりました。
その後3年間に渡り彼女たちは拘束され続けていたようですが、1945年になり戦況がアメリカを含む連合国軍に有利に逆転すると、マッカーサーはアメリカ軍やオーストラリア軍によりフィリピンの日本軍を圧倒しました。
マッカーサーもまた多数の看護婦たちが捕虜となっていたのを知っていたようで、このためコレヒドール島奪回にとくにこだわっていたといい、1945年2月に第503空挺連隊戦闘団の空挺降下作戦により再占領に成功すると、彼女たちも無事解放されました。
しかし、別の戦いでは多数の犠牲者も出ました。第二次世界大戦の末期にイタリアで起こった戦いなどがそれであり、これはイタリア中西部の町アンツィオで起こったものです。
連合軍のアメリカ陸軍少将ジョン・ポーター・ルーカス司令官に指揮された連合国軍が、この当時イタリアとの同盟を口実にローマを初めとする各地を占領していたドイツを追い出すべく、その戦略的な拠点としてこの街の奪還に挑んだものですが、ここを守備していたドイツの陸空軍と激しい戦いとなりました。
のちに実施される、ノルマンディー上陸作戦に次ぐ大規模な戦いであり、1944年1月22日、36000名の兵と3200両の車両が海岸に上陸し、上陸作戦は開始されました。これに対してドイツ軍はおよそ40000人の戦闘員で対処しましたが、この戦いは天王山になると見た両軍はさらに戦闘員を増強しました。
1月29日までに、アメリカ軍第45歩兵師団と第1機甲師団を含む部隊が上陸し、海岸堡の兵力は合計で69000名にまで膨れ上がりましたが、さらに2月3日までには76400人になりました。これに対してドイツ軍も負けてはおらず、当初71500名まで戦闘員を増やしましたが、最終的にはその兵力は2個軍団およそ10万名にものぼりました。
当然激しい戦いとなり、各地の戦線において、ドイツ軍は5400名、連合軍は3500名の損害を出し、最初の上陸以来両軍の損害は20000名に達するまでになりました。
この戦いの最中、連合国側の兵士たちを背後で助けていた従軍看護婦は、自らも防空壕を掘って患者の保護にあたりましたが、激しい戦闘の中で、看護婦たちの中にも命を落とす者は次第に増え、最終的にその戦没者は215人にものぼりました。
この戦いでは、連合国軍はその後苦しみながらも各地でドイツ軍を打ち破り、最終的には占領されていたローマを解放しましたが、連合国側が行ったこの作戦は逆にドイツを奮い立たせたとのではないかという評価もあり、その犠牲者も多かったことも後世では批判の対象になりました。
このほかにも、アメリカ陸軍看護軍団の従軍看護婦たちは第二次世界大戦中に各所で活躍しましたが、この戦争が終結したあとも、その活躍は続き、朝鮮戦争やベトナム戦争、湾岸戦争などでも従軍看護婦が現地で活動しています。無論、現在までもその活動は続いており、軍事活動のほか、自然災害時の救護など人道活動にも従事しています。
こうした従軍看護婦制度は、無論、日本にもありました。日本で従軍看護制度が始まったのは明治20年代と言われ、1890年(明治23年)に設立された「日本赤十字社看護婦養成所」を卒業した10名が、その嚆矢といわれます。
一昨年の大河ドラマ、「八重の桜」で有名になった、「新島八重」も初期のころの従軍看護婦の一人であり、1891年(明治24年)、篤志看護婦になり、3年後の1894年には日赤の広島予備病院で看護婦取締を託されています。このころの篤志看護婦は、八重のような上流階級の女性が多かったといいます。
この看護婦養成所を卒業した者は、平時には日赤病院その他に勤務し、戦時招集状が届けば、いかなる家庭の事情があろうとも戦地に出動するのが原則であったといい、事実、太平洋戦争時には、産まれたばかりの乳飲み子を置いて、招集に応じた看護婦も少なくなかったといいます。
日清戦争において、はじめて日赤看護婦が陸海軍の病院に招集され、活躍をしたため、当時のマスコミは、その壮挙を大いにたたえ宣伝したため、多くの国民にその存在が認知されるところとなりました。
この戦争でも4名の看護婦が殉職していますが、戦地で亡くなったのではなく内地勤務であの死亡で、伝染病罹患による病死であったそうです。しかし、「軍務」についていたということで高く評価され、日清戦争後の論功行賞においては、亡くなった看護婦は無論のこと、招集された日赤看護婦全員が叙勲の対象になりました。
これをまたマスコミが称えたことから、このころから日本における従軍看護婦という職業は、新しい時代の女子の職業として大いにその人気が高まるようになりました。
こうした日清戦争における従軍看護婦の活躍から、日露戦争中の従軍看護婦の扱いは、格段に高くなり、とくに看護婦長や、看護人長といった彼女たちを束ねる役柄の女性たちの待遇は下士官波となり、また一般看護婦、看護人も「兵に準ずる」と規定されるに至ります。
こうして日赤看護婦と陸海軍の関係は、不即不離のものとなりましたが、兵士とみなされるようになった彼女たちが参加した日露戦争においては、2160名もの日赤看護婦が従軍しました。
兵士と同じ、という処遇から当然前線に出ることも少なくなく、この戦争を通じては、看護婦長2名、看護婦37名の合計39名の犠牲者を出しました。ただし、この中にも内地勤務の病死者が含まれています。なお、この日露戦争当時も、新島八重は広島の赤十字病院の看護婦として勤務しており、その当時の写真が残されています(下の写真)。
その後の第一次世界大戦、シベリア出兵においては、日赤の従軍看護婦に対してはじめて外地勤務が命じられ、彼女たちの病院船への乗り組みなども始まりました。1919年(大正8年)には、日赤以外の陸軍衛戍(えいじゅ)病院において看護婦を採用し、「陸軍看護婦」と称するようになりました。
衛戍とは、聞き慣れない言葉ですが、旧大日本帝国陸軍において、陸軍軍隊が永久に配備駐屯することをさし、この当時は、東京、名古屋、仙台、大阪、広島、熊本がその永久駐屯地でした。
その地の高級団隊長等が衛戍司令官となり、衛戍司令官はその衛戍地警備の責に任じ、兵力使用の権限も与えられたほか、各衛戍地には所用に応じて衛戍病院がつくられ、このほか衛戍監獄(刑務所)なども置かれていました。
従軍看護婦は、当初日赤看護婦養成所の卒業生からのみ採用していたわけですが、この衛戍病院ができるようになってからのちには、一般の看護婦資格を有するものからも採用するようになり、陸軍部内では、日赤看護婦と同様に兵員扱いされました。
婦長は「伍長相当待遇」看護婦は「二等兵相当待遇」であり、無論、戦時においては陸軍看護婦も日赤看護婦と同じく、外地での勤務も命じられるようになりました。
このように日本の従軍看護婦は徐々にその人員規模を拡大していきましたが、その後、日中戦争が勃発した際には、戦線の拡大に従い、従軍看護婦の不足が大きな問題となりました。そこで、日赤は従来3年だった救護看護婦の教育期間を2年半に短縮するとともに、採用年齢の下限を従来の18歳から16歳にまで引き下げるという対策をとりました。
こうして速成で人員増された従軍看護婦は、満州事変・日中戦争・太平洋戦争を通じて、日赤出身者だけで960班(一班は婦長1名、看護婦10名が標準)、延べにして35785名にのぼり、そのうち伍長相当の婦長は約2000名でした。
満州事変中の日本の従軍看護婦。
女性の身でありながら、出征兵士と同様、「召集状」と書かれた赤紙1枚で動員され、各地で救護班が編成されました。その派遣先は満州や中国大陸、東南アジアなど広域に及び、傷病将兵や一般人の救護まで行いましたが、戦況の悪化と共に過酷な勤務を強いられ、戦闘行為に巻き込まれたり、終戦後も抑留されたりしました。
この戦争では、多くの日本人の命が奪われましたが、従軍看護婦たちも例外ではなく、この日赤の看護婦さんたちだけでも1120名の命が奪われました。
ただ、従軍したのは日赤の看護婦だけではなく、海軍の病院船に乗っていた従軍看護婦、その他の陸軍・海軍の応召看護婦、看護活動をしていた沖縄の「ひめゆり学徒隊」等女学生などの犠牲を合わせると殉職者の数は膨大な人数に上ると思われます。
が、とくに海軍などではこれら従軍看護婦の記録が残っておらず、全体の正確な人数がどのくらいであったのかは、現在までも把握されていないようです。
熊本市の護国神社には、このうちの日赤の関係看護婦さんの慰霊碑があるそうで、ほかにも茨城県にある、日本赤十字社茨城県支部にも赤十字救護看護婦像慰霊碑「愛の灯」があるそうです。が、その他の従軍看護婦さんの慰霊のためにも、いずれは総合的な慰霊碑が創られるべきでしょう。
現在の日本の軍隊である、自衛隊においては、陸上自衛隊に看護師資格を有する自衛官が存在するそうです。自衛隊中央病院に設置された高等看護学院において、看護学生として養成が行われているそうで、在校中に看護師国家試験を受験し、合格後は二等陸曹の階級となる。平時は各地の自衛隊病院などに配置されているといいます。
このほか、看護師資格者の不足を補うため、准看護師資格を有する自衛官が陸海空の各自衛隊ごとに養成されているといい、こちらは、それぞれ三等陸曹、海士長、空士長の階級となるそうです。
願わくばこうした現代の従軍看護婦さんたちが戦地に行くことがないよう、願いたいところです。が、彼女たちの活躍場はそうした場所ばかりではなく、災害の現場などでもあるわけであり、そちらのフィールドでの活躍ばかりが今後も長く続くことを祈りたいものです。